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博物学 - Wikipedia

博物学はくぶつがく

自然しぜんぶつについての学問がくもん

博物学はくぶつがく(はくぶつがく、Natural history, 場合ばあいによっては直訳ちょくやくてきに:自然しぜん)は、自然しぜん存在そんざいするものについて研究けんきゅうする学問がくもん

1728ねんCyclopaedia掲載けいさいされた自然しぜんについての図版ずはん

広義こうぎには自然しぜん科学かがくのすべて。狭義きょうぎには動物どうぶつ植物しょくぶつ鉱物こうぶつ岩石がんせき)など(博物学はくぶつがくにおける「さかい動物界どうぶつかい植物しょくぶつかい鉱物こうぶつかいの「3かい」である)、自然しぜんぶつについての収集しゅうしゅうおよび分類ぶんるい学問がくもん英語えいごの"Natural history" の訳語やくごとして明治めいじつくられた。そのため、ひがしアジア博物学はくぶつがく伝統でんとう存在そんざいしないが、慣例かんれいてき便宜べんぎてきに「本草学ほんぞうがく」が博物学はくぶつがく同一どういつされる[1]

自然しぜんかい存在そんざいするものを収集しゅうしゅう分類ぶんるいするこころみは太古たいこからおこなわれてきた。自然しぜんたいする知識ちしき体系たいけいした書物しょもつとしては、古代こだいギリシアではアリストテレスの『動物どうぶつ』、テオフラストス植物しょくぶつ』、古代こだいローマではディオスコリデスの『薬物やくぶつ』、プリニウスの『博物はくぶつ』などがある。

ひがしアジアの本草学ほんぞうがくは、伝統でんとう中国ちゅうごく医学いがくにおける医薬いやく漢方薬かんぽうやく)、またはじゅつにおける不死ふし霊薬れいやく仙丹せんたん)の原材料げんざいりょう研究けんきゅうとして発達はったつした。あきら時代じだいめずらしいた『本草ほんぞう綱目こうもく』はその集大成しゅうたいせいともべる書物しょもつであり、日本にっぽんにもおおきな影響えいきょうあたえた。

フランシス・ベーコン自然しぜん自然しぜん哲学てつがくとを対比たいひして、自然しぜん記憶きおくにより記述きじゅつする分野ぶんやであると規定きてい、それにたい自然しぜん哲学てつがく理性りせいによって原因げんいん探求たんきゅうする分野ぶんや、とした(『学問がくもん進歩しんぽ』)。

ヨーロッパのだい航海こうかい時代じだい以降いこう世界せかい各地かくち新種しんしゅ動物どうぶつ植物しょくぶつ鉱物こうぶつ発見はっけん相次あいつぎ、それを分類ぶんるいする手段しゅだんとしての博物学はくぶつがく発達はったつした。薬用やくよう植物しょくぶつちゃゴムコショウなど、経済けいざいてき有用ゆうよう植物しょくぶつ確保かくほするため、プラントハンターばれる植物しょくぶつ採集さいしゅうしゃたちが世界中せかいじゅうり、珍奇ちんき植物しょくぶつさがしてまわった。また動物どうぶつ鉱物こうぶつなども採集さいしゅうされた。動物どうぶつれいえば、東南とうなんアジアフウチョウなどの標本ひょうほんがヨーロッパにもたらされた。

カール・リンネジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォンはヨーロッパの博物学はくぶつがく発展はってんうながした[2]。 リンネは、動物界どうぶつかい植物しょくぶつかい鉱物こうぶつかいという自然しぜん三界さんがいすべてのたねについての目録もくろくづくりを自然しぜんなした。ビュフォンは『自然しぜん』において、自然しぜん三界さんがい体系たいけいてき記述きじゅつしようとした。

1755ねんにはカントが『天界てんかい一般いっぱん自然しぜん理論りろん』をあらわし、自然しぜんのもとに、太陽系たいようけい生成せいせいについても記述きじゅつした。

地質ちしつがく領域りょういきなどで、次第しだい歴史れきしてき研究けんきゅう活発かっぱつすると、こういった研究けんきゅうについては、記述きじゅつすることに重点じゅうてんがある自然しぜんとは区別くべつしてかんがえようとするうごきがてきた。歴史れきしてき考察こうさつ力点りきてんがある分野ぶんやを、カントは「自然しぜん考古学こうこがく」とすることを1790ねん提唱ていしょう。だが定着ていちゃくせず、歴史れきしてき分析ぶんせきふくめて、自然しぜんばれつづけた。

19世紀せいきになると、ラマルクトレヴィラヌスが「biology(生物せいぶつがく)」という学問がくもんめい領域りょういき提案ていあんした。これは簡単かんたんえば、生物せいぶつかんする自然しぜん哲学てつがく意味いみしていた。そして、これは自然しぜんとはことなった分野ぶんやとして独自どくじ方法ほうほうろん展開てんかいするようになった。自然しぜん領域りょういき領域りょういきで、知識ちしき集積しゅうせきすすみ、もはやひとりの人間にんげん自然しぜん三界さんがい全部ぜんぶについて専門せんもんてき研究けんきゅうすすめるのは困難こんなん状況じょうきょうになっていった。そして、19世紀せいき後半こうはんおもチャールズ・ダーウィン以降いこう)にはいると学問がくもん細分さいぶんし、博物学はくぶつがく動物どうぶつがく植物しょくぶつがく鉱物こうぶつがく地質ちしつがくなどに細分さいぶんされた。そして「自然しぜん」や「博物学はくぶつがく」という言葉ことばは、それらをまとめて総称そうしょうということになっていった。

近年きんねんでは博物学はくぶつがく自然しぜんという言葉ことば多義たぎてきもちいられており、たとえば1958ねん日本にっぽん学術がくじゅつ会議かいぎによってもちいられた表現ひょうげん「(博物学はくぶつがくは)いわば、自然しぜんかい国勢調査こくせいちょうさ」にられる理解りかいのしかたがある。動物どうぶつ分類ぶんるいがく植物しょくぶつ分類ぶんるいがくだけをすためにこの言葉ことばもちいられることもある。また、アマチュアてき生物せいぶつ研究けんきゅうすためにこの言葉ことばもちいられることもある。

分類ぶんるい

編集へんしゅう

博物学はくぶつがく作業さぎょうとしては、自然しぜんぶつ採集さいしゅうとその同定どうてい最初さいしょになる。しかしそれとおなじくらい、博物はくぶつ学者がくしゃたちはその分類ぶんるい情熱じょうねつかたむけた。採集さいしゅう分類ぶんるい科学かがくとしての博物学はくぶつがくささえる両輪りょうりんであった。

素朴そぼく分類ぶんるいほうはすでにされていた。たとえば動物どうぶつを「有用ゆうよう動物どうぶつ家畜かちく」と「それ以外いがい動物どうぶつじゅう」に分類ぶんるいする方法ほうほうなど。しかし、これらの分類ぶんるい人間にんげん都合つごうや、によるものがおおく、科学かがくてき分類ぶんるいほうとしては採用さいようすることができなかった。

自然しぜんかいにある多種たしゅ多様たようのものを分類ぶんるいするために、さまざまな分類ぶんるいほうされた。たとえば、人間にんげん高等こうとう動物どうぶつ下等かとう動物どうぶつ植物しょくぶつ鉱物こうぶつ空気くうきというじゅんならんでいる「存在そんざい階梯かいてい」という分類ぶんるい体系たいけいがある。これ以外いがいにも、二分にぶんほうによる体系たいけいさんふんほうによる体系たいけいなど、さまざまな思弁しべんてき分類ぶんるいほう考案こうあんされた。これらについては荒俣あらまたひろしちょ目玉めだまのうだい冒険ぼうけん』にくわしい。

一方いっぽう生物せいぶつ分類ぶんるいについてはリンネ形式けいしきてきにはめいほうによる学名がくめい考案こうあんし、分類ぶんるい基準きじゅんとしては類縁るいえんせいもとにした自然しぜん分類ぶんるい観点かんてんんだ。これによって、その生物せいぶつにおける分類ぶんるいがくおおきくすすんだ。

その、19世紀せいき後期こうきダーウィンが『たね起源きげん』をあらわして進化しんかろんとなえる。学会がっかい進化しんかろん認知にんちされるまでにもだいぶ時間じかんがかかったが、やがてそれは科学かがくてき事実じじつとしてれられるようになった。進化しんかろん必然ひつぜんてきに、系統けいとう分類ぶんるい(もしくは分岐ぶんき分類ぶんるい)の分類ぶんるいほう要請ようせいする。つまり、類縁るいえんせい進化しんかてききんえんせいえられた。生物せいぶつにおいては、それ以外いがい分類ぶんるいほうられるか、あるいは系統けいとう分類ぶんるい統合とうごうされることとなった。

また、生物せいぶつ分野ぶんやでも、分類ぶんるいほう革新かくしんがあった。元素げんそ発見はっけん化合かごうぶつ研究けんきゅうすすみ、メンデレーエフ周期しゅうきりつひょう代表だいひょうされるように化学かがくてき知識ちしき整理せいりされてくると、鉱物こうぶつ化学かがく物質ぶっしつとして研究けんきゅうすることが可能かのうになった。

さらに化学かがく物理ぶつり発展はってんした20世紀せいきには、分子生物学ぶんしせいぶつがくによって、生物せいぶつ進化しんか分岐ぶんきゲノム類似るいじせいとして直接ちょくせつ検討けんとうされるようになった。鉱物こうぶつには化学かがくてき組成そせい結晶けっしょう構造こうぞうによる分類ぶんるい岩石がんせきには組成そせい成因せいいんによる分類ぶんるい適用てきようされるようになった。以上いじょうのような分析ぶんせき手段しゅだん獲得かくとくによって直接ちょくせつ一般いっぱん体系たいけい可能かのうになったことにより、博物学はくぶつがく手段しゅだんであった収集しゅうしゅう比較ひかく記述きじゅつという手法しゅほうは、生物せいぶつたね同定どうていなどといった手続てつづきにはげんとしてのこるものの(タイプ (分類ぶんるいがく)記事きじなどを参照さんしょう)、科学かがくのメインストリームとしては博物学はくぶつがくはその使命しめいえつつある。

現在げんざい博物学はくぶつがく

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南方みなかた熊楠くまぐす

現在げんざい博物学はくぶつがく学問がくもん分野ぶんやとしてはのこっていないが、自然しぜん科学かがく研究けんきゅうのひとつの方法ほうほうとして博物学はくぶつがくてき研究けんきゅうというのがある。これは、直接ちょくせつフィールド(野山のやまなど)にかい、動物どうぶつ植物しょくぶつ鉱物こうぶつなどを収集しゅうしゅう同定どうてい分類ぶんるいする研究けんきゅうである。たとえば、牧野まきの富太郎とみたろうおこなった植物しょくぶつ研究けんきゅうや、南方みなかた熊楠くまぐすおこなった変形へんけいきん研究けんきゅうなどがそのれいとなる。

またこの分野ぶんやではアマチュアの活動かつどうおおきい役割やくわりになっている(いわゆる市民しみん科学かがく)。たとえば昆虫こんちゅうなどは、各地かくち昆虫こんちゅう採集さいしゅうきのアマチュアが新種しんしゅ発見はっけんすることもおおい。あるいは、野生やせい生物せいぶつ不思議ふしぎ特徴とくちょうめずらしい行動こうどうがアマチュアによって発見はっけんされ、あらたな発展はってんおこなわれたれいもある。ヨーロッパでは、博物学はくぶつがくてき研究けんきゅう趣味しゅみ伝統でんとうてきにあって、それをたのしむひとは「ナチュラリスト」とばれている。

このように自然しぜん科学かがく基礎きそとしてかすことのできない手法しゅほうであったが、現在げんざいでは生物せいぶつ分類ぶんるい目視もくしではなく分子生物学ぶんしせいぶつがくによる分類ぶんるい主流しゅりゅうになり、鉱物こうぶつ分類ぶんるい正確せいかく元素げんそ同定どうてい簡単かんたんおこなえることから、現在げんざいでは科学かがくのトピックとしての学習がくしゅう教養きょうよう科目かもく個人こじん趣味しゅみとしての要素ようそつよくなっている。かつては製薬せいやく会社かいしゃなどが、プラントハンターくわしい調査ちょうさおこなわれていない地域ちいき派遣はけんして植物しょくぶつなどの収集しゅうしゅうつとめていたが、シミュレーション分子ぶんし合成ごうせい手法しゅほう発達はったつによりだい規模きぼ調査ちょうさ下火したびになっている。

天文学てんもんがく分野ぶんやでも、スーパーコンピュータ駆使くしする天体てんたい物理ぶつりがく最先端さいせんたん物理ぶつりがくによる宇宙うちゅうろんなど、理学りがくけい分野ぶんやにおいてはアマチュアの参加さんかむずかしいが、天体てんたい観測かんそくなどアマチュア天文学てんもんがくばれる分野ぶんやでは、個人こじん購入こうにゅうできる望遠鏡ぼうえんきょう高性能こうせいのうともない、彗星すいせい新星しんせい発見はっけんいまでもさかんである。

日本にっぽん博物学はくぶつがく

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本草学ほんぞうがく

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大和やまと本草ほんぞう』(国立こくりつ科学かがく博物館はくぶつかん展示てんじ
 
むし豸帖(なつじょう増山ますやまゆきときふで 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん
 
岩崎いわさき灌園本草ほんぞう図譜ずふ』のワサビ

日本にっぽんでは奈良なら時代じだい以来いらい本草学ほんぞうがくかんする書物しょもつまれており、10世紀せいきには『本草ほんぞう和名わみょう』という、本草ほんぞう和名わみょうかんめい対比たいひした書物しょもつ編纂へんさんされた。

江戸えど時代じだいには、1607ねんの『本草ほんぞう綱目こうもく』の輸入ゆにゅうをきっかけに本格ほんかくてき本草学ほんぞうがく研究けんきゅうおこった。この本草ほんぞう綱目こうもく入手にゅうしゅした徳川とくがわ家康いえやすもこのとしから本格ほんかくてき本草ほんぞう研究けんきゅうはじめている[3]はやし羅山らざん1612ねんに『識篇』をしるわし、『本草ほんぞう綱目こうもく』を抄出しょうしゅつした。以後いごさらに研究けんきゅうすすめられ、『大和やまと本草ほんぞう』(1708ねん)をしるわした貝原かいばら益軒えきけんや、田村たむらあいすいなどの著名ちょめい本草学ほんぞうがくしゃ活動かつどうした。1738ねんには稲生いのう若水じゃくすいが『庶物しょぶつ類纂るいさん』を編纂へんさんした。小野おの蘭山あららぎやまらはくすり使として各地かくち自然しぜんぶつ採集さいしゅうした。あい水門すいもん平賀ひらが源内げんないは、物産ぶっさんかいひらいたり、石綿いしわた鉱山こうざん殖産しょくさんたずさわったりした。

江戸えど時代じだいちゅう後期こうきには、いろあざやかな図譜ずふ図鑑ずかん博物はくぶつ)の制作せいさくさかんになった。すなわち、魚介ぎょかいるい鳥類ちょうるい植物しょくぶつなどを『~図譜ずふ』『~』とだいした書物しょもつにまとめることが流行りゅうこうした。図譜ずふおおくは美術びじゅつてきにも評価ひょうかたか[4]図譜ずふはまた、実在じつざいする動植物どうしょくぶつだけでなく河童かっぱなどの妖怪ようかいあつかうこともおおいため、妖怪ようかい研究けんきゅう要素ようそももつ[5]図譜ずふ徳川とくがわ吉宗よしむね増山ますやまただしけんら、各地かくち殿様とのさまたちの命令めいれいつくられることがおおく、ときには殿様とのさま自身じしん制作せいさくたずさわることもあった[6][7]

杉田すぎた玄白げんぱくらによって蘭学らんがく成立せいりつすると、ヨーロッパからわたってきた博物学はくぶつがくしょ翻訳ほんやくおこなわれた(翻訳ほんやく自体じたいは、そのいち世代せだいまえ野呂のろ元丈げんじょうがすでにっていたが、これは一般いっぱんひろまらなかった)。大槻おおつき玄沢げんたく司馬しば江漢こうかんがオランダわたりの図鑑ずかんをいくつか翻訳ほんやくして公刊こうかんした。博物学はくぶつがくしょ知識ちしきは、幕府ばくふ危険きけんするような思想しそうせいうす実用じつようてき知識ちしきでもあったため、積極せっきょくてき受容じゅようされ、本草学ほんぞうがくにも影響えいきょうあたえた。

江戸えど時代じだいには、以上いじょうのような本草学ほんぞうがくだけでなく、古典こてん園芸えんげい植物しょくぶつ研究けんきゅうや、『詩経しきょう』や『万葉集まんようしゅう』にてくる動植物どうしょくぶつ同定どうてい名物めいぶつがく)も流行りゅうこうした。また、寺島てらしまりょうやす図解ずかい百科ひゃっか事典じてん和漢わかんさんさい図会ずえ』をあらわしたり、木内きうちいしてい佐藤さとうちゅうりょういし分類ぶんるい体系たいけい構築こうちくしたり[8]木村きむら蒹葭どうイッカクのかく研究けんきゅうしたりした。

西洋せいよう博物学はくぶつがく移入いにゅう

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日本にっぽん島国しまぐにであり、地形ちけい起伏きふくむため、固有こゆうしゅおおい。そのためだい航海こうかい時代じだい以降いこう、ヨーロッパの学者がくしゃ日本にっぽん動植物どうしょくぶつ研究けんきゅう希望きぼうしていたが、当時とうじ日本にっぽん鎖国さこく政策せいさくっていたため入国にゅうこくができなかった。そのようななかで、わずかにオランダ商人しょうにんだけが出島でじまへの寄港きこうゆるされていたので、かれらにじってやってきた学者がくしゃたちがいた。代表だいひょうてきなのは「出島でじまさん学者がくしゃ」とばれるケンペルツンベリーシーボルトである。かれらはいずれもオランダじんではなかった。

この出島でじまさん学者がくしゃによって、西洋せいよう博物学はくぶつがく手法しゅほう日本にっぽん紹介しょうかいされた。ケンペルは出島でじま薬草やくそうえんつくった。ツンベリーはリンネの弟子でしであり、多数たすう植物しょくぶつ採集さいしゅうし、また中川なかがわ淳庵じゅんあん桂川かつらがわはじめしゅうらに植物しょくぶつ標本ひょうほん作成さくせいほう教授きょうじゅした。シーボルトは動植物どうしょくぶつのみならず日本にっぽん文物ぶんぶつ大量たいりょうにオランダにおくった。そのなかのひとつであるアジサイ一種いっしゅを、日本にっぽんでのつまタキにちなんで「オタクサ(おタキさん)」と名付なづけた。

幕末ばくまつ黒船くろふね来航らいこうさいには、博物はくぶつ図鑑ずかん大著たいちょアメリカの鳥類ちょうるい』が幕府ばくふ献上けんじょうされた[9]開国かいこくのちには、ロバート・フォーチュンおおくのプラントハンターが日本にっぽんおとずれた。

明治めいじはいってから、伊藤いとう圭介けいすけ田中たなか芳男よしおやと外国がいこくじんモースらによって、博物学はくぶつがく正式せいしきかたち日本にっぽん移入いにゅうされた。また、明治めいじ以降いこう上述じょうじゅつのアマチュア博物学はくぶつがくさかんになった。とりわけ華族かぞく皇族こうぞく博物学はくぶつがくんだ[7]昭和しょうわ天皇てんのう#生物せいぶつがく研究けんきゅう明仁あきひと#科学かがくしゃとして)。

日本にっぽん博物学はくぶつがく研究けんきゅう

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以上いじょうのような日本にっぽん博物学はくぶつがく詳細しょうさい研究けんきゅうは、1970年代ねんだいころからはじまった[4]初期しょきおも研究けんきゅうしゃとして、上野うえの益三ますぞう木村きむら陽二郎ようじろう磯野いその直秀なおひで西村にしむら三郎さぶろう荒俣あらまたひろしらがいる。

博物学はくぶつがくかたり

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博物学はくぶつがく」の言葉ことばは「Natural history」の訳語やくごとしてつくされたものである。英語えいごでの意味いみは、広義こうぎには政治せいじがく神学しんがくなどに対立たいりつする自然しぜん科学かがく一般いっぱんし、狭義きょうぎにはうえ説明せつめいした博物学はくぶつがくのことをす。この中間ちゅうかん意味いみとして、「Natural philosophy」すなわち物理ぶつりがく対立たいりつする学問がくもんすことがある。「自然しぜん」の内容ないようがNatural history、形式けいしきがNatural philosophyとなるわけである。

Natural historyは、「博物はくぶつ」「自然しぜん」「自然しぜん史学しがく」などとやくされることもある。

自然しぜん博物館はくぶつかん

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現在げんざい各国かっこく博物館はくぶつかんに「自然しぜん博物館はくぶつかん」がある。これは「Natural History Museum」の直訳ちょくやくである。この場合ばあいの「Natural history」の意味いみ広義こうぎ博物学はくぶつがく、つまり自然しぜん科学かがく一般いっぱんす。

日本語にほんごでは「Museum」を「博物館はくぶつかん」とやくしているため、「Natural History Museum」を「博物学はくぶつがく博物館はくぶつかん」とするわけにいかず直訳ちょくやくして「自然しぜん博物館はくぶつかん」としたとおもわれる。ロンドン自然しぜん博物館はくぶつかんスミソニアン博物館はくぶつかん一部いちぶである国立こくりつ自然しぜん博物館はくぶつかんカーネギー自然しぜん博物館はくぶつかんなどがある。

近年きんねんでは、日本にっぽん国内こくないでも「自然しぜん博物館はくぶつかん」とづけられた「Natural History Museum」がえてきている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 木場きば, 貴俊たかとし怪異かいいをつくる 日本にっぽん近世きんせい怪異かいい文化ぶんか文学ぶんがく通信つうしん、2020ねん、100fぺーじISBN 978-4909658227 
  2. ^ 河原かわはら啓子けいこ芸術げいじゅつ受容じゅよう近代きんだいてきパラダイム:日本にっぽんにおける欲望よくぼう価値かちかん形成けいせい美術年鑑社びじゅつねんかんしゃ、2001ねん、30ぺーじ 
  3. ^ 宮本みやもと義己よしみ徳川とくがわ家康いえやす本草学ほんぞうがく」(りゅうたに和比古かずひこへん徳川とくがわ家康いえやす―その政治せいじ文化ぶんか芸能げいのう―』みやたい出版しゅっぱんしゃ、2016ねん
  4. ^ a b 今橋いまはし 2017, p. 序章じょしょう花鳥かちょう研究けんきゅうへのあらたなひかり.
  5. ^ みずとらこうりゃく - 岩瀬いわせ文庫ぶんこコレクション
  6. ^ 殿様とのさま博物学はくぶつがく | コラム | えがかれた動物どうぶつ植物しょくぶつ”. www.ndl.go.jp. 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん. 2020ねん10がつ7にち閲覧えつらん
  7. ^ a b 科学かがく朝日あさひへん磯野いその直秀なおひでほかちょ殿様とのさま生物せいぶつがく系譜けいふ朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1991ねん 
  8. ^ 荻野おぎの, まき諧『生物せいぶつ学者がくしゃ妖怪ようかいる』NHK出版しゅっぱんNHK出版しゅっぱん新書しんしょ〉、2018ねんISBN 978-4140885567 だいしょうよんせつせきこうくもこころざし』『かい石志いしし』をむ」)
  9. ^ 今橋いまはし 2017, p. 終章しゅうしょう うみわたった禽鳥じょう西欧せいおう江戸えど時代じだい博物はくぶつ図譜ずふ.

関連かんれん項目こうもく

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関連かんれん文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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