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鈴木俊一 (東京都知事) - Wikipedia

鈴木すずき俊一しゅんいち (東京とうきょう都知事とちじ)

1910ねんまれの日本にっぽん政治せいじだい9~12だい東京とうきょう都知事とちじ

鈴木すずき 俊一しゅんいち(すずき しゅんいち、1910ねん明治めいじ43ねん11月6にち - 2010ねん平成へいせい22ねん5月14にち)は、日本にっぽん政治せいじ内務ないむ自治じち官僚かんりょう位階いかいせいさん東京とうきょう名誉めいよ都民とみん北京ぺきん栄誉えいよ市民しみん[2]

鈴木すずき 俊一しゅんいち
すずき しゅんいち
政経せいけいしゃ/総合そうごうエネルギー研究けんきゅうかい政経せいけいじんだい14かんだい8ごう (1967) より
生年月日せいねんがっぴ 1910ねん11月6にち
出生しゅっしょう 東京とうきょう北多摩きたたまぐん中神なかがみむらげん昭島あきしま[1]
ぼつ年月日ねんがっぴ (2010-05-14) 2010ねん5月14にち(99さいぼつ
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ
げん東京大学とうきょうだいがく法学部ほうがくぶ
ぜんしょく 国家こっか公務員こうむいん内務省ないむしょう地方ちほう自治じちちょう自治じちちょう
内閣ないかく官房かんぼうふく長官ちょうかん
東京とうきょうふく知事ちじ
所属しょぞく政党せいとう 無所属むしょぞく
称号しょうごう せいさん
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
東京とうきょう名誉めいよ都民とみん
北京ぺきん栄誉えいよ市民しみん
レジオンドヌール勲章くんしょうグラントフィシエ
法学ほうがく

東京都の旗 だい9・10・11・12だい 東京とうきょう都知事とちじ
当選とうせん回数かいすう 4かい
在任ざいにん期間きかん 1979ねん4がつ23にち - 1995ねん4がつ22にち
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だい9・10・11・12だい東京とうきょう都知事とちじ東京とうきょうふく知事ちじだい2きし内閣ないかく内閣ないかく官房かんぼうふく長官ちょうかん自治じち事務次官じむじかんひとし歴任れきにんした。

来歴らいれき

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1910ねん11月6にち東京とうきょう北多摩きたたまぐん中神なかがみむらげん昭島あきしま)にまれる。ちち鈴木すずき俊雄としお東京とうきょう高等こうとう蚕糸さんし学校がっこう卒業そつぎょう東京とうきょう蚕糸試験場さんししけんじょう技師ぎしつとめた。つまあつし内務省ないむしょう神社じんじゃきょくなが警視総監けいしそうかん歴任れきにんした石田いしだかおる長女ちょうじょである。長男ちょうなん鈴木すずき紘一こういち化学かがくしゃ東京大学とうきょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ次男じなん鈴木すずき悠二ゆうじもと日本興業銀行にほんこうぎょうぎんこう常務じょうむであった。

山形やまがたけん西村山にしむらやまぐん七軒しちけんむらげん大江おおえまち出身しゅっしんちち[3]のもと東京とうきょう北多摩きたたまぐん中神なかがみむらまれそだった[1]はは東京とうきょう南多摩みなみたまぐん大蔵おおくらむらげん東京とうきょう町田まちだ)の名家めいかだしで、俊一しゅんいち外祖父がいそふ中溝なかみぞ五郎ごろう鶴川つるかわむらげん町田まちだ)の村長そんちょうをつとめた[4]俊一しゅんいち曾祖父そうそふ中溝なかみぞ昌弘まさひろ神奈川かながわ県議会けんぎかい議長ぎちょう[5]親類しんるいには自由じゆう民権みんけん運動うんどう中溝なかみぞ昌孝まさたかや、近衛このえ文麿ふみまろ直系ちょっけい反共はんきょうテロリスト中溝なかみぞ多摩たまきち防共ぼうきょう護国ごこくだん)などがいた[6]どく文学ぶんがくしゃ東京帝大とうきょうていだい教授きょうじゅ青木あおき昌吉しょうきち旧姓きゅうせい中溝なかみぞ)は中溝なかみぞ昌弘まさひろ長男ちょうなんにあたる[7]

官僚かんりょうとして

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東京とうきょう府立ふりつだい中学校ちゅうがっこう三高さんこう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ政治せいじがく卒業そつぎょうし、1933ねん内務省ないむしょう入省にゅうしょうする。入省にゅうしょう同期どうき富樫とかし総一そういちもと労働ろうどう事務次官じむじかんなど。1947ねん12月31にち内務省ないむしょう分割ぶんかつ地方ちほう自治じちちょう配属はいぞくされ、1950ねんから1952ねん7がつまで地方ちほう自治じちちょう次長じちょう、1952ねん8がつから1957ねん7がつまで自治じちちょう次長じちょう、1957ねん8がつから1958ねんまで自治じち事務次官じむじかんをそれぞれつとめ、事務次官じむじかん在任ざいにん期間きかんとしては戦後せんご最長さいちょうの8年間ねんかんだった。地方ちほう自治じちほうをはじめとする地方ちほう財政ざいせいほう自治じちだい学校がっこう設置せっちほう地方ちほう公営こうえい企業きぎょうほう地方ちほう税法ぜいほう公職こうしょく選挙せんきょほうなどの地方ちほう自治じち関連かんれんほう東京とうきょう制度せいど成立せいりつ尽力じんりょくした。

1958ねん昭和しょうわ33ねん)6がつだい2きし内閣ないかく内閣ないかく官房かんぼうふく長官ちょうかん事務じむ担当たんとう)に就任しゅうにんし、きし信介しんすけ首相しゅしょうささえる。6月17にちより憲法けんぽう調査ちょうさかい幹事かんじ兼務けんむ[8]よく1959ねん昭和しょうわ34ねん)6がつ12にちあずま龍太郎りゅうたろう東京とうきょう都知事とちじした東京とうきょうふく知事ちじ就任しゅうにんし、1967ねん昭和しょうわ42ねん)までつとめる。ひがし医学いがくしゃ出身しゅっしん行政ぎょうせいにはあまりくわしくなかったため、1964ねん東京とうきょうオリンピック開催かいさい中心ちゅうしんにした開発かいはつ計画けいかくをまとめるなど、高度こうど経済けいざい成長せいちょう都政とせい実務じつむ事実じじつじょうふく知事ちじ鈴木すずきりしきり、「ひがしふく知事ちじ鈴木すずき知事ちじ」などと揶揄やゆされることもあった。

ひがし1967ねん昭和しょうわ42ねん)に3せん出馬しゅつば表明ひょうめい鈴木すずき自由民主党じゆうみんしゅとうから都知事とちじせんへの立候補りっこうほがほぼまりかけていたが、革新かくしん陣営じんえい知名度ちめいどたか美濃部みのべ亮吉りょうきち擁立ようりつしたため、実現じつげんしなかった[9]自民党じみんとう民社党みんしゃとう擁立ようりつした立教大学りっきょうだいがく松下まつしたただし寿ことぶき総長そうちょう推薦すいせんしたが、日本にっぽん社会党しゃかいとう日本にっぽん共産党きょうさんとう推薦すいせん美濃部みのべやぶれた[10]

東京とうきょうふく知事ちじ退任たいにん日本にっぽん万国博覧会ばんこくはくらんかい事務じむ総長そうちょうつとめ、大阪おおさか万博ばんぱくたずさわった。また、首都高速道路公団しゅとこうそくどうろこうだん理事りじちょうにも就任しゅうにんした。

東京とうきょう都知事とちじ在任ざいにん

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1979ねん東京とうきょう都知事とちじ選挙せんきょ自民じみん公明こうめい民社みんしゃ新自由しんじゆうクラブ4とう推薦すいせん出馬しゅつばし、3勇退ゆうたいする美濃部みのべ知事ちじ事実じじつじょう後継こうけいしゃであったしゃども推薦すいせん太田おおたかおる総評そうひょう議長ぎちょう無所属むしょぞく麻生あそうりょうかたらをやぶり、はつ当選とうせん革新かくしん陣営じんえいから都政とせい奪還だっかんする。以後いご1995ねん平成へいせい7ねん)4がつまで、416ねんながきにわたり東京とうきょう都知事とちじつとめた。

都知事とちじ就任しゅうにん鈴木すずき最初さいしょ直面ちょくめんした課題かだい前任ぜんにん美濃部みのべのこした膨大ぼうだい財政ざいせい赤字あかじ解消かいしょうだった。鈴木すずき老人ろうじん医療いりょう無料むりょう廃止はいしするなど、美濃部みのべ革新かくしん都政とせい目玉めだま政策せいさくだった福祉ふくし大幅おおはば削減さくげん職員しょくいん給与きゅうよげにより、2には財政ざいせい黒字くろじげる。のちに長野ながの県知事けんちじつとめた田中たなか康夫やすおは、黒字くろじ達成たっせいするためには相応そうおうのことが必要ひつようであるにもかかわらず、鈴木すずき行財政ぎょうざいせい改革かいかくについてほとんど批判ひはん見聞みききしないことから鈴木すずき都政とせい関心かんしんち、週刊文春しゅうかんぶんしゅんでの連載れんさい「トーキョーだい沈入」でもげている。当時とうじは3で70だい後半こうはんになっていたが、中曽根なかそね康弘やすひろ首相しゅしょう余暇よかごしかたいた鈴木すずき秘書ひしょがどうすればスケジュールがけられるかなげくほどの仕事しごとぶりだったという[11]。のちの1991ねん東京とうきょう都知事とちじ選挙せんきょのさなかに建設けんせつすすめられていた新宿しんじゅく東京とうきょう庁舎ちょうしゃ華美かびぎるとの批判ひはん鈴木すずきけていた時期じきにも、田中たなか鈴木すずき擁護ようごしている[12]

しかし3以降いこう都庁とちょうしゃ丸ノ内まるのうちから新宿しんじゅくへの移転いてんをはじめ、東京とうきょう国際こくさいフォーラム江戸えど東京とうきょう博物館はくぶつかん東京とうきょう臨海りんかいふく都心としん開発かいはつ代表だいひょうされるはこぶつ行政ぎょうせい推進すいしん多額たがく起債きさい発行はっこうした結果けっか財政ざいせいふたた赤字あかじてんじ、美濃部みのべ革新かくしん都政とせい水準すいじゅんにまで悪化あっかした。

1991ねん東京とうきょう都知事とちじ選挙せんきょさいしては、自民党じみんとう小沢おざわ一郎いちろう幹事かんじちょう主導しゅどうにより4せん目指めざ鈴木すずき推薦すいせんせず、もとNHK記者きしゃ磯村いそむら尚徳なおのり擁立ようりつする。当時とうじ自民党じみんとう参議院さんぎいん過半数かはんすうんでおり、ねじれ国会こっかい運営うんえい円滑えんかつすすめるためには、公明党こうめいとう協力きょうりょく不可欠ふかけつであったが、当時とうじ自党じとうに80さい定年ていねんせいのルールをいていた公明党こうめいとう当時とうじ80さい鈴木すずき推薦すいせん難色なんしょくしめしたため、利害りがい一致いっちした自民じみん公明こうめい2とう磯村いそむら擁立ようりつ強行きょうこうし、民社党みんしゃとう本部ほんぶ磯村いそむら推薦すいせんする。

しかし、鈴木すずき都政とせいささえてきた粕谷あらやしげる自民党じみんとう東京とうきょうれん幹部かんぶは、とう執行しっこうによる一方いっぽうてき決定けっていもう反発はんぱつし、鈴木すずき自民じみん民社みんしゃれん推薦すいせんで4選出せんしゅつ決断けつだんする。また鈴木すずき英夫ひでおら、中道ちゅうどう・リベラルからの支持しじけ、首都しゅと東京とうきょう知事ちじえら選挙せんきょせんとう本部ほんぶれん別々べつべつ候補者こうほしゃ推薦すいせんする異例いれい事態じたい発展はってんした。都知事とちじせんには鈴木すずき磯村いそむら日本にっぽん共産党きょうさんとう推薦すいせん畑田はただ重夫しげお日本にっぽん社会党しゃかいとう推薦すいせん大原おおはら光憲みつのりのほか、無所属むしょぞく内田うちだ裕也ゆうや浜田はまだマキ子まきこ中松なかまつ義郎よしお泡沫うたかた候補こうほ次々つぎつぎ出馬しゅつばし、総勢そうぜい16にんあらそわれた。鈴木すずき高齢こうれい批判ひはんたいして有権者ゆうけんしゃまえだてたいまえこごめをしてせてわかさをアピールし、磯村いそむら銭湯せんとう高齢こうれいしゃ背中せなかながす、なりふりかまわぬパフォーマンス合戦かっせんひろげられたが、結果けっかはん鈴木すずきひょう分散ぶんさんじょうじて鈴木すずきが4せんたし、磯村いそむら擁立ようりつ主導しゅどうした小沢おざわ一郎いちろう幹事かんじちょう辞任じにんまれた。選挙せんきょ東京とうきょう都議会とぎかいでは日本にっぽん社会党しゃかいとう知事ちじ与党よとうくわわり、4事実じじつじょうオール与党よとう体制たいせい都政とせい運営うんえいおこなった。

4では1991ねん1がつ郵政省ゆうせいしょうから東京とうきょういきUHFテレビ放送ほうそうようとしてしんチャンネルがてられたことをけ、東京商工会議所とうきょうしょうこうかいぎしょなどと共同きょうどう東京とうきょうメトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)を設立せつりつ開局かいきょくけた調整ちょうせいなどにあたった[13][14][15]。しかし、このころに発生はっせいしたバブル崩壊ほうかい影響えいきょうもあり、鈴木すずき都政とせい4財政ざいせいはさらに悪化あっか鈴木すずきが5せん出馬しゅつば表明ひょうめいした1995ねん東京とうきょう都知事とちじ選挙せんきょでは、ながらく内閣ないかく官房かんぼうふく長官ちょうかんつとめた石原いしはら信雄のぶお鈴木すずき都政とせい継承けいしょううった出馬しゅつばしたが、経営けいえいコンサルタント大前おおまえ研一けんいちまえ出雲いずもちょう岩國いわくに哲人てつじん社会党しゃかいとう離党りとうしたもと衆議院しゅうぎいん議員ぎいん上田うえだあきらまえ参議院さんぎいん議員ぎいん青島あおしま幸男ゆきお有力ゆうりょく候補こうほ次々つぎつぎ立候補りっこうほはん権力けんりょく、リベラルなイメージのつよ青島ちんたおが、もとエリート官僚かんりょう石原いしはららをやぶり、圧勝あっしょうした。鈴木すずきが4開催かいさい計画けいかくしていた世界せかい都市とし博覧はくらんかい1995ねん平成へいせい7ねん)の都知事とちじせん争点そうてんし、後任こうにん青島ちんたお知事ちじにより中止ちゅうし決定けっていされた。鈴木すずき同年どうねんきた地下鉄ちかてつサリン事件じけんいにし、「都政とせいサリンをばらかれたようだ」と発言はつげんし、かく方面ほうめんから非難ひなんけた。

晩年ばんねん

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2008ねん平成へいせい20ねん)、だい2かい後藤ごとう新平しんぺいしょう受賞じゅしょう。9月11にち授賞じゅしょうしきではくるまいす姿すがたでスピーチし、元気げんき姿すがたせた。

2010ねん平成へいせい22ねん)5がつ14にち杉並すぎなみ永福えいふく自宅じたく死去しきょ。99さいぼつ青島あおしま幸男ゆきお後任こうにん都知事とちじである石原いしはら慎太郎しんたろうが5がつ21にち記者きしゃ会見かいけん鈴木すずき死去しきょ言及げんきゅうし、鈴木すずきを「地方ちほう自治じち巨星きょせい」とたか評価ひょうかした[16]

なお、平成へいせい時代じだい東京とうきょう都知事とちじつとめた人物じんぶつ国会こっかい議員ぎいん経験けいけんしていないのは鈴木すずき唯一ゆいいつである。

その役職やくしょく

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著書ちょしょ

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  • しん地方ちほう議会ぎかい運営うんえい 都道府県とどうふけん市町村しちょうそん議会ぎかい』1948ねん 時事通信社じじつうしんしゃ
  • 地方ちほう自治じち制度せいど』(公務員こうむいん選書せんしょだい4)1950ねん 学陽書房がくようしょぼう
  • 『アメリカ地方ちほう自治じちひゃく地方ちほう財務ざいむ協会きょうかい, 1951
  • 地方ちほう公務員こうむいんほう解説かいせつ時事通信社じじつうしんしゃ出版しゅっぱんきょく, 1951
  • しん地方ちほう自治じち制度せいど』(ぜんていばん)(公務員こうむいん選書せんしょだい4)1961ねん 学陽書房がくようしょぼう
  • 東京とうきょう明日あしたひら東京とうきょう都知事とちじ鈴木すずき俊一しゅんいち発言はつげんしゅう』1982ねん ぎょうせい
  • わたし履歴りれきしょ日経にっけい事業じぎょう出版しゅっぱんしゃ、1982ねん11月6にちNDLJP:12191135 
  • 世界せかい都市とし東京とうきょうかたる』1986ねん ぎょうせい ISBN 4-324-00603-2
  • 東京とうきょう・21世紀せいきへの飛翔ひしょう』1990ねん ぎょうせい ISBN 4-324-02478-2
  • 地球ちきゅう時代じだい首都しゅと経営けいえい』1994ねん ぎょうせい ISBN 4-324-04311-6
  • 回想かいそう地方ちほう自治じちじゅうねん』1997ねん ぎょうせい ISBN 4-324-05326-X
  • かんきる 鈴木すずき俊一しゅんいち回顧かいころく』(政策せいさく研究けんきゅういん政策せいさく情報じょうほうプロジェクト監修かんしゅう)1999ねん 都市とし出版しゅっぱん ISBN 4-924831-88-3
  • 鈴木すずき俊一しゅんいち著作ちょさくしゅうぜん7かん 立田たつた清士きよしへん. 良書りょうしょ普及ふきゅうかい, 2001.
だい1かん (論説ろんせつ 1)
だい2かん (論説ろんせつ 2)
だい3かん (講演こうえん 1)
だい4かん (講演こうえん2・挨拶あいさつ)
だい5かん (座談ざだんかい)
だい6かん (対談たいだん・インタヴュ)
だい7かん (皇室こうしつ巻頭かんとうごと,随想ずいそうざっさん)

共著きょうちょ

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  • 實例じつれい判例はんれい挿入そうにゅう地方ちほう自治じちほう講義こうぎ』(金丸かねまる三郎さぶろうとの共著きょうちょ講述こうじゅつ))1947ねん 東光とうこう出版しゅっぱんしゃ
  • 多摩たまルネサンスの提言ていげん さんまなぶかんみん交流こうりゅうによる多摩たまルネサンス・シンポジウム'86の記録きろく』(多摩川たまがわ流域りゅういきテクノルネサンス研究けんきゅう協会きょうかいへん共著きょうちょ)1987ねん 自治じち日報にっぽうしゃ ISBN 4-915211-08-8
  • くにづくり ロングインタビュー』〔読売よみうりぶっくれっとno.47 時代じだい証言しょうげんしゃ7)(下河辺しもこうべあつしちょ鈴木すずき俊一しゅんいちじゅつ)2005ねん 読売新聞よみうりしんぶん東京とうきょう本社ほんしゃ ISBN 4-643-05020-9

ほか多数たすう

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 東京とうきょう・21世紀せいきへの飛翔ひしょう』 355ページ
  2. ^ a b 鈴木すずき俊一しゅんいち名誉めいよ顧問こもんもと都知事とちじ)が死去しきょ | 認定にんていNPO法人ほうじん 東京とうきょう日本にっぽん中国ちゅうごく友好ゆうこう協会きょうかいにちちゅう友好ゆうこう協会きょうかい
  3. ^ 俊一しゅんいち本人ほんにん山形やまがたけんゆかりの人物じんぶつとしての紹介しょうかい県人けんじんかい参加さんかあり。
  4. ^ 越智おちあつし鈴木すずき俊一しゅんいち挑戦ちょうせん: 東京とうきょうよみがえらせた行革ぎょうかく自治じち』(サンケイ出版しゅっぱん、1982ねん)48ページ
  5. ^ 越智おちあつし鈴木すずき俊一しゅんいち挑戦ちょうせん: 東京とうきょうよみがえらせた行革ぎょうかく自治じち』(サンケイ出版しゅっぱん、1982ねん)49ページ
  6. ^ 鈴木すずき俊一しゅんいち著作ちょさくしゅう』(良書りょうしょ普及ふきゅうかい、2001ねんだい6かん462ページ
  7. ^ 古林ふるばやし亀治郎かめじろう明治めいじ人名じんめい辞典じてん』(日本にっぽん図書としょセンター)だい2かん87ページ
  8. ^ 内閣ないかく辞令じれい読売新聞よみうりしんぶん 1958ねん6がつ17にち 夕刊ゆうかん 行政ぎょうせい 1ぺーじ
  9. ^ 中川なかがわみぎかい 一気いっきにわかる都知事とちじせん歴史れきし意外いがいな「勝利しょうり法則ほうそく 現代げんだいビジネス 2016ねん7がつ18にち
  10. ^ ただし2010ねん平成へいせい22ねん)5がつ21にち石原いしはら慎太郎しんたろう知事ちじ定例ていれい記者きしゃ会見かいけんで1967ねん都知事とちじせん言及げんきゅうし、「佐藤さとう内閣ないかくのバカな選択せんたくで、鈴木すずきさんが候補者こうほしゃからはずされた」とべている。
  11. ^ 田中たなか康夫やすお『トーキョーだい沈入』「東京とうきょう都知事とちじ」、新潮しんちょう文庫ぶんこISBN 4-10-143404-2
  12. ^ 田中たなか康夫やすおかみなきくにのガリバー」 扶桑社ふそうしゃ、1991ねん ISBN 9784594007911
  13. ^ なお、TOKYO MXは都知事とちじ退任たいにんから半年はんとしとなる1995ねん11月1にち開局かいきょくした。
  14. ^ 社団しゃだん法人ほうじん日本にっぽんケーブルテレビ連盟れんめい (2005ねん6がつ). “年表ねんぴょう昭和しょうわ61ねん平成へいせい15ねん”. 日本にっぽんのケーブルテレビ発展はってん. p. 209. 2020ねん11月19にち閲覧えつらん
  15. ^ 2020ねん11がつにち開局かいきょく記念きねんしき会長かいちょう社長しゃちょう挨拶あいさつ”. 東京とうきょうメトロポリタンテレビジョン株式会社かぶしきがいしゃ (2020ねん11月2にち). 2020ねん11月19にち閲覧えつらん
  16. ^ 石原いしはら知事ちじ記者きしゃ会見かいけん(平成へいせい22ねん5がつ21にち)|東京とうきょう”. www.metro.tokyo.jp. 2018ねん7がつ28にち閲覧えつらん
公職こうしょく
先代せんだい
美濃部みのべ亮吉りょうきち
  東京とうきょう都知事とちじ
公選こうせんだい9 - 12だい:1979ねん - 1995ねん
次代じだい
青島あおしま幸男ゆきお
官職かんしょく
先代せんだい
自治じちちょう次長じちょう
  自治じちちょう次長じちょう自治じちちょう
1957ねん - 1958ねん
次代じだい
小林こばやし與三次よそじ
先代せんだい
新設しんせつ
  自治じちちょう次長じちょう地方ちほう自治じちちょう
1952ねん - 1957ねん
次代じだい
自治じちちょう次長じちょう自治じちちょう
先代せんだい
荻田おぎたたもつ
  地方ちほう自治じちちょう次長じちょう
1950ねん - 1952ねん
次代じだい
自治じちちょう次長じちょう地方ちほう自治じちちょう
先代せんだい
内務省ないむしょう地方ちほうきょく臨時りんじ業務ぎょうむ課長かちょう
  内務省ないむしょう地方ちほうきょく行政ぎょうせい課長かちょう
1945ねん - 1947ねん
次代じだい
小林こばやし與三次よそじ
先代せんだい
内務省ないむしょう地方ちほうきょく行政ぎょうせい課長かちょう
  内務省ないむしょう地方ちほうきょく臨時りんじ業務ぎょうむ課長かちょう
1945ねん
次代じだい
内務省ないむしょう地方ちほうきょく行政ぎょうせい課長かちょう
その役職やくしょく
先代せんだい
はやし敬三けいぞう
日本にっぽん善行ぜんこうかい会長かいちょう
だい7だい:1990ねん - 2004ねん
次代じだい
川村かわむらあきらあきら
先代せんだい
奥田おくだ良三りょうぞう
奈良なら県知事けんちじ
全国ぜんこく知事ちじかい会長かいちょう
だい6だい:1980ねん - 1995ねん
次代じだい
長野ながの士郎しろう
岡山おかやま県知事けんちじ