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A Day with Thomas Edison (1922年 ねん )
トーマス・アルバ・エジソン (英 えい : Thomas Alva Edison [1] [注 ちゅう 1] 、1847年 ねん 2月 がつ 11日 にち - 1931年 ねん 10月18日 にち )は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の発明 はつめい 家 か 、起業 きぎょう 家 か 。スポンサーのJPモルガン 、秘書 ひしょ のサミュエル・インサル、そしてメロン財閥 ざいばつ とアメリカの電力 でんりょく 系統 けいとう を寡占 かせん した[2] 。Life誌 し が1999年 ねん に発表 はっぴょう した「この1000年 ねん で最 もっと も重要 じゅうよう な功績 こうせき を残 のこ した世界 せかい の人物 じんぶつ 100人 にん 」において第 だい 1位 い に選出 せんしゅつ されている[3] 。
傑出 けっしゅつ した発明 はつめい 家 か として知 し られ、生涯 しょうがい におよそ1,300もの発明 はつめい と技術 ぎじゅつ 革新 かくしん を行 おこな った人物 じんぶつ である。たとえば蓄音器 ちくおんき 、白熱 はくねつ 電球 でんきゅう [4] 、活動 かつどう 写真 しゃしん である[5] [注 ちゅう 2] [注 ちゅう 3] 。エジソンはJ・P・モルガン から巨額 きょがく の出資 しゅっし ・援助 えんじょ をしてもらい、Edison General Electric Company(エジソン・ゼネラル・エレクトリック、現 げん ・ゼネラル・エレクトリック =GE)を設立 せつりつ した。GEは電球 でんきゅう などの家電 かでん だけでなく、発電 はつでん から送電 そうでん までを含 ふく む電力 でんりょく 系統 けいとう の事業 じぎょう 化 か に成功 せいこう した。エジソンは合計 ごうけい 14の会社 かいしゃ を設立 せつりつ している。助手 じょしゅ には一人 ひとり だけ日本人 にっぽんじん (岡部 おかべ 芳郎 よしお )がいた[6] 。
LIFE誌 し が1999年 ねん に発表 はっぴょう した「この1000年 ねん で最 もっと も重要 じゅうよう な功績 こうせき を残 のこ した世界 せかい の人物 じんぶつ 100人 にん 」において第 だい 1位 い に選出 せんしゅつ されている[3] 。
エジソンは様々 さまざま の異名 いみょう を持 も ち、しばしば「発明 はつめい 王 おう 」と呼 よ ばれている[6] 。また、研究所 けんきゅうじょ が置 お かれたニュージャージー州 しゅう メンロパーク にちなんで「The Wizard of Menlo Park(メンロパークの魔術 まじゅつ 師 し )」とも呼 よ ばれた。メンロパークは、今 いま ではエジソンと改名 かいめい している。リュミエール兄弟 きょうだい と並 なら んで「映画 えいが の父 ちち 」とも言 い われている。このほか、自 みずか らの発明 はつめい の権利 けんり を守 まも るため訴訟 そしょう を厭 いと わなかったことから「訴訟 そしょう 王 おう 」の異名 いみょう も持 も つ[注 ちゅう 4] 。
エジソンは「努力 どりょく の人 ひと 」「非常 ひじょう な努力 どりょく 家 か [5] 」「不屈 ふくつ の人 ひと 」などとして知 し られている。幼 おさな いころから正規 せいき の教育 きょういく を受 う けられないという困難 こんなん に見舞 みま われたが、図書館 としょかん などで独学 どくがく した[5] 。新聞 しんぶん の売 う り子 こ (販売 はんばい 員 いん )として働 はたら くことでわずかなお金 かね をコツコツと貯 た め、自分 じぶん の実験 じっけん 室 しつ を作 つく った逸話 いつわ などでも知 し られている[5] 。16歳 さい の頃 ころ には電信 でんしん 技士 ぎし として働 はたら くようになり、各地 かくち を放浪 ほうろう しつつも、自力 じりき で科学 かがく 雑誌 ざっし を読破 どくは して学 まな び続 つづ けた[5] 。耳 みみ が不自由 ふじゆう になったにもかかわらず、それに負 ま けず、努力 どりょく を積 つ み重 かさ ね成功 せいこう したことでも知 し られている[注 ちゅう 5] [注 ちゅう 6] [注 ちゅう 7] 。
1847年 ねん 2月 がつ 11日 にち にオハイオ州 しゅう マイラン で父 ちち サミュエル・オグデンJr.(1804年 ねん 8月 がつ 16日 にち - 1896年 ねん 、オランダ 系 けい )と母 はは ナンシー・エリオット(1810年 ねん 1月 がつ 4日 にち - 1871年 ねん 、スコットランド 系 けい )の間 あいだ に生 う まれた。オランダ人 じん 系 けい とスコットランド人 じん 系 けい の両親 りょうしん から生 う まれたエジソンは従 したが って、オランダ人 じん 系統 けいとう オランダ系 けい アメリカ人 じん )と考 かんが えられている。メキシコ では「エジソンはメキシコ人 じん だ」というい伝 いつた えがある[要 よう 出典 しゅってん ] が、「彼 かれ のミドルネームがアルバ (Alva) という事 こと から誤解 ごかい が生 しょう じたものであり、このい伝 いつた えは信憑 しんぴょう 性 せい に欠 か ける[要 よう 出典 しゅってん ] 」という。アルバというミドルネームは彼 かれ らの家族 かぞく の友人 ゆうじん である Captain Bradley に由来 ゆらい する[要 よう 出典 しゅってん ] 。[7] [8] 。父系 ふけい の家系 かけい はニュージャージー州 しゅう 経由 けいゆ のオランダ人 じん であった。トーマスは彼 かれ らの7人 にん の子 こ の末 すえ っ子 こ で、トーマス・アルバが7歳 さい のときに家族 かぞく はミシガン州 しゅう ポートヒューロン に移 うつ った。幼少 ようしょう 期 き は通称 つうしょう 「アル」であった。祖父 そふ のジョン・エデソンは1784年 ねん にニュージャージー州 しゅう からノバスコシア州 しゅう に逃 のが れ、父親 ちちおや は1837~1838年 ねん の反乱 はんらん に関与 かんよ した後 のち 、オンタリオ州 しゅう ウィーンに逃亡 とうぼう した[9] 。
少年 しょうねん 期 き のトーマス
少年 しょうねん 時代 じだい のトーマスは、異常 いじょう なほどの知 し りたがり屋 や であった。小学校 しょうがっこう に入学 にゅうがく するも、教師 きょうし と馬 うま が合 あ わず、わずか3か月 げつ で中退 ちゅうたい した。当時 とうじ の逸話 いつわ としては、算数 さんすう の授業 じゅぎょう 中 ちゅう には「1+1=2」と教 おし えられても鵜呑 うの みにすることができず、「1個 いっこ の粘土 ねんど と1個 いっこ の粘土 ねんど を合 あ わせたら、大 おお きな1個 いっこ の粘土 ねんど なのになぜ2個 こ なの?」と質問 しつもん したり、国語 こくご の授業 じゅぎょう 中 ちゅう にも、「A(エー)はどうしてP(ピー)と呼 よ ばないの?」と質問 しつもん したりするといった具合 ぐあい で、授業 じゅぎょう 中 ちゅう には事 こと あるごとに「なぜ?」を連発 れんぱつ し、教師 きょうし を困 こま らせていたという。
そのような好奇心 こうきしん は学校 がっこう 内 ない にとどまらず、ガチョウ の卵 たまご を自分 じぶん で孵化 ふか させようとして、卵 たまご を抱 いだ き抱 かか えてガチョウ小屋 こや の中 なか に何 なん 時 じ 間 あいだ も座 すわ り込 こ んだり、「なぜ物 もの は燃 も える のか」を知 し りたいと思 おも い立 た ち、藁 わら を燃 も やしていたところ、自宅 じたく の納屋 なや を全焼 ぜんしょう させるという事件 じけん を起 お こし、父親 ちちおや に咎 とが められたりしたこともあった。これらが重 かさ なった挙句 あげく 、最終 さいしゅう 的 てき には担任 たんにん の教師 きょうし から「君 きみ の頭 あたま は腐 くさ っている」と吐 は き捨 す てられ、校長 こうちょう からも「ほかの生徒 せいと たちの迷惑 めいわく になる」と言 い われ、前述 ぜんじゅつ の通 とお り入学 にゅうがく からわずか3か月 げつ で退学 たいがく することとなった[注 ちゅう 8] 。
学校 がっこう 教育 きょういく に馴染 なじ めなかったトーマスは、自宅 じたく で独学 どくがく することになった(ホームスクーリング )[10] 。トーマスが特 とく に興味 きょうみ を示 しめ したのは、化学 かがく の実験 じっけん であった。
科学 かがく 実験 じっけん に没頭 ぼっとう した少年 しょうねん 時代 じだい 、人間 にんげん が空 そら を飛 と べるようになる薬 くすり を作 つく ろうと試 こころ み、ヘリウム ガス をヒントにして薬 くすり を自作 じさく し、友人 ゆうじん に飲 の ませた。エジソンの目論見 もくろみ としては、その薬 くすり を飲 の むと体内 たいない でガスが発生 はっせい し、その浮力 ふりょく で人間 にんげん が浮 う き上 あ がるはずだったが、実際 じっさい には薬 くすり を飲 の んだ友人 ゆうじん が腹痛 はらいた を起 お こしてもがき苦 くる しみ、大騒 おおさわ ぎになった。普段 ふだん はエジソンの行為 こうい に理解 りかい を示 しめ していた母親 ははおや も、この件 けん に関 かん しては激怒 げきど し、人体 じんたい 実験 じっけん を行 おこな うことを厳 きび しく戒 いまし めたという(エジソンはその後 ご も人間 にんげん が空 そら を飛 と ぶという夢 ゆめ を追求 ついきゅう したが、前述 ぜんじゅつ の通 とお り、またもや人命 じんめい に関 かか わる問題 もんだい (ヘリコプター試作 しさく 中 ちゅう の事故 じこ )で挫折 ざせつ することとなる)。
エジソンは 12 歳 さい のときに聴覚 ちょうかく 障害 しょうがい を発症 はっしょう した。難聴 なんちょう の原因 げんいん についてその後 ご 、彼 かれ は精巧 せいこう な架空 かくう の話 はなし をでっち上 あ げた[11] 。耳 みみ を引 ひ っ張 ぱ られた、元 もと ボクサー に殴 なぐ られた、など話 はなし にはいくつかのバージョンがあるが、実際 じっさい の彼 かれ の難聴 なんちょう の原因 げんいん は幼少 ようしょう 期 き の猩紅熱 しょうこうねつ の発作 ほっさ と、治療 ちりょう されていない中耳 ちゅうじ 感染 かんせん 症 しょう の再発 さいはつ に起因 きいん すると現在 げんざい は推測 すいそく されている。エジソンは片方 かたがた の耳 みみ が完全 かんぜん に聞 き こえず、もう一方 いっぽう の耳 みみ はほとんど聞 き こえなかったので、歯 は を木材 もくざい に挟 はさ んで頭蓋骨 ずがいこつ に音波 おんぱ を吸収 きゅうしゅう させて音楽 おんがく プレーヤーやピアノを聴 き いていたと言 い われている[12] 。年 とし をとるにつれ、エジソンは難聴 なんちょう のおかげで気 き が散 ち るのを避 さ け、仕事 しごと に集中 しゅうちゅう しやすくなったと考 かんが えていた。これとは別 べつ に、現代 げんだい の歴史 れきし 家 か や医療 いりょう 専門 せんもん 家 か は、彼 かれ がADHD を持 も っていた可能 かのう 性 せい があることを示唆 しさ している[13] 。
少年 しょうねん 時代 じだい のエジソンは持 も ち前 まえ の好奇心 こうきしん が高 こう じて、自 みずか らの手 て で新聞 しんぶん を作 つく り、列車 れっしゃ の中 なか で売 う って評判 ひょうばん になったことがあった。エジソンは13歳 さい までに週 しゅう 50ドルの利益 りえき を上 あ げ、そのほとんどは電気 でんき および化学 かがく 実験 じっけん 用 よう の機器 きき の購入 こうにゅう にした[12] 。しかし、ある人物 じんぶつ を皮肉 ひにく った内容 ないよう の記事 きじ を新聞 しんぶん に載 の せたところ、これを見 み て激怒 げきど した本人 ほんにん から暴行 ぼうこう を受 う け、これに懲 こ りてエジソンは新聞 しんぶん 作 づく りをやめたという。また、15歳 さい のときには働 はたら いていた鉄道 てつどう の駅 えき で、まだ幼 おさな い駅長 えきちょう の息子 むすこ が汽車 きしゃ にひかれそうになったのを近 ちか くにいた中年 ちゅうねん の男 おとこ と一緒 いっしょ に助 たす けたことがあった。エジソンはそのお礼 れい として駅長 えきちょう から電信 でんしん の技術 ぎじゅつ を教 おし えてもらい、のちに彼 かれ が技術 ぎじゅつ 者 しゃ としての人生 じんせい を歩 あゆ み始 はじ めるきっかけを与 あた えてもらったという。
投票 とうひょう 記録 きろく 機 き 、株式 かぶしき 相場 そうば 表示 ひょうじ 機 き [ 編集 へんしゅう ]
自身 じしん が開発 かいはつ した初期 しょき の蓄音機 ちくおんき とともに(1878年 ねん 、エジソン31歳 さい )
このような少年 しょうねん 時代 じだい を送 おく ったが、その後 ご 、母親 ははおや も手伝 てつだ って発明 はつめい を複 ふく 数 すう 回 かい 行 おこな ったという。
1864年 ねん 、17歳 さい の頃 ころ のエジソンはカナダ の駅 えき で夜間 やかん 電信 でんしん 係 がかり として働 はたら いていたが、「何事 なにごと もなければ、一 いち 晩 ばん 中 ちゅう 1時 じ 間 あいだ おきに勤務 きんむ に就 つ いていることを示 しめ す信号 しんごう を送 おく るだけ」という退屈 たいくつ な仕事 しごと に飽 あ きてしまい、時計 とけい を使 つか って電信 でんしん 機 き が自動 じどう で電信 でんしん を送 おく る機械 きかい を発明 はつめい した。電信 でんしん を機械 きかい に任 まか せて自分 じぶん は寝 ね ていたところ、それまでと違 ちが って全 まった く誤差 ごさ なく正確 せいかく に1時 じ 間 あいだ おきに電信 でんしん が届 とど くようになったことを不思議 ふしぎ に思 おも い様子 ようす を見 み にきた上司 じょうし に「お前 まえ が寝 ね ていたら定時 ていじ に連絡 れんらく する意味 いみ がないだろう」と怒 おこ られた。これがエジソンの最初 さいしょ の発明 はつめい だった。クビは免 まぬか れたもののその後 ご の通信 つうしん ミスで列車 れっしゃ の衝突 しょうとつ 事故 じこ を起 お こしかけ、本社 ほんしゃ からの出頭 しゅっとう 命令 めいれい を無視 むし して放浪 ほうろう 生活 せいかつ を始 はじ める[要 よう 出典 しゅってん ] 。
エジソンは1868年 ねん 、21歳 さい のときに初 はじ めて特許 とっきょ を取得 しゅとく した。それは電気 でんき 投票 とうひょう 記録 きろく 機 き に関 かん するもので[14] 、議会 ぎかい における賛成 さんせい 票 ひょう と反対 はんたい 票 ひょう の数 かず を押 お しボタンで瞬時 しゅんじ に集計 しゅうけい し、投票 とうひょう にかかる時間 じかん を大幅 おおはば に短縮 たんしゅく できる画期的 かっきてき な発明 はつめい となるはずだった。しかし、実際 じっさい の連邦 れんぽう 議会 ぎかい や各州 かくしゅう の議会 ぎかい では、野党 やとう の議員 ぎいん による投票 とうひょう 中 ちゅう のフィリバスター や与党 よとう の議員 ぎいん との交渉 こうしょう ができなくなるという理由 りゆう により、全 まった く採用 さいよう されなかった[15] 。エジソンはこの苦 にが い経験 けいけん を通 とお して、いくら立派 りっぱ な発明 はつめい でも人々 ひとびと が喜 よろこ んでくれなければ何 なん の意味 いみ もないことを痛感 つうかん し、その後 ご は周囲 しゅうい の人々 ひとびと の意見 いけん や要望 ようぼう をよく聞 き いてから発明 はつめい に取 と り組 く むようになったという。
その翌年 よくねん の1869年 ねん 、エジソンが22歳 さい のときに特許 とっきょ を取得 しゅとく した株式 かぶしき 相場 そうば 表示 ひょうじ 機 き (ティッカー)は業界 ぎょうかい から大 おお いに歓迎 かんげい され、その特許 とっきょ 権 けん を譲 ゆず ってもらいたいという申 もう し出 で があった。最初 さいしょ 、エジソン自身 じしん は5,000ドルほどで特許 とっきょ 権 けん を売 う るつもりであったが、実際 じっさい には4万 まん ドル(現在 げんざい の日本円 にほんえん で約 やく 2億 おく 円 えん 相当 そうとう )で買 か い取 と られ、エジソンは当初 とうしょ の予想 よそう より8倍 ばい も高 たか い金額 きんがく を提示 ていじ されて、心臓 しんぞう が止 と まるかと思 おも うほど驚 おどろ いたという。こうしてエジソンは発明 はつめい 家 か としての人生 じんせい を本格 ほんかく 的 てき に歩 あゆ んでいくことになった。その後 ご 、押 お しボタン式 しき の投票 とうひょう 装置 そうち は、エジソンの発明 はつめい から130年 ねん 後 ご にあたる1998年 ねん に日本 にっぽん の参議院 さんぎいん に導入 どうにゅう された。
電話 でんわ 、蓄音機 ちくおんき 、白熱 はくねつ 電球 でんきゅう [ 編集 へんしゅう ]
トーマス・エジソン(1878年 ねん )
1877年 ねん に蓄音機 ちくおんき の実用 じつよう 化 か (商品 しょうひん 化 か )で名声 めいせい を獲得 かくとく 。ニュージャージー州 しゅう にメンロパーク研究 けんきゅう 室 しつ を設立 せつりつ し、集 あつ まった人材 じんざい を発明 はつめい 集団 しゅうだん として機能 きのう させるべく、マネジメント面 めん で辣腕 らつわん を振 ふ るった。
研究所 けんきゅうじょ では電話 でんわ 、蓄音器 ちくおんき (つまり録音 ろくおん ・再生 さいせい 装置 そうち )、電気 でんき 鉄道 てつどう 、鉱石 こうせき 分離 ぶんり 装置 そうち 、電灯 でんとう 照明 しょうめい などを矢継 やつ ぎ早 ばや に商品 しょうひん 化 か した。中 なか でも注力 ちゅうりょく したのは白熱 はくねつ 電球 でんきゅう であり、数多 かずおお い先行 せんこう の白熱 はくねつ 電球 でんきゅう を実用 じつよう 的 てき に改良 かいりょう した。彼 かれ は白熱 はくねつ 電球 でんきゅう の名称 めいしょう をゾロアスター教 きょう の光 ひかり と英知 えいち の神 かみ 、アフラ・マズダー から引用 いんよう し、「マズダ 」と名付 なづ けている[16] 。この特許 とっきょ の有効 ゆうこう 性 せい について訴訟 そしょう が起 お こり、裁判 さいばん で特許 とっきょ (番号 ばんごう 223,898)が有効 ゆうこう と判定 はんてい されるまでに時間 じかん がかかった。一方 いっぽう で白熱 はくねつ 電球 でんきゅう の売 う り込 こ みのための合弁 ごうべん 会社 かいしゃ を設立 せつりつ し、直流 ちょくりゅう の電力 でんりょく を供給 きょうきゅう するシステムを確立 かくりつ させる。
1887年 ねん にニュージャージー州 しゅう のウェストオレンジ研究 けんきゅう 室 しつ に移 うつ る。ここでは動画 どうが 撮影 さつえい 機 き キネトグラフ を発明 はつめい したと言 い われているが、実 じつ は部下 ぶか のウィリアム・ディックソン の発明 はつめい である。1893年 ねん には、ウエスト・オレンジ研究所 けんきゅうじょ の敷地 しきち 内 ない にアメリカ初 はつ の映画 えいが スタジオ「ブラック・マリア (Edison's Black Maria)」を設立 せつりつ し、ウィリアム・ディックソン、ウィリアム・ハイセ を監督 かんとく に、キネトスコープ用 よう の白黒 しろくろ フィルムを制作 せいさく し始 はじ めた。1901年 ねん にはマンハッタン に、1907年 ねん にはブロンクス に新 あたら しい映画 えいが スタジオ(Edison Manufacturing Company 、のちにThomas A. Edison, Inc.と改名 かいめい )を開 ひら き、約 やく 1,200本 ほん のフィルムを制作 せいさく した[17] 。
ゴールデンロッド(goldenrod、和名 わみょう :セイタカアワダチソウ )からゴム を取 と るのに成功 せいこう したとも言 い われている。
鉱山 こうざん 経営 けいえい などにも手 て を出 だ すが失敗 しっぱい 。高齢 こうれい となって会社 かいしゃ 経営 けいえい からは身 み を引 ひ くが、研究所 けんきゅうじょ に籠 こも り、死者 ししゃ との交信 こうしん の実験 じっけん (霊界 れいかい との通信 つうしん 機 き の研究 けんきゅう 。霊界 れいかい 通信 つうしん 装置 そうち スピリットフォンの開発 かいはつ )を続 つづ けた。1914年 ねん 12月に研究所 けんきゅうじょ が火事 かじ で全焼 ぜんしょう して約 やく 200万 まん ドルの損害 そんがい を被 こうむ ったが、臆 おく せずその後 ご も死者 ししゃ との交信 こうしん について関心 かんしん を持 も ち研究 けんきゅう を続 つづ けた。後述 こうじゅつ するが、これはエジソンなりの生命 せいめい や魂 たましい についての科学 かがく 技術 ぎじゅつ 的 てき アプローチであり、現代 げんだい 科学 かがく 的 てき 価値 かち 観 かん ではその先 さき に道 みち が無 な いことがわかっていたとしても、当時 とうじ のエジソンは出来 でき 得 え る技術 ぎじゅつ を追求 ついきゅう していたに過 す ぎない。また、当時 とうじ の欧米 おうべい の知識 ちしき 人 じん ・文化 ぶんか 人 じん の間 あいだ では心霊 しんれい ・オカルトなどが流行 りゅうこう 最先端 さいせんたん 、つまりブームでもあった。
エジソンは、1931年 ねん 10月 がつ 18日 にち 、ニュージャージー州 しゅう ウェストオレンジのルウェリンパークにある自宅 じたく 「グレンモント」で糖尿 とうにょう 病 びょう の合併症 がっぺいしょう により死亡 しぼう した(満 まん 84歳 さい 没 ぼつ )[E 1] 。この家 いえ は、1886年 ねん に後妻 ごさい のミナへの結婚 けっこん 祝 いわ いとして購入 こうにゅう したものである。スティーブン・J・ハーベン牧師 ぼくし が葬式 そうしき を執 と り行 おこな った[18] 。エジソンは家 いえ の裏 うら に埋葬 まいそう されている。
エジソンの最後 さいご の息 いき が、デトロイト近 ちか くのヘンリー フォード博物館 はくぶつかん の試験管 しけんかん に収 おさ められていると伝 つた えられている。伝 つた えられているところによると、親友 しんゆう であったフォードはエジソンの息子 むすこ チャールズに、彼 かれ の死 し ぬ瞬間 しゅんかん に口元 くちもと に試験管 しけんかん を宛 あて がい、最後 さいご の息 いき を封印 ふういん するよう説得 せっとく した。これは現在 げんざい の科学 かがく では荒唐無稽 こうとうむけい であるが、エジソンとフォードが「人 ひと は死 し んだ時 とき 、口 くち から魂 たましい が抜 ぬ ける」と信 しん じていたためである。フォードはエジソンの最後 さいご の息 いき 、つまり魂 たましい を封印 ふういん しておいて、近 ちか い将来 しょうらい に蘇生 そせい 術 じゅつ が完成 かんせい した時 とき 、この息 いき を使 つか ってエジソンを復活 ふっかつ させようと考 かんが えていた。[19] 。チャールズはこれを断 ことわ ったがしかし、最後 さいご の時 とき を迎 むか えた部屋 へや には八 はち 本 ほん の試験 しけん 官 かん が設置 せっち してあり、臨終 りんじゅう の直後 ちょくご にそれらは蝋 ろう で封印 ふういん された、と伝 つた わっている。石膏 せっこう のデスマスクとエジソンの手 て の型 かた も作 つく られた[20] 。後妻 ごさい のミナは1947年 ねん に亡 な くなった。
エジソンは生涯 しょうがい に2度 ど 結婚 けっこん しており、それぞれ3人 にん ずつ6人 にん の子 こ をもうけている。
1871年 ねん 12月25日 にち に、自社 じしゃ の子会社 こがいしゃ の従業 じゅうぎょう 員 いん であった16歳 さい のメアリー・スティルウェルと最初 さいしょ の結婚 けっこん をした[21] 。メアリーとの間 あいだ には1873年 ねん にマリオン・エジソン 、1876年 ねん にトーマス・エジソン・ジュニア [22] 、1878年 ねん にウィリアム・エジソン の3人 にん の子 こ が生 う まれたが、多忙 たぼう だったエジソンがあまり家 か に寄 よ りつかなかったこともありメアリーは引 ひ きこもりがちになり、次第 しだい に体調 たいちょう を崩 くず していき1884年 ねん 8月 がつ 9日 にち に29歳 さい でこの世 よ を去 さ った[23] 。
妻 つま 、ミナ(1906年 ねん )
メアリーの死後 しご 、エジソンは同 おな じく富裕 ふゆう な発明 はつめい 家 か ・実業 じつぎょう 家 か であったルイス・ミラー の娘 むすめ である20歳 さい のミナ・ミラー (Mina Miller Edison、1865年 ねん - 1947年 ねん )と1886年 ねん 2月 がつ 24日 にち にオハイオ州 しゅう のアクロン で結婚 けっこん した[24] [25] 。ミナとの間 あいだ には、1888年 ねん にマドレーン・エジソン 、1890年 ねん にはエジソン死後 しご にエジソンの事業 じぎょう を引 ひ き継 つ ぐとともに政治 せいじ 家 か となってニュージャージー州 しゅう 知事 ちじ やアメリカ海軍 かいぐん 長官 ちょうかん 代行 だいこう を務 つと めたチャールズ・エジソン 、1898年 ねん には父 ちち 同様 どうよう 、発明 はつめい 家 か ・環境 かんきょう 活動 かつどう 家 か となったセオドア・エジソン の3人 にん の子 こ をもうけている。ミナはエジソンとの死別 しべつ をしたのち、1947年 ねん に82歳 さい でこの世 よ を去 さ った。なおプロポーズはモールス信号 しんごう にて行 おこな ったという。
自動車 じどうしゃ 王 おう のヘンリー・フォード とは生涯 しょうがい の友人 ゆうじん であった。この2人 ふたり が初 はじ めて会 あ ったのは1896年 ねん のことであり、当時 とうじ はフォードはエジソン電灯 でんとう 会社 かいしゃ の社員 しゃいん であった[25] [26] 。フォードが発明 はつめい したばかりのガソリン自動車 じどうしゃ の説明 せつめい をすると、エジソンはテーブルを拳 こぶし で叩 たた いて喜 よろこ び、フォードを励 はげ ました[27] 。その後 ご 、1912年 ねん にフォードがエジソンに業務 ぎょうむ 提携 ていけい を持 も ちかけ、提携 ていけい 自体 じたい はうまくいかなかったものの友情 ゆうじょう は続 つづ いた。フォードは1967年 ねん 、エジソンは1969年 ねん に、それぞれ自動車 じどうしゃ 殿堂 でんどう 入 い りをしている。
フォードはエジソンの親友 しんゆう ではあったものの「発明 はつめい 家 か としてはともかく、経営 けいえい 者 しゃ としては三流 さんりゅう 」とエジソンの経営 けいえい 者 しゃ としての手腕 しゅわん ははっきりと酷評 こくひょう していた。
晩年 ばんねん の1914年 ねん から1924年 ねん にかけて2人 ふたり は毎年 まいとし 、車 くるま でキャンプ旅行 りょこう に出 で かけていた。老 お いたエジソンが車椅子 くるまいす 生活 せいかつ になると、フォードも車椅子 くるまいす を購入 こうにゅう した。二人 ふたり で車椅子 くるまいす レースをするためだったと伝 つた わる。
発明 はつめい とその裏側 うらがわ [ 編集 へんしゅう ]
この
節 ふし には
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トーマス・エジソンと初期 しょき の蓄音器 ちくおんき
1879年 ねん にメンロパークでのデモンストレーションで使 つか われた電球 でんきゅう
復元 ふくげん されたメンロパークの研究所 けんきゅうじょ (フォード博物館 はくぶつかん 内 ない )。ただし、本物 ほんもの のメンロパーク研究所 けんきゅうじょ は散 ち らかっていたという[E 2] 。
エジソンの功績 こうせき はたぐいまれなものがあるが、改良 かいりょう 発明 はつめい も多 おお く、盗作 とうさく 疑惑 ぎわく のあるものや、誹謗 ひぼう 中傷 ちゅうしょう を受 う けたものも多 おお い。これは彼 かれ 自身 じしん の性格 せいかく に起因 きいん する面 めん がある一方 いっぽう 、エジソンの遺産 いさん 相続 そうぞく の紛糾 ふんきゅう に起因 きいん する面 めん もある。
発明 はつめい の中 なか には、エジソンがゼロから思 おも いついたものなのか、他人 たにん のアイデアを改良 かいりょう したものであるのかが、既 すで に分 わ からなくなってしまっているものもある。アメリカの発明 はつめい 家 か チャールズ・ケタリング の「成功 せいこう の99パーセントは、いままでの失敗 しっぱい の上 うえ に築 きず かれる」という言葉 ことば から分 わ かるように、エジソンの発明 はつめい の「本当 ほんとう に最初 さいしょ の」発明 はつめい 者 しゃ を決 き めるのは困難 こんなん である。
電話機 でんわき の発明 はつめい はアメリカ大陸 あめりかたいりく における電信 でんしん 事業 じぎょう を独占 どくせん していたウエスタンユニオン に依頼 いらい されて着手 ちゃくしゅ した。その結果 けっか 、電話 でんわ に関 かん する特許 とっきょ を得 え たグラハム・ベル とその後援 こうえん 者 しゃ たちと対立 たいりつ するにいたる。送話 そうわ 器 き (マイクロフォン )において、ベルの電磁石 でんじしゃく を利用 りよう したダイナミックマイクに代 か わって炭素 たんそ 粒 つぶ を用 もち いたカーボンマイク を採用 さいよう し、また誘導 ゆうどう コイル により送話 そうわ 距離 きょり を延 の ばしたのはエジソンの功績 こうせき である。長距離 ちょうきょり で利用 りよう するためには、リー・ド・フォレスト が原型 げんけい を発明 はつめい した「三 さん 極 きょく 真空 しんくう 管 かん 」製品 せいひん 化 か まで待 ま たなければならなかったが、「エジソン効果 こうか 」の発見 はっけん ・発明 はつめい がなければジョン・フレミングによる(三極 さんきょく )真空 しんくう 管 かん の発明 はつめい が遅 おく れたであろうことは言 い うまでもない。エジソンは、ベルが電話機 でんわき の発明 はつめい 者 しゃ とされたことには最後 さいご まで納得 なっとく がいかなかったとされる。
一方 いっぽう で無線 むせん 機 き の発明 はつめい については、あっさりとグリエルモ・マルコーニ に手柄 てがら を譲 ゆず っている。この点 てん は輸出 ゆしゅつ も狙 ねら っていたエジソンは上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう 出身 しゅっしん 者 しゃ でイギリス やヨーロッパ の官庁 かんちょう に強 つよ いコネクションを持 も つマルコーニと正面 しょうめん からけんかをしたくなかったとも、元々 もともと はアマチュアで変調 へんちょう などについても知識 ちしき の浅 あさ いマルコーニを敵 てき とすら見 み ていなかったともされている。そもそも電波 でんぱ については、ジェームズ・クラーク・マクスウェル が予言 よげん しハインリヒ・ヘルツ が実証 じっしょう した時点 じてん で世界中 せかいじゅう で開発 かいはつ ブームとなったことから、順番 じゅんばん 争 あらそ いよりも関連 かんれん 特許 とっきょ 取得 しゅとく の競争 きょうそう が重要 じゅうよう であった。この点 てん はマルコーニもエジソンもどちらも資本 しほん 家 か であることから認識 にんしき を同 おな じくして、どちら側 がわ も買収 ばいしゅう 戦争 せんそう に参加 さんか している。
白熱 はくねつ 電球 でんきゅう [ 編集 へんしゅう ]
一般 いっぱん には「白熱 はくねつ 電球 でんきゅう の発明 はつめい 者 しゃ はエジソンである」という説 せつ が広 ひろ まっているが、実際 じっさい に白熱 はくねつ 電球 でんきゅう を発明 はつめい したのはジョゼフ・スワン である。エジソンは、フィラメント として数 すう 千 せん 種類 しゅるい の素材 そざい を試 ため したが、どれも数 すう 十 じゅう 時 じ 間 あいだ で焼 や き切 き れてしまった。手近 てぢか にあった中国 ちゅうごく の扇子 せんす を解体 かいたい して竹 たけ を取 と り出 だ して竹 たけ 炭 ずみ にして使 つか ってみたところ、長 なが くもった。これに注目 ちゅうもく したエジソンは、世界 せかい 各地 かくち にフィラメントに適 てき した竹 たけ を探 さが す調査 ちょうさ 員 いん を派遣 はけん し、来日 らいにち した探検 たんけん 家 か のウィリアム・ムーアが、石清水八幡宮 いわしみずはちまんぐう がある男山 おとこやま の竹 たけ が良質 りょうしつ だと聞 き き、京都 きょうと 府 ふ 八幡 やはた 村 むら (現 げん ・八幡 やはた 市 し )の竹 たけ を入手 にゅうしゅ 。これから作 つく られたフィラメントは約 やく 1,000時 じ 間 あいだ 光 ひか り続 つづ けた。エジソンは、フィラメントをセルロース に切 き り替 か えるまで約 やく 10年間 ねんかん 、八幡 やはた の竹 たけ を使 つか い続 つづ けた[6] [29] [30] 。竹 たけ はのちにタングステン に取 と って代 か わられた。そのため、エジソンは「電球 でんきゅう の発明 はつめい 者 しゃ 」ではなく、電球 でんきゅう を改良 かいりょう して「電灯 でんとう の事業 じぎょう 化 か に成功 せいこう した人 ひと 」とされる。エジソンは配電 はいでん システムを構築 こうちく し、トースターや電気 でんき アイロン などの電気 でんき 製品 せいひん を発明 はつめい した。このために広 ひろ く家庭 かてい に電気 でんき が普及 ふきゅう したのである。
映画 えいが の発明 はつめい においてはリュミエール兄弟 きょうだい やオーギュスタン・ルプランス に遅 おく れをとるも、ジョージ・イーストマン の協力 きょうりょく により、セルロイド 製 せい の長 ちょう 尺 しゃく フィルムを手 て に入 い れることにより巻 ま き返 かえ す。エジソンとエジソンの研究所 けんきゅうじょ のスタッフが規格 きかく 化 か (デファクトスタンダード)した35mmフィルム のスプロケット の規格 きかく は現在 げんざい でも使 つか われている。この点 てん はGEの資本 しほん 力 りょく が映画 えいが 業界 ぎょうかい にも及 およ んでいたことの証明 しょうめい でもある。映写機 えいしゃき やカメラの特許 とっきょ を有 ゆう するエジソンは、爆発 ばくはつ 的 てき に拡大 かくだい していた映画 えいが 市場 いちば から利益 りえき を回収 かいしゅう するため、映画 えいが 会社 かいしゃ に対 たい して特許 とっきょ をめぐる訴訟 そしょう を連発 れんぱつ し、エジソンは疲弊 ひへい した映画 えいが 会社 かいしゃ 各社 かくしゃ からの申 もう し出 で を受 う けて特許 とっきょ を共同 きょうどう 保有 ほゆう するモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー (MPPC、別名 べつめい エジソントラスト)を設立 せつりつ した。MPPCは映画 えいが フィルムの定額 ていがく レンタル制 せい を導入 どうにゅう し、耐久 たいきゅう 年数 ねんすう の過 す ぎたフィルムが各地 かくち で上映 じょうえい されていたり、映画 えいが 会社 かいしゃ が映画 えいが 館 かん に映画 えいが を売 う り込 こ むために内容 ないよう ではなく安売 やすう りで競争 きょうそう したりしていた状態 じょうたい を終 お わらせた。しかし、MPPCに入 い れなかった映画 えいが 会社 かいしゃ の多 おお くはエジソンからの特許 とっきょ 料 りょう 徴収 ちょうしゅう と訴訟 そしょう に耐 た えられず事業 じぎょう を畳 たた み、諦 あきら めなかった会社 かいしゃ は西海岸 にしかいがん のハリウッド に逃 に げて映画 えいが 製作 せいさく を続 つづ けた(これが後 のち にハリウッドが映画 えいが の都 と になった要因 よういん である)。なお、MPPCは1915年 ねん にトラストを規制 きせい するシャーマン法 ほう に違反 いはん するとの連邦 れんぽう 裁判所 さいばんしょ の判決 はんけつ が出 だ された。上訴 じょうそ も却下 きゃっか され、1918年 ねん にMPPCは終焉 しゅうえん を迎 むか えた。
エジソンの映画 えいが スタジオ、ブラック・マリア (1893年 ねん )
ブロンクスのエジソン映画 えいが スタジオ(1907年 ねん - 1918年 ねん )
一 いち 日 にち 24時 じ 間 あいだ 体制 たいせい [ 編集 へんしゅう ]
発明 はつめい のための研究 けんきゅう に関 かん しては昼 ひる も夜 よる も関係 かんけい なく、時間 じかん を忘 わす れて没頭 ぼっとう していた。普段 ふだん の睡眠 すいみん 時間 じかん も30分 ふん ほどの仮眠 かみん を1日 にち 数 すう 回 かい 、合計 ごうけい 3時 じ 間 あいだ ほどしか取 と らず、ほぼ24時 じ 間 あいだ 体制 たいせい と言 い ってよいスケジュールで仕事 しごと を続 つづ けていたため、「エジソンの研究所 けんきゅうじょ の時計 とけい には針 はり がない」とまで噂 うわさ されたほどであった。彼 かれ は後年 こうねん 、「私 わたし の若 わか いころには、1日 にち 8時 じ 間 あいだ 労働 ろうどう などというものはなかった。私 わたし が仕事 しごと を1日 にち 8時 じ 間 あいだ に限 かぎ っていたら、成功 せいこう はおぼつかなかったはずだ」と語 かた っている。彼 かれ は84歳 さい で亡 な くなったが、80歳 さい を過 す ぎてもなお「私 わたし にはまだやらなければならない仕事 しごと がある。少 すく なくともあと15年 ねん は働 はたら かなければならない」と言 い いながら1日 にち 16時 じ 間 あいだ のペースで仕事 しごと を続 つづ けていた。
仕事 しごと への没頭 ぼっとう [ 編集 へんしゅう ]
一 ひと つの物事 ものごと に熱中 ねっちゅう すると、他 た のことは完全 かんぜん に忘 わす れてしまうことが度々 たびたび あった。彼 かれ が考 かんが えごとをしていたとき、話 はな しかけてきた妻 つま のミナに「君 きみ は誰 だれ だ?」と質問 しつもん し、ミナを怒 おこ らせたことがあったという。
柔軟 じゅうなん な思考 しこう [ 編集 へんしゅう ]
エジソンの助手 じょしゅ の1人 ひとり が電球 でんきゅう の容積 ようせき を算出 さんしゅつ するために複雑 ふくざつ な計算 けいさん に取 と り組 く んでいたとき、エジソンは「私 わたし なら電球 でんきゅう に水 みず を入 い れて容積 ようせき を量 はか るよ」と言 い った。エジソンが学校 がっこう などで教 おそ わる常識 じょうしき の枠 わく にとらわれず、物事 ものごと を柔軟 じゅうなん に思考 しこう する実践 じっせん 派 は の研究 けんきゅう 者 しゃ であったことを示 しめ すエピソードである。
英単語 えいたんご の「Hello」を最初 さいしょ に使 つか い出 だ したのはエジソンだという説 せつ がエジソン信奉 しんぽう 者 しゃ によって唱 とな えられたことがあったが、これより以前 いぜん のマーク・トウェイン の作品 さくひん で既 すで にこの語 かたり が用 もち いられている。「Hello」は19世紀 せいき 前半 ぜんはん に使 つか われるようになったが、電話 でんわ の挨拶 あいさつ に頻繁 ひんぱん に使 つか われるようになり、1883年 ねん には辞書 じしょ に載 の った。
エジソンには超 ちょう 自然 しぜん 的 てき 、オカルト的 てき なものに魅 み せられていたという一 いち 面 めん もあった。ブラヴァツキー夫人 ふじん やバート・リーズ の降 くだ 霊 れい 術 じゅつ を信 しん じており、ブラヴァツキー夫人 ふじん の開 ひら く神 かみ 智学 ちがく 会 かい に出席 しゅっせき したこともある。また、来世 らいせ を信 しん じ、後半 こうはん 生 せい は死者 ししゃ と交信 こうしん する電信 でんしん 装置 そうち (Spirit Phone)を研究 けんきゅう していた。ただし、あくまでエジソンは合理 ごうり 主義 しゅぎ 者 もの を自負 じふ しており、1920年代 ねんだい を通 つう じて常 つね に自由 じゆう 思想家 しそうか 協会 きょうかい を支持 しじ していた[注 ちゅう 9] 。
エジソンは「人間 にんげん の魂 たましい もエネルギーである」と考 かんが え、「宇宙 うちゅう のエネルギーの一部 いちぶ である」と考 かんが えていた。「エネルギーは不変 ふへん なので、魂 たましい というエネルギーは人間 にんげん の死後 しご も存在 そんざい し、このエネルギーの蓄積 ちくせき こそが記憶 きおく なのだ」と考 かんが えていた。エジソンの言葉 ことば によれば、自分 じぶん の頭 あたま で発明 はつめい をしたのではなく、自分 じぶん 自身 じしん は自然 しぜん 界 かい のメッセージの受信 じゅしん 機 き で、「宇宙 うちゅう という大 おお きな存在 そんざい からメッセージを受 う け取 と ってそれを記録 きろく することで発明 はつめい としていたに過 す ぎない」のだという。
ニコラ・テスラやウェスティングハウスとの戦 たたか いでは、「交流 こうりゅう 電流 でんりゅう は危険 きけん 」とのイメージを人々 ひとびと に持 も たせるために、交流 こうりゅう 電流 でんりゅう を利用 りよう した処刑 しょけい 椅子 いす の発明 はつめい 等 とう 様々 さまざま な汚 きたな いプロパガンダ工作 こうさく を行 おこな ったことなどの汚点 おてん でも知 し られている[注 ちゅう 10] (またジョルジュ・メリエス の傑作 けっさく 『月世界 げっせかい 旅行 りょこう 』を公開 こうかい 前 まえ に無断 むだん で複製 ふくせい し、アメリカ中 ちゅう の映画 えいが 館 かん に売 う りつけ巨額 きょがく の富 とみ を得 え たという事実 じじつ も存在 そんざい する[E 4] )。
Genius is one percent inspiration, 99 percent perspiration.
一般 いっぱん に日本語 にほんご では「天才 てんさい は1%のひらめき と99%の努力 どりょく 」であると翻訳 ほんやく され[31] 、努力 どりょく の重要 じゅうよう 性 せい を物語 ものがた る発言 はつげん として広 ひろ く知 し られているが、日本 にっぽん の政治 せいじ 家 か である浜田 はまだ 和幸 かずゆき は、この表現 ひょうげん の本当 ほんとう の意味 いみ を「1%のひらめきがなければ99%の努力 どりょく は無駄 むだ である」とした[32] 。しかし適切 てきせつ な翻訳 ほんやく にはバックエンドを加味 かみ する必要 ひつよう があり、エジソンが多数 たすう の失敗 しっぱい を乗 の り越 こ えて発明 はつめい を繰 く り返 かえ してきた経歴 けいれき を鑑 かんが みると、努力 どりょく を無駄 むだ とする翻訳 ほんやく はエジソンが主張 しゅちょう したかった点 てん を取 と り違 ちが えている可能 かのう 性 せい がある。また、エジソンはさまざまなインタビューにおいて努力 どりょく こそがひらめきに必要 ひつよう なものであり、努力 どりょく がもっとも重要 じゅうよう であるという趣旨 しゅし の発言 はつげん を多 おお くしている[33] 。また当 とう の発言 はつげん はエジソンの死後 しご 1932年 ねん に発表 はっぴょう されたものであり、まったく同 おな じ発言 はつげん をしたという明確 めいかく な証拠 しょうこ はない[34] 。現代 げんだい アメリカでも「天才 てんさい には努力 どりょく が必要 ひつよう 」の意味 いみ で用 もち いられている[要 よう 出典 しゅってん ] 。
I never did a day’s work in my life. It was all fun.
私 わたし は一 いち 日 にち たりとも、いわゆる労働 ろうどう などしたことがない。何 なに をやっても楽 たの しくてたまらないからだ
If there is no good initial inspiration, it’s useless even if much effort. But people that effort alone, not only are wasting energy.[要 よう 出典 しゅってん ]
最初 さいしょ のひらめきが良 よ くなければ、いくら努力 どりょく してもダメだ。ただ努力 どりょく だけという人 ひと は、エネルギーを無駄 むだ にしているにすぎない
Just because something doesn't do what you planned it to do doesn't mean it's useless.
何 なに かが君 きみ の考 かんが えたとおりに運 はこ ばなかったからといって、それが役立 やくだ たずだという意味 いみ にはならない[注 ちゅう 11]
後世 こうせい の評価 ひょうか 、顕彰 けんしょう 等 とう [ 編集 へんしゅう ]
石清水八幡宮 いわしみずはちまんぐう 境内 けいだい の隣 となり にあるエジソン記念 きねん 碑 ひ (京都 きょうと 府 ふ 八幡 やはた 市 し )
エジソンプロジェクトという、エジソンが残 のこ した500万 まん 枚 まい 以上 いじょう のメモや記録 きろく を整理 せいり 、分析 ぶんせき するという計画 けいかく がアメリカで進行 しんこう しているが、全貌 ぜんぼう の解明 かいめい には至 いた っていない。
映画 えいが の発明 はつめい に関 かん して様々 さまざま な説 せつ があり、その特許 とっきょ 紛争 ふんそう や対立 たいりつ する各社 かくしゃ との経緯 けいい 、エジソン作品 さくひん の内容 ないよう については、マック・セネット 著 ちょ 『<喜劇 きげき 映画 えいが >を発明 はつめい した男 おとこ 帝王 ていおう マック・セネット、自 みずか らを語 かた る』(作品社 さくひんしゃ ・刊 かん )に詳 くわ しく述 の べられている。
Life誌 し が1999年 ねん に発表 はっぴょう した「この1000年 ねん で最 もっと も重要 じゅうよう な功績 こうせき を残 のこ した世界 せかい の人物 じんぶつ 100人 にん 」において第 だい 1位 い に選出 せんしゅつ されている[3] 。
彼 かれ の数々 かずかず の発明 はつめい 品 ひん の中 なか で商業 しょうぎょう 的 てき に成 な り立 た つものは大量 たいりょう 生産 せいさん され、大量 たいりょう 生産 せいさん ・大量 たいりょう 消費 しょうひ の時代 じだい へと導 みちび いた。それらの製品 せいひん は現在 げんざい 、栃木 とちぎ 県 けん 下都賀 しもつが 郡 ぐん 壬生 みぶ 町 まち にあるバンダイミュージアム に収蔵 しゅうぞう されており、往時 おうじ を偲 しの ぶことが出来 でき る。
アメリカ国内 こくない の電力 でんりょく ・配電 はいでん 会社 かいしゃ の社名 しゃめい でエジソンの名前 なまえ を冠 かん しているところは少 すく なくない。コンソリデイテッド・エジソン(ニューヨーク)、サザンカルフォルニア・エジソン(ロサンゼルス )、コモンウエルズ・エジソン(シカゴ )などが挙 あ げられる。
エジソンはフィクションの世界 せかい でも英雄 えいゆう として描 えが かれた。1886年 ねん にヴィリエ・ド・リラダン に書 か かれた『未来 みらい のイヴ』(L'Ève future)においては女性 じょせい 型 がた アンドロイドを制作 せいさく している。1898年 ねん にギャレット・P・サービス より書 か かれたSF小説 しょうせつ 『エジソンの火星 かせい 征服 せいふく 』(Edison's Conquest of Mars)は、H・G・ウェルズ の『宇宙 うちゅう 戦争 せんそう 』の後日 ごじつ 談 だん で、エジソンをはじめとした人々 ひとびと が協力 きょうりょく して火星 かせい に攻 せ め込 こ む話 はなし であった。
白熱 はくねつ 電球 でんきゅう の改良 かいりょう でフィラメントに使用 しよう した竹 たけ の産地 さんち である、京都 きょうと 府 ふ 八幡 やはた 市 し 男山 おとこやま の石清水八幡宮 いわしみずはちまんぐう 境内 けいだい に彼 かれ の記念 きねん 碑 ひ がある。電気 でんき ・電波 でんぱ ・コンピュータの守護神 しゅごじん として崇敬 すうけい を集 あつ めている電電 でんでん 宮 みや がある京都 きょうと 嵐山 あらしやま の法輪寺 ほうりんじ にも記念 きねん 碑 ひ がある。また、これが縁 えん で石清水八幡宮 いわしみずはちまんぐう がある京都 きょうと 府 ふ 八幡 やはた 市 し はエジソンの生誕 せいたん 地 ち であるマイランと友好 ゆうこう 都市 とし の提携 ていけい をしている[6] [35] 。
注 ちゅう
^ トーマスではなくトマス・エジソン と表記 ひょうき することも多 おお い。また「エジソン」の代 か わりに「エディソン」「エディスン」と表記 ひょうき する場合 ばあい もある。
^ ただし、厳密 げんみつ に言 い えば、白熱 はくねつ 電球 でんきゅう に関 かん して言 い えば、エジソンは数 すう 万 まん もの試行 しこう を計画 けいかく ・指揮 しき ・実行 じっこう することで実用 じつよう 化 か に成功 せいこう した人物 じんぶつ なのであって、白熱 はくねつ 電球 でんきゅう の原理 げんり は一応 いちおう エジソン以前 いぜん に既 すで に知 し られており、エジソンの独創 どくそう というわけではない。
^ 当時 とうじ 、人々 ひとびと は電球 でんきゅう も電線 でんせん も発電 はつでん 所 しょ もない状態 じょうたい で生活 せいかつ しており、たとえば米国 べいこく では夜間 やかん の明 あか りと言 い えば灯油 とうゆ ランプを用 もち いていた。それがエジソンが実用 じつよう 化 か した白熱 はくねつ 電球 でんきゅう によって、人々 ひとびと が夜間 やかん に明 あか りを得 え る方法 ほうほう が一変 いっぺん することになったのである。
^ エジソンは自分 じぶん の発明 はつめい の利益 りえき を守 まも ることに非常 ひじょう に熱心 ねっしん であり、そのための訴訟 そしょう を厭 いと わなかった。そのため、彼 かれ の生涯 しょうがい は「1%のひらめきと99%の訴訟 そしょう 」と評 ひょう されることがある。
^ エジソンは聴力 ちょうりょく に障害 しょうがい があったが、彼 かれ 自身 じしん はこの障害 しょうがい を苦 く にしていた様子 ようす はなく、逆 ぎゃく に「周 まわ りの雑音 ざつおん に悩 なや まされず研究 けんきゅう に集中 しゅうちゅう できるから、かえって好都合 こうつごう だ」と語 かた っていたという。晩年 ばんねん にエジソンの研究所 けんきゅうじょ が火事 かじ にあって全焼 ぜんしょう してしまった時 とき 、エジソンは既 すで に67歳 さい の高齢 こうれい であったが、それでも彼 かれ は少 すこ しも落胆 らくたん した様子 ようす を見 み せず、「これでむだな物 もの はすっかりなくなった。これからまた新 あら たな気持 きも ちで新 あら たな研究 けんきゅう を始 はじ められる」と言 い ったという。
^ エジソンは(その発明 はつめい の独創 どくそう 性 せい については論議 ろんぎ の分 わ かれるところであるが)いかなる困難 こんなん も苦痛 くつう だと思 おも わない強靭 きょうじん な精神 せいしん 力 りょく と不屈 ふくつ の信念 しんねん の持 も ち主 ぬし であった事 こと に関 かん しては異論 いろん の余地 よち がない。彼 かれ が数 すう 千 せん 種類 しゅるい の実験 じっけん 材料 ざいりょう を使 つか って数 すう 千 せん 回 かい の実験 じっけん を行 おこな い、その全 すべ てが失敗 しっぱい に終 お わっても、彼 かれ はこれを決 けっ して無駄 むだ とは見 み なさず、「実験 じっけん の成果 せいか はあった。これら数 すう 千 せん 種類 しゅるい の材料 ざいりょう が全 すべ て役 やく にたないという事 こと が分 わ かったのだから」と語 かた っていたという。因 ちな みにエジソンが生涯 しょうがい で最 もっと も手間 てま と費用 ひよう をかけた発明 はつめい は自動車 じどうしゃ 用 よう のアルカリ蓄電池 ちくでんち で、エジソンはこれを完成 かんせい させるまでに5万 まん 回 かい を超 こ える実験 じっけん を繰 く り返 かえ したと語 かた っている。
^ 「いかなる困難 こんなん や障害 しょうがい も恐 おそ れない不屈 ふくつ の信念 しんねん で発明 はつめい に取 と り組 く んだ」と言 い われるようなエジソンであったが、その彼 かれ が研究 けんきゅう を諦 あきら めた発明 はつめい の1つにヘリコプター がある。エジソンが1880年代 ねんだい に考案 こうあん したヘリコプターは、火薬 かやく の燃焼 ねんしょう によってエンジン を動 うご かし、プロペラ を回転 かいてん させて空 そら を飛 と ぶ仕組 しく みであったが、実験 じっけん の最中 さいちゅう に彼 かれ が試作 しさく した火薬 かやく エンジンが爆発 ばくはつ 事故 じこ を起 お こしてしまった。幸 さいわ い死傷 ししょう 者 しゃ は出 で なかったが、さすがのエジソンも人命 じんめい に関 かか わる危険 きけん な実験 じっけん をそれ以上 いじょう 続 つづ けるわけにはいかず、彼 かれ は不本意 ふほんい ながらヘリコプターの開発 かいはつ を断念 だんねん する事 こと となった。
^ 当時 とうじ はまだ義務 ぎむ 教育 きょういく の制度 せいど が確立 かくりつ しておらず、家庭 かてい の事情 じじょう などで小学校 しょうがっこう へ行 い かない子供 こども もさほど珍 めずら しくなかった。
^ 「自由 じゆう 思想家 しそうか 」という概念 がいねん については、kotobank 自由 じゆう 思想家 しそうか なども参照 さんしょう 可 か 。
^ 送電 そうでん 方法 ほうほう について、交流 こうりゅう を推進 すいしん するニコラ・テスラ およびウェスティングハウス・エレクトリック 社 しゃ と対立 たいりつ し、劣勢 れっせい に立 た たされ追 お い込 こ まれたエジソンは、相手 あいて の足 あし を引 ひ っ張 ぱ るために一種 いっしゅ のネガティブ・キャンペーン を行 おこな うことを画策 かくさく 。人々 ひとびと に「交流 こうりゅう は危険 きけん 」との印象 いんしょう を持 も たせることで、直流 ちょくりゅう になびかせようとしたのである。ニューヨーク市 し が絞首刑 こうしゅけい に代 か わる死刑 しけい 執行 しっこう 方法 ほうほう を募集 ぼしゅう しているのを知 し ると、交流 こうりゅう 電流 でんりゅう でそれを行 おこな うことで交流 こうりゅう の評判 ひょうばん を悪 わる くすることを思 おも いつき、交流 こうりゅう 発電 はつでん 機 き を使 つか った感電 かんでん の動物 どうぶつ 実験 じっけん を重 かさ ね、電気 でんき 椅子 いす を発明 はつめい し市 し に提案 ていあん 、その電源 でんげん に交流 こうりゅう が採用 さいよう されるように画策 かくさく したのである。その結果 けっか 、実際 じっさい に、史上 しじょう 初 はじ めて電気 でんき 椅子 いす による死刑 しけい が執行 しっこう され、そのニュースが新聞 しんぶん で広 ひろ く報道 ほうどう された。だが、影響 えいきょう はエジソンの目論見 もくろみ どおりにはゆかず、人々 ひとびと の意識 いしき に残 のこ ったイメージというのは、エジソンが意図 いと していたような「交流 こうりゅう は怖 こわ い」というイメージではなく、最 もっと も強烈 きょうれつ に残 のこ ったのは「電気 でんき での処刑 しょけい という残虐 ざんぎゃく 行為 こうい を首謀 しゅぼう した恐 おそ ろしい人物 じんぶつ はエジソンだ」というイメージであった。エジソンは自分 じぶん の名 な ・評判 ひょうばん を汚 よご してしまい、またその背後 はいご にいる出資 しゅっし 者 しゃ のJ.P.モルガン まで評判 ひょうばん を落 お としかねない事態 じたい となった。また、人々 ひとびと の間 あいだ におきた反応 はんのう は、せいぜい「電気 でんき は全 すべ て怖 こわ い」(交流 こうりゅう であれ直流 ちょくりゅう であれ怖 こわ い。灯油 とうゆ の代 か わりに電気 でんき を使 つか うのは止 と め、灯油 とうゆ に戻 もど ろうか)という反応 はんのう であり、電気 でんき 全体 ぜんたい に対 たい するネガティブキャンペーンになってしまった。
^ こうした概念 がいねん や考 かんが え方 かた は近年 きんねん では「セレンディピティ 」と表現 ひょうげん されることもある。
関連 かんれん エピソード
^ エジソンの葬儀 そうぎ が催 もよお された1931年 ねん 10月 がつ 21日 にち 、全米 ぜんべい ではエジソンの功績 こうせき を讃 たた え、彼 かれ の死 し を弔 とむら うため午後 ごご 10時 じ から1分間 ふんかん 電灯 でんとう が消 け されるというトリビュート目的 もくてき のイベントがあった。しかし、その情報 じょうほう がしっかりと行 い き渡 わた っておらず、突然 とつぜん の停電 ていでん にパニックになった地域 ちいき もあった。出典 しゅってん :『トリビアの泉 いずみ へぇ〜の本 ほん (12)』 2005年 ねん 。
^ エジソンの晩年 ばんねん 、自動車 じどうしゃ 王 おう のヘンリー・フォード がエジソンを驚 おどろ かせようとして、エジソンのメンロパーク時代 じだい の研究所 けんきゅうじょ を忠実 ちゅうじつ に再現 さいげん した建物 たてもの を造 つく った。これを見 み たエジソンは「99.5%は完璧 かんぺき に再現 さいげん してある。しかし、私 わたし は研究所 けんきゅうじょ の中 なか をこんなに綺麗 きれい にはしていなかった。それが0.5%の間違 まちが いだ」と笑 わら いながら言 い ったという。
^ エジソンが蓄音機 ちくおんき を発明 はつめい して評判 ひょうばん になっていた頃 ころ 、研究所 けんきゅうじょ に後 のち に監督 かんとく となるジョン・H・ヴィンセント 牧師 ぼくし が現 あらわ れた[28] 。彼 かれ は「機械 きかい がしゃべるわけがない。腹話術 ふくわじゅつ 師 し でも隠 かく れているのだろうから、いかさまを暴 あば いてやる」と、聖書 せいしょ に登場 とうじょう する難 むずか しい人名 じんめい を立 た て続 つづ けに並 なら べた早口 はやくち 言葉 ことば を蓄音機 ちくおんき に向 む かって喋 しゃべ った。しかし、少 すこ しの間違 まちが いもなく完璧 かんぺき に返答 へんとう されたので、彼 かれ は仰天 ぎょうてん すると同時 どうじ にすっかり感心 かんしん し、エジソンに向 む かって「あなたに神 かみ からの祝福 しゅくふく があるように」と言 い って帰 かえ って行 い ったという[要 よう 出典 しゅってん ] 。
^ ハリウッド が生 う まれる前 まえ のアメリカ映画 えいが では、エジソンの会社 かいしゃ がアメリカ東部 とうぶ においては映画 えいが 業界 ぎょうかい をほぼ独占 どくせん し、競合 きょうごう 他社 たしゃ との間 あいだ で特許 とっきょ を共有 きょうゆう するトラスト(モーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー )を形成 けいせい して、トラストに参加 さんか しない会社 かいしゃ の映画 えいが 製作 せいさく をマフィア や探偵 たんてい を使 つか うなどして妨害 ぼうがい したり、電流 でんりゅう 戦争 せんそう ではテスラへの妨害 ぼうがい 工作 こうさく をしたりしていた。
^ 英語 えいご 発音 はつおん : [ˈtɑməs ˈælvə ˈedəs(ə)n]
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出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2013年 ねん 11月 )
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