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魔球まきゅう

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魔球まきゅう(まきゅう)は、おも日本にっぽんにおいて野球やきゅうなどの球技きゅうぎにおける変化球へんかきゅう表現ひょうげんする言葉ことばである。また、比喩ひゆとしてつかみどころのないことや、必殺ひっさつ武器ぶきのことをすこともある。

概要がいよう

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魔球まきゅう」という言葉ことば時代じだいによって、言葉ことばふく意味いみちがいがある。「変化球へんかきゅう」という言葉ことばかった時代じだいにはたん変化球へんかきゅうあらわ日本語にほんごとして使つかわれていたが、20世紀せいき中頃なかごろに「変化球へんかきゅう」という言葉ことば定着ていちゃくすると、とくすぐれた変化球へんかきゅうなどを表現ひょうげんとして使つかわれるようになった。おなごろから野球やきゅう漫画まんがにおいても「魔球まきゅう」という表現ひょうげん使つかわれはじめる。漫画まんがなどの創作そうさくにおいては作品さくひんによってことなるが、フィクションせいつよ作品さくひんでは現実離げんじつばなれした荒唐無稽こうとうむけい変化球へんかきゅうえがかれることもおおく、それらを「魔球まきゅう」とび、必殺ひっさつわざのような意味合いみあいで使つかわれたりもする。

現実げんじつ野球やきゅうでの「魔球まきゅう

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魔球まきゅう語源ごげん

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カーブをはじめとする変化球へんかきゅう単語たんごとして「魔球まきゅう」という言葉ことば最初さいしょ使つかわれはじめたのは明治めいじ時代じだいであるが、以下いか最初さいしょ使つかわれた場面ばめんとして2れいげる(当該とうがい語彙ごい太線ふとせんしめす)。

オリンピアごうのアーネスト・チャーチの投球とうきゅう(1896ねん

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第一高等学校だいちこうとうがっこういちだか)の教諭きょうゆであった物理ぶつり学者がくしゃ山口やまぐちするどこれすけ以下いか手記しゅきのこしている(以下いかきゅう字体じたい仮名遣かなづかい・句読点くとうてんとう修正しゅうせい[1]

明治めいじじゅうななはちねんごろ記憶きおくするが、当時とうじわが球界きゅうかいにナンバー・ワンをほこっていたいちだかチームが、横浜よこはま外人がいじんチームに試合しあい申込もうしこんだ。そしてわたしさそわれるままに横浜よこはままでそれをった。なににしろ野球やきゅう揺籃ようらんであったから、この遠征えんせいまった画期的かっきてきのもので、試合しあい素晴すばらしい応援おうえんうら開始かいしされた。ところがわがいちだかぐんはどうしたことか、守備しゅびにはたいした失策しっさくもでなかったが、打撃だげきまったふるわず、打者だしゃ打者だしゃもバッタバッタとちとられて三振さんしん三振さんしんといった醜態しゅうたいえんじてしまった。選手せんしゅはもちろん応援おうえん人達ひとたちもこれにはまった言葉ことばなく、唖然あぜんとしていち外人がいじん投手とうしゅ妙技みょうぎ見守みまもるばかりであったが、このとき意気いき消沈しょうちんしてかえ一団いちだんなかから、せずして「かみわざだ、魔球まきゅうだ」という言葉ことばた。「魔球まきゅう」という言葉ことばはこのときはじめてうまれたのであるが、ようするにそれは今日きょうきょくだましてったものである。

実際じっさいいちだかチームがはじめて横浜よこはま在留ざいりゅう外国がいこくじんのスポーツ同好どうこうかいであるYC&ACこと横浜よこはまクリケット・アンド・アスレティック・クラブ(Yokohama Cricket and Athletic Club)と対戦たいせんしたのは1896ねん明治めいじ29ねん)5がつ23にちのことであり、「明治めいじじゅうななはちねんごろ」(1894 - 1895ねんごろ)というのは山口やまぐちするどこれすけ記憶きおくちがいとおもわれる[2]いちだかチームはドロップを習得しゅうとくした青井あおい鉞男投手とうしゅえ、在留ざいりゅうアメリカじんのチームを相手あいてに5月23にち、6月5にち、6月27にちの3かい試合しあい連勝れんしょうし、治外法権ちがいほうけん撤廃てっぱい機運きうんたかまるなかで「日本人にっぽんじんのチームがはじめて米人べいじんのチームをやぶった」というニュースととも全国ぜんこくでの野球やきゅうねつたかまった。

アメリカ独立記念日どくりつきねんびの7がつ4にちいちだかチームは横浜よこはまで4度目どめ対戦たいせんをするが、YC&ACがわ入港にゅうこうちゅうオリンピアごうない野球やきゅうチームであるダイアモンド・ディガーズ(Diamond Diggers)から5にん海兵かいへいすけたのんだ。このとき補強ほきょうされたアーネスト・チャーチ (Ernest Church)という投手とうしゅ投球とうきゅうじゅつ翻弄ほんろうされ、いちだかチームはやぶれてしまったという。このとき試合しあい当時とうじ世間せけんひろられ、たとえば押川おしかわ春浪しゅんろうの『海底かいてい軍艦ぐんかん』(1900ねん)でも

米国べいこく軍艦ぐんかん「オリンピヤ」ごう横浜よこはまへやってて、おと名高なだかき、チヤーチの熱球ねっきゅう魔球まきゅう我国わがくに野球やきゅうかい覇王はおうともいう第一高等学校だいちこうとうがっこう選手せんしゅ打破うちやぶった

描写びょうしゃしている。これらの4試合しあいいちだかチームの監督かんとくつとめていたのは、1894ねん明治めいじ27ねん)に「野球やきゅう」という日本語にほんごやく考案こうあんした中馬ちゅうまかのえで、1897ねん明治めいじ30ねん出版しゅっぱんの『野球やきゅう』のなかで「魔球まきゅう」という言葉ことば使つかっており[3]、「魔球まきゅう」という言葉ことば考案こうあんしゃ中馬ちゅうまかのえ本人ほんにんかその周辺しゅうへん人物じんぶつということになる。

新橋しんばしアスレチックス倶楽部くらぶ平岡ひらおか凞の投球とうきゅう (1870 - 1880年代ねんだい

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日本人にっぽんじんとしてはじめて本格ほんかくてきカーブをげたと人物じんぶつとして、1878ねん明治めいじ11ねん)から1888ねん明治めいじ21ねん)まで新橋しんばしアスレチックス倶楽部くらぶ監督かんとくけん投手とうしゅであった平岡ひらおかられているが、昭和しょうわ初期しょき國民こくみん新聞しんぶん連載れんさいされ、1929ねん昭和しょうわ4ねん)に出版しゅっぱんされた『日本にっぽん野球やきゅう』によると、しばしば学生がくせいまじえて試合しあいをしたさいに、平岡ひらおか凞はカーヴを披露ひろうした。

新橋しんばし倶楽部くらぶ平岡ひらおか独裁どくさい主将しゅしょうたり監督かんとくたりコーチャーであった。かれ試合しあいおりぬしとして投手とうしゅ重任じゅうにん引受ひきうけていたが、ときとするとカーヴをげて打者だしゃ幻惑げんわくせしめた。いや打者だしゃよりも捕手ほしゅ面喰めんくらった。前述ぜんじゅつしたようにそのころ野球やきゅう現在げんざい如何いかにかしてたすまいとうのとちがって打者だしゃ註文ちゅうもんするところへ、すなわ打者だしゃもっときなしょげるのだからなにとかしてたせようとうのであった。すると平岡ひらおか投球とうきゅう打者だしゃ註文ちゅうもんごとむねとおさるゝのであるが、たまきゅう回転かいてんしてるのでてない。そこで打者だしゃから抗議こうぎた。『あれは違法いほうだ』『どうして』『たまつね一定いってい速力そくりょくげるべきに、かくも不思議ふしぎかたはない』『あれはアメリカでおこなわれているカーヴと投球とうきゅうほうさ』『いや、切支丹きりしたんバテレンしき魔法まほうだろう。小手先こてさきでなんとか誤魔化ごまかして』『野球やきゅう深奥しんおうきわめたときはじめて悟道ごどう徹底てっていしてそのおおへんまん不可思議ふかしぎ会得えとくすること出来できるのです。剣術けんじゅつ奥義おうぎきわめて天狗てんぐきりじゅつ編出あみだしたようなものですね』『でも此魔球まきゅうげるとてない』『そのかわり此のいちきゅうはずれるとどんな破綻はたんしょうずるかれない。すなわ捨身しゃしんいちきゅうですな。宮本みやもと武蔵むさしむすけんした地獄じごくなるてゝこそ、うかもあれとったふうのものですよ』とったが、わか選手せんしゅ各校かくこうから参加さんかしてている人々ひとびと感心かんしんするものもあったが憤慨ふんがいするものもあった。

このときのカーブに感銘かんめいけた学生がくせいとして、神田かんだ共立きょうりつ学校がっこう樺山かばやまあい市川いちかわ延次郎のぶじろう東京大学とうきょうだいがく予備よびもん/だいいち高等こうとう中学校ちゅうがっこういちだか)の岩岡いわおかたもつさくなどの名前なまえげられている[4]文章ぶんしょうちゅうに「魔球まきゅう」という単語たんごがあり、これが実際じっさい当時とうじ使つかわれていた言葉ことばであれば、1896ねん横浜よこはまでの試合しあいいちだか学生がくせいたちが「魔球まきゅう」という言葉ことば使つかったルーツが平岡ひらおか凞のカーブを表現ひょうげんした言葉ことばにある可能かのうせいたかいことになる。

ただしほん記事きじ執筆しっぴつしゃ記事きじいたさい取材しゅざいもと市川いちかわ延次郎のぶじろう岩岡いわおかたもつさくのいずれかか)が特定とくていできず、当時とうじ記憶きおくのまま記述きじゅつしているのか、後世こうせい言葉ことば使つかって記述きじゅつしているのか、またそのまま魔球まきゅうという言葉ことばいちだかなどの学生がくせいあいだ共有きょうゆうされつづけたのかがはっきりしない。なお上述じょうじゅつ中馬ちゅうまかのえはじめて「野球やきゅう」という翻訳ほんやく公表こうひょうした1895ねん明治めいじ28ねん出版しゅっぱんの『第一高等学校だいちこうとうがっこう 野球やきゅう』には「魔球まきゅう」という言葉ことば登場とうじょうしない[5]。また東京とうきょう大学だいがく予備よびもん/だいいち高等こうとう中学校ちゅうがっこう岩岡いわおかたもつさくとバッテリーをんだ正岡子規まさおかしきは、1896ねん明治めいじ29ねん)7がつ19にちから7がつ27にちにかけて新聞しんぶん日本にっぽん』に野球やきゅうかんする解説かいせつ記事きじ執筆しっぴつしており、掲載けいさいされた記事きじなか変化球へんかきゅう言及げんきゅうし、せいとう(ピッチ)、そときょく(アウトカーブ)、うちきょく(インカーブ)、墜落ついらく(ドロップ)などの訳語やくご提示ていじしているものの、こちらでも「魔球まきゅう」という言葉ことば使つかっていない[6]

カーブにたいする呼称こしょうとしての魔球まきゅう

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1897ねん明治めいじ30ねん)に中馬ちゅうまかのえ一般いっぱんけの野球やきゅう専門せんもんしょとして『野球やきゅう』を出版しゅっぱんするが、そのなかでカーブを「魔球まきゅう」としょうし、青井あおい鉞男のコメントとともにカーブやドロップのかた解説かいせつしている[3]どう時期じき高橋たかはし雄次郎ゆうじろうも「魔球まきゅう」という言葉ことば導入どうにゅうし、「チャーミング・ボール Charming Ball」あるいは「カーブ Curve」とばれると説明せつめいしている[7]。また長塚ながつか順次郎じゅんじろうは、1888ねんにアメリカで発売はつばいされたエドワード・プリンドル(Edward J. Prindle)の"The Art of Curve Pitching"(カーブをげるこつ)の抄訳しょうやくを、『魔球まきゅうじゅつ』という題名だいめいで1904ねん出版しゅっぱんしている[8]。このように明治めいじ時代じだい後半こうはんには「魔球まきゅう」とは「カーブ」の翻訳ほんやくとして認識にんしきされていた[9]

変化球へんかきゅう全般ぜんぱんたいする総称そうしょうとしての魔球まきゅう

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大正たいしょう時代じだいから昭和しょうわ初期しょきには直球ちょっきゅうやカーブ、ドロップ以外いがいにもナックルボールはじめとするほかたましゅられるようになったが、それらの直球ちょっきゅうのぞたましゅ総称そうしょうする言葉ことばはまだなく、「魔球まきゅう」という言葉ことばがその総称そうしょうとして使つかわれるようになる。また、英語えいごでは直球ちょっきゅうのぞたましゅ総称そうしょうする単語たんごがなく、"breaking ball", "changeup"などと個々ここたましゅすか、"a ball with a change of speed"などと漠然ばくぜん表現ひょうげんされる。

しかし投球とうきゅう方法ほうほう解説かいせつするほんでは、大正たいしょう時代じだいよりたましゅをそのまま片仮名かたかな表記ひょうきする手法しゅほう主流しゅりゅうとなり、徐々じょじょに「魔球まきゅう」という言葉ことば使つかわれなくなる。さらに1930年代ねんだい中頃なかごろには「変化へんかするたま」という表現ひょうげん使つかわれし、やがて1950年代ねんだい中頃なかごろには「変化球へんかきゅう」という言葉ことば定着ていちゃくし、「魔球まきゅう」という言葉ことば比喩ひゆ表現ひょうげんでしか使つかわれなくなった。

比喩ひゆ表現ひょうげんとしての魔球まきゅう

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20世紀せいき後半こうはんからは特別とくべつすぐれたたましゅ新種しんしゅ変化球へんかきゅう特定とくてい選手せんしゅとくすぐれただま魔球まきゅう場合ばあいおおい。

たましゅたいして魔球まきゅうぶものには、以下いかれいがある。

特定とくてい選手せんしゅだま魔球まきゅうぶものには、以下いかれいがある。

奇抜きばつとうほうとしては、小川おがわ健太郎けんたろうおう貞治さだはるたいして使つかった「背面はいめん」が有名ゆうめいである。

打者だしゃへの投球とうきゅうではないが板東ばんどう英二えいじが「どうにかして走者そうしゃせないものか」と苦心くしんした結果けっか、プレートをはずした瞬間しゅんかんよこ回転かいてんしつつジャンプして牽制けんせいだまげるわざ考案こうあん結局けっきょく実戦じっせんでは使つかわずじまいだったというが、これにちかいトリック牽制けんせいだま実在じつざいする。たとえばみぎ投手とうしゅが3るい牽制けんせいせかけ、3るい走者そうしゃるいさせておいて、すかさずはん回転かいてんして1るい牽制けんせいするもの。漫画まんが『ドカベン』では殿しんがり登板とうばんしたとき、「とうだん射手しゃしゅ」としてこれを披露ひろうしている。

フィクションの世界せかいでの「魔球まきゅう

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漫画まんがなどの創作そうさくでは作品さくひんによって魔球まきゅうあつかいがことなる。超人ちょうじんてき選手せんしゅ登場とうじょうするようなフィクションせいつよ作品さくひんでは、現実離げんじつばなれした荒唐無稽こうとうむけい変化球へんかきゅうえがかれて魔球まきゅうばれる。投球とうきゅうじゅつきが無視むしされるほどの絶対ぜったいてき武器ぶきであることもおおい。それらは現実げんじつにはないすさまじい変化へんかをしたりするが、そのおおくは物理ぶつりてき不可能ふかのうであり、なかにはルールじょう反則はんそくおもわれるものも存在そんざいする。一方いっぽう現実げんじつてき設定せっていもとづく野球やきゅう漫画まんがでは荒唐無稽こうとうむけい変化球へんかきゅう登場とうじょうせず、すこ特殊とくしゅ変化球へんかきゅうすぐれた変化球へんかきゅうえがかれて魔球まきゅうばれる。また、魔球まきゅうまった登場とうじょうしない作品さくひんすくなくない。

野球やきゅう漫画まんが以前いぜん

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1949ねんアメリカ映画えいがはる珍事ちんじ』には、野球やきゅう漫画まんがの「バットをよけてとお魔球まきゅう」の原型げんけいともいえるものが登場とうじょうする。ただしこれは投手とうしゅ自身じしん能力のうりょく訓練くんれんによってされる、本来ほんらい意味いみでの「魔球まきゅう」とことなり、架空かくう特殊とくしゅ薬品やくひん塗布とふによる効果こうかという設定せっていであった(無論むろん現実げんじつにはありない。これは公認こうにん野球やきゅう規則きそくの「不正ふせい投球とうきゅう」になる)。

漫画まんがにおける魔球まきゅう登場とうじょう - 全盛期ぜんせいき

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1958ねん昭和しょうわ33ねん)に『おもしろブック』(集英社しゅうえいしゃ)にて連載れんさいはじまった『くりくり投手とうしゅ』(貝塚かいづかひろし)が魔球まきゅうはじめてしたとされている[11]。『くりくり投手とうしゅ以前いぜんにも『バットくん』(井上いのうえ一雄かずお)などの「日常にちじょう」をぜたくさ野球やきゅうをテーマにした野球やきゅう漫画まんが存在そんざいしたが、『くりくり投手とうしゅ』は投手とうしゅたい打者だしゃ対決たいけつ収束しゅうそくさせることで、野球やきゅう漫画まんがにもがれる対決たいけつ構図こうずしている[11][12]

魔球まきゅうという言葉ことば具体ぐたいてき登場とうじょうした作品さくひんは、1961ねん昭和しょうわ36ねん開始かいしの『ちかいの魔球まきゅう』(原作げんさく福本ふくもと和也かずや作画さくがちばてつや)とされる[注釈ちゅうしゃく 1]。そのけたのが、1963ねん昭和しょうわ38ねん開始かいしの『くろ秘密ひみつ兵器へいき』(原作げんさく福本ふくもと和也かずや作画さくがいちみねだい)である[14]ほんさく主人公しゅじんこう伊賀いが忍者にんじゃ子孫しそんという設定せっていで、魔球まきゅう独特どくとくほう白土しらつち三平さんぺいらの忍者にんじゃ漫画まんがにおける忍法にんぽう(リアルな作風さくふう)と類似るいじした関係かんけいにあった[15]

名前なまえも「魔球まきゅう」のほか、「だま」「かいたま」「ちょうたま」などバラエティにんでいた。

そしてさらにそのはつである『巨人きょじんほし』のだいヒットとともに、魔球まきゅう存在そんざい野球やきゅう漫画まんがにおいて定着ていちゃくし、不可欠ふかけつとされるようになった。『巨人きょじんほし』でほしゆう高校こうこう野球やきゅう速球そっきゅう投手とうしゅだった時代じだい対戦たいせん相手あいて投手とうしゅがドロップを駆使くしし、これが「魔球まきゅう」としょうされた。格闘技かくとうぎ漫画まんが原作げんさくおおがける梶原かじはらいち原作げんさく作品さくひんということもあり、魔球まきゅう柔道じゅうどうプロレスにおける「必殺ひっさつわざ」のわりであった。3ごうまで開発かいはつされただいリーグボールとその攻略こうりゃくきは作品さくひん緊迫きんぱくしたものとし、「える魔球まきゅう」は正体しょうたいがしばらくせられていたあいだ各界かくかい著名ちょめいじんあいだ種明たねあかしの予想よそうがなされた。

巨人きょじんほし』の時点じてんですでに、これらの魔球まきゅう非常ひじょう荒唐無稽こうとうむけい代物しろものであり、物理ぶつりてき不可能ふかのうおもわれたが、『巨人きょじんほし』ののちはさらにエスカレートし、『アストロ球団きゅうだん』、『さむらいジャイアンツ』などの作品さくひん頂点ちょうてんむかえ、『アストロ球団きゅうだん』にいたっては後年こうねんのファンに「殺人さつじん魔球まきゅう」とさえしょうされた[16]

その影響えいきょうで、当時とうじ小学館しょうがくかんの『コロコロコミック』や学習がくしゅう雑誌ざっしでも『リトルきょじんくん』をはじめとする、長嶋ながしまジャイアンツ小学生しょうがくせい入団にゅうだんして魔球まきゅう活躍かつやくする漫画まんががいくつか登場とうじょうした。『あばれジャイアンツ』では主人公しゅじんこうが「左右さゆうにZがたがる魔球まきゅう」と、「っても外野がいやフライになる魔球まきゅう」で活躍かつやくするが、プロの打者だしゃたちやライバルにたれ、結局けっきょく基本きほんである速球そっきゅうきたえることになる、

しん巨人きょじんほし』ではほしゆう分身ぶんしん魔球まきゅうとして「蜃気楼しんきろう魔球まきゅう」が登場とうじょうするが、ライバルの花形はながたみつる左門さもん豊作ほうさくなぞきよりもボールのかげ本物ほんものつことを優先ゆうせんし、ロメオ・南条なんじょうは「こんな手品てじな相手あいてにはならん」とって魔球まきゅう打倒だとう最初さいしょから放棄ほうきし、ほしべつたましゅつことを重視じゅうしした。このため、「種明たねあかし」は封印ふういんされてわった。ここで、魔球まきゅう位置いちづけが徐々じょじょわっていた。たとえば『さむらいジャイアンツ』では、数々かずかず奇抜きばつとうほうほう魔球まきゅうそのものよりも印象いんしょうてきえがかれている。また『おとこどアホウ甲子園こうしえん』でも剛球ごうきゅう仮面かめんによる「大回転だいかいてんとうほう」が登場とうじょうしたが、これはいわゆる魔球まきゅうではなくつよし速球そっきゅうげるための特殊とくしゅとうほうであった。

変化球へんかきゅうとしての魔球まきゅう

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水島みずしま新司しんじの『ドカベン』など、それなりに現実げんじつそくした野球やきゅう漫画まんが主流しゅりゅうになると、魔球まきゅうもあくまで変化球へんかきゅう一種いっしゅとしてえがかれるようになる。たとえば水島みずしま作品さくひんにも「ドリームボール」や「さとるボール」「ちょうおそだま」といった魔球まきゅう登場とうじょうするが、それぞれボールがれるフォークボールシンカー絶妙ぜつみょうチェンジアップというだけである。水島みずしま奇抜きばつ変化へんか打者だしゃるより、「だま使つかってくるとおもっている魔球まきゅうをあえて初球しょきゅうだまにする」「げる、げるとおもわせておいてべつたまたせてる」「そんな魔球まきゅう本当ほんとうにあるのかどうか打者だしゃ疑心暗鬼ぎしんあんきにさせる」など、魔球まきゅう描写びょうしゃはいだまきや心理しんりせんみ、魔球まきゅう描写びょうしゃしん境地きょうちあたえた[17]

野球やきゅう漫画まんがの「魔球まきゅうばなれ」

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さらにすすんで、1980ねんだいにはあだちたかしの『タッチ』に代表だいひょうされるような、勝負しょうぶ行方ゆくえやプレイそのものより野球やきゅうつうじた人間にんげん関係かんけい重視じゅうしした野球やきゅう漫画まんが主流しゅりゅうになり、魔球まきゅう野球やきゅう漫画まんがにおける地位ちいげてゆく。まれに登場とうじょうはするものも、現実げんじつあたらしく開発かいはつされたしん変化球へんかきゅう作中さくちゅうべつ名前なまえをつけて魔球まきゅうとしてあつかっているだけであったり、一種いっしゅパロディオマージュとしてであることがおおく、漫画まんが主題しゅだいにはなりえなくなった。東野とうの圭吾けいごのミステリー小説しょうせつ魔球まきゅう』のように魔球まきゅう自体じたい題材だいざいにした作品さくひん登場とうじょうしたが、作中さくちゅう主人公しゅじんこう須田すだ武志たけしげるれる魔球まきゅうアシ・ボールもけっして現実離げんじつばなれしたものではなく、魔球まきゅう誕生たんじょうのエピソードはアトランタ・ブレーブスボブ・ウィックマン共通きょうつうのものである。

魔球まきゅう復活ふっかつ

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1990年代ねんだい後半こうはんはいるとふたたび、現実離げんじつばなれした魔球まきゅう登場とうじょうする。現実げんじつにおいて変化球へんかきゅう科学かがくてき分析ぶんせきすすんでいることをけて、『Dreams』では魔球まきゅう流体りゅうたい力学りきがくなどの科学かがくてき説明せつめいくわえており、真実味しんじつみたせようとしている。『Dreams』における魔球まきゅう位置いちづけとしては『ドカベン』以前いぜんにあったような、魔球まきゅう攻略こうりゃく勝敗しょうはいおおきくかかわるというもので、攻略こうりゃくされるまでは絶対ぜったいてき武器ぶきとしてとうしている。

パロディとしての「魔球まきゅう

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一方いっぽう1970年代ねんだいなか以降いこう、「スポーツを題材だいざいとしたギャグ漫画まんが」が登場とうじょうすると、それまで隆盛りゅうせいほこったスポ漫画まんがのパロディとして、魔球まきゅうもまたパロディの題材だいざいとされるようになる[18]江口えぐち寿史ひさしの『すすめ!パイレーツ』やいしいひさいちの『がんばれ!!タブチくん!!』といった作品さくひんには、パロディの魔球まきゅう(あるいはそのこころみ)がいくつか登場とうじょうした[18]

野球やきゅうばんでは、バット直下ちょっかのグラウンドに相当そうとうするいた投手とうしゅがわプレイヤーの操作そうさ下垂かすいし、ボールがそこにまれる「える魔球まきゅう」が使つかわれている。打者だしゃがわプレイヤーはこれを使つかわれると、どんなに頑張がんばっても空振からぶになる(構造こうぞうじょうてない)。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただし、漫画まんがみなもと太郎たろうは、「ちかいの魔球まきゅう」よりまえ昭和しょうわ32ねん発表はっぴょう寺田てらだヒロオ「スポーツマン佐助さすけ」において、とく奇抜きばつ変化へんかのないたましゅ形容けいように「魔球まきゅう」という言葉ことば使つかわれていた記憶きおくがあるとべている[13]

出典しゅってん

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  1. ^ 山口やまぐちするどこれすけ,『「魔球まきゅう」の語源ごげん』,読売新聞よみうりしんぶん 1931ねん5がつ21にち朝刊ちょうかん9ぺーじ.
  2. ^ 横井よこい春野はるの, 『日本にっぽん野球やきゅう発達はったつ』, 美津みつ, 1922ねん.
  3. ^ a b 中馬ちゅうまかのえ, 「魔球まきゅう」, 『野球やきゅう』, 美津みつ, 1897ねん.
  4. ^ 国民こくみん新聞しんぶんしゃ運動うんどうへん, 魔法まほう扱ひされたカーブ」, 『日本にっぽん野球やきゅう』, 1929ねん.
  5. ^ 第一高等学校だいちこうとうがっこう校友こうゆうかい, 『野球やきゅう : 校友こうゆうかい雑誌ざっし號外ごうがい』, スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ, 1980 (第一高等学校だいちこうとうがっこう校友こうゆうかい発行はっこう, 『野球やきゅう』(1895)の復刻ふっこくばん).
  6. ^ 正岡まさおか子規しき, 香雪こうせつ紫雲しうん, 春陽しゅんようどう, 1932ねん.
  7. ^ 高橋たかはし雄次郎ゆうじろう, 『新式しんしきベースボールじゅつ』, 四海しかいどう, 1898.
  8. ^ エドワートちょ, 長塚ながつか順次郎じゅんじろうやく, 『魔球まきゅうじゅつ』, まん商店しょうてん, 1904.
  9. ^ たとえば(a)早稲田大学わせだだいがく野球やきゅう選手せんしゅ, 『ベースボール』, 1907;(b)伊勢田いせだつよし, 『野球やきゅう』, 1911ねん.
  10. ^ レッドソックス捕手ほしゅが1イニング4いっ - nikkansports.com、2013ねん8がつ7にち
  11. ^ a b 米沢よねざわ嘉博よしひろ戦後せんご野球やきゅうマンガ-手塚てづか治虫おさむのいない風景ふうけい平凡社へいぼんしゃ平凡社へいぼんしゃ新書しんしょ〉、2002ねん、56-57ぺーじISBN 978-4582851540 
  12. ^ 大崎おおさき悌造昭和しょうわどもブーム』学研がっけんパブリッシング、2010ねん、110ぺーじISBN 978-4054041172 
  13. ^ みなもと太郎たろう『おたのしみはこれもなのじゃ 漫画まんがめいセリフ』角川書店かどかわしょてん、2004ねん、174-176ぺーじISBN 978-4048838986 
  14. ^ 夏目なつめぼうかい 1991, pp. 24–25.
  15. ^ 夏目なつめぼうかい 1991, pp. 26–27.
  16. ^ 原田はらだまさる (2014ねん9がつ1にち). “「アストロ球団きゅうだん」はこんなにすご漫画まんがだった! 殺人さつじん廃人はいじん続出ぞくしゅつ…なのに感動かんどうありわらいあり!!!”. MOGU2ニュース. 2019ねん1がつ29にち閲覧えつらん
  17. ^ 夏目なつめぼうかい 1991, pp. 38–39.
  18. ^ a b 夏目なつめぼうかい 1991, pp. 40–41.

参考さんこう文献ぶんけん

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