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しゅひかりかい

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しゅひかりかい(しゅこうかい)は、昭和しょうわ初期しょき日本にっぽん存在そんざいした皇国こうこく史観しかんイデオロギーを信奉しんぽうする学生がくせいグループのかいである。東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく学生がくせい会員かいいんとした。だい日本にっぽんしゅひかりかいとはべつ団体だんたいである。戦後せんごしゅひかりかい解散かいさんさせられたが、その人脈じんみゃくしゅひかりかいとはべつかたちをとってのこされている。東京とうきょう教育きょういく懇話こんわかい日本にっぽん教師きょうしかい皇学館大学こうがくかんだいがく教科書きょうかしょ調査官ちょうさかんにはきゅうしゅひかりかいけい人物じんぶつあつまっており、「皇国こうこく史観しかんイデオロギー普及ふきゅう先兵せんぺいとなっている」[1]

概要がいよう[編集へんしゅう]

昭和しょうわ初期しょき日本にっぽん国内こくない軍部ぐんぶファシズムが台頭たいとうしたのにともなって、日本にっぽん全国ぜんこく大学だいがく高校こうこう専門せんもん学校がっこうおおくの国家こっか主義しゅぎ団体だんたいまれた[2]しゅひかりかいはそのなかの1つである。1931ねん昭和しょうわ6ねん)11月18にち東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく学生がくせい会員かいいん卒業生そつぎょうせい名誉めいよ会員かいいんとして発足ほっそくした[2][3]発足ほっそく文学部ぶんがくぶ春山はるやまさくじゅ指導しどう教授きょうじゅに、のちには会長かいちょうにすえた[1]責任せきにんしゃ委員いいんは、指導しどう教授きょうじゅ許可きょかのもとでおかれていた[2]。その平泉ひらいずみきよし文学部ぶんがくぶ助教授じょきょうじゅ(当時とうじ)が会長かいちょうになってからは国史こくし学科がっか学生がくせいえ、1939ねん昭和しょうわ14ねんごろには86にん会員かいいんにまでえていた[1][2]月刊げっかん会報かいほうしゅひかり』を発行はっこう日本にっぽん精神せいしん研究けんきゅうかいひらき、陸海りくかい軍人ぐんじん講演こうえんもおこなった[1]。また、皇国こうこく史観しかん中心ちゅうしんとした研究けんきゅう活動かつどうをおこなった[1]

太平洋戦争たいへいようせんそう敗戦はいせんしゅひかりかい解散かいさんさせられたがその人脈じんみゃくのこり、たとえば皇学館大学こうがくかんだいがく設立せつりつ貢献こうけんした[1]

綱領こうりょう[編集へんしゅう]

かい目的もくてきは「ひろ知識ちしき東西とうざい古今ここんもとめてとませず雄大ゆうだいひろし闊なる情操じょうそう涵養かんようはかりてへんせず確固かっこ不抜ふばつなる信念しんねんつちかいてまどわず、もっ人格じんかく向上こうじょう健全けんぜんなる文化ぶんか創造そうぞうりき挺身ていしん奉公ほうこうまこといたさんとす」とある[2]綱領こうりょう以下いかとおりである[1][2]

いちわれじん天皇てんのう主義しゅぎ信奉しんぽうす。
いちわれじんすめらぎどうもとづ人格じんかく完成かんせいす。
いちわれじん質実しつじつ剛健ごうけんなる学風がくふう作興さっこうす。
いちわれじん建国けんこく精神せいしんのっと日本にっぽん建設けんせつす。
いちわれじんだい日本にっぽん精神せいしん宇内うだい宣布せんぷせんことをちかう。

このようにあきらかな皇国こうこく史観しかんイデオロギーのかいである。

人脈じんみゃく[編集へんしゅう]

しゅひかりかい日本にっぽん敗戦はいせん解散かいさんさせられたが、平泉ひらいずみ学派がくは人脈じんみゃくのこされた。しゅひかりかい出身しゅっしん人物じんぶつでは、村尾むらお次郎じろう鳥巣とりす通明みちあき山口やまぐちやすしすけ田中たなかたく時野谷ときのやしげるがよくられている[4]。このうち、村尾むらお鳥巣とりす山口やまぐち文部省もんぶしょう教科書きょうかしょ調査官ちょうさかんとなった人物じんぶつで、「文部省もんぶしょう三羽烏さんばがらす」とばれ、教科書問題きょうかしょもんだいで「勇名ゆうめい」をせたことでられる[5]

村尾むらお平泉ひらいずみきよしもと助手じょしゅで、その東京とうきょう教育きょういく懇談こんだんかい設立せつりつ1956ねん教科書きょうかしょ調査官ちょうさかん(1975ねんまで)に なってから、教科書きょうかしょ検定けんてい猛威もういをふるった[1]村尾むらお調査官ちょうさかん退官たいかんするころ前後ぜんごして文部省もんぶしょうはいったのが、鳥巣とりす山口やまぐちである[5]村尾むらお後任こうにん教科書きょうかしょ調査官ちょうさかんが、時野谷ときのやしげるである[1]1982ねんこった教科書問題きょうかしょもんだいは、これらの皇国こうこく史観しかんイデオロギーをきゅうしゅひかりかいけい人間にんげん底流ていりゅうにある[1]

1983ねんから1985ねんにかけて「日本にっぽんまも国民こくみん会議かいぎ」が高校こうこう日本にっぽん教科書きょうかしょつくったさい中心ちゅうしんは、きゅうしゅひかりかいのメンバーである[6]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j ほり 1991, p. 283.
  2. ^ a b c d e f ちゃほん 1983, p. 242.
  3. ^ ほり 1991, pp. 282–283.
  4. ^ ちゃほん 1983, pp. 242–243.
  5. ^ a b ちゃほん 1983, p. 243.
  6. ^ ほり 1993, p. 258.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • ちゃもとしげるただし「「しゅひかりかい」の系譜けいふ教育きょういく面舵おもかじをとる―くろ潮流ちょうりゅう改憲かいけんにうごめくもの」『世界せかいだい441かん岩波書店いわなみしょてん、1981ねん 
  • ほり幸雄ゆきお右翼うよく辞典じてん三嶺書房みつみねしょぼう、1991ねん 
  • ほり幸雄ゆきお戦後せんご右翼うよく勢力せいりょく(増補ぞうほばん)』勁草書房しょぼう、1993ねん