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瀧口たきぐち修造しゅうぞう

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瀧口たきぐち 修造しゅうぞう
(たきぐち しゅうぞう)
瀧口たきぐち修造しゅうぞう
誕生たんじょう 1903ねん12月7にち
日本の旗 日本にっぽん富山とやまけん婦負ねいぐんさむ江村えむら大塚おおつか
現在げんざい富山とやま大塚おおつか
死没しぼつ (1979-07-01) 1979ねん7がつ1にち(75さいぼつ
墓地ぼち りゅうこうてら富山とやま
職業しょくぎょう 詩人しじん造形ぞうけい作家さっか画家がか美術びじゅつ評論ひょうろん
言語げんご 日本語にほんご
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
教育きょういく 学士がくし文学ぶんがく
最終さいしゅう学歴がくれき 慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく英文えいぶん
活動かつどう期間きかん 1917ねん - 1979ねん
ジャンル 絵画かいが
主題しゅだい ゆめ幻想げんそう
文学ぶんがく活動かつどう シュルレアリスムダダイスム前衛ぜんえい芸術げいじゅつ
代表だいひょうさくちょう現実げんじつ主義しゅぎ絵画かいが』(1930ねん
実在じつざい』(1931ねん
ななつの』(1936ねん
妖精ようせい距離きょり』(1937ねん
デビューさく地球ちきゅう創造そうぞうせつ』(1928ねん
ウィキポータル 文学ぶんがく
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瀧口たきぐち 修造しゅうぞう(たきぐち しゅうぞう、1903ねん明治めいじ36ねん12月7にち - 1979ねん昭和しょうわ54ねん7がつ1にち)は、近代きんだい日本にっぽん代表だいひょうする美術びじゅつ評論ひょうろん詩人しじん画家がか戦前せんぜん戦後せんご日本にっぽんにおける正統せいとうシュルレアリスム理論りろんてき支柱しちゅうであり、近代詩きんだいし詩人しじんとは一線いっせんかく存在そんざい

経歴けいれき[編集へんしゅう]

出生しゅっしょう[編集へんしゅう]

1903ねん富山とやまけん婦負ねいぐんさむ江村えむら(のち呉羽くれはまちげん富山とやま大塚おおつかに3にんあねおとうと長男ちょうなんとしてまれる。いえ祖父そふだいから医者いしゃであり、長男ちょうなん修造しゅうぞう当然とうぜん家業かぎょうぐものとして期待きたいされていた。だが、それにはんするかのように本人ほんにん子供こどもころからだい学校がっこうきらいで、よくいえ大黒柱だいこくばしらにつかまっていたという。小学しょうがく5年生ねんせいのあるちちつとめている病院びょういんれてってもらい、実際じっさい手術しゅじゅつ現場げんばせてもらったところ、あやうく卒倒そっとうしかける。そのかえりの食堂しょくどうで、ちち医者いしゃにはなりたくない、とうとちちだまって微笑ほほえんでいた。その数日すうじつちち急死きゅうしした。

1921ねん富山とやま県立けんりつ富山とやま中学校ちゅうがっこうげん富山とやま県立けんりつ富山とやま高等こうとう学校がっこう卒業そつぎょう医学部いがくぶ受験じゅけん準備じゅんび理由りゆう上京じょうきょうするも、1922ねんははたき急死きゅうし医学部いがくぶ進学しんがく断念だんねん日進にっしん英語えいご学校がっこうかよう。1923ねん4がつ慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく入学にゅうがくするも、講義こうぎより図書館としょかんウィリアム・ブレイクなどを原書げんしょむことのほうがおおくなる。関東大震災かんとうだいしんさい被災ひさいの12月に大学だいがく退学たいがくっていた文学ぶんがくしょとうはらい、文学ぶんがくを「清算せいさん」してあねのいる北海道ほっかいどう小樽おたるせる。ブレイクの「無垢むくなイノセンス」に触発しょくはつされ、そこで小学校しょうがっこう教員きょういんでもやり一生いっしょうごそうとおもうが、どうしてもなれなかった[1]あね一緒いっしょ文房具ぶんぼうぐてんけん手芸しゅげい材料ざいりょうてん島屋しまや」をひらくが、あね身内みうちつよ説得せっとくにあい、1925ねん慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく文学部ぶんがくぶさい入学にゅうがく

シュルレアリスムとの出会であ[編集へんしゅう]

1926ねん友人ゆうじん永井ながい龍男たつおらのすすめで同人どうじん山繭やままゆ』に参加さんか同人どうじん富永とみなが太郎たろうんだすぐあとだった。同人どうじんにはには小林こばやし秀雄ひでおなどがいた。

イギリスオックスフォおっくすふぉド大学どだいがくから帰国きこくした西脇にしわき順三郎じゅんざぶろうに、卒業そつぎょうまで5年間ねんかんおそわる。西脇にしわきから西洋せいよう最新さいしんモダニズム運動うんどうについてき、また西脇にしわき自宅じたくダダイスムシュルレアリスムり、アルチュール・ランボーアンドレ・ブルトンポール・エリュアールなどを原書げんしょみ、次第しだい影響えいきょうける。1927ねんには西脇にしわき中心ちゅうしんにシュルレアリスム馥郁ふくいくタル火夫かふヨ」(アンソロジー)を刊行かんこう。1928ねん山繭やままゆ』に詩編しへん地球ちきゅう創造そうぞうせつ」を発表はっぴょうどう人間にんげん衝撃しょうげきあたえた。同年どうねん上田うえだ敏雄としお上田うえだたもつ (英文えいぶん学者がくしゃ)北園きたぞの克衛かつえ山田やまだ一彦かずひこ冨士原ふじわら清一せいいち三浦みうら幸之助こうのすけらで『衣裳いしょう太陽たいよう』(編集へんしゅう発行はっこうじん冨士原ふじわら清一せいいち発刊はっかん、また雑誌ざっし詩論しろん』(編集へんしゅうじん春山はるやま行夫ゆきお厚生こうせいかく書店しょてんかん同人どうじんとなる。1930ねん、シュルレアリスムの国際こくさい交流こうりゅう目指めざす『LE SURRÉALISME INTERNATIONAL』(主唱しゅしょうしゃ瀧口たきぐち修造しゅうぞう編集へんしゅう発行はっこうじん冨士原ふじわら清一せいいち)を創刊そうかん日本語にほんごばんのみ、いちさつのアンソロジーでわる。しかしこの路線ろせんのちに『L'ÉCHANGE SURRÉALISTE』(山中さんちゅうなまへん、1936ねんボン書店しょてんかん)、「海外かいがいちょう現実げんじつ主義しゅぎ作品さくひんてん」(1937ねん)として結実けつじつする。

画壇がだんとの交渉こうしょう[編集へんしゅう]

1930ねんにはアンドレ・ブルトンの『ちょう現実げんじつ主義しゅぎ絵画かいが』を翻訳ほんやく本書ほんしょは、日本にっぽんにおける本格ほんかくてきシュルレアリスム最初さいしょ文献ぶんけんとして美術家びじゅつかひろまれ、シュルレアリスムの美術びじゅつかいへの波及はきゅうおおきな役割やくわりはたす。これにより瀧口たきぐち日本にっぽんにおけるシュルレアリスムの権威けんいとして、美術びじゅつ批評ひひょうなどで徐々じょじょひろめていく。

1931ねん慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく文学部ぶんがくぶ英文えいぶん卒業そつぎょう

翌年よくねん、PCL映画えいが製作所せいさくしょげん東宝とうほう)に入社にゅうしゃ日本にっぽんはつスクリプター記録きろくがかり)となり、すう年間ねんかんいち労働ろうどうしゃとしてはたらく。

1933ねん山中さんちゅうなま企画きかく開催かいさいした巴里ぱり東京とうきょう新興しんこう美術びじゅつてんにて、はじめてエルンストタンギーミロた。

1935ねんつま綾子あやこ[2]結婚けっこん

1936ねん には瀧口たきぐち修造しゅうぞう中心ちゅうしんとなってなん波田なみたりゅうおこり末松すえまつ正樹まさき大塚おおつかこうらとともにアヴァンギャルド芸術げいじゅつクラブ結成けっせいした。

1937ねんアンドレ・ブルトンポール・エリュアール、ジョルジュ・ユニエらをつうじ、山中さんちゅうなまとともに企画きかくした「海外かいがいちょう現実げんじつ主義しゅぎ作品さくひんてん」を東京とうきょう開催かいさい(のち京都きょうと大阪おおさか名古屋なごや福井ふくい巡回じゅんかい[3]阿部あべ芳文よしふみ画集がしゅう妖精ようせい距離きょり』を発表はっぴょうした。

暗鬱あんうつたる時代じだい戦中せんちゅう終戦しゅうせん[編集へんしゅう]

1938ねん阿部あべ芳文よしふみ永田ながたはじめおさむ今井いまいしげる田中たなか雅夫まさおらとともに前衛ぜんえい写真しゃしん協会きょうかい結成けっせい。『みづゑ』誌上しじょうで「マルセル・デュシャン(調革しらべがわ論理ろんり)」を発表はっぴょう同年どうねんアンドレ・ブルトン制作せいさくの『シュルレアリスム簡約かんやく辞典じてん[4]つま綾子あやこ山中さんちゅうなま下郷しもごうひつじゆう大塚おおつかこう岡本おかもと太郎たろうらととも掲載けいさいされた。同年どうねん戸坂とさかじゅんもとめで『近代きんだい藝術げいじゅつ』(三笠みかさ書房しょぼう)を刊行かんこう

1941ねん3がつ当局とうきょく前衛ぜんえい思想しそう危険きけんされ、シュルレアリスムけい画家がかである福沢ふくさわ一郎いちろうとともに、治安ちあん維持いじほう違反いはん容疑ようぎ特高とっこう逮捕たいほされる。警視庁けいしちょう杉並すぎなみ警察けいさつしょ留置とめおきけ、8ヶ月かげつあいだにわたりシュルレアリスムと国際こくさい共産党きょうさんとう関係かんけい糾問きゅうもんされる(起訴きそ猶予ゆうよのまま同年どうねん11がつ釈放しゃくほう)。この逮捕たいほにより、戦前せんぜん日本にっぽんのシュルレアリスム運動うんどう終息しゅうそくかった。1945ねん5月25にち東京とうきょう最後さいご空襲くうしゅう自宅じたく全焼ぜんしょうし、戦前せんぜん活動かつどうしるしたすべての原稿げんこう文献ぶんけんうしなわれた。敗戦はいせん金沢かなざわ綾子あやこ夫人ふじん実家じっかむかえ「しびれるような解放かいほうかん」をあじわった[5]

戦後せんご[編集へんしゅう]

戦後せんごおも評論ひょうろんとして活躍かつやく実験じっけん工房こうぼう主催しゅさいするとともに、美術びじゅつ評論ひょうろん数多かずおおあらわし、戦前せんぜんつづ旺盛おうせい活動かつどうおこなった。マルセル・デュシャンやアンドレ・ブルトンをはじめとする海外かいがい作家さっかとも交流こうりゅうった。国際こくさい文化ぶんか振興しんこうかい嘱託しょくたくとなる。 1950ねんには植村うえむらたかせんだい江川えがわ和彦かずひこ村井むらいただしまこと阿部あべ展也たつや古沢ふるさわ岩美いわみ小松こまつ義雄よしお岡本おかもと太郎たろう北脇きたわきのぼる福沢ふくさわ一郎いちろうらと日本にっぽんアヴァンギャルド美術家びじゅつかクラブ創立そうりつ参加さんかした。 1951ねんから、神田駿河台かんだするがだいタケミヤ画廊がろう[6]にておおくの企画きかくてん開催かいさいする。タケミヤ画廊がろう画材がざいてん竹見たけみからの提案ていあんけて、会場かいじょう使用しようりょう無料むりょう若手わかて作家さっか発表はっぴょうもうけるものであった。作家さっかのなかには野見山のみやまあきら河原かわはらあつし草間くさま彌生やよいらがいた。池田いけだ満寿夫ますお加納かのうひかりはタケミヤ画廊がろうでデビューをたした。6ねん8ヶ月かげつわた開催かいさいされた展覧てんらんかいは201かいにのぼる。

また、読売よみうりアンデパンダンてん企画きかく運営うんえいにも関与かんよし、当時とうじ新進しんしん芸術げいじゅつ自由じゆう表現ひょうげん提供ていきょうする。これらの活動かつどうなどにより、1950年代ねんだいから1960年代ねんだいにかけて、当時とうじ芸術げいじゅつたまごたちに絶大ぜつだい信頼しんらいける[7]

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

1952ねん国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん運営うんえい委員いいん。1959ねん欠席けっせきした美術びじゅつ評論ひょうろん連盟れんめい総会そうかい会長かいちょうえらばれ、2つとめる。

1958ねん、パリでブルトン訪問ほうもん東京とうきょう画廊がろう山本やまもとたかしかかわった。

1960ねんごろより創作そうさく活動かつどう再開さいかいデカルコマニー制作せいさくおこなった。1965ねん赤瀬あかせ川原平かわらたいの「せんえんさつ裁判さいばん」で特別とくべつ弁護人べんごにんとなる。1966ねん日本にっぽんてん開催かいさいのために来日らいにちしたジョアン・ミロ出会であい、のち共著きょうちょ画集がしゅう『ミロのほしとともに』(1978ねん平凡社へいぼんしゃ)を刊行かんこうした。晩年ばんねん佐谷さや画廊がろう佐谷さや和彦かずひこかかわり、没後ぼつご度々たびたび作品さくひん展示てんじおこなった。

1979ねん心筋梗塞しんきんこうそくのため死去しきょ[8]享年きょうねん75。瀧口たきぐち所持しょじしていた1まんてんおよ美術びじゅつ資料しりょうは、多摩美術大学たまびじゅつだいがくにて瀧口たきぐち修造しゅうぞう文庫ぶんことして保存ほぞんされる。また作品さくひん遺品いひんおおくは富山とやまけん美術館びじゅつかん瀧口たきぐち修造しゅうぞうコレクションとして収蔵しゅうぞうされる。また母校ぼこう慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがくアート・センターないにも、瀧口たきぐち修造しゅうぞうアーカイヴがもうけられ、作品さくひん資料しりょう保存ほぞん公開こうかいされている。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

  • 飯島いいじま耕一こういちは、「瀧口たきぐち修造しゅうぞう仕事しごとは、わば「あるおおきなきょ」にかっての、ちいさな手仕事てしごとによる燔祭であった。(りゃく)「きょ」にかって、とったが、埴谷はにやゆうだかドストエフスキーてきな「きょ」ではなく、ゲルマンてきな「きょ」でもなく、やはりラテンてきな「きょ」であり、わたしはつめたい富山とやま日本海にほんかいながれをも想起そうきするのである」といている[9]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 玉川たまがわかおる へん詩人しじん美術びじゅつ 瀧口たきぐち修造しゅうぞうのシュルレアリスム』瀧口たきぐち修造しゅうぞうてん実行じっこう委員いいんかい、2013ねん5がつ15にち、157ぺーじ 
  2. ^ 画家がか版画はんが瀧口たきぐち綾子あやこ美術びじゅつ文化ぶんか協会きょうかい創立そうりつメンバー
  3. ^ 越中えっちゅうじんたんⅢ』チューリップテレビ、2008ねん、p.85
  4. ^ 『シュルレアリスム簡約かんやく辞典じてんアンドレ・ブルトンポール・エリュアールしる日本語にほんごばん1972ねん江原えばらじゅん わけ 現代げんだい思潮しちょうしんしゃISBN 978-4329001504
  5. ^ 越中えっちゅうじんたんⅢ』 p.85
  6. ^ コトバンク・タケミヤ画廊がろう
  7. ^ 赤瀬あかせ川原平かわらたいはん芸術げいじゅつアンパン』などにくわしい。
  8. ^ 大塚おおつかえいりょう文学ぶんがくしゃ掃苔ろく図書館としょかん』(はら書房しょぼう、2015ねん)132ぺーじ
  9. ^ 飯島いいじま耕一こういち (1991). “ったシュルレアリストの軌跡きせき――瀧口たきぐち修造しゅうぞうのこと”. 週刊しゅうかん読書どくしょじん. 

関連かんれん項目こうもく人物じんぶつ[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]