賀が一いち龍りゅう(?—1643年ねん),別べつ號ごう“革かわ里さと眼め”。明あかり末まつ農民のうみん軍ぐん將領しょうりょう。
滎陽大會たいかい時とき,名めい列れつ豫よ楚すわえ十じゅう三さん家いえ之これ一いち。崇たかし禎ただし十じゅう一いち年ねん(1638年ねん)農民のうみん軍ぐん聲こえ勢ぜい受挫,轉てん至いたり英えい山さん、霍山、潛せん山さん、太たい湖こ一帶いったい活動かつどう,與あずか賀が錦にしき、馬うま守まもる應おう、劉りゅう希のぞみ堯、藺い養成ようせい合ごう軍ぐん,稱しょう「革かわ左ひだり五ご營」。崇たかし禎ただし十じゅう五ご年ねん(1642年ねん),與あずか李り自じ成なり聯合れんごう,突襲霍邱城じょう,殺ころせ知ち縣けん左ひだり相しょう申さる。賀が一いち龍りゅう與あずか羅ら汝なんじ才ざい欲よく自立じりつ稱しょう王おう,崇たかし禎ただし十じゅう六ろく年ねん(1643年ねん)三月李自成殺羅汝才,賀が一いち龍りゅう亦また被ひ殺ころせ。