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篆書体 - Wikipedia

篆書てんしょたい

漢字かんじ書体しょたい
篆書てんしょから転送てんそう

篆書てんしょたい(てんしょたい、モンゴルᠭᠣᠷ
ᠦᠰᠦᠭ᠌
[1]まんしゅう: ᡶᡠᡴᠵᡳᠩᡤᠠ
ᡥᡝᡵᡤᡝᠨ
[2] 転写てんしゃ:fukjingga hergen)は、漢字かんじモンゴル文字もじまんしゅう文字もじ書体しょたい一種いっしゅ。「篆書てんしょ」「篆文」ともいう。


漢字かんじ

書体しょたい
篆刻てんこく毛筆もうひつ
かぶとこつぶん 金文きんぶん 篆書てんしょ
古文こぶん
隷書れいしょ 楷書かいしょ
行書ぎょうしょ
草書そうしょ
木版もくはん活版かっぱん
宋朝そうちょうたい 明朝体みんちょうたい 楷書かいしょたい
字体じたい
構成こうせい要素ようそ
筆画ひっかく 筆順ひつじゅん 偏旁へんぼう 六書りくしょ 部首ぶしゅ
標準ひょうじゅん字体じたい
せつぶんかい篆書てんしょたい
さましょ 石経いしきょう
かん字典じてんたいきゅう字体じたい
しん字体じたい しん字形じけい
国字こくじ標準ひょうじゅん字体じたい つね用字ようじ字形じけいひょう
漢文かんぶん教育きょういくよう基礎きそ漢字かんじ
通用つうよう規範きはん漢字かんじひょう
国字こくじ問題もんだい
当用とうよう常用漢字じょうようかんじ
同音どうおん漢字かんじによるきかえ
繁体字はんたいじ正体しょうたい - 簡体字かんたいじ
漢字かんじ廃止はいし復活ふっかつ
漢字かんじ文化ぶんかけん
なかあさこしだいしん
派生はせい文字もじ
国字こくじ 方言ほうげん のりてん文字もじ
仮名かめい たけし おんなしょ
ちぎり文字もじ おんな文字もじ 西にしなつ文字もじ
字音じおん

広義こうぎにははただいよりまえ使用しようされていた書体しょたいすべてをすが、一般いっぱんてきにはしゅうすえ金文きんぶん起源きげんとして、戦国せんごく時代じだい発達はったつして整理せいりされ、公式こうしき書体しょたいとされた小篆しょうてんとそれに関係かんけいする書体しょたいす。

公式こうしき書体しょたいとしての歴史れきしきわめてみじかかったが、現在げんざいでも印章いんしょうなどにもちいられることがおおく、書体しょたいなかではもっといきなが

字形じけい変化へんか

編集へんしゅう
 
篆書てんしょたいによる「始皇帝しこうてい

金文きんぶんからさら字形じけい整理せいりすすみ、一文字ひともじおおきさが均等きんとうになった。文字もじかたち天地てんちなが長方形ちょうほうけいかいおさまるようにつくられる。点画てんかく水平すいへい垂直すいちょくせん基本きほんに、円弧えんこをなす字画じかくはすみやかに水平すいへいせん垂直すいちょくせん交差こうさするようにげられる。りょうはしまるめられ、せんはすべておなふとさでかれる。

評価ひょうか

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上記じょうき特徴とくちょうから、金文きんぶんちがって上下じょうげ左右さゆうおおきさのバランスがととのっており、謹厳きんげん印象いんしょうあたえる文字もじ進化しんかしている。一方いっぽう曲線きょくせん主体しゅたいとするため有機ゆうきてきおもむきをあわち、独特どくとく雰囲気ふんいき書体しょたいとなっている。

また、後世こうせい漢字かんじのようにへんとつくり、かんむりとあしのように部首ぶしゅけが容易よういなのも特徴とくちょうである。

歴史れきし展開てんかい

編集へんしゅう

小篆しょうてん起源きげんは、一般いっぱんてきには中国ちゅうごく最古さいこ石刻せっこくである戦国せんごくの「いしぶん」にもちいられた書体しょたい大篆だいてん直接ちょくせつ起源きげんわれている。「大篆だいてん」は西にしあまねせんおう時代じだいふとし・籀(ちゅう)が公式こうしき文字もじ籀文さだめたさい編纂へんさんした書物しょもつであるとつたえられ、籀文そのものの別名べつめいであるとされている。このようなことから、いしぶん大篆だいてんは籀文が戦国せんごく時代じだいはたがれたものとかんがえられているが、その詳細しょうさいには諸説しょせつある。

はたによる公式こうしき書体しょたい

編集へんしゅう

紀元前きげんぜん221ねんはた中国ちゅうごく統一とういつげた。このさい法治ほうち確立かくりつ度量衡どりょうこう統一とういつほか文字もじ統一とういつおこなわれ、小篆しょうてん正式せいしき統一とういつ書体しょたいとして採用さいようされた。小篆しょうてん始皇帝しこうていめいじて籀文(もしくは大篆だいてん)を簡略かんりゃくしたもの、あるいは斯の進言しんげんにより当時とうじしんおこなわれていた籀文由来ゆらい文字もじ採用さいようしたものともいわれる。

始皇帝しこうていはこの小篆しょうてん権力けんりょく誇示こじ手段しゅだんとしてもちいた。元々もともとかぶとこつぶん時代じだいから文字もじ権力けんりょく象徴しょうちょうであり、それをいでのものである。げん自分じぶんたたえる銘文めいぶんきざんだはじめすめらぎななこくせき国内こくない6カ所かしょて、おおいにその権力けんりょくしめした。

また小篆しょうてんはたが「統一とういつされた法治ほうち国家こっか」であることをしめすため、くに公式こうしき証明しょうめい手段しゅだんとしてももちいられた。度量衡どりょうこう統一とういつさいまったおおきさの分銅ふんどうます標準ひょうじゅんとして全国ぜんこく配布はいふされたが、これにけんりょうめいばれる小篆しょうてんもちいた証明しょうめいぶんが、金属きんぞくせい場合ばあい直接ちょくせつきざまれ、木製もくせい場合ばあい銅板どうばんきざまれてりつけられた。また、官吏かんり公式こうしき証明しょうめいもちいる官印かんいんにももちいられた。

こうして小篆しょうてんはた国内こくない政策せいさくだい一線いっせんにな存在そんざいとしてあつかわれたのである。

隷書れいしょへの展開てんかい衰微すいび変質へんしつ

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そのようなくに意図いととは裏腹うらはらに、小篆しょうてんはすぐにそのかたちくずはじめる。法治ほうち国家こっかであるはたでは、下層かそう役人やくにん現場げんば事務じむ処理しょりおこなうことがおおくなった。かれらにとって複雑ふくざつかたちをした小篆しょうてんはきわめてきづらいものであり、自然しぜんはしきがおお発生はっせいする結果けっかとなった。このことが小篆しょうてん書体しょたい単純たんじゅん簡素かんそみ、やがて隷書れいしょむことになるのである(隷変)。

紀元前きげんぜん206ねんはた滅亡めつぼうすると、すわえかん戦争せんそう前漢ぜんかんった。前漢ぜんかんとそれにつづこうかんでは公式こうしき書体しょたいとして小篆しょうてんではなく隷書れいしょ採用さいようされることになったが、このことには小篆しょうてん煩雑はんざつさをけるためという意図いとがあった。またこのような「筆記ひっき手段しゅだん」としての役割やくわり優先ゆうせんした文字もじ政策せいさくは、「権力けんりょく象徴しょうちょう」として存在そんざいつづけていたそれまでの文字もじ概念がいねん完全かんぜんくつがえすものであり、かぶとこつぶん以来いらいつづいた「古代こだい文字もじ」の時代じだい終焉しゅうえんしめすものでもあった。

一時いちじしんだい公式こうしき書体しょたいかえいたが、しん滅亡めつぼうとともにふたた公式こうしき書体しょたいからはずされ、以後いごしばらくのあいだ小篆しょうてんは「公的こうてき証明しょうめい」の名残なごりから官印かんいん公印こういんもちいられるほかは、ほとんどの場合ばあい装飾そうしょくてきかわらかがみなどの文様もんよういしぶみや帛書の表題ひょうだいなどにもちいられるにすぎなくなる。

またこうかんだいの「まつ三公みつきみやま」や「嵩山すせさん闕銘」、さんこく時代じだいにおける「てんはつかみ讖碑」「ふうぜん国山くにやま」のようにいしぶみ少数しょうすうながら存在そんざいしたが、いずれもてんかみへの願文がんもんてんのおげをしめした内容ないようで、小篆しょうてん権力けんりょくせいがいつのにかてんかみつうじる性質せいしつのものへ拡大かくだいされ、「かみいのるための文字もじ」として認識にんしきされるようになっていたことがかる。かんだい以降いこう小篆しょうてんは、その字形じけい権力けんりょくせいから性質せいしつ変化へんかすることで、ごく一部いちぶのぞいて装飾そうしょく祭祀さいしのための特殊とくしゅ文字もじとして認識にんしきされるようになった。

そのような認識にんしき変化へんかがやがて文字もじそのものにもおよぶ。当初とうしょかんだいでははたから時代じだいとおくないこともあり、せいぜい隷書れいしょかたはいったりせんかくばらせたりする程度ていど変化へんかくずれでんでいた(かん篆)。しかしかんまつ六朝りくちょう時代じだい以降いこうになると完全かんぜん混沌こんとん状態じょうたいになり、小篆しょうてんから大量たいりょう装飾そうしょく書体しょたいまれるなど、どんどん本来ほんらい姿すがたからとおざかっていくことになる。

そのなかでわずかにこうかんだい訓詁くんこがく第一人者だいいちにんしゃもとまきが、儒学じゅがく研究けんきゅう一環いっかんとして小篆しょうてんを「古代こだい文字もじ」として真正面ましょうめんからあつかい、小篆しょうてん中心ちゅうしんとした字書じしょせつぶんかい』をものして字義じぎなどの解釈かいしゃくをなしたが、あくまで学問がくもんてき追究ついきゅうであり、しょにおける展開てんかいられなかった。

しょしるしよう字体じたいとしての再興さいこう

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このように姿すがたまで変化へんかさせられ、日陰者ひかげものとして細々こまごまいのちながらえていた小篆しょうてんであったが、とうだい以降いこうふたた脚光きゃっこうびることになる。

とうなかごろ、詩人しじんかんいよいよらが六朝りくちょうよんろく駢儷べんれいぶん否定ひてい古文こぶん復興ふっこう運動うんどうおこなった影響えいきょうで、書道しょどうにも王羲之おうぎし以前いぜん、すなわち隷書れいしょ以前いぜん志向しこうする復古ふっこ主義しゅぎてき気運きうんまれた。

そのような風潮ふうちょうなか小篆しょうてんようなどによっておおきく注目ちゅうもくされることになり、それまでのくずれた書法しょほうはいした、本来ほんらい姿すがたちか小篆しょうてんによる書道しょどう作品さくひん石刻せっこくおお使つかわれるにいたった。これにより、小篆しょうてん書道しょどうかいいち書体しょたいとして再興さいこうすることになる。

だいじゅうこく時代じだいみなみとうおよびそうだいには、じょじょ兄弟きょうだいにより『せつぶんかい』の校訂こうてい注釈ちゅうしゃくおこなわれ、現在げんざいられる『せつぶんかい』のテキスト(だいじょほん)がつくられるとともに、小篆しょうてんによる書道しょどうがれた。

 
下関しものせき条約じょうやく漢文かんぶんばん。「皇帝こうていたから」の印璽いんじ漢字かんじまんしゅう文字もじ (ᡥᠠᠨ ᡳ
ᠪᠣᠣᠪᠠᡳ
han i boobai)の篆書てんしょきざまれている


またこのそうだい以降いこうしるし収蔵しゅうぞう鑑賞かんしょうする趣味しゅみ発達はったつしたことも、小篆しょうてんふく篆書てんしょへの関心かんしんふかめる要因よういんとなった。官印かんいん、または作品さくひん製作せいさくしゃ収蔵しゅうぞう所有しょゆうけん誇示こじするためにした印章いんしょうには、篆書てんしょ官職かんしょくめい、もしくは本人ほんにん座右ざゆうめいっているものがおおかったからである。もとあきらだい以降いこうはこの篆書てんしょもちいた印章いんしょう作業さぎょうも、「篆刻てんこく」という書道しょどういちジャンルとして確立かくりつされた。

きよしだいにおいては、考証こうしょうがく発達はったつによりかたぎこく模写もしゃかさねているかみ法帖ほうじょうよりも当時とうじ姿すがためるいしぶみほうしょあととして信頼しんらいせいたかいとのかんがえから、いしぶみ研究けんきゅう主流しゅりゅうとなったため、それにともなっていしぶみしかない時代じだい文字もじであった篆書てんしょ研究けんきゅう書作しょさくふたたさかんとなり、しょ篆刻てんこくともにすぐれた作品さくひんのこされている。また、まんしゅう文字もじなどの篆書てんしょもつくられた。

現代げんだいにおいても書作しょさくひん篆刻てんこく作品さくひんほか、「公的こうてき証明しょうめい」の役割やくわり名残なごりとして印章いんしょうもちいられることがおおい。

関連かんれんする書体しょたい

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はたはちたいしん六体りくたい関連かんれん

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もとまきあらわしたそのままのかたちつたえるテキストは存在そんざいしないが、『せつぶんかい序文じょぶんによれば、はたでは公式こうしき書体しょたいとして大篆だいてん小篆しょうてんこくむししょ(ちゅうしょ)・しるし(ぼいん、「」は「つの」の「ちから」を「」にえた)・しょしょ・殳書(しゅしょ)・隷書れいしょの8つをさだめていたという(はたはちたい)。もとまきから700ねんちかくが経過けいかしたざんまきは、かかはりたいという細長ほそなが書体しょたい使つかわれており、これが篆書てんしょたい初期しょきがたともされている。

また前漢ぜんかん簒奪さんだつしんてたおうは、公式こうしき書体しょたい制定せいていさいにこのはちたい整理せいり古文こぶん篆書てんしょ隷書れいしょ・繆篆(びゅうてん)・とりむししょ(ちょうちゅうしょ)の6つにしたといわれている(しんろくたい)。

これらはたはちたいしんろくたいは、いずれもなんらかのかたち小篆しょうてん類縁るいえん関係かんけいにある書体しょたいであった。このうち代表だいひょうてきなものを以下いかげる。

大篆だいてん

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はたはちたいだいいちげられる。小篆しょうてんもととなった書体しょたいで、小篆しょうてんたいをなす名称めいしょういしぶんもちいられた書体しょたいである。上述じょうじゅつとおり、もと西にしあまね公式こうしき文字もじ・籀文であるというせつがあることから、籀文と同一どういつされるがつまびらかではない。

字形じけい小篆しょうてんくらべると装飾そうしょくせいたかく、文字もじ全体ぜんたいのバランスも完全かんぜん方形ほうけいではないことがおおい。金文きんぶん特徴とくちょうつよのこ文字もじであるが、一方いっぽう平行へいこうおおられるなど小篆しょうてん萌芽ほうがられる。

はたはちたいだいしるししんろくたいだい・繆篆としてげる字体じたい。そのとおり、印章いんしょうようとくした小篆しょうてんのことである。現在げんざいるようなかたちしるし篆が成立せいりつしたのはかんだい以降いこうとみられる。なお、かんだい完成かんせいしたため「かん篆」のいち書体しょたいかぞえられることもある。

たてなが小篆しょうてんしるし正方形せいほうけいおさめるため、小篆しょうてん曲線きょくせん部分ぶぶんながくはみ部分ぶぶん直線ちょくせん折線おれせん表現ひょうげんしたもので、有機ゆうきてきかたち小篆しょうてんよりもかくばり、さらに整然せいぜんとした印象いんしょうける。

とりちゅう

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はたはちたいだいなな・殳書、しんろくたいだいろくちょうむししょとしてげる字体じたい春秋しゅんじゅう時代じだいからはただいにかけてほこなど武具ぶぐ装飾そうしょくようもちいられた、きわめて装飾そうしょくせいたか書体しょたいである。

字形じけいはうねうねとへびのようにくねったほそせん構成こうせいされる単純たんじゅんなもの、とりあたま姿すがたしたかざりが端々はしばしについているもの、さらに文字もじ原形げんけいめないほど無理矢理むりやりとりかたち変形へんけいさせたものなどさまざまで、そのほとんどが文様もんようして解読かいどく不能ふのうである。

後世こうせい派生はせい書体しょたい

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きゅうじょう

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きゅうじょう篆(和漢わかんさんさい図会ずえより)

そうだい以降いこうかく王朝おうちょう、また民族みんぞく王朝おうちょうきむにおいて官印かんいんもちいられた小篆しょうてんたんに「たたみ篆」ともいう。小篆しょうてんないしはしるし篆のながばし、幾重いくえにもぐねぐねとげて装飾そうしょくせいたかめた書体しょたいである。

装飾そうしょくせん印面いんめんくすようにぬのされるため、こまかいせんがずらずらとならんでいるようにしかえないことがおおく、判読はんどくせいかぎりなくひくい。実用じつようよりも官印かんいん権威けんいしめ役割やくわり重視じゅうししたものである。

なおこのきゅうじょう篆の登場とうじょうにより官印かんいん意匠いしょう完全かんぜん硬直こうちょくしてしまい、以後いご官印かんいん書道しょどう美術びじゅつ方面ほうめんからはかえりみられなくなった。

しん小篆しょうてん

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前漢ぜんかん簒奪さんだつしててられたしんでは、皇帝こうていおう盲目的もうもくてき復古ふっこ主義しゅぎ影響えいきょう公式こうしき書体しょたい小篆しょうてん採用さいようされた。はた文字もじ政策せいさく模倣もほうしたもので、事実じじつ度量衡どりょうこう改正かいせいうえ標準ひょうじゅん公式こうしき証明しょうめいぶんよしみりょうめい」を小篆しょうてんきざんで全国ぜんこく配布はいふするというはただいそのままの政策せいさくおこなわれている。

字形じけい通常つうじょう小篆しょうてんたて細長ほそながかいまもりながら、一方いっぽう曲線きょくせん部分ぶぶん極端きょくたんなまでに角張かくばらせているのが特徴とくちょうで、小篆しょうてんしるし篆のあいだったような独特どくとく雰囲気ふんいき字形じけいになっている。せんきわめてほそい。

小篆しょうてん

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さんこく時代じだいでは、最後さいご皇帝こうていまご時期じきに「てんはつかみ讖碑(てんぱつしんしんひ)」「ふうぜん国山くにやま(ほうぜんこくざんひ)」とばれる小篆しょうてんいしぶみてられた。

りょういしぶみ小篆しょうてんきわめて特殊とくしゅで、「てんはつかみ讖碑」はかくばってとがった字形じけいでごつごつとしており、「ふうぜん国山くにやま」はぎゃくせん非常ひじょうふとくもっちりとした字体じたいである。いずれもきわめておどろおどろしい雰囲気ふんいきで、後世こうせい評価ひょうか極端きょくたんかれている。

このような異様いよう字体じたいになった理由りゆうとしては、りょういしぶみ神秘しんぴ思想しそうにかぶれたまご晧の現実げんじつ逃避とうひ産物さんぶつであったことがおおきくかかわっている。両者りょうしゃとも「てんのおげ」をしるすためのいしぶみであり、そのために小篆しょうてんっていた権力けんりょくせい要求ようきゅうされたのである。

技巧ぎこうじょう隷書れいしょようふで隷書れいしょふくませていたためこうなった、とわれているがさだかではない。いずれにせよこの両者りょうしゃにだけしかられない特異とくい小篆しょうてんというべきであろう。

このほかにもかんだいまつから六朝りくちょう時代じだいにかけ、小篆しょうてん装飾そうしょくせい利用りようして大量たいりょう生産せいさんされた装飾そうしょく書体しょたい存在そんざいする。

六朝りくちょう時代じだい南朝なんちょうひとししょうりょうがまとめた『古今ここん篆隷文体ぶんたい』には40種類しゅるいあまりの装飾そうしょく書体しょたいつたえられており、小篆しょうてんからの派生はせいであるとおもわれるものがいくつかられる。そのなかの「かかはり篆」とばれるさきするどとがらせた書体しょたいは、『せつぶんかい』の初期しょき写本しゃほんせつぶんかい木部きべざんまき」や空海くうかいによる日本にっぽん最古さいこ字書じしょ篆隷万象ばんしょう名義めいぎ』にも使用しようされている。

おなじく六朝りくちょう時代じだい南朝なんちょうはりには「ひゃくじゅうたいしょ」としょうして120種類しゅるいもの装飾そうしょく書体しょたいがあったとつたえられており(しょあと現存げんそんしないため詳細しょうさい不明ふめい)、とうだいには篆書てんしょ得意とくいとしたそうゆめえいにより「じゅうはちたいしょ」とばれる18種類しゅるい装飾そうしょく書体しょたいつたえられている。

またせいくらいんにも、「とり篆書てんしょ屏風びょうぶ」なる小篆しょうてん派生はせいおもわれる装飾そうしょく書体しょたいかれた屏風びょうぶ所蔵しょぞうされている。

史料しりょう

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小篆しょうてん史料しりょう公式こうしき書体しょたいであったはた時代じだいみじかかったこともあり、極端きょくたんすくない。現在げんざいのこるものとしては「はじめすめらぎななこくせき」の一部いちぶである泰山たいざんこくせき「瑯琊だいこくせき(ろうやたいこくせき)、そして度量衡どりょうこう標準ひょうじゅん証明しょうめいぶんであるけんりょうめい、その木簡もっかんたけ簡がある程度ていどである。

しかも「泰山たいざんこくせき」はわずか10現存げんそんするのみ(拓本たくほんとして十字じゅうじほんじゅう九字くじほんじゅうさんほんひゃくろくじゅうほんよん種類しゅるいがあるが、じゅうさんほんひゃくろくじゅうほんこくしたいしからったものとしてうたがうむきもある)、「瑯琊だいこくせき」は86のこっているが風雨ふううによる侵蝕しんしょく文字もじなみだながしたようになっており、きわめて保存ほぞん状態じょうたいわるい。また「けんりょうめい」や木簡もっかんたけ簡も字形じけいくずれがられ、小篆しょうてん字体じたい厳密げんみつにはつたえていない。

このため、直接ちょくせつどう時代じだい史料しりょうたることはきわめてむずかしく、後世こうせいのものにたよ必要ひつようがある。さいわ先述せんじゅつしたもとまきの『せつぶんかい』には字書じしょとして基本きほんてき文字もじ網羅もうらされているので、本書ほんしょ掲出けいしゅつする小篆しょうてん字形じけい標準ひょうじゅんとしてもちいられている。

研究けんきゅう

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小篆しょうてんはじめ篆書てんしょ書道しょどうしょあととして研究けんきゅうされるほか、漢字かんじ研究けんきゅう材料ざいりょうとしてもひろもちいられている。

これは「隷変」や楷書かいしょへの展開てんかいにより字形じけい現在げんざいかたち変化へんかするうちにうしなわれた、さまざまな情報じょうほう篆書てんしょ、なかんずく小篆しょうてんっているからである。これと「隷変」の過程かていたりすることでさまざまな研究けんきゅうつ。

たとえば「みぎ」「ひだり」はている漢字かんじなのに、じゅんことなりそれぞれはらいとよこぼうだい1かくとする。楷書かいしょのままではその理由りゆうからないが、小篆しょうてんもどると「みぎ」のはらいと「ひだり」のよこぼうじつ左右さゆう対称たいしょうながらおながたをしており、だい1かくであったことがかる。それらが「隷変」の過程かていでそれぞれはらいとよこぼうというべつかたち変化へんかしてしまったために、現在げんざいのようなじゅんになってしまったと説明せつめい出来できるのである。

ただし正確せいかく研究けんきゅうには、篆書てんしょ以前いぜんかぶとこつぶん金文きんぶん情報じょうほう必要ひつようになる。すで篆書てんしょ以前いぜん段階だんかいうしなわれた情報じょうほうおおいからである。事実じじつもとまきの『せつぶんかい』は、かぶとこつぶん金文きんぶん知識ちしきがなかったためにさまざまな間違まちがいをこしている。

現代げんだいにおける篆書てんしょたい

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日本国にっぽんこく旅券りょけん表紙ひょうし上部じょうぶに「日本国にっぽんこく旅券りょけん」としる

利用りよう実態じったい

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前述ぜんじゅつとおり、小篆しょうてん現代げんだいでも書道しょどう印章いんしょう世界せかいでは現役げんえき書体しょたいである。

身近みぢかれいでいえば、日本銀行にっぽんぎんこうけんひょうの「総裁そうさいしるし」、うらの「発券はっけん局長きょくちょう」の印章いんしょう文字もじがある。曲線きょくせんおお判読はんどく容易よういではない印章いんしょうしゅ文字もじ書体しょたいである[3]。これは明治めいじ時代じだい篆刻てんこく益田ますだかおりとおつくらせたものである。 また旅券りょけん表紙ひょうしの「日本国にっぽんこく旅券りょけん」の文字もじや、郵便ゆうびん切手きっての「日本にっぽん郵便ゆうびん」の文字もじ自治体じちたい印章いんしょうなどのほか一部いちぶみせ看板かんばん使用しようされている程度ていどであったが、最近さいきんでは字形じけい面白おもしろさから装飾そうしょく文字もじやデザインとしてももちいられることもおおくなっている。

このことから昨今さっこん時流じりゅうって小篆しょうてんれた「篆書てんしょたいフォント」がいくつもつくられるなど、デジタルの世界せかいにも進出しんしゅつたしており、比較的ひかくてき気軽きがる小篆しょうてん使用しよう出来できるようになった。

従来じゅうらいりによっていた小篆しょうてん印章いんしょう作成さくせいも、これらのフォントもちいることで比較的ひかくてき安価あんか素早すばや出来できるようになっている。


問題もんだいてん

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このようにデジタル時代じだいになり、コンピュータの恩恵おんけいにあずかるかたち日常にちじょう生活せいかつなか進出しんしゅつしてきた小篆しょうてんであるが、進出しんしゅつおも媒体ばいたいが「篆書てんしょたいフォント」という「フォント」であるゆえの問題もんだいてんもある。

伝統でんとうてき小篆しょうてんとの衝突しょうとつ

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書道しょどうよう篆刻てんこくよう書体しょたいとしての小篆しょうてんは『せつぶんかい』などしかるべき文献ぶんけん基準きじゅんにあり、字形じけいおおきく現状げんじょうことなってもくわえることはしない。また当時とうじ存在そんざいしなかったは、相当そうとうするべつ代用だいようするのが普通ふつうである。

みやつこ行為こういはよほどの理由りゆうがないかぎけるべきとされ、現在げんざいも「絶対ぜったいにやるべきではない」「やむをなければやってもよい」「こだわらず自由じゆうにやってもよい」とひとによって許容きょよう範囲はんいおおきくことなるデリケートな問題もんだいとなっている。

一方いっぽう篆書てんしょたいフォントは字形じけいたいしてはかなり自由じゆうであり、『せつぶんかい』の字形じけい基準きじゅんとすると「あいだちがい」とされるような字形じけい通用つうようしていることがすくなくない。

また小篆しょうてん隷書れいしょ楷書かいしょかたち参考さんこうにしたり、仮名かめい小篆しょうてんふう仕立したてるなどして大量たいりょうみやつこおこない、「楷書かいしょふう小篆しょうてん」「しん字体じたい小篆しょうてん」「仮名かめい小篆しょうてん」「アルファベット・アラビア数字すうじなどの小篆しょうてん」などといった歴史れきしてきないはずの文字もじしている。

一見いっけんすると篆書てんしょたいフォントの制作せいさく態度たいどはいい加減かげんであるようにおもえるが、そう解釈かいしゃくすべきではない。篆書てんしょたいフォントはあくまでパソコンようフォントであるため、その制作せいさくは「デザイン」としての側面そくめんち、『せつぶんかい』のようなひとつの基準きじゅんしばられる必然ひつぜんせいかならずしもあるわけではない。

また実用じつよう書体しょたいとしてつくられているため、字形じけいまった現在げんざい書体しょたいてもつかなかったり、またそのものがないなどの現象げんしょう多発たはつする篆書てんしょたいそのままを使用しようすることは出来できない。また姓名せいめい会社かいしゃめいしる以上いじょう日本にっぽん独自どくじ字形じけい文字もじであるしん字体じたい仮名かめいたいする対応たいおう必要ひつようになる。伝統でんとう歴史れきし重視じゅうしする書道しょどうよう篆刻てんこくよう書体しょたい小篆しょうてんとは、立場たちば存在そんざい目的もくてきことなるのである。

このようなことから「篆書てんしょたいフォント」はあくまで小篆しょうてんのデザインを実用じつよう本位ほんい模倣もほうした一種いっしゅ装飾そうしょくフォントであり、伝統でんとうてきな「小篆しょうてん」とはちがう。

印影いんえい画一かくいつ

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篆書てんしょたいフォントは先述せんじゅつのように小篆しょうてんによる印章いんしょう作成さくせい容易よういにしたが、ぎゃくだれでもおなじフォントをって導入どうにゅうすることが出来できるようになったため、まったちがみせったにもかかわらず印影いんえいどうじ、という事態じたい発生はっせいしている。

このことは小篆しょうてんもちいた印章いんしょう証明しょうめいせいげる事態じたいにもなりかねず、将来しょうらいてき問題もんだいとなる可能かのうせいがある。

様々さまざま篆書てんしょ文字もじ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ こうむかんてん
  2. ^ まんかんだい辞典じてん
  3. ^ 石川いしかわきゅう楊『かた中国ちゅうごくしょ新潮社しんちょうしゃ、2012ねん、21ぺーじISBN 9784106037085 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 尾上おがみ八郎はちろう神田かんだ喜一郎きいちろう田中たなかちかし吉澤よしざわ義則よしのりへん書道しょどう全集ぜんしゅうだい1かん平凡社へいぼんしゃかん
  • 神田かんだ喜一郎きいちろう田中たなかちかしへん書道しょどう全集ぜんしゅう別巻べっかん1(平凡社へいぼんしゃかん
  • 西川にしかわやすしへん書道しょどう講座こうざだい5かん二玄社にげんしゃ

関連かんれん項目こうもく

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