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ギリシャ王国おうこく

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ギリシャ王国おうこく
Βασίλειον τたうῆς Ἑλλάδος
ギリシャ第一共和政
ギリシャ第二共和政
第二次世界大戦時のギリシャ
1832ねん - 1924ねん
1935ねん - 1941ねん
1944ねん - 1973ねん
ギリシャ第二共和政
第二次世界大戦時のギリシャ
ギリシャ軍事政権
ギリシャの国旗 ギリシャの国章
国旗こっきくにあきら
くに標語ひょうご: Ἐλευθερία ἢ Θάνατος(ギリシア
自由じゆう
国歌こっか: Ὕμνος εいぷしろんἰς τたうνにゅー Ἐλευθερίαν(ギリシア
自由じゆうへの賛歌さんか
ギリシャの位置
1947ねんまでのギリシャ王国おうこく領土りょうど変遷へんせん
公用こうよう ギリシャ
首都しゅと ナフプリオ(1832ねん - 1834ねん
アテネ(1834ねん - 1973ねん
国王こくおう
1832ねん - 1862ねん オソン1せい
1964ねん - 1974ねんコンスタンティノス2せい
首相しゅしょう
1833ねん - 1833ねんスピリドン・トリクピス
1973ねん - 1974ねんゲオルギオス・パパドプロス
面積めんせき
1838ねん47,516km²
1920ねん173,779km²
1971ねん131,990km²
人口じんこう
1838ねん752,077にん
1973ねん8,768,372にん
変遷へんせん
ロンドン議定ぎていしょにより独立どくりつ 1832ねん8がつ30にち
憲法けんぽう制定せいてい1843ねん9がつ3にち
だい共和きょうわせい成立せいりつ1924ねん3がつ25にち
王政おうせい復古ふっこ1935ねん11月3にち
だいさん共和きょうわせい成立せいりつ1974ねん12月8にち
通貨つうかドラクマ
現在げんざいギリシャの旗 ギリシャ
ギリシャ王国おうこく年譜ねんぷ
1821ねん ギリシャ独立どくりつ戦争せんそうはじまる(だいいち共和きょうわせい)。
1832ねん オスマン帝国ていこくから独立どくりつバイエルンおうルートヴィヒ1せい次男じなんオットーを国王こくおうオソン1せいとしてむかえる。
1834ねん 記念きねんぶつほう施行しこう
1862ねん 革命かくめい勃発ぼっぱつし、オソン1せい退位たいい。オソンは専制せんせい政治せいじき、政府せいふ中枢ちゅうすうドイツじん官僚かんりょうかためたため、ギリシャじん不満ふまん増大ぞうだいしていた。
1863ねん デンマークよりあたらしくゲオルギオス1せい国王こくおうとしてむかえる。イギリスがイオニア諸島しょとう割譲かつじょう
1877ねん 戦争せんそうきる。ギリシャ王国おうこく中立ちゅうりつてき立場たちばに。翌年よくねんベルリン会議かいぎではなにられずにわる。
1881ねん イギリスの仲介ちゅうかいテッサリアおよびイピロス南部なんぶ一部いちぶ併合へいごう
1897ねん クレタとう反乱はんらん介入かいにゅうし、オスマン帝国ていこく開戦かいせんするも敗北はいぼくまれ戦争せんそう)。
1913ねん テッサロニキでゲオルギオス1せい暗殺あんさつ英語えいごばんされ、コンスタンティノス1せい即位そくい
1917ねん ドイツ帝国ていこく宣戦せんせん布告ふこくし、だいいち世界せかい大戦たいせん参戦さんせん。コンスタンティノス1せい退位たいいアレクサンドロス1せい即位そくい
1919ねん トルコ共和きょうわこくとの戦争せんそう敗北はいぼくまれ戦争せんそう)。
1920ねん アレクサンドロス1せい死去しきょ、コンスタンティノス1せい復位ふくい
1922ねん 政変せいへんによりコンスタンティノス1せい退位たいいゲオルギオス2せい即位そくい
1923ねん ローザンヌ条約じょうやくによりスミュルナ(げんイズミル)一帯いったいひがしトラキアをトルコに返還へんかん
1924ねん 国民こくみん投票とうひょうにより王制おうせい廃止はいし、ゲオルギオス2せい退位たいいだい共和きょうわせい(〜1935ねん)。
1935ねん 国民こくみん投票とうひょうによりゲオルギオス2せい復位ふくい立憲りっけん君主くんしゅ体制たいせいに。
1936ねん イオアニス・メタクサスによるクーデター。メタクサスの独裁どくさい政権せいけんはちがつよんにち体制たいせいはじまる。
1940ねん ムッソリーニ政権せいけんイタリア、ギリシャ侵攻しんこう開始かいしギリシャ・イタリア戦争せんそうはじまる。
1941ねん ナチス・ドイツ侵攻しんこうされ、ゲオルギオス2せい亡命ぼうめいギリシャこく成立せいりつ
1944ねん 連合れんごう国軍こくぐんによりギリシャ解放かいほう
1946ねん 国民こくみん投票とうひょうによりゲオルギオス2せい帰国きこく
1967ねん 軍事ぐんじクーデターによりコンスタンティノス2せい亡命ぼうめい
1973ねん 国民こくみん投票とうひょうにより王制おうせい廃止はいし

ギリシャ王国おうこく(ギリシャおうこく、ギリシア: Βασίλειον της Ελλάδος1832ねん - 1924ねん1935ねん - 1941ねん1944ねん - 1967ねん[# 1])は、ギリシャ独立どくりつ戦争せんそうによりオスマン帝国ていこくから独立どくりつしたギリシャもうけられた王国おうこくである。列強れっきょう諸国しょこくによってバイエルン王国おうこくデンマーク王子おうじおうえられたため国内こくないでの支持しじ基盤きばんよわく、政変せいへん相次あいつ安定あんていしなかった。

ヴィッテルスバッハ時代じだい

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はじまり

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1832ねん2がつ6にちバイエルン王国おうこくよりギリシャおうとなるべく王子おうじオットー・フォン・ヴィッテルスバッハ(ギリシャめいオソン1せい)がかり首都しゅとナフプリオ熱狂ねっきょうてき歓迎かんげいなか到着とうちゃくした。ギリシャは独立どくりつしたとはいえ、列強れっきょうこくイギリスフランスロシアバイエルン政府せいふ署名しょめいした条約じょうやく(ギリシャは署名しょめいふくまれていない)により、列強れっきょうさんこく介入かいにゅうみとめられていた[1][# 2]

のちに首都しゅとは、この時代じだいにはもはやいち寒村かんそんぎなかったアテネに決定けっていされたが、これは古代こだいギリシャをモチーフにしたものであり、古代こだいギリシャからの脈々みゃくみゃくがれたギリシャの歴史れきし継続けいぞくされたものであることをしめそうとしたものであった[2]。しかし当時とうじのギリシャはアルタからヴォロス北部ほくぶむす境界きょうかいせんまでのギリシャ本土ほんどペロポネソス半島はんとうキクラデス諸島しょとう限定げんていされていた[# 3][4]

ギリシャはあくまでも保護ほごこくにすぎず、政治せいじてきにも経済けいざいてきにも外国がいこく外国がいこくじん拘束こうそくされていた。また、オソン1せい即位そくいにはまだ16さいでオソン1せいさきんじてギリシャりしていたヨーゼフ・ルートヴィヒ・フォン・アーマンスペルク (en伯爵はくしゃく法律ほうりつゲオルク・ルートヴィヒ・フォン・マウラー (en軍人ぐんじんカール・グスタフ・ハイデック[# 4]らが摂政せっしょうとしてえらばれ、オソン1せい成人せいじんとなる1835ねんまでかれらがギリシャの舵取かじとりをおこなった[6][7]

独立どくりつ戦争せんそうちゅう、ギリシャじんらはイギリス、フランス、ロシアかれており[# 5]、さらにみずからの利権りけんまもるために対立たいりつしており、摂政せっしょうたちは強力きょうりょく中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせい目指めざし、ぐん改革かいかくには断固だんこたる態度たいどいどんだ[7][10]

政治せいじのあらゆる部分ぶぶんにおいてギリシャじん排除はいじょされており、オソン1せい成人せいじんして親政しんせい開始かいししてもバイエルンじんによる独占どくせんてき支配しはい変化へんかはなく、ギリシャじん不満ふまんつのりつつあった。

行政ぎょうせい

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オソン1せい到着とうちゃく摂政せっしょう評議ひょうぎかい設立せつりつされ、アーマンスベルク伯爵はくしゃく議長ぎちょう就任しゅうにんした。さらにギリシャしょう官房かんぼうきょく)が設立せつりつされギリシャじん歴代れきだい局長きょくちょうつとめたが、これは名目めいもくじょうのものにぎず、摂政せっしょうらが権力けんりょくにぎっていた。さらに地方ちほうは10のけん(ノマルヒア)にけられさらにそのしたぐん(エパルヒア)が形成けいせいされた。さらにぐん市町村しちょうそん(ディモス)にけられ、国王こくおうがそのちょう任命にんめいすることになっていた。そのため、それまで自治じちけんっていたまち自治じち廃止はいしされ、西欧せいおうふう組織そしきづくりがされたことにより、ギリシャの慣習かんしゅう伝統でんとう無視むしされ[7]住民じゅうみんきょくがこの管理かんりおこなったが、この局長きょくちょうにはフランスじんアレクサンドル・ルジュー、ギュスターヴ・デシュタルが着任ちゃくにん、この二人ふたりアンリ・ド・サン=シモン弟子でしであった[11]

ナフプリオに到着とうちゃくしたおうむかえる民衆みんしゅう

さらにアリオスパゴス裁判所さいばんしょ設立せつりつされ、だいいちしん裁判所さいばんしょ軍法ぐんぽう会議かいぎが3箇所かしょに、控訴こうそいん2箇所かしょ、そして破毀はきいんもうけられた。法律ほうりつは1835ねん2がつ23にち政令せいれい交付こうふされたことにより、ビザンツ帝国ていこく法制ほうせい判例はんれい導入どうにゅうされたが、慣習かんしゅうほうしたがうこともみとめられていた。ただし、当時とうじ法学ほうがくしゃによればこの政令せいれいはローマほう基礎きそしているとしているが[12]結局けっきょく初期しょきにおいては憲法けんぽう制定せいていされなかった[# 6][4]

さらに教育きょういく分野ぶんやでもフランス、ドイツ制度せいどもとづいたおおやけ教育きょういく基礎きそもうけられ、けん中心ちゅうしんには3ねんせいのエリニカ・スホリア(ギリシャ学校がっこう)と4ねんせいのギムナシア(中等ちゅうとう学校がっこう)がかれさらに1837ねんにはアテネ大学だいがくはつ国立こくりつ大学だいがくとして創設そうせつされてギリシャじんの「さいヘレニズム」がすすめられ[4][13]古代こだいギリシャ文化ぶんかや「カサレヴサ(純正じゅんせい」の研究けんきゅう重点じゅうてんかれた。そのため、王国おうこくがいのギリシャじんらもアテネ大学だいがく学問がくもんまな[# 7]卒業そつぎょう各地かくちで「ヘレニズムの福音ふくいん」をつたえた[# 8][15]

ギリシャ教会きょうかいについては1821ねんにはすでにオスマン帝国ていこく圧力あつりょくけたコンスタンティノポリスそう主教しゅきょうすべての指導しどうしゃ破門はもんしたことにより独立どくりつ状態じょうたいしており、独立どくりつ戦争せんそう無秩序むちつじょ支配しはいしていた[16]。そしてキリスト教きりすときょうこくであるオスマン帝国ていこく支配しはいにある教会きょうかい従属じゅうぞくさせることはできないとして[17]、そのため法律ほうりつマウラーはあらたな規則きそく提案ていあん主教しゅきょう会議かいぎにおいてギリシャ教会きょうかい自体じたい首長しゅちょうであり国王こくおう任命にんめいする教会きょうかい会議かいぎ運営うんえいすること決定けってい[16]、コンスタンティノポリスそう主教しゅきょう同意どういることなく、独立どくりつしたものと法律ほうりつにより規定きていされコンスタンティノポリスそう主教しゅきょう管理かんりからこととなり[18]ギリシャ正教会せいきょうかい編成へんせいした。

この改革かいかくにより6めい未満みまん修道院しゅうどういん廃止はいし、その財産ざいさん国家こっかうつされ、82の修道院しゅうどういん、3つの尼僧にそういんのここととなった。さらに教育きょういく事業じぎょう国家こっかうつされ[16]、これにより各種かくしゅ学校がっこう教会きょうかいから王国おうこくうつったため、西洋せいようふう制度せいどかれることとなった[2][12][13]

軍事ぐんじ分野ぶんや

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摂政せっしょうらは独立どくりつ戦争せんそう活躍かつやくしたギリシャ不正規ふせいきぐん正規せいきぐんらが違法いほう行為こういおこなって秩序ちつじょみだしていることから1821ねん恩赦おんしゃ発令はつれい山賊さんぞくしたもと兵士へいし難民なんみんしていた農民のうみんらをゆるしたが、恩赦おんしゃ以降いこう犯罪はんざいおかした場合ばあいきびしい法律ほうりつでこれをまることにした。そのため、不正規ふせいきぐん正規せいきぐん解体かいたいされ、10大隊だいたいのエウゾヌ(けい歩兵ほへい)が編成へんせいされたが、部隊ぶたいにはバイエルンで徴募ちょうぼした志願しがんへいえられた[11]。さらに主要しゅよう地位ちいにはバイエルン、イギリス、フランスの軍人ぐんじんいたため、ギリシャじん兵士へいしはこのなかには1,000にん程度ていどふくまれているにぎなかった。そのため、ギリシャじん兵士へいし10,000にん追放ついほうされることとなったが、ギリシャじんおおくが独立どくりつ戦争せんそう功績こうせきみとめられなかったため、このぐん参加さんかすることを拒否きょひして武装ぶそう集団しゅうだん形成けいせいとき政治せいじ介入かいにゅうするなど19世紀せいきのギリシャの安定あんていはば問題もんだいした[7][10][12]

1835ねん時点じてん憲兵けんぺいたいわせて7,000にんがギリシャぐん所属しょぞくしていたが、このだい部分ぶぶん傭兵ようへいであったため、ギリシャの国家こっか財政ざいせいいちじるしく圧迫あっぱくすることとなった[11]

そして1838ねんにバイエルンじんらによる部隊ぶたいがギリシャをることになったが、歴代れきだい陸軍りくぐん大臣だいじんはバイエルンじんつとめた[19]

財政ざいせい

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当時とうじのアテネをえがいたもの(1833ねん

当初とうしょ独立どくりつ戦争せんそうけた壊滅かいめつてき打撃だげきとギリシャの商業しょうぎょう中心ちゅうしんであるスミルナ、テッサロニキ、コンスタンティノープルなどがオスマン帝国ていこく支配しはいであったため、イオアニス・カポディストリアスひきいる共和きょうわせい時代じだいからの懸案けんあんである国土こくど復興ふっこう経済けいざい基盤きばん形成けいせい急務きゅうむであった[7]

そのため、国庫こっこ制度せいど制定せいていされたが、これはオスマン帝国ていこく時代じだいのものとほとんどおなじもので場合ばあいによっては改悪かいあくされていた。直接ちょくせつぜいとしては農業のうぎょう生産せいさんたいするじゅうぶんいちぜい主要しゅようなものであり、国有こくゆう財産ざいさん使用しようすることにより発生はっせいするぜいわせてぜい収入しゅうにゅうの25%をめていた。間接かんせつぜいとしては輸出入ゆしゅつにゅうかんするぜい価格かかくおうじてかかる関税かんぜいなどがあったが、ぜい収入しゅうにゅうのほとんどが現物げんぶつおさめられた[12]

また、ギリシャの保護ほごしゃである列強れっきょうから60おくフラン借款しゃっかん[# 9]こと成功せいこうしたが、これは軍隊ぐんたい維持いじ借金しゃっきん利息りそく消却しょうきゃくだい部分ぶぶんえた[20]。そこで改革かいかくおこなわれ、不正ふせい土地とち売買ばいばいかんや、だい土地とち所有しょゆうしゃから土地とち小作農こさくのう形成けいせいすることによる税収ぜいしゅう増加ぞうかはかったが、ギリシャじんらの抵抗ていこうにより税収ぜいしゅう上向うわむくことはなかった[21]

結局けっきょくおおやけ政府せいふ会計かいけい公表こうひょうされたのは摂政せっしょうせい導入どうにゅう4ねんたってからであったが、財政ざいせい管理かんり不完全ふかんぜんであり摂政せっしょうらが財源ざいげん浪費ろうひしたため、散々さんざんなものであった[22]

さらに摂政せっしょうらは「貧困ひんこん家庭かていへの支給しきゅうほう公布こうふしてもと兵士へいしらの救済きゅうさいこころみた。しかし、この法律ほうりつ結局けっきょく機能きのうせず、1862ねん時点じてんでも国土こくどの35%が国有こくゆうであり、農民のうみん20まんにん所有しょゆうする土地とちは16%にぎなかった。そして農民のうみんらのほとんどが小作農こさくのうであり、じゅうぶんいちぜいほか地主じぬし収穫しゅうかくぶつの30%をおさめなければならなかった。結局けっきょく税金ぜいきんはらっているのはごく一部いちぶ農民のうみんたちであり、国家こっか税収ぜいしゅう上向うわむくことはなかった[14]

のち大蔵省おおくらしょう会計検査院かいけいけんさいん設立せつりつされたが、財政ざいせい安定あんていすることはなく、オソン1せい治世ちせい国家こっか財政ざいせいつね破産はさん状態じょうたいであった[12]

経済けいざい

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クリミア戦争せんそうとその講和こうわ条約じょうやくであるパリ条約じょうやく締結ていけつによりイギリス、フランスによる近東きんとう、エジプト、バルカン半島ばるかんはんとうへの進出しんしゅつ活発かっぱつ、これにともなおな地域ちいき進出しんしゅつしていたギリシャ商人しょうにんらの活動かつどうおなじく活発かっぱつしていた。そのため、ドナウがわする船舶せんぱく3,000せきうち、2,000せきがギリシャに所属しょぞくしており、黒海こっかいでの商行為しょうこういだい部分ぶぶんをギリシャ商人しょうにんらがめていた。さらにエジプトのアレクサンドリアにおける輸送ゆそうの3ぶんの1をめていた[23]

これはイギリス、フランスによるオスマン帝国ていこくさい編成へんせいこころみがこの発展はってん支援しえんすることになり、1855ねんにはオスマン帝国ていこくとギリシャのあいだでは通商つうしょう条約じょうやくむすばれた。このため、ギリシャはオスマン帝国ていこくないにおけるイギリスの活動かつどう参加さんかすること可能かのうとなり、1860ねん以降いこうはイギリスの会社かいしゃによる活動かつどう共同きょうどう出資しゅっししゃとして参加さんかするギリシャじんらもあらわれた[24]

当初とうしょはゆっくりとした経済けいざい発展はってんも1856ねん以降いこう急激きゅうげき加速かそくせ、1838ねん時点じてんでは商船しょうせん総トン数そうとんすう85,502トンであったのが1858ねんには368,600トンに増加ぞうかしていた。そのため、港湾こうわん設備せつび充実じゅうじつおこなわれ1859ねん以降いこう港湾こうわん設備せつび建設けんせつ電気でんき通信つうしん設備せつび郵便ゆうびん事業じぎょう道路どうろもう整備せいび旧式きゅうしき関税かんぜい制度せいど廃止はいしなどがおこなわれたことによりさらにしょう活動かつどう活発かっぱつすることになった。そのため1838ねん時点じてん住民じゅうみんいちにんたり輸入ゆにゅう25.8ドラクマ輸出ゆしゅつ8.03ドラクマのであったのが1851ねんから1860ねん期間きかんには輸入ゆにゅう27.5ドラクマ、輸出ゆしゅつ14.98ドラクマに増加ぞうかしていた[25]

そのためオリおりブ油ぶゆワインブドウとう輸出ゆしゅつよう商品しょうひん生産せいさん増加ぞうかしており、富裕ふゆうそうである地主じぬしらの耕地こうち面積めんせきは1860ねん時点じてんで1840ねんばいとなっていた。これには人口じんこう増加ぞうかともない、1840ねん時点じてんで850,246にんであったのが1861ねんには1,096,810にんにまで増加ぞうかした[# 10][25]

迷走めいそうするギリシャ

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1834ねんにはマニ半島はんとうにおいて反乱はんらん発生はっせい[26]、1836ねんにはアカルナニア反乱はんらん発生はっせい[27]、そして1839ねんには「おや正教せいきょう(フィルオルソドクス)」陰謀いんぼう[# 11]発覚はっかく[19]、さら1840ねん、オスマン帝国ていこくエジプトとの関係かんけい悪化あっかすると、クレタテッサリアマケドニアでは騒動そうどう発生はっせい、ギリシャ全域ぜんいき不穏ふおん雰囲気ふんいきただよっていた[26]

1833ねんなつ、バイエルンじん支配しはいのギリシャに苛立いらだったコロコトロニスがロシアの支援しえんけてクーデターをこそうとしたが、コロコトロニスはらえられた。かれ死刑しけい宣告せんこくされたのち、オソン1せいにより減刑げんけいされた。さらに散発さんぱつてき反乱はんらん違法いほう行為こういつづいており、斜陽しゃようくに、オスマン帝国ていこくとの国境こっきょうではギリシャ不正規ふせいきぐんがトルコへ侵入しんにゅう、イピロスへ侵入しんにゅうしてアルタを略奪りゃくだつするなどの行為こういおこなっていた。そのため、その討伐とうばつにオスマン帝国ていこくがギリシャ領土りょうど侵入しんにゅうするなどギリシャはつね無秩序むちつじょなやまされた[27]

さらに摂政せっしょうたちのあいだでもいさかいが発生はっせいしており、1834ねん、アーマンスペルクはマウラー、ハイデックらを更迭こうてつしてみずからがギリシャ王国おうこく支配しはいしゃした。さらにアーマンスペルクはコレッティスをパリ公使こうしとしてギリシャ本国ほんごくからはなして政治せいじかかわらせないようにしたうえでアーマンスペルクに従順じゅうじゅんなアレクサンドロス・マブロコルダトスを利用りようした[27]

1835ねん、オソン1せい成人せいじんになるとアーマンスペルクはみずかだいいち首相しゅしょうという肩書かたがきを設立せつりつしてみずからの権力けんりょく保持ほじしたが、政治せいじてきには無能むのうでしかも傲慢ごうまん性格せいかく周囲しゅういとの軋轢あつれきんだ[28]

翌年よくねんにオソン1せいつまさがすためにミュンヘンへかったときちちであるルートヴィヒ1せいにアーマンスペルク更迭こうてつ許可きょかもとめたがルートヴィヒ1せいはこれをみとめた。1837ねん2がつオソン1せいはオルデンブルクのアーマリアとともにギリシャへ帰国きこくしたが、このとき、バイエルンの騎士きしルートハルトをともなっていた。そしてアーマンスペルクは更迭こうてつされ、だいいち首相しゅしょう廃止はいしされた[29]

しかし、ルートハルトも結局けっきょく、アーマンスペルクとおなじく恣意しいてき絶対ぜったい主義しゅぎでギリシャを支配しはいしようとした。しかし、憲法けんぽうのぞむのはギリシャじんだけではなくイギリス政府せいふおなじであり、イギリスは公使こうしつうじてギリシャへ抗議こうぎした。そのため、ルートハルトも1ねんたずに辞職じしょく、1847ねん12月、その後任こうにんはつのギリシャじん首相しゅしょうとしてコンスタンディノス・ゾグラフォスが就任しゅうにんした[29]

イギリスのパーマーストン外相がいしょう混迷こんめいするギリシャにたいして立憲りっけん議会ぎかい開催かいさいもとめたが、オソン1せいはこれを拒否きょひ、バイエルンじんによる統治とうちつづけていた。さらにギリシャ王国おうこくのギリシャじんらはオスマン帝国ていこく支配しはいのギリシャじんよりも過酷かこく生活せいかついられており、1830年代ねんだい初期しょきにはオスマン帝国ていこくから移住いじゅうするよりもギリシャからオスマン帝国ていこく移住いじゅうするひとおお状態じょうたいであった[30]

そのなか、カポディストリアスのもと部下ぶかやコロコトロニスののちいだアンドレアス・メタクサスにひきいられたロシアらはむすんでオソン1せいをギリシャ正教せいきょう改宗かいしゅうさせることを目論もくろんだ。これにはバイエルンじん追放ついほうのぞ立憲りっけん主義しゅぎしゃらも協力きょうりょくしたため、はんカトリック運動うんどう急進きゅうしんすることとなった[30]

1843ねん

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1841ねん7がつ、オソン1せい閣僚かくりょうから提案ていあんされた立憲りっけんせいへの移行いこう拒否きょひ提案ていあんおこなったギリシャじん外相がいしょうアレクサンドロス・マヴロコルダトス (en解任かいにんした。しかし、この行為こういによりギリシャじんかるんじられ、さらに借款しゃっかん返済へんさいのために財政ざいせいめられたことにより、オソン1せいへの不満ふまんがさらにたかまりをせることになった[31][32]

宮殿きゅうでん到着とうちゃくしたカレルギス、まどにはオソン1せいアマーリア。

バイエルンじん摂政せっしょうらによるギリシャ支配しはいはギリシャじんらの不満ふまんこしていた。そしてギリシャ独立どくりつにギリシャへ移住いじゅうした「ヘテロフソン」らが王国おうこく政府せいふたか地位ちい独占どくせんしていたため、独立どくりつ戦争せんそうそよいた軍人ぐんじんらはみずからの地位ちいうばられたとして不満ふまんいていた[32]

さらにギリシャが破産はさん状態じょうたいであったため、税金ぜいきん過酷かこくであり、軍事ぐんじ支出ししゅつへの法外ほうがい負担ふたん列強れっきょうからの借款しゃっかん利払りばらいについやされたため、世論せろん不満ふまんたかまっていた[32]。そして列強れっきょうさんこくもこの状態じょうたい不満ふまんいており、不満ふまんつギリシャじんらのはん体制たいせい運動うんどうたいして支援しえんおこなっていた。とくにイギリスはつよ支援しえんおこなっており、イギリス総督そうとくはその司令しれいしていた[33]

さらにイギリスは当時とうじ統治とうちしていたイオニア諸島しょとうにおいて自由じゆう主義しゅぎてき改革かいかくおこない、イオニア議会ぎかい下院かいんではギリシャにおいて代議だいぎせい導入どうにゅうすることを討議とうぎしたが、これはギリシャの立憲りっけん主義しゅぎしゃ刺激しげきすることになった[30]

1843ねん[# 12]、1840ねんはじまったヨーロッパ経済けいざいきょうのあおりをけていたギリシャ政府せいふ破産はさん宣言せんげん[34]列強れっきょうさんこく信用貸しんようがしをおこなうようもうたが、列強れっきょうはこれにたいしてギリシャぜん資産しさん借金しゃっきん補填ほてんすることを決定けっていした。しかし、この条約じょうやく批准ひじゅんされる予定よていであった1843ねん9がつ3にち、アテネにおいてヤニス・マクリイアニス (enデミトリオス・カレルギス (enアンドレアス・メタクサス (en、マブロコルダトス、コレッティスらによる無血むけつ革命かくめい (en発生はっせい[31][33]民衆みんしゅうもこれを支持しじした[32]

革命かくめいぐん宮殿きゅうでん包囲ほういしたうえ参事院さんじいん召集しょうしゅう、オソン1せいたいして憲法けんぽう制定せいていすることをもとめる要望ようぼうしょ提出ていしゅつした。オソン1せいはこれにたいしてちいさな抵抗ていこうおこなったものの、結局けっきょく、これをみとめた。そのため国民こくみん議会ぎかい憲法けんぽう制定せいていのために召集しょうしゅうされた[# 13]国民こくみん議会ぎかいはイギリス首相しゅしょうロバート・ピール、フランス外相がいしょうギゾーの助言じょげん勧告かんこくけておりイギリスであるマブロコルダトスとフランスであるコレッティスらが主導しゅどうけんにぎった。そのためイギリス、フランス両国りょうこく同意どういしていた国王こくおう拒否きょひけん大臣だいじん任命にんめいけんみとめられ、さらにギゾーが主張しゅちょうしていたおうによって任命にんめいされる終身しゅうしん議員ぎいん構成こうせいされる上院じょういん創設そうせつされることが議論ぎろんされた[35]結局けっきょく半年はんとしおよ議論ぎろんのち、1844ねん3がつ憲法けんぽう公布こうふされた[35][36]

ζήτω τたうοおみくろん σύνταγμα憲法けんぽうまんさい
憲法けんぽう制定せいてい万歳ばんざいわりになんねん国民こくみんらがさけんだがその意味いみふかことはなかった[37]

憲法けんぽう (enには市民しみん平等びょうどう個人こじん自由じゆう出版しゅっぱん自由じゆう団体だんたい権利けんり保障ほしょうされ税金ぜいきん納付のうふ制限せいげんきで男性だんせいのみではあったが実質じっしつてき普通ふつう選挙せんきょけんみとめられた[# 14]。しかし立法りっぽうけん大臣だいじん任命にんめいけん裁判さいばんけんおう付随ふずいしており、さらに選挙せんきょえらばれる下院かいん(ブゥリイ、βべーたοおみくろんυうぷしろんλらむだηいーた)だけではなく、おう任命にんめいする上院じょういん(ゲルゥシア、γερυσια)との二院にいんせい規定きていされたため、いちじるしくおう権利けんり付随ふずいする極端きょくたん保守ほしゅてきなものであった[32][38]

憲法けんぽう制定せいていされたのち、ギリシャじん首相しゅしょうにつくことになったが、歴代れきだい首相しゅしょうであるフォアナリオティスのマブロコルダトス、ワラキア出身しゅっしんのコレッティス、アルバニアじんのクンドゥリオティスらは名目めいもくじょうのギリシャじんでしかなかった。そして、かれらのほとんどは憲法けんぽう関心かんしんはらわず、マブロコルダトスにいたっては憲法けんぽう制定せいていはつ首相しゅしょうであったが憲法けんぽう裏切うらぎ行為こういのために辞職じしょくまれた[39]。さらにイオアニス・コレッティス首相しゅしょう就任しゅうにんしたさいにも憲法けんぽう重視じゅうししなかったため、オソン1せい憲法けんぽうしたがうそぶりをみせることはなかった[40]

しかし、この憲法けんぽう制定せいていによりギリシャ王国おうこく立憲りっけん君主くんしゅせいした[38]

コレッティスの独走どくそうとクリミア戦争せんそう

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憲法けんぽう制定せいていされギリシャに立憲りっけん君主くんしゅせい成立せいりつはつ選挙せんきょおこなわれることになったが、首相しゅしょうコレッティスはありとあらゆる手段しゅだん駆使くしして対立たいりつしゃ排除はいじょ選挙せんきょ勝利しょうりして権力けんりょくにぎこととなった。さらにこんどはバイエルンじん排除はいじょしたギリシャじん政治せいじによる独断どくだん政治せいじおこなわれ、コレッティスは首相しゅしょう就任しゅうにん極端きょくたん中央ちゅうおう集権しゅうけん主義しゅぎしゃしオソン1せい政治せいじ介入かいにゅうすることをもとめた。そして、コレッティスはメガリ・イデア実現じつげんねがっており、国内こくない政策せいさくたいしては無為むい無策むさくでギリシャの領土りょうど拡大かくだいのみをねらっていた。そのため、憲法けんぽう事実じじつじょう無力むりょくしギリシャ政治せいじ腐敗ふはい一種いっしゅ議会ぎかいせい独裁どくさい政治せいじした。そして1847ねんにコレッティスが死去しきょすると相次あいついで内閣ないかく組閣そかくされたが、これらはすべてオソン1せい意向いこう意向いこうけた形骸けいがいした内閣ないかくであり[32][41]、しかも、短命たんめい政権せいけんつづいたことにより、列強れっきょう介入かいにゅう拡大かくだいみちびすこととなった[42]

1848ねん、ヨーロッパ各地かくちでは革命かくめいかぜれていたが、これはギリシャにも影響えいきょうあたえた。しかし、これは自由じゆう主義しゅぎ目指めざしたものではなく、メガリ・イデア実現じつげん目指めざ自由じゆう主義しゅぎてき保守ほしゅてきうごきとした。ギリシャ、オスマン帝国ていこく国境こっきょうでは不正規ふせいきぐんらによる衝突しょうとつ勃発ぼっぱつし、メガリ・イデア実現じつげん目指めざ秘密ひみつ結社けっしゃ暗躍あんやくしたが、これはオスマン帝国ていこくないのギリシャじんたいする憎悪ぞうおとイギリスのいかりをまねいたにすぎなかった[43]

さらにオスマン帝国ていこくめぐってイギリス、フランス、ロシアら列強れっきょうによる競争きょうそうがこれに拍車はくしゃをかけることになり、オソン1せい立憲りっけん君主くんしゅ主義しゅぎしゃらの暗躍あんやくきらってロシアに接近せっきんこころみていた[44][45]列強れっきょうなかでもイギリスはギリシャの自由じゆう主義しゅぎてき改革かいかくのぞんでおり、えず借款しゃっかん利払りばらいをもとめていた。そしてイオニア諸島しょとう一部いちぶであると主張しゅちょうしていたペロポネソス半島はんとう沖合おきあいの小島こじま2箇所かしょやギリシャ王室おうしつさえた土地とちへの補償ほしょうなどをもとめ、さらにドン・パシフィコ事件じけん[# 15]補償ほしょうもとめた[46]

オソン1せいとギリシャ政府せいふ当初とうしょ、これにたいしてのらりくらりとかわしつづけ、のちには抵抗ていこうつよめたが、そのため、イギリスのパーマーストン外相がいしょうはギリシャにおける影響えいきょうりょく確立かくりつすることを決定けってい、1850ねん4がつから7がつまでイギリス艦隊かんたいはギリシャ封鎖ふうさ実施じっし、ピレウスこう封鎖ふうさしてイオニア諸島しょとうのギリシャじん蜂起ほうき鎮圧ちんあつした[44][47][48][49]

これにはルイ・ナポレオンひきいるフランスが積極せっきょくてき介入かいにゅうしロシアが厳重げんじゅう抗議こうぎおこなったことにより解除かいじょされたが、この政策せいさくはギリシャじんらに反発はんぱつをもたらしただけであり、世論せろんはロシアへき、さらオソン1せい人気にんきたかめる結果けっかとなった。そのため、ロシアは借款しゃっかん元利がんり放棄ほうき、さらにギリシャ正教会せいきょうかいとコンスタンティノポリスそう主教しゅきょうとのあいだち、1850ねん1がつ29にちにギリシャ正教会せいきょうかい独立どくりつ正式せいしきみとめられ[50]、コンスタンティノポリスそう主教しゅきょうはギリシャだい主教しゅきょう議長ぎちょうとする主教しゅきょう会議かいぎしたにギリシャ正教会せいきょうかい自主じしゅ独立どくりつしたとする主教しゅきょう会議かいぎ令書れいしょはっしたが、この出来事できごとはロシアがイギリスにかわってギリシャの保護ほごしゃとなったことをしめしていた[51]

これらイギリス、ロシアの活動かつどうにより、クリミア戦争せんそう発生はっせいすると1854ねん、ギリシャはロシアがわにつき、当時とうじオスマン帝国ていこくりょうであったイピロステッサリアマケドニアでは蜂起ほうき発生はっせい[50]、オソン1せいは『メガリ・イデア』を支持しじしてギリシャ不正規ふせいきぐんがオスマン帝国ていこくりょう侵入しんにゅうすることや正規せいきぐん不正規ふせいきぐん補強ほきょうすることを黙認もくにん、さらにはクレフテス大学生だいがくせいらがゲリラ部隊ぶたい参加さんか、イピロス、テッサリア、マケドニアに侵入しんにゅうした[45][52]

しかし、この蜂起ほうきはオスマン帝国ていこくぐんによって鎮圧ちんあつされ、さらにイギリス・フランス両国りょうこくはイピロス、テッサリア、マケドニアにおけるギリシャじん蜂起ほうきにたいしてもピレアスこう閉鎖へいさしてギリシャに中立ちゅうりつ宣言せんげんをさせ[48]、オスマン帝国ていこく維持いじはかった[45]。そしてクリミア戦争せんそう終了しゅうりょうしたのちもイギリス、フランスぐんらは占領せんりょうつづけ、クリミア戦争せんそう講和こうわ会議かいぎでもあるパリ会議かいぎにはギリシャの参加さんかこばんだ。結局けっきょく、この占領せんりょうは1857ねんまでつづき、さらに1859ねんまでは監視かんし委員いいんかい設置せっちされたままであった[50]

オソン1せい迷走めいそう

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1843ねん以降いこう歴代れきだいないかくはオソン1せい任命にんめいされていたが、これはすでに形骸けいがいしていた。とく占領せんりょうぐん撤退てったいしたのち、オソン1せい政治せいじ介入かいにゅうはげしくなったため、クリミア戦争せんそうちゅうになりをひそめていたはんおう党派とうは活動かつどう活発かっぱつはじめた。さらにイギリス、フランス、ロシアのかく派閥はばつ領袖りょうしゅうたちも引退いんたいはじめたことにより西欧せいおうふう自由じゆう思想しそうまなんだあらたな世代せだい西欧せいおうてき議会ぎかい主義しゅぎのぞんでいた[45][53]

1859ねん、オーストリアとイタリアのあいだ戦争せんそう勃発ぼっぱつしたさいは、ギリシャじんらはイタリアのジュゼッペ・ガリバルディ共鳴きょうめいしていたがオソン1せいはオーストリアを支持しじした。そのため、オソン1せいはクリミア戦争せんそうていた人気にんきうしなうこととなった[54]

さらに1859ねんおこなわれた選挙せんきょにより議会ぎかい開催かいさいされたが、これはおう党派とうは自由じゆう主義しゅぎてきはんおう党派とうはふたつにかれたが、オソン1せい選挙せんきょ以前いぜんから首相しゅしょうつとめていたアサナシオス・ミアウリスによる内閣ないかくを1862ねんまで継続けいぞくさせた。しかし、ギリシャないはすでに不穏ふおん空気くうきながれており、王妃おうひへの襲撃しゅうげき事件じけん暴動ぼうどうなどが発生はっせいしていた[47][53]

この状況じょうきょうなかはんおう党派とうは独立どくりつ戦争せんそう英雄えいゆうコンスタンティノス・カナリス中心ちゅうしん結集けっしゅうした。オソン1せいはこれにたいして和解わかいこころみたが失敗しっぱい、そのため、1862ねん2がつにはナフプリオ、ペロポネソス半島はんとう一部いちぶ、キクラデス諸島しょとう一部いちぶ蜂起ほうき発生はっせいした。しかし、この蜂起ほうきは4がつには鎮圧ちんあつされ、指導しどうしゃ一人ひとりであるエパミノダス・デリイオルギスは逮捕たいほされた。オソン1せい譲歩じょうほおこなって事態じたい収拾しゅうしゅうしようとしたが、依然いぜんとしてギリシャは危険きけん状況じょうきょうであった[55]

さらにイギリスはロシア志向しこうのオソン1せい嫌悪けんおかんいており、イギリスとむすびついていたはんおう党派とうは指導しどうしゃブルガリスがはんオソン1せい運動うんどうかじこととなった[55]

追放ついほうされるオソン1せいアマーリア

その憲法けんぽう形骸けいがいしようとするオソン1せいへの不満ふまんはくすぶりつづ[# 16]国王こくおう夫妻ふさいせい教徒きょうとでなかったことがギリシャじんたちの不満ふまんをさらにたかめ、それははん王室おうしつ運動うんどうへとつながった[# 17]。1862ねん8がつ、ペロポネソス半島はんとうをオソン1せいとそのアマーリア行幸ぎょうこうしている最中さいちゅうにアカルナニア、パトラ、コリントスの守備しゅびたい蜂起ほうきしたうえアテネでもコンスタンティノス・カナリス、ディミトリオス・ブルガリス、ヴェニゼロス・ルーフォスらが後押あとおししたクーデターが発生はっせい、オソン1せい廃位はいいしん国王こくおう選出せんしゅつしん憲法けんぽう制定せいていもとめた。さらに列強れっきょうさんこくらはオスマン帝国ていこく維持いじ自国じこく利益りえきかんがえたことにより、このクーデターの支持しじまわったため、オソン1せい退位たいい拒否きょひはしたが、結局けっきょく故郷こきょうバイエルンに隠棲いんせいした[47][48][56][57]

オソン1せい王位おういわれたものの、ギリシャへの片思かたおもいはぬまでつづき、『ギリシャの伝統でんとう衣装いしょう(フスタネッラ)』をけるなどして余生よせいごした[47][57]

グリュックスブルク時代じだい

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イギリス・フランス・ロシアはあらたな国王こくおうデンマーク国王こくおうクリスチャン9せい次男じなんクリスチャン・ヴィルヘルム・フェルディナント・アドルフ・ゲオルクを選出せんしゅつ、1863ねんゲオルギオス1せいとしてギリシャおう即位そくいした。かれ後継こうけいしゃせい教徒きょうとにするという約束やくそくむすんでおり、さらにイギリスが1815ねん以降いこう領有りょうゆうしていたイオニア諸島しょとう返還へんかんけた。しんおう即位そくいとともにしん憲法けんぽう制定せいていされ、オソン1せい時代じだい憲法けんぽうよりも王権おうけん制限せいげんされ、普通ふつう選挙せんきょ導入どうにゅうされたが、これはヨーロッパのなかでもはやいものであった[58]

しかし、ギリシャの政局せいきょくなか安定あんていせず、1880ねんにトリクピスひきいる政党せいとうとディリヤンニスひきいる政党せいとうによるだい政党せいとうせい出現しゅつげんするまで安定あんていすることはなかった。トリクピスが政権せいけんにつくと国内こくない改革かいかくおこない、借款しゃっかん依存いぞんした経済けいざいなおし、政治せいじ改善かいぜん国内こくないインフラの改良かいりょうちからちゅういだが、対外たいがい政策せいさくでの強硬きょうこう手段しゅだん失敗しっぱいつづき、列強れっきょうへの依存いぞんふかまるばかりであった。一方いっぽう、ディリヤンニスが首相しゅしょうであったときにはだい1かい近代きんだいオリンピックが1896ねん4がつ実現じつげん可能かのうにしたことにより、ヨーロッパ諸国しょこくにギリシャが西欧せいおうくにであることをらしめることに成功せいこうした[59]

しかし、ギリシャにおいて1870ねんディレーシ事件じけん発生はっせい独立どくりつ戦争せんそう以来いらいのこっていた武装ぶそう集団しゅうだんがイギリス、イタリアじんらを殺害さつがい、これはヨーロッパ諸国しょこくにギリシャが「盗賊とうぞくどものじゅう」「半分はんぶん野蛮やばんくに」という印象いんしょういだくには十分じゅうぶんであり、オスマン帝国ていこく時代じだいからヨーロッパの人々ひとびといていた古代こだいギリシャへのロマンがわりをげることとなった。さらにギリシャ政府せいふ多大ただい賠償金ばいしょうきん支払しはらいはしたが、この武装ぶそう集団しゅうだんたいして有効ゆうこう手段しゅだんをとることができず、さらに評価ひょうかげることとなった。しかし、この武装ぶそう集団しゅうだんはギリシャの正規せいきぐんとして今後こんご、ギリシャ領土りょうど拡大かくだい活躍かつやくすることとなる[60]

ギリシャ経済けいざいにおいては一部いちぶ工業こうぎょうにおいて機械きかいすすみはしたがこれは工業こうぎょう促進そくしんにつながらず、農業のうぎょうにおいても1871ねん土地とち分配ぶんぱい終了しゅうりょうしたことによる小作農こさくのう増加ぞうかし、1881ねんのテッサリア併合へいごうによって農産物のうさんぶつ増加ぞうか見込みこまれはしたが、自国じこくない消費しょうひするぶんしか生産せいさんできなかった。、また、アメリカ大陸あめりかたいりくから農産物のうさんぶつやす価格かかく輸入ゆにゅう開始かいしされるようになると、農産物のうさんぶつ価格かかく下落げらくし、さらに通貨つうかドラクマが下落げらくすることとなった。そのため、ギリシャ経済けいざい悪化あっかするばかりで歳入さいにゅう不足ふそくつづいたため、歳入さいにゅうの3ぶんの1が海外かいがいからの借款しゃっかんうえ軍事ぐんじ増強ぞうきょうに5わり使用しようしたため、国内こくない経済けいざい基盤きばん成長せいちょう使用しようされることがなかった。このため、ギリシャでは移民いみん促進そくしんされることとなった[61]

クレタとう蜂起ほうきぐん

このころ、クレタとう依然いぜんとして、オスマン帝国ていこく領土りょうどであったが、ギリシャへの統合とうごうもとめる蜂起ほうき発生はっせいしつつあった。とくに1866ねんだい規模きぼ蜂起ほうきは1869ねんまでつづき、オスマン帝国ていこく、ギリシャ、そして列強れっきょうさんこくまで騒動そうどうにまで発展はってんし、ギリシャはクレタとうにおけるキリスト教徒きりすときょうと迫害はくがい根拠こんきょ列強れっきょうこくうったえたが、列強れっきょう東方とうほう問題もんだいとして混乱こんらんすることをおそれ、1869ねん、ドイツのビスマルクオーストリアふくめたうえでパリ会議かいぎ開催かいさい現状げんじょう維持いじ採用さいようされた。しかし、クレタでは1878ねん再度さいど蜂起ほうき発生はっせい、『ハレパ協定きょうてい』により、クレタ住民じゅうみん権利けんり拡大かくだいしたが、1888ねん、クレタ議会ぎかいにおいて急進きゅうしん勢力せいりょく拡大かくだいするとオスマン帝国ていこくはこれにたいして派兵はへい急進きゅうしんらは革命かくめい議会ぎかい設立せつりつしてギリシャへの統合とうごう主眼しゅがんにおいた。1896ねん5がつ、オスマン帝国ていこくぐんによるキリスト教徒きりすときょうと虐殺ぎゃくさつ事件じけん発生はっせいするとギリシャもこれに対抗たいこうして艦隊かんたい派遣はけん列強れっきょうこくもクレタの自治じち提案ていあんしたが、オスマン帝国ていこく拒否きょひした。さらに翌年よくねん2がつ、ゲオルギオス1せいはクレタとう占領せんりょう決断けつだんしたが、列強れっきょう阻止そしされたが、ギリシャ北部ほくぶ国境こっきょうにおいて正規せいきぐん集結しゅうけつ、オスマン帝国ていこくとギリシャはいちせんかまえることとなった。ギリシャぐんはこれに敗北はいぼくしたが、クレタとう自治じち獲得かくとくすることに成功せいこう、さらにゲオルギオス1せい次男じなんゲオルギオス王子おうじがクレタとう総督そうとくとして着任ちゃくにんしたが、1905ねん司法しほう顧問こもんであるエレフセリオス・ヴェニゼロス対立たいりつ、ヴェニゼロスが総督そうとく交代こうたいとギリシャへの併合へいごう主張しゅちょうして革命かくめい宣言せんげんおこなったことにより、国際こくさい監視かんし委員いいんかい総督そうとく交代こうたいキリスト教徒きりすときょうと地位ちい向上こうじょう約束やくそくしたため、ヴェニゼロスはこれをれた[62]

蜂起ほうき最中さいちゅう、エレフセリオス・ヴェニゼロス(中央ちゅうおう)、1905ねん

さらに北方ほっぽう国境こっきょう以北いほくでもスラブけいしょ民族みんぞく民族みんぞく主義しゅぎてき観念かんねんから蜂起ほうきおこなっており、ギリシャじんもテッサリアやマケドニアで蜂起ほうきをおこなった。1878ねん、ベルリン会議かいぎにより、セルビア、ルーマニアが独立どくりつ、ブルガリアの自治じちこく決定けっていされたが、マケドニア[# 18]はこれらのくに係争けいそうしギリシャはタカてき態度たいどかくそうとしなかった。とくにブルガリアは民族みんぞく主義しゅぎ急進きゅうしんしており、そう主教しゅきょう利用りようしてだいブルガリア再現さいげんねらっていたが、ギリシャもこれに対抗たいこう世界せかいそう主教しゅきょう民族みんぞく分離ぶんり傾向けいこうすすなか、ギリシャの支援しえんはじめていた。マケドニアでは散発さんぱつてきたたかいがはじまり、列強れっきょうこく仲介ちゅうかいこころみたが、これもすすまず、結局けっきょく1908ねんにはマケドニアで戦闘せんとう発生はっせい、バルカン戦争せんそうまでつづいた[64]

エレフセリオス・ヴェニゼロス

1908ねん、オスマン帝国ていこく青年せいねんトルコじん革命かくめい発生はっせいした。これによりオーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合へいごう、ブルガリアも正式せいしき独立どくりつ、さらにクレタとうもギリシャへの併合へいごう宣言せんげんしたがこれは列強れっきょうにより阻止そしされた。これによりぐん一部いちぶがクーデターをこし政府せいふ改革かいかく要求ようきゅう政府せいふはこれをれた。そのぐん議会ぎかい対立たいりつ急進きゅうしんしたため、クレタとうからエレフセリオス・ヴェニゼロスが事態じたい打開だかいのためにせられた[65]

ヴェニゼロスはアテネに到着とうちゃくすると打開だかいさく提示ていじ、1910ねん8がつ8にち選挙せんきょおこなわれヴェニゼロス勝利しょうりしたが、さらに議会ぎかい運営うんえい有利ゆうりおこなうために再度さいど選挙せんきょおこなうことが決定けっていされたが、かく政党せいとうはこれをボイコット、そのためヴェニゼロスひきいる自由党じゆうとう圧倒的あっとうてき多数たすうめることとなり、1911ねん5がつ20日はつか憲法けんぽう改正かいせいされた[# 19]。さらにヴェニゼロスは社会しゃかい改革かいかく経済けいざい復興ふっこうちからそそぎ、さらにしんドイツ多数たすうめるぐん幹部かんぶ反対はんたいって、イギリス、フランスの支援しえんけてぐん近代きんだいおこない、フランスから追加ついか借款しゃっかん1おく1000まんフランをけて経済けいざい復興ふっこうにも成功せいこうした[67]

バルカン戦争せんそうだいいち世界せかい大戦たいせん

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1911ねん9がつ、イタリアとオスマン帝国ていこくあいだ戦争せんそう勃発ぼっぱつ、オスマン帝国ていこく落日らくじつあきらかになるとバルカン諸国しょこくはオスマン帝国ていこく分割ぶんかつ協議きょうぎおこなっていた。そこでヴェニゼロスはブルガリアと同盟どうめいむすび、戦争せんそう準備じゅんびととのえていたが、1912ねん9がつ25にち、モンテネグロがオスマン帝国ていこく宣戦せんせん布告ふこくしたことにより、だいいちバルカン戦争せんそう勃発ぼっぱつした。ギリシャは10月5にちコンスタンティノスおう太子たいしそう司令しれいかんとして参加さんか、テッサリアをブルガリアぐんよりもさき占領せんりょう、フロリナ、カストリアを占領せんりょう、ギリシャ海軍かいぐんゲ海げかい制海権せいかいけん掌握しょうあくした[68]

マケドニアはギリシャ、ブルガリア、セルビアの係争けいそうし、各地かくち同盟どうめいこく同士どうしでの対立たいりつしょうじていた。オスマン帝国ていこくはブルガリア、セルビア、モンテネグロの休戦きゅうせんには成功せいこうしたが、ギリシャはこれを拒否きょひ、イオニアの割譲かつじょうアドリア海あどりあかい支配しはい確立かくりつをもくろんでいた。事態じたい収拾しゅうしゅうのために12月3にちにロンドン講和こうわ会議かいぎ召集しょうしゅうされたが、オスマン帝国ていこく強硬きょうこう姿勢しせいくずさなかったために24にちには中断ちゅうだん、1がつ21にちにはふたたたたかいが再開さいかいされることとなった。この最中さいちゅう列強れっきょう和解わかいけて仲介ちゅうかいしたため、1913ねん5がつ17にち、ロンドン和平わへい条約じょうやくにより、だいいちバルカン戦争せんそう終結しゅうけつした[69]

しかし、マケドニアをめぐあらそいは終結しゅうけつしておらず、ギリシャはテッサロニキをめぐってブルガリアと対立たいりつおなじくブルガリアを脅威きょういかんがえていたセルビアと相互そうご防衛ぼうえい条約じょうやく締結ていけついたった。しかし、この直後ちょくごの1913ねん6がつ16にち、ブルガリアぐん攻撃こうげき仕掛しかける事件じけん発生はっせい、ここにだいバルカン戦争せんそう開始かいしされることとなったが、ルーマニアとトルコが参戦さんせんしたため、ブルガリアは降伏ごうぶく、1913ねん7がつ28にちにブカレスト講和こうわ条約じょうやく調印ちょういんされることとなった。このたたかいにより、ギリシャはカヴァラを獲得かくとく、ギリシャ・トルコあいだたたかいもアテネ条約じょうやくにより、11月1にち終結しゅうけつした。ギリシャは2のバルカン戦争せんそうとおして、国土こくどは90%、人口じんこうが80%増加ぞうかしたが、あらたに少数しょうすう民族みんぞくかかえたうえに、回収かいしゅう地域ちいき存在そんざい、さらに戦費せんぴ消費しょうひによる莫大ばくだい赤字あかじかかえることとなった。ヴェニゼロスはこれらの戦争せんそうによる財政ざいせい赤字あかじなどにより国力こくりょく低下ていかしたため、戦争せんそうのぞんでいなかったが、1914ねん6がつ、サラエボ事件じけん発生はっせいすると、ギリシャもまれることとなった[69]

だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすることにより、ギリシャは複雑ふくざつ関係かんけいまれることとなった。中央ちゅうおう同盟どうめいがわドイツ皇帝こうていヴィルヘルム2せいはギリシャおうコンスタンデイノス1せい義兄ぎけいにあたること、中央ちゅうおう同盟どうめいこくであるオーストリアに敵対てきたいするセルビアとバルカン戦争せんそう相互そうご防衛ぼうえい条約じょうやくむすんでいること、また、ギリシャは建国けんこく以来いらい中央ちゅうおう同盟どうめい敵対てきたいするさんこく協商きょうしょうこくであるイギリス、フランス、ロシアの保護ほごこくであったことや、フランスからの借款しゃっかんでギリシャの経済けいざいっていたことなどが存在そんざいし、さらにオスマン帝国ていこくやブルガリアの立場たちば不明ふめいであったことであった。このため、連合れんごうこくはオスマン帝国ていこくとブルガリアをてき陣営じんえい可能かのうせい存在そんざいすることをかんがえ、また、ギリシャぐん内部ないぶにもしんドイツ存在そんざいしていたことからギリシャは中立ちゅうりつ方針ほうしん採用さいようすることとなった[70]

しかし、1914ねん、オスマン帝国ていこく中央ちゅうおう同盟どうめいこくがわ参戦さんせんしたことにより、イギリスはアナトリアの西海岸にしかいがんあたえることを約束やくそくしてギリシャへの参戦さんせんうながしたが、イオニアス・メタクサスを中心ちゅうしんとするしんドイツぐん幹部かんぶ国王こくおうらが反対はんたいしたためヴェニゼロスは辞任じにんして選挙せんきょおこない、これに勝利しょうりしたうえ再度さいど首相しゅしょう着任ちゃくにんしたが、このときは参戦さんせんしなかった。しかし、10月、ブルガリアが中央ちゅうおう同盟どうめいがわ参戦さんせんすると連合れんごうこくはギリシャへ参戦さんせん圧力あつりょくをかけはじめた。議会ぎかいはセルビア支援しえん決議けつぎおこなったが、国王こくおうはこれに反対はんたい、ヴェニゼロスは解任かいにんされた[71]

この最中さいちゅう連合れんごうぐんはテッサロニキへ上陸じょうりくし、ゲ海げかい北岸ほくがん占領せんりょう崩壊ほうかいしたセルビアぐん支援しえんのための圧力あつりょくをかけており、さらにブルガリアぐんはギリシャりょうであったマケドニアに侵攻しんこう、カヴァラも占領せんりょうされた。この事態じたいいたって、ヴェニゼロスはテッサロニキで臨時りんじ政府せいふ樹立じゅりつ宣言せんげん、ギリシャは分割ぶんかつされることとなった。ここではげしい戦闘せんとうおこなわれたが、1917ねん6がつ国王こくおうコンスタンディノス1せい亡命ぼうめい、ヴェニゼロスはアテネへもどり、議会ぎかいさい召集しょうしゅうおこな国王こくおう支持しじしゃ追放ついほう、さらに基盤きばんかためたが、これにより、ヴェニゼロス国王こくおうとの対立たいりつ和解わかい構築こうちく不可能ふかのう状況じょうきょうまれていた。その、ギリシャ議会ぎかい中央ちゅうおう同盟どうめいがわとの国交こっこう断絶だんぜつ宣戦せんせん布告ふこく決定けってい、これによりバルカン戦線せんせん連合れんごうがわ有利ゆうりはたらき、だいいち世界せかい大戦たいせん連合れんごうがわ勝利しょうり終了しゅうりょう、ギリシャは戦勝せんしょうこくとなった[72]

だい共和きょうわせい成立せいりつ

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ヴェニゼロスはパリ講和こうわ会議かいぎ参加さんかするとしょうアジア西部せいぶ、トラキア東部とうぶ、イピロス北部ほくぶ要求ようきゅうをおこなったが、イタリアぐんがアンタルヤに上陸じょうりくしたため、1919ねん5がつ、ギリシャぐんしょうアジアへ上陸じょうりく、このため翌年よくねんのセーブル条約じょうやくでイズミルをふくしょうアジア西部せいぶのギリシャ割譲かつじょうたがギリシャぐんはセーブル条約じょうやく規定きていされて箇所かしょえ、さらなる領土りょうど拡大かくだい目指めざしていた。このとき、ヴェニゼロスは選挙せんきょやぶれ、コンスタンディノス1せいによる親政しんせいにより、ヴェニゼロス政府せいふ要員よういんからされていたが、この方針ほうしん維持いじした[73]

しょうアジアではギリシャじんのポンドス共和きょうわこく、クルドじんによるクルド国家こっかなどトルコの少数しょうすう民族みんぞくみずからの国家こっか設立せつりつたくらんだ活動かつどうをしていたが、これを危機ききとしたトルコじんおよびムスタファ・ケマルらはアンカラで革命かくめい政権せいけん樹立じゅりつ各地かくち分離ぶんり活動かつどう鎮圧ちんあつ消極しょうきょくてきなオスマン帝国ていこくわり活動かつどう開始かいしした。ギリシャぐんしょうアジアの各地かくち占領せんりょうしてはいたが、革命かくめい政権せいけんはこれに反撃はんげき、1923ねん9がつまでにギリシャぐんされることとなった[74]

この敗北はいぼくにより、ふたたびヴェニゼロスいきおいがすこととなり、ヴェニゼロスのニコラオス・プラスティラスがクーデターをおこなうことにより国王こくおうコンスタンディノス2せい退位たいい、トルコでの敗北はいぼく責任せきにんって、6めい処刑しょけいされた。1924ねん4がつ、ヴェニゼロス王制おうせいしん国民こくみん選挙せんきょ開始かいし国内こくないでのおう党派とうは、ヴェニゼロス対立たいりつ決着けっちゃくねらったが、これは見事みごとにヴェニゼロス思惑おもわくどおり、王制おうせい廃止はいし共和きょうわせい移行いこう決定けっていされた。結局けっきょく、セーブル条約じょうやくしょうアジアの領土りょうどは1923ねん7がつむすばれたローザンヌ条約じょうやくによりうしなわれたが、ドデカネス諸島しょとうのぞゲ海げかい島嶼とうしょることとなり、さらにギリシャ・トルコあいだ住民じゅうみん交換こうかんおこなキリスト教徒きりすときょうとはギリシャへ、イスラム教徒きょうとはトルコへそれぞれ移動いどうすることとなった[75]

だい世界せかい大戦たいせんまえ

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1922ねん9がつプラスティラスのクーデターにより、コンスタンディノス1せい退位たいい、ゲオルギオス2せい即位そくいしたが、1924ねん4がつ国民こくみん投票とうひょうにより王制おうせい廃止はいし決定けってい共和きょうわせいへの移行いこう決定けっていされ、すぐに亡命ぼうめいせざるをなかった。しかし、国内こくないではヴェニゼロスはんヴェニゼロスによるあらそいが発生はっせいつづくこととなり、1934ねん5がつにはヴェニゼロスは亡命ぼうめいまれ、しん首相しゅしょうツァルダリスのもと王制おうせい復活ふっかつ決定けっていされた。復位ふくいしたゲオルギオス2せい議会ぎかい選挙せんきょを1935ねん6がつ、1936ねん1がつの2おこなったが、ヴェニゼロスはんヴェニゼロスらの議席ぎせき拮抗きっこう共産党きょうさんとうがキャスティングボートとした[76]

この不安定ふあんてい政局せいきょくのために、国王こくおうゲオルギオス2せい極右きょくう政党せいとう党首とうしゅであったイオアニス・メタクサスを首相しゅしょう任命にんめい、この政局せいきょく打開だかいはかった。メタクサスは議会ぎかい無視むしして強引ごういん政治せいじ運営うんえいおこない、労働ろうどう運動うんどうたいしても弾圧だんあつおこない、さらに共産党きょうさんとうがゼネストをくわだてたことから1936ねん8がつ4にち、クーデターを敢行かんこう、メタクサスによる独裁どくさい体制たいせい確立かくりつした。メタクサスはファシズムてき政治せいじ運営うんえいおこなったが、けっしてファシストではなく、農民のうみん借金しゃっきんたいするモラトリアムを導入どうにゅう、『だいいち農民のうみん』、『だいいち労働ろうどうしゃ』と名乗なのりポピュリストてき運営うんえいおこなった。民衆みんしゅうたちはこれに賛同さんどうはしなかったが、否定ひていもせずにすごした。唯一ゆいいつ混乱こんらんはヴェニゼロスの故郷こきょう、クレタとう発生はっせいした暴動ぼうどうであったが、これもすぐに戒厳かいげんれいかれたことにより鎮圧ちんあつされた[77]

メタクサスはドイツと接近せっきんしながらもイギリスとの友好ゆうこう関係かんけいつづけ、戦争せんそうかげしのるヨーロッパのなか中立ちゅうりつまもるべく行動こうどうしていたが、イタリアによるアルバニア占領せんりょう以降いこう枢軸すうじくぐんへの参加さんかびかけられ、さらにイタリアは最終さいしゅう通告つうこくおこないギリシャにおどしをかけた。しかし、1940ねん10がつ28にち、メタクサスはこれを拒否きょひ、ここにイタリアぐんによるギリシャ侵攻しんこう開始かいしされた[78]

メタクサスはイギリスに支援しえんもとめたうえでイタリアぐんもどし、一時いちじてきにはアルバニアまでぎゃくんだ。しかし、ユーゴスラビアにおけるクーデターにより、ユーゴスラビアが枢軸すうじくこくがわからはなれようとしたため、ナチス・ドイツはこれを占領せんりょうすることを決定けってい枢軸すうじくぐんはユーゴスラビアを占領せんりょうし、ギリシャへむこととなった。その最中さいちゅう、メタクサスは病死びょうしいだアレクサンドロス・コリジス混乱こんらんなか自決じけつした。

1941ねん4がつ23にち、ドイツぐんはアテネに入城にゅうじょう[79]。ゲオルギオス2せい国王こくおうはクレタとうぼうへの遷都せんと発表はっぴょうした[80]うえで、コリジスののちいだ首相しゅしょうツデロスらはクレタとう避難ひなんした。しかし、そのクレタとうもドイツぐん攻撃こうげきけ、国王こくおう、ツデロスらはカイロへ亡命ぼうめいすることとなった[78]

ギリシャは、ドイツ・イタリア・ブルガリアの枢軸すうじくこくさん箇国かこくによって分割ぶんかつ占領せんりょうされることとなり、苦難くなん日々ひびむかえることとなった[81]

だい世界せかい大戦たいせん

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だい世界せかい大戦たいせん枢軸すうじくぐん占領せんりょうされ、多大ただい損害そんがいったギリシャは枢軸すうじくぐん占領せんりょう終了しゅうりょうし、解放かいほうされたのちなが内戦ないせん経験けいけんすることとなった。内戦ないせんにより、りょう陣営じんえい残虐ざんぎゃく行為こういでおたがいをきずつけあい、共産きょうさん主義しゅぎしゃはん共産きょうさん主義しゅぎしゃあらそいとし、ただでさえ欠乏けつぼうしていた物資ぶっし共産きょうさん主義しゅぎしゃふうじこむために使用しようされ、くにでは経済けいざい復興ふっこう使用しようされたアメリカ援助えんじょもギリシャでは軍備ぐんび使用しようされた。その結果けっか内戦ないせん終了しゅうりょうトルコならんでバルカン地中海ちちゅうかい東部とうぶにおけるアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくようし、ブルガリアルーマニアさえていたソビエト連邦れんぽう対峙たいじすることとなった[82][# 20]アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくはギリシャの内戦ないせん介入かいにゅう以降いこう政治せいじにも介入かいにゅうし、官僚かんりょうぐん首脳しゅのう人事じんじにも介入かいにゅうつづけた[84]

1950ねん、ギリシャは朝鮮ちょうせん戦争せんそう参加さんか、さらに1951ねん9月には北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう(NATO)にも加盟かめい1953ねんにアメリカぐん基地きち構築こうちくされることとなった[84]。アメリカぐんはギリシャへ介入かいにゅうするにたり、ギリシャでつよ影響えいきょうりょくったギリシャぐんあしがかりにしており、ギリシャぐん民衆みんしゅう政府せいふにではなく、おう忠誠ちゅうせいちかっていた。そして、1953ねん共産きょうさん主義しゅぎしゃ監視かんしおこな目的もくてきギリシャ諜報ちょうほう機関きかん(KYP)設立せつりつされ、CIA全面ぜんめんてきバックアップをけたうえ広範囲こうはんいにパイプをめぐらせ、共産きょうさん主義しゅぎしゃ監視かんしおこなった[85]。このように戦後せんごギリシャにおける政策せいさく運営うんえい社会しゃかいさい構築こうちくかわずに共産きょうさん主義しゅぎ打倒だとうかっていた[86]

内戦ないせん終了しゅうりょうの1950ねん2がつ、ギリシャにおいて1947ねん以来いらいつづいていた戒厳かいげんれい解除かいじょ、1950ねん3がつ比例ひれい代表だいひょうもとづいたそう選挙せんきょおこなわれツァルダスひきいる人民じんみんとうがなんとかだいいちとうになったが、中道ちゅうどう諸派しょはさん連合れんごう勢力せいりょく[# 21]政権せいけんゆだねられた。しかし、安定あんてい多数たすう保持ほじしておらず、ギリシャ政局せいきょく不安定ふあんていし、1951ねん9がつ再度さいどそう選挙せんきょおこなわれ、右派うは勢力せいりょく結集けっしゅうしたアレクサンドロス・パパゴスひきいる『ギリシャ国民こくみん連合れんごう』がだいいちとうおどたため、政局せいきょく流動りゅうどう促進そくしんされた。しかし、アメリカは右派うはでの安定あんていのぞんだため、これに介入かいにゅう[# 22]、1952ねん11月16にちそう選挙せんきょおこなわれ、パパゴスが政権せいけんになうこととなった[89]

パパゴスはだい世界せかい大戦たいせん以来いらい経済けいざいてき混乱こんらん決着けっちゃくをつけることに成功せいこう、1953ねん平価へいか切下きりさ同時どうじおこなわれた通貨つうか管理かんり政策せいさくなどのインフレ抑制よくせいこうそうし1960年代ねんだいには経済けいざい発展はってんはじまりつつあった[# 23]

このころキプロスとうにおける人口じんこう9わりめていたギリシャじん元々もともとギリシャ本土ほんどへの編入へんにゅうつよもとめていたが、キプロスとうイギリスによって統治とうちされていた。そのイギリスはキプロスを手放てばなはなかったが、キプロスにおいてギリシャけいのキプロス解放かいほう民族みんぞく組織そしき(EOKA)による活動かつどう開始かいしされたことから、これに対抗たいこうするためにトルコへこの紛争ふんそうたい利害りがい関係かんけい主張しゅちょうするよううながした結果けっか1955ねん5月、イスタンブールで暴動ぼうどう発生はっせいしてしまいギリシャじんコミュニティが衰退すいたいすることとなった。これらのことから、トルコ政府せいふはギリシャへの併合へいごうみとめず、分割ぶんかつ主張しゅちょうするようになった[90]

1955ねん、パパゴスが死去しきょするとコンスタンディノス・カラマンリス首相しゅしょう任命にんめいされ、1956ねん2がつそう選挙せんきょおこなわれ中道ちゅうどう左派さは結成けっせいした『民主みんしゅ連合れんごう』が48%得票とくひょうし、与党よとうである『ギリシャ国民こくみん連合れんごう』が改組かいそされた『国民こくみん急進きゅうしんとう』を上回うわまわったにもかかわ(かかわ)らず、『国民こくみん急進きゅうしんとう』が過半数かはんすうることになった。安定あんてい多数たすうたカラマンリスは首相しゅしょう在任ざいにんした1963ねんまでに国民こくみん所得しょとく倍増ばいぞうなど、経済けいざい安定あんてい成功せいこうしていたが、1958ねん選挙せんきょでは『国民こくみん急進きゅうしんとう』は得票とくひょうすう前回ぜんかい下回したまわったにもかかわらず、過半数かはんすう取得しゅとくしたが、左派さはだいとう躍進やくしんしていた[# 24]。カラマンリスはキプロスのために東奔西走とうほんせいそうしたが、結局けっきょくキプロスがギリシャへ併合へいごうされることはなく、イギリス連邦れんぽう所属しょぞくする共和きょうわこくとして独立どくりつ、ギリシャ、トルコが小規模しょうきぼ部隊ぶたいをおくることにより、これを保障ほしょうすることとなった[92]

それまで内政ないせいには問題もんだいっていなかったカラマンリスであったが、選挙せんきょを1961ねんおこなうことを決定けっていすると風向かざむきがわり、中道ちゅうどうしょ政党せいとう統一とういつされ、ゲオルギオス・パパンドレウひきいる『中央ちゅうおう同盟どうめい』が結成けっせいされた。これは雑多ざった主義しゅぎ混合こんごうしており、やがて解散かいさんすることになるが、1961ねん選挙せんきょでは『民主みんしゅ左翼さよく連盟れんめい』をいやることに成功せいこうした[93]。しかしこの選挙せんきょは『暴力ぼうりょく欺瞞ぎまん選挙せんきょ』とばれる悪名あくめいたかいものとした[94][# 25]

しかし、これらの所作しょさにもかかわらず、中道ちゅうどう連合れんごうだいとう躍進やくしん指導しどうしゃゲルギオス・パパンドレウは民主みんしゅてき選挙せんきょもとめ『たるまない闘争とうそう』を宣言せんげん、この混乱こんらんなか左翼さよく民主みんしゅ連合れんごう指導しどうしゃグリゴリス・ランブラキス暗殺あんさつされ政局せいきょく悪化あっか一途いっとをたどっていた。さらに1963ねん11月の選挙せんきょでは中道ちゅうどう連合れんごう勝利しょうりおさめ、パパンドレウが組閣そかく、さらに1964ねん2がつさい選挙せんきょおこなわれ、パパンドレウひきいる中道ちゅうどう連合れんごう安定あんてい多数たすう政権せいけん確保かくほ成功せいこうした。一方いっぽう右派うはのカラマンリスは王室おうしつとくにドイツまれのフレデリキ王妃おうひ対立たいりつ、1963ねん12月亡命ぼうめいした[93][95]

アメリカはぞうだがキプロスはノミにすぎない。ギリシャもノミである。このひきのノミがいつまでもぞうかゆくさせるならば、ノミははなでたたかれるだろう。それもはげしく。
アメリカ大統領だいとうりょうリンドン・ジョンソン、ギリシャ大使たいしかた[96]

パパンドレウは政権せいけんたが、キプロスでは危機ききせまっており、1960ねんのキプロス協定きょうていさだめられていたさんこくによる共同きょうどう統治とうち崩壊ほうかいし、キプロスだい主教しゅきょうであり大統領だいとうりょうであったマカリオスはトルコじん権利けんり縮小しゅくしょうもとめたがこれをトルコ政府せいふ拒否きょひ、ギリシャじんとトルコじんあいだで1960ねん12がつまつからはげしいたたかいがはじまり、トルコがキプロスに介入かいにゅうする危機ききせまっていた。これは1964ねんアメリカ大統領だいとうりょうリンドン・ジョンソン強硬きょうこう発言はつげんにより回避かいひされたが、国連こくれん平和へいわ維持いじぐん介入かいにゅう不安定ふあんてい平和へいわがキプロスにおとずれた[97]。これ以降いこう、キプロスではトルコじん、ギリシャじんじゅうけが強制きょうせいてきおこなわれ、『じゅう統一とういつあん[# 26]』が提示ていじされたが、これをパパンドレウは拒否きょひ、アメリカの不興ふきょううこととなった[96]

また、パパンドレウは国内こくない改革かいかくすすめ、教育きょういく改革かいかく東側ひがしがわ諸国しょこくとの関係かんけい改善かいぜん内戦ないせんちゅうより獄中ごくちゅうにあったものの釈放しゃくほうなどをおこない、経済けいざい関連かんれんでは息子むすこアンドレアスを閣僚かくりょうたてて、辣腕らつわんるわせていた。しかし、パパンドレウによるゆるやかなインフレ経済けいざい政策せいさく国内こくない特権とっけん階級かいきゅうには不安ふあんされており、さらにぐんないにもパパンドレウ政府せいふ左翼さよくてきであるとして危険きけんしていた。そして、アメリカは警戒けいかいつよめ、さらに右派うは連合れんごうは『アスピダ事件じけん』を利用りようして中道ちゅうどう政権せいけん攻撃こうげき開始かいしした[# 27]。そして、国王こくおうコンスタンディノス2せい国王こくおう権限けんげん問題もんだい背景はいけいにしてこれに介入かいにゅう1965ねん7がつにパパンドレウは辞任じにんした。しかし、これに民衆みんしゅうはデモを開始かいし、『70日間にちかん運動うんどう』もしくは『国王こくおう一揆いっき』とばれることとなる[99]。その首相しゅしょうにコスティス・ステファノプロスが任命にんめいされたが、政局せいきょく混乱こんらん国内こくない不安定ふあんていさをおさめることはできなかった[100]。この混乱こんらんなか、ステファノプロスは『国民こくみん急進きゅうしんとう党首とうしゅパナヨティス・カネプロスと合意ごういして1967ねん5月、そう選挙せんきょおこなうことを決定けってい超党派ちょうとうは選挙せんきょ管理かんりないかく仕切しきることとなったが、アンドレアス・パパンドレウの問題もんだい内閣ないかく崩壊ほうかいした。そのため、国王こくおうはカネプロスに選挙せんきょたくしたが、その数日すうじつの1967ねん4がつ21にち下級かきゅう将校しょうこうグループによるクーデターが発生はっせいした[101][102]

このクーデターは中道ちゅうどう連合れんごう勝利しょうり確実視かくじつしされたためであったが、国王こくおうぐん首脳しゅのう労働ろうどう組合くみあい政党せいとうすべてがきょかれた状態じょうたいであり、ギリシャ陸軍りくぐん権力けんりょく掌握しょうあくすることとなった。カネプロスはこれを拒否きょひするよう請願せいがんしたが、国王こくおうはクーデターの首謀しゅぼうしゃスティリアノス・パッタコスじゅんはたゲオルギオス・パパドプロス大佐たいさ、ニコラオス・マカレゾス大佐たいさらによって形成けいせいされたもと検事けんじちょうコリアスを首班しゅはんとするいつわりの文民ぶんみん政府せいふやめ承認しょうにんした[101][102]

軍事ぐんじ政権せいけん

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国王こくおういつわりの文民ぶんみん政府せいふ承認しょうにんしたが、1967ねん12月、ぎゃくクーデターを仕掛しか事態じたい収拾しゅうしゅうねらった。しかし素人しろうとじみたその行動こうどうぐんによってすぐさま鎮圧ちんあつされ、国王こくおうはローマへ亡命ぼうめいした[103]

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただし、正式せいしき廃止はいしされたのは1973ねんおこなわれた国民こくみん投票とうひょうによる。
  2. ^ この協定きょうてい1923ねん廃止はいしされるまで列強れっきょうこく干渉かんしょうつづいた[1]
  3. ^ 全体ぜんたいで5まん平方へいほうkm、人口じんこうやく80まんにんであったが、ギリシャじん最大さいだい都市としコンスタンティノープルだいアドリアノープル、さらに当時とうじイギリス保護ほごであったイオニア諸島しょとうには160まんにんのギリシャじんんでおり、かならずしもだい多数たすうのギリシャじんらが新生しんせいギリシャ王国おうこくあつまっていたわけではなかった[3]
  4. ^ ハイデックはギリシャ独立どくりつ戦争せんそう参加さんかしており、終戦しゅうせん、ナフプリオの守備しゅび隊長たいちょうとしてギリシャ初代しょだい大統領だいとうりょうイオアニス・カポディストリアスに使つかえた人物じんぶつであった。ただし、ギリシャ正規せいきぐんには否定ひていてき意見いけんっており、バイエルンじん主幹しゅかんとするしん正規せいきぐん形成けいせいかんがえていた[5]
  5. ^ これは独立どくりつわらず、『イギリス』はコンスタンティノープル出身しゅっしんのファナリオット、アレクサンドロス・マヴロコルダトス中心ちゅうしんとしており、イギリスにならってギリシャの近代きんだい国家こっか目指めざしながらも立憲りっけん君主くんしゅせい否定ひていするはんオソン1せい、『フランス』は「メガリ・イデア」(ギリシャの失地しっち回復かいふく運動うんどう実現じつげん夢見ゆめみイオアニス・コレッティス指導しどうしゃとした立憲りっけん君主くんしゅ、『ロシア』はみずからをギリシャ大統領だいとうりょうイオアニス・カポディストリアス後継こうけいしゃであるとしており、テオドロス・コロコトロニス指導しどうしゃとしてをキリストきょうとの関係かんけい中心ちゅうしんにしてロシアとの友好ゆうこう関係かんけい強調きょうちょうしてオスマン帝国ていこくとの対決たいけつ目指めざすペロポネソス半島はんとう根拠地こんきょちとする保守ほしゅ、と一応いちおう色分いろわけされ各国かっこくのアテネ駐在ちゅうざい大使たいしらと緊密きんみつ関係かんけいたもっていたが、場合ばあいによっては党派とうは移動いどうするなどその位置いち流動的りゅうどうてきであった[8][9]
  6. ^ ただし、列強れっきょうによってさだめられたギリシャの独立どくりつかんする協定きょうていには憲法けんぽう制定せいてい規定きていされていた[2]
  7. ^ ただし、初期しょきにおいては教授きょうじゅおおくがドイツじんであり、「カサレヴサ(純正じゅんせい)」を学術がくじゅつてき用語ようご変化へんかさせて民衆みんしゅう使つかう「口語こうご(デモティック)」からはなれたものにしたという問題もんだいまれた[14]
  8. ^ のちにオスマン帝国ていこくはこの教育きょういくが「回復かいふくされざる」ギリシャじんたいするプロパガンダ活動かつどう做し、19世紀せいきまつ制限せいげんくわえた[2]
  9. ^ スロボノスによれば6せんまんフランとされている[12]
  10. ^ これはバルカン半島ばるかんはんとう各地かくちやオスマン帝国ていこく各地かくち分散ぶんさんしていた相当そうとうすうのギリシャじんらが帰国きこくしたもので自然しぜんぞう増加ぞうかしたものではない[25]
  11. ^ オソン1せいがカトリック教徒きょうとであったため、オソンをギリシャ正教せいきょう改宗かいしゅうさせるか、退位たいいさせるかしようとした陰謀いんぼう[19]
  12. ^ カステランによれば1842ねん[34]
  13. ^ この国民こくみん議会ぎかいには当時とうじ、オスマン帝国ていこく領土りょうどであったテッサリア、イピロス、マケドニアの代議士だいぎしらも参加さんかしていた[35]
  14. ^ 女性じょせい選挙せんきょけんみとめられたのは1952ねん[32]
  15. ^ 当時とうじのギリシャでは復活ふっかつさいときにキリストを裏切うらぎったユダの肖像しょうぞうくという慣行かんこうおこなわれていた。しかし、ロスチャイルド一員いちいんがアテネを訪問ほうもんしたとき多額たがく借款しゃっかんこと期待きたいしたためにこの慣行かんこう中止ちゅうしされた。そのため、ギリシャじんらはそのわりにユダヤけいイギリスじんであるドン・パシフィコのいえ略奪りゃくだつした事件じけん[46]
  16. ^ さらに憲法けんぽうには王位おうい継承けいしょうしゃはギリシャせい教徒きょうとであることを規定きていしていたが、オソン1せいとその兄弟きょうだいらはカトリック教徒きょうとのままであった[14]
  17. ^ オソン1せい、アマーリア夫妻ふさいあいだ男児だんじがいなかったことも関係かんけいしており、後継こうけいしゃ場合ばあいべつ事態じたい発生はっせいしていた可能かのうせいがあるとおおくの識者しきしゃ意見いけんがある。
  18. ^ マケドニアはユダヤ、スラヴ、トルコ、アルバニア、ヴラビ、ロマらが19世紀せいきから20世紀せいき初頭しょとうにかけて共生きょうせいしていたが、民族みんぞく主義しゅぎてき観念かんねん発展はってんするにしたがい、かく民族みんぞく領有りょうゆう主張しゅちょうする係争けいそうしていた[63]
  19. ^ この憲法けんぽう改正かいせいにより、人権じんけんかんする規定きてい強化きょうかされ、議会ぎかい改革かいかく初等しょとう教育きょういく義務ぎむ農地のうち改革かいかくのための土地とち収用しゅうよう可能かのうなどが規定きていされた[66]
  20. ^ その1953ねん、ギリシャ、トルコ、ユーゴスラビアさんこくバルカンさんこく同盟どうめいむすばれるまでの良好りょうこう関係かんけいいたったが、すぐに解消かいしょうされた。これはキプロスとうをめぐってイスタンブールにおいてギリシャじんトルコじん暴徒ぼうとおそったため、ギリシャとトルコの関係かんけい悪化あっかしたためであり、ユーゴスラビアとギリシャがなかたがいをしたわけではない[83]
  21. ^ ニコラオス・プラスティラスひきいる『国民こくみん進歩しんぽ同盟どうめい』、エレフセリオス・ヴェニゼロス息子むすこソフォクリス・ヴェニゼロスひきいる『自由党じゆうとう』、ゲオルギオス・パパンドレウひきいる『ゲオルギオス・パパンドレウとう[87]
  22. ^ これまでギリシャはアメリカよりひゃくおくドルをっていたが、比例ひれい代表だいひょうせいしょう選挙せんきょせい変更へんこうしないと援助えんじょ縮小しゅくしょうすると警告けいこくした[88]
  23. ^ ギリシャじんおおくがアメリカやオーストリアカナダドイツなどへ移住いじゅうかれらは『ガストアルバイター』としてはたらき、本国ほんごく送金そうきんしていたが、これらはギリシャをささえるものであった。そして船舶せんぱく税金ぜいきんやすさえられたため、便宜置籍船べんぎちせきせんおおくがギリシャ船籍せんせきであり、ギリシャの海運かいうんぎょう世界せかい最大さいだい規模きぼであった[82]
  24. ^ これは政局せいきょく混乱こんらんしていことだけでなく、キプロスとう事件じけんさいに、NATOがギリシャを支援しえんしなかったため、ギリシャ国民こくみんはそれにいかりをいていた。左派さははそこにたくみにれ、勢力せいりょくばした[91]
  25. ^ 左派さは躍進やくしんしたことにより、右派うは連合れんごう共産きょうさん主義しゅぎ台頭たいとうおそれ、警察けいさつぐん、KYP、そのはん共産きょうさん主義しゅぎ組織そしき動員どういんして選挙せんきょ妨害ぼうがいだい規模きぼ展開てんかい[94]。さらに得票とくひょう集計しゅうけい不正ふせい操作そうさまでおこなわれたため、こうばれる。また、このなかには独裁どくさいしゃゲオルギオス・パパドプロス参加さんかしていた[93]
  26. ^ キプロスはギリシャに併合へいごうするが、トルコじん自治じちしゅう形成けいせいし、そこにトルコぐん基地きち配置はいちする。そのわりにカステルリゾとうをトルコに割譲かつじょうするというあん[96]
  27. ^ ギリシャぐん内部ないぶエジプトナセル体制たいせい樹立じゅりつはかっていた『アスピダ(たて)』という秘密ひみつ組織そしき存在そんざいしており、そのリーダーがパパンドレウの息子むすこアンドレアスであるというCIAによってでっちげられた事件じけん[98]

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
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  • ざいギリシヤ日本国にっぽんこく大使館たいしかんへん外務省がいむしょうおうきょく監修かんしゅう世界せかい各国かっこく便覧びんらん叢書そうしょギリシヤ王国おうこく便覧びんらん日本にっぽん国際こくさい問題もんだい研究所けんきゅうじょ、1963ねん