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どくこう

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どくこう(ひとりかんがえ、英語えいご: Solitary Thoughts)は、江戸えど時代じだい後期こうき女流じょりゅう文学ぶんがくしゃ只野ただの真葛さねかずらによる経世けいせいろん文化ぶんか14ねん1817ねん成立せいりつ真葛さねかずら当時とうじ読本とくほん大家たいか曲亭馬琴きょくていばきんとのあいだに交流こうりゅうまれる契機けいきとなった著作ちょさくである。

どくこう』の執筆しっぴつ

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あか蝦夷えぞ風説ふうせつこう』の著者ちょしゃとしてられる仙台せんだいはん江戸詰えどづめはん工藤くどう平助へいすけ長女ちょうじょであったあやは、実家じっか工藤くどうのため仙台せんだい只野ただのよめしたが、ちち2人ふたりおとうとくしたあと失意しつい日々ひびおくっていた。しかし、2つの和歌わかみちびきとして「さらばこころにこめしことともきしるさばや」とおもち、文化ぶんか12ねん1815ねん)より『どくこう』をきはじめる。文化ぶんか14ねん12月1にち西暦せいれき1818ねん1がつ7にち)に3かんしょ完成かんせいさせた。『どくこう末尾まつびには、「文化ぶんかじゅうよんねん十二月じゅうにがついちにちじゅうさいにてしるす あやごと真葛さねかずら」の署名しょめいがある。

よく文政ぶんせい元年がんねん12月には『どくこう』にみずからじょいている。ついでは、

此書すべて、けんたいのこころなく過言かごんがちなり、其故(そのゆえ)は、をくだり、たることをいとふは、にあるひとうえなりけり

からきはじめており、このしょが、謙虚けんきょでへりくだった文体ぶんたいではかれておらず、いいすぎているところがおおいことを率直そっちょくみとめ、その理由りゆうとして、出過ですぎることなく謙譲けんじょう姿勢しせいしめすのは、このきるひと都合つごうによるものだと説明せつめいする。つづけて、自分じぶんが35さい生涯しょうがいわりとめてみちのく仙台せんだいくだったのは、これが死出しでみちとの覚悟かくごあってのことなのだから、自分じぶん心情しんじょうのわからない他人たにんから、どのようなそしりをけようといたくもかゆくもない。また、このしょにく誹謗ひぼうするひとおそれるるにりない。わがくにひとびとが、自己じこ利益りえきのみにき、異国いこく脅威きょういおもいをせることもなく、くに浪費ろうひについても関心かんしんで、自身じしんのためにのみかねくるってあらそっているさまが、自分じぶんにはなげかわしいのであって、そのために、自分じぶんひとにくまれるのはもとより承知しょうちのことであり、これをわきまえてこころしてんでほしいとつづ[1][2]本書ほんしょ執筆しっぴつする意図いと宣言せんげんしている。

馬琴ばきんとの交流こうりゅう

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滝沢たきざわ馬琴ばきんていあと井戸いど
東京とうきょう千代田ちよだきゅうだん坂下さかした

文政ぶんせい2ねん1819ねん2がつ下旬げじゅん真葛さねかずら自著じちょどくこう』と手紙てがみたばおさむ江戸えど在住ざいじゅういもうとはぎあまたくし、当時とうじ最大さいだい人気にんき作家さっかである曲亭馬琴きょくていばきんとどけさせた。内容ないよう添削てんさく出版しゅっぱん依頼いらいであった。戯作げさくしゃである馬琴ばきんたよったのは、『とはずがたり』によれば「『此文をかゝるにんせよ』と、不動尊ふどうそんしめし」があったからだとされる[3]。しかし、53さい馬琴ばきん宛先あてさきが「馬琴ばきんさま」とのみあること、差出人さしだしにんも「みちのくの真葛さねかずら」としるすだけで身元みもとなどもかれていない手紙てがみおこった。紹介しょうかいじょうもなく、はじめて手紙てがみした相手あいてに、いきなり批評ひひょう依頼いらいしたことにたいし、馬琴ばきんはらてて使用人しようにんのふりをしてあずかったという[4]。ところが、馬琴ばきんは『どくこう』を一読いちどくしてみて、「婦女子ふじょしにはいとにげなき経済けいざいのうへをろんぜしは、むらさきおんなきよしにもちまさりて、おとこだましひある」[5] と、当時とうじ女性じょせいぶんとしては稀少きしょうなことに、修身しゅうしんひとし治国ちこくろんじた経世済民けいせいさいみんしょであることに感嘆かんたん[4]従来じゅうらいそうしてきたようにただちに添削てんさく依頼いらい拒絶きょぜつするのではなく、さしあたって、戯作げさくしゃとしての筆名ひつめい親書しんしょ宛名あてなとしたこと、身元みもとなども説明せつめいしないままに添削てんさくとうたのむことは非礼ひれいにあたらないかという詰問きつもん返事へんじいて、再訪さいほうしたはぎあまたくした[4]

真葛さねかずらは、馬琴ばきん返事へんじけるや素直すなお非礼ひれい謝罪しゃざいし、みずからの身分みぶんや『どくこう執筆しっぴつ動機どうきなどをつづった手紙てがみや『七種ななくさのたとへ』などの作品さくひんおくった。これらは、『むかしばなし』や『とはずがたり』として馬琴ばきん編著へんちょどくこうあまりろん』に収載しゅうさいされている。真葛さねかずらしめした誠意せいい恭順きょうじゅん態度たいど馬琴ばきん満足まんぞくし、また、みずからも武士ぶし出身しゅっしんである馬琴ばきん真葛さねかずら工藤くどうおも心情しんじょうにも共感きょうかんして、以後いごはぎあま仲介ちゅうかいしゃとして真葛さねかずらとの文通ぶんつうをつづけた[6]

馬琴ばきんからの手紙てがみ真葛さねかずらのもとにとどいたのは、やく1かげつ3がつすえころであった。その手紙てがみは、いえぐべきおとうと2人ふたりともくし、血縁けつえんしゃとしてははぎあましかのこされていない真葛さねかずら境遇きょうぐうに「いかなるまがつかみのわざにや、いといたましくこそおもたてまつれ」としんから同情どうじょう[7]真葛さねかずらはぎあま姉妹しまいが、ちち平助へいすけやその生家せいか長井ながいをあらわすためにしんわせていることを「たれかはかんたてまつらざるべき」と感嘆かんたんし、さらに、「をうなにして、をのこだましひましますなるべし」つまり、老女ろうじょでありながら男子だんしたましいをもっていると真葛さねかずららを賞賛しょうさんしている[6]。ただし、『どくこう』には体制たいせい批判ひはん公儀こうぎ朝廷ちょうていたいする批判ひはんなど当時とうじ禁忌きんきにふれる箇所かしょもあり、また、当時とうじ出版しゅっぱん事情じじょうからいってもすべてを出版しゅっぱんできるかどうかはむずかしいとべ、しかし、写本しゃほんによって後世こうせいつたえる方法ほうほうもあるとべ、さらに、そのためにも『どくこう』の一部いちぶをみずからの随筆ずいひつ玄同げんどう放言ほうげん』にせて真葛さねかずらひろめる一助いちじょにしたいむねしるされていた。末尾まつびには馬琴ばきんさく短歌たんか2しゅまでえられており、好意こういてきといってよい内容ないようであった。

真葛さねかずらは、自分じぶんひろめたほうがよいというのならばと、仙台せんだいでのききをまとめた『奥州おうしゅう奈志』と前年ぜんねん8がつあらわした、宮城みやぎぐん七ヶ浜しちがはまたびしたときの紀行きこうぶん『いそづたひ』を馬琴ばきんのもとにとどけさせている[6]

こうして馬琴ばきん真葛さねかずら交流こうりゅうはつづいたが、真葛さねかずらがそれとなく校閲こうえつ催促さいそくする手紙てがみおくると、馬琴ばきん一転いってんして態度たいど硬化こうかさせ、『どくこう』のほとんどすべてに猛烈もうれつ反駁はんばくくわえた『どくこうろん』をき、手元てもといていた『どくこう』とともに真葛さねかずらおくりつけて絶交ぜっこうした。多忙たぼうなはずの馬琴ばきん20日はつかほどもついやして『どくこう』をえるりょうの『どくこうろん』をげたのであった。文政ぶんせい2ねん11月24にち西暦せいれき1820ねん1がつ9にち)のことであった。

これにたいし、真葛さねかずら礼物れいもつとともに丁重ていちょう礼状れいじょうをしたためておくり、よく文政ぶんせい3ねん1820ねん)2がつ馬琴ばきんより礼状れいじょうおくられて、返礼へんれい書簡しょかんおくったのち、たがいに手紙てがみのやりりは途絶とだえた[8][9][10]。こうして、2人ふたり交流こうりゅうやく1ねんわった。

どくこう』の思想しそう

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3つの疑問ぎもん、3つのねが

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只野ただの真葛さねかずらちょどくこう(ひとりかんがへ)』は、彼女かのじょ長年ながねん疑問ぎもんかんじてきたこと、彼女かのじょ長年ながねんねがいをそれぞれ3つずつげることからはじめている。3つの疑問ぎもんとは

  1. つきのおほきさのたがふごと」…つきおおきさがひとによってぼんほどにおおきくえたり、猪口ちょこのようにちいさくえたりするのはどうしてか
  2. 「わざをぎのおんなのふるまい」…現実げんじつにはおんなおとこよりつつましくうのがよいとされるのに、俳優はいゆう女形おんながた表現ひょうげんする女性じょせいぞうはそれとはおおきくことなるのはなぜか
  3. わらわいえをさはがすこと」…わらわくだおんな)のために家内かない騒動そうどうがおこるのはどうしてか

であった。このような素朴そぼく疑問ぎもんを、他者たしゃたずねても、それぞれ、せいである、芝居しばいだから、よくあること、というふうに簡単かんたんかたづけられるのがつねであった[11] が、「そのもといかなるゆえぞ」というふうに物事ものごと根本こんぽん原理げんりかんがえながら、自分じぶんひとりでねばづよかんがえていくうちに、それにはふかいわけがあるということにおもいいたり、ようやく納得なっとくすることができたとしている[12]。そのふかいわけは、のちの立論りつろん根拠こんきょとなっている。

3つのねがいとは、

  1. おんなほんとならばや」…9さいのときから女性じょせい手本てほんになりたいとつよねがっていた
  2. 「さとりとうんことのゆかしき」…かんせいだった母方ははかた祖母そぼ桑原くわばらやよさとりをひらいたといてこころひかれるおもいがしたこと
  3. ひとのゑきとならばや」…おさないころよりひとびとのえきになりたいというねがいをもっていたが、どうしたらよいのかずっとからずにいた

というものであった[13]

天地てんち拍子ひょうし

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真葛さねかずら宇宙うちゅうかんとして独特どくとくなものに、上述じょうじゅつの「天地てんち拍子ひょうし」がある。これは、のぞみをたくしたおとうとみなもと四郎しろう儒教じゅきょうほうじてひとしよしのっとったかたをしたにもかかわらず、なぜにそれがむくわれなかったのかを自分じぶんなりに納得なっとくできるまで思索しさくすることをやめなかったためにまれてきた概念がいねんである[11]

しんがり」の経験けいけんによって世界せかいのなかに存在そんざいするとさとった[11]天地てんちのあいだになにかしら脈打みゃくうつあるしゅリズム、これを真葛さねかずらは「天地てんち拍子ひょうし」とづける。「天地てんち拍子ひょうし」があり、一昼夜いっちゅうやかずがある。真葛さねかずらは、このふたつこそが絶対ぜったい不動ふどうのものであるとし、きよしほう儒教じゅきょう道徳どうとく)にそむいているとおもわれるひとときめくこともあれば、真面目まじめまもっていても一向いっこうもちいられないこともあるのは、そのひとが「天地てんち拍子ひょうし」にうまく適合てきごうしたかかということである、とかんがえる[14]

ふつきょうひじりみちも、ともひとつくりたるいちほうにして、おのづからなるものならず。うごかぬものは、めぐる日月じつげつと、昼夜ちゅうやかずと、うわきたる拍子ひょうしなり。

真葛さねかずらは、儒教じゅきょう仏教ぶっきょうも、この宇宙うちゅう解釈かいしゃくするひとつの哲学てつがくぎず、自明じめいなものでも絶対ぜったいてきなものでもないとかんがえる。そして、人力じんりきのおよばない不変ふへん不動ふどう絶対ぜったいなものは、ときながれと「うわきたる拍子ひょうし」があるだけだとするのである[14]。そして、儒教じゅきょうおしえによってしんしばられた人間にんげんは、むしろそのぶん天地てんち拍子ひょうし」におくれ、かえって「よろしからぬいのじるとゆるひとは、拍子ひょうしをはづさぬ」から、おしえにしばられないひと愚人ぐじんけてしまうのだとする。そして、「天地てんち拍子ひょうし」はくににより、また時代じだいによりことなる「きたる拍子ひょうし[15] であり、「唐国からくにほう」(儒教じゅきょう)は日本にっぽん拍子ひょうしわないゆえに、そのような齟齬そごまれるのだと主張しゅちょうする[16]

勝負しょうぶ論理ろんり」と「仁義じんぎ

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天地てんち拍子ひょうし」とならんで真葛さねかずら独特どくとく自然しぜんかんとして「勝負しょうぶ」の論理ろんりがある。

およそ天地てんちあいだまるるものしんのゆくかたちは、かちまけをあらそうなりとぞおもわるる。とりけものちゅうにいたるまでもかちまけをあらそわぬものなし。

これは、自然しぜんかいを「闘争とうそう」とみなすものであり、当時とうじ支配しはいてきであった朱子学しゅしがく自然しぜんかんのような、自然しぜんかい静的せいてき調和ちょうわてきなものとするかんがかたとはおおいにことなる[17]。こうした自然しぜんかんにもとづいて彼女かのじょ当時とうじ教育きょういく方法ほうほうれいかかげながら人間にんげん本性ほんしょう勝負しょうぶあらそうものであるとし、「かりそめのたわむれ」も勝負しょうぶきそほうたのしく、きそわなければ「いさみなし」であるとして、遊戯ゆうぎにおける実感じっかんによって持論じろん補強ほきょうしている[18]

勝負しょうぶあらそう」本質ほんしつもっと顕著けんちょにあらわれる博打ばくちは、公儀こうぎによってきびしく禁止きんしされているが、真葛さねかずらは、ほうによってそのような本性ほんしょう抑圧よくあつすることはかならずしも有効ゆうこうではなく、むしろ、「ほう」が強圧きょうあつてきでありすぎるならば「勝負しょうぶあらそう」人間にんげん本性ほんしょうそれ自体じたいによってくつがえされることさえあるとしている[19]。ここにおいて、ほうは「あみふくろ」に、人間にんげん本性ほんしょうは「くろがね」に例示れいじされ、「いつかはさびにそこねられて、あみのやぶれんことのあるもやせん」としている。

このような観点かんてんから、真葛さねかずらは、領主りょうしゅの「ひとし」とはたんに人民じんみん慈悲じひをほどこすことではなく、「ひとのためによきわざをざん」すこと、つまり、実際じっさいひと救済きゅうさいしうる有効ゆうこう施策しさく立案りつあんし、実行じっこうすることであるとして徳治とくじ主義しゅぎ疑問ぎもんていする[20]。また、「よし」というもののしん状態じょうたい内省ないせいするならば、「むねにあつめてつよくはる、ぞくにいうかんしゃくなり」と結論けつろんされ、よいことるのを「よし」といい、わることるのを「暴」といって、のうえでは善悪ぜんあく区別くべつはあっても人体じんたいのなかにあってはおなしんのありようだと主張しゅちょうする[20]。このような「仁義じんぎ」の理解りかいも、当時とうじにあっては独自どくじなものであった[21]

天地てんち拍子ひょうし」と「勝負しょうぶ論理ろんり」を総合そうごうすると、為政者いせいしゃ社会しゃかい人間にんげんまさしくみちびくためには「かちまけをあらそう」人間にんげん本性ほんしょうすえたうえで「天地てんち拍子ひょうし」に合致がっちした有効ゆうこう方法ほうほう追求ついきゅうしていかなくてはならない、ということになる[22]

経済けいざい思想しそう

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真葛さねかずらは、貨幣かへい経済けいざい急速きゅうそく浸透しんとうした当時とうじ社会しゃかいを「金銀きんぎんあらそしん乱世らんせい」と表現ひょうげんした[23]真葛さねかずらによれば、町人ちょうにん日々ひび物価ぶっかをつりげて商品しょうひん品質ひんしつげることをかんがえ、農民のうみん年々ねんねん年貢ねんぐ削減さくげん企図きとしており、武士ぶしは、この「しん乱世らんせい」では百姓ひゃくしょうからも町人ちょうにんからも攻撃こうげきけている[23]。とりわけ町人ちょうにんちから強大きょうだいであり、はん財政ざいせいだい商人しょうにんからの借金しゃっきんによってまかなうよりほかない状況じょうきょうおちいっている[24]。しかし武士ぶしたちはかれた状況じょうきょうをおよそ自覚じかくすることなく、さほどつよ危機ききかんをいだいていない。真葛さねかずらは、それを武家ぶけ、とりわけ領主りょうしゅちか立場たちばからいきどおりをもってながめていたのである[25][26]

真葛さねかずらは、現状げんじょう武士ぶし農民のうみん町人ちょうにんがそれぞれの身分みぶんにもとづいて金銀きんぎんをめぐってあらそう「だい乱心らんしん」であるとなしており[27]、その金銀きんぎんは「けいみことじんのもとにあつまる」としている[26][28]金銀きんぎんを「けいみことむ」のは「かねおもとし、やつとなしてわたる」町人ちょうにん身分みぶんにほかならない[26]たしかに、廻船かいせん改良かいりょうくわえた河村かわむらみずほのき事績じせきられるように、真葛さねかずらは、町人ちょうにんたちがるためにさかんに創意そうい工夫くふうくわえることのあることをみとめないわけではない[26]。しかし、みずのきにしたところでひとおとしいれてこと有利ゆうりはこんだこともあるとのことであるから、風潮ふうちょう、なかんずく町人ちょうにん一般いっぱんてき行動こうどう様式ようしきは「ひとたおしてわれまん」というものであろう[26]。しかし、世界せかいは「ひとよかれ、もよかれ」と一同いちどうおもえるような社会しゃかいへと転換てんかんしなければならないと彼女かのじょ主張しゅちょうする[29]

このような利己りこ主義しゅぎにもとづいた経済けいざい至上しじょう主義しゅぎ商品しょうひん品質ひんしつ低下ていかまねいており、「正直しょうじき」をむねとする日本にっぽん古来こらいおしえがすたれてしまっていると真葛さねかずらは歎く[30]。たとえば、かみ品質ひんしつえて低落ていらくしており、使用しようえなくなっているし、江戸えど幕府ばくふよりロシア使節しせつアダム・ラクスマンおくられた箱入はこいタバコはこうえにだけ上等じょうとうめられ、そのしためられていたのは品質ひんしつのわるいだったという[30]使節しせつわらってこれをてたとの評判ひょうばんだが、「ひとたおしてわれまん」の風潮ふうちょうは、ここにいたって対外たいがいてきあなどりをけるほどとなっており、真葛さねかずらは、これを日本にっぽん恥辱ちじょくであると憂慮ゆうりょしているのである[31]。そして、町人ちょうにんのみならず、このような事態じたい放置ほうちする為政者いせいしゃもわるいと批判ひはんしている[31]

真葛さねかずらは、皇室こうしつ近衛このえ使つかって金融きんゆういとなみ、利子りしをきびしくてて返済へんさいをせまり、ひとびとをくるしめているという風評ふうひょうき、本来ほんらいあるべき姿すがたからかけはなれており、「けがらわしきことならずや」といきどおっている。また、先祖せんぞ事績じせきってつのみで、貨幣かへいがどのようにながうごいているのかをとらえようともせず、柔弱にゅうじゃく生活せいかつおくって官位かんい昇進しょうしんだけをねが将軍しょうぐんにも批判ひはんくわえている[32]

ひとよかれ、もよかれ」と一同いちどうおもえるような社会しゃかいをめざした真葛さねかずらは、アダムのちちキリル・ラクスマン政府せいふ高官こうかんであると同時どうじ建具たてぐビードロ商売しょうばいをしているとき、そうした政治せいじ商人しょうにんねるようなありかた提唱ていしょうしている[33]武士ぶしが「町人ちょうにんとりこ」となっている状況じょうきょう憂慮ゆうりょする彼女かのじょは、「金銀きんぎんあらそ」において町人ちょうにんとの闘争とうそうつには、武士ぶしみずから積極せっきょくてき商業しょうぎょうにたずさわることが必要ひつようなのであり、武士ぶしが「君子くんしにしてあきなう」ならば、「一身いっしんさかえ」のみをねが町人ちょうにんことなり、不当ふとう利益りえきをむさぼることもなく、また、貿易ぼうえきによって国富こくふ増大ぞうだいさせることさえ可能かのうであり、「ひとよかれ、もよかれ」のちかづけるのではないかとして解決かいけつさく模索もさくしているのである[34]

政治せいじ思想しそう

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真葛さねかずらはロシアの制度せいどについて、

ヲロシアこくのさだめには、うらやましくぞおもはるゝ。国王こくおう一向いっこうむねのごとくなり。ひとのからをおさむてらめくものはかくあれど、いちむねあらそうことなし。国王こくおうには、ものたてまつらばやと、国人くにびとねがいふとぞ。しょ歴々れきれき役人やくにん供人ともびとをつれず、国王こくおうのみにんほど供人ともびと添たり。しんにまかせて市中しちゅう歩行ほこうゆう

べている。つまり、国王こくおう浄土真宗じょうどしんしゅう教主きょうしゅのような存在そんざいであり、このようなありかたは、ひとつの宗教しゅうきょうによって人心じんしん統一とういつされて闘争とうそうしあう人間にんげん本性ほんしょう抑制よくせいさせる有効ゆうこう手立てだてとなっており、国王こくおう高官こうかん多数たすう供回ともまわりをひきつれることなく市井しせい観察かんさつできるので、世情せじょうにもつうじ、そのため適切てきせつ施策しさくこうじられうることをうらやましいとかんがえている[35]。また、彼女かのじょは「にすぐれたるにんしんは、もののついえをいとうにある」とし、幕府ばくふ昌平しょうへいざか学問がくもんしょしょはん藩校はんこうもうけられた「聖堂せいどう」について、「この御堂みどうのわざはこがねたからをいやしむるほう」であるゆえに、「ついえ」を指向しこうしており、ここに莫大ばくだい金銀きんぎんとうじて整備せいびするのは浪費ろうひを諫める孔子こうし意図いとにもはんすると主張しゅちょうする[36]

むしろ、聖堂せいどう御堂みどうは、政治せいじ討論とうろんとすべきであり、参加さんかしゃ武士ぶし身分みぶん限定げんていせずに「くにのついえをうれいおもうものしりじん」にも開放かいほうし、憂国ゆうこくじょうをいだく知識ちしきじんならだれでも「私心ししんをさりつくして」かたい、「天地てんちあいだ拍子ひょうし」に合致がっちする「日本にっぽんこくえき」について討論とうろんすること、また、その門前もんぜんにははこいて「賤をえらまず」意見いけんべることのできるようにすべきものとし、幅広はばひろ階層かいそうからの政治せいじ参加さんかすすめるべきことを主張しゅちょうしている[36]

真葛さねかずらは、ロシアのじゅうしょう主義しゅぎてき君民くんみん一致いっちてき制度せいどやありかた日本にっぽん危機ききてき現状げんじょう打開だかいする活路かつろいだし[37]、ロシアではそれが実現じつげんにうつされているようであることを「うらやましく」おもってはいるが、そのいっぽうで国家こっかとしてのロシアが他国たこく国民こくみんにどのようにたいしているかについては、その動向どうこうをしっかり見極みきわめようとしていた[38]仙台せんだいりょう漁民ぎょみん太夫たゆう[39] らのわか宮丸みやまる漂流ひょうりゅうみん送還そうかん問題もんだいでのロシアの対応たいおうなどは、仙台せんだいはんでも上層じょうそう家臣かしんしかりえない秘事ひめごとであったが、こうした問題もんだい適切てきせつ対処たいしょする必要ひつようがあることを真葛さねかずら認識にんしきしていたものとおもわれる[40]

結婚けっこんかん

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真葛さねかずら自身じしんは2結婚けっこん経験けいけんしたが、いずれもいえのためであり、おやねがいによるものであった。しかし、そのような観念かんねんてき結婚けっこんかんは、初婚しょこん失敗しっぱいおとうとみなもと四郎しろうとその工藤くどう転変てんぺんなど、真葛さねかずら自身じしんりかかった現実げんじつによってくつがえされた[41]おっと死後しごは「なにのためにまれづらん」とまでおもいつめるようになったのは上述じょうじゅつのとおりである。文化ぶんか13ねん1816ねん)『真葛さねかずらがはら』巻末かんまつおさめられた『あやしのふであと』では、身分みぶんことなる男女だんじょ純粋じゅんすい愛情あいじょうにもとづいて結婚けっこんしようと行動こうどうすることにつよ共感きょうかんし、それをこうとするおや周囲しゅういたいいかりのこえをあげている[42]

真葛さねかずらのこのような実感じっかんは、ロシアの婚姻こんいん制度せいどたいする見聞けんぶんによってもささえられている。

つまどいすべきよわいとなれば、めあわせんとおもう男女だんじょてらにともないゆきて、まずおとこ方丈ほうじょうのもとによびて、「あれなるおんなをそのほう一生いっしょうつれそうつまぞとさだめんや、もしおもうところあるや」とときに、おとこのこたえをきていなやをさだめて、またおんなをもよびてまえのごとくいあきらめて、おなこころなれば夫婦ふうふとなす。さてそとこころあらば、男女だんじょともに重罪じゅうざいなりとぞ。またおのづからひとりにこころさだまらぬ若人わこうどもありとぞ。それはつまをさだめずして、よきひとおんなもしばしたわむれのごとくおおじんせしめ、そのなかしんのあいしじんをいもせとさだむとなん。

真葛さねかずらは、このようにべて、ロシアではたがいに相手あいて意思いし直接ちょくせつ確認かくにんしあうことによって結婚けっこん成立せいりつし、それゆえ不倫ふりん男女だんじょともに重罪じゅうざいであり、ひとりの相手あいてしんさだまらない若者わかものたいしてはしんつう結婚けっこん相手あいて選択せんたくする機会きかい社会しゃかい慣習かんしゅうとしてつくられていることを「うらやまし」としている[43][44]

異国いこくかん

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真葛さねかずらは、ヨーロッパを「五穀ごこくともしく文字もじよこなすこく」とんでいる。西洋せいようじん懐中時計かいちゅうどけい携帯けいたいしながら行動こうどうすることをもってりょうとし、日本人にっぽんじんはそれにくらべて時間じかんにルーズであるとべている[45]。また、西洋せいようじん肉食にくしょくをするため、短命たんめいではあるが30さいだい・40さいだいをさかりにすえ考慮こうりょするため「さとしじゅつ」にすぐれ、また、「くにひろひとまれ」であることは「ものかんがえるのにきち」であるのにたいし、日本人にっぽんじん穀物こくもつおおしょくするため、長命ちょうめいではあるが「くにせまくひとおおければ」すえかんがえることがすくなく、ひとさづけるものもとぼしく、さとしじゅつめんでは西洋せいようじんにくらべおとっているともべている[45]

女性じょせい思想しそう

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国生こくしょう神話しんわえがいた絵画かいが小林こばやしひさし

上述じょうじゅつのように、真葛さねかずらは9さいのとき「おんなほんとならばや」と決意けついしたが、それは同時どうじに「おんなひとにしたがうもの」という当時とうじ通念つうねん支配しはいてき言説げんせつにしたがってきることでもあった[46]。その姿勢しせいは、おっと只野ただの行義ゆきよしにあてた手紙てがみに「これよりはいくひさしく奉公ほうこうもうこう」としるしたり、婚家こんか生活せいかつについても、『とはずがたり』のなかで「こくふうたがえず、ことにいえほうかたくまもりてやぶらず」とべたりしているところから、基本きほんてきには変化へんかがなかったものとかんがえられる[47]。しかし、その姿勢しせいつらぬとおすことについては精神せいしんてきいたみをともなった。おく女中じょちゅう奉公ほうこうでは「ひとりづとめ」の心得こころえ仕事しごとにあたること、また、仙台せんだいおっと留守るすまも結婚けっこん当初とうしょらしのなかではこうはちすあま手本てほんとすることなど、「おんなほん」となるためのみち模索もさくしつづけた[46]

そして、なぜおんなひとにしたがわなければならないのかについて思索しさくをめぐらせた[48]。この疑問ぎもんたいするこたえとして真葛さねかずらがヒントにしたのは『古事記こじき』における国生こくしょう神話しんわであった[49]。そこでは、男神おかみイザナギが「わがはなりなりてなりあまりしところひとところあり」、女神めがみイザナミが「わがはなりなりてなりあわざるところひとところあり」とたがいに自分じぶん身体しんたいてき特徴とくちょうべあうくだりがある。これによって真葛さねかずらは、「このひとなまはじめしとき身内みうちたずねてあまりしとさとしゆるはおとこらぬとさとしゆるはおんななり」という観念かんねん獲得かくとくし、こうした身体しんたいてき差異さいしんのありかた左右さゆうするものだととらえる[49]

具体ぐたいてきには、禅僧ぜんそう修行しゅぎょうのためきり陰茎いんけいり)することを女性じょせいならば「いさぎよい」とかんじるであろうが、男性だんせいはたまらないであろうし、女性じょせいへび侵入しんにゅうするのを男性だんせいなんともおもわないだろうが女性じょせいのよだつおもいがする。俳優はいゆう女形おんながた仕草しぐさかたちや言葉ことばづかいが女性じょせいのようであっても、現実げんじつ女性じょせいけっしてよろこばないような行動こうどうをとるのは、身体しんたいてき差異さい由来ゆらいするしんのありようが実際じっさい女性じょせいとはことなるからだとかんがえる[50]。そしてまた、「才智さいちのおとりまさることはあるとも、なべてつねしんに、あまれりとおもおとこに、らずとおぼゆるおんなの、いかでつべき」としるし、つねしん余裕よゆうをもつ男性だんせいたいし、つね心理しんりてき不全ふぜんかんをかかえた女性じょせい結局けっきょくかなうものではないとして「おんなひとにしたがうもの」というかんがかた根拠こんきょ以上いじょうべたような身体しんたいせいもとめるのである[51]

しかしながら、真葛さねかずらは、

孔子こうしきよし女子じょし小人こどもわがらずとのたまえりしとかや。われも女子じょしなり。いざそのひじりのしらせたまわぬほどを、さてさるさめ。

として、女性じょせいとしての自分じぶん立場たちば語調ごちょうつようったえる。そして、女子じょし小人こどもあつかいがたいとしる孔子こうしをして「しんとどかぬ」とべ、みずからの教化きょうか不足ふそくたなにあげて女子じょし小人こどもるにらないと見下みくだすところが一番いちばんじんれやすいと手厳てきびしく批判ひはんする[52]。そして、儒教じゅきょう道徳どうとくは、表向おもてむきのかざ道具どうぐであり、門外もんがいくべきものなのであって、「道具どうぐがぶきよう」なため怪我けがをすることがあるから、「家事かじ」にはもちいるべきではないとする[53]。さらに、

このくだりは無学むがくほうなる女心おんなごころより、きよしほうすいくさしんなり。…にいきいきとしたる愚人ぐじんばらは、とおむかしのよそこくひじりのことは、むずかしときつけず、聖人せいじん味方みかたするほどのおとこづらは、いけすかぬと、わかきおんなどもはにくむべし。よしおんなにはすかれずとも、いづくまでもひじりしんざしは、さにあらずとおしかかるともがらもあるべし。そのかちれつ人々ひとびときずきにこそあらめ。ひじりつことあるまじけれど、聖上せいじょうひとたいかたちからよわあわし。したひとはなべて力強ちからづよければ、いち勝負しょうぶしてみたきこころいきあらんか。

として「無学むがくほう女心おんなごころ」から「きよしほう」(儒教じゅきょう道徳どうとく)への闘争とうそう意志いし表明ひょうめいしている[54]

また、「身内みうちをたずねてあまれりらずとおもうをもてかんがえうれば、ひとしんというものはかげしょとしてはえわたるものなりけり」とべ、人間にんげん心理しんりにあるものは陰部いんぶであるとする[55]。さらに彼女かのじょ性行為せいこういを「男女だんじょあいうわざ」と表現ひょうげんし、「しんほんをすりあわせてけをあらそう」ものだとし、「あいうわざ」をふくむ恋路こいじにおいては男性だんせいも「よわおんなになげらるることあり」として男女だんじょ勝敗しょうはいかならずしも一方いっぽうてきではないとしている[55]

このように真葛さねかずらは、いったんは女性じょせい従属じゅうぞくせいみとめながらも、あいあらそ人間にんげん本性ほんしょうというてんでは男女だんじょともに同等どうとうであり、また、恋路こいじにおいては、とらわれのない女性じょせいほうつこともある[56] として、家父長制かふちょうせいてき儒教じゅきょうおしえや規範きはんことていし、また、儒教じゅきょう道徳どうとくにおけるぜん無力むりょくせい指摘してきすることで、そのような規範きはんにとらわれずに自由じゆう自分じぶん意思いし実行じっこううつせる「しもひと」あるいは「無学むがくほうなるおんな」が勝利しょうりする可能かのうせいろんじているのである[57]

馬琴ばきんの『どくこう批判ひはん

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真葛さねかずらいもうとはぎあま(拷子)をかいして添削てんさく依頼いらいした『どくこう(ひとりかんがへ)』にたいし、曲亭馬琴きょくていばきんは『どくこうろん』をあらわして、独学どくがくにもとづく臆断おくだんおおいとして徹底的てっていてき批判ひはんした。『どくこうろん』には『論語ろんご』など四書ししょ多数たすう引用いんようされているが、婦人ふじん対象たいしょうにしたものであるとして引用いんようする漢籍かんせき四書ししょ(『論語ろんご』・『孟子もうし』・『大学だいがく』・『中庸ちゅうよう』)に限定げんていしており、そのむねを『どくこうろん』のなかでことわっている。

天地てんち拍子ひょうし」と「勝敗しょうはい論理ろんり」について

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まず、真葛さねかずらとなえる「天地てんち拍子ひょうし」にたいして馬琴ばきんは「みずかかんがたりとおもうは、おさなし。およそしょをよむほどのものは、だれもよくしれることなり」として完全かんぜん否認ひにんする。馬琴ばきんは、「天地てんち拍子ひょうし」を雅楽ががく神楽かぐら基準きじゅんとして理解りかいし、「天地てんち拍子ひょうし」にくに時代じだいによる遅速ちそくがあるわけではなく、「人気にんき」(世俗せぞく)のありようで変化へんかがあるようにかんじられるだけであるとする。儒学じゅがくしゃが「からくに」の拍子ひょうしをうつすため、日本にっぽん拍子ひょうしわないという『どくこう』の見解けんかい否定ひていし、学者がくしゃ聖賢せいけんが「天地てんち拍子ひょうし」にわないのは当時とうじ世俗せぞくのせいであるとのろん展開てんかいする[58]

馬琴ばきんはまた、真葛さねかずらの「しんがり」の体験たいけんを「さとり」とはみとめない。「さとりはまなびてのちにつべし。まだまなばずかずしてさとるのは聖人せいじんのみ」として、彼女かのじょが「まなばずしてられ」たというのであれば、それは「さとり」などではなく「慢心まんしんやまいのわざ」であるとして、真葛さねかずら展開てんかいしたろんはすべて「ひがこと」(あいだちがい)であるとする[59]

さらに、『どくこう』における「勝敗しょうはい論理ろんり」については、人間にんげん勝負しょうぶあらそうのは「天性てんせいにあらず、みなよくよりこるなり」として人間にんげん本性ほんしょうぜんとし、欲望よくぼうおさえてぜんがあらわれるようつとめることによって人間にんげん道徳どうとくてきかたまれるとし、「勝敗しょうはい論理ろんり」を「らんまねく」ものであるとして性善説せいぜんせつ立場たちばから危険きけんする。真葛さねかずらにとって「ひとし」とは「ひとのためによきわざをのこす」ということであったが、それを馬琴ばきんは「じんじんにあら」ざる「婦人ふじんじん」であるとし、彼女かのじょ道徳どうとくろんはすべて善悪ぜんあく正邪せいじゃ区別くべつ混乱こんらんさせるものであると断罪だんざいする[60]

真葛さねかずら政治せいじ経済けいざい思想しそうについて

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経済けいざいろんたいしては、「婦女子ふじょしにはいとにげなき経済けいざいのうへをろんぜしは、むらさきおんなきよしにもちまさりて、おとこだましひある」とべ、「忠信ちゅうしん一議いちぎ」であるとして、女性じょせいである真葛さねかずら経済けいざいろんずることを「いとめずらかなり」と評価ひょうかする。しかし、結局けっきょくは「まつとがめて、ほんおもわざるのまよい也」として本末転倒ほんまつてんとう議論ぎろんであると主張しゅちょうする[61]

馬琴ばきんは、領主りょうしゅ窮乏きゅうぼう社会しゃかい体制たいせい危機ききであるとはとらえない。武家ぶけ町人ちょうにん百姓ひゃくしょう対立たいりつけがたいものではなく、むしろ領主りょうしゅによる仁政じんせいによって調和ちょうわしうるものとなしており[29]みんむことは領主りょうしゅむことにほかならないのだから、物価ぶっか騰貴とうき責任せきにん町人ちょうにんそうとする真葛さねかずら所論しょろん間違まちがいであるとする[29]

また、真葛さねかずら指摘してきした「さとしじゅつ」における西洋せいようじん優秀ゆうしゅうせい馬琴ばきんみとめるが、「さとしじゅつけて、そのよわいながからざる」は「禽獣きんじゅうにちかければなり」とべ、それは「くにおさをととのえ、みんおしえる」ものではないとして、「国家こっか要領ようりょうとくにあるのみ」として、「さとしじゅつ」ではなく「徳行とっこう」こそが政治せいじにとっては至上しじょう価値かちをもつという道徳どうとく主義しゅぎ立脚りっきゃくする[62]

このような立場たちばって、馬琴ばきん真葛さねかずら着目ちゃくもくした「君子くんしにしてあきなう」政治せいじ経済けいざいろん否定ひていする。馬琴ばきん大義名分たいぎめいぶんろんてき立場たちばからすれば「士農工商しのうこうしょう」の身分みぶん秩序ちつじょ和漢わかんつうじて不変ふへん制度せいどであり、ロシアにおいて「大臣だいじん」がしょう工業こうぎょうにたずさわるのは、食糧しょくりょうとぼしく貿易ぼうえきたよらざるをない「えみしのくに」だからだとする[62]。そして、真葛さねかずらとなえるように制度せいど改変かいへんによって危機きき打開だかいするのではなく、あくまでも為政者いせいしゃ徳行とっこう教化きょうかによってこそ、ただし、あらそいをめっすることができるとろんじ、民衆みんしゅう政治せいじ参加さんか否認ひにんする[63]

真葛さねかずら女性じょせい思想しそうについて

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真葛さねかずら孔子こうし批判ひはんについては、馬琴ばきんはほとんど拒否きょひ反応はんのうちかいものである[54]。『どくこうろん』では「まなばずうことなき婦人ふじんなんどの、経済けいざいをあげつらい、聖教せいきょうあなどらば、だれりてほんとすらん」とべ、馬琴ばきんへんの『どくこう抄録しょうろく』では真葛さねかずらろんを「いたく孔子こうしなじり、じゅうあきらあざけい、孟子もうしをそしりたり」と要約ようやくしている[54]。そして、聖賢せいけんおしえをあげつらうことなどは、むしろあなどりを国外こくがいまねくような行為こういであり、到底とうてい承伏しょうふくできないむねしるしている[64]

絶交ぜっこうじょう

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馬琴ばきんはまた、「おさなきよりおんなほんにならんとて、よろづをこころがけられしはだいいちのあやまりなり」とべ、真葛さねかずらが9さいのとき女性じょせい手本てほんとなろうと決心けっしんしたことをそもそもの間違まちがいであると主張しゅちょうし、「しんがり」の体験たいけんについては「みなあだごとにて、ひとつもたらず。識者しきしゃにはわらわるべし」とべ、「かくてそのさとしによりて、じゅうねんをしらば、これしんのさとりなり」として、真葛さねかずら50ねん生涯しょうがいみとめれば、それこそ「しんのさとり」であるとべた[9]

馬琴ばきんは、このように『どくこうろん』をめくくって、えた手紙てがみには「をとこをみなのまじりは、かしらのゆきふゆはなあやまりつゝ、ひともやとがめん」としるし、男女だんじょ交流こうりゅう老年ろうねんであっても誤解ごかいまねくおそれがあるむねべたうえで、著述ちょじゅつ生業せいぎょう時間じかんをとられること、また、おもうところあって旧友きゅうゆうとも疎遠そえんにしていることをして[65]真葛さねかずらとのまじわりは「これをかぎりとおぼしめされよ」[5]絶交ぜっこう意思いしげている。

馬琴ばきんの『どくこう評価ひょうか

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馬琴ばきんは、『どくこう』をはじめて一読いちどくしたときの印象いんしょうを「むらさきおんなきよしにもちまさりて、おとこだましひある」とべ、女性じょせい経済けいざいろんじるのは平安へいあん時代じだい紫式部むらさきしきぶ清少納言せいしょうなごんにまさって「おとこだましひ」あると評価ひょうかしたのは上記じょうきとおりである。また、「ふみのきざま尊大そんだいにて…そのせつどものよきわろきはとまくかくまれ、婦人ふじんにはおおがたき見識けんしきあり。ただ惜むべきことは、まことのみちをしらざりける。不学ふがく不問ふもんしんとしてろうじ(ろんじ)つけたるものなれば、かたはらいたきことおおかり。はじめよりたまこうて、飽(あく)までみがかれなば、かのれんじょうあたいにおとらぬまでになりぬべき。そのたまをしも、玉鉾たまぼこのみちのくにうめ(うづ)みぬることよとおもへば、いまさらにてがたきこゝろあり」[5] ともしるし、「おおがたき見識けんしき」があり、みがけばひかたまであるとべながら「まことのみちをしらざりける」ことをしんでいる。

「まことのみち」とは、狭義きょうぎには儒教じゅきょう道徳どうとくであるが、広義こうぎには「しん学問がくもんてき方法ほうほうろん」であるとかんがえられる[66]。「れんじょうあたいれんじょうの璧)」とは、中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだい故事こじにおける、はたあきらじょうおうりょうにある15のしろ交換こうかん入手にゅうしゅしようとした宝玉ほうぎょくのことをしており、これは、真葛さねかずらたいするきわめてたか評価ひょうかといえる[66]。しかし、馬琴ばきんは『どくこうろん』を「教訓きょうくんむねとして」いたとべており、真葛さねかずらたいしては当時とうじ知識ちしきじん常識じょうしきともいうべき学問がくもん王道おうどう、もののかんがかた筋道すじみちおしえようとしたのであって、真葛さねかずら対等たいとう論争ろんそう相手あいてなしていない[67]。また、「ふみのきざま尊大そんだい」とあるように、自分じぶんあての気安きやす依頼いらい手紙てがみしや、ほんきょ宣長のりなが賀茂真淵かものまぶちにさほど敬意けいいをはらわずに文章ぶんしょう拍子ひょうしはやおそさをろんじたり、儒教じゅきょう道徳どうとくについてころもせぬ批判ひはん展開てんかいしているてん尊大そんだいさをかんじていたようで[68]、「高慢こうまんはなをひしぎしにぞ」[5] ともしるしている。

真葛さねかずらのおうな」によれば、文政ぶんせい3ねん(1820ねんはる、『どくこうろん』をおくった馬琴ばきんのもとに真葛さねかずらはぎあま手紙てがみせられた[5]はぎあま手紙てがみいかりのにじむものであった[69] が、真葛さねかずらからの手紙てがみは、

おんいとまなきふゆに、ふみやどものせめたてまつはるのもうけのわざをすらよそにして、こうながながしきことをつづりて、おしえみちびたまわせし、こころのほどあらわれて、かぎりもないしあわせにこそはべれ。なおながきに、このめぐみをかえしたてまつるべし

という丁重ていちょうなものであった[70]

馬琴ばきんが、『どくこう』の出版しゅっぱんむずかしいかもしれないが写本しゃほんによる方法ほうほうがあると真葛さねかずらあての手紙てがみしるしたとき、『どくこう』の写本しゃほんを「こころあるひと」にせれば、「じゅうにんさんにん」はそれを書写しょしゃするであろうとべている[71]実際じっさい馬琴ばきん自身じしんも『どくこう』をうつした[72] うえで『どくこうろん』をあらわしている。そして、『どくこうろん』のすうねん文政ぶんせい8ねん(1825ねん10月1にちに『真葛さねかずらのおうな』を発表はっぴょうしているが、それは、真葛さねかずらくなったやく半年はんとしのことであった。『真葛さねかずらのおうな』のなかでは、みずからの『どくこうろん』(『どくこう批判ひはん)について、「ひとしんをもてするに、いかりをおそれていさめざらんは、交遊こうゆうにあらず」と弁明べんめいしている。

馬琴ばきんが、真葛さねかずらったのはよく文政ぶんせい9ねん1826ねん)のことであった。松島まつしま知人ちじんたのんで消息しょうそくたずねたが、くなったあとであった[73]馬琴ばきんはこれをなげいて、「けん老女ろうじょ癇症かんしょういよいよはなはだしく、つひに黄泉よみおもむきしといふ。はじめて其訃をきき嘆息たんそくにたへず、記憶きおくためめこゝにしるす」という一文いちぶんをのこしている(『著作ちょさくどう雑記ざっき文政ぶんせい9ねん4がつ7にちじょう[10][73]

こののち馬琴ばきんは、天保てんぽう3ねん1832ねん)ごろには真葛さねかずらの『奥州おうしゅう奈志』や『いそづたひ』に奥書おくがきしる[74]天保てんぽう13ねん1842ねん)にはみずからの代表だいひょうさくとなった『南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでんきゅう輯(完結かんけつ)の「かいがいあまふで」にも真葛さねかずらと『どくこう』など彼女かのじょ著作ちょさく紹介しょうかいするぶん掲載けいさいしている[10]。かつては、その博学はくがく卓越たくえつした文章ぶんしょうりょくによって徹底てっていした批判ひはんくわえた[75]どくこう』であったが、馬琴ばきん胸中きょうちゅうにはながく『どくこう』とその筆者ひっしゃ只野ただの真葛さねかずらのことはのこつづけたのである。

どくこう』の底本ていほんについて

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どくこう』については、真葛さねかずら馬琴ばきんおくったほんそのものはのこっていない。また、完本かんぽんかたちではのこっておらず、ことなる3ほん現存げんそんしている。

1つは『どくこう抄録しょうろく』3かんで、これは、よしみひさし年間ねんかん文政ぶんせい2ねん11月4にちおくきの木村きむら所蔵しょぞう写本しゃほん転写てんしゃしたものだというれがある。木村きむらによるものとおもわれる「婦女ふじょふでにしては、丈夫じょうふ慙愧ざんきせしむるごとしょあらはせり。尋常じんじょうおんなにはあらずと歎美たんびす」とのみがあり[76]、また、原本げんぽん誤字ごじ・かなまちがいを訂正ていせいしたうえで筆写ひっしゃしたという文化ぶんか2ねんことわきがある。文化ぶんか2ねんことわきは馬琴ばきんのものとかんがえられるので、もともとは馬琴ばきん書写しょしゃしたもののながれをむものとかんがえられる[77][78]現在げんざい一般いっぱんに『どくこう』として紹介しょうかいされるのは、この『どくこう抄録しょうろく』をもとにしている。

2ほんめは、只野ただのきゅうぞう自筆じひつほん『ひとりかんがへ』であるが、大正たいしょう年間ねんかん刊行かんこうのため東京とうきょうはこんでいたものが、関東大震災かんとうだいしんさいさい焼失しょうしつしてしまったものである。内容ないようは『どくこう抄録しょうろく上巻じょうかんとほぼおなじである[77] が、『どくこう抄録しょうろく』にはない「すいつまること」という一文いちぶんがある。鈴木すずきよねによれば、この真葛さねかずら自筆じひつほんは、真葛さねかずら馬琴ばきんおくった『どくこう』の原型げんけいにあたるものである可能かのうせいたか[79]自筆じひつほんうしなわれてしまったが、中山なかやま栄子えいこによるはつ本格ほんかくてき伝記でんき只野ただの真葛さねかずら』(1936ねん昭和しょうわ11ねん刊行かんこう巻末かんまつ翻刻ほんこく掲載けいさいされている[80]

3ほんは、真葛さねかずらが『どくこう』に追加ついかしたいとして馬琴ばきんとの文通ぶんつう開始かいしされたのちに馬琴ばきんおくったものがあり[80]、これは『どくこう追加ついか』とばれ、馬琴ばきん筆写ひっしゃほん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんにのこされている[79]

どくこう』の評価ひょうか

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馬琴ばきん著作ちょさくぶつつうじて真葛さねかずらふるくからられていたが、真葛さねかずら著作ちょさく江戸えど明治めいじりょう時代じだいつうじて刊行かんこうされなかったこともあり、明治めいじ以降いこう真葛さねかずら言及げんきゅうした著作ちょさくがみられた[81] ものの、断片だんぺんてきないし不正確ふせいかく言及げんきゅうにとどまり、真葛さねかずら著作ちょさくらないものがおおかった[81]

そうしたなかで、上述じょうじゅつ中山なかやま英子えいこはやくから『どくこう』に注目ちゅうもくしたひとりであり、中山なかやま真葛さねかずらを「女性じょせい解放かいほう先駆せんくしゃ」と評価ひょうかしている[81]

しば桂子けいこは、1969ねん昭和しょうわ44ねん)、江戸えど時代じだい女性じょせい著作ちょさくひろ渉猟しょうりょうして『江戸えど時代じだいおんなたち』を刊行かんこうした。そのなかでしばは、真葛さねかずらを「哲学てつがくしゃであり、思想家しそうかであり、社会しゃかい改良かいりょう」であるとしている。しばはまた『ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1994ねん11月)「只野ただの真葛さねかずらこうのなかで、真葛さねかずらを「体系たいけいてき学問がくもんをしたわけではないが、国学こくがく儒学じゅがく蘭学らんがくなどのうえに独自どくじ思想しそうきずいていった」としるし、『どくこう』については、「かたよりもあるが、江戸えど女性じょせいになる社会しゃかい批判ひはんしょであり、女性じょせい解放かいほうさけしょとして評価ひょうかできよう」としている[82]1977ねん昭和しょうわ52ねん)に刊行かんこうされた『人物じんぶつ日本にっぽん女性じょせい10 江戸えど女性じょせいせいきかた』では、杉本すぎもと苑子そのこが「滝沢たきざわみちと只野ただの真葛さねかずら」のなかで『どくこう』を「ユニーク」で「大胆だいたんな」「文明ぶんめい批評ひひょう」とひょうしている[83]。また、大口おおぐち勇次郎ゆうじろうは、真葛さねかずらは「両性りょうせい肉体にくたい差異さいせい確認かくにんすることをつうじて」「才知さいちめんにおける両性りょうせい対等たいとう関係かんけい主張しゅちょう」したと指摘してきしている[84]

かど玲子れいこは、1998ねんの『江戸えど女流じょりゅう文学ぶんがく発見はっけん』のなかで、真葛さねかずら馬琴ばきんのやりりを「ここで江戸えど後期こうきのすぐれた男女だんじょ文学ぶんがくしゃが、全力ぜんりょくでぶつかりあって、火花ひばならしたのをみるようにおもう」[85]べ、真葛さねかずらの『どくこう』と馬琴ばきんの『どくこうろん』を比較ひかくしている。それによれば、真葛さねかずらどくこう』は、馬琴ばきん指摘してきするように「不学ふがく不問ふもんしんとし」たもので、あくまで真葛さねかずら自身じしん独創どくそうてき議論ぎろんであり、自問自答じもんじとうしながらたどたどしく考察こうさつし、既成きせいのことばをもちいないことから、晦渋かいじゅう部分ぶぶんふくまれる[85] のにたいし、馬琴ばきんどくこうろん』は「儒教じゅきょうてき教養きょうようをもつ作家さっか堂々どうどうとした反論はんろん[66] であり、文章ぶんしょうはきわめて明晰めいせきであり、曖昧あいまいさも晦渋かいじゅうさもそこにはみられない[66] としており、馬琴ばきん立場たちばかんがえを擁護ようごしながら「もし真葛さねかずら儒学じゅがくまなんでいたら、もっとらくいきがつけたのではないだろうか」[86]いかけるいっぽう、「真葛さねかずらだれをもとせず、儒仏じゅぶつがくまなばず、まったくのひとまなびでこの著作ちょさくきあげた。だからこそ、その独創どくそうてきなういういしい思索しさくが、教養きょうようちからによってみとられずにのこされたともかんがえられる」[73]考察こうさつしている。

また、「肉体にくたい思想しそう」という概念がいねんもちいて『どくこう』を評価ひょうかしたのは鈴木すずきよねであった[81]かど玲子れいこも、せいしんどころとする真葛さねかずら発想はっそうについて「フロイトのリビドーを連想れんそうさせて、興味深きょうみぶかい」[87] としている。

経済けいざい思想しそうについては、戦前せんぜんすでに白柳しらやなぎ秀湖しゅうこが「彗星すいせいてき婦人ふじん比較ひかく観察かんさつ 女流じょりゅう経済けいざいろんしゃ工藤くどう綾子あやこ」(1914ねん、『淑女しゅくじょほう』3-9)、および「天明てんめいだい飢饉ききん工藤くどう綾子あやこ」(1934ねん、『伝記でんき』2-1)をあらわしており、経済けいざいろんしゃとしての側面そくめん注目ちゅうもくされている[88]せき民子たみこは、未熟みじゅくではあるものの王権おうけん神授しんじゅせつじゅうしょう主義しゅぎ政策せいさくなどによって体制たいせい危機きき克服こくふくしようという絶対ぜったい君主くんしゅせい志向しこう内包ないほうしているてん評価ひょうかしている[89]

ひとたおしてわれまん」の風潮ふうちょうは、現代げんだい社会しゃかい経済けいざい状況じょうきょうとも無関係むかんけいではない。「ひとよかれ、もよかれ」という真葛さねかずらうったえは現代げんだいにもつうそこするねがいであるとして新聞しんぶんコラムにも掲載けいさいされた[90]

どくこう』にたいする国際こくさいてき関心かんしん

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どくこう』については、近年きんねん国際こくさいてきにも関心かんしんせられている。2009ねん12月には台湾たいわん国立こくりつ政治せいじ大学だいがくにおいて、国際こくさいシンポジウム女性じょせい消費しょうひ歴史れきし記憶きおく」がひらかれたさい筑波大学つくばだいがく大学院だいがくいん特別とくべつ研究けんきゅういんきむまなぶじゅんによって「只野ただの真葛さねかずらあずか曲亭馬琴きょくていばきんてき儒學じゅがくあずかたい異國いこくてき認知にんち-以《どくこうあずかどくこうろんちゅう認知にんちてき差異さいためれい」(日本語にほんご: 「只野ただの真葛さねかずら曲亭馬琴きょくていばきん儒学じゅがく異国いこくへのまなざし -『どくこう』と『どくこうろん』における認識にんしき差異さいとおして- 」)の報告ほうこくがあった(コメンテーターさとしあきらひがし吳大学くれだいがく日本語にほんご文学ぶんがくけいじょ教授きょうじゅ[91]

どくこう』の英訳えいやく2001ねんになされた。以下いか訳書やくしょがある(5めいによるともやく)。

  • Solitary Thoughts:"A Translation of Tadano Makuzu's Hitori Kangae," trans. Janet R. Goodwin, Bettina Gramlich-Oka , Elizabeth A. Leicester, Yuki Terazawa, and Anne Walthall, Monumenta Nipponica 56:1 (2001), 56:2 (2001).[92]

なお、飜訳しゃのうちのアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくのBettina Gramlich-Oka(おかベティーナ)は、2006ねん只野ただの真葛さねかずら研究けんきゅうしょ"Thinking Like a Man:Tadano Makuzu (1763-1825)"をあらわしている[93]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ もん(1998)p.185
  2. ^ せき(2008)p.192-193
  3. ^ せき(2008)p.193
  4. ^ a b c せき(2008)p.193-194
  5. ^ a b c d e 曲亭馬琴きょくていばきん真葛さねかずらのおうな」(『うさぎえん小説しょうせつ所収しょしゅう
  6. ^ a b c せき(2008)p.194-195
  7. ^ せき(2008)p.251-252
  8. ^ もん(1998)p.201-202
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出典しゅってん

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関連かんれん文献ぶんけん

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  • 中山なかやま秀子ひでこ只野ただの真葛さねかずら丸善まるぜん仙台せんだい支店してん、1936ねん
  • しば桂子けいこ江戸えど時代じだいおんなたち』評論ひょうろんしんしゃ、1969ねん
  • 大口おおぐち勇次郎ゆうじろう女性じょせいのいる近世きんせい』勁草書房しょぼう、1995ねん10がつISBN 4326651857
  • かど玲子れいこ『わが真葛さねかずら物語ものがたり 江戸えど女性じょせい思索しさくしゃ探訪たんぼう藤原ふじわら書店しょてん、2006ねん3がつISBN 4894345056
  • 小谷おたに喜久江きくえ江戸えど後期こうきにおける武家ぶけ女性じょせいかた女子じょし教育きょういくめんからのいち考察こうさつ―』2006ねん5がつ15にち、マッコーリ大学だいがく学位がくい論文ろんぶん
  • Gramlich-oka, Bettina"Thinking Like a Man:Tadano Makuzu (1763-1825)" Brill Academic Pub<Brill's Japanese Studies Library>,2006/05. ISBN 9789004152083

外部がいぶリンク

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