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島原しまばら (京都きょうと)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
島原しまばら
京都きょうと島原しまばら 紋章もんしょう
京都きょうと 島原しまばら大門おおもん
設立せつりつ 1588ねん
種類しゅるい 花街はなまち
目的もくてき 遊興ゆうきょう芸能げいのう
所在地しょざいち 京都きょうと下京しもぎょう西新にしあら屋敷やしき
重要じゅうよう人物じんぶつ 吉野よしの太夫たゆう
ゆうきり太夫たゆう
八千代やちよ太夫たゆう
桜木さくらぎ太夫たゆう
はなおうぎ太夫たゆう
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江戸えど時代じだい島原しまばら遊郭ゆうかく歌川うたがわ広重ひろしげ、1830年代ねんだい

島原しまばら(しまばら)は京都きょうと下京しもぎょう位置いちする日本にっぽんおよ京都きょうと花街はなまち最古さいこ花街はなまち名称めいしょう。「しまげん」ともく。正式せいしきめい西新にしじん屋敷やしきといい、6つのまち上之うえのまち中之なかのまち中堂寺ちゅうどうじまち太夫たゆうまち下之したのまち揚屋あげやまち)で構成こうせいされている。島原しまばらは1976ねん京都きょうと花街はなまち組合くみあい連合れんごうかい脱会だっかいし、現在げんざいたがえのみが正式せいしき茶屋ちゃや鑑札かんさつゆうし、置屋おきやけん茶屋ちゃや営業えいぎょうおこなっている。

沿革えんかく

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角屋かくや
たがえ

室町むろまち時代ときよ足利あしかが義満よしみつ現在げんざい東洞ひがしぼらいんどおりななじょうルに許可きょかした傾城けいせいまち日本にっぽん公娼こうしょうはじまりといわれる。桃山ももやま時代じだい(1589ねん)には豊臣とよとみ秀吉ひでよし許可きょかて、はら三郎さぶろう左衛門さえもんらがじょう万里小路まりこうじ(までのこうじ)に「じょうやなぎまち」を開設かいせつした[1]江戸えど時代じだいになるとろくじょう付近ふきんうつされて「六条ろくじょう三筋みすじまち」とばれるようになり、吉野よしの太夫たゆうなどの名妓めいぎ輩出はいしゅつした。ところが、1641ねんにはさらに朱雀すざく付近ふきんへの移転いてんめいぜられ、以後いご島原しまばら」とばれた。「島原しまばら」の名称めいしょうは、この移転いてん騒動そうどう島原しまばららんどきみだれた様子ようすていたためについたというせつや、まわりが田原たはらであったため、しまにたとえてばれたというせつなど、諸説しょせつがある[2]

あたらしい土地とちまわりはかべほりかこまれ、出入でいぐちとしてひがし大門おおもんができた[ちゅう 1]島原しまばら元禄げんろくもっとさかえたが、立地りっち条件じょうけんわるかったこと、また格式かくしきたかさが原因げんいんとなって祇園ぎおんまち祇園ぎおん新地さらちうえななけんじょうなどの遊里ゆうりひとながれ、そのいくかの盛衰せいすいかえしたものの、次第しだいおとろえていった。くるわ女性じょせいたちは(通行つうこう手形てがた必要ひつようではあるが)自由じゆうくるわそとることができ、一般人いっぱんじんも(男女だんじょわず)自由じゆう出入でいりができた。清河きよかわ八郎はちろうよりゆき山陽さんようのように、実母じつぼを「親孝行おやこうこう」として揚屋あげやあそばせたれいもあり、外部がいぶから「ざされた」ゆうしょではなかった。幕末ばくまつには西郷さいごう隆盛たかもり久坂くさかげんみず新選しんせんぐみらが出入でいりしていた。1873ねんには、のちに歌舞かぶねりじょうとなる島原しまばらおんなべにじょうかれた[ちゅう 2]

よしみなが4ねん(1851)の大火たいか揚屋あげやまち以外いがい島原しまばらのほとんどが焼失しょうしつし、祇園ぎおん新地さらちかり営業えいぎょうをしていたが、大半たいはん島原しまばらもどることなくまちさびれていった[4]明治めいじ以後いご公家くげ武家ぶけ常連じょうれんきゃくがいなくなり、さらに窮状きゅうじょうかれるものの「太夫たゆう道中どうちゅう」などの行事ぎょうじささえていた。昭和しょうわ初期しょきまでにはきょかせぎ(みせみこみ、登楼とうろうしてくるきゃく相手あいてをする)の娼妓しょうぎ本位ほんい花街はなまちになっており[5]まち古色こしょくのこるものの非常ひじょうさびれた状態じょうたいとなった[4]昭和しょうわ後期こうきにお茶屋ちゃや太夫たゆう芸妓げいぎ人数にんずうり、ついにはお茶屋ちゃや組合くみあい解散かいさんして普通ふつう住宅じゅうたくした。残存ざんそんしていたおおくの建物たてものもんも、こわしなどで姿すがたし、現在げんざいは「大門だいもん」、「たがえ」、「角屋かくや」、「島原しまばら住吉すみよし神社じんじゃ」、「西にし門跡もんぜき[6]とう石畳いしだたみ舗装ほそうされたみちがその面影おもかげ情緒じょうちょをとどめているだけである。現在げんざいもお茶屋ちゃやとして営業えいぎょうつづけているのはたがえのみ。すでに揚屋あげやとしての営業えいぎょうおこなっていないが、角屋かくや建築けんちくぶつとしてはいま日本にっぽん唯一ゆいいつのこ揚屋あげやみやつこ遺構いこうである[2]

島原しまばら文化ぶんか太夫たゆう

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現在げんざい島原しまばら太夫たゆう如月きさらぎ太夫たゆう
戦前せんぜん島原しまばら太夫たゆう

江戸えど中期ちゅうきにはたん太祇たいぎ(たんたいぎ)が島原しまばらよるあん主宰しゅさいし、親交しんこうのあった与謝よさ蕪村ぶそんらとともに俳諧はいかい活動かつどうおこなった[7]。また、そのにも島原しまばら太夫たゆうや、文人ぶんじんらによる和歌わかなどの文芸ぶんげい活動かつどうさかんであったことをしめ資料しりょうおおのこっている[8]

太夫たゆう」とはもともと能楽のうがく歌舞伎かぶき舞台ぶたいひいでたものあたえられた称号しょうごうであり、最初さいしょ京都きょうとおんな歌舞伎かぶき活躍かつやくした女性じょせいが「太夫たゆう」(まい太夫たゆうのう太夫たゆう)などとばれたものが、1629ねんおんな歌舞伎かぶき禁止きんしされて以降いこうすぐれた技能ぎのう教養きょうよう最高さいこう遊女ゆうじょとして定着ていちゃくしたものである[1]。また四条しじょう河原かわらのうまいれた女性じょせいを「太夫たゆう」とんだ、とするせつもある[9][出典しゅってん無効むこう][10]太夫たゆう通称つうしょう「こったい」ともばれ[ちゅう 3]置屋おきや所属しょぞくして揚屋あげや派遣はけんされる(この形態けいたい祇園ぎおんとう花街はなまち影響えいきょうあたえた)。かつてはせい地位ちいをもあたえられた最高さいこう遊女ゆうじょであった。太夫たゆうはもと御所ごしょ公家くげ皇族こうぞく相手あいてであったため、教養きょうようけていなければならない。たとえば、舞踊ぶようなら名取なとり[よう曖昧あいまい回避かいひ]師範しはんになれるくらいである。

のう太夫たゆうまい太夫たゆうをルーツにつとされる島原しまばら太夫たゆうにとって「舞踊ぶよう」(ここでは「歌舞伎かぶき舞踊ぶよう」または「上方かみがたまい」をさす)は必須ひっすである。島原しまばら舞踊ぶよう流派りゅうはは、江戸えど時代じだい後期こうきまで篠塚しのづかりゅう、その明治めいじはじめまで井上いのうえりゅうであった(さんせい井上いのうえ八千代やちよとう流派りゅうはを「祇園ぎおんとめりゅう」とするまで)が、のち花柳かりゅうりゅうわった。現在げんざい特定とくてい流派りゅうははない。茶道さどうもおもてなしの技術ぎじゅつとして必須ひっすとされるが、現在げんざい特定とくてい流派りゅうははない(かつては藪内やぶうちりゅう稽古けいこされていた)。その和楽わらくそう三味線しゃみせん胡弓こきゅう囃子はやし一絃琴いちげんきん琵琶びわなど)、うた(地唄じうた長唄ながうた小唄こうた常盤津ときわづなど)、 書道しょどう香道こうどう華道かどう詩歌しか俳句はいくなど)、古典こてんてきあそび(貝合かいあわせ囲碁いごばん双六すごろくとうおうぎきょうなど)につうじていることも必要ひつようとされる。

島原しまばらからは、八千代やちよ太夫たゆう吉野よしの太夫たゆうゆうきり太夫たゆう大橋おおはし太夫たゆう桜木さくらぎ太夫たゆうなどの名妓めいぎ輩出はいしゅつした。かつての島原しまばらでは毎年まいとし10がつ吉野よしの太夫たゆう大橋おおはし太夫たゆう八千代やちよ太夫たゆう追善ついぜん供養くようおこなった。また、戦後せんご在籍ざいせきしていた太夫たゆうに、ゆうきり太夫たゆう女優じょゆう中村なかむら芳子よしこ)、高砂たかさご太夫たゆう九重ここのえ太夫たゆう春日かすが太夫たゆうはなくも太夫たゆうはなきん太夫たゆうなどがいる。

現在げんざいたがえ所属しょぞくする太夫たゆうは、以下いかの5にんはなおうぎ太夫たゆう如月きさらぎ太夫たゆううすくも太夫たゆうわかくも太夫たゆう桜木さくらぎ太夫たゆう現在げんざい島原しまばら太夫たゆうは「たがえ」のお座敷ざしき中心ちゅうしんに、京都きょうと神社じんじゃ仏閣ぶっかくなどで、道中どうちゅう披露ひろうし、まい奉納ほうのうしている。祇園ぎおん舞妓まいこ芸妓げいぎ同様どうようしろりのみず化粧けしょうで、口紅くちべには「しもべに」とって、しもくちびるのみにり、かなら歯黒はぐろける。引眉ひきまゆしないのではん元服げんぷく習慣しゅうかん現代げんだいのこるものとてよい。また公家くげ文化ぶんか影響えいきょうともかんがえられる。原則げんそくとしてかずらかぶらず、で「おとこ元禄げんろくたて兵庫ひょうご)」、「長船おさふね」、「勝山かつやま」(東京とうきょうでいうところの「吹輪」とほぼ同形どうけいとう各種かくしゅ日本髪にほんがみう(髪型かみがた種類しゅるいぜん48種類しゅるい、うち現在げんざいでもかたがわかっているのは26種類しゅるい)。おびまえで5角形かくがたむすぶが、これは「しん」のあらわすとされる。

現代げんだい(2007ねん現在げんざい)のおも行事ぎょうじ

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  • たからきょうてらひなまつりイベント(太夫たゆうまい奉納ほうのう) 3がつ1にち 11-(はる人形にんぎょうてん同日どうじつ公開こうかい開始かいし
  • 木屋こやまちかい太夫たゆう道中どうちゅう下木屋しもごやまちにて[11]
  • 吉野よしの太夫たゆう花供養はなくよう常照寺じょうしょうじ)4がつだい3日曜日にちようび常照寺じょうしょうじ毎月まいつき茶会ちゃかい吉野よしのかい」と合同ごうどう行事ぎょうじ 源光げんこうあん方面ほうめんから常照寺じょうしょうじへの太夫たゆう道中どうちゅうあり(見学けんがく可能かのう境内けいだい御茶おちゃけん必要ひつよう太夫たゆうまいとう披露ひろう太夫たゆう茶席ちゃせきあり)
  • 北政所きたのまんどころ茶会ちゃかい太夫たゆう道中どうちゅう高台寺こうだいじ) 10がつ6にち太夫たゆうのおちゃのお点前てまえせきあり、境内けいだい御茶おちゃけん必要ひつよう太夫たゆう道中どうちゅう見学けんがく自由じゆう
  • たからきょうてら人形にんぎょう供養くようさい太夫たゆうまい奉納ほうのう) 10がつ14にち 1030ふん- (あき人形にんぎょうてんは11月1にち-展示てんじ公開こうかい
  • ゆうきり供養くよう太夫たゆう道中どうちゅう清涼寺せいりょうじ) 11月だい日曜日にちようび
  • 嵐山あらしやま紅葉こうようまつり(ゆうきり供養くようさいのち嵐山あらしやまわたる月橋つきはし付近ふきん移動いどう太夫たゆう道中どうちゅう野点のだてせき)11月だい日曜日にちようび
  • 島原しまばら太夫たゆうもちつきかい太夫たゆう道中どうちゅう京都きょうと市内しないホテルにて・つかさ太夫たゆう主宰しゅさい「こったいのかい主催しゅさい)12月23にち
  • 島原しまばらもちつき(島原しまばら近辺きんぺんまたはほうじゅうてらもと高砂たかさご太夫たゆう主催しゅさい島原しまばら近辺きんぺんでは12月に、ほうじゅうてらでは節分せつぶんごろにもよおされる。
  • 節分せつぶんの「おけ」(京都きょうと市内しないにて・つかさ太夫たゆう主宰しゅさい「こったいのかい主催しゅさい)2がつ3にち

なお「一見いっけんさんおことわり」のため非公開ひこうかいだが、同日どうじつ島原しまばらたがえ」のお座敷ざしきでも「おけ」のさい特別とくべつうたげひらかれている。 「こったいのかい」のおけももともとのはじまりはたがえうたげへの参加さんかというかたちであった。

20-30ねんほどまえまではいまはなき「島原しまばら歌舞かぶねりじょう」にてれのもちつき、「島原しまばら茶屋ちゃや組合くみあい」にて「新年しんねんい」がおこなわれていたが現在げんざいはなくなっている。

関連かんれん番組ばんぐみおよび映像えいぞう資料しりょう

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たまじんゆき
1974ねん11月から『プレイコミック』(秋田あきた書店しょてん)で連載れんさいされた三木みきたかしゆうさく松森まつもりただしによる島原しまばら遊郭ゆうかく舞台ぶたいとする漫画まんがおよび、1975ねん東映とうえい製作せいさくじゅんますみ主演しゅえん牧口まきぐち雄二ゆうじ監督かんとく映画えいが
どうさくの「たまじん」という職業しょくぎょう存在そんざいしない。映画えいがばん実際じっさい島原しまばらロケおこない、主人公しゅじんこう二人司ににんつかさまちむという設定せっていになっている。
京都きょうと島原しまばら殺人さつじん事件じけん女性じょせいレポーターの観光かんこう案内あんない華麗かれい太夫たゆう道中どうちゅうのトリックくずし!(テレビ朝日てれびあさひ・1990ねん12月1にち放映ほうえい
原作げんさく山村やまむら美紗みさの『京都きょうと島原しまばら殺人さつじん事件じけん』。たがえがロケに使つかわれ、現役げんえき島原しまばら太夫たゆうはなおうぎ太夫たゆう)も出演しゅつえんしている。
太夫たゆう衣装いしょう本物ほんもの忠実ちゅうじつおもわれる。
とびっきり京都きょうと古都ことこい物語ものがたり」(2000ねん1がつ23にち NHK BS hi放映ほうえい)(2000ねん1がつ29にち NHK BS2放映ほうえい)(2000ねん2がつ4にち NHK 総合そうごう放映ほうえい
案内あんない山咲やまざき千里せんり番組ばんぐみちゅうかなりの時間じかんをかけ吉野よしの太夫たゆうについての紹介しょうかいあり。
関連かんれんとして現代げんだい島原しまばら太夫たゆうはなきん太夫たゆうはなおうぎ太夫たゆう登場とうじょう太夫たゆう道中どうちゅうはなきん太夫たゆうかしのしき胡弓こきゅう演奏えんそうはなおうぎ太夫たゆう俳句はいく披露ひろう吉野よしの太夫たゆうについての談話だんわあり。
2006あき京都きょうとスペシャル(ABC朝日放送あさひほうそう・2006ねん11月3にち放映ほうえい
番組ばんぐみない特集とくしゅうしまげんいま」で島原しまばら歴史れきし現代げんだい島原しまばら太夫たゆうについての紹介しょうかいあり。出演しゅつえん太夫たゆうつかさ太夫たゆうすこしだけ如月きさらぎ太夫たゆうも)。
そしてもと高砂たかさご太夫たゆう登場とうじょう
ビデオ[ちゅう 4]作品さくひん島原しまばら太夫たゆう」(ポーラ文化ぶんか研究所けんきゅうじょ
島原しまばら現役げんえき当時とうじ太夫たゆう結髪けっぱつ化粧けしょう衣装いしょう着付きつけ・かしのしき太夫たゆう道中どうちゅういまはなき島原しまばら歌舞かぶねりじょうでのもちつきの様子ようすわかくも太夫たゆう談話だんわあり。
春日しゅんじつ太夫たゆうはなおうぎ太夫たゆうつかさ太夫たゆう登場とうじょう

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 島原しまばら大門おおもん当初とうしょ東側ひがしがわ大門おおもん1かのみであったが、島原しまばらうったえにこたえるかたちでのちに西門にしもん開設かいせつゆるされた。
  2. ^ 1873ねん開設かいせつ、1996ねん解体かいたい[3]
  3. ^ これにたいし、「おいらん」は江戸えど吉原よしはら遊廓ゆうかく遊女ゆうじょのこと。
  4. ^ DVDもあり。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 松川まつかわ二郎じろうさん花街はなまちめぐり』まことぶんどうまことぶんどう文庫ぶんこ〉、1932ねん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん書誌しょしID:000000656850 
  • 石原いしはら哲男てつおきょうしまげん太夫たゆう京都きょうと書院しょいん、1991ねん2がつISBN 4763631691 
  • 読売新聞よみうりしんぶん京都きょうと総局そうきょくへん京都きょうと かげ権力けんりょくしゃたち』講談社こうだんしゃ、1994ねん11月、ISBN 4062073102講談社こうだんしゃαあるふぁ文庫ぶんこ、2004ねん5がつISBN 4062568454
    だいさんしょう花街はなまちしゅ」に京都きょうと花街はなまちについての記述きじゅつあり。島原しまばら太夫たゆうについてもいちせつもうけられている。如月きさらぎ太夫たゆう談話だんわあり。
  • みぞえんひろし『京舞きょうまい歳時記さいじき みぞえんひろし写真しゃしんしゅう東方とうほう出版しゅっぱん、1995ねん8がつISBN 4885914361
    メインは京都きょうと舞妓まいこ写真しゃしんしゅうであるが、島原しまばら島原しまばら太夫たゆう写真しゃしんぺーじがある。
  • 森谷もりたに尅久『地名ちめいきょうまち(らくひがしらくきたらくみなみへん)、PHP研究所けんきゅうじょ〈PHP新書しんしょ〉、2003ねん7がつISBN 4569629202https://books.google.co.jp/books?id=NV0L_khabxkC2009ねん3がつ16にち閲覧えつらん 
  • はなおうぎ太夫たゆう太夫たゆうになったきょうおんな』白馬はくばしゃ、2004ねん11月、ISBN 4938651505
  • 高橋たかはし利樹としききょう花街はなまちたがえ(わちがいや)」物語ものがたり』(PHP新書しんしょ)、PHP研究所けんきゅうじょ、2007ねん8がつISBN 4569693784
  • リクルートワークス編集へんしゅう『おもてなしの源流げんりゅう 日本にっぽん伝統でんとうにサービスの本質ほんしつさぐる』英治えいじ出版しゅっぱん、2007ねん12月25にちISBN 4862760333
    だい3こう花街はなまち」に関連かんれん記事きじ

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい3459ふん31.3びょう 東経とうけい13544ふん38.7びょう / 北緯ほくい34.992028 東経とうけい135.744083 / 34.992028; 135.744083 (島原しまばら)