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三井財閥 - Wikipedia

三井みつい財閥ざいばつ

日本にっぽん財閥ざいばつ

三井みつい財閥ざいばつ(みついざいばつ)は、三菱みつびし住友すみともなら日本にっぽんさんだい財閥ざいばつひとつ。現在げんざい三井みついグループ

三井みつい財閥ざいばつ
 
創業そうぎょう 三井みつい
しめぎあきら まる井桁いげたさん

江戸えど

編集へんしゅう
富嶽ふがくさんじゅうろくけいばん駿河するがまち三井みつい見世みせ略図りゃくず」(葛飾かつしか北斎ほくさい
名所めいしょ江戸えどひゃくけいはちばん「するてふ」(歌川うたがわ広重ひろしげ
それぞれ越後屋えちごや暖簾のれんをみることができる。2015ねん現在げんざいとおりの右側みぎがわ三井みつい本館ほんかん左側ひだりがわ三越みつこし日本橋にほんばし本店ほんてんがある。手前てまえ左右さゆうとおりが中央ちゅうおうどお
 
三井みつい越後屋えちごやきょう本店ほんてん記念きねん庭園ていえん高利こうりひらいた京本きょうもとてんあと

三井みつい歴史れきしは、太政大臣だじょうだいじん藤原ふじわら道長みちながはっし、その藤原ふじわらみぎじょ信生のぶお近江おうみうつって武士ぶしとなり、はじめて三井みついせい名乗なのったという[1]

早川はやかわたかしによると「三井みつい財閥ざいばつ先祖せんぞ伊勢いせ商人しょうにん慶長けいちょう年間ねんかん武士ぶし廃業はいぎょうした三井みついこうしゅん伊勢いせ現在げんざい三重みえけん松阪まつざか質屋しちやけん酒屋さかやひらいたのが起源きげんという。三井みついはもともと近江おうみくに佐々木ささき家来けらいで、先祖せんぞ藤原ふじわら道長みちながといっているが、道長みちながとのつながりはから系図けいずつくったのかもしれない。」という[2]

三井みついこうしゅん質屋しちやおもぎょうさけ味噌みそるいあきなった。みせは「越後えちご殿でん酒屋さかや」とばれ、これがのちの「越後屋えちごや」のこりとなる。こうしゅんよんなん三井みつい高利たかとし伊勢いせから江戸えど1673ねんのべたから元年がんねん越後屋えちごや三井みつい呉服ごふくてん三越みつこし)を創業そうぎょうしたのと同時どうじ京都きょうと室町むろまちとおる蛸薬師たこやくしきょう呉服ごふくてん仕入しい)を創業そうぎょう。その京都きょうと大阪おおさかでも両替りょうがえてん開業かいぎょうし、呉服ごふく訪問ほうもん販売はんばい一反いったん単位たんい販売はんばいし、代金だいきん(ツケばらい)、という当時とうじ商法しょうほうをくつがえす、「みせ前売まえう」と「現金げんきんやすうりなし」(定価ていか販売はんばい)などで庶民しょみんしんをとらえ繁盛はんじょう。その幕府ばくふ公金こうきん為替かわせにもひろ両替りょうがえしょうとしても成功せいこうし、幕府ばくふ御用ごよう商人しょうにんとなり、屈指くっし豪商ごうしょうとなった。

三井みつい幕府ばくふ御用ごよう全面ぜんめんてき歓迎かんげいしたわけではかったが、幕府ばくふとの関係かんけい初期しょき経営けいえい重要じゅうよう役割やくわりたし、公金こうきん為替かわせによるまくはん体制たいせいとの密着みっちゃくふかくなっていた。明治維新めいじいしん三井みつい薩長さっちょう主導しゅどう明治めいじ政府せいふ資金しきん要請ようせいこたえ、政商せいしょう基盤きばん確固かっこたるものにした。幕末ばくまつ維新いしんとおして、日本にっぽん政府せいふ三井みついとの関係かんけいしでは存立そんりつがいかない状況じょうきょうとなっていた[3]

余談よだんだが、戦国せんごくから近世きんせい初期しょきにかけて活躍かつやくしただい商人しょうにん外国がいこく貿易ぼうえき従事じゅうじしたもの台頭たいとうしつつあるしん勢力せいりょく大名だいみょうむすんで戦時せんじよう物資ぶっし調達ちょうたつにあたったものなどであった。貿易ぼうえき商人しょうにんとしては、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだいにかけて、すみくらりょう茶屋ちゃや四郎次しろうじろう末吉すえきちまご左衛門さえもん島井しまい宗室そうしつ末次すえつぐ平蔵へいぞうらがいる。貿易ぼうえき商人しょうにん鉄砲てっぽう輸入ゆにゅうなどで大名だいみょうむすびつく機会きかいがあった、これらが初期しょき豪商ごうしょうであった。このような政商せいしょうてき性格せいかくつよ初期しょき豪商ごうしょうたいし、特定とくてい専門せんもん商品しょうひん売買ばいばいして城下町じょうかまち江戸えど商業しょうぎょう活動かつどうおこなものあらわれた。これらが近江おうみ商人しょうにん京都きょうと商人しょうにん伊勢いせ商人しょうにんなどで、三井みつい鴻池こうのいけ住友すみともなどの近世きんせい本町ほんまちひとであった。

明治めいじ大正たいしょう

編集へんしゅう
 
三井みつい本館ほんかん東京とうきょう中央ちゅうおう日本橋にほんばし室町むろまち

明治維新めいじいしん中央ちゅうおう集権しゅうけん政策せいさくした明治めいじ政府せいふ三井みついたいするしょ御用ごよう任命にんめいは、経済けいざい関係かんけい官庁かんちょう整備せいびという条件じょうけんのもとで経済けいざい政策せいさく技術ぎじゅつ不足ふそくおぎなうために、政府せいふ三井みついきょしょう期待きたいしたものであった。1872ねん越後屋えちごや呉服ごふくてん三越みつこし)を三井みつい本流ほんりゅうからはなし、1876ねん三井みつい銀行ぎんこう現在げんざい三井住友銀行みついすみともぎんこう)を創業そうぎょう。また同年どうねん井上いのうえかおる益田ますだたかしによって設立せつりつされた商社しょうしゃさきおさむ会社かいしゃ解散かいさん益田ますだ三井物産みついぶっさん会社かいしゃ創設そうせつさせ、さらに三井みついぐみない商事しょうじ組織そしきである三井みついぐみ国産こくさんかた合併がっぺいさせた。政府せいふ1880ねんころから官営かんえい工場こうじょう三井みつい三菱みつびしなどにやすはらげた。そのため紡績ぼうせきぎょうなどがさかんになり、日本にっぽん産業さんぎょう革命かくめいになことになる。

三井みつい転機てんきは、明治めいじじゅうよんねん政変せいへん下野げやした山陽さんよう鉄道てつどう社長しゃちょう中上川なかみがわ彦次郎ひこじろう益田ますだたかし三井みつい元方もとかた重役じゅうやくえたことである。商業しょうぎょう益田ますだたかしたいし、工業こうぎょう中上川なかみがわ彦次郎ひこじろう慶應義塾けいおうぎじゅく学生がくせいおお入社にゅうしゃさせ、三井みつい工業こうぎょう政策せいさく多数たすうすすめた[4]いで不良ふりょう債権さいけん問題もんだいいたった三井みつい銀行ぎんこうなおしをはかり、私鉄してつ経営けいえいにも意欲いよくせた(山陽さんよう鉄道てつどう箕面みのお有馬ありま電気でんき軌道きどう阪急電鉄はんきゅうでんてつ)。しかし、学閥がくばつきら益田ますだたかし中上川なかみがわ彦次郎ひこじろう対立たいりつ鮮明せんめいとなり、1909ねん持株もちかぶ会社かいしゃ三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ頂点ちょうてんとするコンツェルン体制たいせい確立かくりつし、だん琢磨たくま主席しゅせき)、朝吹あさぶき英二えいじ波多野はたのうけたまわ五郎ごろう有賀ありが長文ちょうぶん小室こむろ三吉さんきちおよ三井みついから三井みついこうやすし守之もりゆきすけ)の5参事さんじ合議ごうぎせいによる運営うんえい体制たいせい移行いこう。また、傘下さんか中核ちゅうかく企業きぎょう有限ゆうげん会社かいしゃから株式会社かぶしきがいしゃ移行いこうした。1893ねんには三井鉱山みついこうざん設立せつりつされ、三井みつい銀行ぎんこう三井物産みついぶっさん三井鉱山みついこうざん御三家ごさんけ体制たいせいとなる[5]

だいいち世界せかい大戦たいせん好景気こうけいき三井みつい財閥ざいばつ産業さんぎょうおおきく伸張しんちょうし、とく三井物産みついぶっさん三井鉱山みついこうざん起点きてん造船ぞうせん鉄鋼てっこう石炭せきたん化学かがく工業こうぎょうとう重化学じゅうかがく工業こうぎょう分野ぶんやへの進出しんしゅつ三井みつい銀行ぎんこう起点きてん信託しんたく生命せいめい保険ほけん損害そんがい保険ほけんひとし金融きんゆう部分ぶぶん拡充かくじゅう多様たよう進行しんこうした。また、三井物産みついぶっさんひきいたやま本条ほんじょう太郎たろうは、中国ちゅうごく大陸たいりく積極せっきょくてき事業じぎょう拡大かくだいし、まんしゅう事変じへんときちょうまなぶりょうぐんしおみや上海しゃんはい事変じへんどき中国ちゅうごくいちきゅうぐんへの鉄条てつじょうもうよう針金はりがねみを発端ほったんとして中国ちゅうごく革命かくめいへの援助えんじょまんしゅう進出しんしゅつ商権しょうけん拡張かくちょうおこなった。しかしながら、日本にっぽん最大さいだい財閥ざいばつであるがゆえに、1927ねん昭和しょうわ2ねん)の昭和しょうわ恐慌きょうこうはしはっした財閥ざいばつ批判ひはん三井みつい財閥ざいばつけられ、3月5にちにはだん琢磨たくま血盟けつめいだんいんによって三井みつい銀行ぎんこう本店ほんてんまえ暗殺あんさつされた[6]

財閥ざいばつ攻撃こうげきあらしなかで、三井みついそう両家りょうけ当主とうしゅ三井みついだかとう益田ますだたかし協議きょうぎし、三井みつい合名ごうめい理事りじ池田いけだ成彬せいひん筆頭ひっとう常務じょうむ理事りじ指名しめい総帥そうすい就任しゅうにんさせる。池田いけだは、11いえからなる三井みつい説得せっとくして財団ざいだん法人ほうじん三井みつい報恩ほうおんかいげ、定年ていねんせい採用さいようするなど、大胆だいたん財閥ざいばつ転向てんこう施策しさく実行じっこう。そのにちちゅう戦争せんそう勃発ぼっぱつ契機けいき戦時せんじ体制たいせい移行いこうしたことから、財閥ざいばつ批判ひはん攻撃こうげき次第しだい沈静ちんせいし、三井みつい財閥ざいばつ戦時せんじ経済けいざい体制たいせい有力ゆうりょくになとなった[7]。また、政界せいかいにもおおくの幹部かんぶおくみ、立憲りっけん政友せいゆうかい三井みつい財閥ざいばつが、立憲りっけん民政みんせいとう三菱みつびし財閥ざいばつ資金しきんをまかなっていた[8]

池田いけだ引退いんたい三井みついそう両家りょうけ当主とうしゅ三井みついだかおおやけと、筆頭ひっとう常務じょうむ理事りじとなった南条なんじょう金雄かねおは1940ねん昭和しょうわ15ねん)に三井物産みついぶっさん三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ吸収きゅうしゅう合併がっぺい物産ぶっさんからきゅう三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ分離ぶんり独立どくりつするかたち株式会社かぶしきがいしゃ三井みつい本社ほんしゃ設立せつりつ。かくして三井みつい財閥ざいばつだい世界せかい大戦たいせんむかえることとなる。

ひと三井みつい

編集へんしゅう

岩崎いわさき同族どうぞく主義しゅぎつよかった三菱みつびし財閥ざいばつたいし、三井みつい西郷さいごう隆盛たかもりから「だい番頭ばんがしら」とばれた井上いのうえかおるをはじめ有能ゆうのう人材じんざいおお輩出はいしゅつしたことから組織そしき三菱みつびしひと三井みついわれた。また三菱みつびしが「独裁どくさい政治せいじ」、後世こうせい住友すみとも結集けっしゅう住友すみともばれた[9]のにたいし、三井みついは「番頭ばんがしら政治せいじ」とばれる。これは三菱みつびし住友すみとも連帯れんたい結束けっそくつよさにたいし、グループないかく企業きぎょう自由じゆううごきやすい三井みつい特色とくしょくあらわしたもので、三井みついけいトップ・マネジメントには個性こせいつよ人物じんぶつおおいことをいいあらわしたものでもある。

三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ歴代れきだい理事りじちょう理事りじ参事さんじ

編集へんしゅう
だい 氏名しめい 出身しゅっしんこう 肩書かたがき
1   三井みつい八郎はちろうみぎ衛門えもんだかとう 京都きょうと 三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ初代しょだい社長しゃちょう
三井みつい総領そうりょうだい10代当主とうしゅ
2   三野村みのむら利左衛門りざえもん 庄内しょうないはん 三井みついぐみ番頭ばんがしら
三井みつい銀行ぎんこう設立せつりつしゃ
3   中井なかい三平さんぺい中井なかい三郎兵衛さぶろべえ(3だい 京都きょうと 三井みついだい元方もとかた
4   中上川なかみがわ彦次郎ひこじろう 慶應義塾けいおうぎじゅく
げん慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく
三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ理事りじちょう
山陽さんよう鉄道てつどう社長しゃちょう
5   益田ますだたかし ヘボンじゅく
げん明治学院大学めいじがくいんだいがく
三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ理事りじちょう
初代しょだい三井物産みついぶっさん社長しゃちょう
6   朝吹あさぶき英二えいじ 慶應義塾けいおうぎじゅく
げん慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく
三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ理事りじちょう
王子製紙おうじせいし会長かいちょう
7   波多野はたのうけたまわ五郎ごろう 慶應義塾けいおうぎじゅく
げん慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく
三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ参事さんじ
朝野あさの新聞しんぶん社長しゃちょうけん主筆しゅひつ
8   有賀ありが長文ちょうぶん 帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく
げん東京大学とうきょうだいがく
三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ参事さんじ理事りじ兼任けんにん
のう商務省しょうむしょう工務こうむ局長きょくちょう
9   小室こむろ三吉さんきち 東京とうきょう商法しょうほう講習こうしゅうしょ
げん一橋大学ひとつばしだいがく
三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ参事さんじ
三井物産みついぶっさんロンドン支店してんちょう
10   だん琢磨たくま マサチュまさちゅセッツ工科大学せっつこうかだいがく 三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ理事りじちょう
三池みいけ炭礦たんこうしゃ事務じむちょう
11   大島おおしま雅太郎まさたろう 慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく理財りざい 三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ理事りじ
台湾たいわん拓殖たくしょく製茶せいちゃ会社かいしゃ取締役とりしまりやく
12   福井ふくい菊三郎きくさぶろう 商法しょうほう講習こうしゅうしょ
げん一橋大学ひとつばしだいがく
三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ常務じょうむ理事りじ
ひがししん倉庫そうこ社長しゃちょう
13   池田いけだ成彬せいひん 慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく理財りざい 三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ理事りじちょう
三井みつい銀行ぎんこう筆頭ひっとう常務じょうむ
14   金子かねこ堅次けんじろう 山口やまぐち高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう
げん山口大学やまぐちだいがく
三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ理事りじ
三井みつい銀行ぎんこう本店ほんてん営業えいぎょう部長ぶちょう
15   三井みつい八郎はちろうみぎ衛門えもんだかおおやけ 京都きょうと帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ 三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ社長しゃちょう
三井みつい総領そうりょうだい11だい当主とうしゅ
16   米山よねやま梅吉うめきち 東京とうきょう英和えいわ学校がっこう
げん青山学院大学あおやまがくいんだいがく
三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ理事りじ
三井信託銀行みついしんたくぎんこう設立せつりつしゃ
17   牧田まきたたまき 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく工科こうか大学だいがく 三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ理事りじ
三井鉱山みついこうざん会長かいちょう
18   安川やすかわつよしこれすけ 大阪おおさか商業しょうぎょう学校がっこう
げん大阪市立大学おおさかいちりつだいがく
三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ理事りじ
東洋とうようレーヨン設立せつりつしゃ
19   南条なんじょう金雄かねお 高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう
げん一橋大学ひとつばしだいがく
三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ常務じょうむ理事りじ
三井物産みついぶっさん会長かいちょう
20   島田しまだ勝之助かつのすけ 東京とうきょう外国がいこく学校がっこう仏語ふつご
げん東京外国語大学とうきょうがいこくごだいがく
三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ常務じょうむ理事りじ
三井物産みついぶっさんロンドン支店してんちょう
21   井上いのうえおさむ兵衛ひょうえ 京都きょうと市立しりつ商業しょうぎょう学校がっこう
げん京都きょうと市立しりつ西京高等学校さいきょうこうとうがっこう
三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ参与さんよ理事りじ
三井物産みついぶっさん会長かいちょう
22   向井むかい忠晴ただはる 東京とうきょう高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう本科ほんか
げん一橋大学ひとつばしだいがく
三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ常務じょうむ理事りじ
三井物産みついぶっさん会長かいちょう
23   福島ふくしまさん 東京とうきょう高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう
げん一橋大学ひとつばしだいがく
三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ理事りじ
三井物産みついぶっさん上海しゃんはい支店してんちょう
24   小池こいけただしあや 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく政治せいじ 三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ常務じょうむ理事りじ
三井みつい銀行ぎんこう常務じょうむ
25   じゅう辰男たつお 旧制きゅうせい小学校しょうがっこう卒業そつぎょう
げん中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょう
三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ常務じょうむ理事りじ
三井物産みついぶっさん会長かいちょう
26   阪井さかい徳太郎とくたろう 立教大学りっきょうだいがく
三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ理事りじ
内閣ないかく総理そうり大臣だいじん秘書官ひしょかん

だいいち国立こくりつ銀行ぎんこう日本銀行にっぽんぎんこう

編集へんしゅう

1871ねん明治めいじ4ねん)6がつ三井みつい八郎はちろうみぎ衛門えもんは「しん貨幣かへい発行はっこう為替かわせ御用ごよう」をめいぜられた。その業務ぎょうむ金銀きんぎん地金じがねってえにしん貨幣かへいわたし、った地金じがね造幣局ぞうへいきょくおくることであった。小野おのぐみ島田しまだぐみいて政府せいふいのちけた三井みついぐみ1872ねん明治めいじ5ねん)4がつ御用ごようしょ東京とうきょう大阪おおさか京都きょうと横浜よこはま神戸こうべ松坂まつさか函館はこだてなな都市とし設立せつりつ。このころ米国べいこく派遣はけんされた伊藤いとう博文ひろぶみ吉田よしだ清成きよなり国立こくりつ銀行ぎんこう設立せつりつ意見いけん対立たいりつすることになり、政府せいふ三井みついぐみ銀行ぎんこう設立せつりつするように予告よこくしながら、すぐその政府せいふ銀行ぎんこう政策せいさく変更へんこうされて三井みついぐみいち銀行ぎんこう設立せつりつみとめず、小野おのぐみだいいち国立こくりつ銀行ぎんこう設立せつりつする方針ほうしんがとられた。三井みつい強制きょうせいてき政府せいふ指導しどうしたがい、海運かいうん橋畔きょうはん建築けんちくしていた三井みついぐみ本部ほんぶ予定よてい建物たてものだいいち国立こくりつ銀行ぎんこう提供ていきょうさせられるという負担ふたんった。当初とうしょ三井みつい小野おのぐみで200まんえん出資しゅっしし、のこり300まんえん一般いっぱん募集ぼしゅうするつもりでいたが、一般いっぱんからは44まんえんしかかったため、資本しほんきん244まん800えんとして1873ねん明治めいじ6ねん6月11にち創立そうりつ総会そうかいひらきただちに開業かいぎょうした。そうかんやくとして渋沢しぶさわ栄一えいいちみ、事実じじつじょう頭取とうどりとして実権じっけんにぎった。三井みついにとっては呉服ごふく部門ぶもん分離ぶんりまでして、銀行ぎんこう設立せつりつしようとしたが、その希望きぼう政府せいふによってすりかえられ、自己じこ銀行ぎんこうちたいという願望がんぼうはくすぶりつづけることになった。その三井みつい銀行ぎんこう創立そうりつたした三井みついだが、日本銀行にっぽんぎんこう創立そうりつにより官金かんきん取引とりひき業務ぎょうむ出来できなくなり、さらには三井みつい銀行ぎんこう三野村みのむら利助としすけかれ日銀にちぎん理事りじ就任しゅうにんした。このころ苦境くきょうにあり、1874ねんから翌年よくねんにかけてオリエンタル・バンクから100まんドルをりた。

工業こうぎょう

編集へんしゅう

明治めいじ初期しょき以来いらい鉱工業こうこうぎょうへの進出しんしゅついちじるしく、商業しょうぎょう主義しゅぎわれた益田ますだたかしでも三池みいけ炭鉱たんこう神岡かみおか鉱山こうざん進出しんしゅつした。中上川なかみがわ彦次郎ひこじろう工業こうぎょう主義しゅぎ急進きゅうしんてきであったので、それとの対抗たいこうじょう商業しょうぎょう主義しゅぎ強調きょうちょうした傾向けいこうがある。益田ますだたかし鉱工業こうこうぎょう軽視けいししていたのではないもうひとつの証拠しょうこは、三井みつい合名ごうめい理事りじちょうだん琢磨たくま選出せんしゅつし、芝浦製作所しばうらせいさくしょ三井みつい傘下さんかいたことである。三井物産みついぶっさんは、みずか三井みつい船舶せんぱく三井造船みついぞうせん分離ぶんりしていく一方いっぽう海外かいがいからのノウハウをもとにして東洋とうようレーヨンなどをこして多角たかくしていった。1895ねん明治めいじ28ねん)の三井みつい工業こうぎょうは、『芝浦製作所しばうらせいさくしょ』、『三重みえ紡績ぼうせきしょ』、『名古屋なごや製糸せいししょ』、『大崎おおさき製糸せいししょ』、『富岡とみおか製糸せいししょ』、『前橋まえばし絹糸けんし紡績ぼうせきしょ』、『新町しんまち絹糸けんし紡績ぼうせきしょ』の7つが直系ちょっけい傘下さんかであった。三井みつい職工しょっこうたいする教育きょういく銀行ぎんこうとうホワイトカラーおなじように優遇ゆうぐうした。この姿勢しせい武藤むとう山治やまじによってがれ、職員しょくいんそう(ホワイトカラー)と工員こういんそうブルーカラー)を選別せんべつしない「経営けいえい家族かぞく主義しゅぎ」「温情おんじょう主義しゅぎ」とばれ、当時とうじ官尊民卑かんそんみんぴ風潮ふうちょうにおいて先駆せんくてき労働ろうどう管理かんり思想しそうであった。

日本にっぽん最大さいだい財閥ざいばつ

編集へんしゅう

三井みつい財閥ざいばつ財閥ざいばつ先駆さきがけて、1909ねん明治めいじ42ねん)に三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ頂点ちょうてんとするコンツェルン体制たいせい確立かくりつした。世界せかい史上しじょうにおけるあつかいとして、デュポンロックフェラー基本きほんてきには単一たんいつ業種ぎょうしゅクルップについてもおなじことがえる。ことにロックフェラーがスタンダード・オイル採用さいようしたトラスティー方式ほうしき日本にっぽんではられなかった。その多数たすう財閥ざいばつ本社ほんしゃ合名ごうめい会社かいしゃ合資ごうし会社かいしゃとし、傘下さんかしょ事業じぎょう株式会社かぶしきがいしゃとしてピラミッドがた結合けつごうするかたち一般いっぱんした。これによる生産せいさん伸長しんちょうともない、貿易ぼうえき進展しんてんし、そのにな商社しょうしゃ飛躍ひやくてき発展はってんした。三井物産みついぶっさん取引とりひきがく15おく4000まんえんとなり、三井みつい工業こうぎょうなども資本しほんきんが6ばい貿易ぼうえき金融きんゆうには横浜よこはま正金しょうきん銀行ぎんこうのほかに台湾たいわん銀行ぎんこう朝鮮ちょうせん銀行ぎんこう日本興業銀行にほんこうぎょうぎんこう日本にっぽん勧業かんぎょう銀行ぎんこうなどが参加さんかして外国がいこく為替かわせ業務ぎょうむおこなうようになった。

1911ねん樺太からふと国有こくゆうりん伐採ばっさいけん1914ねん11月には大泊おおとまりぐん大泊おおとまりまちでパルプ工場こうじょう操業そうぎょう開始かいし1915ねん大正たいしょう4ねん)のじゅういちヶ条かじょう要求ようきゅうをきっかけに、中国ちゅうごくまんしゅう進出しんしゅつ日本興業銀行にほんこうぎょうぎんこう中心ちゅうしんやく2.5おくえんたい中国ちゅうごく借款しゃっかんおこなわれ、対外たいがい貸付かしつけがく総額そうがく11おくえんたっした。また、三井造船みついぞうせん日本にっぽんはつのディーゼルせん赤城あかぎまるなどを導入どうにゅう。これら海洋かいよう国家こっか貿易ぼうえき相乗そうじょう効果こうか三井みつい日本にっぽん最大さいだい財閥ざいばつとして君臨くんりんした。

1913ねん大正たいしょう2ねん)には東京とうきょう三田みた日本にっぽん最大さいだい富豪ふごうだった三井みつい豪華ごうか接客せっきゃくよう建物たてものとしてコンドル設計せっけいにより三井みつい倶楽部くらぶ完成かんせいした。

昭和しょうわ

編集へんしゅう

1928ねん昭和しょうわ3ねんごろ三井みついは、日本にっぽんにおける産業さんぎょう支配しはいをいっそうつよ三井みついけいしょ会社かいしゃ系統けいとう直系ちょっけい会社かいしゃ傍系ぼうけい会社かいしゃ分類ぶんるいした[10]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
芝浦製作所しばうらせいさくしょ
 
 
 
 
 
東京とうきょう芝浦しばうら電気でんき
 
 
 
 
 
東京とうきょう芝浦しばうら電気でんき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三井鉱山みついこうざん会社かいしゃ
 
 
三井みつい合名ごうめい
 
三井鉱山みついこうざん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三井鉱山みついこうざん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東洋とうようだかあつ工業こうぎょう
 
 
 
 
 
東洋とうようだかあつ工業こうぎょう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三井化学みついかがく工業こうぎょう
 
三井化学みついかがく工業こうぎょう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三井みつい本社ほんしゃ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三井物産みついぶっさん会社かいしゃ
 
三井物産みついぶっさん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三井物産みついぶっさん
 
 
 
 
 
 
三井物産みついぶっさん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三井木材工業みついもくざいこうぎょう
 
三井木材工業みついもくざいこうぎょう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ゼネラル物産ぶっさん
 
ゼネラル石油ぜねらるせきゆ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東京とうきょう食品しょくひん
 
東食とうしょく
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三井みつい船舶せんぱく
 
三井みつい船舶せんぱく
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
たま造船ぞうせんしょ
 
三井造船みついぞうせん
 
三井造船みついぞうせん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東洋とうよう棉花めんか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東洋とうよう棉花めんか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東洋とうようレーヨン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東洋とうようレーヨン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三機工業さんきこうぎょう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三機工業さんきこうぎょう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大正たいしょう海上かいじょう火災かさい保険ほけん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大正たいしょう海上かいじょう火災かさい保険ほけん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ひがししん倉庫そうこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三井倉庫みついそうこ
 
三井倉庫みついそうこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三井みつい信託しんたく
 
三井みつい信託しんたく
 
 
 
わたしめい会社かいしゃ三井みつい銀行ぎんこう
 
三井みつい銀行ぎんこう
 
 
 
 
日本銀行にっぽんぎんこう
 
 
 
 
 
 
 
 
帝国ていこく銀行ぎんこう
 
帝国ていこく銀行ぎんこう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三井生命保険みついせいめいほけん株式かぶしき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三井生命保険みついせいめいほけん相互そうご
 
 
 
 
 
 
 
 
 

愛知あいち工業こうぎょう
 
 
 
 
 
 
三井倉庫みついそうこ
 
 
 
 
 
 
 
北海道ほっかいどう炭礦たんこう汽船きせん
 
 
 
 
 
 
釜石かまいし鉱山こうざん
 
 
 
 
 
 
刈谷かりや車体しゃたい
 
 
 
 
 
 
三井みつい油脂ゆし化学かがく工業こうぎょう
 
 
 
 
 
 
 
三井鉱山みついこうざん
 
 
 
 
 
 
中興ちゅうこう炭鉱たんこう (また)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
愛知製鋼あいちせいこう
 
 
 
 
 
 
三井木材工業みついもくざいこうぎょう
 
 
 
 
 
 
 
東洋とうよう製糸せいし紡織ぼうしょく
 
 
哈爾はまセメント
 
 
太平洋たいへいよう炭鉱たんこう
 
 
 
 
 
 
刈谷かりやこう
 
 
トヨタ自動車とよたじどうしゃ工業こうぎょう
 
 
三井精機工業みついせいきこうぎょう
 
 
 
 
 
 
 
三井物産みついぶっさん
 
 
中華ちゅうか煙草たばこ
 
 
福島ふくしま鉱業こうぎょう
 
 
 
 
 
 
 
日本にっぽん自動車じどうしゃ配給はいきゅう
 
 
 
 
 
 
 
三機工業さんきこうぎょう
 
 
 
 
 
 
 
湯浅ゆあさ蓄電池ちくでんち製造せいぞう
 
 
東洋とうよう曹達そうだ工業こうぎょう
 
 
三井みつい軽金属けいきんぞく
 
 
 
 
 
 
豐田自動織機製作所とよたじどうしょっきせいさくしょ[ちゅう 1]
 
 
 
 
 
 
 
東洋とうよう棉花めんか
 
 
 
 
 
 
 
日本にっぽん製粉せいふん
 
 
大陸たいりく化学かがく工業こうぎょう
 
 
淮南ワイナン炭鉱たんこう (また)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三井農林みついのうりん
 
 
 
 
 
 
 
川崎かわさき埠頭ふとう
 
 
東洋とうようだかあつ工業こうぎょう
 
 
東亞とうあ合成ごうせい化学かがく工業こうぎょう
 
 
 
 
 
三井みつい近海きんかいせん
 
 
 
 
 
 
三井造船みついぞうせん
 
 
 
 
 
 
 
三井化学みついかがく工業こうぎょう
 
 
 
 
 
 
 
島根しまね化学かがく工業こうぎょう
 
 
 
 
 
 
 
 
大洋たいよう興業こうぎょう
 
 
 
 
 
 
三洋さんよう油脂ゆし
 
 
 
 
 
 
 
だい日本にっぽんセルロイド
 
富士寫真ふじしゃしんフイルム
 
 
石川いしかわとう芝浦しばうらタービン
 
 
 
 
 
 
東洋とうよう海運かいうん
 
 
 
 
 
 
三井みつい船舶せんぱく
 
 
三井みつい本社ほんしゃ
 
 
日本金属工業にっぽんきんぞくこうぎょう
 
 
芝浦製作所しばうらせいさくしょ
 
 
昭和電線電纜しょうわでんせんでんらん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
よもぎらいタンカー
 
 
国策こくさくパルプ工業こうぎょう
 
東洋とうようレーヨン
 
 
 
 
 
 
 
三井みつい信託しんたく
 
 
東芝とうしば車輛しゃりょう
 
 
芝浦しばうら共同きょうどう工業こうぎょう
 
 
 
 
 
 
西海にしうみ汽船きせん
 
 
 
 
 
 
昭和飛行機工業しょうわひこうきこうぎょう
 
 
 
 
 
 
 
東京とうきょう芝浦しばうら電気でんき
 
 
 
 
 
 
 
帝国通信工業ていこくつうしんこうぎょう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本にっぽん商船しょうせん
 
 
 
 
 
 
大東紡織だいとうぼうしょく
 
 
 
 
 
 
 
日本人にっぽんじんづくり石油せきゆ
 
 
芝浦しばうらこう
 
 
橫河電機よこかわでんき製作所せいさくしょ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
丸善まるぜん石油せきゆ
 
 
 
 
 
 
 
日本にっぽん纖維せんい工業こうぎょう
 
 
日本にっぽんでんきょう
 
日本無線にほんむせん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三井みつい木船きふね建造けんぞう
 
 
 
 
 
 
 
まんしゅう石油せきゆ
 
 
津久見つくみ鉱業こうぎょう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まんしゅう合成ごうせい燃料ねんりょう
 
 
 
 
 
 
 
朝鮮ちょうせん林業りんぎょう開發かいはつ
 
 
朝鮮ちょうせん小野田おのだセメント製造せいぞう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
藤永ふじなが造船ぞうせんしょ
 
帝国ていこく銀行ぎんこう
 
 
 
 
 
 
 
小野田おのだセメント製造せいぞう
 
 
まんしゅう小野田おのだセメント製造せいぞう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
黒部川くろべがわ電力でんりょく
 
電気化学工業でんきかがくこうぎょう
 
 
 
 
 
 
 
大同だいどう製鋼せいこう
 
 
華北かほく洋灰ようかいまた 有限ゆうげん公司こうし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本製鋼所にほんせいこうしょ
 
 
 
 
 
 
 
三越みつこし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
台湾たいわん製糖せいとう
 
 
 
 
 
 
 
こおりただし製糸せいし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さかいセルロイド
 
 
 
 
 
 
 
太平洋興発たいへいようこうはつ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
王子製紙おうじせいし
 
 
 
 
 
 
 
しょうふかし紡績ぼうせき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

帝国ていこく主義しゅぎまんしゅうこく進出しんしゅつ

編集へんしゅう

商品しょうひん輸出ゆしゅつ拡大かくだい市場いちば支配しはいけん獲得かくとく目的もくてき三井物産みついぶっさん国家こっか政策せいさく一体化いったいかして帝国ていこく主義しゅぎてき進出しんしゅつ展開てんかいした。まんしゅう事変じへんにちちゅう戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそうつうじて中国ちゅうごく進出しんしゅつした。当時とうじ香港ほんこん主要しゅよう取引とりひきとしては、欧州おうしゅう日本にっぽん豪州ごうしゅうおよ東南とうなんアジア清国きよくに沿岸えんがん地方ちほうよんだい市場いちばをなしていたが、欧米おうべい市場いちばからはてつ機械きかいなどの生産せいさん手段しゅだん綿糸めんしぬのなどの消費しょうひ資料しりょう輸入ゆにゅうし、生糸きいと絹織物きぬおりものなどの嗜好しこうひん輸出ゆしゅつされ、日本にっぽんからは綿糸めんしぬの石炭せきたんりんすんなどの消費しょうひ資料しりょう原料げんりょうひん雑貨ざっかひん輸入ゆにゅうされ、棉花めんか砂糖さとうべいなどが輸出ゆしゅつされていたが、日本にっぽんにとって当該とうがい香港ほんこんおも輸出ゆしゅつ市場いちばとしての位置いちにあったのである。また、豪州ごうしゅう東南とうなんアジア市場いちばとの貿易ぼうえき輸入ゆにゅうにおいて、べい石炭せきたん.すず鉱産こうさんぶつ輸出ゆしゅつにおいてはちゃ砂糖さとうのほか雑貨ざっかひんしゅとしていた。清国きよくに沿岸えんがん地域ちいきとは生糸きいと絹織物きぬおりもの輸入ゆにゅうし、生産せいさん手段しゅだん雑貨ざっかひん輸出ゆしゅつしていた。そして、このようなよんだい市場いちば相互そうごあいだには清国きよくにさん生糸きいと絹織物きぬおりもの欧米おうべいへの輸出ゆしゅつと、欧米おうべいからの生産せいさん手段しゅだん綿糸めんし綿布めんぷ綿織物めんおりもの清国きよくにへの輸入ゆにゅうにみられるように有機ゆうきてき連関れんかん形成けいせいされており、その中継ちゅうけいこうとして香港ほんこん市場いちばがあったのである。

まんしゅう買収ばいしゅう計画けいかく

編集へんしゅう

この計画けいかくは、三井物産みついぶっさん上海しゃんはい支店してん取引とりひき関連かんれんしてこった。1911ねん明治めいじ44ねん中国ちゅうごくからし革命かくめいこり、米国べいこく亡命ぼうめいしていたまごぶん大統領だいとうりょう就任しゅうにんし、三井みつい革命かくめいぐん軍資金ぐんしきん提供ていきょうもうんだところ発端ほったんがあった。のちのだいいち革命かくめい直接ちょくせつ動機どうきとなったのは郵伝尚書しょうしょもりせんふところ鉄道てつどう国有こくゆうあんであった。このとき軌条きじょう統一とういつようする資料しりょうを、三井みつい日本興業銀行にほんこうぎょうぎんこうかられて融資ゆうしをしていたかん製鉄せいてつしょもとめようとした。三井みつい大治おおはる鉄鉱てっこうかん製鉄せいてつ炭礦たんこう合同ごうどう公司こうしにちちゅう共同きょうどう経営けいえい条件じょうけん巨額きょがく借款しゃっかんおうじた。公司こうしから民間みんかん政府せいふへ500まんえん貸与たいよ条件じょうけんもあり、この借款しゃっかん契約けいやく調印ちょういん同時どうじ中華民国ちゅうかみんこく政府せいふ将来しょうらいささえける鉱山こうざん鉄道てつどう電気でんき其他の事業じぎょう外国がいこくじん許可きょかする場合ばあいには、どう条件じょうけんなれば三井物産みついぶっさん株式会社かぶしきがいしゃに其許可きょかあずかふるごと承認しょうにんす」という契約けいやくしょわした。まもなくまごぶん大統領だいとうりょう地位ちい退しりぞいたため、この借款しゃっかん融資ゆうし一部いちぶしか実行じっこうされなかったが、中国ちゅうごくどおりかかえていた三井みついは、中国ちゅうごく革命かくめい援助えんじょしながら商権しょうけん拡張かくちょうはかった。1913ねん大正たいしょう2ねんなつだい革命かくめい挙兵きょへい革命かくめいぐん資金しきん調達ちょうたつなんもりつとむが、師団しだんぶん武器ぶきと2000まんえん現金げんきんでもってまんしゅう買収ばいしゅうする交渉こうしょうおこなった。革命かくめいのちまごぶん亡命ぼうめいによって実現じつげんしなかったが、このまんしゅう買収ばいしゅう計画けいかくもり益田ますだとおして井上いのうえかおるつうじ、その仲介ちゅうかいによってかつら太郎たろう了解りょうかいったものであった。

財閥ざいばつ転向てんこう

編集へんしゅう

昭和しょうわ恐慌きょうこうともな1930ねん昭和しょうわ5ねんごろからはじまった財閥ざいばつ批判ひはん対処たいしょするため、財団ざいだん法人ほうじん三井みつい報恩ほうおんかい設立せつりつしての寄付きふ規模きぼ拡大かくだい三井みつい一族いちぞく退任たいにん定年ていねんせい導入どうにゅう株式かぶしき公開こうかいといった改革かいかくおこなった。

詳細しょうさいは「財閥ざいばつ転向てんこう」のこう参照さんしょう

軍需ぐんじゅ産業さんぎょう

編集へんしゅう

1931ねん昭和しょうわ6ねん)にはじまるまんしゅう事変じへんがきっかけとなり、軍事ぐんじ膨張ぼうちょうし、軍需ぐんじゅ景気けいきこし、重化学じゅうかがく工業こうぎょう発達はったつつよ要因よういんとなった。中国ちゅうごくまんしゅうへの進出しんしゅつには日産にっさんにち昭和電工しょうわでんこうなどの新興しんこうコンツェルンが熱心ねっしんであった。軍部ぐんぶには既成きせい財閥ざいばつとく三井みついたいしてつよ反感はんかんがあったとし、新興しんこうコンツェルンには、堂々どうどうたる努力どりょくきずいてきた電気化学工業でんきかがくこうぎょう部門ぶもんにおいて、既成きせい財閥ざいばつげてくるといった事情じじょうがあった。三井みつい1933ねん昭和しょうわ8ねん東洋とうようだかあつまんアルミニウム1934ねん昭和しょうわ9ねんレーション曹達そうだ設立せつりつして化学かがく工業こうぎょう拡大かくだいし、石川いしかわとうタービンたま造船ぞうせんしょ(のちの三井造船みついぞうせん)を新設しんせつして機械きかい工業こうぎょうちからはじめ、益田ますだたかし以来いらい商業しょうぎょう路線ろせんから工業こうぎょう路線ろせんはしった。三菱みつびしは、1934ねん昭和しょうわ9ねん)、三菱みつびし造船ぞうせん三菱みつびし航空機こうくうき合併がっぺいして三菱重工業みつびしじゅうこうぎょう新設しんせつし、東京とうきょう鋼材こうざい増資ぞうしによって強化きょうかした。住友すみとも住友すみともしんどう鋼管こうかん住友すみとも製鉄せいてつしょ合併がっぺいして、住友金属工業すみともきんぞくこうぎょう設立せつりつされた。だいいち世界せかい大戦たいせんきょうけると、日本にっぽん政府せいふからの戦争せんそう協力きょうりょくもとめられた三井みついは、のちに南条なんじょう金雄かねお三井みつい合名ごうめい理事りじ)のした積極せっきょくてき国策こくさく協力きょうりょくすすめ、軍需ぐんじゅ生産せいさん基幹きかん石炭せきたん鉱業こうぎょう金属きんぞく鉱業こうぎょう急速きゅうそく伸長しんちょうした。このころ炭鉱たんこううごきは、三池みいけ田川たがわ山野やまの砂川すなかわ美唄びばいなど既設きせつ事業じぎょうしょ強化きょうか拡充かくじゅうこころみられた。樺太からふと西にししがらみ炭鉱たんこう1938ねん昭和しょうわ13ねん12月西にししがらみ鉱業こうぎょうしょとして設置せっち川上かわかみ鉱業こうぎょうしょ合併がっぺいして1941ねん昭和しょうわ16ねん)にせんいとぐち炭鉱たんこう買収ばいしゅうして経営けいえいたった。このころ全国ぜんこくにおける三井鉱山みついこうざん石炭せきたん産出さんしゅつりょうは13%から20%ちか比率ひりつとなっていた。金属きんぞく部門ぶもんでは三成みなり鉱業こうぎょうのほか、朝鮮ちょうせんよししゅう鉱山こうざん本州ほんしゅうでは日本にっぽん亜鉛あえん鉱業こうぎょう設立せつりつがあった。またアルミを原料げんりょうとして航空機こうくうき生産せいさんおこなうために、1941ねん昭和しょうわ16ねん)に三井鉱山みついこうざん傘下さんか東洋とうようアルミニウムとにちけい西にし鮮化がく統合とうごうした東洋とうよう軽金属けいきんぞく三井みつい軽金属けいきんぞく)が、朝鮮ちょうせん楊市においてアルミ精錬せいれん工場こうじょう建設けんせつ実際じっさい操業そうぎょうは2ねん)。さらに陸軍りくぐん航空こうくう本部ほんぶ朝鮮ちょうせん総督そうとくのすすめにより、1942ねん昭和しょうわ17ねん)、昭和しょうわ飛行機ひこうき平壌ぴょんやん工場こうじょう買収ばいしゅうし、朝鮮ちょうせん飛行機ひこうき製作所せいさくしょとした。

海外かいがい進出しんしゅつ

編集へんしゅう

三井鉱山みついこうざん物産ぶっさん同様どうようまんしゅう事変じへん以後いごまんしゅう中国ちゅうごく南方なんぽう占領せんりょう地域ちいき進出しんしゅつし、しょ事業じぎょう経営けいえいするようになった。南方なんぽう占領せんりょうでは陸軍りくぐん次官じかん通牒つうちょうによって、フィリピンスマトラふつしるしベトナムラオスカンボジア)、ビルママレージャワひとし鉱山こうざん炭礦たんこう精錬せいれんしょなどの強制きょうせいてき経営けいえい協力きょうりょくめいぜられた。しかし、これらのしょ投資とうし敗戦はいせんによって水泡すいほうかえしてしまった。

財閥ざいばつ解体かいたい

編集へんしゅう

だい世界せかい大戦たいせんGHQ財閥ざいばつ軍国ぐんこく主義しゅぎ封建ほうけん主義しゅぎ精神せいしんてき支柱しちゅうであるとし、1946ねん昭和しょうわ21ねん9月三井みつい三菱みつびし住友すみとも安田やすだきゅう中島なかじま飛行機ひこうき持株もちかぶ会社かいしゃ指定していされ、三井みつい三菱みつびし経済けいざいりょく中核ちゅうかくとみなされた三井物産みついぶっさん三菱商事みつびししょうじ財閥ざいばつ解体かいたいにより解散かいさんした。

三井みついでは資本しほんきん1おくえん復興ふっこう事業じぎょう企画きかくしており、GHQと折衝せっしょうして財閥ざいばつかん変更へんこうはかったがれられなかった[11]

財閥ざいばつ解体かいたい(20世紀せいき

編集へんしゅう

戦後せんご経済けいざい団体だんたい連合れんごうかいげん日本にっぽん経済けいざい団体だんたい連合れんごうかい)の誕生たんじょう財界ざいかいそう主流しゅりゅう体制たいせい移行いこうした。戦前せんぜんきゅう三井みつい財閥ざいばつじくとする保守ほしゅ本流ほんりゅう重厚じゅうこう長大ちょうだい企業きぎょう中心ちゅうしんで、だい企業きぎょうのすべてが経団連けいだんれん重要じゅうようポストであるただしふく会長かいちょうつらねてはいなかった。バブルトヨタ自動車とよたじどうしゃNTTパナソニックキヤノン武田薬品工業たけだやくひんこうぎょうなどがくわわる。きゅう日本にっぽん経営けいえいしゃ団体だんたい連盟れんめいつうじた活動かつどうちかられていたきゅう三菱みつびしけい企業きぎょうも、きゅう日経連にっけいれん経団連けいだんれん統合とうごうにより現在げんざい日本にっぽん経済けいざい団体だんたい連合れんごうかいとなったのちかおすようになる。

財閥ざいばつ同様どうよう三井みついグループ」としてグループをするも、相対そうたいてき弱体じゃくたい余儀よぎなくされる。そのおも原因げんいんは、帝国ていこく銀行ぎんこうからだいいち銀行ぎんこう分離ぶんりしたことによる三井みつい銀行ぎんこうこうむったおおきな損失そんしつで、三井みつい銀行ぎんこう資本しほんきんやく50%をうしなった。そのため三井みついけい会社かいしゃ必要ひつようとするクレジットを提供ていきょうすることができなくなり、グループのいくつかにたいする影響えいきょうりょくうしない、富士銀行ふじぎんこう日本興業銀行にほんこうぎょうぎんこうなどのほかのグループの銀行ぎんこうがこれらの会社かいしゃ主要しゅよう債権さいけんしゃになった。また三井みついけい生産せいさん会社かいしゃあいだ有機ゆうきてき生産せいさんてき金融きんゆうてきむすびつきのよわさも、一連いちれん会社かいしゃ三井みついとの関係かんけいよわめたり分離ぶんりしたりする一因いちいんとなった。

さらに三井みついグループの中核ちゅうかく会社かいしゃである三井物産みついぶっさん解体かいたいおおきく影響えいきょうした。三井物産みついぶっさん基盤きばんにしてすすめられた三井物産みついぶっさん第一物産だいいちぶっさんさい合同ごうどうは、第一物産だいいちぶっさん富士銀行ふじぎんこう融資ゆうし系列けいれつにあったため手間取てまと難航なんこうした。なお、三井物産みついぶっさん芙蓉ふようグループとの関係かんけいはこの関係かんけいからまれたともいわれる。そのため三菱みつびしグループ住友すみともグループなどとくらべてもゆるやかな連合体れんごうたいとなっており、グループ企業きぎょうには独立どくりつしょくつよ企業きぎょうトヨタ自動車とよたじどうしゃ東芝とうしばフジクラなど)や企業きぎょうグループに重複じゅうふくして加盟かめいしている企業きぎょうもある[ちゅう 2]

サントリーIHIサッポロビール結集けっしゅうはややおくれたがきゅう三和さんわけいきゅう芙蓉ふようけいきゅう第一勧銀だいいちかんぎんけい満遍まんべんなくんだ。後発こうはつかあるいは設立せつりつ関与かんよいきのかかった程度ていど存在そんざいである富士ふじフイルムなどは新規しんき加盟かめい部類ぶるいである。三井みつい財閥ざいばつけい企業きぎょう八重洲やえす日本橋にほんばし三菱みつびし財閥ざいばつけい企業きぎょう大手町おおてまちまるうち集積しゅうせきしていることから、それぞれを三井みつい王国おうこく」・「三菱みつびし王国おうこくともばれる地区ちく存在そんざいになっている。また、TBSホールディングス二木ふたきかい月曜げつようかい三井みついぎょうさい研究所けんきゅうじょ三井みつい文庫ぶんこに、傘下さんか事業じぎょう会社かいしゃTBSテレビ月曜げつようかい加盟かめいしたことにより三井みついグループはマスメディア包括ほうかつする企業きぎょう集団しゅうだんとなった[ちゅう 3]

きゅう三井みつい財閥ざいばつ持株もちかぶ会社かいしゃである三井みつい本社ほんしゃ財閥ざいばつ解体かいたい清算せいさん株式会社かぶしきがいしゃとして存続そんぞくしていたが[14][15][16]1956ねん昭和しょうわ31ねん)に三井みついけい不動産ふどうさん会社かいしゃである三井不動産みついふどうさん吸収きゅうしゅう合併がっぺいされた[14][15][16]

21世紀せいき

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2001ねん平成へいせい13ねん)に三井みついグループ中核ちゅうかく銀行ぎんこうであるさくら銀行ぎんこうきゅう三井みつい銀行ぎんこうきゅう太陽たいよう神戸銀行こうべぎんこう)が住友すみともグループの中核ちゅうかく銀行ぎんこう住友銀行すみともぎんこう合併がっぺいして三井住友銀行みついすみともぎんこう誕生たんじょうしたことにともな金融きんゆうめんでは三井みつい住友すみともフィナンシャルグループ誕生たんじょうし、業種ぎょうしゅでも三井みついけい住友すみともけい企業きぎょう合併がっぺい業務ぎょうむ提携ていけい相次あいついだ(三井みつい住友海上火災保険すみともかいじょうかさいほけん三井みつい住友建設すみともけんせつなど)。源流げんりゅう企業きぎょう三越みつこしは、三菱みつびしUFJ銀行ぎんこうとの関係かんけいふか伊勢丹いせたん2008ねん平成へいせい20ねん4がつ持株もちかぶ会社かいしゃ三越みつこし伊勢丹いせたんホールディングス設立せつりつ経営けいえい統合とうごうした。三井みついけい信託しんたく銀行ぎんこうである中央ちゅうおう三井みついトラスト・ホールディングスきゅう中央信託銀行ちゅうおうしんたくぎんこうきゅう三井信託銀行みついしんたくぎんこう)は2012ねん平成へいせい24ねん)4がつ住友信託銀行すみともしんたくぎんこう経営けいえい統合とうごうして、三井みつい住友すみともトラスト・ホールディングスとなった。

病院びょういん

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学校がっこう文化ぶんか団体だんたい

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 兄弟きょうだい会社かいしゃ同業どうぎょうのち買収ばいしゅう合併がっぺいにより軍需ぐんじゅ用品ようひん手掛てがけるようになった豐田とよだしき織機しょっきげん豊和工業ほうわこうぎょうつ。
  2. ^ とく芙蓉ふようグループや第一勧銀だいいちかんぎんグループとの重複じゅうふく加盟かめい企業きぎょうおおい。三和さんわグループ大輪たいりんかいさいかちかいグループとの重複じゅうふく加盟かめい企業きぎょうもある。
  3. ^ なお、三井みつい財閥ざいばつ時代じだいにも日本経済新聞にほんけいざいしんぶん源流げんりゅうでもある中外ちゅうがい商業しょうぎょう新報しんぽう三井物産みついぶっさん創刊そうかんし、一時期いちじき三井みつい合名ごうめいもと経営けいえいしていた[12][13]

出典しゅってん

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  1. ^ 東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱん三井みつい越後屋えちごや奉公人ほうこうにん研究けんきゅう参照さんしょう
  2. ^ 早川はやかわたかし日本にっぽん上流じょうりゅう社会しゃかいねやばつ』p52
  3. ^ 財団ざいだん法人ほうじん三井みつい文庫ぶんこ三井みつい事業じぎょう』p1-
  4. ^ 武内たけうちしげる明治めいじ三井みつい慶應義塾けいおうぎじゅく卒業生そつぎょうせい』p56-p60
  5. ^ 宇田川うだがわまさる, 法政大学ほうせいだいがくイノベーション・マネジメント研究けんきゅうセンター 『ケース・スタディー 日本にっぽん企業きぎょう群像ぐんぞう』、2008ねん,p118
  6. ^ だん琢磨たくま”. 三井みつい広報こうほうかい. 2020ねん9がつ22にち閲覧えつらん
  7. ^ 宇田川うだがわまさる, 法政大学ほうせいだいがくイノベーション・マネジメント研究けんきゅうセンター 『ケース・スタディー 日本にっぽん企業きぎょう群像ぐんぞう』、2008ねん,p125
  8. ^ 小林こばやしただしあきら三菱みつびし経営けいえい多角たかく』p31-p32
  9. ^ 東洋経済新報とうようけいざいしんぽう367ごう1970ねん昭和しょうわ45ねん
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外部がいぶリンク

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