梵 英心 えいしん JFE西日本 にしにほん 硬式 こうしき 野球 やきゅう 部 ぶ コーチ
広島 ひろしま 時代 じだい の2012年 ねん 9月 がつ 8日 にち (マツダスタジアム)
基本 きほん 情報 じょうほう 国籍 こくせき
日本 にっぽん 出身 しゅっしん 地 ち
広島 ひろしま 県 けん 三次 みつぎ 市 し 生年月日 せいねんがっぴ
(1980-10-11 ) 1980年 ねん 10月11日 にち (43歳 さい ) 身長 しんちょう 体重 たいじゅう
173 cm 76 kg 選手 せんしゅ 情報 じょうほう 投球 とうきゅう ・打席 だせき
右 みぎ 投 とう 右 みぎ 打 だ ポジション
三塁手 さんるいしゅ 、遊撃手 ゆうげきしゅ プロ入 い り
2005年 ねん 大学生 だいがくせい ・社会 しゃかい 人 じん ドラフト3巡 じゅん 目 め 初 はつ 出場 しゅつじょう
2006年 ねん 3月 がつ 31日 にち 最終 さいしゅう 出場 しゅつじょう
2016年 ねん 9月 がつ 8日 にち 経歴 けいれき (括弧 かっこ 内 ない はプロチーム在籍 ざいせき 年度 ねんど )
選手 せんしゅ 歴 れき
コーチ歴 れき
梵 英心 えいしん (そよぎ えいしん、1980年 ねん 10月11日 にち - )は、広島 ひろしま 県 けん 三次 みつぎ 市 し 出身 しゅっしん の元 もと プロ野球 やきゅう 選手 せんしゅ (内野 ないや 手 しゅ )、野球 やきゅう 指導 しどう 者 しゃ 、野球 やきゅう 解説 かいせつ 者 しゃ 。
経歴 けいれき
プロ入 い り前 まえ
実家 じっか は浄土真宗 じょうどしんしゅう 本願寺 ほんがんじ 派 は 専 せん 法 ほう 寺 てら 。永川 えいかわ 勝浩 かつひろ とは三次 みつぎ 市 し の同 おな じ少年 しょうねん 野球 やきゅう チームに所属 しょぞく した幼 おさな なじみ。高校 こうこう 時代 じだい も1度 ど だけ公式 こうしき 戦 せん で対戦 たいせん があり、この時 とき は3打数 だすう 3安打 あんだ だった。しかし大学 だいがく 野球 やきゅう 時代 じだい は永川 えいかわ から1本 ほん もヒットを打 う てなかった。三 さん 次 じ 高校 こうこう 時代 じだい は、2年 ねん 夏 なつ のベスト16が最高 さいこう 、3年 ねん 夏 なつ は2回戦 かいせん 敗退 はいたい (広島工 ひろしまこう に惜敗 せきはい )。東都 とうと 大学 だいがく 野球 やきゅう の駒澤大学 こまざわだいがく に進学 しんがく し、2年 ねん 秋 あき からレギュラー。4年 ねん 春 はる に最下位 さいかい となってチーム初 はつ の2部 ぶ 降格 こうかく を経験 けいけん 。1部 ぶ リーグ通算 つうさん 42試合 しあい に出場 しゅつじょう 、141打数 だすう 33安打 あんだ 、打率 だりつ .234、2本塁打 ほんるいだ 、11打点 だてん を記録 きろく 。卒業 そつぎょう 後 ご は、社会 しゃかい 人 じん 野球 やきゅう の日産自動車 にっさんじどうしゃ に入社 にゅうしゃ 。第 だい 76回 かい 都市 とし 対抗 たいこう 野球 やきゅう 大会 たいかい ではチームの準 じゅん 優勝 ゆうしょう に大 おお きく貢献 こうけん 。首位 しゅい 打者 だしゃ を獲得 かくとく し、久慈賞 くじしょう を受賞 じゅしょう した。その年 とし オランダで行 おこな われたIBAFワールドカップ では日本 にっぽん 代表 だいひょう に選 えら ばれ、2005年 ねん 度 ど 社会 しゃかい 人 じん 野球 やきゅう ベストナイン を受賞 じゅしょう した。
2005年 ねん のNPB大学生 だいがくせい ・社会 しゃかい 人 じん ドラフト会議 かいぎ で、地元 じもと 球団 きゅうだん の広島東洋 ひろしまとうよう カープ から3巡 じゅん 目 め で指名 しめい 。契約 けいやく 金 きん 1億 おく 円 えん 、年俸 ねんぽう 1,400万 まん 円 えん (金額 きんがく は推定 すいてい )という条件 じょうけん で入団 にゅうだん した。入団 にゅうだん 当初 とうしょ の背番号 せばんごう は32 。
広島 ひろしま 時代 じだい
2006年 ねん 、オープン戦 せん の活躍 かつやく で開幕 かいまく 一軍 いちぐん を勝 か ち取 と り、ナゴヤドーム で中日 ちゅうにち ドラゴンズ との開幕 かいまく 戦 せん に6番 ばん ・二塁手 にるいしゅ でスターティングメンバー に抜擢 ばってき される。カープでの新人 しんじん 開幕 かいまく スタメンは1969年 ねん の山本 やまもと 浩司 こうじ 以来 いらい 37年 ねん ぶり。更 さら に1961年 ねん の山本 やまもと 一義 かずよし 以来 いらい 45年 ねん ぶりのヒットも放 はな った。アマチュア時代 じだい は遊撃手 ゆうげきしゅ だったが、プロ入団 にゅうだん 後 ご は二塁手 にるいしゅ の守備 しゅび にも就 つ くようになった。プロ入 い り当初 とうしょ は強肩 きょうけん と俊足 しゅんそく を生 い かし守備 しゅび 範囲 はんい は広 ひろ かったが、捕 と 球 たま →送球 そうきゅう の動作 どうさ が俊敏 しゅんびん でなかった為 ため 、遊撃手 ゆうげきしゅ の見 み せ場 ば の一 ひと つである間一髪 かんいっぱつ のダブルプレー がアウトにできなかった。
開幕 かいまく 直後 ちょくご は攻守 こうしゅ にミスが目立 めだ ったが、マーティ・ブラウン 監督 かんとく が辛抱強 しんぼうづよ く起用 きよう し続 つづ けた結果 けっか 、開幕 かいまく 当初 とうしょ 1割 わり にも満 み たなかった打率 だりつ を3割 わり 近 ちか くに上 あ げ、好守 こうしゅ も見 み せるようになるなど短期間 たんきかん で攻守 こうしゅ ともに急 きゅう 成長 せいちょう 。また得点 とくてん 圏 けん 打率 だりつ は3割 わり 5分 ふん を超 こ え、狭 せま い広島 ひろしま 市民 しみん 球場 きゅうじょう を本拠地 ほんきょち とする右 みぎ 打者 だしゃ ながら両 りょう リーグ通 つう じて単独 たんどく トップとなる8本 ほん の三塁打 さんるいだ を放 はな った。盗塁 とうるい もチームトップの13個 こ 。東出 ひがしで 輝 あきら 裕 ひろし と二 に 遊 ゆう 間 あいだ を守 まも り、広島 ひろしま 打線 だせん の1、2番 ばん コンビとして定着 ていちゃく した。7月13日 にち の阪神 はんしん タイガース戦 たたかえ (甲子園 こうしえん 球場 きゅうじょう )で先制 せんせい ソロにタイムリーを含 ふく む2二塁打 にるいだ を放 はな ち、守備 しゅび ではファインプレーも飛 と び出 だ し、その日 ひ のお立 た ち台 だい に立 た った。そのヒーローインタビューで、試合 しあい 中 ちゅう マウンドへ寄 よ った(投手 とうしゅ ・黒田 くろだ 博樹 ひろき )時 じ のことを聞 き かれて「黒田 くろだ さんがワンパターンなリズムで投 な げてたので間 あいだ を置 お きたかった 」と新人 しんじん にもかかわらず大胆 だいたん な発言 はつげん をした。9月7日 にち の横浜 よこはま 戦 たたかえ (下関 しものせき 球場 きゅうじょう )でエンタイトル二塁打 にるいだ を放 はな ち、1958年 ねん に小坂 こさか 佳 けい 隆 たかし が記録 きろく した新人 しんじん 安打 あんだ 数 すう 球団 きゅうだん 記録 きろく (112本 ほん )を48年 ねん ぶりに更新 こうしん した。しかし、9月26日 にち の試合 しあい 前 まえ の練習 れんしゅう 中 ちゅう 、コーチのノックがイレギュラーして右目 みぎめ を直撃 ちょくげき 、検査 けんさ の結果 けっか 「右 みぎ 眼窩 がんか 部 ぶ 打撲 だぼく 」と診断 しんだん され登録 とうろく 抹消 まっしょう 。横浜 よこはま ・吉村 よしむら 裕 ひろし 基 もと 、中日 ちゅうにち の佐藤 さとう 充 たかし と争 あらそ ってきた新人 しんじん 王 おう 争 あらそ いにはまだまだアピールが必要 ひつよう であり、また、新人 しんじん でありながらチームの攻守 こうしゅ の要 よう であるため梵本人 じん は勿論 もちろん 、チームにとっても非常 ひじょう に痛 いた い戦線 せんせん 離脱 りだつ であった。その日 ひ はベンチ裏 うら で人目 ひとめ もはばからず号泣 ごうきゅう 。そして10月 がつ 14日 にち の阪神 はんしん 戦 せん で復帰 ふっき し、8回 かい に代打 だいだ 出場 しゅつじょう 。そのまま守備 しゅび に就 つ き、打球 だきゅう も無難 ぶなん に処理 しょり しファンを安堵 あんど させる(守備 しゅび 時 じ には未 いま だ赤 あか い目 め に防御 ぼうぎょ 用 よう ゴーグルを着用 ちゃくよう であった)。
最終 さいしゅう 的 てき には打率 だりつ .289、安打 あんだ 数 すう 130という結果 けっか でルーキーシーズンを終 お えた。その結果 けっか 、横浜 よこはま の吉村 よしむら 裕 ひろし 基 もと に倍 ばい 以上 いじょう の票 ひょう 差 さ をつけて入団 にゅうだん 会見 かいけん での公言 こうげん 通 どお り、2006年度 ねんど の新人 しんじん 王 おう 獲得 かくとく 。広島 ひろしま の新人 しんじん 王 おう は1997年 ねん の澤崎 さわさき 俊和 としかず 以来 いらい 9年 ねん ぶり、野手 やしゅ では1984年 ねん の小早川 こばやかわ 毅彦 たけひこ 以来 いらい 2人 にん 目 め である。同 どう 学年 がくねん (松坂 まつさか 世代 せだい )で二 に 遊 ゆう 間 あいだ を組 く む東出 ひがしで と2人 ふたり でゴールデングラブを受賞 じゅしょう することを目標 もくひょう とし、秋季 しゅうき キャンプ で東出 ひがしで と常 つね に行動 こうどう を共 とも にするなど、息 いき を合 あ わせるようにしていた。
オフに背番号 せばんごう を6 に変更 へんこう 。また、実家 じっか であるお寺 てら を、ブラウン監督 かんとく が直々 じきじき に訪 おとず れている。12月16日 にち に男児 だんじ が誕生 たんじょう する。梵の新人 しんじん 王 おう 受賞 じゅしょう を記念 きねん して、地元 じもと 三 さん 次 じ 市 し の白 はく 蘭 らん 酒造 しゅぞう が清酒 せいしゅ 『英心 えいしん 』を発売 はつばい した。720mlの本 ほん 醸造 じょうぞう 酒 しゅ で、梵英心 しん のサイン入 い りポストカードが1枚 まい 付 つ いている。2006-2007のオフにローカルラジオ番組 ばんぐみ DO THE CARP にてDJの一人 ひとり を務 つと める。その際 さい リスナーからDJ名 めい が公募 こうぼ され、「DJ-Ashin」と名付 なづ けられた。
2007年 ねん はバットを前年 ぜんねん よりも長 なが く持 も ち、長打 ちょうだ も狙 ねら って行 い くスタイルに切 き り替 か えを図 はか ったのが功 こう を奏 そう してか、18本塁打 ほんるいだ を記録 きろく 。しかしポップフライや三振 さんしん が増 ふ える等 ひとし 、1番 ばん 打者 だしゃ としては淡白 たんぱく な打撃 だげき になった。シーズン後半 こうはん には6番 ばん として出場 しゅつじょう するなど、長打 ちょうだ 力 りょく を活 い かした配置 はいち 転換 てんかん を試 ため され、前年 ぜんねん に比 くら べて大 おお きく打撃 だげき スタイルが変化 へんか した。ただし打率 だりつ こそ大 おお きく落 お ちたものの安打 あんだ 数 すう は前年 ぜんねん に比 くら べて増 ふ えており(打席 だせき 数 すう が増 ふ えた事 こと も要因 よういん ではあるが)、四球 しきゅう 数 すう も前年 ぜんねん 27個 こ に対 たい し、51個 いっこ 選 えら んだ。これは長打 ちょうだ 力 りょく の向上 こうじょう や1年 ねん 目 め の活躍 かつやく により相手 あいて 投手 とうしゅ から警戒 けいかい され、コーナーをつく球 たま が増 ふ えたこと、それを見極 みきわ める力 ちから が向上 こうじょう したことによる。
守備 しゅび 面 めん も向上 こうじょう を見 み せ、ショートとしては両 りょう リーグ唯一 ゆいいつ の100併殺 へいさつ を達成 たっせい 。失策 しっさく はショートではセリーグ最多 さいた だったが、RF(レンジファクター)(守備 しゅび 率 りつ を参照 さんしょう )は両 りょう リーグでも1位 い だった。
2008年 ねん 、開幕 かいまく を2番 ばん 打者 だしゃ として迎 むか えるが、開幕 かいまく から昨年 さくねん 以上 いじょう の低 てい 打率 だりつ に陥 おちい り、また長打 ちょうだ もほとんど出 で なくなる。4月19日 にち の巨人 きょじん 2回戦 かいせん (広島 ひろしま )ではヘルメットを叩 たた きつけて懲罰 ちょうばつ 交代 こうたい を受 う けたり、4月 がつ 25日 にち の横浜 よこはま 4回戦 かいせん (横浜 よこはま )では守備 しゅび において指示 しじ を無視 むし した独断 どくだん 行動 こうどう を取 と ったことが決定 けってい 打 だ となり、4月 がつ 末 まつ にプロ入 い り初 はつ の不調 ふちょう が原因 げんいん による二 に 軍 ぐん 落 お ちを経験 けいけん 。一軍 いちぐん 復帰 ふっき 後 ご は打順 だじゅん を7番 ばん ・8番 ばん などの下位 かい に下 さ げて起用 きよう されたものの、夏場 なつば には打率 だりつ 2割 わり を切 き るまでに至 いた り、再 ふたた び二 に 軍 ぐん 落 お ちを余儀 よぎ なくされる。調整 ちょうせい を経 へ てすぐに一軍 いちぐん に復帰 ふっき したものの、新人 しんじん の小 しょう 窪 くぼ 哲也 てつや に正 せい 遊撃手 ゆうげきしゅ のポジションを奪 うば われ出場 しゅつじょう 機会 きかい は大 おお きく減少 げんしょう した。最終 さいしゅう 的 てき に97試合 しあい の出場 しゅつじょう で打率 だりつ .223、1本塁打 ほんるいだ 、17打点 だてん 、8盗塁 とうるい と、あらゆる部門 ぶもん で自己 じこ 最低 さいてい の成績 せいせき に終 お わった。
守備 しゅび 面 めん ではエラーこそ多 おお かったものの、RFを発展 はってん させたRRFでは鳥谷 とりたに 敬 たかし をわずかにしのぎセ・リーグ 1位 い であった(ただし、鳥谷 とりたに より出場 しゅつじょう 試合 しあい は40試合 しあい 以上 いじょう 少 すく ない。また両 りょう リーグ合 あ わせると金子 かねこ 誠 まこと がトップ)。
2009年 ねん 、横浜 よこはま から石井 いしい 琢朗 たくろう が加入 かにゅう し、遊撃手 ゆうげきしゅ のポジション争 あらそ いが激化 げきか するが、首脳 しゅのう 陣 じん からの期待 きたい は大 おお きく、開幕 かいまく 戦 せん で3番 ばん に抜擢 ばってき される。開幕 かいまく 直後 ちょくご は下位 かい を打 う ったり、石井 いしい と併用 へいよう されたりもしたが、交流 こうりゅう 戦 せん から1番 ばん を打 う つ機会 きかい が増 ふ えると調子 ちょうし を取 と り戻 もど し、チームも交流 こうりゅう 戦 せん の優勝 ゆうしょう 争 あらそ いを演 えん じる。しかし、交流 こうりゅう 戦 せん が終 お わりセ・リーグ相手 あいて になると再 ふたた び打 う てなくなり下位 かい を打 う つ機会 きかい が増 ふ え、結局 けっきょく 8月 がつ 上旬 じょうじゅん の試合 しあい 直前 ちょくぜん に「チーム事情 じじょう 」による突然 とつぜん の二 に 軍 ぐん 落 お ち。前年 ぜんねん 同様 どうよう 、小窪 おくぼ に正 せい 遊撃手 ゆうげきしゅ を奪 うば われてしまった。二 に 軍 ぐん でも昇格 しょうかく を大 おお きくアピールするだけの成績 せいせき は残 のこ せずこの年 とし 一軍 いちぐん 復帰 ふっき は無 な かった。出場 しゅつじょう 試合 しあい 数 すう は前年 ぜんねん を更 さら に下回 したまわ る73試合 しあい に終 お わり、打撃 だげき 成績 せいせき も長打 ちょうだ の数 かず や盗塁 とうるい を除 のぞ けば前年 ぜんねん とほとんど変 か わらない成績 せいせき に終 お わる。
野村 のむら 謙二郎 けんじろう を新 しん 監督 かんとく に迎 むか えた2010年 ねん 、小窪 おくぼ とのポジション争 あらそ いが注目 ちゅうもく される中 なか 、オープン戦 せん では打率 だりつ .227と振 ふ るわなかったものの、両 りょう リーグ1位 い の8盗塁 とうるい を記録 きろく し、開幕 かいまく を2番 ばん ・遊撃手 ゆうげきしゅ で迎 むか える。シーズンに入 はい ると3割 わり 前後 ぜんこう の打率 だりつ を維持 いじ し、1番 ばん 東出 ひがしで 輝 あきら 裕 ひろし と共 とも に不動 ふどう のリードオフマンとして低迷 ていめい するチームの中 なか で気 き を吐 は いた。東出 ひがしで の故障 こしょう による離脱 りだつ 後 ご は1番 ばん に座 すわ り、チーム唯一 ゆいいつ の全 ぜん 試合 しあい 出場 しゅつじょう を果 は たすなど、シーズン終了 しゅうりょう まで安定 あんてい した活躍 かつやく を見 み せた。3年 ねん ぶりの規定 きてい 打席 だせき に到達 とうたつ するとともに初 はつ の打率 だりつ 3割 わり を達成 たっせい 。また13本塁打 ほんるいだ を打 う ち長打 ちょうだ 力 りょく が戻 もど り、3年 ねん ぶりの二 に 桁 けた 本塁打 ほんるいだ となった。横浜 よこはま ベイスターズ の石川 いしかわ 雄 つよし 洋 よう に競 せ り勝 か ち、自己 じこ 最高 さいこう の43盗塁 とうるい を記録 きろく し、盗塁 とうるい 王 おう (チームでは1997年 ねん の緒方 おがた 孝 たかし 市 し 以来 いらい 13年 ねん ぶり)を獲得 かくとく した。更 さら にリーグ4位 い の36犠打 ぎだ 、自身 じしん 初 はつ となるゴールデングラブ賞 しょう も受賞 じゅしょう するなど、過去 かこ 2年 ねん の不振 ふしん からの完全 かんぜん 復活 ふっかつ を果 は たしたシーズンとなった。
打席 だせき での梵(2017/7/28 ウエスタンリーグ)2011年 ねん も開幕 かいまく から遊撃手 ゆうげきしゅ のレギュラーとして起用 きよう されるが、6月29日 にち の試合 しあい 中 ちゅう に自 じ 打球 だきゅう が左 ひだり 膝 ひざ に直撃 ちょくげき し、膝蓋骨 しつがいこつ 骨 こつ 挫傷 ざしょう で長期 ちょうき 離脱 りだつ となった。8月23日 にち には二 に 軍 ぐん の試合 しあい に復帰 ふっき したがすぐに痛 いた みが再発 さいはつ し、本格 ほんかく 的 てき な練習 れんしゅう を再開 さいかい できないままシーズンを終 お えた[ 1] 。
2012年 ねん は膝 ひざ の怪我 けが から復帰 ふっき して再 ふたた び遊撃手 ゆうげきしゅ のレギュラーに定着 ていちゃく し、この年 とし のチーム内 ない では2番目 ばんめ に多 おお い137試合 しあい に出場 しゅつじょう した。
2013年 ねん は膝 ひざ の状態 じょうたい に配慮 はいりょ して安部 あべ らと併用 へいよう されたため、遊撃手 ゆうげきしゅ としての先発 せんぱつ 出場 しゅつじょう は105試合 しあい にとどまり規定 きてい 打席 だせき にはわずかに届 とど かなかったが、安定 あんてい した守備 しゅび 、得点 とくてん 圏 けん 打率 だりつ .317を残 のこ すなど勝負 しょうぶ 強 つよ い打撃 だげき を見 み せた。12月2日 にち 、東出 ひがしで 輝 あきら 裕 ひろし に代 か わり新 あら たにチームの選手 せんしゅ 会長 かいちょう に就任 しゅうにん した。[ 2]
2014年 ねん はシーズン前半 ぜんはん こそ不調 ふちょう だったが、夏場 なつば に入 はい り7,8月 がつ に続 つづ けて月間 げっかん 3割 わり を記録 きろく するなど復調 ふくちょう 。また同 どう 時期 じき より田中 たなか 広 ひろ 輔 の台頭 たいとう や膝 ひざ の負担 ふたん 軽減 けいげん 目的 もくてき により、プロ入 い り後 ご 初 はつ となる三塁手 さんるいしゅ での起用 きよう が中心 ちゅうしん になった。最終 さいしゅう 的 てき に前年 ぜんねん とほぼ変 か わらない出場 しゅつじょう 数 すう を記録 きろく したが、打率 だりつ は.269と落 お とした。
2015年 ねん は開幕 かいまく から打率 だりつ .196と不調 ふちょう だった。5月に打率 だりつ .359と調子 ちょうし を上 あ げたものの、それ以降 いこう は調子 ちょうし を徐々 じょじょ に下 さ げていき、特 とく に9月 がつ は打率 だりつ .056となり、9月24日 にち の登録 とうろく 抹消 まっしょう 、以後 いご 1軍 ぐん 登録 とうろく は無 な かった。打撃 だげき 不振 ふしん での登録 とうろく 抹消 まっしょう は約 やく 6年 ねん ぶりとなった。最終 さいしゅう 的 てき に打率 だりつ .237、6本 ほん 、27打点 だてん と4年 ねん ぶりに打率 だりつ .240台 だい を切 き り、打点 だてん も4年 ねん ぶりに40打点 だてん を切 き った。
2016年 ねん は自主 じしゅ トレで山 やま 籠 こ もりを行 おこな う[ 3] など精力 せいりょく 的 てき に調整 ちょうせい を行 おこな ったが、春季 しゅんき キャンプは二 に 軍 ぐん スタートとなった[ 4] 。シーズンは初 はつ 昇格 しょうかく が8月 がつ 28日 にち と大半 たいはん を二 に 軍 ぐん で過 す ごし、プロ入 い り後 ご 初 はつ の無 む 安打 あんだ に終 お わった。
2017年 ねん には、プロ入 い り後 ご 初 はじ めて、一軍 いちぐん 公式 こうしき 戦 せん での出場 しゅつじょう 機会 きかい が無 な かった[ 5] 。10月3日 にち には、NPB他 た 球団 きゅうだん での現役 げんえき 続行 ぞっこう を視野 しや に、自由 じゆう 契約 けいやく 扱 あつか いで広島 ひろしま から退団 たいだん することを発表 はっぴょう [ 6] [ 5] 。広島 ひろしま の選手 せんしゅ としては、9月28日 にち のウエスタン・リーグ 最終 さいしゅう 戦 せん (甲子園 こうしえん での阪神 はんしん 戦 せん )7回 かい 表 ひょう に代打 だいだ で放 はな った適時 てきじ 打 だ (1安打 あんだ ・1打点 だてん )と、後続 こうぞく 打者 だしゃ の安打 あんだ による1得点 とくてん が公式 こうしき 戦 せん 最後 さいご の記録 きろく になった。12月2日 にち 付 づけ で、NPB から自由 じゆう 契約 けいやく 選手 せんしゅ として公示 こうじ [ 7] 。
広島 ひろしま 退団 たいだん 後 ご
2017年 ねん 11月15日 にち に地元 じもと のマツダスタジアムで開 ひら かれた12球団 きゅうだん 合同 ごうどう トライアウト へ参加 さんか しない一方 いっぽう で、アジア圏 けん や欧米 おうべい でのプレーも視野 しや に入 い れながら、プロ野球 やきゅう 選手 せんしゅ としての現役 げんえき 続行 ぞっこう を模索 もさく していた[ 8] 。しかし、NPBの他 た 球団 きゅうだん から獲得 かくとく のオファーを受 う けるまでには至 いた らず、日産自動車 にっさんじどうしゃ 時代 じだい の先輩 せんぱい ・養父 やぶ 鐵 てつ (元 もと ソフトバンク投手 とうしゅ )の勧 すす めで2018年 ねん の春先 はるさき に視察 しさつ したアメリカ の独立 どくりつ リーグ[ 9] でも進展 しんてん がなかった。
その一方 いっぽう で、人材 じんざい 派遣 はけん やアスリートのマネジメント業務 ぎょうむ を手掛 てが けるエイジェックの傘下 さんか 企業 きぎょう とつながりがあったことや、エイジェックが2018年 ねん 1月 がつ に栃木 とちぎ 県内 けんない で男子 だんし 硬式 こうしき 野球 やきゅう 部 ぶ を創部 そうぶ (同年 どうねん 2月 がつ に栃木 とちぎ 県 けん 野球 やきゅう 連盟 れんめい へ加盟 かめい )したことを背景 はいけい に、同社 どうしゃ から入社 にゅうしゃ を打診 だしん 。その結果 けっか 、「NPBでのプレー(を再開 さいかい )したい気持 きも ちはあるが、比重 ひじゅう は(広島 ひろしま からの退団 たいだん 当初 とうしょ より)小 ちい さくなりつつある。(自分 じぶん は)社会 しゃかい 人 じん 野球 やきゅう で育 そだ てられたので、(社会 しゃかい 人 じん 球界 きゅうかい へ)少 すこ しでも恩返 おんがえ しができればしたい」との思 おも いに至 いた った[ 10] 。
2018年 ねん 6月1日 にち 付 づけ で、エイジェックに正社員 せいしゃいん として入社 にゅうしゃ [ 11] 。選手 せんしゅ 兼任 けんにん コーチとして、とともに、同社 どうしゃ の硬式 こうしき 野球 やきゅう 部 ぶ に加 くわ わった[ 12] 。
2019年 ねん からは、エイジェックに在籍 ざいせき したまま、広島 ひろしま OBの立場 たちば で野球 やきゅう 解説 かいせつ 者 しゃ としても活動 かつどう 。J SPORTS やDAZN の広島 ひろしま 戦 せん 中継 ちゅうけい に、ゲスト解説 かいせつ 者 しゃ とし随時 ずいじ 出演 しゅつえん している。
2019年 ねん 10月11日 にち に、選手 せんしゅ として現役 げんえき を引退 いんたい することを自身 じしん のブログで発表 はっぴょう [ 13] 。同月 どうげつ 28日 にち に、東京 とうきょう 都内 とない で引退 いんたい 記者 きしゃ 会見 かいけん を開 ひら いた。現役 げんえき 引退 いんたい を機 き に男子 だんし 硬式 こうしき 野球 やきゅう 部 ぶ のコーチも退任 たいにん するが、2020年 ねん 以降 いこう も同社 どうしゃ スポーツ部門 ぶもん で小中学生 しょうちゅうがくせい が対象 たいしょう のアカデミーで指導 しどう などに携 たずさ わる一方 いっぽう で、野球 やきゅう 解説 かいせつ 者 しゃ としての活動 かつどう も続 つづ ける[ 14] 。
広島 ひろしま 時代 じだい のチームメイトで同郷 どうきょう ・三次 みつぎ 市 し 出身 しゅっしん で幼馴染 おさななじみ だった永川 えいかわ 勝浩 かつひろ も同年 どうねん に現役 げんえき を引退 いんたい していたことから、2人 ふたり の同級生 どうきゅうせい ら約 やく 30人 にん が実行 じっこう 委員 いいん 会 かい となって2人 ふたり の引退 いんたい セレモニーが計画 けいかく され、2019年 ねん 12月14日 にち に三 さん 次 じ きんさいスタジアム にて開催 かいさい された[ 15] [ 16] 。また、同月 どうげつ 25日 にち には梵の所属 しょぞく 事務所 じむしょ ・RIGHTS.が主催 しゅさい となってグランドプリンスホテル広島 ひろしま にて「梵英心 しん ×永川 えいかわ 勝浩 かつひろ スペシャルディナートークショー」も開催 かいさい され[ 17] 、広島 ひろしま 時代 じだい のチームメイトで同 どう 学年 がくねん の江草 えぐさ 仁 じん 貴 とうと や鞘 さや 師 し 智也 ともや 、3学年 がくねん 下 か の天谷 あまや 宗 そう 一郎 いちろう も参加 さんか した[ 18] 。
2020年 ねん 、引 ひ き続 つづ きエイジェックに在籍 ざいせき しつつ、広島 ひろしま 県 けん を本拠地 ほんきょち とする社会 しゃかい 人 じん 野球 やきゅう チームのJFE西日本 にしにほん 硬式 こうしき 野球 やきゅう 部 ぶ のコーチに就任 しゅうにん することを発表 はっぴょう した[ 19] 。
人物 じんぶつ
実家 じっか は江戸 えど 時代 じだい 初期 しょき から続 つづ く浄土真宗 じょうどしんしゅう 本願寺 ほんがんじ 派 は 専 せん 法 ほう 寺 てら である。そのため2006年 ねん の春季 しゅんき キャンプの紅白 こうはく 戦 せん で初 はつ 本塁打 ほんるいだ を放 はな った時 とき には、嶋 しま 重 しげる 宣 せん や福井 ふくい 敬 たかし 治 ち から合掌 がっしょう で出迎 でむか えを受 う けていた。
梵 姓 せい は仏教 ぶっきょう 用語 ようご に由来 ゆらい し、真宗 しんしゅう 僧侶 そうりょ が明治 めいじ 期 き になって名字 みょうじ を公称 こうしょう する際 さい に命名 めいめい した奇 き 姓 せい の一 ひと つである(ほかに「禿 かぶろ (かむろ、かぶろ)」姓 せい など)。読 よ み方 かた のそよぎ は梵の父親 ちちおや によると、「祖先 そせん がなぜ“そよぎ”と読 よ んだかは分 わ からない。ただ“凡”を“風 ふう ”にとらえ、“林 はやし ”に“風 ふう ”が吹 ふ いて“そよぐ”としたのでは。頓知 とんち が効 き いた人 ひと だったかも」との事 こと である。ただ「梵」を「そよぎ」となかなか読 よ んで貰 もら えず、本人 ほんにん 曰 いわ く「(梵語 ぼんご 〔ぼんご〕の読 よ みから)ボンちゃんと呼 よ ばれてもしょうがないスよね」とのこと。なお、チーム内 ない ではブラウン元 もと 監督 かんとく 発祥 はっしょう の「ヨギ」という呼称 こしょう が広 ひろ まっているという。本人 ほんにん は、親戚 しんせき 以外 いがい で同姓 どうせい の人 ひと には会 あ った事 こと が無 な いという(プロ野球 やきゅう ai ・2006年 ねん 5月 がつ 号 ごう より)。
NPBでは2000安打 あんだ を目標 もくひょう に置 お いていたが、広島 ひろしま 時代 じだい の11年間 ねんかん に一軍 いちぐん の公式 こうしき 戦 せん で放 はな った安打 あんだ 数 すう は990本 ほん だった。また、広島 ひろしま への入団 にゅうだん 当初 とうしょ に背番号 せばんごう 32をあてがわれたことから、(大学 だいがく の先輩 せんぱい である野村 のむら 謙二郎 けんじろう が現役 げんえき 時代 じだい に付 つ けていた)背番号 せばんごう 7 を付 つ けることも目標 もくひょう に挙 あ げていた。しかし、2007年 ねん の背番号 せばんごう 変更 へんこう 以降 いこう は、2017年 ねん に退団 たいだん するまで6 を着用 ちゃくよう した。
趣味 しゅみ は料理 りょうり 、好 す きな言葉 ことば は「ポジティブ」・「前向 まえむ き」。小柄 こがら ながらリストが強 つよ く、広島 ひろしま 時代 じだい の2007年 ねん には、一軍 いちぐん 公式 こうしき 戦 せん で18本塁打 ほんるいだ を記録 きろく したほどのパンチ力 りょく を持 も つ打撃 だげき が持 も ち味 あじ 。好 す きな食 た べ物 もの は焼肉 やきにく 。
詳細 しょうさい 情報 じょうほう
年度 ねんど 別 べつ 打撃 だげき 成績 せいせき
年 とし 度 ど
球 たま 団 だん
試 ためし 合 ごう
打 だ 席 せき
打 だ 数 かず
得 とく 点 てん
安 やす 打 だ
二 に 塁 るい 打 だ
三 さん 塁 るい 打 だ
本 ほん 塁 るい 打 だ
塁 るい 打 だ
打 だ 点 てん
盗 ぬすめ 塁 るい
盗 ぬすめ 塁 るい 死 し
犠打 だ
犠飛 ひ
四 よん 球 たま
敬 けい 遠 とお
死 し 球 たま
三 さん 振 ふ
併殺 ころせ 打 だ
打 だ 率 りつ
出 で 塁 るい 率 りつ
長 なが 打 だ 率 りつ
O P S
2006
広島 ひろしま
123
494
450
78
130
20
8
8
190
36
13
5
12
2
27
0
3
62
8
.289
.332
.422
.754
2007
136
588
519
69
135
20
4
18
217
56
20
6
8
4
51
2
5
95
7
.260
.330
.418
.748
2008
97
318
287
23
65
11
0
1
79
17
8
5
3
2
23
2
3
50
7
.226
.289
.275
.564
2009
73
264
241
28
54
9
4
2
77
19
14
3
3
1
18
1
1
37
4
.224
.280
.320
.599
2010
144
659
562
82
172
34
3
13
251
56
43
14
36
4
53
0
4
80
4
.306
.368
.447
.815
2011
52
232
192
34
41
7
2
2
58
11
8
4
14
1
23
0
2
34
2
.214
.303
.302
.605
2012
137
575
499
52
122
21
3
10
179
52
14
8
19
6
50
4
1
70
7
.244
.311
.359
.670
2013
117
427
359
53
109
27
0
6
154
42
6
5
23
4
38
0
3
58
7
.304
.371
.429
.800
2014
114
416
353
43
95
16
3
8
141
41
7
8
17
2
39
0
5
57
14
.269
.348
.399
.748
2015
96
332
283
24
67
15
1
6
102
27
2
2
10
2
36
0
1
49
6
.237
.323
.360
.683
2016
7
12
9
1
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
3
0
0
0
2
.000
.250
.000
.250
NPB :11年 ねん
1096
4317
3754
487
990
180
28
74
1448
357
135
60
145
28
361
9
28
592
68
.264
.331
.386
.717
年度 ねんど 別 べつ 守備 しゅび 成績 せいせき
年 とし 度 ど
球 たま 団 だん
二塁 にるい
三塁 さんるい
遊 ゆう 撃 げき
試 ためし 合 ごう
刺 とげ 殺 ころせ
補 ほ 殺 ころせ
失 しつ 策 さく
併殺 ころせ
守 もり 備率 りつ
試 ためし 合 ごう
刺 とげ 殺 ころせ
補 ほ 殺 ころせ
失 しつ 策 さく
併殺 ころせ
守 もり 備率 りつ
試 ためし 合 ごう
刺 とげ 殺 ころせ
補 ほ 殺 ころせ
失 しつ 策 さく
併殺 ころせ
守 もり 備率 りつ
2006
広島 ひろしま
27
47
94
3
16
.979
-
99
138
333
12
62
.975
2007
-
-
135
231
439
13
103
.981
2008
-
-
92
127
281
11
48
.974
2009
3
4
15
1
3
.950
-
67
101
185
8
35
.973
2010
-
-
144
230
462
7
90
.990
2011
-
-
52
80
127
3
23
.986
2012
-
-
137
200
386
22
80
.964
2013
-
-
107
173
311
10
84
.980
2014
-
63
34
76
1
6
.991
60
67
147
2
33
.991
2015
-
87
63
153
8
13
.964
1
0
1
0
0
1.000
2016
-
3
1
4
1
0
.833
-
NPB:11年 ねん
30
51
109
4
19
.976
153
98
233
10
19
.971
894
1347
2673
88
558
.979
タイトル
表彰 ひょうしょう
記録 きろく
節目 ふしめ の記録 きろく
1000試合 しあい 出場 しゅつじょう :2015年 ねん 4月 がつ 5日 にち 、対 たい 中日 ちゅうにち ドラゴンズ3回戦 かいせん (ナゴヤドーム)、7回 かい 表 ひょう に福井 ふくい 優 ゆう 也 の代打 だいだ として出場 しゅつじょう ※史上 しじょう 468人 にん 目 め
背番号 せばんごう
32 (2006年 ねん )
6 (2007年 ねん - 2017年 ねん )
登場 とうじょう 曲 きょく
関連 かんれん 情報 じょうほう
出演 しゅつえん
テレビ番組 ばんぐみ
ドラマ
ドキュメンタリー
WATCH 真相 しんそう に迫 せま る「I Believe 梵英心 しん の挑戦 ちょうせん 」(2019年 ねん 10月 がつ 26日 にち 、広島 ひろしま テレビ )
ラジオ
CM
カラダに万田 まんだ 酵素 こうそ
創建 そうけん ホーム株式会社 かぶしきがいしゃ (広島 ひろしま 県 けん 竹原 たけはら 市 し に本社 ほんしゃ を置 お く、注文 ちゅうもん 住宅 じゅうたく 販売 はんばい 会社 かいしゃ ) 2008年 ねん - 2016年 ねん
2008年 ねん の開幕 かいまく 時 じ に大竹 おおたけ 寛 ひろし ・栗原 くりはら 健太 けんた とエキストラの子供 こども たちと共演 きょうえん 。
連載 れんさい
コラム
梵英心 しん の以信伝 でん 心 こころ (広島 ひろしま アスリートマガジン 、2015年 ねん - 2016年 ねん )
梵英心 しん の 続 ぞく 以信伝 でん 心 こころ (広島 ひろしま アスリートマガジン、2018年 ねん 8月 がつ 号 ごう - 2019年 ねん 11月 がつ 号 ごう )
著書 ちょしょ
梵脳 失敗 しっぱい したらやり直 なお せばいい。(2019年 ねん 11月2日 にち 予定 よてい 、サンフィールド(広島 ひろしま アスリートマガジン編集 へんしゅう 部 ぶ ))ISBN 978-4908473067
脚注 きゃくちゅう
関連 かんれん 項目 こうもく
外部 がいぶ リンク
業績 ぎょうせき
1950年代 ねんだい 1960年代 ねんだい 1970年代 ねんだい 1980年代 ねんだい 1990年代 ねんだい 2000年代 ねんだい 2010年代 ねんだい 2020年代 ねんだい
1970年代 ねんだい 1980年代 ねんだい 1990年代 ねんだい 2000年代 ねんだい 2010年代 ねんだい 2020年代 ねんだい
1972年 ねん から1985年 ねん まではダイヤモンドグラブ賞 しょう
1950年代 ねんだい 1960年代 ねんだい 1970年代 ねんだい 1980年代 ねんだい 1990年代 ねんだい 2000年代 ねんだい 2010年代 ねんだい 2020年代 ねんだい
記述 きじゅつ のない年 とし は該当 がいとう 者 しゃ なし
大学生 だいがくせい ・社会 しゃかい 人 じん 高校生 こうこうせい 育成 いくせい 選手 せんしゅ