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とうふかしあきら

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とうせんから転送てんそう
清方きよかたかおるそうなん
とうふかしあきら
各種かくしゅ表記ひょうき
繁体字はんたいじ とうふかしあきら
簡体字かんたいじ とう渊明
拼音 Táo Yuānmíng
ラテン T'ao2 Yüan1-ming2
和名わみょう表記ひょうき とうえんめい
発音はつおん転記てんき タオユェンミン
英語えいごめい Tao Yuanming
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とう ふかしあきら(とう えんめい、きょうやすし3ねん365ねん[1] - げんよしみ4ねん427ねん〉11がつ)は、中国ちゅうごくすすむ南北なんぼくあさ時代じだい六朝りくちょう)、あずますすむすえから南朝なんちょうそう文学ぶんがくしゃげんあきら。またはせんふちあきら[2]死後しご友人ゆうじんからのおくりなにちなみ「やすしぶし先生せんせい」、または自伝じでんてき作品さくひんやなぎ先生せんせいでん」から「やなぎ先生せんせい」ともばれる。ひろぐんしばくわけん現在げんざい江西えにししょうきゅうしばくわ)のひと郷里きょうり田園でんえん隠遁いんとんみずか農作業のうさぎょう従事じゅうじしつつ、日常にちじょう生活せいかつそくした詩文しぶんおおのこし、後世こうせいには「隠逸いんいつ詩人しじん」「田園詩人でんえんしじん」とばれる。ちんとらつとむ研究けんきゅうによると、現在げんざい湖南こなんしょうにある五渓蛮出身[3]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

とうふかしあかりよんことめいじ(なづ)く」によると、その神話しんわ皇帝こうていみかどとうとう)にさかのぼるという。祖先そせんは、さんこくくれあげ武将ぶしょうぐんとうまことであり、とうまことあずますすむだい司馬しばちょうすなぐんおおやけとうただし曾祖父そうそふにあたり、祖父そふとうしげるたけあきらぐん太守たいしゅとなったというが、くわしいこと不明ふめいである[4]母方ははかた祖父そふにははじめよしみがいる。いずれも門閥もんばつ重視じゅうしされたたかしすすむ南北なんぼくあさ時代じだいにおいては、「かんもんたんもん)」[5]ばれる下級かきゅう士族しぞく出身しゅっしんであった。

とうふかしあかりふともと18ねん393ねん)、しゅうまつりしゅとして出仕しゅっしするも短期間たんきかんめ、直後ちょくごおも簿記録きろくかん)としてまねかれたが就任しゅうにん辞退じたいする。りゅうやすし3ねん399ねん)、しゅう刺史しし桓玄つかえるも、たかしやす5ねん401ねん)にははははじめふくすため辞任じにんもときょう3ねん404ねん)、鎮軍将軍しょうぐんりゅうひろしさんぐん幕僚ばくりょう)としてつかえる[6]。これらの出仕しゅっしおも経済けいざいてき理由りゆうによるものであったが、いずれも下級かきゅう役人やくにんとしての職務しょくむえられず、短期間たんきかん辞任じにんしている。元年がんねん405ねんあき8がつ彭沢県令けんれいとなるが、80すうにちの11月には辞任じにんして帰郷ききょうした[7]

以後いごとうふかしあかり隠遁いんとん生活せいかつつづ出仕しゅっしせず、いおりやま慧遠えおん師事しじしたしゅうぞくこれ中国語ちゅうごくごばんただしさん隠棲いんせいしたりゅうのこみん中国語ちゅうごくごばんと「ひろさんかくれ」としょうされた。隠棲いんせい出来事できごととしては、よし熙4ねん408ねん)、火事かじにあって屋敷やしきうしない、しばらくは門前もんぜんもやふね寝泊ねとまりする[8]よし熙7ねん411ねん)、まいを南村なんそんうつすも[9]同年どうねん隠遁いんとん生活せいかつ同士どうしであった従弟じゅうていすえ敬遠けいえんうしな[10]、ということがあった。このあいだあずますすむおよびりゅうひろし建国けんこくした南朝なんちょうそう朝廷ちょうていからまねかれたがいずれもおうじなかった。げんよしみ4ねん(427ねん)、死去しきょ享年きょうねん63[1]。その誄(追悼ついとうぶん)は、友人ゆうじん当時とうじ代表だいひょうする文人ぶんじんかお延之のぶゆきによるものであった。

家族かぞく[編集へんしゅう]

とうふかしあかり子供こどもぞう

とうふかしあかりふともと9ねん384ねんごろ結婚けっこんしたが、ふとしもと19ねん394ねんごろ死別しべつした。その翟氏と再婚さいこんした。りょうつまあいだすえげんとう俟・とう份・とう佚・とう佟という5にんがいた。

逸話いつわ[編集へんしゅう]

とうふかしあきら・『ばんわらいどう竹荘たけしょうでん』より。絃のないきんかかえるのは、昭明しょうめい太子たいししょうみつるの「とうふかしあかりでん」にしるされた故事こじによる。
  • つるきんたずさえ、えば、そのきん愛撫あいぶしてしんなか演奏えんそうたのしんだという逸話いつわがある[11]。この「つるきん」については、『菜根さいこんたんしゅう8にも記述きじゅつられ、意味いみ要約ようやくすると、存在そんざいするものをるだけで、手段しゅだんにとらわれているようでは、学問がくもん学術がくじゅつ真髄しんずいれることはできないとしるしており、つるきんとは、中国ちゅうごく文化ぶんかにおける一種いっしゅ極致きょくちといった意味合いみあいがふくまれている[12]

文学ぶんがく作品さくひん[編集へんしゅう]

現存げんそんするとうふかしあかり作品さくひんは、散文さんぶんわせて130しゅつたえられる。そのなかでも「田園でんえん」とばれる、江南こうなん田園でんえん風景ふうけい背景はいけいに、官吏かんりとしての世俗せぞく生活せいかつけ、いわゆる晴耕雨読せいこううどく生活せいかつ主題しゅだいとする一連いちれん作品さくひんは、どう時代じだいおよび後世こうせい人々ひとびとから理想りそう隠逸いんいつ生活せいかつ体現たいげんとしてたか評価ひょうかた。隠逸いんいつへの希求ききゅう主題しゅだいとする作品さくひんは、とうふかしあかり以前いぜんにも「招隠」「ゆうせん」などが存在そんざいし、とうふかしあかりきたあずますすむ時代じだい一世いっせい風靡ふうびした「げんげん」の一部いちぶもそれにてはまる。しかし、これらの作品さくひんおおくでうたわれる内容ないようは、当時とうじ流行りゅうこうしたげんがく影響えいきょうをうけ、世俗せぞくから完全かんぜんはなされた隠者いんじゃ生活せいかつ観念かんねんてきろうそう哲理てつり終始しゅうしするものであった。とうふかしあかり作品さくひんにおける隠逸いんいつは、それらに影響えいきょうけつつも、みずからの日常にちじょう生活せいかつ体験たいけんざした具体ぐたいてき内実ないじつったものとしてえがかれており、としてのゆたかな抒情じょじょうせいうしなわないところにおおきな相違そういてんがある。とうふかしあかりどう時代じだいにおいては、「古今ここん隠逸いんいつ詩人しじんむね[13]というひょうられるように、隠逸いんいつ主題しゅだいとする一連いちれん作品さくひんのこしたユニークな詩人しじんとして、南朝なんちょうはり昭明しょうめい太子たいしの「ぶんあいたしなみ、よりのうはず、なおとくおもえひ、ときおなじくせざるをうらむ」[14]のような一部いちぶ愛好あいこうしゃ獲得かくとくしていた。一方いっぽう修辞しゅうじ方面ほうめんでは、すすむ南北なんぼくあさ時代じだい貴族きぞく文学ぶんがく代表だいひょうするきらびやかで新奇しんき表現ひょうげん追求ついきゅうする傾向けいこうから距離きょりき、かざのない表現ひょうげんこころがけたてん特徴とくちょうがある。このような修辞しゅうじめんでの特徴とくちょうは、隠逸いんいつ詩人しじんとしての側面そくめんとはことなり、鍾嶸が紹介しょうかいする「しつじきたんず」の世評せひょうのように、どう時代じだい文学ぶんがくしゃにはれられなかったが、とうだいになると次第しだい評価ひょうかされはじめ、そうだい以降いこうには、「ふちあきらつくることおおからず。しかれどもそのしつにしてじつあやぎぬ、癯にしてじつは腴なり」[15]のようにたか評価ひょうか確立かくりつするようになる。

とうふかしあかりにはのほかにも、散文さんぶんに12へん作品さくひんがある。「帰去来ききょらい」や「ももはなげん」がとく有名ゆうめいである。前者ぜんしゃは彭沢れい辞任じにんしたときかれたとされ、とうふかしあかりの「田園詩人でんえんしじん」「隠逸いんいつ詩人しじん」としての代表だいひょうてき側面そくめんえがかれた作品さくひんである。後者こうしゃは、当時とうじ中国ちゅうごく文学ぶんがくでは数少かずすくないフィクションであり東洋とうようばんユートピア理想郷りそうきょう表現ひょうげんである桃源郷とうげんきょう語源ごげんとなった作品さくひんとして名高なだかい。ほかにも自伝じでんてき作品さくひんとされる「やなぎ先生せんせいでん」や、非常ひじょうあでやかな内容ないようで、隠者いんじゃとしての一般いっぱんてきなイメージにそぐわないことから、愛好あいこうしゃである昭明しょうめい太子たいしに「しろ璧のほろきず」とひょうされた「閑情の」などがある。

著名ちょめい作品さくひん[編集へんしゅう]

飮酒いんしゅじゅうしゅ 其五
原文げんぶん くだぶん つうしゃく
ゆいいおりざいひとさかい いおり(ろ)をむすびてひとさかい 人里ひとざといえかまえているが
而無車馬しゃばやかまし 而も車馬しゃばやかましき しかし来客らいきゃくくるまうまおとにのってさわがしくおとずれることもない
といくんなんのうなんじ きみのうなんじ(しか)ると 「なぜそんなことがありえるのか」とわれるが
こころ遠地おんちへん しんとおければ おのずからへんなり しん世間せけんからとおはなれているから、んでいる土地とち自然しぜんひとすくないおもむきにかわるのだ
採菊さいぎく東籬とうり きく東籬とうり(とうり)のした ひがし垣根かきねしたきくつまむと
悠然ゆうぜん南山なんざん 悠然ゆうぜんとして南山みなみやま とおはるかにいおりさんはい
山氣やまき夕佳ゆか 山気やまき ゆうけい(よ)し やま光景こうけい夕方ゆうがたとく素晴すばらしい
飛鳥ひちょうしょうあずかかえ 飛鳥ひちょう しょうあずかかえ とりたちがってやまかえっていく
中有ちゅうう眞意しんい 此のなか真意しんい この光景こうけいうちにこそ、真実しんじつ境地きょうち存在そんざいする
よくべんやめ忘言 べんぜんとほっしてすでげんを忘る しかし、それをつぶさかそうとすると、言葉ことばわすれてしまうのだ

わけ解説かいせつ[編集へんしゅう]

きん年刊ねんかん全訳ぜんやく注解ちゅうかいのみ。

伝記でんき[編集へんしゅう]

近年きんねん刊行かんこう再刊さいかん)をおも記載きさい

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 沈約そうしょ隠逸いんいつでん記述きじゅつより。ただし生年せいねんおよび死亡しぼう年齢ねんれいについてはおおくの異説いせつがある。
  2. ^ 南朝なんちょうはり昭明しょうめい太子たいししょうみつるの「とうふかしあかりでん」および『そうしょ隠逸いんいつでんより。名前なまえについては諸説しょせつがあり、『すすむしょ隠逸いんいつでんでは「とうせんもとあきら」、『みなみ隠逸いんいつでんでは「とうせんふちあかりあるうんふちあきらめいもとあきら」とする。
  3. ^ ちょう維安りゅう大和やまと へんきゃくうつ臺灣たいわんぞくぐん文化ぶんかあずかきゃくみとめどう桂冠けいかん、2015ねん12月16にち、110-111ぺーじISBN 9789577306371https://web.archive.org/web/20220104100621/http://hs.nctu.edu.tw:3000/lau7_su1_tiau5_bok8_uploads/1620876779edd975.pdf 
  4. ^ すすむしょとうただしでんには、とうただし子孫しそんいくにんかが記録きろくされているが、そこにはとうしげる名前なまえはない。
  5. ^ かんもん」とはまずしくいやしい家柄いえがらのこと。『だい漢和かんわ辞典じてんまき3のP,1074より「たんもん」とは親戚しんせき援助えんじょしゃすくないいえのこと。『だい漢和かんわ辞典じてんまき2のP.1112より
  6. ^ 文選ぶんせんよしちゅうより。鎮軍将軍しょうぐんりゅうろうとし、たかしやす3ねん(399ねん)のこととする異説いせつもある(きよしとうなど)
  7. ^ 帰去来ききょらいじょによると、ほどとついでいたいもうと理由りゆうとある。「とうふかしあかりでん」や『そうしょ』『みなみほんつてによると、ぐんとく郵が巡察じゅんさつるので衣冠いかん束帯そくたいしてつようした吏にわれたのにたいし、「わが五斗米ごとべいためこしりて郷里きょうり小人こどもかうあたわず(わずかな俸給ほうきゅうのために、田舎いなか若造わかぞうこしるのはぴらだ)」と憤慨ふんがいし、即日そくじつ辞職じしょく帰郷ききょうしたという。
  8. ^ つちのえさるとしろくがつちゅう う」
  9. ^ きょうつす」
  10. ^ 従弟じゅうてい敬遠けいえんまつぶん
  11. ^ 吉田よしだゆたか中国ちゅうごく古典こてんひゃくことひゃく1 菜根さいこんたん』(PHP研究所けんきゅうじょ、1987ねん)p.176.
  12. ^ 中国ちゅうごく古典こてんひゃくことひゃく1 菜根さいこんたん』p.176。湯浅ゆあさ邦弘くにひろ『ビギナーズ・クラシックス中国ちゅうごく古典こてん 菜根さいこんたん』(角川かどかわソフィア文庫ぶんこ、2014ねん)pp.171-172.
  13. ^ 南朝なんちょうはりの鍾嶸『ひんちゅうひん
  14. ^ とうふかしあかりしゅうじょ
  15. ^ わだちあずかうるしょ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]