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はまたのぼる (2002ねん映画えいが)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
はまたのぼ
Dawn of a New Day: The Man Behind VHS
監督かんとく 佐々部ささべきよし
脚本きゃくほん 西岡にしおか琢也たくや
佐々部ささべきよし
原作げんさく 佐藤さとう正明まさあき
映像えいぞうメディアの世紀せいき
製作せいさく 厨子ずし稔雄としお
小松こまつ茂明しげあき
出演しゅつえんしゃ 西田にしだ敏行としゆき
渡辺わたなべけん
緒形おがた直人なおと
真野まの響子きょうこ
篠原しのはら涼子りょうこ
くにむらはやぶさ
江守えもりとおる
ばいしょう美津子みつこ
石橋いしばし蓮司れんじ
夏八木なつやぎいさお
仲代なかだい達矢たつや
音楽おんがく 大島おおしまミチル
撮影さつえい 木村きむら大作だいさく
編集へんしゅう 大畑おおはたえいあきら
製作せいさく会社かいしゃはまたのぼる」製作せいさく委員いいんかい
配給はいきゅう 東映とうえい
公開こうかい 日本の旗 2002ねん6月15にち
上映じょうえい時間じかん 108ふん
製作せいさくこく 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
興行こうぎょう収入しゅうにゅう 4.2おくえん[1]
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はまたのぼ』(ひはまたのぼる)は、2002ねん公開こうかいされた日本にっぽん映画えいがビデオテープカセット規格きかくVHS開発かいはつプロジェクトの実話じつわえがいたルポルタージュ映像えいぞうメディアの世紀せいき[ちゅう 1]』(佐藤さとう正明まさあきちょ)を脚色きゃくしょくした物語ものがたり佐々部ささべきよし監督かんとくデビューさくだい15かい日刊にっかんスポーツ映画えいが大賞たいしょう石原いしはら裕次郎ゆうじろうしょう作品さくひんしょう)を受賞じゅしょうした。

映像えいぞうメディアの世紀せいき』は、高度こうど経済けいざい成長せいちょう終端しゅうたん日本にっぽん展開てんかいされた家庭かていようビデオテープレコーダー(VTR)の開発かいはつ競争きょうそうビデオ戦争せんそう)をえがいたノンフィクション作品さくひんである。同書どうしょをもとにしたほんさくでは、日本にほんビクター(のちのJVCケンウッド)のほか、ソニー松下電器産業まつしたでんきさんぎょう(のちのパナソニック)などの社名しゃめい、ロゴデザイン、実際じっさい機種きしゅめいがそのままもちいられている。ただし登場とうじょう人物じんぶつのうち、実在じつざい人物じんぶつはほとんどえている(松下電器まつしたでんき相談役そうだんやく松下まつした幸之助こうのすけのみ実名じつめいのままとなっている)ほか、できごとの時期じきとき系列けいれつなどに史実しじつとの相違そういがある。

ストーリー[編集へんしゅう]

1973ねん昭和しょうわ48ねん)。日本にほんビクターは経営けいえい不振ふしんおちいっていた。ビデオカメラ技術ぎじゅつしゃで、すうねん定年ていねん退職たいしょくだった本社ほんしゃ開発かいはつ部員ぶいん加賀谷かがやは、ながらく空席くうせきだった横浜よこはま工場こうじょうビデオ事業じぎょう事業じぎょう部長ぶちょう任命にんめいされる。現場げんば一筋ひとすじでマネジメント未経験みけいけんだった加賀谷かがや任務にんむは、採算さいさん部門ぶもんであるビデオ事業じぎょうリストラ実行じっこうすることだった。ビデオ事業じぎょうテレビ放送ほうそう業務ぎょうむなどにもちいられるU規格きかくのテープおよび機器ききなどを生産せいさんしていたが、良品りょうひんつづきで返品へんぴんりつが50パーセントをえるつきもあり、同業どうぎょう他社たしゃどう規格きかくひんされて、業績ぎょうせき先細さきほそっていた。当初とうしょ人員じんいん整理せいりにやってたとめつけられた加賀谷かがや工場こうじょうないでまったく歓迎かんげいされなかった。加賀谷かがや良品りょうひん生産せいさん原因げんいん部署ぶしょあいだ業者ぎょうしゃあいだのコミュニケーション不足ふそくとみて、従業じゅうぎょういん取引とりひき業者ぎょうしゃかお名前なまえ丹念たんねん記憶きおくし、しきりにこえをかけることで人間にんげん関係かんけい徐々じょじょ円滑えんかつし、問題もんだい改善かいぜんみちびく。

手応てごたえをかんじた加賀谷かがやは、独断どくだんでビデオ事業じぎょう一部いちぶしょ・ビデオ開発かいはつ工場こうじょう敷地しきちない倉庫そうこ移転いてんし、自身じしんもと部下ぶか江口えぐちたちをせる。幹部かんぶ方針ほうしんはんする人員じんいん増強ぞうきょうだった。しかしかれらは加賀谷かがやからなん計画けいかく提示ていじされず、顧客こきゃくからおくられた業務ぎょうむようビデオカメラやVTRの故障こしょう修理しゅうりれ、開発かいはつとはばかりの日々ひびおくることになり、加賀谷かがや目的もくてきをいぶかしがる。加賀谷かがや業績ぎょうせき赤字あかじ解消かいしょうをじっくりち、幹部かんぶこう印象いんしょうてから、中断ちゅうだんしたままのビデオカメラの小型こがた研究けんきゅう再開さいかいさせるつもりでいた。加賀谷かがや本社ほんしゃ出向でむき、「家庭かていようビデオカメラ」を念頭ねんとうに「カラーテレビ普及ふきゅう需要じゅようひんとして、VTRを家庭かていけに生産せいさん販売はんばいできれば、5000おくえん規模きぼ成長せいちょう産業さんぎょうになる」とビデオ事業じぎょうへの予算よさん増強ぞうきょううったえる。しかしかれはやすぎた構想こうそう経営けいえい合理ごうり至上しじょうとする幹部かんぶたちにほとんど理解りかいされなかった。そんななか部品ぶひん仕入しいさきだったまち工場こうじょう門脇かどわき工業こうぎょう火災かさい全焼ぜんしょう主力しゅりょく製品せいひんだったU規格きかく一時いちじ生産せいさん不能ふのうになってしまう。赤字あかじ解消かいしょう計画けいかく暗礁あんしょうげたため、加賀谷かがや事業じぎょう次長じちょう大久保おおくぼ打開だかいさくる。

加賀谷かがやでは、ある加賀谷かがやかえった業務ぎょうむようU規格きかくVTRを使つかって、つま圭子けいこがテレビ番組ばんぐみ録画ろくがして上映じょうえいかいひらき、近所きんじょひとたちによろこばれていた。その様子ようすて「家庭かていけテレビ番組ばんぐみ録画ろくがようVTR」の可能かのうせい確信かくしんした加賀谷かがやは、工場こうじょうないに「システム開発かいはつ」を新設しんせつする。それもまた開発かいはつとはばかりの、店舗てんぽ事業じぎょうしょけVTRの営業えいぎょう販売はんばい担当たんとうするセクションだった。営業えいぎょう担当たんとうまわされた技術ぎじゅつしゃたちは、他社たしゃ製品せいひんふくめたVTRの出張しゅっちょう修理しゅうりけるうち、顧客こきゃくから従来じゅうらいのVTRの不満ふまんきつけるようになる。ここにいたり、技術ぎじゅつしゃたちのおおくは、加賀谷かがや目的もくてき従来じゅうらいひん改善かいぜんてんあらし、改良かいりょうひん開発かいはつにつなげることにあったと理解りかいする。また、当時とうじおもなテープ規格きかくでは、最大さいだい録画ろくが時間じかんは30ふんから60ふん限度げんどだったが、2あいだ録画ろくが可能かのうなテープをもとめるこえおおいことが判明はんめいする。一方いっぽう有能ゆうのう技術ぎじゅつしゃだったにもかかわらずシステム開発かいはつまわされた江口えぐち加賀谷かがや真意しんいをはかりかね、待遇たいぐうへの不満ふまんこうじて日本にほんビクターを退社たいしゃし、松下電器産業まつしたでんきさんぎょう転職てんしょくする。

既存きそん規格きかく構造こうぞうに2あいだぶんのテープをむのは困難こんなんであることがわかったため、加賀谷かがやはビデオ開発かいはつとともに、家庭かてい長時間ちょうじかん録画ろくがテープカセットのしん規格きかくVHS」の開発かいはつ極秘ごくひ開始かいしする。開発かいはつじん当初とうしょ、カセットのおおきさは従来じゅうらい規格きかくおなじのままでドラム直径ちょっけい従来じゅうらい規格きかくよりちいさく設計せっけいすることで長時間ちょうじかん可能かのうにしようとしたが、テープ走行そうこう不安定ふあんていになって画像がぞうみだれるという問題もんだい直面ちょくめんし、よきアドバイザーであった江口えぐちいたこともあって、そのまま開発かいはつ頓挫とんざする。

1975ねん昭和しょうわ50ねん)。おなじように家庭かていようVTRにをつけていたソニー家庭かていけビデオカセット規格きかくベータマックス」を発表はっぴょうする。ソニーの社長しゃちょうは、発表はっぴょうかい電機でんきメーカー各社かくしゃにベータマックス規格きかく導入どうにゅうするようはたらきかける。それをけ、加賀谷かがや日本にほんビクター本社ほんしゃ開発かいはつはたけ専務せんむ渡会わたらいび、VHS開発かいはつ計画けいかく進行しんこうをはじめてかす。そのあいだ家電かでん業界ぎょうかいゆうである松下電器産業まつしたでんきさんぎょうがベータマックス規格きかく家庭かていようVTRを発表はっぴょうし、日本にほんビクターをのぞ業界ぎょうかい全体ぜんたいがベータマックス規格きかく採用さいようかたむく。

開発かいはつじんこぶしまじえた激論げきろんのすえ、ベータマックスよりカセットの筐体きょうたいおおきくすることを決断けつだんして画像がぞうみだれの問題もんだい解決かいけつし、VHSは完成かんせいをみる。加賀谷かがやはVHSの普及ふきゅうはやめるため、互換ごかんせい統一とういつかくメーカーにびかけるべく、VHS規格きかくかんする特許とっきょ技術ぎじゅつをすべて無償むしょう公開こうかいすることをめる。ビデオカセット規格きかく分裂ぶんれつあんじた通商産業省つうしょうさんぎょうしょう通産省つうさんしょう)の役人やくにん小出こいでは、日本にほんビクター幹部かんぶにVHS規格きかく封印ふういんせまる。大久保おおくぼ加賀谷かがやれ、大阪おおさか門真かどま松下電器まつしたでんき本社ほんしゃ出向でむき、創業そうぎょうしゃ松下まつした幸之助こうのすけに、家庭かていようVTR規格きかくをVHSに統一とういつすべく業界ぎょうかい主導しゅどうするよう直訴じきそする。松下まつした社内しゃない技術ぎじゅつしゃあつめ、2人ふたりにVHS機器ききのプレゼンをおこなわせる。松下まつしたは「ベータマックスは100てん満点まんてん。VHSは150てん」とほめたたえる。

1976ねん昭和しょうわ51ねん10月31にち日曜日にちようび)、日本にほんビクターはVHS規格きかく家庭かていようVTRだいいち号機ごうき「HR-3300」を発売はつばいする。横浜よこはま工場こうじょうでは休日きゅうじつ返上へんじょうして従業じゅうぎょういん総出そうででの出荷しゅっか作業さぎょうおこなわれ、松下電器まつしたでんき社員しゃいんとなった江口えぐちもやってきて手伝てつだう。やがて、家庭かていようVTRの普及ふきゅうはVHS優勢ゆうせいとなる。ある加賀谷かがやたく松下まつした幸之助こうのすけから封書ふうしょとどく。それは転職てんしょく江口えぐち松下まつしたてた手紙てがみ転送てんそうであり、加賀谷かがやたいする尊敬そんけい感謝かんしゃ言葉ことばがつづられていた。

加賀谷かがや退社たいしゃ大久保おおくぼ加賀谷かがや家族かぞく工場こうじょうまねく。屋上おくじょう案内あんないされた加賀谷かがやたちは、従業じゅうぎょういんたちによる「VHS」の人文字ひともじて、なみだながした。

登場とうじょう人物じんぶつ[編集へんしゅう]

日本にほんビクター 横浜よこはま工場こうじょうビデオ事業じぎょう[編集へんしゅう]

加賀谷かがや静男しずお
本社ほんしゃ開発かいはつビデオ室長しつちょう→ビデオ事業じぎょう部長ぶちょう。モデルは高野たかの鎮雄しずお(VTR事業じぎょう部長ぶちょう[2]
大久保おおくぼおさむ
ビデオ事業じぎょう次長じちょう。モデルは上野うえの吉弘よしひろ(VTR事業じぎょう次長じちょう[2]
江口えぐちすずかたいら
本社ほんしゃ開発かいはつ部員ぶいん→ビデオ事業じぎょうシステム開発かいはつ課員かいんて、松下電器産業まつしたでんきさんぎょう転職てんしょくする。
平井ひらいともてる
ビデオ事業じぎょうビデオ開発かいはつ課長かちょう。モデルは廣田ひろたあきら開発かいはつ課長かちょう)もしくは白石しらいしいさむすり開発かいはつ部長ぶちょう[2]
新田にった泰介たいすけ
ビデオ事業じぎょうビデオ開発かいはつ課員かいん。モデルは梅田うめだ弘幸ひろゆき機械きかい設計せっけい技術ぎじゅつしゃ[2]
大木おおき良弘よしひろ
ビデオ事業じぎょうビデオ開発かいはつ課員かいん。モデルは大田おおた喜彦よしひこ電気でんき技術ぎじゅつしゃ[2]

日本にほんビクター 幹部かんぶ[編集へんしゅう]

武田たけだたけしきち
社長しゃちょう。モデルは松野まつの幸吉こうきち[2]
金沢かなざわ紀之のりゆき
ふく社長しゃちょう。モデルは徳光とくみつ博文ひろぶみ[2]
渡会わたらい信一しんいち
専務せんむ

電機でんき事業じぎょうかかわる人々ひとびと[編集へんしゅう]

松下まつした幸之助こうのすけ
松下電器産業まつしたでんきさんぎょう相談役そうだんやく同社どうしゃ創業そうぎょうしゃ
寺山てらやまあきら
ソニー社長しゃちょう。モデルは盛田もりた昭夫あきお[2]
宮下みやした茂夫しげお
日立製作所ひたちせいさくしょビデオ事業じぎょう部長ぶちょう。モデルは長浜ながはま良三りょうぞう家電かでん事業じぎょう部長ぶちょう)もしくは宮本みやもとのべ(ビデオ機器きき部長ぶちょう[2]
大野おおの久志ひさし
三菱電機みつびしでんき事業じぎょう部長ぶちょう。モデルは松村まつむら長延ちょうえん(ビデオ製造せいぞう部長ぶちょう[2]
門脇かどわき光蔵みつぞう
日本にほんビクター横浜よこはま工場こうじょう協力きょうりょく会社かいしゃ門脇かどわき工業こうぎょう社長しゃちょう。モデルは門間かどま貞雄さだお[2]

その人々ひとびと[編集へんしゅう]

加賀谷かがや圭子けいこ
加賀谷かがや静男しずおつま。モデルは高野たかの智恵子ちえこ[2]
小出こいでおさむ
通商産業省つうしょうさんぎょうしょう機械きかい情報じょうほうきょく電子でんし機器きき課長かちょう。モデルは鈴木すずきけん[2]

キャスト[編集へんしゅう]

スタッフ[編集へんしゅう]

製作せいさく[編集へんしゅう]

監督かんとく佐々部ささべきよしがトークショー[よう出典しゅってん]かたったところによれば、脚本きゃくほん段階だんかいでは実在じつざいのメーカーめい仮名かめいとすることになっていた。ところが、プロデューサーの「やはり、実名じつめいでないとリアリティがない」という方針ほうしんにより、関係かんけい各社かくしゃ交渉こうしょうしたところ、いずれからも快諾かいだくられた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ のち『はまたのぼ映像えいぞうメディアの世紀せいき』に改題かいだい

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 「2002年度ねんど 日本にっぽん映画えいが外国がいこく映画えいが 業界ぎょうかい総決算そうけっさん 経営けいえい/製作せいさく/配給はいきゅう/興行こうぎょうのすべて」『キネマ旬報きねまじゅんぽう』2003ねん平成へいせい15ねん)2がつ下旬げじゅんごうキネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、2003ねん、140ぺーじ 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 佐藤さとう正明まさあきはまたのぼ映像えいぞうメディアの世紀せいき』(文春ぶんしゅん文庫ぶんこ 2002ねん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]