『独 どく 考 こう 』 (ひとりかんがえ、英語 えいご : Solitary Thoughts )は、江戸 えど 時代 じだい 後期 こうき の女流 じょりゅう 文学 ぶんがく 者 しゃ 只野 ただの 真葛 さねかずら による経世 けいせい 論 ろん 。文化 ぶんか 14年 ねん (1817年 ねん )成立 せいりつ 。真葛 さねかずら と当時 とうじ の読本 とくほん の大家 たいか 曲亭馬琴 きょくていばきん とのあいだに交流 こうりゅう が生 う まれる契機 けいき となった著作 ちょさく である。
『赤 あか 蝦夷 えぞ 風説 ふうせつ 考 こう 』の著者 ちょしゃ として知 し られる仙台 せんだい 藩 はん 江戸詰 えどづめ の藩 はん 医 い 工藤 くどう 平助 へいすけ の長女 ちょうじょ であったあや子 こ は、実家 じっか 工藤 くどう 家 か のため仙台 せんだい の只野 ただの 家 か へ嫁 よめ したが、父 ちち と2人 ふたり の弟 おとうと を亡 な くしたあと失意 しつい の日々 ひび を送 おく っていた。しかし、2つの和歌 わか を導 みちび きとして「さらば心 こころ にこめしこと共 とも を書 か きしるさばや」と思 おも い立 た ち、文化 ぶんか 12年 ねん (1815年 ねん )より『独 どく 考 こう 』を書 か きはじめる。文化 ぶんか 14年 ねん 12月1日 にち (西暦 せいれき 1818年 ねん 1月 がつ 7日 にち )に3巻 かん の書 しょ に完成 かんせい させた。『独 どく 考 こう 』末尾 まつび には、「文化 ぶんか 十 じゅう 四 よん 年 ねん 十二月 じゅうにがつ 一 いち 日 にち 五 ご 十 じゅう 五 ご 歳 さい にて記 しる す あや子 こ 事 ごと 真葛 さねかずら 」の署名 しょめい がある。
翌 よく 文政 ぶんせい 元年 がんねん 12月 には『独 どく 考 こう 』にみずから序 じょ を書 か いている。序 ついで は、
此書すべて、けんたいのこころなく過言 かごん がちなり、其故(そのゆえ)は、身 み をくだり、過 か たることをいとふは、世 よ にある人 ひと の上 うえ なりけり
から書 か きはじめており、この書 しょ が、謙虚 けんきょ でへりくだった文体 ぶんたい では書 か かれておらず、い過 いす ぎているところが多 おお いことを率直 そっちょく に認 みと め、その理由 りゆう として、出過 です ぎることなく謙譲 けんじょう の姿勢 しせい を示 しめ すのは、この世 よ に生 い きる人 ひと の都合 つごう によるものだと説明 せつめい する。つづけて、自分 じぶん が35歳 さい を生涯 しょうがい の終 お わりと決 き めてみちのく仙台 せんだい の地 ち に下 くだ ったのは、これが死出 しで の道 みち との覚悟 かくご あってのことなのだから、自分 じぶん の心情 しんじょう のわからない他人 たにん から、どのような謗 そし りを受 う けようと痛 いた くもかゆくもない。また、この書 しょ を憎 にく み誹謗 ひぼう する人 ひと は恐 おそれ るるに足 た りない。わが国 くに の人 ひと びとが、自己 じこ の利益 りえき のみに生 い き、異国 いこく の脅威 きょうい に思 おも いを寄 よ せることもなく、国 くに の浪費 ろうひ についても無 む 関心 かんしん で、自身 じしん のためにのみ金 かね に狂 くる って争 あらそ っているさまが、自分 じぶん には嘆 なげ かわしいのであって、そのために、自分 じぶん が人 ひと に憎 にく まれるのはもとより承知 しょうち のことであり、これをわきまえて心 こころ して読 よ んでほしいと綴 つづ り[ 1] [ 2] 、本書 ほんしょ を執筆 しっぴつ する意図 いと を宣言 せんげん している。
滝沢 たきざわ 馬琴 ばきん 邸 てい 跡 あと 井戸 いど 東京 とうきょう 都 と 千代田 ちよだ 区 く 九 きゅう 段 だん 坂下 さかした
文政 ぶんせい 2年 ねん (1819年 ねん )2月 がつ 下旬 げじゅん 、真葛 さねかずら は自著 じちょ 『独 どく 考 こう 』と手紙 てがみ ・束 たば 修 おさむ を江戸 えど 在住 ざいじゅう の妹 いもうと 萩 はぎ 尼 あま に託 たく し、当時 とうじ 最大 さいだい の人気 にんき 作家 さっか である曲亭馬琴 きょくていばきん に届 とど けさせた。内容 ないよう は添削 てんさく と出版 しゅっぱん の依頼 いらい であった。戯作 げさく 者 しゃ である馬琴 ばきん を頼 たよ ったのは、『とはずがたり』によれば「『此文をかゝる人 にん に見 み せよ』と、不動尊 ふどうそん の御 ご しめし」があったからだとされる[ 3] 。しかし、53歳 さい の馬琴 ばきん は宛先 あてさき が「馬琴 ばきん 様 さま 」とのみあること、差出人 さしだしにん も「みちのくの真葛 さねかずら 」と記 しる すだけで身元 みもと なども書 か かれていない手紙 てがみ に怒 おこ った。紹介 しょうかい 状 じょう もなく、初 はじ めて手紙 てがみ を出 だ した相手 あいて に、いきなり批評 ひひょう を依頼 いらい したことに対 たい し、馬琴 ばきん は腹 はら を立 た てて使用人 しようにん のふりをして預 あず かったという[ 4] 。ところが、馬琴 ばきん は『独 どく 考 こう 』を一読 いちどく してみて、「婦女子 ふじょし にはいとにげなき経済 けいざい のうへを論 ろん ぜしは、紫 むらさき 女 おんな 清 きよし 氏 し にも立 た ちまさりて、男 おとこ だましひある」[ 5] と、当時 とうじ の女性 じょせい の文 ぶん としては稀少 きしょう なことに、修身 しゅうしん や斉 ひとし 家 か 、治国 ちこく を論 ろん じた経世済民 けいせいさいみん の書 しょ であることに感嘆 かんたん し[ 4] 、従来 じゅうらい そうしてきたように直 ただ ちに添削 てんさく 依頼 いらい を拒絶 きょぜつ するのではなく、さしあたって、戯作 げさく 者 しゃ としての筆名 ひつめい を親書 しんしょ の宛名 あてな としたこと、身元 みもと なども説明 せつめい しないままに添削 てんさく 等 とう を頼 たの むことは非礼 ひれい にあたらないかという詰問 きつもん の返事 へんじ を書 か いて、再訪 さいほう した萩 はぎ 尼 あま に託 たく した[ 4] 。
真葛 さねかずら は、馬琴 ばきん の返事 へんじ を受 う けるや素直 すなお に非礼 ひれい を謝罪 しゃざい し、みずからの身分 みぶん や『独 どく 考 こう 』執筆 しっぴつ の動機 どうき などを綴 つづ った手紙 てがみ や『七種 ななくさ のたとへ』などの作品 さくひん を送 おく った。これらは、『昔 むかし ばなし』や『とはずがたり』として馬琴 ばきん 編著 へんちょ 『独 どく 考 こう 餘 あまり 論 ろん 』に収載 しゅうさい されている。真葛 さねかずら の示 しめ した誠意 せいい と恭順 きょうじゅん な態度 たいど に馬琴 ばきん も満足 まんぞく し、また、みずからも武士 ぶし 出身 しゅっしん である馬琴 ばきん は真葛 さねかずら の工藤 くどう 家 か を思 おも う心情 しんじょう にも共感 きょうかん して、以後 いご 、萩 はぎ 尼 あま を仲介 ちゅうかい 者 しゃ として真葛 さねかずら との文通 ぶんつう をつづけた[ 6] 。
馬琴 ばきん からの手紙 てがみ が真葛 さねかずら のもとに届 とど いたのは、約 やく 1か月 げつ 後 ご の3月 がつ 末 すえ ころであった。その手紙 てがみ は、家 いえ を継 つ ぐべき弟 おとうと を2人 ふたり とも亡 な くし、血縁 けつえん 者 しゃ としては萩 はぎ 尼 あま しか残 のこ されていない真葛 さねかずら の境遇 きょうぐう に「いかなるまがつ神 かみ のわざにや、いといたましくこそ思 おも い奉 たてまつ れ」と心 しん から同情 どうじょう し[ 7] 、真葛 さねかずら と萩 はぎ 尼 あま の姉妹 しまい が、父 ちち 平助 へいすけ やその生家 せいか 長井 ながい 家 か の名 な をあらわすために心 しん を合 あ わせていることを「たれかは感 かん じ奉 たてまつ らざるべき」と感嘆 かんたん し、さらに、「をうなにして、をのこだましひましますなるべし」つまり、老女 ろうじょ でありながら男子 だんし の魂 たましい をもっていると真葛 さねかずら らを賞賛 しょうさん している[ 6] 。ただし、『独 どく 考 こう 』には体制 たいせい 批判 ひはん や公儀 こうぎ ・朝廷 ちょうてい に対 たい する批判 ひはん など当時 とうじ の禁忌 きんき にふれる箇所 かしょ もあり、また、当時 とうじ の出版 しゅっぱん 事情 じじょう からいってもすべてを出版 しゅっぱん できるかどうかは難 むずか しいと述 の べ、しかし、写本 しゃほん によって後世 こうせい に伝 つた える方法 ほうほう もあると述 の べ、さらに、そのためにも『独 どく 考 こう 』の一部 いちぶ をみずからの随筆 ずいひつ 『玄同 げんどう 放言 ほうげん 』に載 の せて真葛 さねかずら の名 な を世 よ に広 ひろ める一助 いちじょ にしたい旨 むね が記 しる されていた。末尾 まつび には馬琴 ばきん 作 さく の短歌 たんか 2首 しゅ まで添 そ えられており、好意 こうい 的 てき といってよい内容 ないよう であった。
真葛 さねかずら は、自分 じぶん の名 な を広 ひろ めた方 ほう がよいというのならばと、仙台 せんだい でのききをまとめた『奥州 おうしゅう 波 は 奈志』と前年 ぜんねん の8月 がつ に著 あらわ した、宮城 みやぎ 郡 ぐん 七ヶ浜 しちがはま を旅 たび したときの紀行 きこう 文 ぶん 『いそづたひ』を馬琴 ばきん のもとに届 とど けさせている[ 6] 。
こうして馬琴 ばきん と真葛 さねかずら の交流 こうりゅう はつづいたが、真葛 さねかずら がそれとなく校閲 こうえつ を催促 さいそく する手紙 てがみ を送 おく ると、馬琴 ばきん は一転 いってん して態度 たいど を硬化 こうか させ、『独 どく 考 こう 』のほとんどすべてに猛烈 もうれつ な反駁 はんばく を加 くわ えた『独 どく 考 こう 論 ろん 』を書 か き、手元 てもと に置 お いていた『独 どく 考 こう 』とともに真葛 さねかずら に送 おく りつけて絶交 ぜっこう した。多忙 たぼう なはずの馬琴 ばきん は20日 はつか ほども費 つい やして『独 どく 考 こう 』を越 こ える量 りょう の『独 どく 考 こう 論 ろん 』を書 か き上 あ げたのであった。文政 ぶんせい 2年 ねん 11月24日 にち (西暦 せいれき 1820年 ねん 1月 がつ 9日 にち )のことであった。
これに対 たい し、真葛 さねかずら は礼物 れいもつ とともに丁重 ていちょう な礼状 れいじょう をしたためて送 おく り、翌 よく 文政 ぶんせい 3年 ねん (1820年 ねん )2月 がつ 、馬琴 ばきん より礼状 れいじょう を送 おく られて、返礼 へんれい の書簡 しょかん を送 おく ったのち、互 たが いに手紙 てがみ のやり取 と りは途絶 とだ えた[ 8] [ 9] [ 10] 。こうして、2人 ふたり の交流 こうりゅう は約 やく 1年 ねん で終 お わった。
只野 ただの 真葛 さねかずら 著 ちょ 『独 どく 考 こう (ひとりかんがへ)』は、彼女 かのじょ が長年 ながねん 疑問 ぎもん に感 かん じてきたこと、彼女 かのじょ の長年 ながねん の願 ねが いをそれぞれ3つずつ挙 あ げることから書 か き始 はじ めている。3つの疑問 ぎもん とは
「月 つき のおほきさのたがふ事 ごと 」…月 つき の大 おお きさが見 み る人 ひと によって盆 ぼん ほどに大 おお きく見 み えたり、猪口 ちょこ のように小 ちい さく見 み えたりするのはどうしてか
「わざをぎの女 おんな のふる舞 まい 」…現実 げんじつ には女 おんな は男 おとこ より慎 つつ ましく振 ふ る舞 ま うのがよいとされるのに、俳優 はいゆう が女形 おんながた で表現 ひょうげん する女性 じょせい 像 ぞう はそれとは大 おお きく異 こと なるのはなぜか
「妾 わらわ の家 いえ をさはがす事 こと 」…妾 わらわ (下 くだ す女 おんな )のために家内 かない に騒動 そうどう がおこるのはどうしてか
であった。このような素朴 そぼく な疑問 ぎもん を、他者 たしゃ に尋 たず ねても、それぞれ、眼 め の性 せい である、芝居 しばい だから、よくあること、というふうに簡単 かんたん に片 かた づけられるのが常 つね であった[ 11] が、「そのもといかなるゆえぞ」というふうに物事 ものごと の根本 こんぽん 原理 げんり を考 かんが えながら、自分 じぶん 独 ひと りで粘 ねば り強 づよ く考 かんが えていくうちに、それには深 ふか いわけがあるということに思 おも いいたり、ようやく納得 なっとく することができたとしている[ 12] 。その深 ふか いわけは、のちの立論 りつろん の根拠 こんきょ となっている。
3つの願 ねが いとは、
「女 おんな の本 ほん とならばや」…9歳 さい のときから女性 じょせい の手本 てほん になりたいと強 つよ く願 ねが っていた
「さとりと云 うん ことのゆかしき」…癇 かん 性 せい だった母方 ははかた の祖母 そぼ 桑原 くわばら やよ子 こ が悟 さと りを開 ひら いたと聞 き いて心 こころ ひかれる思 おも いがしたこと
「人 ひと のゑきとならばや」…幼 おさな いころより人 ひと びとの益 えき になりたいという願 ねが いをもっていたが、どうしたらよいのかずっと分 わ からずにいた
というものであった[ 13] 。
真葛 さねかずら の宇宙 うちゅう 観 かん として独特 どくとく なものに、上述 じょうじゅつ の「天地 てんち の拍子 ひょうし 」がある。これは、望 のぞ みを託 たく した弟 おとうと 源 みなもと 四郎 しろう が儒教 じゅきょう を奉 ほう じて仁 ひとし と義 よし に則 のっと った生 い き方 かた をしたにもかかわらず、なぜにそれが報 むく われなかったのかを自分 じぶん なりに納得 なっとく できるまで思索 しさく することをやめなかったために生 う まれてきた概念 がいねん である[ 11] 。
「心 しん の抜 ぬ け上 あ がり」の経験 けいけん によって世界 せかい のなかに存在 そんざい するとさとった[ 11] 、天地 てんち のあいだに何 なに かしら脈打 みゃくう つある種 しゅ のリズム 、これを真葛 さねかずら は「天地 てんち の拍子 ひょうし 」と名 な づける。「天地 てんち の拍子 ひょうし 」があり、一昼夜 いっちゅうや の数 かず がある。真葛 さねかずら は、このふたつこそが絶対 ぜったい 不動 ふどう のものであるとし、聖 きよし の法 ほう (儒教 じゅきょう 道徳 どうとく )に背 そむ いていると思 おも われる人 ひと が時 とき めくこともあれば、真面目 まじめ に守 まも っていても一向 いっこう に世 よ に用 もち いられないこともあるのは、その人 ひと が「天地 てんち の拍子 ひょうし 」にうまく適合 てきごう したか否 ひ かということである、と考 かんが える[ 14] 。
仏 ふつ の教 きょう も聖 ひじり の道 みち も、共 とも に人 ひと の作 つく りたる一 いち の法 ほう にして、おのづからなるものならず。動 うご かぬものは、めぐる日月 じつげつ と、昼夜 ちゅうや の数 かず と、浮 うわ きたる拍子 ひょうし なり。
真葛 さねかずら は、儒教 じゅきょう も仏教 ぶっきょう も、この宇宙 うちゅう を解釈 かいしゃく するひとつの哲学 てつがく に過 す ぎず、自明 じめい なものでも絶対 ぜったい 的 てき なものでもないと考 かんが える。そして、人力 じんりき のおよばない不変 ふへん 不動 ふどう の絶対 ぜったい なものは、時 とき の流 なが れと「浮 うわ きたる拍子 ひょうし 」があるだけだとするのである[ 14] 。そして、儒教 じゅきょう の教 おし えによって心 しん を縛 しば られた人間 にんげん は、むしろその分 ぶん 「天地 てんち の拍子 ひょうし 」に遅 おく れ、かえって「よろしからぬ振 ふ る舞 ま いの交 ま じると見 み ゆる人 ひと は、拍子 ひょうし をはづさぬ」から、教 おし えに縛 しば られない人 ひと や愚人 ぐじん に負 ま けてしまうのだとする。そして、「天地 てんち の拍子 ひょうし 」は国 くに により、また時代 じだい により異 こと なる「生 い きたる拍子 ひょうし 」[ 15] であり、「唐国 からくに の法 ほう 」(儒教 じゅきょう )は日本 にっぽん の拍子 ひょうし に合 あ わないゆえに、そのような齟齬 そご が生 う まれるのだと主張 しゅちょう する[ 16] 。
「天地 てんち の拍子 ひょうし 」とならんで真葛 さねかずら 独特 どくとく の自然 しぜん 観 かん として「勝負 しょうぶ 」の論理 ろんり がある。
およそ天地 てんち の間 あいだ に生 う まるる物 もの の心 しん のゆくかたちは、勝 かち まけを争 あらそ うなりとぞ思 おも わるる。鳥 とり けもの虫 ちゅう にいたるまでもかちまけをあらそわぬものなし。
これは、自然 しぜん 界 かい を「闘争 とうそう の場 ば 」とみなすものであり、当時 とうじ 支配 しはい 的 てき であった朱子学 しゅしがく の自然 しぜん 観 かん のような、自然 しぜん 界 かい を静的 せいてき で調和 ちょうわ 的 てき なものとする考 かんが え方 かた とはおおいに異 こと なる[ 17] 。こうした自然 しぜん 観 かん にもとづいて彼女 かのじょ は当時 とうじ の教育 きょういく 方法 ほうほう を例 れい に掲 かか げながら人間 にんげん の本性 ほんしょう は勝負 しょうぶ を争 あらそ い合 あ うものであるとし、「かりそめのたわむれ」も勝負 しょうぶ を競 きそ う方 ほう が楽 たの しく、競 きそ わなければ「いさみなし」であるとして、遊戯 ゆうぎ における実感 じっかん によって持論 じろん を補強 ほきょう している[ 18] 。
「勝負 しょうぶ を争 あらそ う」本質 ほんしつ が最 もっと も顕著 けんちょ にあらわれる博打 ばくち は、公儀 こうぎ によって厳 きび しく禁止 きんし されているが、真葛 さねかずら は、法 ほう によってそのような本性 ほんしょう を抑圧 よくあつ することは必 かなら ずしも有効 ゆうこう ではなく、むしろ、「法 ほう 」が強圧 きょうあつ 的 てき でありすぎるならば「勝負 しょうぶ を争 あらそ う」人間 にんげん の本性 ほんしょう それ自体 じたい によって覆 くつがえ されることさえあるとしている[ 19] 。ここにおいて、法 ほう は「網 あみ の袋 ふくろ 」に、人間 にんげん の本性 ほんしょう は「黒 くろ がね 」に例示 れいじ され、「いつかは錆 さび にそこねられて、網 あみ のやぶれんことのあるもやせん」としている。
このような観点 かんてん から、真葛 さねかずら は、領主 りょうしゅ の「仁 ひとし 」とはたんに人民 じんみん に慈悲 じひ をほどこすことではなく、「世 よ の人 ひと のためによきわざを残 ざん 」すこと、つまり、実際 じっさい に人 ひと を救済 きゅうさい しうる有効 ゆうこう な施策 しさく を立案 りつあん し、実行 じっこう することであるとして徳治 とくじ 主義 しゅぎ に疑問 ぎもん を呈 てい する[ 20] 。また、「義 よし 」というものの心 しん の状態 じょうたい を内省 ないせい するならば、「胸 むね にあつめて強 つよ くはる、俗 ぞく にいうかんしゃく なり」と結論 けつろん され、よい事 こと に張 は るのを「義 よし 」といい、悪 わる い事 こと に張 は るのを「暴」といって、字 じ のうえでは善悪 ぜんあく の区別 くべつ はあっても人体 じんたい のなかにあっては同 おな じ心 しん のありようだと主張 しゅちょう する[ 20] 。このような「仁義 じんぎ 」の理解 りかい も、当時 とうじ にあっては独自 どくじ なものであった[ 21] 。
「天地 てんち の拍子 ひょうし 」と「勝負 しょうぶ の論理 ろんり 」を総合 そうごう すると、為政者 いせいしゃ が社会 しゃかい と人間 にんげん を正 まさ しく導 みちび くためには「勝 かち まけを争 あらそ う」人間 にんげん の本性 ほんしょう を見 み すえたうえで「天地 てんち の拍子 ひょうし 」に合致 がっち した有効 ゆうこう な方法 ほうほう を追求 ついきゅう していかなくてはならない、ということになる[ 22] 。
真葛 さねかずら は、貨幣 かへい 経済 けいざい が急速 きゅうそく に浸透 しんとう した当時 とうじ の社会 しゃかい を「金銀 きんぎん を争 あらそ う心 しん の乱世 らんせい 」と表現 ひょうげん した[ 23] 。真葛 さねかずら によれば、町人 ちょうにん は日々 ひび 物価 ぶっか をつり上 あ げて商品 しょうひん の品質 ひんしつ を下 さ げることを考 かんが え、農民 のうみん は年々 ねんねん 年貢 ねんぐ の削減 さくげん を企図 きと しており、武士 ぶし は、この「心 しん の乱世 らんせい 」では百姓 ひゃくしょう からも町人 ちょうにん からも攻撃 こうげき を受 う けている[ 23] 。とりわけ町人 ちょうにん の力 ちから は強大 きょうだい であり、藩 はん 財政 ざいせい は大 だい 商人 しょうにん からの借金 しゃっきん によってまかなうよりほかない状況 じょうきょう に陥 おちい っている[ 24] 。しかし武士 ぶし たちは置 お かれた状況 じょうきょう をおよそ自覚 じかく することなく、さほど強 つよ い危機 きき 感 かん をいだいていない。真葛 さねかずら は、それを武家 ぶけ 、とりわけ領主 りょうしゅ に近 ちか い立場 たちば から憤 いきどお りをもって眺 なが めていたのである[ 25] [ 26] 。
真葛 さねかずら は、現状 げんじょう は武士 ぶし ・農民 のうみん ・町人 ちょうにん がそれぞれの身分 みぶん にもとづいて金銀 きんぎん をめぐって争 あらそ う「大 だい 乱心 らんしん の世 よ 」であると見 み なしており[ 27] 、その金銀 きんぎん は「敬 けい い尊 みこと む人 じん のもとに集 あつ まる」としている[ 26] [ 28] 。金銀 きんぎん を「敬 けい い尊 みこと む」のは「金 かね を主 おも とし、身 み を奴 やつ となして世 よ を渡 わた る」町人 ちょうにん 身分 みぶん にほかならない[ 26] 。確 たし かに、廻船 かいせん に改良 かいりょう を加 くわ えた河村 かわむら 瑞 みずほ 軒 のき の事績 じせき で知 し られるように、真葛 さねかずら は、町人 ちょうにん たちが利 り を得 え るためにさかんに創意 そうい 工夫 くふう を加 くわ えることのあることを認 みと めないわけではない[ 26] 。しかし、瑞 みず 軒 のき にしたところで人 ひと を陥 おとしい れて事 こと を有利 ゆうり に運 はこ んだこともあるとのことであるから、世 よ の風潮 ふうちょう 、なかんずく町人 ちょうにん の一般 いっぱん 的 てき な行動 こうどう 様式 ようしき は「人 ひと を倒 たお してわれ富 と まん」というものであろう[ 26] 。しかし、世界 せかい は「人 ひと よかれ、我 が もよかれ」と一同 いちどう 思 おも えるような社会 しゃかい へと転換 てんかん しなければならないと彼女 かのじょ は主張 しゅちょう する[ 29] 。
このような利己 りこ 主義 しゅぎ にもとづいた経済 けいざい 至上 しじょう 主義 しゅぎ は商品 しょうひん の品質 ひんしつ 低下 ていか も招 まね いており、「正直 しょうじき 」を旨 むね とする日本 にっぽん 古来 こらい の教 おし えがすたれてしまっていると真葛 さねかずら は歎く[ 30] 。たとえば、紙 かみ の品質 ひんしつ は目 め に見 み えて低落 ていらく しており、使用 しよう に耐 た えなくなっているし、江戸 えど 幕府 ばくふ よりロシア使節 しせつ アダム・ラクスマン に贈 おく られた箱入 はこい りタバコ は箱 はこ の上 うえ にだけ上等 じょうとう の葉 は が詰 つ められ、その下 した に詰 つ められていたのは品質 ひんしつ のわるい葉 は だったという[ 30] 。使節 しせつ は笑 わら ってこれを捨 す てたとの評判 ひょうばん だが、「人 ひと を倒 たお してわれ富 と まん」の風潮 ふうちょう は、ここに至 いた って対外 たいがい 的 てき な侮 あなど りを受 う けるほどとなっており、真葛 さねかずら は、これを日本 にっぽん の恥辱 ちじょく であると憂慮 ゆうりょ しているのである[ 31] 。そして、町人 ちょうにん のみならず、このような事態 じたい を放置 ほうち する為政者 いせいしゃ もわるいと批判 ひはん している[ 31] 。
真葛 さねかずら は、皇室 こうしつ が近衛 このえ 家 か を使 つか って金融 きんゆう を営 いとな み、利子 りし をきびしく取 と り立 た てて返済 へんさい をせまり、人 ひと びとを苦 くる しめているという風評 ふうひょう を聞 き き、本来 ほんらい あるべき姿 すがた からかけ離 はな れており、「けがらわしき事 こと ならずや」と憤 いきどお っている。また、先祖 せんぞ の事績 じせき に拠 よ って立 た つのみで、貨幣 かへい がどのように流 なが れ動 うご いているのかをとらえようともせず、柔弱 にゅうじゃく な生活 せいかつ を送 おく って官位 かんい 昇進 しょうしん だけを願 ねが う将軍 しょうぐん にも批判 ひはん を加 くわ えている[ 32] 。
「人 ひと よかれ、我 が もよかれ」と一同 いちどう 思 おも えるような社会 しゃかい をめざした真葛 さねかずら は、アダムの父 ちち キリル・ラクスマン が政府 せいふ の高官 こうかん であると同時 どうじ に建具 たてぐ やビードロ の商売 しょうばい をしていると聞 き き、そうした政治 せいじ 家 か と商人 しょうにん を兼 か ねるようなあり方 かた を提唱 ていしょう している[ 33] 。武士 ぶし が「町人 ちょうにん の虜 とりこ 」となっている状況 じょうきょう を憂慮 ゆうりょ する彼女 かのじょ は、「金銀 きんぎん を争 あらそ う世 よ 」において町人 ちょうにん との闘争 とうそう に勝 か つには、武士 ぶし みずから積極 せっきょく 的 てき に商業 しょうぎょう にたずさわることが必要 ひつよう なのであり、武士 ぶし が「君子 くんし にして商 あきな う」ならば、「一身 いっしん の栄 さか え」のみを願 ねが う町人 ちょうにん と異 こと なり、不当 ふとう な利益 りえき をむさぼることもなく、また、貿易 ぼうえき によって国富 こくふ を増大 ぞうだい させることさえ可能 かのう であり、「人 ひと よかれ、我 が もよかれ」の世 よ に近 ちか づけるのではないかとして解決 かいけつ 策 さく を模索 もさく しているのである[ 34] 。
真葛 さねかずら はロシアの制度 せいど について、
ヲロシア国 こく のさだめには、うらやましくぞおもはるゝ。国王 こくおう は一向 いっこう 宗 むね の祖 そ のごとくなり。人 ひと のからを収 おさむ る寺 てら めくものはかく是 ぜ あれど、一 いち 宗 むね 故 こ 、争 あらそ うことなし。国王 こくおう には、もの奉 たてまつ らばやと、国人 くにびと 願 ねがい ふとぞ。諸 しょ 歴々 れきれき の役人 やくにん も供人 ともびと をつれず、国王 こくおう のみ五 ご 人 にん 程 ほど 供人 ともびと 添たり。心 しん にまかせて市中 しちゅう を歩行 ほこう 有 ゆう 。
と述 の べている。つまり、国王 こくおう は浄土真宗 じょうどしんしゅう の教主 きょうしゅ のような存在 そんざい であり、このようなあり方 かた は、一 ひと つの宗教 しゅうきょう によって人心 じんしん が統一 とういつ されて闘争 とうそう しあう人間 にんげん の本性 ほんしょう を抑制 よくせい させる有効 ゆうこう な手立 てだ てとなっており、国王 こくおう や高官 こうかん も多数 たすう の供回 ともまわ りをひきつれることなく市井 しせい を観察 かんさつ できるので、世情 せじょう にも通 つう じ、そのため適切 てきせつ な施策 しさく が講 こう じられうることを羨 うらや ましいと考 かんが えている[ 35] 。また、彼女 かのじょ は「世 よ にすぐれたる人 にん の御 ご 心 しん は、物 もの のついえをいとうにある」とし、幕府 ばくふ の昌平 しょうへい 坂 ざか 学問 がくもん 所 しょ や諸 しょ 藩 はん の藩校 はんこう に設 もう けられた「聖堂 せいどう 」について、「この御堂 みどう のわざはこがね宝 たから をいやしむる法 ほう 」であるゆえに、「ついえ」を指向 しこう しており、ここに莫大 ばくだい な金銀 きんぎん を投 とう じて整備 せいび するのは浪費 ろうひ を諫める孔子 こうし の意図 いと にも反 はん すると主張 しゅちょう する[ 36] 。
むしろ、聖堂 せいどう ・御堂 みどう は、政治 せいじ 討論 とうろん の場 ば とすべきであり、参加 さんか 者 しゃ は武士 ぶし 身分 みぶん に限定 げんてい せずに「国 くに のついえを愁 うれ いおもうものしり人 じん 」にも開放 かいほう し、憂国 ゆうこく の情 じょう をいだく知識 ちしき 人 じん なら誰 だれ でも「私心 ししん をさりつくして」語 かた り合 あ い、「天地 てんち の間 あいだ の拍子 ひょうし 」に合致 がっち する「日本 にっぽん 国 こく の益 えき 」について討論 とうろん すること、また、その門前 もんぜん には箱 はこ を置 お いて「貴 き 賤をえらまず」意見 いけん を述 の べることのできるようにすべきものとし、幅広 はばひろ い階層 かいそう からの政治 せいじ 参加 さんか を進 すす めるべきことを主張 しゅちょう している[ 36] 。
真葛 さねかずら は、ロシアの重 じゅう 商 しょう 主義 しゅぎ 的 てき ・君民 くんみん 一致 いっち 的 てき な制度 せいど やあり方 かた に日本 にっぽん の危機 きき 的 てき な現状 げんじょう を打開 だかい する活路 かつろ を見 み いだし[ 37] 、ロシアではそれが実現 じつげん にうつされているようであることを「うらやましく」思 おも ってはいるが、そのいっぽうで国家 こっか としてのロシアが他国 たこく や他 た 国民 こくみん にどのように対 たい しているかについては、その動向 どうこう をしっかり見極 みきわ めようとしていた[ 38] 。仙台 せんだい 領 りょう の漁民 ぎょみん 津 つ 太夫 たゆう [ 39] らの若 わか 宮丸 みやまる の漂流 ひょうりゅう 民 みん 送還 そうかん 問題 もんだい でのロシアの対応 たいおう などは、仙台 せんだい 藩 はん でも上層 じょうそう 家臣 かしん しか知 し りえない秘事 ひめごと であったが、こうした問題 もんだい に適切 てきせつ に対処 たいしょ する必要 ひつよう があることを真葛 さねかずら は認識 にんしき していたものと思 おも われる[ 40] 。
真葛 さねかずら 自身 じしん は2度 ど の結婚 けっこん を経験 けいけん したが、いずれも家 いえ のためであり、親 おや の願 ねが いによるものであった。しかし、そのような観念 かんねん 的 てき な結婚 けっこん 観 かん は、初婚 しょこん の失敗 しっぱい や弟 おとうと 源 みなもと 四郎 しろう の死 し とその後 ご の工藤 くどう 家 か の転変 てんぺん など、真葛 さねかずら 自身 じしん に降 ふ りかかった現実 げんじつ によって覆 くつがえ された[ 41] 。夫 おっと の死後 しご は「何 なに のために生 う まれ出 で づらん」とまで思 おも いつめるようになったのは上述 じょうじゅつ のとおりである。文化 ぶんか 13年 ねん (1816年 ねん )『真葛 さねかずら がはら』巻末 かんまつ に収 おさ められた『あやしの筆 ふで の跡 あと 』では、身分 みぶん の異 こと なる男女 だんじょ が純粋 じゅんすい な愛情 あいじょう にもとづいて結婚 けっこん しようと行動 こうどう することに強 つよ く共感 きょうかん し、それを引 ひ き裂 さ こうとする親 おや や周囲 しゅうい に対 たい し怒 いか りの声 こえ をあげている[ 42] 。
真葛 さねかずら のこのような実感 じっかん は、ロシアの婚姻 こんいん 制度 せいど に対 たい する見聞 けんぶん によっても支 ささ えられている。
つまどいすべき齢 よわい となれば、めあわせんとおもう男女 だんじょ を寺 てら にともないゆきて、まず男 おとこ を方丈 ほうじょう のもとによびて、「あれなる女 おんな をその方 ほう 一生 いっしょう つれそう妻 つま ぞと定 さだ めんや、もしおもう所 ところ あるや」と問 と う時 とき に、男 おとこ のこたえを聞 き きていなやをさだめて、又 また 女 おんな をもよびて前 まえ のごとく問 と いあきらめて、同 おな じ心 こころ なれば夫婦 ふうふ となす。さて外 そと 心 こころ あらば、男女 だんじょ ともに重罪 じゅうざい なりとぞ。又 また おのづから独 ひと りに心 こころ 定 さだ まらぬ若人 わこうど もありとぞ。それは妻 つま をさだめずして、よき人 ひと の女 おんな もしばしたわむれのごとく多 おお く人 じん を見 み せしめ、その中 なか に心 しん のあいし人 じん をいもせとさだむとなん。
真葛 さねかずら は、このように述 の べて、ロシアでは互 たが いに相手 あいて の意思 いし を直接 ちょくせつ 確認 かくにん しあうことによって結婚 けっこん が成立 せいりつ し、それゆえ不倫 ふりん は男女 だんじょ ともに重罪 じゅうざい であり、ひとりの相手 あいて に心 しん の定 さだ まらない若者 わかもの に対 たい しては心 しん の通 つう じ合 あ う結婚 けっこん 相手 あいて を選択 せんたく する機会 きかい や場 ば が社会 しゃかい 慣習 かんしゅう としてつくられていることを「うらやまし」としている[ 43] [ 44] 。
真葛 さねかずら は、ヨーロッパ を「五穀 ごこく ともしく文字 もじ を横 よこ なす国 こく 」と呼 よ んでいる。西洋 せいよう 人 じん が懐中時計 かいちゅうどけい を携帯 けいたい しながら行動 こうどう することをもって諒 りょう とし、日本人 にっぽんじん はそれにくらべて時間 じかん にルーズであると述 の べている[ 45] 。また、西洋 せいよう 人 じん は肉食 にくしょく をするため、短命 たんめい ではあるが30歳 さい 代 だい ・40歳 さい 代 だい をさかりに末 すえ を考慮 こうりょ するため「智 さとし 術 じゅつ 」にすぐれ、また、「国 くに 広 ひろ く人 ひと 稀 まれ 」であることは「物 もの 考 かんが えるのに吉 きち 」であるのに対 たい し、日本人 にっぽんじん は穀物 こくもつ を多 おお く食 しょく するため、長命 ちょうめい ではあるが「国 くに せまく人 ひと 多 おお ければ」行 ゆ く末 すえ を考 かんが えることが少 すく なく、人 ひと に授 さづ けるものも乏 とぼ しく、智 さとし 術 じゅつ の面 めん では西洋 せいよう 人 じん にくらべ劣 おと っているとも述 の べている[ 45] 。
国生 こくしょう み神話 しんわ を描 えが いた絵画 かいが (小林 こばやし 永 ひさし 濯画 が )
上述 じょうじゅつ のように、真葛 さねかずら は9歳 さい のとき「女 おんな の本 ほん とならばや」と決意 けつい したが、それは同時 どうじ に「女 おんな は人 ひと にしたがうもの」という当時 とうじ の通念 つうねん や支配 しはい 的 てき 言説 げんせつ にしたがって生 い きることでもあった[ 46] 。その姿勢 しせい は、夫 おっと 只野 ただの 行義 ゆきよし にあてた手紙 てがみ に「これよりはいくひさしく御 ご 奉公 ほうこう 申 もう し上 あ げ候 こう 」と記 しる したり、婚家 こんか の生活 せいかつ についても、『とはずがたり』のなかで「国 こく ふうたがえず、ことに家 いえ の法 ほう かたく守 まも りてやぶらず」と述 の べたりしているところから、基本 きほん 的 てき には変化 へんか がなかったものと考 かんが えられる[ 47] 。しかし、その姿勢 しせい を貫 つらぬ き通 とお すことについては精神 せいしん 的 てき な痛 いた みをともなった。奥 おく 女中 じょちゅう 奉公 ほうこう では「独 ひと りづとめ」の心得 こころえ で仕事 しごと にあたること、また、仙台 せんだい で夫 おっと の留守 るす を守 まも る結婚 けっこん 当初 とうしょ の暮 く らしのなかでは香 こう 蓮 はちす 尼 あま を手本 てほん とすることなど、「女 おんな の本 ほん 」となるための道 みち を模索 もさく しつづけた[ 46] 。
そして、なぜ女 おんな は人 ひと にしたがわなければならないのかについて思索 しさく をめぐらせた[ 48] 。この疑問 ぎもん に対 たい する答 こた えとして真葛 さねかずら がヒントにしたのは『古事記 こじき 』における国生 こくしょう み神話 しんわ であった[ 49] 。そこでは、男神 おかみ イザナギ が「わが身 み はなりなりてなり余 あま りしところひとところあり」、女神 めがみ イザナミ が「わが身 み はなりなりてなりあわざるところひとところあり」とたがいに自分 じぶん の身体 しんたい 的 てき 特徴 とくちょう を述 の べあう下 くだ りがある。これによって真葛 さねかずら は、「この世 よ に人 ひと の生 なま い初 はじ めし時 とき 、身内 みうち を尋 たず ねて成 な り余 あま りしと覚 さとし ゆるは男 おとこ 、成 な り足 た らぬと覚 さとし ゆるは女 おんな なり」という観念 かんねん を獲得 かくとく し、こうした身体 しんたい 的 てき 差異 さい は心 しん のあり方 かた を左右 さゆう するものだととらえる[ 49] 。
具体 ぐたい 的 てき には、禅僧 ぜんそう が修行 しゅぎょう のため羅 ら 切 きり (陰茎 いんけい 切 き り)することを女性 じょせい ならば「潔 いさぎよ い」と感 かん じるであろうが、男性 だんせい はたまらないであろうし、女性 じょせい 器 き に蛇 へび が侵入 しんにゅう するのを男性 だんせい は何 なん とも思 おも わないだろうが女性 じょせい は身 み の毛 け のよだつ思 おも いがする。俳優 はいゆう の女形 おんながた が仕草 しぐさ かたちや言葉 ことば づかいが女性 じょせい のようであっても、現実 げんじつ の女性 じょせい が決 けっ して喜 よろこ ばないような行動 こうどう をとるのは、身体 しんたい 的 てき 差異 さい に由来 ゆらい する心 しん のありようが実際 じっさい の女性 じょせい とは異 こと なるからだと考 かんが える[ 50] 。そしてまた、「才智 さいち のおとり勝 まさ ることはあるとも、なべて常 つね の心 しん に、余 あま れりと思 おも う男 おとこ に、足 た らずとおぼゆる女 おんな の、いかで勝 か つべき」と記 しる し、常 つね に心 しん に余裕 よゆう をもつ男性 だんせい に対 たい し、常 つね に心理 しんり 的 てき に不全 ふぜん 感 かん をかかえた女性 じょせい は結局 けっきょく かなうものではないとして「女 おんな は人 ひと にしたがうもの」という考 かんが え方 かた の根拠 こんきょ を以上 いじょう 述 の べたような身体 しんたい 性 せい に求 もと めるのである[ 51] 。
しかしながら、真葛 さねかずら は、
孔子 こうし 聖 きよし の女子 じょし 小人 こども は我 わが 知 し らずとのたまえりしとかや。われも女子 じょし なり。いざその聖 ひじり のしらせ給 たま わぬほどを、さて申 さる さめ。
として、女性 じょせい としての自分 じぶん の立場 たちば を語調 ごちょう 強 つよ く訴 うった える。そして、女子 じょし と小人 こども は扱 あつか いがたいと記 しる す孔子 こうし をして「心 しん 行 い き届 とど かぬ」と述 の べ、みずからの教化 きょうか 不足 ふそく を棚 たな にあげて女子 じょし 小人 こども 取 と るに足 た らないと見下 みくだ すところが一番 いちばん 人 じん に受 う け入 い れやすいと手厳 てきび しく批判 ひはん する[ 52] 。そして、儒教 じゅきょう 道徳 どうとく は、表向 おもてむ きの飾 かざ り道具 どうぐ であり、門外 もんがい に置 お くべきものなのであって、「道具 どうぐ がぶきよう」なため怪我 けが をすることがあるから、「家事 かじ 」には用 もち いるべきではないとする[ 53] 。さらに、
このくだりは無学 むがく む法 ほう なる女心 おんなごころ より、聖 きよし の法 ほう を押 お すいくさ心 しん なり。…世 よ にいきいきとしたる愚人 ぐじん ばらは、遠 とお き昔 むかし のよそ国 こく の聖 ひじり のことは、むずかしと聞 き きつけず、聖人 せいじん の味方 みかた するほどの男 おとこ づらは、いけすかぬと、わかき女 おんな どもはにくむべし。よし女 おんな にはすかれずとも、いづくまでも聖 ひじり の御 ご 心 しん ざしは、さにあらずとおしかかるともがらもあるべし。その勝 かち 劣 れつ は人々 ひとびと の好 す きずきにこそあらめ。聖 ひじり に愚 ぐ の勝 か つことあるまじけれど、聖上 せいじょう の人 ひと は大 たい かた力 ちから 弱 よわ く身 み あわし。下 した 愚 ぐ の人 ひと はなべて力強 ちからづよ ければ、一 いち と勝負 しょうぶ してみたきこころいきあらんか。
として「無学 むがく む法 ほう の女心 おんなごころ 」から「聖 きよし の法 ほう 」(儒教 じゅきょう 道徳 どうとく )への闘争 とうそう の意志 いし を表明 ひょうめい している[ 54] 。
また、「身内 みうち をたずねて余 あま れり足 た らずと思 おも うをもて考 かんがえ うれば、人 ひと の心 しん というものは陰 かげ 所 しょ を根 ね としてはえわたるものなりけり」と述 の べ、人間 にんげん 心理 しんり の根 ね にあるものは陰部 いんぶ であるとする[ 55] 。さらに彼女 かのじょ は性行為 せいこうい を「男女 だんじょ あい逢 あ うわざ」と表現 ひょうげん し、「心 しん の本 ほん をすりあわせて勝 か ち負 ま けを争 あらそ う」ものだとし、「あい逢 あ うわざ」をふくむ恋路 こいじ においては男性 だんせい も「弱 よわ き女 おんな になげらるることあり」として男女 だんじょ の勝敗 しょうはい は必 かなら ずしも一方 いっぽう 的 てき ではないとしている[ 55] 。
このように真葛 さねかずら は、いったんは女性 じょせい の従属 じゅうぞく 性 せい を認 みと めながらも、あい争 あらそ う人間 にんげん の本性 ほんしょう という点 てん では男女 だんじょ ともに同等 どうとう であり、また、恋路 こいじ においては、とらわれのない女性 じょせい の方 ほう が勝 か つこともある[ 56] として、家父長制 かふちょうせい 的 てき な儒教 じゅきょう の教 おし えや規範 きはん に異 こと を呈 てい し、また、儒教 じゅきょう 道徳 どうとく における善 ぜん の無力 むりょく 性 せい を指摘 してき することで、そのような規範 きはん にとらわれずに自由 じゆう に自分 じぶん の意思 いし を実行 じっこう に移 うつ せる「下 しも 愚 ぐ の人 ひと 」あるいは「無学 むがく む法 ほう なる女 おんな 」が勝利 しょうり する可能 かのう 性 せい を論 ろん じているのである[ 57] 。
真葛 さねかずら が妹 いもうと 萩 はぎ 尼 あま (拷子)を介 かい して添削 てんさく を依頼 いらい した『独 どく 考 こう (ひとりかんがへ)』に対 たい し、曲亭馬琴 きょくていばきん は『独 どく 考 こう 論 ろん 』を著 あらわ して、独学 どくがく にもとづく臆断 おくだん が多 おお いとして徹底的 てっていてき に批判 ひはん した。『独 どく 考 こう 論 ろん 』には『論語 ろんご 』など四書 ししょ が多数 たすう 引用 いんよう されているが、婦人 ふじん を対象 たいしょう にしたものであるとして引用 いんよう する漢籍 かんせき は四書 ししょ (『論語 ろんご 』・『孟子 もうし 』・『大学 だいがく 』・『中庸 ちゅうよう 』)に限定 げんてい しており、その旨 むね を『独 どく 考 こう 論 ろん 』のなかで断 ことわ っている。
「天地 てんち の拍子 ひょうし 」と「勝敗 しょうはい の論理 ろんり 」について[ 編集 へんしゅう ]
まず、真葛 さねかずら の唱 とな える「天地 てんち の拍子 ひょうし 」に対 たい して馬琴 ばきん は「自 みずか ら考 かんが え得 え たりと思 おも うは、おさなし。およそ書 しょ をよむほどのものは、誰 だれ もよくしれることなり」として完全 かんぜん に否認 ひにん する。馬琴 ばきん は、「天地 てんち の拍子 ひょうし 」を雅楽 ががく や神楽 かぐら の基準 きじゅん として理解 りかい し、「天地 てんち の拍子 ひょうし 」に国 くに や時代 じだい による遅速 ちそく があるわけではなく、「人気 にんき 」(世俗 せぞく )のありようで変化 へんか があるように感 かん じられるだけであるとする。儒学 じゅがく 者 しゃ が「から国 くに 」の拍子 ひょうし をうつすため、日本 にっぽん の拍子 ひょうし に合 あ わないという『独 どく 考 こう 』の見解 けんかい を否定 ひてい し、学者 がくしゃ 聖賢 せいけん が「天地 てんち の拍子 ひょうし 」に合 あ わないのは当時 とうじ の世俗 せぞく のせいであるとの論 ろん を展開 てんかい する[ 58] 。
馬琴 ばきん はまた、真葛 さねかずら の「心 しん の抜 ぬ け上 あ がり」の体験 たいけん を「さとり」とは認 みと めない。「さとりは学 まな びてのちに得 え つべし。まだ学 まな ばず聞 き かずしてさとるのは聖人 せいじん のみ」として、彼女 かのじょ が「学 まな ばずして得 え られ」たというのであれば、それは「さとり」などではなく「慢心 まんしん の病 やまい のわざ」であるとして、真葛 さねかずら の展開 てんかい した論 ろん はすべて「ひが事 こと 」(間 あいだ 違 ちが い)であるとする[ 59] 。
さらに、『独 どく 考 こう 』における「勝敗 しょうはい の論理 ろんり 」については、人間 にんげん が勝負 しょうぶ を争 あらそ うのは「天性 てんせい にあらず、みな欲 よく より起 お こるなり」として人間 にんげん の本性 ほんしょう を善 ぜん とし、欲望 よくぼう を抑 おさ えて善 ぜん があらわれるよう努 つと めることによって人間 にんげん の道徳 どうとく 的 てき な生 い き方 かた が生 う まれるとし、「勝敗 しょうはい の論理 ろんり 」を「乱 らん を招 まね く」ものであるとして性善説 せいぜんせつ の立場 たちば から危険 きけん 視 し する。真葛 さねかずら にとって「仁 ひとし 」とは「世 よ の人 ひと のためによきわざを残 のこ す」ということであったが、それを馬琴 ばきん は「仁 じん に似 に て仁 じん にあら」ざる「婦人 ふじん の仁 じん 」であるとし、彼女 かのじょ の道徳 どうとく 論 ろん はすべて善悪 ぜんあく 正邪 せいじゃ の区別 くべつ を混乱 こんらん させるものであると断罪 だんざい する[ 60] 。
真葛 さねかずら の政治 せいじ 経済 けいざい 思想 しそう について[ 編集 へんしゅう ]
経済 けいざい 論 ろん に対 たい しては、「婦女子 ふじょし にはいとにげなき経済 けいざい のうへを論 ろん ぜしは、紫 むらさき 女 おんな 清 きよし 氏 し にも立 た ちまさりて、男 おとこ だましひある」と述 の べ、「忠信 ちゅうしん の一議 いちぎ 」であるとして、女性 じょせい である真葛 さねかずら が経済 けいざい を論 ろん ずることを「いとめずらかなり」と評価 ひょうか する。しかし、結局 けっきょく は「末 まつ を咎 とが めて、本 ほん を思 おも わざるのまよい也」として本末転倒 ほんまつてんとう の議論 ぎろん であると主張 しゅちょう する[ 61] 。
馬琴 ばきん は、領主 りょうしゅ の窮乏 きゅうぼう 化 か を社会 しゃかい 体制 たいせい の危機 きき であるとはとらえない。武家 ぶけ と町人 ちょうにん ・百姓 ひゃくしょう の対立 たいりつ は避 さ けがたいものではなく、むしろ領主 りょうしゅ による仁政 じんせい によって調和 ちょうわ しうるものと見 み なしており[ 29] 、民 みん が富 と むことは領主 りょうしゅ が富 と むことにほかならないのだから、物価 ぶっか 騰貴 とうき の責任 せきにん を町人 ちょうにん に帰 き そうとする真葛 さねかずら の所論 しょろん は間違 まちが いであるとする[ 29] 。
また、真葛 さねかずら の指摘 してき した「智 さとし 術 じゅつ 」における西洋 せいよう 人 じん の優秀 ゆうしゅう 性 せい を馬琴 ばきん も認 みと めるが、「智 さとし 術 じゅつ に長 た けて、その齢 よわい の長 なが からざる」は「禽獣 きんじゅう にちかければなり」と述 の べ、それは「国 くに を治 おさ め家 か をととのえ、民 みん に教 おし える」ものではないとして、「国家 こっか の要領 ようりょう は徳 とく にあるのみ」として、「智 さとし 術 じゅつ 」ではなく「徳行 とっこう 」こそが政治 せいじ にとっては至上 しじょう の価値 かち をもつという道徳 どうとく 主義 しゅぎ に立脚 りっきゃく する[ 62] 。
このような立場 たちば に立 た って、馬琴 ばきん は真葛 さねかずら が着目 ちゃくもく した「君子 くんし にして商 あきな う」政治 せいじ 経済 けいざい 論 ろん を否定 ひてい する。馬琴 ばきん の大義名分 たいぎめいぶん 論 ろん 的 てき な立場 たちば からすれば「士農工商 しのうこうしょう 」の身分 みぶん 秩序 ちつじょ は和漢 わかん を通 つう じて不変 ふへん の制度 せいど であり、ロシアにおいて「大臣 だいじん 」が商 しょう 工業 こうぎょう にたずさわるのは、食糧 しょくりょう に乏 とぼ しく貿易 ぼうえき に頼 たよ らざるを得 え ない「えみしの国 くに 」だからだとする[ 62] 。そして、真葛 さねかずら が唱 とな えるように制度 せいど の改変 かいへん によって危機 きき を打開 だかい するのではなく、あくまでも為政者 いせいしゃ の徳行 とっこう と教化 きょうか によってこそ、利 り を正 ただ し、争 あらそ いを滅 めっ することができると論 ろん じ、民衆 みんしゅう の政治 せいじ 参加 さんか を否認 ひにん する[ 63] 。
真葛 さねかずら の孔子 こうし 批判 ひはん については、馬琴 ばきん はほとんど拒否 きょひ 反応 はんのう に近 ちか いものである[ 54] 。『独 どく 考 こう 論 ろん 』では「学 まな ばず問 と うことなき婦人 ふじん なんどの、経済 けいざい をあげつらい、聖教 せいきょう を侮 あなど らば、誰 だれ か取 と りて本 ほん とすらん」と述 の べ、馬琴 ばきん 編 へん の『独 どく 考 こう 抄録 しょうろく 』では真葛 さねかずら の論 ろん を「いたく孔子 こうし を詰 なじ り、十 じゅう 哲 あきら を嘲 あざけ い、孟子 もうし をそしりたり」と要約 ようやく している[ 54] 。そして、聖賢 せいけん の教 おし えをあげつらうことなどは、むしろ侮 あなど りを国外 こくがい に招 まね くような行為 こうい であり、到底 とうてい 、承伏 しょうふく できない旨 むね を記 しる している[ 64] 。
馬琴 ばきん はまた、「幼 おさな きより女 おんな の本 ほん にならんとて、よろづを心 こころ がけられしは第 だい 一 いち のあやまりなり」と述 の べ、真葛 さねかずら が9歳 さい のとき女性 じょせい の手本 てほん となろうと決心 けっしん したことをそもそもの間違 まちが いであると主張 しゅちょう し、「心 しん の抜 ぬ け上 あ がり」の体験 たいけん については「みなあだ事 ごと にて、ひとつも当 あ たらず。識者 しきしゃ には笑 わら わるべし」と述 の べ、「かくてそのさとしによりて、五 ご 十 じゅう 年 ねん の非 ひ をしらば、これ真 しん のさとりなり」として、真葛 さねかずら 50年 ねん の生涯 しょうがい の非 ひ を認 みと めれば、それこそ「真 しん のさとり」であると述 の べた[ 9] 。
馬琴 ばきん は、このように『独 どく 考 こう 論 ろん 』を締 し めくくって、添 そ えた手紙 てがみ には「をとこをみなの交 まじ りは、かしらの雪 ゆき を冬 ふゆ の花 はな と見 み あやまりつゝ、人 ひと もや咎 とが めん」と記 しる し、男女 だんじょ の交流 こうりゅう は老年 ろうねん であっても誤解 ごかい を招 まね くおそれがある旨 むね 述 の べたうえで、著述 ちょじゅつ の生業 せいぎょう に時間 じかん をとられること、また、思 おも うところあって旧友 きゅうゆう とも疎遠 そえん にしていることを付 ふ して[ 65] 、真葛 さねかずら との交 まじ わりは「これを限 かぎ りとおぼしめされよ」[ 5] と絶交 ぜっこう の意思 いし を告 つ げている。
馬琴 ばきん は、『独 どく 考 こう 』をはじめて一読 いちどく したときの印象 いんしょう を「紫 むらさき 女 おんな 清 きよし 氏 し にも立 た ちまさりて、男 おとこ だましひある」と述 の べ、女性 じょせい の身 み で経済 けいざい を論 ろん じるのは平安 へいあん 時代 じだい の紫式部 むらさきしきぶ や清少納言 せいしょうなごん にまさって「男 おとこ だましひ」あると評価 ひょうか したのは上記 じょうき の通 とお りである。また、「ふみの書 が きざま尊大 そんだい にて…その説 せつ どものよきわろきはとまくかくまれ、婦人 ふじん には多 おお く得 え がたき見識 けんしき あり。只 ただ 惜むべきことは、まことの道 みち をしらざりける。不学 ふがく 不問 ふもん の心 しん を師 し としてろうじ(論 ろん じ)つけたるものなれば、かたはらいたきこと多 おお かり。はじめより玉 たま 工 こう の手 て を経 へ て、飽(あく)まで磨 みが かれなば、かの連 れん 城 じょう の価 あたい におとらぬまでになりぬべき。その玉 たま をしも、玉鉾 たまぼこ のみちのくに埋 うめ (うづ)みぬることよとおもへば、今 いま さらに捨 す てがたきこゝろあり」[ 5] とも記 しる し、「多 おお く得 え がたき見識 けんしき 」があり、磨 みが けば光 ひか る玉 たま であると述 の べながら「まことの道 みち をしらざりける」ことを惜 お しんでいる。
「まことの道 みち 」とは、狭義 きょうぎ には儒教 じゅきょう 道徳 どうとく であるが、広義 こうぎ には「真 しん の学問 がくもん 的 てき 方法 ほうほう 論 ろん 」であると考 かんが えられる[ 66] 。「連 れん 城 じょう の価 あたい (連 れん 城 じょう の璧 )」とは、中国 ちゅうごく の戦国 せんごく 時代 じだい の故事 こじ における、秦 はた の昭 あきら 襄 じょう 王 おう が自 じ 領 りょう にある15の城 しろ と交換 こうかん に入手 にゅうしゅ しようとした宝玉 ほうぎょく のことを指 さ しており、これは、真葛 さねかずら に対 たい するきわめて高 たか い評価 ひょうか といえる[ 66] 。しかし、馬琴 ばきん は『独 どく 考 こう 論 ろん 』を「教訓 きょうくん を旨 むね として」書 か いたと述 の べており、真葛 さねかずら に対 たい しては当時 とうじ の知識 ちしき 人 じん の常識 じょうしき ともいうべき学問 がくもん の王道 おうどう 、ものの考 かんが え方 かた の筋道 すじみち を教 おし えようとしたのであって、真葛 さねかずら を対等 たいとう の論争 ろんそう 相手 あいて と見 み なしていない[ 67] 。また、「ふみの書 が きざま尊大 そんだい 」とあるように、自分 じぶん あての気安 きやす い依頼 いらい の手紙 てがみ の書 か き出 だ しや、本 ほん 居 きょ 宣長 のりなが や賀茂真淵 かものまぶち にさほど敬意 けいい をはらわずに文章 ぶんしょう の拍子 ひょうし の早 はや さ遅 おそ さを論 ろん じたり、儒教 じゅきょう 道徳 どうとく について歯 は に衣 ころも 着 き せぬ批判 ひはん を展開 てんかい している点 てん に尊大 そんだい さを感 かん じていたようで[ 68] 、「高慢 こうまん の鼻 はな をひしぎしにぞ」[ 5] とも記 しる している。
「真葛 さねかずら のおうな」によれば、文政 ぶんせい 3年 ねん (1820年 ねん )春 はる 、『独 どく 考 こう 論 ろん 』を送 おく った馬琴 ばきん のもとに真葛 さねかずら と萩 はぎ 尼 あま の手紙 てがみ が寄 よ せられた[ 5] 。萩 はぎ 尼 あま の手紙 てがみ は怒 いか りのにじむものであった[ 69] が、真葛 さねかずら からの手紙 てがみ は、
おんいとまなき冬 ふゆ の日 ひ に、ふみやどものせめ奉 たてまつ る春 はる のもうけのわざをすらよそにして、こうながながしきことをつづりて、おしえ導 みちび き給 たま わせし、御 ご こころの程 ほど あらわれて、限 かぎ りもない幸 しあわ せにこそ侍 はべ れ。なおながき世 よ に、このめぐみをかえし奉 たてまつ るべし
という丁重 ていちょう なものであった[ 70] 。
馬琴 ばきん が、『独 どく 考 こう 』の出版 しゅっぱん は難 むずか しいかもしれないが写本 しゃほん による方法 ほうほう があると真葛 さねかずら あての手紙 てがみ に記 しる したとき、『独 どく 考 こう 』の写本 しゃほん を「心 こころ ある人 ひと 」に見 み せれば、「十 じゅう 人 にん に二 に 、三 さん 人 にん 」はそれを書写 しょしゃ するであろうと述 の べている[ 71] 。実際 じっさい 、馬琴 ばきん 自身 じしん も『独 どく 考 こう 』を書 か き写 うつ した[ 72] うえで『独 どく 考 こう 論 ろん 』を著 あらわ している。そして、『独 どく 考 こう 論 ろん 』の数 すう 年 ねん 後 ご の文政 ぶんせい 8年 ねん (1825年 ねん )10月1日 にち に『真葛 さねかずら のおうな』を発表 はっぴょう しているが、それは、真葛 さねかずら の亡 な くなった約 やく 半年 はんとし 後 ご のことであった。『真葛 さねかずら のおうな』のなかでは、みずからの『独 どく 考 こう 論 ろん 』(『独 どく 考 こう 』批判 ひはん )について、「人 ひと に信 しん をもてするに、怒 いか りを恐 おそ れていさめざらんは、交遊 こうゆう の義 ぎ にあらず」と弁明 べんめい している。
馬琴 ばきん が、真葛 さねかずら の死 し を知 し ったのは翌 よく 文政 ぶんせい 9年 ねん (1826年 ねん )のことであった。松島 まつしま へ行 い く知人 ちじん に頼 たの んで消息 しょうそく を尋 たず ねたが、亡 な くなったあとであった[ 73] 。馬琴 ばきん はこれを嘆 なげ いて、「件 けん の老女 ろうじょ は癇症 かんしょう いよいよ甚 はなはだ しく、つひに黄泉 よみ に赴 おもむ きしといふ。予 よ はじめて其訃を聞 きき て嘆息 たんそく にたへず、記憶 きおく の為 ため めこゝに記 しる す」という一文 いちぶん をのこしている(『著作 ちょさく 堂 どう 雑記 ざっき 』文政 ぶんせい 9年 ねん 4月 がつ 7日 にち 条 じょう )[ 10] [ 73] 。
こののち馬琴 ばきん は、天保 てんぽう 3年 ねん (1832年 ねん )ごろには真葛 さねかずら の『奥州 おうしゅう 波 は 奈志』や『いそづたひ』に奥書 おくがき を記 しる し[ 74] 、天保 てんぽう 13年 ねん (1842年 ねん )にはみずからの代表 だいひょう 作 さく となった『南総里見八犬伝 なんそうさとみはっけんでん 』九 きゅう 輯(完結 かんけつ 部 ぶ )の「回 かい 外 がい 剰 あま 筆 ふで 」にも真葛 さねかずら の名 な と『独 どく 考 こう 』など彼女 かのじょ の著作 ちょさく を紹介 しょうかい する文 ぶん を掲載 けいさい している[ 10] 。かつては、その博学 はくがく と卓越 たくえつ した文章 ぶんしょう 力 りょく によって徹底 てってい した批判 ひはん を加 くわ えた[ 75] 『独 どく 考 こう 』であったが、馬琴 ばきん の胸中 きょうちゅう には長 なが く『独 どく 考 こう 』とその筆者 ひっしゃ 只野 ただの 真葛 さねかずら のことは残 のこ り続 つづ けたのである。
『独 どく 考 こう 』については、真葛 さねかずら が馬琴 ばきん に送 おく った本 ほん そのものはのこっていない。また、完本 かんぽん の形 かたち ではのこっておらず、異 こと なる3本 ほん が現存 げんそん している。
1つは『独 どく 考 こう 抄録 しょうろく 』3巻 かん で、これは、嘉 よしみ 永 ひさし 年間 ねんかん に文政 ぶんせい 2年 ねん 11月4日 にち 奥 おく 書 が きの木村 きむら 氏 し 所蔵 しょぞう 写本 しゃほん を転写 てんしゃ したものだという書 か き入 い れがある。木村 きむら 氏 し によるものと思 おも われる「婦女 ふじょ の筆 ふで にしては、丈夫 じょうふ を慙愧 ざんき せしむる事 ごと 書 しょ あらはせり。尋常 じんじょう の女 おんな にはあらずと歎美 たんび す」との書 か き込 こ みがあり[ 76] 、また、原本 げんぽん の誤字 ごじ ・かなまちがいを訂正 ていせい したうえで筆写 ひっしゃ したという文化 ぶんか 2年 ねん の断 ことわ り書 が きがある。文化 ぶんか 2年 ねん の断 ことわ り書 が きは馬琴 ばきん のものと考 かんが えられるので、もともとは馬琴 ばきん が書写 しょしゃ したものの流 なが れを汲 く むものと考 かんが えられる[ 77] [ 78] 。現在 げんざい 、一般 いっぱん に『独 どく 考 こう 』として紹介 しょうかい されるのは、この『独 どく 考 こう 抄録 しょうろく 』をもとにしている。
2本 ほん めは、只野 ただの 家 か 旧 きゅう 蔵 ぞう の自筆 じひつ 本 ほん 『ひとりかんがへ』であるが、大正 たいしょう 年間 ねんかん に刊行 かんこう のため東京 とうきょう に運 はこ んでいたものが、関東大震災 かんとうだいしんさい の際 さい 、焼失 しょうしつ してしまったものである。内容 ないよう は『独 どく 考 こう 抄録 しょうろく 』上巻 じょうかん とほぼ同 おな じである[ 77] が、『独 どく 考 こう 抄録 しょうろく 』にはない「気 き 水 すい つまる事 こと 」という一文 いちぶん がある。鈴木 すずき よね子 こ によれば、この真葛 さねかずら 自筆 じひつ 本 ほん は、真葛 さねかずら が馬琴 ばきん に贈 おく った『独 どく 考 こう 』の原型 げんけい にあたるものである可能 かのう 性 せい が高 たか い[ 79] 。自筆 じひつ 本 ほん は失 うしな われてしまったが、中山 なかやま 栄子 えいこ による初 はつ の本格 ほんかく 的 てき 伝記 でんき 『只野 ただの 真葛 さねかずら 』(1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )刊行 かんこう )巻末 かんまつ に翻刻 ほんこく が掲載 けいさい されている[ 80] 。
3本 ほん 目 め は、真葛 さねかずら が『独 どく 考 こう 』に追加 ついか したいとして馬琴 ばきん との文通 ぶんつう が開始 かいし されたのちに馬琴 ばきん に送 おく ったものがあり[ 80] 、これは『独 どく 考 こう 追加 ついか 』と呼 よ ばれ、馬琴 ばきん 筆写 ひっしゃ 本 ほん が国立 こくりつ 国会図書館 こっかいとしょかん にのこされている[ 79] 。
馬琴 ばきん の著作 ちょさく 物 ぶつ を通 つう じて真葛 さねかずら の名 な は古 ふる くから知 し られていたが、真葛 さねかずら の著作 ちょさく は江戸 えど ・明治 めいじ の両 りょう 時代 じだい を通 つう じて刊行 かんこう されなかったこともあり、明治 めいじ 以降 いこう も真葛 さねかずら に言及 げんきゅう した著作 ちょさく がみられた[ 81] ものの、断片 だんぺん 的 てき ないし不正確 ふせいかく な言及 げんきゅう にとどまり、真葛 さねかずら の著作 ちょさく に拠 よ らないものが多 おお かった[ 81] 。
そうしたなかで、上述 じょうじゅつ の中山 なかやま 英子 えいこ は早 はや くから『独 どく 考 こう 』に注目 ちゅうもく したひとりであり、中山 なかやま は真葛 さねかずら を「女性 じょせい 解放 かいほう の先駆 せんく 者 しゃ 」と評価 ひょうか している[ 81] 。
柴 しば 桂子 けいこ は、1969年 ねん (昭和 しょうわ 44年 ねん )、江戸 えど 時代 じだい の女性 じょせい の著作 ちょさく を広 ひろ く渉猟 しょうりょう して『江戸 えど 時代 じだい の女 おんな たち』を刊行 かんこう した。そのなかで柴 しば は、真葛 さねかずら を「哲学 てつがく 者 しゃ であり、思想家 しそうか であり、社会 しゃかい 改良 かいりょう 家 か 」であるとしている。柴 しば はまた『朝 ちょう 日 にち 日本 にっぽん 歴史 れきし 人物 じんぶつ 事典 じてん 』(朝日新聞社 あさひしんぶんしゃ 、1994年 ねん 11月)「只野 ただの 真葛 さねかずら 」項 こう のなかで、真葛 さねかずら を「体系 たいけい 的 てき な学問 がくもん をしたわけではないが、国学 こくがく 、儒学 じゅがく 、蘭学 らんがく などのうえに独自 どくじ の思想 しそう を築 きず いていった」と記 しる し、『独 どく 考 こう 』については、「偏 かたよ りもあるが、江戸 えど 期 き の女性 じょせい の手 て になる社会 しゃかい 批判 ひはん 書 しょ であり、女性 じょせい 解放 かいほう を叫 さけ ぶ書 しょ として評価 ひょうか できよう」としている[ 82] 。1977年 ねん (昭和 しょうわ 52年 ねん )に刊行 かんこう された『人物 じんぶつ 日本 にっぽん の女性 じょせい 史 し 10 江戸 えど 期 き 女性 じょせい の生 せい きかた』では、杉本 すぎもと 苑子 そのこ が「滝沢 たきざわ みちと只野 ただの 真葛 さねかずら 」のなかで『独 どく 考 こう 』を「ユニーク」で「大胆 だいたん な」「文明 ぶんめい 批評 ひひょう 」と評 ひょう している[ 83] 。また、大口 おおぐち 勇次郎 ゆうじろう は、真葛 さねかずら は「両性 りょうせい の肉体 にくたい の差異 さい 性 せい を確認 かくにん することを通 つう じて」「才知 さいち の面 めん における両性 りょうせい の対等 たいとう な関係 かんけい を主張 しゅちょう 」したと指摘 してき している[ 84] 。
門 かど 玲子 れいこ は、1998年 ねん の『江戸 えど 女流 じょりゅう 文学 ぶんがく の発見 はっけん 』のなかで、真葛 さねかずら と馬琴 ばきん のやり取 と りを「ここで江戸 えど 後期 こうき のすぐれた男女 だんじょ の文学 ぶんがく 者 しゃ が、全力 ぜんりょく でぶつかりあって、火花 ひばな を散 ち らしたのをみるように思 おも う」[ 85] と述 の べ、真葛 さねかずら の『独 どく 考 こう 』と馬琴 ばきん の『独 どく 考 こう 論 ろん 』を比較 ひかく している。それによれば、真葛 さねかずら 『独 どく 考 こう 』は、馬琴 ばきん が指摘 してき するように「不学 ふがく 不問 ふもん の心 しん を師 し とし」たもので、あくまで真葛 さねかずら 自身 じしん の独創 どくそう 的 てき な議論 ぎろん であり、自問自答 じもんじとう しながらたどたどしく考察 こうさつ し、既成 きせい のことばを用 もち いないことから、晦渋 かいじゅう な部分 ぶぶん も含 ふく まれる[ 85] のに対 たい し、馬琴 ばきん 『独 どく 考 こう 論 ろん 』は「儒教 じゅきょう 的 てき な教養 きょうよう をもつ作家 さっか の堂々 どうどう とした反論 はんろん 」[ 66] であり、文章 ぶんしょう はきわめて明晰 めいせき であり、曖昧 あいまい さも晦渋 かいじゅう さもそこにはみられない[ 66] としており、馬琴 ばきん の立場 たちば や考 かんが えを擁護 ようご しながら「もし真葛 さねかずら が儒学 じゅがく を学 まな んでいたら、もっと楽 らく に息 いき がつけたのではないだろうか」[ 86] と問 と いかけるいっぽう、「真葛 さねかずら は誰 だれ をも師 し とせず、儒仏 じゅぶつ の学 がく を学 まな ばず、まったくの独 ひと り学 まな びでこの著作 ちょさく を書 か きあげた。だからこそ、その独創 どくそう 的 てき なういういしい思索 しさく の芽 め が、教養 きょうよう の力 ちから によって摘 つ みとられずに残 のこ されたとも考 かんが えられる」[ 73] と考察 こうさつ している。
また、「肉体 にくたい の思想 しそう 」という概念 がいねん を用 もち いて『独 どく 考 こう 』を評価 ひょうか したのは鈴木 すずき よね子 こ であった[ 81] 。門 かど 玲子 れいこ も、性 せい の心 しん の拠 よ り所 どころ とする真葛 さねかずら の発想 はっそう について「フロイトのリビドーを連想 れんそう させて、興味深 きょうみぶか い」[ 87] としている。
経済 けいざい 思想 しそう については、戦前 せんぜん すでに白柳 しらやなぎ 秀湖 しゅうこ が「彗星 すいせい 的 てき 婦人 ふじん の比較 ひかく 観察 かんさつ 女流 じょりゅう 経済 けいざい 論 ろん 者 しゃ 工藤 くどう 綾子 あやこ 」(1914年 ねん 、『淑女 しゅくじょ 画 が 報 ほう 』3-9)、および「天明 てんめい の大 だい 飢饉 ききん と工藤 くどう 綾子 あやこ 」(1934年 ねん 、『伝記 でんき 』2-1)を著 あらわ しており、経済 けいざい 論 ろん 者 しゃ としての側面 そくめん が注目 ちゅうもく されている[ 88] 。関 せき 民子 たみこ は、未熟 みじゅく ではあるものの王権 おうけん 神授 しんじゅ 説 せつ や重 じゅう 商 しょう 主義 しゅぎ 政策 せいさく などによって体制 たいせい の危機 きき を克服 こくふく しようという絶対 ぜったい 君主 くんしゅ 制 せい の志向 しこう を内包 ないほう している点 てん を評価 ひょうか している[ 89] 。
「人 ひと を倒 たお してわれ富 と まん」の風潮 ふうちょう は、現代 げんだい の社会 しゃかい 経済 けいざい 状況 じょうきょう とも無関係 むかんけい ではない。「人 ひと よかれ、我 が もよかれ」という真葛 さねかずら の訴 うった えは現代 げんだい にも通 つう 底 そこ する願 ねが いであるとして新聞 しんぶん のコラム にも掲載 けいさい された[ 90] 。
『独 どく 考 こう 』に対 たい する国際 こくさい 的 てき 関心 かんしん [ 編集 へんしゅう ]
『独 どく 考 こう 』については、近年 きんねん 、国際 こくさい 的 てき にも関心 かんしん が寄 よ せられている。2009年 ねん 12月には台湾 たいわん の国立 こくりつ 政治 せいじ 大学 だいがく において、国際 こくさい シンポジウム 「女性 じょせい ・消費 しょうひ ・歴史 れきし 記憶 きおく 」が開 ひら かれた際 さい 、筑波大学 つくばだいがく 大学院 だいがくいん 特別 とくべつ 研究 けんきゅう 員 いん の金 きむ 學 まなぶ 淳 じゅん によって「只野 ただの 真葛 さねかずら 與 あずか 曲亭馬琴 きょくていばきん 的 てき 儒學 じゅがく 與 あずか 對 たい 異國 いこく 的 てき 認知 にんち -以《獨 どく 考 こう 》與 あずか 《獨 どく 考 こう 論 ろん 》中 ちゅう 認知 にんち 的 てき 差異 さい 為 ため 例 れい 」(日本語 にほんご : 「只野 ただの 真葛 さねかずら と曲亭馬琴 きょくていばきん の儒学 じゅがく と異国 いこく へのまなざし -『独 どく 考 こう 』と『独 どく 考 こう 論 ろん 』における認識 にんしき の差異 さい を通 とお して- 」)の報告 ほうこく があった(コメンテーター は黃 き 智 さとし 暉 あきら 東 ひがし 吳大学 くれだいがく 日本語 にほんご 文学 ぶんがく 系 けい 助 じょ 理 り 教授 きょうじゅ )[ 91] 。
『独 どく 考 こう 』の英訳 えいやく も2001年 ねん になされた。以下 いか の訳書 やくしょ がある(5名 めい による共 とも 訳 やく )。
Solitary Thoughts :"A Translation of Tadano Makuzu's Hitori Kangae," trans. Janet R. Goodwin, Bettina Gramlich-Oka , Elizabeth A. Leicester, Yuki Terazawa, and Anne Walthall, Monumenta Nipponica 56:1 (2001), 56:2 (2001).[ 92]
なお、飜訳者 しゃ のうちのアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のBettina Gramlich-Oka(岡 おか ベティーナ)は、2006年 ねん に只野 ただの 真葛 さねかずら の研究 けんきゅう 書 しょ "Thinking Like a Man:Tadano Makuzu (1763-1825)"を著 あらわ している[ 93] 。
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^ 実際 じっさい に当時 とうじ の仙台 せんだい 藩 はん は、宝 たから 暦 れき 5年 ねん (1755年 ねん )の奥羽 おうう 飢饉 ききん 、明和 めいわ 4年 ねん (1767年 ねん )の幕府 ばくふ の命 いのち による関東 かんとう 諸 しょ 河川 かせん 改修 かいしゅう 、天明 てんめい 4年 ねん (1784年 ねん )と翌年 よくねん の不作 ふさく 、さらに江戸 えど の藩邸 はんてい 焼失 しょうしつ などで多額 たがく の借金 しゃっきん をした。町人 ちょうにん 学者 がくしゃ 山片 やまがた 蟠 わだかま 桃 もも が経営 けいえい する大坂 おおさか の米 べい 取引 とりひき 業者 ぎょうしゃ 升屋 ますや により、財政 ざいせい 赤字 あかじ は解消 かいしょう するが、そののち升屋 ますや の経済 けいざい 的 てき な支配 しはい を受 う けるに至 いた っている。門 もん (1998)p.194-195
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中山 なかやま 秀子 ひでこ 『只野 ただの 真葛 さねかずら 』丸善 まるぜん 仙台 せんだい 支店 してん 、1936年 ねん 。
柴 しば 桂子 けいこ 『江戸 えど 時代 じだい の女 おんな たち』評論 ひょうろん 新 しん 社 しゃ 、1969年 ねん 。
大口 おおぐち 勇次郎 ゆうじろう 『女性 じょせい のいる近世 きんせい 』勁草書房 しょぼう 、1995年 ねん 10月 がつ 。ISBN 4326651857
門 かど 玲子 れいこ 『わが真葛 さねかずら 物語 ものがたり 江戸 えど の女性 じょせい 思索 しさく 者 しゃ 探訪 たんぼう 』藤原 ふじわら 書店 しょてん 、2006年 ねん 3月 がつ 。ISBN 4894345056
小谷 おたに 喜久江 きくえ 『江戸 えど 後期 こうき における武家 ぶけ 女性 じょせい の生 い き方 かた ―女子 じょし 教育 きょういく の面 めん からの一 いち 考察 こうさつ ―』2006年 ねん 5月 がつ 15日 にち 、マッコーリ大学 だいがく (学位 がくい 論文 ろんぶん )
Gramlich-oka, Bettina"Thinking Like a Man:Tadano Makuzu (1763-1825)" Brill Academic Pub<Brill's Japanese Studies Library>,2006/05. ISBN 9789004152083