清水しみずとうげ

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清水しみずとうげ
じゅうさと尾根おねがわから清水しみずとうげ小屋こやおくえるのは朝日あさひたけし稜線りょうせん
所在地しょざいち 群馬ぐんまけんみなかみまち新潟にいがたけん南魚沼みなみうおぬま
座標ざひょう
清水峠の位置(日本内)
清水峠
北緯ほくい3653ふん40.0びょう 東経とうけい13856ふん51.0びょう / 北緯ほくい36.894444 東経とうけい138.947500 / 36.894444; 138.947500座標ざひょう: 北緯ほくい3653ふん40.0びょう 東経とうけい13856ふん51.0びょう / 北緯ほくい36.894444 東経とうけい138.947500 / 36.894444; 138.947500
標高ひょうこう 1,448 m
山系さんけい 谷川たにがわ連峰れんぽう
通過つうか 国道こくどう291ごう
関越かんえつ自動車じどうしゃどう関越かんえつトンネル
上越線じょうえつせん清水しみずトンネル新清水あらしみずトンネル)
上越新幹線じょうえつしんかんせん大清水おおしみずトンネル)
プロジェクト 地形ちけい
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清水しみずとうげ(しみずとうげ)は、群馬ぐんまけんみなかみまち新潟にいがたけん南魚沼みなみうおぬま県境けんきょう上越じょうえつ国境こっきょう)にある国道こくどう291ごうとうげ標高ひょうこうは1,448 m

概要がいよう[編集へんしゅう]

中央ちゅうおう分水嶺ぶんすいれい構成こうせいするさんこく山脈さんみゃく越後山脈えちごさんみゃく)・谷川たにがわ連峰れんぽううえにあり、上信越じょうしんえつ高原こうげん国立こくりつ公園こうえんふくまれる。きた新潟にいがたけんがわ魚沼うおぬま連峰れんぽう県立けんりつ自然しぜん公園こうえんに、みなみ群馬ぐんまけんがわみなかみユネスコエコパーク指定してい地域ちいきとなっており、利根川とねがわ水系すいけい湯檜曽川ゆひそがわ信濃川しなのがわ水系すいけい登川のぼりかわ源流げんりゅう部分ぶぶん相当そうとうする。中部ちゅうぶ北陸ほくりく自然しぜん歩道ほどう歴史れきし街道かいどうべいみちおよび、ぐんま県境けんきょうトレイルスノーカントリートレイルのコースの一部いちぶ

歴史れきし[編集へんしゅう]

清水しみずとうげえのみちは、ふるくは「ちょくえつ」(すぐごえ)・「直路ちょくろ」(すぐろ、じきろ)・「ゆのひそえ」・「うまとうげ[ちゅう 1]・「清水越しみずこし」・「清水しみずみち」・「清水しみずどおり」・「清水しみず街道かいどう」・「清水しみず往還おうかん」などとばれ[1][2]志水しみずとうげともいた[3]

山道さんどう区間くかんながいものの上野うえのこく越後えちごこくとをむす最短さいたんルートであることから、遠回とおまわりながら標高ひょうこうひく西側にしがわ三国峠みくにとうげとともに、古来こらいよりよく利用りようされてきた。このみち上野うえのこく水上すいじょうげん・みなかみまち)から越後えちごこく清水しみずげん南魚沼みなみうおぬま)までの距離きょりちなんで「じゅうさと尾根おね」とばれ、また越後えちご戦国せんごく大名だいみょう上杉うえすぎ謙信けんしんによって軍事ぐんじ利用りようされたことから「謙信けんしん尾根おね」ともばれ[ちゅう 2]現在げんざい新潟にいがたけんがわ登山とざんどうのこしている。新田にった義貞よしさだらがおさめた鎌倉かまくら時代ときよ南北なんぼくあさ時代じだい越後えちごこう清水しみずからうまとうげ朝日あさひたけし北側きたがわ鞍部あんぶ)をえ、宝川たからがわとおって粟沢あわざわ寺林てらばやしとりでいたるルートがおも使つかわれ[5]戦国せんごく時代じだいになってからは湯檜曽川ゆひそがわとおるルートがおも使つかわれた。ふるくはまるさわから大源太山だいげんたさんのぼみち[6]や、なな小屋こやさんからよもぎとうげ白樺しらかんば尾根おねくだることのほか、シシゴヤノあたまから大源太川だいげんたがわくだるルート(謙信けんしんゆかりのみち)もあった。

天文てんもん21ねん1552ねん)には上杉うえすぎ憲政のりまさ関東かんとうから越後えちごのがれるさいとおった[7]こう北条ほうじょう対峙たいじした謙信けんしんは、天文てんもん年間ねんかん登川のぼりかわ源流げんりゅう志水しみずたに)にある清水しみずこうげん南魚沼みなみうおぬま清水しみず集落しゅうらく)に直路ちょくろじょう清水しみずじょう志水しみずじょう)をきずいて防備ぼうびたらせた。えいろく5ねん1562ねん)の制札せいさつに「直路ちょくろ」の記載きさいがある。謙信けんしん死後しごきた天正てんしょう6ねん1578ねん)の御館みたてらんさいには、上杉うえすぎ景勝かげかつ長尾ながお伊賀いが守景もりかげちゅうめいじて直路ちょくろまもりをかためた[8]天正てんしょう10ねん1582ねん)6がつ13にちには滝川たきかわえきじゅうまも沼田ぬまたじょうでのたたかいにやぶれた藤田ふじた能登のとまもる信吉のぶよしえた[8]慶長けいちょうころには坂戸さかどはんおもほりただしよせから上杉うえすぎのこみん一揆いっきじょうじた農民のうみん脱走だっそうふせぐため清水しみずえつ通行つうこうきんじ、これをやぶったものをったものにはそのもの財宝ざいほうあたえるという禁令きんれい清水しみずむら百姓ひゃくしょうけておくられた(清水しみずえつ名称めいしょう初出しょしゅつ[9]

江戸えど時代じだいには三国峠みくにとうげえのさんこく街道かいどう整備せいびわせて、江戸えど幕府ばくふ寛永かんえい9ねん1632ねん)に湯檜曽ゆびそ清水しみずくちとめ番所ばんしょ設置せっちして通行つうこうきん[2]沼田ぬまた城主じょうしゅ真田さなだ信吉のぶよしころより江戸えど時代じだいつうじた200ねん以上いじょうにわたって清水しみずとうげ特別とくべつ許可きょか地元じもと住民じゅうみん以外いがいにはほとんど利用りようされない期間きかんつづいた。ただし、あかりれき3ねん1657ねん)に江戸えどきたあかりれき大火たいか影響えいきょうけて、魚野川うおのがわ利根川とねがわ水運すいうん利用りようした物資ぶっし輸送ゆそうのために高田たかだはんによってとうげどう状態じょうたい調査ちょうさおこなわれたことがあるほか、天保てんぽう13ねん1842ねん)につくられた越後えちごこく細見さいけんには清水しみずえつ記載きさいがあり、「うえしゅう大穴おおあなむらる」とある。

江戸えど時代じだい末期まっき天保てんぽうだい飢饉ききんのあと、当時とうじ津軽海峡つがるかいきょう関門海峡かんもんかいきょうとおって江戸えどまではこばれていた良質りょうしつ年貢ねんぐこめである越後えちごまい輸送ゆそう廻米かいまい)を陸路りくろとおって短絡たんらくすることで海路かいろ危険きけんけ、品質ひんしつ維持いじしたまま流通りゅうつうさせるため、勢多せたぐん糸井いといむらげん利根とねぐん昭和しょうわむら出身しゅっしん石井いしい与平よへい江戸えど谷中たになかべい商人しょうにん大川おおかわりょうたいら4めい天保てんぽう15ねん1844ねん)4がつ清水しみずとうげ開削かいさく計画けいかく奉行ぶぎょうしょねが[10]与平よへいらによって実地じっち調査ちょうさおこなわれ、そのすうねががなされたが、利益りえき相反あいはんするさんこくがい道筋みちすじ宿場しゅくばなどから反対はんたい意見いけんされたこともあって沙汰止さたやみになった。よしみひさし6ねん1853ねん)には黒船くろふね来航らいこうによる海上かいじょう封鎖ふうさ危惧きぐした粟沢あわざわ綱子つなご藤原ふじわら湯檜曽ゆびそよんヶ村かそんから同様どうよう嘆願たんがんおこなわれたが、海上かいじょう封鎖ふうさおこなわれなかったことや、幕末ばくまつ混乱こんらんもあって計画けいかく実現じつげんしなかった[11]

明治めいじ時代じだいはいり、1869ねん明治めいじ2ねん)1がつ20日はつか行政ぎょうせいかん布告ふこくによって関所せきしょ廃止はいしされると(くちとめ番所ばんしょ前年ぜんねん1868ねん慶応けいおう4ねん)5がつ17にち布告ふこくによって廃止はいしみ)、清水しみずとうげえの距離きょりみじかさがあらためて注目ちゅうもくされ、江戸えど時代じだい末期まっき開削かいさく運動うんどう認知にんちされていたこともあって、1870ねん明治めいじ3ねん)には東京とうきょう渡邊わたなべけんだいぞくらにより測量そくりょう一部いちぶ工事こうじおこなわれ、湯檜曽川ゆひそがわ沿いに歩道ほどうつくられた[12]。さらに、1872ねん明治めいじ5ねん)に宿駅しゅくえき制度せいど廃止はいしされると、よく1873ねん明治めいじ6ねん)には熊谷くまがやけんれい河瀬かわせ秀治しゅうじにより民間みんかんからの寄付きふきん財源ざいげんとして新道しんどう計画けいかくされ、1874ねん明治めいじ7ねん)6がつ着工ちゃっこうし、同年どうねん10がつはば1あいだ新道しんどう竣工しゅんこうした[3]みち完成かんせいにより旅客りょかく荷物にもつ取扱とりあつか個数こすうりょうすうばいになったという。この工事こうじのこされた資料しりょうとぼしく詳細しょうさい不明ふめいであるが、わずか4カ月かげつつくられたみちということで古道ふるみち改良かいりょう推測すいそくされており、この時点じてんでは登山とざんどう程度ていどのものであった。維新いしん以前いぜん伝馬てんま制度せいどいだ陸運りくうん会社かいしゃ沼田ぬまた分社ぶんしゃによって真庭まにわ上牧かんまき小日向おびなた湯原ゆはら湯檜曽ゆびそ継立つぎたてしょつくられ、いち倉沢くらさわ出合であい武能たけよしさわ出合であい白樺しらかんば尾根おね上部じょうぶにはきゅうはくしょかれた[4]1877ねん明治めいじ10ねん)7がつには、清水しみずえつ往還おうかん県道けんどう一等いっとう指定していされた。

1878ねん明治めいじ11ねん)、内務ないむきょう大久保おおくぼ利通としみち提唱ていしょうした土木どぼく7だいプロジェクト唯一ゆいいつ陸路りくろ建設けんせつとして清水しみずえつ往還おうかんげられ、日本海にほんかいがわ国際こくさい貿易ぼうえきみなととして重要じゅうようせいした新潟港にいがたこういたみちとして、馬車ばしゃ交通こうつう可能かのうなる勾配こうばい広幅ひろはばいん道路どうろ改修かいしゅうすることが決定けっていし、調査ちょうさ開始かいしされた。1881ねん明治めいじ14ねん)7がつより工事こうじおこなわれ、1885ねん明治めいじ18ねん)8がつはば3あいだ新道しんどう完成かんせいした[3]群馬ぐんまけんによれば、工費こうひ当時とうじ価格かかくやく35まんえん隧道すいどう2ヵ所かしょ[ちゅう 3]橋梁きょうりょう166ヵ所かしょ。この道路どうろ完成かんせいまえの1885ねん明治めいじ18ねん)2がつ24にち内務省ないむしょう告示こくじだい6ごう國道こくどうひょう」で国道こくどう8ごう東京とうきょうより新潟港にいがたこうたっするべつ路線ろせん」の指定していけている[ちゅう 4]開通かいつう1カ月かげつの1885ねん明治めいじ18ねん)9がつ7にちには、内務ないむきょう山縣やまがた有朋ありとも司法しほうきょう山田やまだあらわよし皇族こうぞく北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのうらもまねいて湯檜曽ゆびそ盛大せいだい開通かいつうしきおこなわれたのち実際じっさい馬車ばしゃ通行つうこうして、清水しみずとうげしょう休止きゅうしのち六日町むいかまちくだった[3]かずせんないしすうまん庶民しょみんあつまって開通かいつういわったという[3]。しかし、その翌月よくげつの10がつには長雨ながあめのため各所かくしょ土砂崩どしゃくず発生はっせいし、修復しゅうふくするあいだもなく降雪こうせつ通行止つうこうどめ期間きかんむかえた。日本にっぽん有数ゆうすう豪雪ごうせつ地帯ちたいである谷川たにがわ連峰れんぽうきびしい気候きこうにさらされた各所かくしょ雪崩なだれ発生はっせいし、雪解ゆきどにはすでに馬車ばしゃとおれる状態じょうたいではなくなっていた。そのため長期ちょうきにわたって通行止つうこうどめにせざるをず、すう年間ねんかん全面ぜんめん開通かいつう目指めざした修復しゅうふくこころみられた[ちゅう 5]ものの、1888ねん明治めいじ21ねんごろには実質じっしつ通行つうこう不能ふのうとなり、ついには放棄ほうきされた[3][4]。なお、整備せいびされた時期じきによらず、たん清水しみずとうげ新道しんどう清水しみず新道しんどう清水しみずとうげえつ新道しんどうった場合ばあいはこの明治めいじ時代じだい国道こくどう[15]

国道こくどう通行つうこう不能ふのうとなったのちもこの区間くかんにまたがる旅客りょかく需要じゅよう依然いぜんとして存在そんざいしていたが、国道こくどう以前いぜん使つかわれていたじゅうさと尾根おね荒廃こうはいしていたため、1888ねん明治めいじ21ねん)には六日むいかまち商人しょうにん佐藤さとう良太郎りょうたろうあたらしい登山とざんどうきょつぼざか(いつぼざか。井坪いつぼざかとも表記ひょうき)の私費しひによるひらき計画けいかくし、1889ねん明治めいじ22ねん)に着工ちゃっこう1890ねん明治めいじ23ねん)に開通かいつうし、ひと2せん牛馬ぎゅうば3ぜにちん道路どうろ有料ゆうりょう道路どうろ)としてもちいられた。しかし、1893ねん明治めいじ26ねん)4がつ1にち信越本線しんえつほんせん全通ぜんつうすると清水しみずとうげとお旅客りょかく需要じゅよう激減げきげんし、きょつぼざか1907ねん明治めいじ40ねん)には有料ゆうりょう道路どうろとしての運用うんよう終了しゅうりょうした。とうげうさぎたいらなど道中どうちゅうにあったきゅうはくしょ茶屋ちゃやなども1908ねん明治めいじ41ねんごろまでにはすべ閉店へいてん撤退てったいした[4]

1920ねん大正たいしょう9ねん)4がつ1にちきゅう道路どうろほう制定せいていともな国道こくどう8ごう府県ふけんどう前橋まえばし新潟にいがたせん降格こうかくされたが、このころにはほとんどはいどうのようになっていた。1959ねん昭和しょうわ34ねん)に一般いっぱん県道けんどうろくにちまち水上すいじょうせん指定していされ、1970ねん昭和しょうわ45ねん)に新潟にいがた県内けんない県道けんどうわせて国道こくどう291ごうさい指定していされたものの、茂倉岳しげくらだけ直下ちょっかとお上越線じょうえつせん1931ねん開通かいつう)や三国峠みくにとうげとお国道こくどう17ごう1959ねん開通かいつう)、さらに上越新幹線じょうえつしんかんせん1982ねん開通かいつう)や関越かんえつ自動車じどうしゃどう1985ねん開通かいつう)が出来できたこともあって、とうげ付近ふきん修復しゅうふく改良かいりょうまったおこなわれないまま現在げんざいいたる。

1939ねん昭和しょうわ14ねん新潟にいがたけん中魚沼なかうおぬまぐん現在げんざい十日町とおかまち)にて信濃川しなのがわ発電はつでんしょ一期いっき工事こうじ完成かんせい首都しゅとけんけた送電そうでんせん清水しみずとうげ敷設ふせつされた[16]

1968ねん昭和しょうわ43ねん)、明治めいじ100ねん記念きねんして清水しみず集落しゅうらくに「国道こくどう清水しみずせん開通かいつう記念きねん」が建立こんりゅうされた。

2007ねん平成へいせい19ねん)、清水しみずとうげえつ新道しんどう土木どぼく学会がっかい選奨せんしょう土木どぼく遺産いさんえらばれた。

現状げんじょう[編集へんしゅう]

国道こくどう291ごうのうち清水しみずとうげ前後ぜんこうやく27 km自動車じどうしゃ通行つうこう不能ふのう区間くかん指定していされている[17]車道しゃどうとしての再開さいかいどおりについて自治体じちたいがわは「利用りようりつ需要じゅようりつ向上こうじょう見込みこまれれば工事こうじおこなこともある」と説明せつめいがなされているものの、2024ねん現在げんざい再開さいかいどおりうごきはない。

群馬ぐんまけんがわでは崩落ほうらくなどが複数ふくすう箇所かしょ発生はっせいしているものの、一部いちぶ迂回うかい短絡たんらく利用りようして清水峠しみずとうげまで徒歩とほ通行つうこう可能かのうであり、道路どうろとしての機能きのうがりなりにも維持いじされている。ただし馬車ばしゃ通行つうこう可能かのうにするため勾配こうばい緩和かんわさせる経路けいろった結果けっか国道こくどういちじるしく遠回とおまわりになっており、「新道しんどう」とばれるきゅう勾配こうばいながら短距離たんきょり登山とざんどうべつにあるため、国道こくどう利用りようしゃ皆無かいむではないがすくない。

新潟にいがたけんがわには、国道こくどうほか前述ぜんじゅつの2ほん登山とざんどうじゅうさと尾根おねきょつぼざか)がある。新潟にいがたけんがわでも国道こくどういちじるしく遠回とおまわりになっており、馬車ばしゃ交通こうつう不能ふのうとなったのち急坂きゅうざかではあるが距離きょりみじか登山とざんどうもっぱ利用りようされた結果けっかきょつぼざかによってバイパスされた区間くかんであるやく12 kmがはいどう状態じょうたいになっている。清水しみずがわきょつぼざか新道しんどう分岐ぶんきからやく3.4 kmのうち一部いちぶ区間くかんは、JR東日本ひがしにっぽん送電そうでんせん巡視じゅんしとして活用かつようされているものの、それ以外いがい森林しんりん複数ふくすう箇所かしょ崩壊ほうかいにより、道路どうろ形状けいじょう経路けいろすら判然はんぜんとしないほどの状態じょうたいになっており、途中とちゅう1かしょあったトンネルやいくつかの橋梁きょうりょうすべ埋没まいぼつ流失りゅうしつしている。そのため、法令ほうれいじょうはれっきとした国道こくどうでありながらも、この区間くかん踏破とうは非常ひじょう困難こんなんであり、ロッククライミングといった高度こうど技術ぎじゅつ経験けいけんのないものると遭難そうなん事故じこ危険きけんせいきわめてたか[18][ちゅう 6]

2007ねん平成へいせい19ねん)、はいどう研究けんきゅうのフリーライター・平沼ひらぬま義之よしゆきがロッククライミング経験けいけんしゃとも現地げんち調査ちょうさしたさいには、13あいだかけてもはいどう状態じょうたい区間くかん12 kmを踏破とうはできず、清水しみずがわから8.9 km地点ちてん進行しんこう不能ふのう地形ちけい遭遇そうぐうし、撤退てったいしている[19]調査ちょうさ結果けっか地図ちず表記ひょうき年代ねんだいによるらぎやミスがあきらかになったほか、測量そくりょうしるべ発見はっけんできなかった[20]。なおその翌年よくねん清水しみずとうげがわから前回ぜんかい撤退てったい地点ちてんまでぎゃくきに踏破とうはおこない、ちょんさま解明かいめいしている[21]

交通こうつう[編集へんしゅう]

鉄道てつどう高速こうそく道路どうろは、やはり距離きょりみじかさを重視じゅうししたため清水しみずえつ往還おうかんちかいルートをえらび、長大ちょうだいトンネルで通過つうかしている。清水しみずとうげえる道路どうろ南魚沼みなみうおぬま清水しみず集落しゅうらくけるが、鉄道てつどう高速こうそく道路どうろやま1つ西にし湯沢ゆざわけるようになっている[ちゅう 7]。トンネルの名称めいしょうに「清水しみず」とはいっているものもあるが、清水しみずとうげ直下ちょっかではなく南西なんせいすこはなれた谷川たにがわたけし近傍きんぼうとおる。

登山とざん[編集へんしゅう]

ルート[編集へんしゅう]

送電そうでんせん巡視じゅんし注意ちゅうい

新潟にいがたけんがわ[編集へんしゅう]

  • 謙信けんしん尾根おねじゅうさと尾根おね):清水しみず集落しゅうらく清水しみずバス停ばすてい六日町むいかまちえきよりみなみ越後えちご観光かんこうバス路線ろせんあり) - 通行止つうこうど箇所かしょ一般いっぱんしゃはここまで) - 追分おいわけきゅう国道こくどう分岐ぶんき) - 井坪いつぼざか謙信けんしん尾根おね分岐ぶんき - 登川のぼりかわ上流じょうりゅうだい2ごう砂防さぼう堰堤えんてい林道りんどう終点しゅうてん - 渡渉としょう地点ちてん - のぼこう - 清水しみずとうげ
  • 井坪いつぼざかきょつぼざか):井坪いつぼざか謙信けんしん尾根おね分岐ぶんき - 工事こうじよう道路どうろ分岐ぶんき - 檜倉ひくらさわ渡渉としょう地点ちてん - うさぎたいら - ナル水沢すいたく渡渉としょう地点ちてん - 本谷ほんや渡渉としょう地点ちてん - のぼこう - 国道こくどう合流ごうりゅう地点ちてん - 清水しみずとうげ

群馬ぐんまけんがわ[編集へんしゅう]

  • 旧道きゅうどう明治めいじ国道こくどう):土合どあいえき - 土合どあいきょう - 谷川たにがわたけしロープウェイベースプラザ(一般いっぱんしゃはここまで) - 西にしくろ尾根おね登山とざんこう - いむつよし新道しんどう登山とざんこう - マチガさわ出合であい - いち倉沢くらさわ出合であい舗装ほそうはここまで) - かそけさわ出合であい - しば倉沢くらさわ出合であい - 武能たけよしさわ - 白樺しらかんば避難ひなん小屋こや新道しんどう合流ごうりゅう地点ちてん - 鉄砲てっぽう尾根おね - なな小屋こやさわ - 清水しみずとうげしろくずし避難ひなん小屋こや
  • 新道しんどういち倉沢くらさわトレッキングコース):土合どあいえき - 土合どあいきょう - 新道しんどう入口いりくち - 土合どあい砂防さぼう堰堤えんてい吹のたき) - マチガさわ分岐ぶんき - いち倉沢くらさわ分岐ぶんき - JR巡視じゅんし小屋こや分岐ぶんきにじしばりょう - 白樺しらかんば尾根おね - 合流ごうりゅう地点ちてん

県境けんきょう稜線りょうせん[編集へんしゅう]

清水しみずとうげあつかった作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 新編しんぺん会津あいづ風土記ふどき』ではうまとうげ大烏帽子山おおえぼしやまこうてくることから、朝日あさひだけ大烏帽子山おおえぼしやま鞍部あんぶえて宝川たからがわけるみちのこととする資料しりょうもある
  2. ^ 上杉うえすぎ謙信けんしん行軍こうぐんはすべて三国峠みくにとうげどう使つかわれ、清水しみずとうげどう斥候せっこう部隊ぶたい利用りようした[4]。また「謙信けんしん尾根おね」の呼称こしょうは、昭和しょうわ初期しょき上越線じょうえつせん敷設ふせつともな送電そうでんせん工事こうじ関係かんけいしゃはじめたものである[4]
  3. ^ 1ヵ所かしょ清水しみずとうげどうにあって崩壊ほうかい埋没まいぼつした隧道すいどうであり、もう1ヵ所かしょ群馬ぐんまけん利根とねぐん現在げんざい沼田ぬまた岩本いわもとまち)にあって上越線じょうえつせん建設けんせつ工事こうじともな消滅しょうめつした隧道すいどうである[13]
  4. ^ べつ路線ろせん」というのは、長野ながの経由けいゆ新潟港にいがたこういた路線ろせん国道こくどう5ごう指定していされたため。
  5. ^ フランス領事館りょうじかん職員しょくいんのギュスターヴ・グダローが1886ねんかよっている。[14]
  6. ^ 新潟にいがたけんがわ徒歩とほ通行つうこう困難こんなん区間くかんはいどうとなってから100ねん以上いじょう経過けいかした2008ねん発行はっこうの5まんぶんの1地形ちけい越後湯沢えちごゆざわ」に登山とざんどうとして掲載けいさいされているが、2015ねん発行はっこうの2まん5せんぶんの1地形ちけい茂倉岳しげくらだけ」や、2018ねん時点じてん地理ちりいん地図ちずには掲載けいさいされていない。
  7. ^ 登山とざんどうならばよもぎとうげえに相当そうとうする。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  19. ^ 道路どうろレポート 国道こくどう291ごう清水しみずとうげ新潟にいがたがわ最終さいしゅうかい
  20. ^ 道路どうろレポート 国道こくどう291ごう清水しみずとうげ新潟にいがたがわだい3かい
  21. ^ 道路どうろレポート 国道こくどう291ごう清水しみずとうげ新潟にいがたがわ) 〈リベンジへん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]