魔球 まきゅう (まきゅう)は、主 おも に日本 にっぽん において野球 やきゅう などの球技 きゅうぎ における変化球 へんかきゅう を表現 ひょうげん する言葉 ことば である。また、比喩 ひゆ として掴 つか みどころのないことや、必殺 ひっさつ の武器 ぶき のことを指 さ すこともある。
「魔球 まきゅう 」という言葉 ことば は時代 じだい によって、言葉 ことば の含 ふく む意味 いみ に違 ちが いがある。「変化球 へんかきゅう 」という言葉 ことば が無 な かった時代 じだい には単 たん に変化球 へんかきゅう を表 あらわ す日本語 にほんご として使 つか われていたが、20世紀 せいき 中頃 なかごろ に「変化球 へんかきゅう 」という言葉 ことば が定着 ていちゃく すると、特 とく に優 すぐ れた変化球 へんかきゅう などを指 さ す表現 ひょうげん として使 つか われるようになった。同 おな じ頃 ごろ から野球 やきゅう 漫画 まんが においても「魔球 まきゅう 」という表現 ひょうげん が使 つか われ始 はじ める。漫画 まんが などの創作 そうさく においては作品 さくひん によって異 こと なるが、フィクション 性 せい の強 つよ い作品 さくひん では現実離 げんじつばな れした荒唐無稽 こうとうむけい な変化球 へんかきゅう が描 えが かれることも多 おお く、それらを「魔球 まきゅう 」と呼 よ び、必殺 ひっさつ 技 わざ のような意味合 いみあ いで使 つか われたりもする。
カーブを始 はじ めとする変化球 へんかきゅう を指 さ す単語 たんご として「魔球 まきゅう 」という言葉 ことば が最初 さいしょ に使 つか われ始 はじ めたのは明治 めいじ 時代 じだい であるが、以下 いか 最初 さいしょ に使 つか われた場面 ばめん として2例 れい を挙 あ げる(当該 とうがい 語彙 ごい を太線 ふとせん で示 しめ す)。
オリンピア号 ごう のアーネスト・チャーチの投球 とうきゅう (1896年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
第一高等学校 だいちこうとうがっこう (一 いち 高 だか )の教諭 きょうゆ であった物理 ぶつり 学者 がくしゃ の山口 やまぐち 鋭 するど 之 これ 助 すけ は以下 いか の手記 しゅき を残 のこ している(以下 いか 、旧 きゅう 字体 じたい ・仮名遣 かなづか い・句読点 くとうてん 等 とう は修正 しゅうせい )[ 1] 。
明治 めいじ 二 に 十 じゅう 七 なな 八 はち 年 ねん 頃 ごろ と記憶 きおく するが、当時 とうじ わが球界 きゅうかい にナンバー・ワンを誇 ほこ っていた一 いち 高 だか チームが、横浜 よこはま の外人 がいじん チームに試合 しあい を申込 もうしこ んだ。そして私 わたし も誘 さそ われるままに横浜 よこはま までそれを見 み に行 い った。何 なに にしろ野球 やきゅう の揺籃 ようらん 期 き であったから、この遠征 えんせい は全 まった く画期的 かっきてき のもので、試合 しあい は素晴 すば らしい応援 おうえん 裡 うら に開始 かいし された。所 ところ がわが一 いち 高 だか 軍 ぐん はどうしたことか、守備 しゅび には大 たい した失策 しっさく もでなかったが、打撃 だげき は全 まった く振 ふる わず、出 で る打者 だしゃ も出 で る打者 だしゃ もバッタバッタと打 う ちとられて三振 さんしん に継 つ ぐ三振 さんしん といった醜態 しゅうたい を演 えん じてしまった。選手 せんしゅ はもちろん応援 おうえん の人達 ひとたち もこれには全 まった く言葉 ことば なく、唖然 あぜん として一 いち 外人 がいじん 投手 とうしゅ の妙技 みょうぎ を見守 みまも るばかりであったが、この時 とき 意気 いき 消沈 しょうちん して帰 かえ る一団 いちだん の中 なか から、期 き せずして「神 かみ 技 わざ だ、魔球 まきゅう だ」という言葉 ことば が出 で た。「魔球 まきゅう 」という言葉 ことば はこの時 とき 初 はじ めて生 うま れたのであるが、要 よう するにそれは今日 きょう の曲 きょく 球 だま を指 さ して言 い ったものである。
実際 じっさい に一 いち 高 だか チームが初 はじ めて横浜 よこはま の在留 ざいりゅう 外国 がいこく 人 じん のスポーツ同好 どうこう 会 かい であるYC&ACこと横浜 よこはま クリケット・アンド・アスレティック・クラブ (Yokohama Cricket and Athletic Club)と対戦 たいせん したのは1896年 ねん (明治 めいじ 29年 ねん )5月 がつ 23日 にち のことであり、「明治 めいじ 二 に 十 じゅう 七 なな 八 はち 年 ねん 頃 ごろ 」(1894 - 1895年 ねん 頃 ごろ )というのは山口 やまぐち 鋭 するど 之 これ 助 すけ の記憶 きおく 違 ちが いと思 おも われる[ 2] 。一 いち 高 だか チームはドロップを習得 しゅうとく した青井 あおい 鉞男 を投手 とうしゅ に据 す え、在留 ざいりゅう アメリカ人 じん のチームを相手 あいて に5月23日 にち 、6月5日 にち 、6月27日 にち の3回 かい の試合 しあい に連勝 れんしょう し、治外法権 ちがいほうけん 撤廃 てっぱい の機運 きうん の高 たか まる中 なか で「日本人 にっぽんじん のチームが初 はじ めて米人 べいじん のチームを破 やぶ った」というニュースと共 とも に全国 ぜんこく での野球 やきゅう 熱 ねつ が高 たか まった。
アメリカ独立記念日 どくりつきねんび の7月 がつ 4日 にち に一 いち 高 だか チームは横浜 よこはま で4度目 どめ の対戦 たいせん をするが、YC&AC側 がわ は入港 にゅうこう 中 ちゅう のオリンピア 号 ごう 内 ない の野球 やきゅう チームであるダイアモンド・ディガーズ(Diamond Diggers)から5人 にん の海兵 かいへい の助 すけ っ人 と を頼 たの んだ。この時 とき 補強 ほきょう されたアーネスト・チャーチ (Ernest Church)という投手 とうしゅ の投球 とうきゅう 術 じゅつ に翻弄 ほんろう され、一 いち 高 だか チームは敗 やぶ れてしまったという。この時 とき の試合 しあい は当時 とうじ 世間 せけん に広 ひろ く知 し られ、例 たと えば押川 おしかわ 春浪 しゅんろう の『海底 かいてい 軍艦 ぐんかん 』(1900年 ねん )でも
米国 べいこく 軍艦 ぐんかん 「オリンピヤ」号 ごう が横浜 よこはま へやって来 き て、音 おと に名高 なだか き、チヤーチの熱球 ねっきゅう 、魔球 まきゅう が我国 わがくに 野球 やきゅう 界 かい の覇王 はおう ともいう可 か き第一高等学校 だいちこうとうがっこう の選手 せんしゅ を打破 うちやぶ った
と描写 びょうしゃ している。これらの4試合 しあい で一 いち 高 だか チームの監督 かんとく を務 つと めていたのは、1894年 ねん (明治 めいじ 27年 ねん )に「野球 やきゅう 」という日本語 にほんご 訳 やく を考案 こうあん した中馬 ちゅうま 庚 かのえ で、1897年 ねん (明治 めいじ 30年 ねん )出版 しゅっぱん の『野球 やきゅう 』の中 なか で「魔球 まきゅう 」という言葉 ことば を使 つか っており[ 3] 、「魔球 まきゅう 」という言葉 ことば の考案 こうあん 者 しゃ は中馬 ちゅうま 庚 かのえ 本人 ほんにん かその周辺 しゅうへん の人物 じんぶつ ということになる。
新橋 しんばし アスレチックス倶楽部 くらぶ の平岡 ひらおか 凞の投球 とうきゅう (1870 - 1880年代 ねんだい )[ 編集 へんしゅう ]
日本人 にっぽんじん として初 はじ めて本格 ほんかく 的 てき カーブを投 な げたと人物 じんぶつ として、1878年 ねん (明治 めいじ 11年 ねん )から1888年 ねん (明治 めいじ 21年 ねん )まで新橋 しんばし アスレチックス倶楽部 くらぶ の監督 かんとく 兼 けん 投手 とうしゅ であった平岡 ひらおか 凞 が知 し られているが、昭和 しょうわ 初期 しょき に國民 こくみん 新聞 しんぶん に連載 れんさい され、1929年 ねん (昭和 しょうわ 4年 ねん )に出版 しゅっぱん された『日本 にっぽん 野球 やきゅう 史 し 』によると、しばしば学生 がくせい を交 まじ えて試合 しあい をした際 さい に、平岡 ひらおか 凞はカーヴを披露 ひろう した。
新橋 しんばし 倶楽部 くらぶ は平岡 ひらおか 氏 し の独裁 どくさい で主将 しゅしょう たり監督 かんとく たりコーチャーであった。彼 かれ は試合 しあい の折 おり 主 ぬし として投手 とうしゅ の重任 じゅうにん を引受 ひきうけ ていたが、時 とき とするとカーヴを投 な げて打者 だしゃ の目 め を幻惑 げんわく せしめた。いや打者 だしゃ よりも捕手 ほしゅ が面喰 めんくら った。前述 ぜんじゅつ したようにその頃 ころ の野球 やきゅう は現在 げんざい の如何 いか にかして打 う たすまいと云 い うのと違 ちが って打者 だしゃ の註文 ちゅうもん する処 ところ へ、即 すなわ ち打者 だしゃ の最 もっと も好 す きな処 しょ へ投 な げるのだから何 なに とかして打 う たせようと云 い うのであった。すると平岡 ひらおか 氏 し の投球 とうきゅう は打者 だしゃ の註文 ちゅうもん の如 ごと く胸 むね を通 とお さるゝのであるが、球 たま が急 きゅう 回転 かいてん して来 く るので打 う てない。そこで打者 だしゃ から先 ま ず抗議 こうぎ が出 で た。『あれは違法 いほう だ』『どうして』『球 たま は常 つね に一定 いってい の速力 そくりょく で投 な げるべきに、かくも不思議 ふしぎ な投 な げ方 かた はない』『あれはアメリカで行 おこな われているカーヴと云 い う投球 とうきゅう 法 ほう さ』『いや、切支丹 きりしたん バテレン式 しき の魔法 まほう だろう。小手先 こてさき でなんとか誤魔化 ごまか して』『野球 やきゅう の深奥 しんおう を極 きわ めた時 とき 始 はじ めて悟道 ごどう 徹底 てってい してその多 おお 変 へん 万 まん 化 か の不可思議 ふかしぎ を会得 えとく する事 こと が出来 でき るのです。剣術 けんじゅつ の奥義 おうぎ を極 きわ めて天狗 てんぐ 飛 ひ 切 きり の術 じゅつ を編出 あみだ したようなものですね』『でも此魔球 まきゅう を投 な げると打 う てない』『その代 かわ り此の一 いち 球 きゅう が外 はず れるとどんな破綻 はたん を生 しょう ずるか知 し れない。即 すなわ ち捨身 しゃしん の一 いち 球 きゅう ですな。宮本 みやもと 武蔵 むさし が斬 き り結 むす ぶ剣 けん の下 した ぞ地獄 じごく なる身 み を捨 す てゝこそ、浮 うか ぶ瀬 せ もあれと云 ゆ った風 ふう のものですよ』と云 ゆ ったが、若 わか い選手 せんしゅ 、各校 かくこう から参加 さんか して来 き ている人々 ひとびと は感心 かんしん するものもあったが憤慨 ふんがい する者 もの もあった。
この時 とき のカーブに感銘 かんめい を受 う けた学生 がくせい として、神田 かんだ 共立 きょうりつ 学校 がっこう の樺山 かばやま 愛 あい 輔 、市川 いちかわ 延次郎 のぶじろう 、東京大学 とうきょうだいがく 予備 よび 門 もん /第 だい 一 いち 高等 こうとう 中学校 ちゅうがっこう (後 ご の一 いち 高 だか )の岩岡 いわおか 保 たもつ 作 さく などの名前 なまえ が挙 あ げられている[ 4] 。文章 ぶんしょう 中 ちゅう に「魔球 まきゅう 」という単語 たんご があり、これが実際 じっさい に当時 とうじ 使 つか われていた言葉 ことば であれば、1896年 ねん の横浜 よこはま での試合 しあい で一 いち 高 だか の学生 がくせい 達 たち が「魔球 まきゅう 」という言葉 ことば を使 つか ったルーツが平岡 ひらおか 凞のカーブを表現 ひょうげん した言葉 ことば にある可能 かのう 性 せい が高 たか いことになる。
ただし本 ほん 記事 きじ の執筆 しっぴつ 者 しゃ や記事 きじ を書 か いた際 さい の取材 しゅざい 元 もと (市川 いちかわ 延次郎 のぶじろう ・岩岡 いわおか 保 たもつ 作 さく のいずれかか)が特定 とくてい できず、当時 とうじ の記憶 きおく のまま記述 きじゅつ しているのか、後世 こうせい の言葉 ことば を使 つか って記述 きじゅつ しているのか、またそのまま魔球 まきゅう という言葉 ことば が一 いち 高 だか などの学生 がくせい の間 あいだ で共有 きょうゆう され続 つづ けたのかがはっきりしない。なお上述 じょうじゅつ の中馬 ちゅうま 庚 かのえ が初 はじ めて「野球 やきゅう 」という翻訳 ほんやく 語 ご を公表 こうひょう した1895年 ねん (明治 めいじ 28年 ねん )出版 しゅっぱん の『第一高等学校 だいちこうとうがっこう 野球 やきゅう 部 ぶ 史 し 』には「魔球 まきゅう 」という言葉 ことば は登場 とうじょう しない[ 5] 。また東京 とうきょう 大学 だいがく 予備 よび 門 もん /第 だい 一 いち 高等 こうとう 中学校 ちゅうがっこう で岩岡 いわおか 保 たもつ 作 さく とバッテリーを組 く んだ正岡子規 まさおかしき は、1896年 ねん (明治 めいじ 29年 ねん )7月 がつ 19日 にち から7月 がつ 27日 にち にかけて新聞 しんぶん 『日本 にっぽん 』に野球 やきゅう に関 かん する解説 かいせつ 記事 きじ を執筆 しっぴつ しており、掲載 けいさい された記事 きじ の中 なか で変化球 へんかきゅう に言及 げんきゅう し、正 せい 投 とう (ピッチ)、外 そと 曲 きょく (アウトカーブ)、内 うち 曲 きょく (インカーブ)、墜落 ついらく (ドロップ)などの訳語 やくご を提示 ていじ しているものの、こちらでも「魔球 まきゅう 」という言葉 ことば は使 つか っていない[ 6] 。
1897年 ねん (明治 めいじ 30年 ねん )に中馬 ちゅうま 庚 かのえ は一般 いっぱん 向 む けの野球 やきゅう 専門 せんもん 書 しょ として『野球 やきゅう 』を出版 しゅっぱん するが、その中 なか でカーブを「魔球 まきゅう 」と称 しょう し、青井 あおい 鉞男のコメントとともにカーブやドロップの投 な げ方 かた を解説 かいせつ している[ 3] 。同 どう 時期 じき に高橋 たかはし 雄次郎 ゆうじろう も「魔球 まきゅう 」という言葉 ことば を導入 どうにゅう し、「チャーミング・ボール Charming Ball」あるいは「カーブ Curve」と呼 よ ばれると説明 せつめい している[ 7] 。また長塚 ながつか 順次郎 じゅんじろう は、1888年 ねん にアメリカで発売 はつばい されたエドワード・プリンドル(Edward J. Prindle)の"The Art of Curve Pitching"(カーブを投 な げるこつ)の抄訳 しょうやく を、『魔球 まきゅう 術 じゅつ 』という題名 だいめい で1904年 ねん に出版 しゅっぱん している[ 8] 。このように明治 めいじ 時代 じだい 後半 こうはん には「魔球 まきゅう 」とは「カーブ」の翻訳 ほんやく として認識 にんしき されていた[ 9] 。
変化球 へんかきゅう 全般 ぜんぱん に対 たい する総称 そうしょう としての魔球 まきゅう [ 編集 へんしゅう ]
大正 たいしょう 時代 じだい から昭和 しょうわ 初期 しょき には直球 ちょっきゅう やカーブ、ドロップ以外 いがい にもナックルボール を始 はじ めとする他 ほか の球 たま 種 しゅ が知 し られるようになったが、それらの直球 ちょっきゅう を除 のぞ く球 たま 種 しゅ を総称 そうしょう する言葉 ことば はまだなく、「魔球 まきゅう 」という言葉 ことば がその総称 そうしょう として使 つか われるようになる。また、英語 えいご では直球 ちょっきゅう を除 のぞ く球 たま 種 しゅ を総称 そうしょう する単語 たんご がなく、"breaking ball", "changeup"などと個々 ここ の球 たま 種 しゅ を指 さ すか、"a ball with a change of speed"などと漠然 ばくぜん と表現 ひょうげん される。
しかし投球 とうきゅう 方法 ほうほう を解説 かいせつ する本 ほん では、大正 たいしょう 時代 じだい より球 たま 種 しゅ をそのまま片仮名 かたかな 表記 ひょうき する手法 しゅほう が主流 しゅりゅう となり、徐々 じょじょ に「魔球 まきゅう 」という言葉 ことば は使 つか われなくなる。さらに1930年代 ねんだい 中頃 なかごろ には「変化 へんか する球 たま 」という表現 ひょうげん が使 つか われ出 だ し、やがて1950年代 ねんだい 中頃 なかごろ には「変化球 へんかきゅう 」という言葉 ことば が定着 ていちゃく し、「魔球 まきゅう 」という言葉 ことば は比喩 ひゆ 表現 ひょうげん でしか使 つか われなくなった。
20世紀 せいき 後半 こうはん からは特別 とくべつ に優 すぐ れた球 たま 種 しゅ や新種 しんしゅ の変化球 へんかきゅう 、特定 とくてい の選手 せんしゅ の特 とく に優 すぐ れた決 き め球 だま を魔球 まきゅう と呼 よ ぶ場合 ばあい が多 おお い。
球 たま 種 しゅ に対 たい して魔球 まきゅう と呼 よ ぶものには、以下 いか の例 れい がある。
特定 とくてい の選手 せんしゅ の決 き め球 だま を魔球 まきゅう と呼 よ ぶものには、以下 いか の例 れい がある。
奇抜 きばつ な投 とう 法 ほう としては、小川 おがわ 健太郎 けんたろう が王 おう 貞治 さだはる に対 たい して使 つか った「背面 はいめん 投 な げ 」が有名 ゆうめい である。
打者 だしゃ への投球 とうきゅう ではないが板東 ばんどう 英二 えいじ が「どうにかして走者 そうしゃ を刺 さ せないものか」と苦心 くしん した結果 けっか 、プレートを外 はず した瞬間 しゅんかん に横 よこ 回転 かいてん しつつジャンプして牽制 けんせい 球 だま を投 な げる技 わざ を考案 こうあん 、結局 けっきょく 実戦 じっせん では使 つか わずじまいだったというが、これに近 ちか いトリック牽制 けんせい 球 だま は実在 じつざい する。例 たと えば右 みぎ 投手 とうしゅ が3塁 るい 牽制 けんせい と見 み せかけ、3塁 るい 走者 そうしゃ を帰 き 塁 るい させておいて、すかさず半 はん 回転 かいてん して1塁 るい へ牽制 けんせい するもの。漫画 まんが 『ドカベン』では殿 しんがり 馬 ば が登板 とうばん した時 とき 、「秘 ひ 投 とう ・魔 ま 弾 だん の射手 しゃしゅ 」としてこれを披露 ひろう している。
漫画 まんが などの創作 そうさく では作品 さくひん によって魔球 まきゅう の扱 あつか いが異 こと なる。超人 ちょうじん 的 てき な選手 せんしゅ が登場 とうじょう するようなフィクション性 せい の強 つよ い作品 さくひん では、現実離 げんじつばな れした荒唐無稽 こうとうむけい な変化球 へんかきゅう が描 えが かれて魔球 まきゅう と呼 よ ばれる。投球 とうきゅう 術 じゅつ や駆 か け引 ひ きが無視 むし されるほどの絶対 ぜったい 的 てき な武器 ぶき であることも多 おお い。それらは現実 げんじつ には有 あ り得 え ない凄 すさ まじい変化 へんか をしたりするが、その多 おお くは物理 ぶつり 的 てき に不可能 ふかのう であり、中 なか にはルール上 じょう 反則 はんそく と思 おも われるものも存在 そんざい する。一方 いっぽう 、現実 げんじつ 的 てき な設定 せってい に基 もと づく野球 やきゅう 漫画 まんが では荒唐無稽 こうとうむけい な変化球 へんかきゅう は登場 とうじょう せず、少 すこ し特殊 とくしゅ な変化球 へんかきゅう や優 すぐ れた変化球 へんかきゅう が描 えが かれて魔球 まきゅう と呼 よ ばれる。また、魔球 まきゅう が全 まった く登場 とうじょう しない作品 さくひん も少 すく なくない。
1949年 ねん のアメリカ映画 えいが 『春 はる の珍事 ちんじ 』には、後 ご の野球 やきゅう 漫画 まんが の「バット をよけて通 とお る魔球 まきゅう 」の原型 げんけい ともいえるものが登場 とうじょう する。ただしこれは投手 とうしゅ 自身 じしん の能力 のうりょく や訓練 くんれん によって編 あ み出 だ される、本来 ほんらい の意味 いみ での「魔球 まきゅう 」と異 こと なり、架空 かくう の特殊 とくしゅ な薬品 やくひん の塗布 とふ による効果 こうか という設定 せってい であった(無論 むろん 現実 げんじつ にはあり得 え ない。これは公認 こうにん 野球 やきゅう 規則 きそく の「不正 ふせい 投球 とうきゅう 」になる)。
漫画 まんが における魔球 まきゅう の登場 とうじょう - 全盛期 ぜんせいき [ 編集 へんしゅう ]
この
節 ふし には
複数 ふくすう の問題 もんだい があります。
改善 かいぜん や
ノートページ での
議論 ぎろん にご
協力 きょうりょく ください。
1958年 ねん (昭和 しょうわ 33年 ねん )に『おもしろブック 』(集英社 しゅうえいしゃ )にて連載 れんさい が始 はじ まった『くりくり投手 とうしゅ 』(貝塚 かいづか ひろし )が魔球 まきゅう を初 はじ めて出 だ したとされている[ 11] 。『くりくり投手 とうしゅ 』以前 いぜん にも『バット君 くん 』(井上 いのうえ 一雄 かずお )などの「日常 にちじょう 」を織 お り交 ま ぜた草 くさ 野球 やきゅう をテーマにした野球 やきゅう 漫画 まんが は存在 そんざい したが、『くりくり投手 とうしゅ 』は投手 とうしゅ 対 たい 打者 だしゃ の対決 たいけつ に収束 しゅうそく させることで、後 ご の野球 やきゅう 漫画 まんが にも継 つ がれる対決 たいけつ 構図 こうず を生 う み出 だ している[ 11] [ 12] 。
魔球 まきゅう という言葉 ことば が具体 ぐたい 的 てき に登場 とうじょう した作品 さくひん は、1961年 ねん (昭和 しょうわ 36年 ねん )開始 かいし の『ちかいの魔球 まきゅう 』(原作 げんさく :福本 ふくもと 和也 かずや ・作画 さくが :ちばてつや )とされる[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 。その後 ご を受 う けたのが、1963年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん )開始 かいし の『黒 くろ い秘密 ひみつ 兵器 へいき 』(原作 げんさく :福本 ふくもと 和也 かずや ・作画 さくが :一 いち 峰 みね 大 だい 二 に )である。本 ほん 作 さく の主人公 しゅじんこう は伊賀 いが 忍者 にんじゃ の子孫 しそん という設定 せってい で、魔球 まきゅう や独特 どくとく の打 だ 法 ほう は白土 しらつち 三平 さんぺい らの忍者 にんじゃ 漫画 まんが における忍法 にんぽう (リアルな作風 さくふう )と類似 るいじ した関係 かんけい にあった。
名前 なまえ も「魔球 まきゅう 」のほか、「秘 ひ 球 だま 」「快 かい 球 たま 」「超 ちょう 球 たま 」などバラエティに富 と んでいた。
そしてさらにその後 ご 発 はつ である『巨人 きょじん の星 ほし 』の大 だい ヒットと共 とも に、魔球 まきゅう の存在 そんざい は野球 やきゅう 漫画 まんが において定着 ていちゃく し、不可欠 ふかけつ とされるようになった。『巨人 きょじん の星 ほし 』で星 ほし 飛 ひ 雄 ゆう 馬 ば が高校 こうこう 野球 やきゅう の速球 そっきゅう 投手 とうしゅ だった時代 じだい 、対戦 たいせん 相手 あいて の投手 とうしゅ がドロップを駆使 くし し、これが「魔球 まきゅう 」と称 しょう された。格闘技 かくとうぎ 漫画 まんが の原作 げんさく を多 おお く手 て がける梶原 かじはら 一 いち 騎 き の原作 げんさく 作品 さくひん ということもあり、魔球 まきゅう は柔道 じゅうどう やプロレス における「必殺 ひっさつ 技 わざ 」の代 か わりであった。3号 ごう まで開発 かいはつ された大 だい リーグボール とその攻略 こうりゃく の駆 か け引 ひ きは作品 さくひん を緊迫 きんぱく したものとし、「消 き える魔球 まきゅう 」は正体 しょうたい がしばらく伏 ふ せられていた間 あいだ 、各界 かくかい の著名 ちょめい 人 じん の間 あいだ で種明 たねあ かしの予想 よそう がなされた。
『巨人 きょじん の星 ほし 』の時点 じてん ですでに、これらの魔球 まきゅう は非常 ひじょう に荒唐無稽 こうとうむけい な代物 しろもの であり、物理 ぶつり 的 てき に不可能 ふかのう と思 おも われたが、『巨人 きょじん の星 ほし 』の後 のち はさらにエスカレートし、『アストロ球団 きゅうだん 』、『侍 さむらい ジャイアンツ 』などの作品 さくひん で頂点 ちょうてん を迎 むか え、『アストロ球団 きゅうだん 』に至 いた っては後年 こうねん のファンに「殺人 さつじん 魔球 まきゅう 」とさえ称 しょう された[ 16] 。
その影響 えいきょう で、当時 とうじ 小学館 しょうがくかん の『コロコロコミック 』や学習 がくしゅう 雑誌 ざっし でも『リトル巨 きょ 人 じん くん 』を初 はじ めとする、長嶋 ながしま ジャイアンツ に小学生 しょうがくせい が入団 にゅうだん して魔球 まきゅう で活躍 かつやく する漫画 まんが がいくつか登場 とうじょう した。『あばれジャイアンツ』では主人公 しゅじんこう が「左右 さゆう にZ字 じ 型 がた に曲 ま がる魔球 まきゅう 」と、「打 う っても外野 がいや フライ になる魔球 まきゅう 」で活躍 かつやく するが、プロの打者 だしゃ たちやライバルに打 う たれ、結局 けっきょく は基本 きほん である速球 そっきゅう を鍛 きた えることになる、
『新 しん ・巨人 きょじん の星 ほし 』では星 ほし 飛 ひ 雄 ゆう 馬 ば の分身 ぶんしん 魔球 まきゅう として「蜃気楼 しんきろう の魔球 まきゅう 」が登場 とうじょう するが、ライバルの花形 はながた 満 みつる と左門 さもん 豊作 ほうさく は謎 なぞ 解 と きよりもボールの影 かげ を見 み て本物 ほんもの を打 う つことを優先 ゆうせん し、ロメオ・南条 なんじょう は「こんな手品 てじな の相手 あいて にはならん」と言 い って魔球 まきゅう 打倒 だとう を最初 さいしょ から放棄 ほうき し、星 ほし の別 べつ の球 たま 種 しゅ を打 う つことを重視 じゅうし した。このため、「種明 たねあ かし」は封印 ふういん されて終 お わった。ここで、魔球 まきゅう の位置 いち づけが徐々 じょじょ に変 か わっていた。たとえば『侍 さむらい ジャイアンツ』では、数々 かずかず の奇抜 きばつ な投 とう 法 ほう の方 ほう が魔球 まきゅう そのものよりも印象 いんしょう 的 てき に描 えが かれている。また『男 おとこ どアホウ甲子園 こうしえん 』でも剛球 ごうきゅう 仮面 かめん による「大回転 だいかいてん 投 とう 法 ほう 」が登場 とうじょう したが、これはいわゆる魔球 まきゅう ではなく剛 つよし 速球 そっきゅう を投 な げるための特殊 とくしゅ な投 とう 法 ほう であった。
水島 みずしま 新司 しんじ の『ドカベン 』など、それなりに現実 げんじつ に即 そく した野球 やきゅう 漫画 まんが が主流 しゅりゅう になると、魔球 まきゅう もあくまで変化球 へんかきゅう の一種 いっしゅ として描 えが かれるようになる。たとえば水島 みずしま 作品 さくひん にも「ドリームボール」や「さとるボール」「超 ちょう 遅 おそ 球 だま 」といった魔球 まきゅう が登場 とうじょう するが、それぞれボールが揺 ゆ れるフォークボール やシンカー 、絶妙 ぜつみょう のチェンジアップ というだけである。水島 みずしま は奇抜 きばつ な変化 へんか で打者 だしゃ を打 う ち取 と るより、「決 き め球 だま に使 つか ってくると思 おも っている魔球 まきゅう をあえて初球 しょきゅう の見 み せ球 だま にする」「投 な げる、投 な げると思 おも わせておいて別 べつ の球 たま で打 う たせて取 と る」「そんな魔球 まきゅう が本当 ほんとう にあるのかどうか打者 だしゃ を疑心暗鬼 ぎしんあんき にさせる」など、魔球 まきゅう の描写 びょうしゃ に配 はい 球 だま の駆 か け引 ひ きや心理 しんり 戦 せん を持 も ち込 こ み、魔球 まきゅう の描写 びょうしゃ に新 しん 境地 きょうち を与 あた えた。
さらに進 すす んで、1980年 ねん 代 だい にはあだち充 たかし の『タッチ 』に代表 だいひょう されるような、勝負 しょうぶ の行方 ゆくえ やプレイそのものより野球 やきゅう を通 つう じた人間 にんげん 関係 かんけい を重視 じゅうし した野球 やきゅう 漫画 まんが が主流 しゅりゅう になり、魔球 まきゅう は野球 やきゅう 漫画 まんが における地位 ちい を下 さ げてゆく。まれに登場 とうじょう はするものも、現実 げんじつ に新 あたら しく開発 かいはつ された新 しん 変化球 へんかきゅう に作中 さくちゅう で別 べつ の名前 なまえ をつけて魔球 まきゅう として扱 あつか っているだけであったり、一種 いっしゅ のパロディ やオマージュ としてであることが多 おお く、漫画 まんが の主題 しゅだい にはなりえなくなった。東野 とうの 圭吾 けいご のミステリー小説 しょうせつ 『魔球 まきゅう 』のように魔球 まきゅう 自体 じたい を題材 だいざい にした作品 さくひん も登場 とうじょう したが、作中 さくちゅう で主人公 しゅじんこう ・須田 すだ 武志 たけし が投 な げる揺 ゆ れる魔球 まきゅう アシ・ボールも決 けっ して現実離 げんじつばな れしたものではなく、魔球 まきゅう 誕生 たんじょう のエピソードはアトランタ・ブレーブス のボブ・ウィックマン と共通 きょうつう のものである。
1990年代 ねんだい 後半 こうはん に入 はい ると再 ふたた び、現実離 げんじつばな れした魔球 まきゅう が登場 とうじょう する。現実 げんじつ において変化球 へんかきゅう の科学 かがく 的 てき な分析 ぶんせき が進 すす んでいることを受 う けて、『Dreams 』では魔球 まきゅう に流体 りゅうたい 力学 りきがく などの科学 かがく 的 てき な説明 せつめい を加 くわ えており、真実味 しんじつみ を持 も たせようとしている。『Dreams』における魔球 まきゅう の位置 いち づけとしては『ドカベン』以前 いぜん にあったような、魔球 まきゅう の攻略 こうりゃく が勝敗 しょうはい に大 おお きく関 かか わるというもので、攻略 こうりゃく されるまでは絶対 ぜったい 的 てき な武器 ぶき として多 た 投 とう している。
一方 いっぽう 、1970年代 ねんだい 半 なか ば以降 いこう 、「スポーツを題材 だいざい としたギャグ漫画 まんが 」が登場 とうじょう すると、それまで隆盛 りゅうせい を誇 ほこ ったスポ根 ね 漫画 まんが のパロディとして、魔球 まきゅう もまたパロディの題材 だいざい とされるようになる。江口 えぐち 寿史 ひさし の『すすめ!パイレーツ 』やいしいひさいち の『がんばれ!!タブチくん!! 』といった作品 さくひん には、パロディの魔球 まきゅう (あるいはその試 こころ み)がいくつか登場 とうじょう した。
野球 やきゅう 盤 ばん では、バット直下 ちょっか のグラウンドに相当 そうとう する板 いた が投手 とうしゅ 側 がわ プレイヤーの操作 そうさ で下垂 かすい し、ボールがそこに吸 す い込 こ まれる「消 き える魔球 まきゅう 」が使 つか われている。打者 だしゃ 側 がわ プレイヤーはこれを使 つか われると、どんなに頑張 がんば っても空振 からぶ り になる(構造 こうぞう 上 じょう 打 う てない)。
^ ただし、漫画 まんが 家 か のみなもと太郎 たろう は、「ちかいの魔球 まきゅう 」より前 まえ 、昭和 しょうわ 32年 ねん 発表 はっぴょう の寺田 てらだ ヒロオ 「スポーツマン佐助 さすけ 」において、特 とく に奇抜 きばつ な変化 へんか のない球 たま 種 しゅ の形容 けいよう に「魔球 まきゅう 」という言葉 ことば が使 つか われていた記憶 きおく があると述 の べている[ 13] 。
^ 山口 やまぐち 鋭 するど 之 これ 助 すけ ,『「魔球 まきゅう 」の語源 ごげん 』,読売新聞 よみうりしんぶん 1931年 ねん 5月 がつ 21日 にち 朝刊 ちょうかん 9頁 ぺーじ .
^ 横井 よこい 春野 はるの , 『日本 にっぽん 野球 やきゅう 発達 はったつ 史 し 』, 美津 みつ 濃 こ , 1922年 ねん .
^ a b 中馬 ちゅうま 庚 かのえ , 「魔球 まきゅう 」, 『野球 やきゅう 』, 美津 みつ 濃 こ , 1897年 ねん .
^ 国民 こくみん 新聞 しんぶん 社 しゃ 運動 うんどう 部 ぶ 編 へん , 「魔法 まほう 扱ひされたカーブ」 , 『日本 にっぽん 野球 やきゅう 史 し 』, 1929年 ねん .
^ 第一高等学校 だいちこうとうがっこう 校友 こうゆう 会 かい , 『野球 やきゅう 部 ぶ 史 し : 校友 こうゆう 會 かい 雑誌 ざっし 號外 ごうがい 』, ベ べ ースボ すぼ ール・マガジン社 るまがじんしゃ , 1980 (第一高等学校 だいちこうとうがっこう 校友 こうゆう 会 かい 発行 はっこう , 『野球 やきゅう 部 ぶ 史 し 』(1895)の復刻 ふっこく 版 ばん ).
^ 正岡 まさおか 子規 しき , 『香雪 こうせつ 紫雲 しうん 』 , 春陽 しゅんよう 堂 どう , 1932年 ねん .
^ 高橋 たかはし 雄次郎 ゆうじろう , 『新式 しんしき ベースボール術 じゅつ 』, 四海 しかい 堂 どう , 1898.
^ エドワート著 ちょ , 長塚 ながつか 順次郎 じゅんじろう 訳 やく , 『魔球 まきゅう 術 じゅつ 』, 美 び 満 まん 津 つ 商店 しょうてん , 1904.
^ 例 たと えば(a)早稲田大学 わせだだいがく 野球 やきゅう 部 ぶ 選手 せんしゅ , 『ベースボール 』, 1907;(b)伊勢田 いせだ 剛 つよし , 『野球 やきゅう 』, 1911年 ねん .
^ レッドソックス捕手 ほしゅ が1イニング4捕 と 逸 いっ - nikkansports.com、2013年 ねん 8月 がつ 7日 にち 。
^ a b 米沢 よねざわ 嘉博 よしひろ 『戦後 せんご 野球 やきゅう マンガ史 し -手塚 てづか 治虫 おさむ のいない風景 ふうけい 』平凡社 へいぼんしゃ 〈平凡社 へいぼんしゃ 新書 しんしょ 〉、2002年 ねん 、56-57頁 ぺーじ 。ISBN 978-4582851540 。
^ 大崎 おおさき 悌造 『昭和 しょうわ 子 こ どもブーム』学研 がっけん パブリッシング 、2010年 ねん 、110頁 ぺーじ 。ISBN 978-4054041172 。
^ みなもと太郎 たろう 『お楽 たの しみはこれもなのじゃ 漫画 まんが の名 めい セリフ』角川書店 かどかわしょてん 、2004年 ねん 、174-176頁 ぺーじ 。ISBN 978-4048838986 。
^ 原田 はらだ 大 まさる (2014年 ねん 9月 がつ 1日 にち ). “「アストロ球団 きゅうだん 」はこんなに凄 すご い漫画 まんが だった! 殺人 さつじん 、廃人 はいじん 続出 ぞくしゅつ …なのに感動 かんどう あり笑 わら いあり!!! ”. MOGU2ニュース. 2019年 ねん 1月 がつ 29日 にち 閲覧 えつらん 。