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朝鮮統一問題 - Wikipedia

朝鮮ちょうせん統一とういつ問題もんだい

南北なんぼく統一とういつから転送てんそう

朝鮮ちょうせん統一とういつ問題もんだい(ちょうせんとういつもんだい)は、朝鮮半島ちょうせんはんとう朝鮮ちょうせん)が1948ねん昭和しょうわ23ねん以降いこう大韓民国だいかんみんこく韓国かんこく南側みなみがわ)と朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく北朝鮮きたちょうせん北側きたがわ)の分断ぶんだん国家こっかになっている現状げんじょう問題もんだいしたうえで、南北なんぼく統一とういつ南北なんぼく統一とういつ、なんぼくとういつ)を実現じつげんするために考慮こうりょすべき問題もんだい総称そうしょうである。

朝鮮ちょうせん統一とういつ問題もんだい
統一とういつ朝鮮ちょうせん統一とういつのシンボルとして使用しようされる。
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル 남북통일(みなみ
북남통일(きた
漢字かんじ 南北なんぼく統一とういつみなみ
きたみなみ統一とういつきた
発音はつおんトンイみなみ
トンイきた
日本語にほんごみ: なんぼくとういつ(みなみ
ほくなんとういつ(きた
2000ねんしきみなみ):
2000ねんしききた):
MRしきみなみ):
MRしききた):
英語えいご表記ひょうき
Nambuk tong-il
Bungnam tong-il
Nambuk t'ongil
Pungnam t'ongil
Korean reunification
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北朝鮮きたちょうせんが「きむ日成いるそん主席しゅせき統一とういつ業績ぎょうせき宣伝せんでんするシンボル」として、首都しゅと平壌ぴょんやん建設けんせつした祖国そこく統一とういつさんだい憲章けんしょう記念きねんとう(2024ねん1がつ15にちきむただしおん朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとうそう書記しょき国務こくむ委員いいんちょう)が撤去てっきょ表明ひょうめい[1])。
朝鮮歷史
朝鮮ちょうせん歴史れきし
考古学こうこがく 朝鮮ちょうせん旧石器時代きゅうせっきじだい朝鮮ちょうせんばん
櫛目くしめぶん土器どき時代じだい 8000 BC-1500 BC
無文むもん土器どき時代じだい 1500 BC-300 BC
伝説でんせつ だんくん朝鮮ちょうせん
朝鮮ちょうせん 朝鮮ちょうせん
つばめ
たつこく まもる朝鮮ちょうせん
げんさんこく たつかん わきまえかん かんよんぐん
うまかん おびかたぐん らくなみぐん

さんこく 伽耶かや
42-
562
百済くだら
高句麗こうくり
しん
南北なんぼくこく とうくまとく安東あんどうみやこまもる
統一とういつしん
にわとりりん州都しゅうととく
676-892
安東あんどうみやこまもる
668-756
渤海
698-926
こうさんこく しん
-935
のち
百済くだら

892
-936
こう高句麗こうくり
901-918
りょう おんなしん
統一とういつ
王朝おうちょう
こううらら 918- きむ
もとりょうぎょうしょう
あずまやすしそうしろふけ
元朝がんちょう
こううらら 1356-1392
朝鮮ちょうせん 1392-1897
大韓たいかん帝国ていこく 1897-1910
近代きんだい 日本にっぽん統治とうち時代じだい朝鮮ちょうせん 1910-1945
現代げんだい 朝鮮ちょうせん人民じんみん共和きょうわこく 1945
連合れんごうぐん軍政ぐんせい 1945-1948
アメリカ占領せんりょう ソビエト占領せんりょう
北朝鮮きたちょうせん人民じんみん委員いいんかい
大韓民国だいかんみんこく
1948-
朝鮮ちょうせん民主みんしゅ主義しゅぎ
人民じんみん共和きょうわこく

1948-
Portal:朝鮮ちょうせん

概要がいよう

編集へんしゅう

連合れんごうぐん軍政ぐんせいには、南朝鮮みなみちょうせん統一とういつ政府せいふ樹立じゅりつけた左右さゆう合作がっさく運動うんどう展開てんかいされたほか南朝鮮みなみちょうせん単独たんどく政府せいふ大韓民国だいかんみんこく)の樹立じゅりつ直前ちょくぜん北朝鮮きたちょうせん南北なんぼくれんせき会議かいぎもよおされた。だが、いずれのこころみも統一とういつけた具体ぐたいてき成果せいかせず、朝鮮ちょうせん分断ぶんだん国家こっかめることができず、朝鮮ちょうせん戦争せんそう勃発ぼっぱつした。韓国かんこく北朝鮮きたちょうせんりょう政府せいふどもいまだに平和へいわ条約じょうやく締結ていけつしていない。

分断ぶんだん直後ちょくご南北朝鮮なんぼくちょうせんはいずれも単一たんいつ国家こっか樹立じゅりつによる統一とういつ目指めざしていた。後述こうじゅつきむただしおん路線ろせん変更へんこうまでは、南北なんぼくとも連邦れんぽう国家こっか樹立じゅりつ統一とういつ基本きほん方針ほうしんとなっていた。

韓国かんこくは、建国けんこく以来いらい承晩しょうばん構想こうそうしていた「北進ほくしん統一とういつろん存在そんざいし、北朝鮮きたちょうせんたいして「きた工作こうさくいん」が派遣はけんされていた。民主みんしゅ議会ぎかい大統領だいとうりょうせんでの左右さゆう対立たいりつはげしく、そのたびに融和ゆうわ敵対てきたいおおきく路線ろせんわってきた。

北朝鮮きたちょうせんは、1950ねん6がつ25にち朝鮮ちょうせん戦争せんそう開始かいしして軍事ぐんじてき統一とういつ目指めざした過去かこがあるため、その指向しこうせい完全かんぜんにはてていないとかんがえられるが、1980年代ねんだいからの長期ちょうき経済けいざい衰退すいたいにより、それを可能かのうとする国力こくりょくとぼしくなった。独裁どくさい国家こっかのため情報じょうほうとぼしく、具体ぐたいてきうごきはさだかではない。これまでに幾度いくどとなく北朝鮮きたちょうせんから韓国かんこくたいして「たいみなみ工作こうさく」がおこなわれ、また、「南侵なんしんトンネル」が韓国かんこく国内こくない発見はっけんされている。

38せん南側みなみがわにある韓国かんこく北側きたがわにある北朝鮮きたちょうせんは、国家こっか正統せいとうせいめぐって建国けんこく以来いらい敵対てきたい関係かんけいにあるものの、同一どういつ民族みんぞく朝鮮ちょうせんじん)が居住きょじゅうしている朝鮮半島ちょうせんはんとう分断ぶんだんされている現状げんじょうを「正常せいじょう状況じょうきょう」と認識にんしきし、朝鮮半島ちょうせんはんとうひとつの国家こっか主権しゅけん)の施政しせい統一とういつすることを最終さいしゅう目標もくひょうとしているてん長年ながねん一致いっちしていた。そのため、南北なんぼくともに建国けんこく直後ちょくご戦争せんそうによる吸収きゅうしゅう統一とういつを、1972ねん南北なんぼく共同きょうどう声明せいめい発表はっぴょう以降いこう自主じしゅてき平和へいわてきかつ単一たんいつ民族みんぞくとしての団結だんけつもとづく統一とういつ方法ほうほう模索もさくしてきた。

だが北朝鮮きたちょうせん2024ねん1がつから「南北なんぼく統一とういつ」の目標もくひょう放棄ほうきしており[2]韓国かんこくじんどういち民族みんぞくだとみなさず[3][4][5][1]、かつ戦争せんそうない統一とういつ法案ほうあん(いわゆる平和へいわ統一とういつ)を放棄ほうきする方針ほうしん採用さいようはじめたため[5][1]問題もんだい従来じゅうらいべつ方向ほうこうすすはじめていると一部いちぶ識者しきしゃ指摘してきしている[2]詳細しょうさい後述こうじゅつ )。

南北なんぼくりょう政府せいふ呼称こしょう

編集へんしゅう

朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく北朝鮮きたちょうせん政府せいふは、大韓民国だいかんみんこく政府せいふを『南朝鮮みなみちょうせん』(ナムジョソン、南北なんぼく会談かいだんでは南側みなみがわ)とんでおり、報道ほうどう公式こうしき文書ぶんしょ大韓民国だいかんみんこくという名称めいしょう使つかわれることはなかった。これは北朝鮮きたちょうせん大韓民国だいかんみんこくおな民族みんぞくであり、統一とういつ対象たいしょう做してきたためである[6]蔑称べっしょうとしてもちいる場合ばあいは『南朝鮮みなみちょうせん傀儡かいらい』(傀儡かいらいのちに『徒党ととう』『一味いちみ』『はん民族みんぞく集団しゅうだん』がはいることがある)との呼称こしょうが、「べいみかど」の傀儡かいらい国家こっかだと、北朝鮮きたちょうせん看做みなしている韓国かんこく言葉ことばとしてもちいられることがある。ただし、2023ねん7がつにはきむただしおんそう書記しょきいもうとであるかねあずかただし大韓民国だいかんみんこくという呼称こしょうもちいつつ非難ひなんする談話だんわしたほか、同年どうねん8がつにはきむただしおん自身じしん海軍かいぐん増強ぞうきょう演説えんぜつなか大韓民国だいかんみんこくという正式せいしき名称めいしょうもちいており、北朝鮮きたちょうせん次第しだいに『大韓民国だいかんみんこく傀儡かいらい』を統一とういつではなく、敵対てきたいてき相手あいて做す方向ほうこう転換てんかんしつつある[6][7]

大韓民国だいかんみんこくがわは、朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくを『北韓ほっかん』(プッカン)もっと省略しょうりゃくして『きた』(プク、南北なんぼく会談かいだんでは北側きたがわ)とんでいる。1972ねん南北なんぼく共同きょうどう声明せいめい以前いぜん朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくを「朝鮮ちょうせんきたにあるソビエト連邦れんぽう中共ちゅうきょう政権せいけん[ちゅう 1]傀儡かいらい政権せいけん」という意味いみの『きた』とんでいた。

建国けんこく初期しょき

編集へんしゅう

連合れんごうこくうご

編集へんしゅう
 
1945ねん12月のモスクワさんこく外相がいしょう会議かいぎ発表はっぴょうされた朝鮮ちょうせん信託しんたく統治とうちたいし、反対はんたい意志いし表明ひょうめいした「はんたく右派うは朝鮮ちょうせんじん示威じい行動こうどう

だい世界せかい大戦たいせんなか1943ねん11月開催かいさいされたカイロ会談かいだんにて、連合れんごうこく構成こうせいしていたアメリカイギリス中華民国ちゅうかみんこく首脳しゅのうは、日本にっぽん統治とうちにあった朝鮮ちょうせん戦後せんご解放かいほうすること合意ごういした。いで、1945ねん2がつヤルタ会談かいだんにて、アメリカ、イギリス、ソ連それん首脳しゅのう戦後せんご朝鮮ちょうせんをアメリカ、イギリス、中華民国ちゅうかみんこくソ連それんよんカ国かこくによる信託しんたく統治とうちしたくことで非公式ひこうしき合意ごういしたが[8]統治とうちため実務じつむてきめはされなかった。

1945ねん8がつ8にちソ連それんたいにち宣戦せんせん布告ふこくソ連それんぐん一部いちぶ8がつ13にち朝鮮ちょうせん北東ほくとう雄基ゆうきぐんみなみ上陸じょうりくした。そのため、ソ連それん朝鮮ちょうせん進出しんしゅつ懸念けねんしたアメリカはイギリス、中華民国ちゅうかみんこくソ連それんたいし、日本にっぽん降伏ごうぶく朝鮮ちょうせん北緯ほくい38せんさかい南側みなみがわ南朝鮮みなみちょうせん)をアメリカぐんが、北側きたがわ北朝鮮きたちょうせん)をソ連それんぐんがそれぞれ占領せんりょうするあん8がつ14にちつた[8]日本にっぽんポツダム宣言せんげん受諾じゅだく玉音ぎょくおん放送ほうそう直後ちょくご了承りょうしょうた。それをけ、ソ連それんぐん8がつ24にち平壌ぴょんやんまで進駐しんちゅう一方いっぽうのアメリカぐん9月8にち仁川にがわ上陸じょうりくし、それぞれ軍政ぐんせい開始かいしした[9]。この時点じてんでは、北緯ほくい38せんでの朝鮮ちょうせん分断ぶんだんはあくまで占領せんりょう統治とうちうえ都合つごうでしかなく、連合れんごうこく朝鮮ちょうせん分断ぶんだん国家こっかする意図いとかった。

さんこく外相がいしょう会議かいぎ誤報ごほうどう
編集へんしゅう

軍政ぐんせい開始かいしの1945ねん12月にアメリカ、イギリス、ソ連それんモスクワさんこく外相がいしょう会議かいぎ開催かいさいし、朝鮮ちょうせんにて最長さいちょう5年間ねんかん信託しんたく統治とうち実施じっしすることと、朝鮮ちょうせん単一たんいつ自由じゆう国家こっか成立せいりつさせるためにアメリカとソ連それん共同きょうどう委員いいんかい設置せっちすることが会議かいぎ協定きょうてい発表はっぴょうされた。だが、この協定きょうてい朝鮮半島ちょうせんはんとう不正確ふせいかくかたちつたわると(該当がいとう記事きじ参照さんしょう)、分断ぶんだん南北なんぼくりょう朝鮮ちょうせん信託しんたく統治とうち賛成さんせいさんたく)したきむ日成いるそんりょうんとおるひとし左派さは信託しんたく統治とうち反対はんたい朝鮮ちょうせんばんはんたく)した承晩しょうばんきむきゅうひとし右派うはがそれぞれ南北なんぼくこうそうひろ[10]。その分断ぶんだんいち要因よういんとなった。

さんこく外相がいしょう会議かいぎけ、べい両国りょうこく1946ねん3がつから1947ねん10月にかけてべい共同きょうどう委員いいんかい朝鮮ちょうせんばん開催かいさいした。だが、べい共同きょうどう委員いいんかいはこの収拾しゅうしゅう失敗しっぱいし、1948ねん1がつ派遣はけんされた国際こくさい連合れんごう現地げんち調査ちょうさだん入北にゅうほくソ連それん軍政ぐんせい拒否きょひしたため、国連こくれんは1948ねん2がつ南朝鮮みなみちょうせんのみでのそう選挙せんきょ実施じっし決定けっていした。この決定けっていは、しん政府せいふ統治とうち南朝鮮みなみちょうせんのみに限定げんていされ、朝鮮ちょうせん南北なんぼく分断ぶんだん固定こていされることを意味いみしていたため、北朝鮮きたちょうせん北朝鮮きたちょうせん人民じんみん委員いいんかいだけでなく、はんたくなか南北なんぼく統一とういつ政府せいふ樹立じゅりつにこだわるかねきゅうきむ奎植一部いちぶ民族みんぞく主義しゅぎしゃからも反対はんたい意見いけんた。しかし、5がつ10日とおか単独たんどくそう選挙せんきょ実施じっしされ、選挙せんきょえらばれた国会こっかい大韓民国だいかんみんこく憲法けんぽう制定せいてい承晩しょうばん大統領だいとうりょう選出せんしゅつおこない、1948ねん8がつ15にち南朝鮮みなみちょうせん大韓民国だいかんみんこくとして独立どくりつした[11]他方たほう北朝鮮きたちょうせんでは7がつ10日とおか朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく憲法けんぽう制定せいてい、1948ねん9月9にち朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく建国けんこくされ、初代しょだい首相しゅしょうにはきむ日成いるそん就任しゅうにんした[12]

朝鮮ちょうせんじんうごき・思想しそう対立たいりつ主導しゅどうけん対立たいりつ

編集へんしゅう

日本にっぽん降伏ごうぶくによる朝鮮ちょうせん解放かいほう中華民国ちゅうかみんこくソ連それん、アメリカなどから左翼さよく共産きょうさん主義しゅぎしゃであるきむ日成いるそんほおいちほうとらやまたけちん右翼うよく民族みんぞく主義しゅぎしゃである承晩しょうばんきむきゅう中道ちゅうどうかね奎植ら朝鮮半島ちょうせんはんとうがい抗日こうにち運動うんどうおこなっていた朝鮮ちょうせん独立どくりつ運動うんどう朝鮮ちょうせん帰還きかんし、日本にっぽん統治とうち時代じだい朝鮮ちょうせんにて民族みんぞく運動うんどうになっていたぼくけんひさしりょうんとおる曺晩うえらと連合れんごう国軍こくぐん軍政ぐんせい南北朝鮮なんぼくちょうせんきたるべき朝鮮ちょうせん独立どくりつけての主導しゅどうけんあらそいをひろげた[13]

日本にっぽん降伏ごうぶく樹立じゅりつされた朝鮮ちょうせん建国けんこく準備じゅんび委員いいんかいけんじゅん)は、ソ連それん軍政ぐんせい北部ほくぶではソビエト民政みんせいちょう間接かんせつ統治とうち利用りようされ、アメリカ軍政ぐんせい南部なんぶでは解体かいたいされてざい朝鮮ちょうせんアメリカ陸軍りくぐん司令しれいぐん政庁せいちょうによる直接ちょくせつ統治とうちかれた[14]

かくして朝鮮半島ちょうせんはんとうには朝鮮ちょうせん民族みんぞく分断ぶんだん国家こっか南北なんぼく併存へいそんし、朝鮮ちょうせん全土ぜんど統一とういつした状態じょうたいでの独立どくりつらなかったのである[12]。1948ねん朝鮮ちょうせん分断ぶんだん北朝鮮きたちょうせんきむ日成いるそん首相しゅしょうは「国土こくどかんせい」を、韓国かんこく承晩しょうばん大統領だいとうりょうは「北進ほくしん統一とういつ」を人々ひとびとうったえ、政治せいじ体制たいせいことなる南北なんぼくりょう政府せいふたがいにたがいを併呑へいどんすることによる朝鮮ちょうせん統一とういつ主張しゅちょうした[12]

北進ほくしん統一とういつたい国土こくどかんせい

編集へんしゅう

1948ねん9がつ9にち北朝鮮きたちょうせん建国けんこくよく10日とおかきむ日成いるそん首相しゅしょう最高さいこう人民じんみん会議かいぎ演説えんぜつにて、「国土こくどかんせい」をうったえ、その朝鮮ちょうせん統一とういつため朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく政治せいじ基盤きばん軍事ぐんじりょく増強ぞうきょうした[12]

承晩しょうばん大統領だいとうりょうは1948ねん8がつ15にち建国けんこく武力ぶりょく行使こうしをも視野しやれた「北進ほくしん統一とういつ」をうったえたが、アメリカは承晩しょうばん政権せいけんが「北進ほくしん統一とういつ」を実行じっこうすることを危惧きぐし、兵器へいきあたえなかったため、政治せいじてき混乱こんらんする韓国かんこくでは「北進ほくしん統一とういつ」はスローガン以上いじょうのものとはならなかった[12]

朝鮮ちょうせん戦争せんそう

編集へんしゅう

分断ぶんだん固定こてい

編集へんしゅう

1950ねん6月25にち北朝鮮きたちょうせん朝鮮ちょうせん統一とういつ目指めざして朝鮮ちょうせん戦争せんそうこし、6月28にち朝鮮人民軍ちょうせんじんみんぐん韓国かんこく首都しゅとソウルを攻略こうりゃく、9がつまで怒涛どとう南進なんしんつづけ、承晩しょうばん政権せいけん臨時りんじ首都しゅと釜山ぷさんにまでめたものの[15]国連こくれんぐん司令しれいかんダグラス・マッカーサー元帥げんすい仁川にがわ上陸じょうりく作戦さくせん実施じっしし、ソウル奪還だっかんすると形勢けいせい逆転ぎゃくてんし、承晩しょうばん9月29にちにソウルに遷都せんとした[16]。そのソ連それん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく中心ちゅうしんとする共産きょうさんけん介入かいにゅう危惧きぐする立場たちばから朝鮮ちょうせん戦争せんそう開戦かいせんまえ南北なんぼく国境こっきょうだった38せん北上ほくじょうするか38せん停止ていししたのち政治せいじ決着けっちゃくはかるかが国連こくれんぐんやアメリカ国内こくない問題もんだいになったものの[17]承晩しょうばん大統領だいとうりょうは「北進ほくしん統一とういつ」をたすためにひのといちけん参謀さんぼう総長そうちょう韓国かんこくぐんの38せん突破とっぱめい[18]、この韓国かんこくによる独断どくだん突破とっぱをマッカーサーが追認ついにんするかたちで38せん北上ほくじょうすすんだ[19]。アメリカぐん韓国かんこくぐん中心ちゅうしんとする国連こくれんぐん10月11にち元山もとやま攻略こうりゃく10月19にち平壌ぴょんやん入城にゅうじょう10月26にちはやし富澤とみざわ大佐たいさ指揮しき韓国かんこく陸軍りくぐんだい6師団しだんだい7連隊れんたいすわえやま攻略こうりゃくし、ついちゅうちょう国境こっきょうかもみどりこうにまで到達とうたつした[20]

 
1953ねん7がつ27にち朝鮮ちょうせん戦争せんそう休戦きゅうせん協定きょうてい署名しょめいする国連こくれんぐんちゅうちょう連合れんごうぐん代表だいひょう北朝鮮きたちょうせんがわみなみ大将たいしょう署名しょめいしたものの、「北進ほくしん統一とういつ」を固持こじした承晩しょうばん意向いこうのため、韓国かんこく要人ようじんはこの休戦きゅうせん協定きょうてい署名しょめいしなかった。

しかしながら、韓国かんこくぐんとアメリカぐんによる朝鮮半島ちょうせんはんとうでの激戦げきせんは、中国ちゅうごく国民党こくみんとう蔣介せき総統そうとうひきいる中華民国ちゅうかみんこく政府せいふのがれた台湾たいわん占領せんりょう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく毛沢東もうたくとう共産党きょうさんとう主席しゅせきしゅう恩来おんらい政務せいむいん総理そうり延期えんきさせ、中国ちゅうごくは1950ねん10月15にち朝鮮半島ちょうせんはんとうへの直接ちょくせつ介入かいにゅう決断けつだんした[21]彭徳ふところ司令しれいかんひきいる26まんにん人民じんみん解放かいほうぐんは「志願しがんへい」として10月19にち朝鮮ちょうせんりし、10月25にち国連こくれんぐん衝突しょうとつした[22]。「まもるこくこう援朝」の標語ひょうごした派遣はけんされたこの中国ちゅうごく人民じんみん志願しがんぐんこう援朝義勇軍ぎゆうぐん)は人海じんかい戦術せんじゅつによって国連こくれんぐん撃破げきはし、12月5にち国連こくれんぐん平壌ぴょんやんから撤退てったいちゅうちょう連合れんごうぐんさら朝鮮半島ちょうせんはんとう南下なんかつづけ38せんえたのちよく1951ねん1がつ4にちにソウルをさい攻略こうりゃくした[23]

その補給ほきゅうせんびきり息切いきぎれしたなかあさ連合れんごうぐんたい反撃はんげき敢行かんこうした国連こくれんぐんは1951ねん3月14にちにソウルをふたた奪回だっかいしたものの、戦況せんきょう38せん付近ふきん韓国かんこく参加さんかする国連こくれんぐん北朝鮮きたちょうせん参加さんかするなかあさ連合れんごうぐん膠着こうちゃく状態じょうたいとなった。

1953ねん3月5にちソ連それんヨシフ・スターリン首相しゅしょう契機けいき休戦きゅうせんへのうごきがすすみ、承晩しょうばん休戦きゅうせんへの署名しょめいこばんだために韓国かんこくぐん代表だいひょうちぇいさおしん少将しょうしょう署名しょめいしないまま、1953ねん7がつ27にちちゅうちょう連合れんごうぐん代表だいひょうみなみ国連こくれんぐん主席しゅせき代表だいひょう国連こくれんぐん最高さいこう司令しれいかんウィリアム・ハリソン・Jr英語えいごばんによって朝鮮ちょうせん戦争せんそう休戦きゅうせん協定きょうてい署名しょめいされた[24]。1953ねん7がつ27にち朝鮮ちょうせん戦争せんそう休戦きゅうせんによって朝鮮ちょうせん軍事ぐんじ境界きょうかいせん38せん)による分断ぶんだん対立たいりつ固定こていされることとなった[25]

冷戦れいせん時代じだい

編集へんしゅう

朝鮮ちょうせん正統せいとう国家こっか」としての立場たちばめぐ敵対てきたいてき関係かんけいつづき、上記じょうきのように朝鮮ちょうせん戦争せんそう朝鮮半島ちょうせんはんとう分断ぶんだん固定こてい決定的けっていてきとなった。北朝鮮きたちょうせんたいみなみ工作こうさくとして様々さまざまなテロをおこない、韓国かんこくでは軍事ぐんじ政権せいけんによりはん体制たいせい共産きょうさん主義しゅぎしゃとして逮捕たいほされた。また、国際こくさい連合れんごうにおける統一とういつ問題もんだいあつか部局ぶきょくとして国際こくさい連合れんごう朝鮮ちょうせん統一とういつ復興ふっこう委員いいんかい一時いちじ時期じきかれていた。

連邦れんぽうせい統一とういつあん(1960ねん8がつ14にち

編集へんしゅう

1960ねん4がつよんがつ革命かくめいによって韓国かんこく承晩しょうばん大統領だいとうりょう退陣たいじんしたのち北朝鮮きたちょうせんきむ日成いるそん首相しゅしょうは1960ねん8がつ14にちはつ朝鮮半島ちょうせんはんとう平和へいわ統一とういつあんとして「連邦れんぽうせい統一とういつあん」を提案ていあん南北なんぼくりょう政府せいふ代表だいひょうによる「最高さいこう民族みんぞく委員いいんかい」の樹立じゅりつ提唱ていしょうしたものの、よく1961ねん5・16軍事ぐんじクーデターぼく正煕せいき少将しょうしょう実権じっけんにぎったため、この提案ていあんながれてしまった[26]

南北なんぼく共同きょうどう声明せいめい(1972ねん7がつ4にち

編集へんしゅう

高麗こうらい民主みんしゅ連邦れんぽう共和きょうわこく(1980ねん10がつ10日とおか

編集へんしゅう

1979ねんぼく正煕せいき暗殺あんさつ事件じけん韓国かんこくでは「ソウルのはる」とばれる民主みんしゅムードがたかまったものの、よく1980ねん5・17非常ひじょう戒厳かいげんれい拡大かくだい措置そち軍人ぐんじん出身しゅっしんちょん斗煥どふぁん実権じっけん掌握しょうあくしたため、どう1980ねん10がつ10日とおかきむ日成いるそん主席しゅせき政治せいじ体制たいせいちが南北なんぼくりょう政府せいふ武力ぶりょくたよらない統一とういつ方法ほうほうとして、連邦れんぽうせいによる統一とういつ目指めざ高麗こうらい民主みんしゅ連邦れんぽう共和きょうわこく提唱ていしょうしたが、韓国かんこくれなかった[27]

冷戦れいせん終結しゅうけつから2018ねんまで

編集へんしゅう
 
後代こうだい統一とういつされた祖国そこくおくろう!」
軍事ぐんじ境界きょうかいせん北朝鮮きたちょうせんがわつくられたモニュメント(2010ねん

冷戦れいせん終結しゅうけつ初期しょき

編集へんしゅう

1987ねん6がつ29にち韓国かんこく民主みんしゅ宣言せんげん

1991ねん12月13にち南北なんぼく基本きほん合意ごういしょ策定さくてい

1994ねんきむ日成いるそん死去しきょ北朝鮮きたちょうせんきむ正日じょんいる体制たいせい移行いこうした。冷戦れいせん終結しゅうけつ東側ひがしがわ諸国しょこく援助えんじょ途絶とだえたこともあり、北朝鮮きたちょうせん苦難くなん行軍こうぐん突入とつにゅうする。

太陽たいよう政策せいさく(1998ねん2がつ25にち - 2008ねん2がつ24にち

編集へんしゅう

冷戦れいせん長期間ちょうきかんわた緊張きんちょう状態じょうたいつづいていたが、韓国かんこくきむ大中でじゅん政権せいけんたいきた宥和ゆうわ政策せいさく、いわゆる太陽たいよう政策せいさく推進すいしんにより、はつ南北なんぼく首脳しゅのう会談かいだん実現じつげんするなど緊張きんちょう状態じょうたいはやや緩和かんわした。1998ねん2がつ25にちから2008ねん2がつ24にちまでのあいだきむ大中でじゅん政権せいけん盧武鉉のむひょん政権せいけんによって実施じっしされたたいきた宥和ゆうわ政策せいさくである「太陽たいよう政策せいさく」が実施じっしされ、2000ねん6がつ開催かいさいされた南北なんぼく首脳しゅのう会談かいだんによってきむ大中でじゅん大統領だいとうりょうきむ正日じょんいるそう書記しょき国防こくぼう委員いいんちょうあいだ6.15南北なんぼく共同きょうどう宣言せんげん締結ていけつされた。以後いご江原えばらみち金剛山こんごうざん金剛山こんごうさん観光かんこう地区ちくが、開城かいじょう郊外こうがい開城かいじょう工業こうぎょう地区ちく設置せっちされ、離散りさん家族かぞく再会さいかい事業じぎょう実施じっしされるなど、南北なんぼくあいだ交流こうりゅうすすめられたが、統一とういつ見通みとおしがまったっていないばかりか、北朝鮮きたちょうせん人権じんけん問題もんだい北朝鮮きたちょうせんかく開発かいはつ問題もんだい韓国かんこくじん拉致らち問題もんだいなどど未解決みかいけつ問題もんだい山積さんせきしていた。

太陽たいよう政策せいさく支持しじしゃは、べいかんによる北朝鮮きたちょうせんへの制裁せいさい脅迫きょうはくが、統一とういつ展望てんぼう改善かいぜんするどころか悪影響あくえいきょうあたえたと主張しゅちょうしている。太陽たいよう政策せいさく批判ひはんしゃは、北朝鮮きたちょうせんとの対話たいわ貿易ぼうえきが、平和へいわてき朝鮮ちょうせん統一とういつ展望てんぼう改善かいぜんすることに寄与きよしていないと主張しゅちょうし、太陽たいよう政策せいさくは、民主みんしゅてき全体ぜんたい主義しゅぎてき北朝鮮きたちょうせん政府せいふ体制たいせい助長じょちょうしていると主張しゅちょうしている。

2007ねん12月に太陽たいよう政策せいさく見直みなお李明博イミョンバク大統領だいとうりょう就任しゅうにんすると北朝鮮きたちょうせん敵対てきたい路線ろせんてんじ、2010ねん3がつてんやす沈没ちんぼつ事件じけん、2010ねん11月に延坪のべつぼとう砲撃ほうげき事件じけん発生はっせいするなど、交渉こうしょう自体じたい事実じじつじょう不可能ふかのう状況じょうきょうおちいった。

2011ねん12月にきむ正日じょんいる死去しきょし、きむただしおんがそのいだ。2015ねん1がつ1にち北朝鮮きたちょうせんきむただしおんは、南北なんぼく対話たいわのぞ主旨しゅし発言はつげんおこなった。

かく実験じっけんじょう廃棄はいき宣言せんげん板門店はんもんてん宣言せんげん(2018ねん4がつ

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北朝鮮きたちょうせん朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとう中央ちゅうおう委員いいんかい総会そうかいひらき、かく実験じっけん大陸たいりくあいだ弾道だんどうミサイル(ICBM)の発射はっしゃ実験じっけん中止ちゅうしし、北東ほくとうにあるゆたかけいさとかく実験じっけんじょう廃棄はいきすると決定けっていした。2018ねん4がつ20日はつか南北なんぼく首脳しゅのう会談かいだんべいちょう首脳しゅのう会談かいだんまえに、中央ちゅうおう総会そうかいきむただしおんとう委員いいんちょう出席しゅっせきしたで「経済けいざい建設けんせつかく戦力せんりょく建設けんせつ並進へいしん路線ろせん偉大いだい勝利しょうり宣言せんげんすることについて」とだいした決定けっていしょ満場一致まんじょういっち採択さいたくした。

2018ねん4がつ27にち2018ねん南北なんぼく首脳しゅのう会談かいだんそう書記しょき国務こくむ委員いいんちょうきむただしおん韓国かんこく大統領だいとうりょうぶんざいとら会談かいだん板門店はんもんてん宣言せんげん発表はっぴょう。この時点じてんでは融和ゆうわムードがたかまっていた。

北朝鮮きたちょうせんきむただしおんによる韓国かんこく敵視てきし政策せいさくへの移行いこう

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きむただしおん方針ほうしん転換てんかん(2019ねん2がつ以降いこう

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しかし、きむただしおん2019ねん2がつべいちょう首脳しゅのう会談かいだん決裂けつれつしたのちから、韓国かんこくがわとの関係かんけい断絶だんぜつすすめた。同年どうねん10がつに「金剛山こんごうざん南側みなみがわ施設しせつをすべてなくせ」と指示しじし、翌年よくねん6がつ開城かいじょう工業こうぎょう団地だんちうち南北なんぼく共同きょうどう連絡れんらく事務所じむしょ爆破ばくはした。2020ねん12月にかんりゅうなど外部がいぶ文化ぶんか自国じこくへの流入りゅうにゅう阻止そしのために「反動はんどう思想しそう文化ぶんか排撃はいげきほう」を制定せいていした。2023ねん4がつ南北なんぼく通信つうしん連絡れんらくせん最終さいしゅう切断せつだんした[1]

北朝鮮きたちょうせんは2023ねん7がつ10にち以降いこう、それまで「南朝鮮みなみちょうせん」と呼称こしょうしていた韓国かんこく大韓民国だいかんみんこくぶようになり、韓国かんこく統一とういつ対象たいしょうではないべつ国家こっかとし、「わが民族みんぞく」という表現ひょうげん統一とういつ政策せいさく公式こうしきから削除さくじょした。専門せんもんらによると、北朝鮮きたちょうせん南北なんぼく統一とういつ前提ぜんていする方針ほうしん転換てんかんしたと推測すいそくされている[3]同年どうねんまつにはきむただしおん指示しじにより、ちぇよしひめ北朝鮮きたちょうせん外相がいしょう主導しゅどう統一とういつ戦線せんせんなどたいみなみ工作こうさく機関きかん整理せいり手続てつづきがすすめられ[1]、2024ねん1がつ11にち以降いこうは「わが民族みんぞく同士どうし」や「朝鮮ちょうせん今日きょうとうたいみなみ工作こうさく機関きかん運営うんえいする韓国かんこくけネットメディアが一斉いっせいにアクセス不可能ふかのうとなっている[28]。また、2024ねん1がつ5にち朝鮮人民軍ちょうせんじんみんぐん北方ほっぽう限界げんかいせん(NLL)周辺しゅうへん海域かいいき砲撃ほうげきおこなったが、それをつたえる朝鮮中央通信ちょうせんちゅうおうつうしん記事きじなか朝鮮人民軍ちょうせんじんみんぐんそう参謀さんぼうは「今後こんごこれ以上いじょう韓国かんこくとはおな民族みんぞくではないと」宣言せんげんした[4]

2024ねん1がつ15にち最高さいこう人民じんみん会議かいぎきむただしおんは「北朝鮮きたちょうせん憲法けんぽうにある「北半きたはん」「自主じしゅ平和へいわ統一とういつ民族みんぞくだい団結だんけつ」といった南北なんぼく統一とういつ前提ぜんていとした記述きじゅつ削除さくじょし、今後こんご朝鮮半島ちょうせんはんとう戦争せんそうこったさいには、「不変ふへんしゅてき」である「大韓民国だいかんみんこく」を完全かんぜん占領せんりょう平定へいていおさむふくするとした、「領土りょうどかんせい」という赤化せっか統一とういつ路線ろせん憲法けんぽう規定きていするとの認識にんしき明確めいかくしめした[5]。また、きむただしおんは「さん千里せんり錦繍きんしゅう江山えやま」「8せんまん同胞どうほう」のような「きたみなみ同族どうぞくにまどわす残滓ざんしてき単語たんご使用しようしない」とし、「大韓民国だいかんみんこく徹頭徹尾てっとうてつびだい1の敵対てきたいこく不変ふへんしゅてき確固かっこなすように教育きょういく強化きょうかするということを当該とうがい条文じょうぶん明記めいきするのがただしい」と強調きょうちょうした[1]。そして、祖国そこく平和へいわ統一とういつ委員いいんかい民族みんぞく経済けいざい協力きょうりょくきょく金剛山こんごうさん国際こくさい観光かんこうきょくなど「たいみなみ機関きかん」の廃止はいしめた。さらには、今回こんかい最高さいこう人民じんみん会議かいぎ憲法けんぽうからの削除さくじょ指示しじした「平和へいわ統一とういつ民族みんぞくだい団結だんけつ」という祖国そこく統一とういつ3だい原則げんそくぜん民族みんぞくだい団結だんけつ10大綱たいこうりょう高麗こうらい民主みんしゅ連邦れんぽうせい統一とういつあんなどきむ日成いるそんの「業績ぎょうせき」を宣伝せんでんするシンボルである「祖国そこく統一とういつ3だい憲章けんしょう記念きねんとう」の撤去てっきょ指示しじした[1]きむ委員いいんちょうは、開城かいじょうからしんしゅうまでつづきょうよしせん北側きたがわ区間くかんたいらよしせんさい南部なんぶ)を回復かいふく不可ふかなレベルにまで物理ぶつりてき完全かんぜん破壊はかいするなど、韓国かんこくとの境界きょうかい地域ちいき軍事ぐんじ境界きょうかいせん)のすべての連携れんけい徹底的てっていてき分離ぶんりさせることも表明ひょうめいした[1]

スポーツ大会たいかいにおいて

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1991ねん日本にっぽん千葉ちばけんおこなわれた卓球たっきゅう世界せかい選手権せんしゅけん同年どうねんポルトガルおこなわれたFIFA U-20ワールドユース大会たいかいでは、両国りょうこく統一とういつ選手せんしゅだんとして出場しゅつじょうしている(U-20サッカーコリア代表だいひょう参照さんしょう)。

2000ねんのシドニーオリンピック2004ねんのアテネオリンピック2006ねん冬季とうきトリノオリンピック2002ねんアジア競技きょうぎ大会たいかい2003ねんアジア冬季とうき競技きょうぎ大会たいかい2006ねんアジア競技きょうぎ大会たいかい開会かいかいしきでは、両国りょうこく選手せんしゅだん統一とういつ行進こうしん競技きょうぎ自体じたいべつくにとして参加さんか)をおこなうなど、スポーツの分野ぶんやでは統一とういつ機運きうん比較的ひかくてきたかく、2008ねんおこなわれた北京ぺきんオリンピックでは、しん統一とういつされた選手せんしゅだんとして出場しゅつじょうさせる計画けいかくもあったが、実現じつげんせず、行進こうしん別々べつべつおこなわれた。

2018ねん韓国かんこくおこなわれたたいらあきら冬季とうきオリンピックには北朝鮮きたちょうせん参加さんかとく女子じょしアイスホッケーでは南北なんぼく合同ごうどうチーム結成けっせいされた。

統一とういつしたさいしょ問題もんだい

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国民こくみん意識いしき

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朝鮮半島ちょうせんはんとう分断ぶんだんには様々さまざま要因よういんがあるが、1948ねん8がつ13にち承晩しょうばんによる大韓民国だいかんみんこく以下いか韓国かんこく)の建国けんこく宣言せんげんと、それにともな同年どうねん9がつ9にちきむ日成いるそんによる朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく以下いか北朝鮮きたちょうせん)の建国けんこく宣言せんげんが、そのなかでももっとおおきな要因よういんかんがえられている。しかし、韓国かんこくの『中央日報ちゅうおうにっぽう』が2005ねん9月につたえた報道ほうどうによると、「朝鮮半島ちょうせんはんとう分断ぶんだん責任せきにんはどこのくににあるか」というアンケートにおいて、アメリカ53%、日本にっぽん15.8%、ロシアソ連それん)13.7%、中国ちゅうごく8.8%という結果けっかになっている[29]。このように、統一とういつようする負担ふたんをアメリカ・日本にっぽん・ロシア・中国ちゅうごくもとめる意見いけんすくなくない。北朝鮮きたちょうせん世界せかいてき孤立こりつじょうきょう南北なんぼく経済けいざい格差かくさ韓国かんこく資本しほん主義しゅぎ北朝鮮きたちょうせん共産きょうさん主義しゅぎまったせい反対はんたいにあることから、現実げんじつてき統一とういつ無理むりなのではないかとするこえもある。

また、韓国かんこくでは一部いちぶひとが「統一とういつしん時代ときよから朝鮮ちょうせんかん民族みんぞく言語げんご伝統でんとう歴史れきし共有きょうゆうしてきたが、朝鮮ちょうせん戦争せんそう社会しゃかい体制たいせいちがいから南北なんぼく人間にんげんはもうすでべつ民族みんぞく」とするかんがえもおこってきている。韓国かんこくニューライトしん右派うは)などは、統一とういつ問題もんだいには冷淡れいたんであり、北朝鮮きたちょうせん崩壊ほうかいしたら、周辺しゅうへん諸国しょこく共同きょうどう管理かんりすればよいと主張しゅちょうする。

韓国かんこく大学だいがく修学しゅうがく能力のうりょく試験しけん日本にっぽん大学だいがく入学にゅうがく共通きょうつうテスト相当そうとう)をえた高校生こうこうせい対象たいしょうに、統一とういつ問題もんだい安全あんぜん保障ほしょう問題もんだいについて講義こうぎ講演こうえんおこなった脱北者だっぽくしゃによると、受講じゅこうせい講義こうぎちゅう私語しご大声おおごえわらう、さわぐ)やスマホいじりがおおく、ときには大声おおごえ通話つうわすることもあるなど学級がっきゅう崩壊ほうかい授業じゅぎょう崩壊ほうかいひどく、教師きょうしまった注意ちゅういしないほか、なかには「北朝鮮きたちょうせんわるてんをあまり強調きょうちょうしないでほしい」ともとめる教師きょうしもいるという[30]。そして、生徒せいとに「わたしはこの韓国かんこくきらいです。北朝鮮きたちょうせんくことはできませんか?」「統一とういつ実現じつげんすれば、北朝鮮きたちょうせん核兵器かくへいき韓国かんこくのものになるのだから、なぜこれをなくそうとするのか」などと質問しつもんされたことがあるといい、「韓国かんこく学校がっこうでは北朝鮮きたちょうせんについて一体いったいどのようにおしえているのか。韓国かんこく高校生こうこうせい北朝鮮きたちょうせん実情じつじょうについてあまりにも無知むちで、また安全あんぜん保障ほしょうという概念がいねんさえわせていない」と韓国かんこく教育きょういく現場げんば批判ひはんしている[31]

北朝鮮きたちょうせんについては、言論げんろん自由じゆうがない情報じょうほう統制とうせい国家こっかゆえに、国民こくみん統一とういつかんする意識いしきがどの程度ていどなのかはさだかではない。

もとじん大学だいがく教授きょうじゅのシェファード・アイバーソンは、朝鮮半島ちょうせんはんとう対立たいりつ外交がいこうてき解決かいけつするために、北朝鮮きたちょうせん内部ないぶでの体制たいせい転換てんかん実施じっしするためとして、北朝鮮きたちょうせん上層じょうそうのエリートたちに賄賂わいろおく目的もくてきで、1750おくドルの統一とういつ投資とうしファンドを創設そうせつすることを提案ていあんした。この提案ていあんでは、平壌ぴょんやん権力けんりょくるうエリート幹部かんぶ家族かぞく総額そうがく233おくドルを上納じょうのうし、上位じょうい10家族かぞくにはそれぞれ3000まんドル、上位じょうい1000家族かぞくには500まんドルを上納じょうのうすると指摘してきしている。また、1218おくドルは、統一とういつ生活せいかつふたたはじめるために、くに一般いっぱん住民じゅうみんくことになり、基金ききん収益しゅうえきは、民間みんかん団体だんたいやビジネスの大物おおものから調達ちょうたつされることが想定そうていされている[32][33][34]

統一とういつようする費用ひよう

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統一とういつようする費用ひようについては、アメリカの『ウォール・ストリート・ジャーナル』がほうじたところ、世界銀行せかいぎんこうなどの試算しさんによると、やく2ちょうドル~3ちょうドル(日本円にほんえんにしてやく204ちょうえん~306ちょうえん)ともわれており、これは韓国かんこくGDPやく1.5ばいにも相当そうとうする。現在げんざい韓国かんこく北朝鮮きたちょうせんとの経済けいざい格差かくさはおおよそ30:1と換算かんさんされており、統一とういつ実現じつげんした場合ばあいには国力こくりょくまさ韓国かんこくがそのだい部分ぶぶん負担ふたんし、北朝鮮きたちょうせんへのインフラ整備せいび食糧しょくりょう支援しえんはじめとした総合そうごうてき援助えんじょ長期ちょうきてきおこな必要ひつようがあるとされる。そのような巨大きょだい負担ふたん韓国かんこくになうことが出来できるかというてんについては、おおいに疑問ぎもんされており、負担ふたん一部いちぶ国際こくさい社会しゃかいからの援助えんじょまかなうことができたとしても、韓国かんこくがその負担ふたんれず、朝鮮半島ちょうせんはんとう経済けいざい崩壊ほうかいしてしまうのではないかとも危惧きぐされている。

GDPランキング177北朝鮮きたちょうせんと10韓国かんこくとは経済けいざいりょくがありすぎるため、韓国かんこく国民こくみん反対はんたいしている。

なお、過去かこ日本にっぽん朝鮮ちょうせん半島はんとう併合へいごうしたとき同様どうようで、日本にっぽん巨額きょがく税金ぜいきん朝鮮半島ちょうせんはんとうインフラストラクチュア整備せいびなどに投入とうにゅうつづけ、半島はんとう経営けいえいについての収支しゅうしつね赤字あかじであったとされている。また、1990ねん東西とうざいドイツ統一とういつ場合ばあいも、経済けいざい格差かくさ西にしドイツ3:ひがしドイツ1であったとわれており、統一とういつドイツ連邦れんぽう共和きょうわこくける長期ちょうきわたきょうや、現在げんざい存在そんざいするきゅうひがしドイツ領域りょういきとの経済けいざい格差かくさによる問題もんだいなどがおおきな国内こくない問題もんだいとなった。

しかし、一方いっぽうで、1989ねんベルリンのかべ崩壊ほうかいによって、人民じんみん民主みんしゅ主義しゅぎ体制たいせいであったひがしヨーロッパしょ社会しゃかい主義しゅぎこく自由じゆう民主みんしゅ主義しゅぎすすみ、それが1991ねん12月のソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいむすびつき、ヨーロッパおよび世界せかいに「平和へいわ配当はいとう」をもたらしたことも事実じじつである。北朝鮮きたちょうせん民主みんしゅ韓国かんこくによる統一とういつが、この地域ちいき軍事ぐんじ緊張きんちょう低下ていかさせるのであれば、それは周辺しゅうへん諸国しょこくにとっても経済けいざいてきにも安全あんぜん保障ほしょうてきにもプラスとなる。このように、長期ちょうきてきにはひがしアジアの民主みんしゅ進行しんこうはこの地域ちいき恩恵おんけいをもたらすことは否定ひていできない。その意味いみで、慎重しんちょうかつ着実ちゃくじつ統一とういつ前進ぜんしんもとめるこえ根強ねづよい。

統一とういつ国家こっか体制たいせい

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韓国かんこく1987ねんの「民主みんしゅ宣言せんげん以後いご資本しほん主義しゅぎ体制たいせい自由じゆう民主みんしゅ主義しゅぎ国家こっかであり、北朝鮮きたちょうせん共産きょうさん主義しゅぎマルクス=レーニン主義しゅぎ)から「主体しゅたい思想しそう」に移行いこう共産きょうさん主義しゅぎ王朝おうちょう混在こんざいしたような独裁どくさい国家こっかであるが、統一とういつした場合ばあい国家こっか体制たいせいについてはまった不透明ふとうめい状態じょうたいとなっている。このようなまったせい反対はんたいともえる体制たいせい分断ぶんだん国家こっか同士どうし統一とういつしたれいとしては、みなみきたベトナム統一とういつ1975ねん - 1976ねん)、みなみきたイエメン統一とういつ1990ねん5月22にち)、東西とうざいドイツのさい統一とういつ1990ねん10月3にち)があげられる。共産きょうさん主義しゅぎ国家こっか吸収きゅうしゅうされたベトナムでは華僑かきょう地主じぬしそう資本しほんなどをふく大量たいりょう難民なんみん発生はっせいし(ベトナム難民なんみん)、資本しほん主義しゅぎ国家こっか吸収きゅうしゅうされたドイツでは難民なんみん発生はっせいしなかったものの統一とういつ社会しゃかいインフラストラクチュアの整備せいびなどで巨額きょがくのコストと失業しつぎょうなどが発生はっせいし、きたイエメン主導しゅどう統一とういつ達成たっせいされたイエメンではきゅうみなみイエメン勢力せいりょく分離ぶんり独立どくりつもとめ、1994ねんイエメン内戦ないせん勃発ぼっぱつしている。

朝鮮半島ちょうせんはんとう周辺しゅうへん諸国しょこくおよび世界せかいにも混乱こんらんをもたらす大量たいりょう難民なんみんさないために現実げんじつてきかんがえられるのは韓国かんこくによる北朝鮮きたちょうせんゆるやかな併合へいごうおもわれるが、その過程かていにおいて、北朝鮮きたちょうせん国民こくみん資本しほん主義しゅぎ民主みんしゅ主義しゅぎ理解りかいれることができるか、またそのため教育きょういく努力どりょく韓国かんこくしうるかについても相当そうとう困難こんなん予想よそうされ、実現じつげんにはかなりの長期間ちょうきかん必要ひつようであるとかんがえられる。

また、資本しほん主義しゅぎ体制たいせい香港ほんこんおよマカオ社会しゃかい主義しゅぎ市場いちば経済けいざい体制たいせい中国ちゅうごく返還へんかんされたさいにはいちこく制度せいど採用さいようされたが、おなじように朝鮮半島ちょうせんはんとういちこく制度せいどのような形式けいしきをとる方向ほうこうせいもあり、北朝鮮きたちょうせん連邦れんぽうせい韓国かんこくゆるやかな連合れんごうせい主張しゅちょうしている。

共通きょうつう通貨つうか

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統一とういつ共通きょうつう通貨つうかもちいられることが予想よそうされている。大韓民国だいかんみんこくウォン韓国かんこくウォン)と朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくウォン北朝鮮きたちょうせんウォン)の為替かわせレートは2018ねん6がつ時点じてんでおよそ1:8の比率ひりつである[35]。1990ねん東西とうざいドイツ統一とういつにより発行はっこうされたしんマルク比較ひかく対象たいしょうとした場合ばあい西にしドイツマルクひがしドイツマルクのレートは統一とういつ直前ちょくぜん時点じてんでおよそ1:10である[35]東西とうざいドイツは南北朝鮮なんぼくちょうせんより経済けいざい格差かくさちいさかったにもかかわらず「おおきいため、いきなり統一とういつするのはむずかしい」とわれていた[36]朝鮮ちょうせん統合とうごう通貨つうかもちいた場合ばあい統合とうごう比率ひりつ如何いかによって北朝鮮きたちょうせんウォンの貿易ぼうえき競争きょうそうりょくうしな[ちゅう 2]生産せいさんりょくちる[36]。これをけるため大幅おおはばなレートののこして統一とういつした場合ばあい北側きたがわげん北朝鮮きたちょうせん)の住民じゅうみん南側みなみがわげん韓国かんこく)になだれみ、社会しゃかい問題もんだいする懸念けねんがある[36]想定そうていされるしん通貨つうかは、韓国かんこくウォンに一本いっぽんする方法ほうほう(ドイツがた)、もしくはまったあたらしい統一とういつウォンであり、前者ぜんしゃよりも後者こうしゃ方法ほうほう朝鮮ちょうせん民族みんぞく納得なっとくするだろうとかんが[37]。しかしながら、国家こっか統一とういつなくとも通貨つうか同盟どうめい実施じっしして、それぞれ独立どくりつ国家こっか体制たいせい維持いじしたまま共通きょうつう通貨つうか使用しようすることもできる。

そのかんがえられるしょ問題もんだい

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統一とういつは、もと韓国かんこくりょう地域ちいき大量たいりょう流入りゅうにゅうするとおもわれる北朝鮮きたちょうせん地域ちいきからの住民じゅうみん移動いどうにより、治安ちあん悪化あっか都市としスラムすすむとかんがえられている。また、このような問題もんだいはしはっする差別さべつ排斥はいせき運動うんどうなども懸念けねんされる。また、現在げんざい存在そんざいする北朝鮮きたちょうせん情報じょうほう工作こうさくいん過激かげき民族みんぞく主義しゅぎしゃ統一とういつ韓国かんこく混乱こんらんさせるのではないかということ危惧きぐされる。この混乱こんらん半島はんとうないおさまらず、日本にっぽん中国ちゅうごくなどの近隣きんりん諸国しょこくへも悪影響あくえいきょうおよぼす可能かのうせい懸念けねんされる。一方いっぽうで、このまま北朝鮮きたちょうせん存続そんぞくしても、不安定ふあんてい軍事ぐんじ独裁どくさい国家こっかとして周辺しゅうへん諸国しょこく脅威きょういとなり、また、「脱北者だっぽくしゃ」とばれる難民なんみんつづけることとなる。とく陸続りくつづきの中国ちゅうごくでは、いまでも大量たいりょう脱北者だっぽくしゃ存在そんざいするとされている。したがって、一時いちじてき負担ふたんおおきくても、統一とういつによる「平和へいわ配当はいとう」が期待きたいできるという見方みかたもある。

中国ちゅうごくは、北東ほくとうアジア最大さいだい鉄鉱てっこうせき埋蔵まいぞうりょうほこ北朝鮮きたちょうせん茂山しげやま鉱山こうざんの50年間ねんかん採掘さいくつけん獲得かくとくし、またこうの50年間ねんかん使用しようけん獲得かくとくするなど北朝鮮きたちょうせん経済けいざいてき利権りけんかこんでいる。そのため、南北なんぼく統一とういつ実現じつげんすれば、中国ちゅうごく巨大きょだい北朝鮮きたちょうせん経済けいざい権益けんえき喪失そうしつしかねない。また、北朝鮮きたちょうせん崩壊ほうかいすれば、大量たいりょう難民なんみん中国ちゅうごく流入りゅうにゅうし、中国ちゅうごく社会しゃかい秩序ちつじょさえ不安定ふあんていするため、重村しげむら智計ともよし[38]いそ﨑敦ひとし[39]2人ふたり北朝鮮きたちょうせん崩壊ほうかい内戦ないせんクーデターひとし混乱こんらん状態じょうたいおちいれば中国ちゅうごく北朝鮮きたちょうせん軍事ぐんじ介入かいにゅうする可能かのうせい指摘してきしている。また、韓国かんこく主導しゅどう南北なんぼく統一とういつ実現じつげんすれば、中国ちゅうごくざい韓米かんべいぐん国境こっきょうせっすることになる。したがって中国ちゅうごくは、安全あんぜん保障ほしょう観点かんてんから北朝鮮きたちょうせん存続そんぞくのぞんでいるとかんがえられている。

また、2024ねん6がつにロシア大統領だいとうりょうウラジミール・プーチンきむただしおん会談かいだんしていることから、ロシアも北朝鮮きたちょうせん存続そんぞくのぞんでいると推測すいそくされる[40]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 韓国かんこく建国けんこく以来いらい中国ちゅうごく代表だいひょうする国家こっか」として中華民国ちゅうかみんこく国家こっか承認しょうにんしており、台湾たいわん中華民国ちゅうかみんこく政府せいふを「正統せいとう中国ちゅうごく政府せいふ」としていた。そのため、1992ねん国交こっこうむすぶまで、韓国かんこく北京ぺきん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく国家こっか承認しょうにんしていなかった。詳細しょうさいたいかん関係かんけい参照さんしょうのこと。
  2. ^ やす通貨つうか輸出ゆしゅつ有利ゆうりはたらく。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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