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武並たけなみ神社じんじゃ

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武並たけなみ神社じんじゃ(恵那えな大井おおいまち)

拝殿はいでん
所在地しょざいち 岐阜ぎふけん恵那えな大井おおいまちもり1101
位置いち 北緯ほくい3527ふん2.33びょう 東経とうけい13725ふん14.96びょう / 北緯ほくい35.4506472 東経とうけい137.4208222 / 35.4506472; 137.4208222 (武並たけなみ神社じんじゃ)座標ざひょう: 北緯ほくい3527ふん2.33びょう 東経とうけい13725ふん14.96びょう / 北緯ほくい35.4506472 東経とうけい137.4208222 / 35.4506472; 137.4208222 (武並たけなみ神社じんじゃ)
主祭しゅさいしん 大国たいこく主命しゅうめい
誉田ほんだ別命べつめい
しょう彦名ひこないのち
みなもと頼朝よりとも
みなもとよりゆき
源実朝みなもとのさねとも
社格しゃかくひとし きゅう郷社ごうしゃきむぬさしゃ
創建そうけん たてたけし2ねん(1335ねん
例祭れいさい 例祭れいさい(10がつだい2日曜にちよう
地図ちず
武並神社(恵那市大井町)の位置(岐阜県内)
武並神社(恵那市大井町)
武並たけなみ神社じんじゃ(恵那えな大井おおいまち)
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武並たけなみ神社じんじゃ(たけなみじんじゃ)は、岐阜ぎふけん恵那えな合計ごうけい7しゃがある。ここでは恵那えな大井おおいまち武並たけなみ神社じんじゃおも記述きじゅつする。きゅう社格しゃかく郷社ごうしゃ

武並たけなみななしゃ武並たけなみじゅうしゃ

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鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきから戦国せんごく時代じだい末期まっきまで恵那えなぐん中西部ちゅうせいぶ領地りょうちとした岩村いわむら遠山とおやま武並たけなみ神社じんじゃ氏神うじがみとしたため恵那えなぐんないけい12しゃがあった。

恵那えな市内しないにはほかにも岩村いわむらまち[1]武並たけなみまちたけおり[2]武並町藤たけなみちょうふじ[3]長島ながしままちひさし須見すみ[4]三郷みさとまち野井のい[5]三郷町佐々良木みさとちょうさざらぎ[6]武並たけなみ神社じんじゃがあり武並たけなみななしゃしょうする。

また大井おおいまち武並たけなみ神社じんじゃ支社ししゃとして東野とうの長島町正家おさしまちょうしょうげ長島町中野おさじまちょうなかの長島町永田おさしまちょうながた中津川なかつがわ 茄子川なすかわの5しゃくわえ、武並たけなみじゅうしゃともしょうしていたが、これらの5しゃ明治めいじ以降いこう神社じんじゃ合祀ごうしされ現在げんざい存在そんざいしていない。

恵那えな大井おおいまち武並たけなみ神社じんじゃ

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恵那えな大井おおいまち武並たけなみ神社じんじゃ祭神さいじん

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主祭しゅさいしん
はいしん

恵那えな大井おおいまち武並たけなみ神社じんじゃ歴史れきし

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うけたまわひさし2ねん1220ねん)、茄子川なすかわたに武内たけうち城主じょうしゅ新田にった四郎しろう左衛門さえもん義晴よしはると、息子むすこ神子みこはは城主じょうしゅ新田にった淡路あわじ守義もりよしつなが、鎌倉かまくら幕府ばくふさん将軍しょうぐん[7]びょうもうでたさいすぎしょうかぶを3ほんかえり、社殿しゃでん西にしきたひがしの3かしょえて中央ちゅうおうさん将軍しょうぐんぞうあい殿しんがりして併祀したのがはじまりとつたわる。

境内けいだいにはななじゅうとう別当寺べつとうじ宝蔵ほうぞうがあったという。境内けいだいは、現在げんざいすうばい面積めんせきがあって恵那えな市立しりつ恵那えな東中ひがしなか学校がっこう敷地しきちなどもふくまれていた。

その伊豆いずこく三島みしま神官しんかん市川いちかわ兵庫ひょうごあたまみのる手向たむけ城主じょうしゅかち太夫たゆう直定なおさだまねいてかみつとむつかさどることとし12にんの禰覡と12にん巫女ふじょき、神楽かぐらひとし神事しんじおこなわせた。

新田にった北条ほうじょうやすしときねがて、「したがえいち大師だいしこう 武並たけなみだい権現ごんげん」のかみがくもらけ、田畠たばたすうひゃく町歩ちょうぶおおやけぜい免除めんじょうた。この収入しゅうにゅう歳費さいひて、周辺しゅうへん12ヶ村かそんかみとなした。[8]

武並たけなみ神社じんじゃ縁起えんぎによるとえいただし8ねん1511ねん大井おおいまち周辺しゅうへん神社じんじゃ仏閣ぶっかく兵火へいかにより焼失しょうしつした。しかし神像しんぞうびょうぬし井戸いどかくしたことで兵火へいかまぬかれることができた。かねもあったが岩村いわむらしろなかられた。そのかね夜間やかんひとおどろかすかいおんしたので岩村いわむらじょうからされたという。このたたか田畑たはた住民じゅうみんたちかすられ、社司しゃし寺僧じそう・禰覡・巫女ふじょらは還俗げんぞく各地かくち離散りさんして、昔日せきじつ面影おもかげくなった。

天文てんもん7ねん1538ねん)、岩村いわむら遠山とおやま遠山とおやまけいまえおもわれるが、大井おおいまち武並たけなみ神社じんじゃ梵鐘ぼんしょう寄進きしんした。そのめいには「しゅう恵那えなぐん遠山とおやまそう大井おおいごうただし家村いえむら武並たけなみ大明神だいみょうじんかね 天文てんもんななねんつちのえいぬなながつじゅうにちこれ」とあった[9]

えいろく6ねん1563ねん)、遠山とおやまけいまえ遠山とおやまけいにんが、家臣かしん大井おおいじょうだい藤井ふじいつねだか社殿しゃでん再建さいけんめいじた。同年どうねんむねさつには、本尊ほんぞんとしてせんじゅういちめん聖観音しょうかんのんしるされており、当時とうじ本地ほんじふつとして合併がっぺいまつされていたことがわかる。

えいろく7ねん1564ねん)3がつ社殿しゃでん完成かんせいし、遠山とおやまけいにん神事しんじしゅう猿楽さるがくもよおした。

いわお邑府には「遷宮せんぐう じゅうさんにちとりこく じゅう箇村のもの すう かり殿しんがりあいたかり、よしけい梵語ぼんごしてみちき、管絃かんげんしてだいゆか遷宮せんぐうす。五箇ごかむらてら阿闍梨あじゃりかこえかきうちあいたかり、おなじく法要ほうようしゅうさんじゅういち人相にんそう俱にたかり、同音どうおんとぎ佗を唱ふ。云々うんぬん」「またむら々の本願ほんがんつて手向とうげむら城主じょうしゅかつ内蔵助くらのすけ義重よししげどう又右衛門またえもんよし千旦林せんだんばやしじょうあるじ吉村よしむらなな左衛門尉さえもんのじょうみなもとひとしどうなな左衛門尉さえもんのじょうためおなじく立合たてあいしてじゅうよんにちじゅうにち拝殿はいでんにてのうあり。役者やくしゃすうろくじゅうにん」と記述きじゅつがある。当時とうじ神仏しんぶつ混淆こんこうとなっていたので、阿闍梨あじゃりなどのふつそう出席しゅっせきして法要ほうようおこなったのである。

美濃みの御坂みさかえつによれば、「武並たけなみ大権たいけんげん(げん) だいおのれ貴命きめい 大井おおいむら 東野とうのむら せい家村いえむら 中野なかのむら ちょう(ひさし)田村たむら 近所きんじょもろむらむねしゃトス 岩村いわむら城主じょうしゅ 遠山とおやまぼう 鎌倉かまくらさんだい将軍しょうぐんごうさい 武並たけなみさんしゃトス たてたもつ元年がんねん和田わだ合戦かっせん 三浦みうら 畠山はたけやま氏族しぞくとう社務しゃむトシテ 㚑尊ヲさいラシム いち臈ヨリじゅういたりル 神領しんりょういちまんせきニ及ベリトうん 天正てんしょうねん 兵火へいか灰燼かいじんなりテ 社司しゃししゃそう逃亡とうぼうシ 殿舎でんしゃ古跡こせきノミそんセリ」

天正てんしょうはつまでハ 遠山とおやましょう宿やどちゅうニシテ 岩村いわむらどう繁昌はんじょうニシテ 御所平ごしょたいら 御所ごしょぜんうんしょアリ ちゅうむかしニハ宮方みやかたシケルトうん 古蹟こせきケレトモ所伝しょでんしつス 天正てんしょうニ 秋山あきやま伯耆ほうきもり かねだつヒテじょうちゅうぐんトス こん城下じょうかてらニアリ[10]

武並たけなみ神社じんじゃ縁起えんぎにはえいただし8ねんとあり、美濃みの御坂みさかえつでは天正てんしょう2ねんとあるが、内容ないようがほぼ一致いっちしており、天正てんしょう2ねん(1574ねん)の武田たけだ勝頼かつよりによるひがし侵攻しんこうさい恵那えなぐん寺社じしゃことごと焼討やきうち破壊はかいされていることから、天正てんしょう2ねんであることはほぼ間違まちがいない。

あかりれき元年がんねん(1655ねん)、尾張おわりはんは、庄屋しょうや井ノ口いのぐち伊兵衛いへえ義次よしじ幹事かんじとして、武並たけなみ神社じんじゃ森林しんりん一部いちぶはねして橋梁きょうりょうざいとした。尾張おわり藩主はんしゅ徳川とくがわ光友みつとも大井おおいむら黄金おうごんじゅうりょう下賜かししてこれをしょうした。

井ノ口いのぐち伊兵衛いへえ義次よしじは、じゅう年間ねんかんてた結果けっかひゃくりょうとなったので、氏子うじこたち相談そうだんして、寛文ひろふみ11ねん1671ねんふゆ社殿しゃでん修復しゅうふく工事こうじにかかり、寛文ひろふみ12ねん(1672ねん)に完成かんせいした。修復しゅうふくされた社殿しゃでん丹塗にぬりで、まばゆいばかりのうつくしさであったという。丹塗にぬりあとは、いまもかすかに社殿しゃでんのこっている。じく栱、つなぎにじはり蟇股かえるまた、そのはな部分ぶぶん室町むろまち時代じだい末期まっきのものとおもわれ、えんまわり、内外ないがいじんさかい屋根やねつまかざりなどは寛文ひろふみ年間ねんかん修理しゅうりものであろうとわれている。

のべたから元年がんねん1673ねん黄檗宗おうばくしゅうそうつうげんぜんとく尾張おわりこくこころざしだんみるむら現在げんざい名古屋なごや守山もりやま)で廃寺はいじとなっていた東禅寺とうぜんでら武並たけなみ神社じんじゃ境内けいだいうつした。その江戸えど時代じだいつうじて2かい焼失しょうしつにあったが廃絶はいぜつすることなく法灯ほうとうつたえ、明治めいじ時代じだい恵那えなさんじゅうさん観音かんのん改組かいそしたさいにはばん札所ふだしょとなった。

大正たいしょう3ねん1914ねん)に、東禅寺とうぜんでらは、武並たけなみ神社じんじゃ境内けいだいはなれて現在地げんざいち移転いてんした。跡地あとち恵那えな東中ひがしなか学校がっこうとなっている。寺宝じほうとして武並たけなみ神社じんじゃ本地ほんじほとけであったとつたわる室町むろまち時代じだいさくとみられるじゅういちめん観音かんのん座像ざぞう所蔵しょぞうしており、恵那えな有形ゆうけい文化財ぶんかざい指定していされている。

またちかくにある長国寺ちょうこくじてらたからである、じゅう一面観いちめんかんおん千手観音せんじゅかんのん聖観音しょうかんのんは、えいろく7ねん(1564ねん)に尾張おわり熱田あつた仏師ぶっし 栗原くりはらそう左衛門尉さえもんのじょうあきらさださくで、もと恵那えな大井おおいまち武並たけなみ神社じんじゃまつられていたが、慶応けいおう4ねん(1868ねん)の神仏しんぶつ分離ぶんりれいによって長国寺ちょうこくじうつされた仏像ぶつぞうである。

昭和しょうわ38ねん(1963ねん)に、岐阜ぎふけん文化財ぶんかざい指定していされた。

恵那えな大井おおいまち武並たけなみ神社じんじゃ文化財ぶんかざい

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(重要じゅうよう文化財ぶんかざい)

  • 本殿ほんでん めいさつ2まいむねさつ1まい[11]

恵那えな大井おおいまち武並たけなみ神社じんじゃ例祭れいさい

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  • 10がつだい2日曜日にちようびみちふえまつ

恵那えな大井おおいまち武並たけなみ神社じんじゃ現地げんち情報じょうほう

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所在地しょざいち
大井おおいまち武並たけなみ神社じんじゃ交通こうつうアクセス

恵那えな岩村いわむらまち武並たけなみ神社じんじゃ

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主祭しゅさいしん
  • だいおのれかみ(おおなむちのみこと)
  • 誉田ほんだ別命べつめい(ほんだわけのみこと)
  • しょう彦名ひこないのち(すくなひこなのみこと)
はいしん

建立こんりゅう岩村いわむらはん神社じんじゃ調しらべに延久のべひさ元年がんねん1069ねん鎮座ちんざしるされているが、ちち加藤かとうけいれんまつ岩村いわむらしろうち八幡やはた神社じんじゃ建立こんりゅうすこ鎌倉かまくら時代じだい末期まっきあるいは室町むろまち時代じだい初期しょき建立こんりゅうかんがえられている。

もと岩村いわむらまち武並たけなみさん山頂さんちょう鎮座ちんざし、まち西方せいほうからまち見守みまも氏神うじがみとして町民ちょうみん信仰しんこうあつめ、八幡やはた神社じんじゃ武士ぶしかみ武並たけなみ神社じんじゃ町民ちょうみんかみとされていた。

寛永かんえい8ねん1631ねん岩村いわむらはんあるじ松平まつだいらじょう寿ことぶき壮大そうだい社殿しゃでん改築かいちくし、けいあさ神輿しんよってちちけいかどいにく、それに大勢おおぜい町民ちょうみん供奉ぐぶするという岩村いわむらまち秋祭あきまつり行事ぎょうじそうおぼした。

この行事ぎょうじは、岐阜ぎふけん無形むけい文化財ぶんかざい指定していされている。その大正たいしょう4ねん9がつ武並たけなみ山頂さんちょうより現在げんざい岩村いわむら町内ちょうない遷宮せんぐうして現在げんざいいたっている。

恵那えな岩村いわむらまち武並たけなみ神社じんじゃ史跡しせき指定してい

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  • きゅう武並たけなみ神社じんじゃあと武並たけなみ山上さんじょう所在しょざい[12]

岩村いわむらまち武並たけなみ神社じんじゃ指定してい文化財ぶんかざい指定してい

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  • 神輿しんよ岩村いわむらまち武並たけなみ神社じんじゃ[13]
  • 神輿しんよ岩村いわむらまち武並たけなみ神社じんじゃ[14]
  • 寛永かんえいとうさつ武並たけなみさん武並たけなみ神社じんじゃ[15]

恵那えな三郷町野井みさとちょうのい武並たけなみ神社じんじゃ

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祭神さいじん
  • だいおのれかみ(おおなむちのみこと)
  • 誉田ほんだ別命べつめい(ほんだわけのみこと)
  • しょう彦名ひこないのち(すくなひこなのみこと)

万治まんじ2ねん9がつ 丹羽たんば勘兵衛かんべえ創建そうけん 天和てんわ3ねん6がつ 丹羽にわ権兵衛ごんべえ再建さいけん

まん2ねん1659ねん)9がつ岩村いわむらはんおも丹羽にわじょうおとうとで、あにじょうより恵那えなぐん野井のいむら藤村ふじむら一部いちぶの1,000せきぶんされて旗本はたもととなっていた丹羽にわはる(勘兵衛かんべえ)創建そうけんつたわる。

その天和てんわ3ねん(1683ねん)6がつ丹羽にわみぎ(権兵衛ごんべえ)[16]再建さいけんとある。

しかし正保まさやす2ねん(1645ねん)のむら絵図えずには武並たけなみ神社じんじゃかれていることから、まん2ねん以前いぜん建立こんりゅうされていたことはあきらかである。

例祭れいさいには山車だしささおどり狂言きょうげん重箱じゅうばこ獅子じし奉納ほうのうしたとつたわっている。

重箱じゅうばこ獅子じし

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その由来ゆらいについては、徳川とくがわ家康いえやす武田たけだたたかってやぶれ、野井のいむらまでげてきたさい、ちょうど武並たけなみ神社じんじゃ大祭たいさい酒宴しゅえん最中さいちゅうであった。きょうった村人むらびと重箱じゅうばこあたませ、袱紗ふくさこうむって獅子舞ししまいのまねをしていた。家康いえやすもこの村人むらびとおどりのなかはいっておどり、武田たけだぜい追手おってからのがれることができた。といういいつたえがある。

特殊とくしゅ神事しんじとして、恵那えな有形ゆうけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい指定していされている。

恵那えな三郷町佐々良木みさとちょうさざらぎ武並たけなみ神社じんじゃ

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主祭しゅさいしん
  • だいおのれかみ(おおなむちのみこと)
  • 誉田ほんだ別命べつめい(ほんだわけのみこと)
  • しょう彦名ひこないのち(すくなひこなのみこと)

慶長けいちょう4ねん1599ねん足立あだち新五郎しんごろう勧請かんじょう当初とうしょ天正てんしょう3ねん1575ねん足立あだち氏神うじがみまつったことにはじまり、

岩村いわむらしろおもより武並たけなみだい権現ごんげんまつるようにいのちがあり合祀ごうしすることになったとつたわる。

万治まんじ元年がんねん1658ねん)に再建さいけんされた。

別当寺べつとうじとして真言宗しんごんしゅう南陽なんようさん 神護かんごてらがあったが、明治めいじ初年しょねん廃寺はいじとされた。

例祭れいさいは10がつだい日曜日にちようび

恵那えな武並町竹折たけなみちょうたけおり武並たけなみ神社じんじゃ

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祭神さいじん
  • だいおのれかみ(おおなむちのみこと)
  • 誉田ほんだ別命べつめい(ほんだわけのみこと)
  • しょう彦名ひこないのち(すくなひこなのみこと)

たてたけし2ねん(1335ねん)岩村いわむら城主じょうしゅいのちにより創建そうけんされたとつたわる。

慶安けいあん3ねん(1650ねん) 市川いちかわ源太郎げんたろう 3にん再建さいけん

寛永かんえい5ねん(1628ねん)と宝永ほうえい2ねん(1705ねん)のむねさつがあるが、本殿ほんでん様式ようしきから宝永ほうえい年間ねんかん該当がいとうするとられる。 工匠こうしょうは、後藤ごとう三郎さぶろう四郎しろうとある。

恵那えな武並町藤たけなみちょうふじ武並たけなみみや

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藤村ふじむら(ふじむら)では、村人むらびとから氏神うじがみとして「武並たけなみみや」とばれている。

祭神さいじん
  • だいおのれかみ(おおなむちのみこと)
  • 誉田ほんだ別命べつめい(ほんだわけのみこと)
  • しょう彦名ひこないのち(すくなひこなのみこと)

たてたけし2ねん(1335ねん)8がつ創立そうりつ天正てんしょう15ねん(1587ねん)3がつ葺替、とおる(1734ねん)19ねん4がつ再建さいけん

とおる13ねん(1728ねん)さくいし灯籠どうろうがある。

恵那えな長島町久須見おさしまちょうくすみ武並たけなみ神社じんじゃ

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祭神さいじん
  • だいおのれかみ(おおなむちのみこと)
  • 誉田ほんだ別命べつめい(ほんだわけのみこと)
  • しょう彦名ひこないのち(すくなひこなのみこと)

ひさし須見すみ武並たけなみ神社じんじゃ拝殿はいでん舞台ぶたいづくりとなっている。現在げんざい神明しんめいしゃなど末社まっしゃが7しゃある。

創建そうけん時期じき不明ふめいであるが、寛永かんえい11ねん(1634ねん)に再興さいこうつたわる。

うえ階段かいだんは、安政あんせい3ねん(1856ねん)念仏ねんぶつ連中れんちゅう寄進きしんしたものである。

明治めいじ元年がんねん神仏しんぶつ分離ぶんりれいるまで、ひさし須見すみ武並たけなみ神社じんじゃ祭事さいじは、かつて付近ふきん存在そんざいした和合わごういんという別当寺べつとうじつとめていた。

出典しゅってん

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  • 恵那えな 通史つうしへん だいかん』 だいはちしょう だいせつ 社寺しゃじ文化ぶんか 武並たけなみななしゃじゅうしゃ p988~p997
  • 恵那えな 通史つうしへん だいさんかん』 2 (きん現代げんだい 2 生活せいかつ民族みんぞく信仰しんこう) だいじゅうしょう 信仰しんこう宗教しゅうきょう だいせつ 恵那えな市域しいき神社じんじゃ いち 大井おおい武並たけなみ神社じんじゃ p672~p679 恵那えな編纂へんさん委員いいんかい 1989ねん
  • 恵那えなぐん』 だいよんへん 鎌倉かまくら時代じだい だいじゅうろくしょう 遠山とおやま(いち) 社寺しゃじ建立こんりゅう 武並たけなみしょしゃ p107 恵那えなぐん教育きょういくかい 大正たいしょう15ねん
  • 岩村いわむらまち』 じゅうはち 江戸えど時代じだい宗教しゅうきょう 武並たけなみ神社じんじゃ p288~p294
  • 土岐とき 1 (原始時代げんしじだい-関ケ原せきがはら合戦かっせん)』 だいじゅうへん 近世きんせい封建ほうけん社会しゃかい だいいちしょう 安土あづち桃山ももやま時代じだい ■武並たけなみだい権現ごんげんく p397 土岐とき編纂へんさん委員いいんかい 1970ねん

外部がいぶリンク

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 武並たけなみ神社じんじゃ”. 岐阜ぎふけん神社じんじゃちょう. 2013ねん4がつ22にち閲覧えつらん
  2. ^ 武並たけなみ神社じんじゃ”. 岐阜ぎふけん神社じんじゃちょう. 2013ねん4がつ22にち閲覧えつらん
  3. ^ 武並たけなみ神社じんじゃ”. 岐阜ぎふけん神社じんじゃちょう. 2013ねん4がつ22にち閲覧えつらん
  4. ^ 武並たけなみ神社じんじゃ”. 岐阜ぎふけん神社じんじゃちょう. 2013ねん4がつ22にち閲覧えつらん
  5. ^ 武並たけなみ神社じんじゃ”. 岐阜ぎふけん神社じんじゃちょう. 2013ねん4がつ22にち閲覧えつらん
  6. ^ 武並たけなみ神社じんじゃ”. 岐阜ぎふけん神社じんじゃちょう. 2013ねん4がつ22にち閲覧えつらん
  7. ^ みなもと頼朝よりともよりゆきじつあさ
  8. ^ 武並たけなみ神社じんじゃ縁起えんぎ
  9. ^ いわお邑府
  10. ^ 岩村いわむら藩主はんしゅ丹羽にわころ当時とうじ岩村いわむら城下じょうかみょうせんてら存在そんざいした
  11. ^ 平成へいせい元年がんねん5がつ19にち文部省もんぶしょう告示こくじだい80ごう
  12. ^ 武並たけなみ神社じんじゃあと”. 恵那えな. 2013ねん4がつ22にち閲覧えつらん
  13. ^ 武並たけなみ神社じんじゃ神輿しんよ”. 恵那えな. 2013ねん4がつ22にち閲覧えつらん
  14. ^ 武並たけなみ神社じんじゃ神輿しんよ”. 恵那えな. 2013ねん4がつ22にち閲覧えつらん
  15. ^ 武並たけなみ神社じんじゃ寛永かんえいとうさつ”. 恵那えな. 2013ねん4がつ22にち閲覧えつらん
  16. ^ 旗本はたもと丹羽にわだい