岩崎家の同族主義が強かった三菱財閥に対し、三井は西郷隆盛から「大番頭」と呼ばれた井上馨をはじめ有能な人材を多く輩出したことから「組織の三菱、人の三井」と言われた。また三菱が「独裁政治」、後世の住友が「結集の住友」と呼ばれた[9]のに対し、三井は「番頭政治」と呼ばれる。これは三菱・住友の連帯と結束の強さに対し、グループ内各企業が自由に動きやすい三井の特色を表したもので、三井系トップ・マネジメントには個性の強い人物が多いことをい表したものでもある。
三井合名会社歴代理事長・理事・参事
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第一国立銀行・日本銀行
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1871年(明治4年)6月、三井八郎右衛門は「新貨幣御発行為替座御用」を命ぜられた。その業務は金銀の地金を受け取って引き換えに新貨幣を渡し、受け取った地金を造幣局へ送ることであった。小野組、島田組を差し置いて政府の命を受けた三井組は1872年(明治5年)4月に御用所を東京・大阪・京都・横浜・神戸・松坂・函館の七都市に設立。この頃米国へ派遣された伊藤博文は吉田清成と国立銀行の設立で意見が対立する事になり、政府は三井組に銀行を設立するように予告しながら、すぐその後に政府の銀行政策が変更されて三井組一個の銀行設立を認めず、小野組と第一国立銀行を設立する方針がとられた。三井は強制的に政府の指導に従い、海運橋畔に建築していた三井組本部予定の建物を第一国立銀行に提供させられるという負担を負った。当初三井・小野組で200万円を出資し、残り300万円を一般募集するつもりでいたが、一般からは44万余円しか無かったため、資本金244万800円として1873年(明治6年)6月11日に創立総会を開きただちに開業した。総監役として渋沢栄一が乗り込み、事実上の頭取として実権を握った。三井にとっては呉服部門を分離までして、銀行を設立しようとしたが、その希望を政府によってすりかえられ、自己の銀行を持ちたいという願望はくすぶり続ける事になった。その後三井銀行創立を果たした三井だが、日本銀行創立により官金取引業務が出来なくなり、更には三井銀行の三野村利助が引き抜かれ日銀理事に就任した。この頃は苦境にあり、1874年から翌年にかけてオリエンタル・バンクから100万ドルを借りた。
明治初期以来、鉱工業への進出は著しく、商業主義と言われた益田孝でも三池炭鉱や神岡鉱山に進出した。中上川彦次郎の工業主義が急進的であったので、それとの対抗上、商業主義を強調した傾向がある。益田孝が鉱工業を軽視していたのではないもう一つの証拠は、三井合名理事長に團琢磨を選出し、芝浦製作所を三井の傘下に置いたことである。三井物産は、自ら三井船舶や三井造船を分離していく一方、海外からのノウハウをもとにして東洋レーヨンなどを起こして多角化していった。1895年(明治28年)の三井工業部は、『芝浦製作所』、『三重紡績所』、『名古屋製糸所』、『大崎製糸所』、『富岡製糸所』、『前橋絹糸紡績所』、『新町絹糸紡績所』の7つが直系傘下であった。三井は職工に対する教育を銀行等ホワイトカラーと同じように優遇した。この姿勢は武藤山治によって引き継がれ、職員層(ホワイトカラー)と工員層(ブルーカラー)を選別しない「経営家族主義」「温情主義」と呼ばれ、当時の官尊民卑風潮において先駆的な労働管理思想であった。
三井財閥は他の財閥に先駆けて、1909年(明治42年)に三井合名会社を頂点とするコンツェルン体制を確立した。世界史上における扱いとして、デュポンやロックフェラーは基本的には単一業種でクルップについても同じことが言える。ことにロックフェラーがスタンダード・オイルで採用したトラスティー方式は日本では見られなかった。その後、多数の財閥が本社を合名会社か合資会社とし、傘下の諸事業を株式会社としてピラミッド型に結合する形は一般化した。これによる生産の伸長に伴い、貿易が進展し、その担い手の商社も飛躍的に発展した。三井物産は取引額15億4000万円となり、三井工業部なども資本金が6倍、貿易金融には横浜正金銀行のほかに台湾銀行、朝鮮銀行、日本興業銀行、日本勧業銀行などが参加して外国為替業務を行うようになった。
1911年に樺太国有林の伐採権を得、1914年11月には大泊郡大泊町でパルプ工場の操業を開始。1915年(大正4年)の二十一ヶ条要求をきっかけに、中国・満洲に進出。日本興業銀行を中心に約2.5億円の対中国借款が行われ、対外貸付額は総額11億円に達した。また、三井造船は日本初のディーゼル船・赤城丸などを導入。これら海洋国家と貿易の相乗効果で三井は日本最大の財閥として君臨した。
1913年(大正2年)には東京三田に日本最大の富豪だった三井家の豪華な接客用建物としてコンドルの設計により三井倶楽部が完成した。
戦後、経済団体連合会(現・日本経済団体連合会)の誕生で財界は総主流体制に移行した。戦前は旧三井財閥を軸とする保守本流、重厚長大企業が中心で、大企業のすべてが経団連の重要ポストである正・副会長に名を連ねてはいなかった。バブル後はトヨタ自動車、NTT、パナソニック、キヤノン、武田薬品工業などが加わる。旧日本経営者団体連盟を通じた活動に力を入れていた旧三菱系企業も、旧日経連と経団連の統合により現在の日本経済団体連合会となった後は顔を出すようになる。
他財閥と同様「三井グループ」としてグループ化をするも、相対的弱体化を余儀なくされる。その主な原因は、帝国銀行から第一銀行が分離したことによる三井銀行が被った大きな損失で、三井銀行は資本金の約50%を失った。そのため三井系会社が必要とするクレジットを提供することができなくなり、グループのいくつかに対する影響力を失い、富士銀行、日本興業銀行などの他のグループの銀行がこれらの会社の主要な債権者になった。また三井系の生産会社間の有機的、生産的、金融的結びつきの弱さも、一連の会社が三井との関係を弱めたり分離したりする一因となった。
さらに三井グループの中核会社である三井物産の解体も大きく影響した。三井物産を基盤にしてすすめられた三井物産と第一物産の再合同は、第一物産が富士銀行の融資系列下にあったため手間取り難航した。なお、三井物産と芙蓉グループとの関係はこの関係から生まれたともいわれる。そのため三菱グループや住友グループなどと比べてもゆるやかな連合体となっており、グループ企業には独立色の強い企業(トヨタ自動車、東芝、フジクラなど)や他の企業グループに重複して加盟している企業もある[注 2]。
サントリーやIHI、サッポロビールの結集はやや遅れたが旧三和系、旧芙蓉系、旧第一勧銀系を満遍なく取り込んだ。後発かあるいは設立関与で息のかかった程度の存在である富士フイルムなどは新規加盟の部類である。三井財閥系企業が八重洲・日本橋、三菱財閥系企業が大手町・丸の内に集積している事から、それぞれを「三井王国」・「三菱王国」とも呼ばれる地区の存在になっている。また、TBSホールディングスが二木会・月曜会・三井業際研究所・三井文庫に、傘下の事業会社TBSテレビが月曜会に加盟したことにより三井グループはマスメディアも包括する企業集団となった[注 3]。
旧三井財閥の持株会社である三井本社は財閥解体後も清算株式会社として存続していたが[14][15][16]、1956年(昭和31年)に三井系の不動産会社である三井不動産に吸収合併された[14][15][16]。