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フェニキア文字 もじ 、アラム文字 もじ 、およびヘブライ語 ご 活字 かつじ によるヤハウェの名 な [注 ちゅう 1]
ヤハウェ (ヘブライ語 ご : יהוה 、フェニキア語 ご : 𐤉𐤄𐤅𐤄 、古 こ アラム語 ご (英語 えいご 版 ばん ) : 𐡉𐡄𐡅𐡄 、英語 えいご : Yahweh )は、モーセに啓示 けいじ された神 かみ の名 な である[1] 。旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ や新約 しんやく 聖書 せいしょ 等 ひとし における唯一 ゆいいつ 神 かみ 、万物 ばんぶつ の創造 そうぞう 者 しゃ の名 な でもある。
この名 な はヘブライ語 ご の4つの子音 しいん 文字 もじ で構成 こうせい され、テトラグラマトン (古代 こだい ギリシア語 ご で「4つの文字 もじ 」の意 い )または聖 せい 四 よん 文字 もじ [2] と呼 よ ばれる。この名前 なまえ の正確 せいかく な発音 はつおん は分 わ かっていない。日本語 にほんご ではヤーウェ 、ヤーヴェ 、エホバ 等 ひとし とも表記 ひょうき されるが、エホバについて現在 げんざい ではしばしば非 ひ 歴史 れきし 的 てき な読 よ み[3] 、誤 あやま りないし不適切 ふてきせつ な読 よ み[4] [5] [6] [7] 等 ひとし と位置付 いちづ けられる。
本 ほん 項 こう に示 しめ す通 とお り、神 かみ を指 さ す様々 さまざま な表現 ひょうげん が存在 そんざい するが、特 とく に意図 いと がある場合 ばあい を除 のぞ き、本 ほん 項 こう での表記 ひょうき は努 つと めてヤハウェに統一 とういつ する。また本 ほん 項 こう では、ヤハウェを表 あらわ す他 ほか の語 かたり についても述 の べる。
ヤハウェを指 さ して、いくつかの普通 ふつう 名詞 めいし もしくはそれに類 るい するものが用 もち いられる場合 ばあい がある。次 つぎ にヘブライ語 ご 表現 ひょうげん をカタカナで、また対応 たいおう する訳語 やくご を漢字 かんじ で示 しめ す。
日本語 にほんご 訳 やく 聖書 せいしょ では今日 きょう 、一般 いっぱん に、原文 げんぶん において「יהוה (ヤハウェ)」とある箇所 かしょ を「主 あるじ 」に置換 ちかん している。
消失 しょうしつ の経緯 けいい で後述 こうじゅつ するユダヤ人 じん の慣習 かんしゅう による(今日 きょう のユダヤ人 じん はヤハウェと読 よ まずに、アドナイ(「わが主 おも 」)という別 べつ の語 かたり を発音 はつおん するためである)。
アドナイ(אֲדֹנַי [’Ăḏōnay] [8] )の語 かたり には、「主 あるじ (Lord)[9] 」即 すなわ ちヤハウェを婉曲 えんきょく に指 さ す意味 いみ のほか、単数 たんすう 形 がた のアドニ(אֲדֹנִ֥י )という形 かたち で「私 わたし の御 ご 主人 しゅじん 様 さま (my master)[10] [11] [12] [13] 」即 すなわ ち奴隷 どれい の雇用 こよう 主 ぬし など主 しゅ 一般 いっぱん を指 さ す意味 いみ がある。
カトリック 系 けい の『バルバロ 訳 わけ 』のほか、『口語 こうご 訳 やく 聖書 せいしょ 』(日本 にっぽん 聖書 せいしょ 協会 きょうかい )などがこれである。また、口語 こうご 訳 やく 聖書 せいしょ を後継 こうけい する『新 しん 共同 きょうどう 訳 やく 聖書 せいしょ 』(同 どう )も、一部 いちぶ の地名 ちめい (『創世 そうせい 記 き 』第 だい 22章 しょう 14節 せつ )(後述 こうじゅつ )を除 のぞ き、一貫 いっかん して「主 あるじ 」とする。
プロテスタント 福音 ふくいん 派 は 系 けい の『新 しん 改訳 かいやく 聖書 せいしょ 』では太字 ふとじ で「主 あるじ 」とする。これは「文語 ぶんご 訳 やく ではエホバ[注 ちゅう 2] と訳 やく され、学者 がくしゃ の間 あいだ ではヤハウェとされている主 あるじ の御名 ぎょめい を」「訳 やく し」た「主 あるじ 」と、これを「代名詞 だいめいし などで受 う けた場合 ばあい かまたは通常 つうじょう の<主 おも >を意味 いみ することば」とを区別 くべつ するためである[14] 。1893年 ねん の時点 じてん で日本 にっぽん 聖 せい 公会 こうかい も、エホバではなく主 おも の語 かたり を用 もち いるべきだとしている[15] 。
主 おも に「英語 えいご 圏 けん 」・「スラブ語 ご 圏 けん 」となるが 実際 じっさい の「聖 せい 四 よん 文字 もじ 」の表記 ひょうき 例 れい を「出 いずる エジプト記 き 20」から挙 あ げる。
言語 げんご
翻訳 ほんやく 書名 しょめい
『יהוה 』部分 ぶぶん の表記 ひょうき
英語 えいご
TANAKH[16] 1985
Lord
英語 えいご
The Holy Bible in Today's Version 1997
Κυριος
英語 えいご
Tyndale 1530
Lord
英語 えいご
Wycliffe 1382
Lord
英語 えいご
GENEVA 1560 1599
Lord
ラテン語 らてんご
VULGATAE 1710
Domini
ラテン語 らてんご
VULGATAE 1985
Domini
英語 えいご
King James Version 1611
LORD
英語 えいご
Revised Version 1885
LORD
英語 えいご
Revised Version Standard American Edition 1901
Jehova
英語 えいご
American Standard Version 1901
Jehovah
英語 えいご
New Catholic Edition 1954
Lord
英語 えいご
THE BIBLE IN BASIC ENGLISH 1949
Lord
英語 えいご
REVISED STANDARD VERSION 1971
LORD
英語 えいご
RSV CATHOLIC EDITION 2004
LORD
英語 えいご
THE MOFFATT TRANSLATION 1972
the Eternal
英語 えいご
New American Standard Bible 1973
Lord
英語 えいご
New World Translation 1984
Jehovah
英語 えいご
NEW REVISED STANDAD VERSION 1989
Lord
英語 えいご
THE NEW KING JAMES VERSION 1990
LORD
英語 えいご
THE BIBLE for children 1990
Lord
英語 えいご
The New Amarican Bible 1992
LORD
英語 えいご
NEW LIVING TRANSLATION 1997
LORD
英語 えいご
DOUAY-RHEMS 1900(NT) 2003 2007
Lord
英語 えいご
Recovery Version 2003
Jehovah
英語 えいご
ENGLISH STANDARD VERSION 2001
LORD
英語 えいご
NEW INTERNATIONAL VERSION 1986 2011
LORD
英語 えいご
New Revised S tandard Version Catholic Edition 2011
LORD
不明 ふめい 言語 げんご
Welsh Y BEIBL 1977 2004
ARGLWYDD
ロシア語 ご
БИБЛИЯ 1948 1993 2000
Господь
ブルガリア語 ご
БИБЛИЯ 1951
Иеова
ブルガリア語 ご
БИБЛИЯ 1982
Господ
ウクライナ語 ご
БИБЛИЯ 1962 1992 2011
Господь
エストニア語 ご
Biibli Raamat 1945
Jehowa
エストニア語 ご
PIIBEL 1997
Issand
不明 ふめい 言語 げんご
СВЕТО ПИСМО 2009
Господ
ハンガリー語 ご
SZENT BIBLIA 1957 2008
Ur
ルーマニア語 ご
Rumanian 1962
Domnul
ポーランド語 ご
BIBLIA SWIETA 1959 1999
Pan
ポーランド語 ご
PISMO SWIETA 1994 2011
Pan
セルビア語 ご
СВЕТО ПИСМО 1953 1998
Господ
クロアチア語 ご
SVETO PISMO 1962 1997
Gaspodin
チェコ語 ご
BIBLE SVATA 1991
Hospodin
スロベニア語 ご
SVETO PISMO 1960
Gospod
ドイツ語 ご
Die Bibel (M.L) 1962 1975
Herr
ドイツ語 ご
ZURCHER BIBEL 1971
Herr
ドイツ語 ご
ZURCHER BIBEL 2007
HERR
ドイツ語 ご
BIBEL OT 1922
Jahwes
ドイツ語 ご
Dem Heiligen Seift 1936 1937
Herr
オランダ語 ご
BIJBEL 1930
HERRE
オランダ語 ご
BIJBEL 2005
HERR
デンマーク語 ご
BIBELEN 2006
Herren
ノルウェー語 ご
BIBELEN 1962 2006
Herren
フィンランド語 ご
PYHA RAAMATTU 1961
Herra
スウェーデン語 ご
BIBELEN 1961
HERREN
スウェーデン語 ご
BIBELN 2000
Herren
アイスランド語 ご
BIBLIAN 1981
Drottinn
アイスランド語 ご
BIBLIAN 1998
Drottinn
不明 ふめい 言語 げんご
LA SANTA BIBLIA 1960
Jehova
不明 ふめい 言語 げんご
La Sainte Bible 1979
l'Eternel
イタリア語 ご
LA SACRA BIBBIA 1961
Signore
イタリア語 ご
Italian BIBBIA 1985
Signore
旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ では、「神 かみ 」という一般 いっぱん 名詞 めいし であるエル(古典 こてん 的 てき なヘブライ語 ご 発音 はつおん でエール )やその複数 ふくすう 形 がた 「אלהים (エロヒム )」[注 ちゅう 3] もヤハウェの呼称 こしょう として用 もち いられる。一般 いっぱん に、日本語 にほんご 訳 やく 聖書 せいしょ ではこれらの音訳 おんやく は使用 しよう せず、これに相当 そうとう する箇所 かしょ は漢 かん 訳 やく 聖書 せいしょ での訳語 やくご を踏襲 とうしゅう し神 かみ とするものが多 おお い。「全能 ぜんのう ・満 み たすもの」を意味 いみ するとされるシャダイの語 かたり を付 ふ してエル・シャダイ とした箇所 かしょ は、全能 ぜんのう の神 かみ などと訳 やく される。
中国 ちゅうごく 語 ご の聖書 せいしょ には、本 ほん 項 こう の神 かみ について「神 かみ 」という語 かたり をあてたもののほか、「上帝 じょうてい 」となっているものが多数 たすう 存在 そんざい した。今日 きょう も多 おお く使 つか われる和合本 わごうほん という翻訳 ほんやく の聖書 せいしょ も、この語 かたり を「神 かみ 」とした上 うえ で1文字 もじ 分 ぶん の空白 くうはく をあけ、2文字 もじ の「上帝 じょうてい 」と同 おな じ文字 もじ 送 おく りにしたものが多 おお い[注 ちゅう 4] 。
「神 かみ 」の字 じ が、「אלהים 」または「אלוהים 」、古代 こだい ギリシャ語 ご 「Θεός (テオス)」、英語 えいご 「God 」[注 ちゅう 5] の訳語 やくご に当 あ てられたのは、近代 きんだい 日本 にっぽん でのキリスト教 きりすときょう 宣教 せんきょう に先行 せんこう していた清 きよし におけるキリスト教 きりすときょう 宣教 せんきょう の先駆 せんく 者 しゃ である、ロバート・モリソン による漢文 かんぶん 聖書 せいしょ においてであった[17] 。しかしながら訳語 やくご としての「神 かみ 」の妥当 だとう 性 せい については、ロバート・モリソン死後 しご の1840年代 ねんだい から1850年代 ねんだい にかけて、清 きよし における宣教 せんきょう 団 だん の間 あいだ でも議論 ぎろん が割 わ れていた。大 おお きく分 わ けて「上帝 じょうてい 」を推 お す派 は と「神 かみ 」を推 お す派 は とが存在 そんざい したが、和訳 わやく 聖書 せいしょ のモリソン訳 やく の流 なが れを汲 く むブリッジマン ・カルバートソンによる漢文 かんぶん 訳 やく 聖書 せいしょ [18] [19] は、「神 かみ 」を採用 さいよう していた。
多数 たすう の日本語 にほんご 訳 やく 聖書 せいしょ はこの流 なが れを汲 く み[20] 、1938年 ねん には「神 かみ 」という用語 ようご についてキリスト教 きょう 神学 しんがく 者 しゃ 前島 まえじま 潔 きよし が論 ろん じることはあった[21] ものの、今日 きょう に至 いた るまで適訳 てきやく であるかどうかをほぼ問題 もんだい とせずに「神 かみ 」を翻訳 ほんやく 語 ご として採用 さいよう するものが多数 たすう となっている。
旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ すなわちヘブライ語 ご 聖書 せいしょ の原文 げんぶん には、ヘブライ語 ご で記 しる された名前 なまえ 「יהוה (ヤハウェ)」[注 ちゅう 1] が6,859回 かい 登場 とうじょう するとされている。
これは4文字 もじ のヘブライ文字 もじ からなることから、テトラグラマトン (Τετραγράμματον ,古代 こだい ギリシア語 ご で「四 よん 字 じ 」の意 い )とも呼 よ ばれる。アラム文字 もじ でヘブライ語 ご を記述 きじゅつ するようになってからも、この4文字 もじ はフェニキア文字 もじ で書 か かれていたとされる[22] 。なお、これらはラテン文字 もじ だと「YHVH 」「YHWH 」「JHVH 」「JHWH 」「IHVH 」などと翻 こぼし 字 じ される。
『新 しん 共同 きょうどう 訳 やく 聖書 せいしょ 』付録 ふろく には、「神聖 しんせい 四 よん 文字 もじ YHWH 」について次 つぎ のように記 しる されている。
この
語 かたり の
正確 せいかく な
読 よ み
方 かた は
分 わ からないが
一般 いっぱん に
ヤーウェ またヤハウェと
表記 ひょうき されている。この
神 かみ 名 めい は
人名 じんめい の
末尾 まつび に「ヤー」という
短 みじか い
形 かたち で
付加 ふか されることが
多 おお い(「
イザヤ 」「
エレミヤ 」)など)
— 『新 しん 共同 きょうどう 訳 やく 聖書 せいしょ 』付録 ふろく 30ページ「用語 ようご 解説 かいせつ 」主 おも (しゅ)
なお、同書 どうしょ では「旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ 中 ちゅう 」とあり、一般 いっぱん にこの固有名詞 こゆうめいし は新約 しんやく 聖書 せいしょ には登場 とうじょう しない(ただし後述 こうじゅつ にもあるようにヤハウェの短縮形 たんしゅくけい が「ハレルヤ」の形 かたち で新約 しんやく 聖書 せいしょ のヨハネの黙示録 もくしろく 19章 しょう に出 で てくる)。(新約 しんやく 聖書 せいしょ における固有名詞 こゆうめいし の詳 くわ しい詳細 しょうさい は以下 いか の、新約 しんやく 聖書 せいしょ とテトラグラマトン(YHWH)を参照 さんしょう )
もともとヘブライ語 ご は母音 ぼいん の表記 ひょうき 法 ほう を持 も たなかった。語根 ごこん は子音 しいん だけから成 な り語形 ごけい 変化 へんか を母音 ぼいん だけで表 あらわ すので、語句 ごく や文章 ぶんしょう は子音 しいん 文字 もじ のみで記述 きじゅつ され、母音 ぼいん の復元 ふくげん はもっぱら読 よ み手 て の語彙 ごい 力 ちから によった。この方式 ほうしき をアブジャド といい、現代 げんだい アラビア語 ご などにもみられる。
やがて聖書 せいしょ ヘブライ語 ご が日常 にちじょう 言語 げんご としては死語 しご になり、聖 せい 四 よん 文字 もじ を何 なん と読 よ むか、正確 せいかく な発音 はつおん は消失 しょうしつ した。消失 しょうしつ の経緯 けいい で後述 こうじゅつ するように、その発音 はつおん は人々 ひとびと の口 くち に上 のぼ らなくなっていたのである。
しかし後 のち に、ニクダー もしくはニクードと呼 よ ばれるいろいろな点々 てんてん を打 う つことにより、母音 ぼいん の表記 ひょうき が可能 かのう となった。
また、すでにユダヤ人 じん は、詠唱 えいしょう の際 さい にヤハウェの名 な の登場 とうじょう する箇所 かしょ をアドナイ(「わが主 おも 」、消失 しょうしつ の経緯 けいい で後述 こうじゅつ )[8] と読 よ み替 か えるようになっていた。
その際 さい 、ヤハウェ(の子音 しいん 字 じ )「יהוה 」に、アドナイ אֲדֹנָי と同 おな じニクードすなわち -ă -ō -a という母音 ぼいん を示 しめ す点々 てんてん を打 う って、そう読 よ み慣 なら わした。
これをそのまま読 よ むと、イェホワ (יְהֹוָה 、YəHōVaH) と読 よ める(文法 ぶんぽう 上 じょう 、ヘブライ文字 もじ y には弱 じゃく 母音 ぼいん の「ă ( ア ) 」を付 つ けられないため、曖昧 あいまい 母音 ぼいん のエ ə に変化 へんか する)。
日本語 にほんご のエホバ(ヱホバ)、英語 えいご の「Jehovah 」、および各 かく 言語 げんご のそれに類 るい する形 かたち は、ここに由来 ゆらい するのである。
それらは確 かく 率 りつ 的 てき に正 ただ しい読 よ みに偶然 ぐうぜん に一致 いっち する可能 かのう 性 せい も完全 かんぜん には捨 す てきれないかもしれないが、あくまで可能 かのう 性 せい であって、学術 がくじゅつ 的 てき にはヤハウェと推定 すいてい する見解 けんかい で今日 きょう ほぼ一致 いっち している(異論 いろん もある[23] )。
日本語 にほんご ではヤハウェの他 ほか にヤハヴェ YaHVeH(ヘブライ文字 もじ ו [w]は現代 げんだい ヘブライ語 ご 読 よ みで/v/と発音 はつおん )、ヤーウェ YaHWe(HのaHを長音 ちょうおん として音 おと 写 うつし )などの表記 ひょうき が用 もち いられることもある。
人名 じんめい などの固有名詞 こゆうめいし の要素 ようそ として用 もち いられる יהוה の略称 りゃくしょう は「ヤ」 ( יָה [yāh] )、「ヤフ」 (יָהוּ [yāhû] )等 とう であり、ここから最初 さいしょ の母音 ぼいん はaであったと推測 すいそく できる。
また、古代 こだい 教父 きょうふ によるギリシア文字 もじ 転写形 てんしゃがた として Ι いおた α あるふぁ ο おみくろん υ うぷしろん ε いぷしろん (イァォウェ)[24] 、Ι いおた α あるふぁ β べーた ε いぷしろん (イァベ)[25] があり、これらからYHWHの本来 ほんらい の発音 はつおん は英語 えいご 式 しき に表記 ひょうき するところの「Yahweh」あるいは「Yahveh」であったと推測 すいそく されている。
消失 しょうしつ の経緯 けいい [ 編集 へんしゅう ]
前述 ぜんじゅつ の通 とお りユダヤ人 じん は、詠唱 えいしょう の際 さい もアドナイと読 よ み替 か えるなどして、ヤハウェの名 な の発音 はつおん を避 さ けてきた。現在 げんざい もユダヤ人 じん は一般 いっぱん 生活 せいかつ において、ヤハウェをヤハウェと呼 よ ばず、アドナイあるいはハッシェム(הַשֵּׁם [haš Šēm] )などと呼 よ ぶ。これらは、ヤハウェとは別 べつ の語 かたり である。
理由 りゆう のひとつとして、出 で エジプト記 き や申 さる 命 いのち 記 き などにみられるモーセの十戒 じっかい のうち次 つぎ に挙 あ げるものについて、直接 ちょくせつ 神 かみ の名 な を口 くち にすることは畏 おそ れ多 おお い禁忌 きんき である、との解釈 かいしゃく が後代 こうだい に成立 せいりつ したためではないかと考 かんが えられている(同一 どういつ の箇所 かしょ である。また、ヱホバ とはヤハウェのことである)。
汝 なんじ の神 かみ ヱホバの名 な を妄に口 くち にあぐべからずヱホバはおのれの名 な を妄にあぐる者 しゃ を罰 ばっ せではおかざるべし
あなたは、あなたの神 かみ 、主 おも の名 な を、みだりに唱 とな えてはならない。主 あるじ は、み名 な をみだりに唱 とな えるものを、罰 ばっ しないでは置 お かないであろう。
これは本来 ほんらい その名 な をみだりに 唱 とな え、口 くち にあげること(ヤハウェの名 な を連呼 れんこ して呪文 じゅもん とすること、もしくはヤハウェの名 な を口 くち にあげて誓 ちか っておきながら実際 じっさい には嘘 うそ をつくこと)について、「そのようなことをすべきではない」と教 おし えるものであって、名 な の発音 はつおん を禁 きん ずる趣旨 しゅし ではないという説 せつ がある。
古 ふる くはこの名 な は自由 じゆう に口 くち にされていたようである。南 みなみ ユダ王国 おうこく 崩壊 ほうかい からバビロン捕 と 囚 しゅう までの時代 じだい に書 か かれた『ラキシュ書簡 しょかん 』にも יהוה は頻繁 ひんぱん に現 あらわ れており、この名 な がこの時代 じだい に至 いた ってもなお口 くち にされていたことがわかる。また、それ以後 いご にもこれを記 しる した史料 しりょう は散見 さんけん される。
だが、第 だい 二 に 神殿 しんでん 時代 じだい に、公 おおやけ の場 ば でヤハウェの名前 なまえ を話 はな すことはタブーと見 み なされるようになり[26] 、代 か わりにユダヤ人 じん はその名前 なまえ をアドナイ(אֲדֹנָי、「私 わたし の主 あるじ 」)という言葉 ことば に置 お き換 か え始 はじ めた。 ローマ時代 じだい 、エルサレム包囲 ほうい 戦 せん とその神殿 しんでん の破壊 はかい に続 つづ いて、西暦 せいれき 70年 ねん に、神 かみ の名前 なまえ の元 もと の発音 はつおん は完全 かんぜん に忘 わす れられた[26] 。タブー視 し されたため、当時 とうじ 成立 せいりつ した福音 ふくいん 書 しょ によれば、神 かみ の子 こ イエス もこれをはばかって「天 てん の父 ちち 」などと表現 ひょうげん したという説 せつ があった。
これまで、紀元前 きげんぜん 3世紀 せいき 初 はじ めごろから翻訳 ほんやく の始 はじ まった『七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ 』(旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ のギリシャ語 ご 訳 やく )では、原語 げんご のヘブライ語 ご での「יהוה (ヤハウェ)」が置 お き換 か えられ、ほとんどの箇所 かしょ で「主 あるじ 」を意味 いみ する「Κύριος (キュリオス)」と訳 やく されているとされてきた。なぜなら、4世紀 せいき ころのものと思 おも われる七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ の古 ふる い写本 しゃほん には、神 かみ の名 な が出 で てくる部分 ぶぶん で「主 あるじ 」という言葉 ことば への置 お き換 か えがなされているからである。
しかし、1940年代 ねんだい にパピルス・ファド266号 ごう と名付 なづ けられた写本 しゃほん の断片 だんぺん がエジプトで発見 はっけん され、その年代 ねんだい が前 まえ 1世紀 せいき のものであることがわかった。この最古 さいこ の部類 ぶるい の写本 しゃほん 断片 だんぺん 中 ちゅう には、出 で てくるべき全 すべ ての箇所 かしょ で神 かみ の名 な がヘブライ語 ご の古 ふる い方形 ほうけい 文字 もじ で書 か き表 あら わされていた。(パピルス・ファド266号 ごう は現在 げんざい カイロのエジプト・パピルス学 がく 協会 きょうかい 所蔵 しょぞう )
また、発見 はっけん された死 し 海 うみ 文書 ぶんしょ の一部 いちぶ である前 ぜん 1世紀 せいき のレビ記 き 26章 しょう のギリシャ語 ご 断片 だんぺん 4Q120には、神 かみ の名 な のギリシャ語形 ごけい としてι いおた α あるふぁ ω おめが (イアオ)と翻 こぼし 字 じ されている。
さらに、1961年 ねん にナハル・へベルで発見 はっけん された1世紀 せいき の七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく の写本 しゃほん 断片 だんぺん である七 なな 十 じゅう 訳 やく VTS10aと七 なな 十 じゅう 訳 やく VTS10b、七 なな 十 じゅう 訳 やく IEJ12にも古代 こだい ヘブライ語 ご で神 かみ の名 な が記 しる されていた[27] 。
またエジプトのオクシリンコスで発見 はっけん されたP3522断片 だんぺん は1世紀 せいき のもので、ヨブ記 き 42章 しょう 11,12節 せつ が記 しる されており、そこに神 かみ の名 な が古代 こだい ヘブライ文字 もじ で書 か かれていた。このような最古 さいこ の写本 しゃほん 断片 だんぺん の研究 けんきゅう 結果 けっか に基 もと づき、以下 いか の論 ろん が出 だ された。
オックスフォ おっくすふぉ ード大学 どだいがく のパウル・E・カール博士 はかせ は「クリスチャン時代 じだい 以前 いぜん のユダヤ人 じん のためにユダヤ人 じん によって訳 やく されたギリシャ語 ご 訳 やく の聖書 せいしょ すべては、神 かみ の名 な としてヘブライ語 ご 文字 もじ のテトラグラマトンを用 もち いていた」と述 の べている[28] 。
新約 しんやく 神学 しんがく 新 しん 国際 こくさい 辞典 じてん はこう書 か いている「本文 ほんぶん に関 かん する最近 さいきん の発見 はっけん は、七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく の編 へん さん者 しゃ たちが四 よん 文字 もじ 語 ご YHWHを訳 やく す際 さい キュリオスという語 かたり を用 もち いたとする考 かんが えに疑 うたが いを投 とう じた。今日 きょう 我々 われわれ が手 て にすることのできる七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく の最古 さいこ の諸 しょ 写本 しゃほん には、四 よん 文字 もじ 語 ご がギリシャ語 ご 本文 ほんぶん 中 ちゅう にヘブライ文字 もじ で記 しる されている。この習慣 しゅうかん は旧約 きゅうやく を翻訳 ほんやく した後代 こうだい のユダヤ人 じん 翻訳 ほんやく 者 しゃ たちによって1世紀 せいき に受 う け継 つ がれた」[29] 。
(この議論 ぎろん に関 かん する詳細 しょうさい は、以下 いか の新約 しんやく 聖書 せいしょ とテトラグラマトン(YHWH)を参照 さんしょう )
古 ふる くからヤハウェの名 な は、「存在 そんざい 」を意味 いみ する語根 ごこん (√היה [√hyh] )と関連 かんれん づけて解釈 かいしゃく されてきた。これは『出 いずる エジプト記 き 』第 だい 3章 しょう 第 だい 14節 せつ で、ヤハウェがモーセに応 こた えて「私 わたし は在 あ りて在 あ るものである」 (אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה [’ehyeh ’ăšer ’ehyeh] )と名乗 なの った事 こと に由来 ゆらい する。
この「私 わたし は在 あ る」(אֶהְיֶה [’ehyeh] )という一人称 いちにんしょう ・単数 たんすう ・未 み 完了 かんりょう 相 しょう の動詞 どうし を三人称 さんにんしょう ・単数 たんすう ・男性 だんせい ・未 み 完了 かんりょう 相 そう の形 かたち 「彼 かれ は在 あ る」にするとיִהְיֶה [yihyeh] となり、יהוה と似 に た形 かたち になる。ここから、ヤハウェの名 な はイヒイェの転訛 てんか で「『出 いずる エジプト記 き 』に出 で て来 き た一言 ひとこと 」「彼 かれ は在 あ りて在 あ るものである」「実在 じつざい するもの」「ありありと目 め の前 まえ に在 あ り、在 あ られるもの」などの意味 いみ だと解釈 かいしゃく されてきた。
ヘブライ人 じん は誓言 せいげん の時 とき に「主 おも は生 い きておられる」という決 き まり文句 もんく を使 つか っていたが、ここからも彼 かれ らがヤハウェを「はっきりしないとはいえ、生々 なまなま しく実在 じつざい するもの」と捉 とら えていた事 こと がわかる。はっきりしているのは、創世 そうせい 記 き の冒頭 ぼうとう により、ユダヤ人 じん (キリスト教徒 きりすときょうと 、ムスリム )は、闇 やみ が主 しゅ 要素 ようそ となる宇宙 うちゅう 空間 くうかん を構築 こうちく した正体 しょうたい を、ヤハウェ(ゴッド 、アッラー )であると考 かんが えている点 てん である。エロヒム (אלהים) はアラハヤム(アラー)とも読 よ める。また、ヘブライ語 ご ではエジプトの太陽 たいよう 神 しん のことをアラー (אל) と表記 ひょうき する[注 ちゅう 6] 。
また、היה のヒフイル(使役 しえき )態 たい の三人称 さんにんしょう ・単数 たんすう ・男性 だんせい ・未 み 完了 かんりょう 相 しょう の形 かたち が、יַהְיֶה [yahyeh] となり、ちょうど「ヤハウェ」と同 おな じ母音 ぼいん の組 く み合 あ わせになる。ここからその名 な を「在 あ らしめるもの」「創造 そうぞう 神 しん 」とする解釈 かいしゃく もある。
本 ほん 項 こう の神 かみ を誉 ほ め讃 たた える際 さい に発 はっ するヘブライ語 ご 「ハレルヤ 」(Hallelujah )の末尾 まつび の「ヤ」(ヤハ 、Jah )はその名 な の短縮形 たんしゅくけい 。旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ と新約 しんやく 聖書 せいしょ のヨハネの黙示録 もくしろく に出 で てくる表現 ひょうげん である。ジャマイカ に発生 はっせい したラスタファリ運動 うんどう においても「ジャー」(Jah) という形 かたち で見 み ることができる。
#発音 はつおん のセクションで述 の べたとおり、今日 きょう 、推定 すいてい される読 よ みのひとつ。中沢 なかざわ 洽 ひろし 樹 じゅ による旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ [30] では「ハ」を小書 こが きにしたヤㇵウェが用 もち いられている。
#発音 はつおん のセクションで述 の べたとおり、今日 きょう 、推定 すいてい される読 よ みのひとつ。聖書 せいしょ 研究 けんきゅう の盛 さか んな英語 えいご 圏 けん では"Yahweh"を一般 いっぱん に「ヤーウェ/ˈjɑːwe/ 」[31] と発音 はつおん する。
カトリックの『フランシスコ会 かい 訳 やく 聖書 せいしょ 』で使用 しよう される読 よ みである。
主 あるじ で前述 ぜんじゅつ の通 とお り、『新 しん 共同 きょうどう 訳 やく 』ではこの神 かみ をほぼ一貫 いっかん して「主 あるじ 」と呼 よ び、『創世 そうせい 記 き 』第 だい 22章 しょう 14節 せつ でのみ「ヤーウェ」とする。これはいわゆるイサクの燔祭 の行 おこな われた「ヤーウェ・イルエ」の地名 ちめい を説明 せつめい するために発音 はつおん を示 しめ したものである。
なお、この箇所 かしょ はパブリックドメイン 化 か した他 ほか の聖書 せいしょ ではこうなっている。
アブラハム其處をヱホバエレ(ヱホバ預 あずか 備たまはん)と名 な く是 ぜ に縁 えん て今日 きょう もなほ人々 ひとびと 山 やま にヱホバ預 あずか 備たまはんといふ
それでアブラハムはその所 ところ の名 な をアドナイ・エレと呼 よ んだ。これにより、人々 ひとびと は今日 きょう もなお「主 おも の山 やま に備 そな えあり」と言 い う。
アブラハムはその所 ところ を「ヤーウェ・イルエ」と名 な づけた。それで今日 きょう でもなお、「ヤーウェの山 やま で計 はか らわれる」と言 い われている。
同 おな じく学術 がくじゅつ 的 てき に推定 すいてい される読 よ みである。無 む 教会 きょうかい の関根 せきね 正雄 まさお による旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ などに登場 とうじょう する。
日本 にっぽん の国語 こくご として伝統 でんとう 的 てき な形 かたち である。『明治 めいじ 元 もと 訳 わけ 聖書 せいしょ 』とともに普及 ふきゅう し、広 ひろ く日本 にっぽん の思想 しそう ・文学 ぶんがく に影響 えいきょう を与 あた えた[32] 。
『明治 めいじ 元 もと 訳 わけ 聖書 せいしょ 』はヘボン らによって1887年 ねん に完成 かんせい し、旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ の部分 ぶぶん にこの語 かたり が用 もち いられている。
エホバの証人 しょうにん も、新 しん 世界 せかい 訳 やく 聖書 せいしょ を用 もち いるようになるまでこの語 かたり の登場 とうじょう するこの翻訳 ほんやく を使用 しよう してきた。
静岡 しずおか 県 けん 富士宮 ふじのみや 市 し 麓 ふもと には、日本 にっぽん ヱホバ教団 きょうだん という文部 もんぶ 科学 かがく 大臣 だいじん 所轄 しょかつ 包括 ほうかつ 宗教 しゅうきょう 法人 ほうじん が所在 しょざい することが指摘 してき されている[33] 。
ノルウェーの教会 きょうかい に掲 かか げられている「IEHOVA」の文字 もじ
歴史 れきし 的 てき 仮名遣 かなづかい で書 か かれたヱホバを戦後 せんご 、現代 げんだい 仮名遣 かなづか い に直 なお したもの。
「エホバ」もしくは「ヱホバ」の読 よ み(表記 ひょうき )は、日本 にっぽん の文学 ぶんがく においても古 ふる くから好 この まれてきた。例 れい として、カトリック俳人 はいじん ・阿波 あわ 野 の 青 あお 畝 うね の俳句 はいく がある。
銀河 ぎんが より聴 き かむエホバのささやきを — 青 あお 畝 うね
なお、前掲 ぜんけい 句 く の底本 ていほん はその弟子 でし である日本 にっぽん イエス・キリスト教団 きょうだん 明石 あかし 人丸 ひとまる 教会 きょうかい のプロテスタント俳人 はいじん ・やまだみのる によるウェブサイトの秀句 しゅうく 鑑賞 かんしょう のページによったが、この句 く には次 つぎ のような形 かたち もあり、同 どう サイト青 あお 畝 うね 俳句 はいく 研究 けんきゅう のページでは後者 こうしゃ の鑑賞 かんしょう が行 おこな われている。
銀河 ぎんが より聞 き かむエホバのひとりごと — 青 あお 畝 うね
なお、現存 げんそん する新約 しんやく 聖書 せいしょ の写本 しゃほん には神 かみ の名 な が使用 しよう されている翻訳 ほんやく は見 み つかっていない。しかし、ヘブライ語学 ごがく 教授 きょうじゅ のエリアス・フッターは、12の言語 げんご (ヘブライ語 ご 、ギリシャ語 ご 、シリア語 ご 、ラテン語 らてんご 、英語 えいご 、ドイツ語 ご 、フランス語 ふらんすご 、イタリア語 ご 、スペイン語 ご 、デンマーク語 ご 、ボヘミア語 ご 、ポーランド語 ご ) を対訳 たいやく したニュルンベルク多国 たこく 語 ご 対訳 たいやく 聖書 せいしょ [34] を作成 さくせい し、新約 しんやく 聖書 せいしょ のヘブライ語 ご 欄 らん で、神 かみ の名 な יהוהを200回 かい 以上 いじょう 用 もち いた。 この聖書 せいしょ はその後 ご の聖書 せいしょ 学者 がくしゃ たちの資料 しりょう となっている。また、1864年 ねん にハーマン・ハインフェッターは「新約 しんやく 聖書 せいしょ 」を出版 しゅっぱん し、新約 しんやく 聖書 せいしょ において神 かみ の御名 ぎょめい を「Jehovah」(エホバ)と訳 やく して100回 かい 以上 いじょう 用 もち いている。現代 げんだい に至 いた るまで、英語 えいご 、ドイツ語 ご 、スペイン語 ご など120以上 いじょう の言語 げんご で、新約 しんやく 聖書 せいしょ 中 ちゅう で神 かみ の名 な が用 もち いられている聖書 せいしょ が出版 しゅっぱん されている。
エホバの証人 しょうにん の翻訳 ほんやく による『新 しん 世界 せかい 訳 やく 聖書 せいしょ 』でも、「クリスチャンーギリシャ語 ご 聖書 せいしょ 」(一般 いっぱん の新約 しんやく 聖書 せいしょ )でも「エホバ」を用 もち いている。新約 しんやく のそのような訳 やく し方 かた について「神 かみ のみ名 な を復元 ふくげん している」とし、「これらの訳 やく し方 かた を支持 しじ する様々 さまざま な資料 しりょう 」を挙 あ げている[証人 しょうにん 1] 。一方 いっぽう で懐疑 かいぎ 的 てき な見解 けんかい を寄 よ せる専門 せんもん 家 か は、信頼 しんらい ある校訂 こうてい 本文 ほんぶん や古代 こだい 訳 やく 、教父 きょうふ 文書 ぶんしょ にも神 かみ の名 な がないことなどを指摘 してき し、『新 しん 世界 せかい 訳 やく 』の「資料 しりょう 」に問題 もんだい があることを5箇条 かじょう にまとめて示 しめ し、新約 しんやく で「エホバと訳 やく したこと、これは正当 せいとう な根拠 こんきょ がない」としている[35] 。
日本 にっぽん において、エホバの証人 しょうにん と源流 げんりゅう を同 おな じくする灯台 とうだい 社 しゃ (燈臺 とうだい 社 しゃ )員 いん は戦時 せんじ 中 ちゅう 、明石 あかし 順三 じゅんぞう 主幹 しゅかん の訳 わけ によって「エホバの證 あかし 者 しゃ 」と称 しょう された。そして戦後 せんご しばらくして、この名 な はエホバの証人 しょうにん と改 あらた められ、現在 げんざい に至 いた る。
新約 しんやく 聖書 せいしょ とテトラグラマトン(YHWH)[ 編集 へんしゅう ]
テトラグラマトン(YHWH)は、現存 げんそん する新約 しんやく 聖書 せいしょ の写本 しゃほん には見 み られない。これらはすべて、テトラグラマトンが含 ふく まれているヘブライ語 ご の旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ からの引用 いんよう にKyrios/κύριος(主 あるじ )またはTheos/θεός(神 かみ )という単語 たんご が含 ふく まれている。
新約 しんやく 聖書 せいしょ のヘブライ語 ご 聖書 せいしょ からの引用 いんよう は、一般 いっぱん 的 てき に七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ から取 と られており、現存 げんそん するすべての新約 しんやく 聖書 せいしょ の写本 しゃほん では、ほとんどギリシャ語 ご のκύριος(「主 あるじ 」)が使用 しよう されている。まれにギリシャ語 ご のθεός(「神 かみ 」)が使用 しよう されているが、テトラグラマトン自体 じたい や、ιαωへの書 か き換 か え絶対 ぜったい に使用 しよう していない。たとえば、ルカによる福音 ふくいん 書 しょ 第 だい 4章 しょう 17節 せつ は、イエスがナザレの会堂 かいどう でイザヤの巻物 まきもの からイザヤ61:1–2をどのように読 よ んだかを語 かた るときにκύριοςを使用 しよう している[36] 。
現存 げんそん する新約 しんやく 聖書 せいしょ の写本 しゃほん にはテトラグラマトンが書 か かれていないため、原本 げんぽん の新約 しんやく 聖書 せいしょ にもテトラグラマトンは書 か かれていないと考 かんが えられた。しかし、20世紀 せいき 半 なか ば、また最近 さいきん 発見 はっけん された死 し 海 うみ 写本 しゃほん は、更 さら に古 ふる い西暦 せいれき 1世紀 せいき ころの七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ の写本 しゃほん を含 ふく んでおり、そこに神 かみ の名 な 「יהוה (ヤハウェ)」が出 で てくることから、神 かみ の名 な は新約 しんやく 聖書 せいしょ にも当初 とうしょ 使用 しよう されたとされる研究 けんきゅう 結果 けっか が出 だ されていた[37] [注 ちゅう 7] 。
George Howardの仮説 かせつ [ 編集 へんしゅう ]
この点 てん に関 かん し、George Howardは1977年 ねん に聖書 せいしょ 文献 ぶんけん ジャーナル誌 し に以下 いか の仮説 かせつ [注 ちゅう 8] を発表 はっぴょう した。
「クリスチャン時代 じだい 以前 いぜん のユダヤ人 じん のために,ユダヤ人 じん によって訳 やく されたギリシャ語 ご 訳 やく の聖書 せいしょ すべては,神 かみ の名 な として,ヘブライ語 ご 文字 もじ のテトラグラマトンを用 もち いていたに違 ちが いない。そして,七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ のクリスチャンによる写本 しゃほん に見 み られるように,キュリオスおよびその略号 りゃくごう が使 つか われるようなことはなかった」と指摘 してき されている[38] 。さらに「初期 しょき 教会 きょうかい の聖書 せいしょ はギリシャ語 ご 聖書 せいしょ の写本 しゃほん であるが,その中 なか になお四 よん 文字 もじ 語 ご <テトラグラマトン>が書 か かれていた以上 いじょう ,新約 しんやく の筆者 ひっしゃ が聖書 せいしょ から引用 いんよう するとき,聖書 せいしょ 本文 ほんぶん 中 ちゅう に四 よん 文字 もじ 語 ご <テトラグラマトン>を保存 ほぞん したことは当然 とうぜん に考 かんが えられる。……しかしそれがギリシャ語 ご の旧約 きゅうやく [聖書 せいしょ ]から除 のぞ かれた時 とき ,新約 しんやく [聖書 せいしょ ]中 ちゅう に引用 いんよう された旧約 きゅうやく [聖書 せいしょ ]の聖 ひじり 句 く からもそれは除 のぞ かれてしまった。それで2世紀 せいき 初 はじ めごろに,四 よん 文字 もじ 語 ご <テトラグラマトン>は,代用 だいよう 語 ご のために新旧 しんきゅう 約 やく 両方 りょうほう の聖書 せいしょ から締 し め出 だ されてしまったに違 ちが いない」との見解 けんかい を述 の べている[39] 。
Howardが立 た てた仮説 かせつ は、ギリシャ語 ご の旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ バージョンには、当時 とうじ 、その用語 ようご κύριοςが含 ふく まれていなかったという提案 ていあん に基 もと づいている。κύριοςは、七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ の全文 ぜんぶん の現存 げんそん する写本 しゃほん に見 み られるが、それらはすべて後年 こうねん のものである。しかし、写本 しゃほん には常 つね にテトラグラマトン自体 じたい が存在 そんざい しており、それはヘブライ語 ご の文字 もじ (יהוה)または旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ の文字 もじ (𐤉𐤄𐤅𐤄)で書 か かれているか、代替 だいが えとして、音声 おんせい によるギリシャ語 ご の音訳 おんやく ι いおた α あるふぁ ω おめが で表 あらわ されている。
George Howardの仮説 かせつ に対 たい する批判 ひはん [ 編集 へんしゅう ]
Robert J. WilkinsonはHowardの仮説 かせつ を否定 ひてい している。「すべてのユダヤ人 じん のギリシャ語 ご 聖書 せいしょ 写本 しゃほん がテトラグラマトンを持 も っていたと主張 しゅちょう することは不可能 ふかのう である。また、聖書 せいしょ のテキストでテトラグラマトンを読 よ んでいる人 ひと が、別 べつ のテキストに転写 てんしゃ する際 さい 、必然 ひつぜん 的 てき にそれを、例 たと えばκύριος [...]のように転記 てんき することもない。この推測 すいそく された説明 せつめい では、キリスト教徒 きりすときょうと が最初 さいしょ にキリストとYhwhを明確 めいかく に区別 くべつ するために、彼 かれ らの著作 ちょさく で聖書 せいしょ 諸 しょ 文章 ぶんしょう を引用 いんよう し、それから彼 かれ ら自身 じしん の著作 ちょさく からテトラグラマトンを排除 はいじょ することを決 き めることによって「混乱 こんらん 」を招 まね いている。 なぜ、いつ、そんなことをしたのかと尋 たず ねる人 ひと もいるかもしれない」[40]
また、Robert J. Wilkinsonは、Howardの記事 きじ が特定 とくてい の「宗派 しゅうは の利益 りえき 」に関 かん して影響 えいきょう 力 りょく を持 も っていたと述 の べている。彼 かれ は、エホバの証人 しょうにん の熱狂 ねっきょう 的 てき な反応 はんのう は、「回収 かいしゅう された初期 しょき のキリスト教 きりすときょう ギリシャ語 ご 新約 しんやく 聖書 せいしょ の全 すべ ての写本 しゃほん 、及 およ び本文 ほんぶん のヘブライ語 ご テトラグラマトンの完全 かんぜん な欠如 けつじょ 」の状況 じょうきょう の明確 めいかく さ(それらは宗派 しゅうは の立場 たちば とは相容 あいい れない)をおそらく幾分 いくぶん 覆 おお い隠 かく した、と述 の べている[41] 。
Larry W. Hurtadoは、「少数 しょうすう の人々 ひとびと (例 たと えば、George Howard)の主張 しゅちょう に反 はん して、これらの注目 ちゅうもく に値 あたい する発展 はってん (「非常 ひじょう に早 はや い時期 じき に、尊 とうと いイエスはYHWHに関連付 かんれんづ けられたため、元々 もともと YHWHに適用 てきよう されていた実践 じっせん とテキストは、イエスをさらなる指示 しじ 対象 たいしょう 者 しゃ として含 ふく むように(いわば)拡張 かくちょう された」)は、YHWHの代 か わりに「κύριος(主 あるじ )」と書 か くという、のちの書写 しょしゃ 者 しゃ の実行 じっこう によってもたらされたある種 しゅ のテキストの混乱 こんらん に帰 き することはできない。問題 もんだい の発展 はってん は非常 ひじょう に早 はや くそして非常 ひじょう に迅速 じんそく に激増 げきぞう したため、そのような提案 ていあん は無意味 むいみ なものになった」と発言 はつげん している[42] 。
Albert Pietersmaは、Howardの主張 しゅちょう に異議 いぎ を唱 とな えている。「今 いま では、神 かみ の名 な であるיהוהは、キリスト教 きょう 以前 いぜん の聖書 せいしょ ではκύριοςによって表現 ひょうげん されたものではないとほぼ確実 かくじつ に言 い うことができる」 また、Albert Pietersmaは、七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ にはもともとκύριοςが含 ふく まれており、いくつかのコピーにテトラグラマトンを挿入 そうにゅう することは「LXXの伝統 でんとう への二 に 次 じ 的 てき かつ外国 がいこく の侵入 しんにゅう 」と見 み なすことができると考 かんが えている[43] 。
2013年 ねん 、Larry Weir Hurtadoは次 つぎ のように述 の べている。「七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ (西暦 せいれき 3世紀 せいき 以降 いこう )では、「κύριος」(ギリシャ語 ご :「主 あるじ 」)がかなり頻繁 ひんぱん に使用 しよう されている。 しかし、初期 しょき の慣習 かんしゅう は一貫 いっかん してYHWHを「Kyrios」(κυριος)で翻訳 ほんやく したという人 ひと たち、ヘブライ語 ご の神 かみ の名前 なまえ を最初 さいしょ はΙ いおた Α あるふぁ Ω おめが (「Iao」)と発音 はつおん して表現 ひょうげん されたという人 ひと たち、神 かみ の名前 なまえ はもともとヘブライ文字 もじ で保持 ほじ されていたという人 ひと たちがいる。私 わたし の知 し る限 かぎ り、この問題 もんだい に関 かん する最新 さいしん の議論 ぎろん は、MartinRöselによる最近 さいきん のジャーナル記事 きじ である」[44]
Martin Röselは、七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ がヘブライ語 ご テキストのテトラグラマトンを表 あらわ すためにκύριοςを使用 しよう し、七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ のいくつかのコピーにヘブライ語 ご テトラグラマトンが出現 しゅつげん したのは、後 うしろ で元 もと のκύριοςを置 お き換 か えたためであると考 かんが えている。
「ギリシャ語 ご 版 ばん モーセ五 ご 書 しょ による聖書 せいしょ 釈義 しゃくぎ の観察 かんさつ によって、七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ の翻訳 ほんやく 者 しゃ はすでにテトラグラマトンの適切 てきせつ な表現 ひょうげん として「主 あるじ 」(κύριος)を選択 せんたく していることが明 あき らかになった。よって、一部 いちぶ のギリシャ語 ご 写本 しゃほん におけるヘブライ語 ご のテトラグラマトンへの置 お き換 か えはオリジナルではない」[45]
Röselは、κύριοςは明 あき らかに初期 しょき のクリスチャンがギリシャ語 ご 聖書 せいしょ で読 よ んだ名前 なまえ でしたが、「Aquila とSymmachus、およびいくつかの七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ の写本 しゃほん を含 ふく む、ギリシャ語 ご 聖書 せいしょ のユダヤ人 じん 版 ばん 」には、ヘブライ文字 もじ のテトラグラマトン、または、ヘブライ語 ご のיהוהを模倣 もほう したフォームΠΙΠΙがあり、ギリシャ語 ご の発音 はつおん 記号 きごう Ι いおた Α あるふぁ Ω おめが (文字 もじ :ι いおた α あるふぁ ω おめが )の独創 どくそう 性 せい に対 たい する議論 ぎろん も想起 そうき している[46] 。原稿 げんこう の分析 ぶんせき の決定的 けっていてき な性質 せいしつ を考慮 こうりょ して、Röselは七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ の内部 ないぶ にある証拠 しょうこ を提案 ていあん し、「κύριοςは最初 さいしょ の翻訳 ほんやく 者 しゃ の元 もと の表現 ひょうげん である」ことを示唆 しさ している。 これらは最 もっと も初期 しょき のものであり、翻訳 ほんやく 者 しゃ の神学 しんがく 的 てき 思考 しこう を垣間見 かいまみ ることができる[47] 。彼 かれ が以前 いぜん に述 の べたように、「七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ の翻訳 ほんやく 者 しゃ は、神 かみ の名前 なまえ に相当 そうとう するものを選 えら ぶときに神学 しんがく 的 てき 考察 こうさつ に影響 えいきょう された」からだと述 の べている[48] 。いくつかの文脈 ぶんみゃく では、κύριος側 がわ に不 ふ 公正 こうせい や厳 きび しさの印象 いんしょう を与 あた えることを避 さ けるため、それらの代 か わりにθεόςでテトラグラマトンを表 あらわ している[49] 。したがって、直接 ちょくせつ の文脈 ぶんみゃく では、目下 もっか の翻訳 ほんやく にκύριοςを持 も ちいることを回避 かいひ するためのθεόςの使用 しよう について「後 ご の筆記 ひっき 者 しゃ がヘブライ語 ご のテトラグラマトンまたはギリシャ語 ご のΙ いおた Α あるふぁ Ω おめが (ι いおた α あるふぁ ω おめが )をὁθεόςの形式 けいしき に変更 へんこう する必要 ひつよう があるとは考 かんが えられない」と説明 せつめい している[50] 。ヘブライ語 ご から翻訳 ほんやく されていない第 だい 二 に 正 せい 典 てん や、元々 もともと ギリシャ語 ご で(新約 しんやく 聖書 せいしょ のように)作曲 さっきょく された本 ほん やPhiloの作品 さくひん にκύριοςが存在 そんざい することから、Röselは、「κύριοςをיהוהの表現 ひょうげん として使用 しよう することは、キリスト教 きょう 以前 いぜん の起源 きげん でなければならない」と述 の べている[51] 。
Röselは、この使用 しよう はユダヤ人 じん の間 あいだ で普遍 ふへん 的 てき ではなかったと付 つ け加 くわ えた。これは、後 のち に元 もと の七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ にあるκύριοςが、ヘブライ語 ご のテトラグラマトンに置 お き換 か えられたことからも理解 りかい される。 そして「聖書 せいしょ の写本 しゃほん 4QLXXLevbのΙ いおた Α あるふぁ Ω おめが (ι いおた α あるふぁ ω おめが )の読 よ みは、まだ説明 せつめい されていない謎 なぞ である。言 い うことができるのは、そのような読 よ みがオリジナルであると主張 しゅちょう することはできないということである」[51]
エホバの証人 しょうにん の新 しん 世界 せかい 訳 やく 聖書 せいしょ [ 編集 へんしゅう ]
Robert J. Wilkinsonが指摘 してき しているように、エホバの証人 しょうにん の翻訳 ほんやく による『新 しん 世界 せかい 訳 やく 聖書 せいしょ 』は、George Howardの論文 ろんぶん を根拠 こんきょ に「ヘブライ語 ご -アラム語 ご 聖書 せいしょ 」(一般 いっぱん にいう旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ )のみならず、続 つづ く「クリスチャンーギリシャ語 ご 聖書 せいしょ 」(一般 いっぱん の新約 しんやく 聖書 せいしょ )でも神 かみ の名 な を復元 ふくげん し、これらの訳 やく し方 かた を支持 しじ する様々 さまざま な資料 しりょう を挙 あ げている[証人 しょうにん 2] 。
しかし、上記 じょうき に書 か かれているMartin Röselによる研究 けんきゅう 結果 けっか は、George Howardの仮説 かせつ に反 はん して、オリジナルの七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ はテトラグラマトンを使用 しよう せず、κύριοςを使用 しよう していると結論 けつろん 付 つ けている。
発音 はつおん 記号 きごう Ι いおた Α あるふぁ Ω おめが とその書 が き文字 もじ ι いおた α あるふぁ ω おめが について[ 編集 へんしゅう ]
この発音 はつおん 記号 きごう Ι いおた Α あるふぁ Ω おめが とその書 が き文字 もじ ι いおた α あるふぁ ω おめが については、Frank ShawがThe Earliest Non-Mystical Jewish Use of Ι いおた α あるふぁ ω おめが において論 ろん じた。Frank Shawの想定 そうてい する可能 かのう 性 せい (「持 も っていたかもしれない」)との暫定 ざんてい 的 てき な合意 ごうい は、Pavlos D. Vasileiadisによって表現 ひょうげん されている。
「ギリシャ語 ご の聖書 せいしょ のコピーのいくつかは、明示 めいじ 的 てき および暗黙 あんもく 的 てき に、説得 せっとく 力 りょく のある証拠 しょうこ がある。リヨンのエイレナイオス、オリゲネス、カエサレアのエウセビオス、テルトゥリアヌス、ヒエロニムス、Ps-John Chrysostomなどのクリスチャンが読 よ んだように、テトラグラマトンにΙ いおた α あるふぁ ω おめが を使用 しよう した。この結論 けつろん が有効 ゆうこう である場合 ばあい 、これは、数 かず 世紀 せいき の間 あいだ 、分散 ぶんさん したキリスト教 きりすときょう 共同 きょうどう 体 たい によって読 よ まれた聖書 せいしょ のコピーの中 なか にヘブライ語 ご のテトラグラマトンと、ますます優勢 ゆうせい となったノミナサクラの表現 ひょうげん と並 なら んでΙ いおた α あるふぁ ω おめが が広 ひろ く存在 そんざい していたことを意味 いみ する。その結果 けっか 、考 かんが えられる結果 けっか は、Ι いおた α あるふぁ ω おめが (または、より可能 かのう 性 せい は低 ひく いが、同様 どうよう のギリシャ語 ご )が元 もと のNTコピーに現 あらわ れた可能 かのう 性 せい があるということである」[52]
ユダヤ教 きょう 成立 せいりつ 後 ご のヤハウェ [ 編集 へんしゅう ]
旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ に於 お けるヤハウェは唯一 ゆいいつ 神 かみ であり全 ぜん 世界 せかい の創造 そうぞう 神 しん とされ「宇宙 うちゅう の最高 さいこう 原理 げんり 」のようなもので、預言 よげん 者 しゃ を除 のぞ いた一般人 いっぱんじん にとっては、はっきりしない存在 そんざい であるが、むしろ自 みずか ら人間 にんげん たちに積極 せっきょく 的 てき に語 かた りかけ、「妬 ねた む」と自称 じしょう するほど人類 じんるい を自 みずか らの作品 さくひん として愛 あい し、創世 そうせい 記 き のとおり人類 じんるい は内面 ないめん をヤハウェに似 に せて造 つく られたことがうかがえる。ただし、広義 こうぎ では他 た の生物 せいぶつ 、物質 ぶっしつ も人類 じんるい と性質 せいしつ が似 に ており、人類 じんるい がヤハウェに似 に ていることは宇宙 うちゅう 空間 くうかん 全体 ぜんたい の事象 じしょう に帰納 きのう できる。また、『創世 そうせい 記 き 』第 だい 32章 しょう 第 だい 31節 せつ ~や『出 で エジプト記 き 』第 だい 4章 しょう 第 だい 24節 せつ ~などには自 みずか ら預言 よげん 者 しゃ たちに試練 しれん を与 あた える場面 ばめん もあり、ヘブライ人 じん たちがヤハウェを決 けっ してはっきりしないというだけではなく、預言 よげん 者 しゃ を通 つう じて実在 じつざい 感 かん のある存在 そんざい と捉 とら えていた事 こと がわかる。
キリスト教 きりすときょう におけるヤハウェ[ 編集 へんしゅう ]
「Ἐγώ ε いぷしろん ἰµι いおた ὁ ὤν にゅー (エゴー・エイミ・ホ・オーン)」(私 わたし は在 あ るものである)はイエスとヤハウェを結 むす び付 つ け、その神性 しんせい を現 あらわ す意図 いと で多用 たよう されている。これはセプトゥアギンタ の『出 いずる エジプト記 き 』第 だい 3章 しょう 第 だい 14節 せつ でヤハウェが「私 わたし は在 あ るものである」と名乗 なの ったので、イエスはこれを多用 たよう して自分 じぶん がヤハウェと密接 みっせつ な関係 かんけい にある事 こと を暗 あん に示 しめ したとされる(『ヨハネによる福音 ふくいん 書 しょ 』第 だい 8章 しょう 第 だい 58節 せつ など)。
三位一体 さんみいったい の教 きょう 説 せつ が成立 せいりつ して以降 いこう 、ヤハウェを単 たん に神 かみ の名 な とするにとどまらず、特定 とくてい の位 い 格 かく と結 むす びついた名 な として捉 とら える論考 ろんこう が現 あらわ れる。一般 いっぱん に、西方 せいほう 教会 きょうかい においてはヤハウェ(ラテン語 らてんご 文献 ぶんけん では多 おお く「エホバ」)を父 ちち なる神 かみ と同一 どういつ 視 し することが多 おお く、対 たい して東方 とうほう 教会 きょうかい においてはヤハウェはイエス・キリスト の神格 しんかく における名 な であると考 かんが えられることがある[誰 だれ によって? ] 。
最近 さいきん の動向 どうこう として、2008年 ねん 6月 がつ 29日 にち 付 づけ でバチカンの教皇 きょうこう 庁 ちょう 典礼 てんれい 秘跡 ひせき 省 しょう は「教皇 きょうこう の指示 しじ により神聖 しんせい 四 よん 文字 もじ で表記 ひょうき されている神 かみ の名 な を典礼 てんれい の場 ば において用 もち いたり発音 はつおん したりしてはならない」との指針 ししん を示 しめ した[53] 。教皇 きょうこう 庁 ちょう はこの指針 ししん の中 なか で、近年 きんねん の神 かみ の固有 こゆう 名 めい を発音 はつおん する習慣 しゅうかん が増加 ぞうか している事態 じたい に対 たい して懸念 けねん を表明 ひょうめい し、神聖 しんせい 四 よん 文字 もじ については「ヤーウェ」「ヤハウェ」「エホバ」などではなく、「主 あるじ 」と訳 やく さなければならないと述 の べ、神 かみ の名 な を削除 さくじょ するよう求 もと めている。これを受 う けて日本 にっぽん のカトリック司教 しきょう 協議 きょうぎ 会 かい は、祈 いの りや聖歌 せいか において「ヤーウェ」を使用 しよう してきた箇所 かしょ を原則 げんそく として「主 あるじ 」に置 お き換 か えることを決定 けってい した(一 いち 例 れい として「主 しゅ ヤーウェよ」と呼 よ びかける部分 ぶぶん は「神 かみ である主 おも よ」とされた)。
キリスト教 きりすときょう 神学 しんがく における、聖書 せいしょ 中 ちゅう に見 み られる神 かみ の属性 ぞくせい ・性質 せいしつ [ 編集 へんしゅう ]
キリスト教 きりすときょう 神学 しんがく における、聖書 せいしょ 中 ちゅう に見 み られる神 かみ (ただし三位一体 さんみいったい の概念 がいねん から「父 ちち (ヤハウェ)」と「子 こ (キリスト )」と「聖霊 せいれい 」を意味 いみ する)の属性 ぞくせい ・性質 せいしつ ついての研究 けんきゅう として以下 いか がある。
宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 者 しゃ のジャン・カルヴァン は著書 ちょしょ [54] において、聖書 せいしょ における神 かみ について「唯一 ゆいいつ にして永遠 えいえん なる神 かみ 」「生命 せいめい と義 ぎ と知恵 ちえ と力 ちから と善 ぜん と慈 いつく しみとの源泉 げんせん 」「すべての善 よ きものは例外 れいがい なく神 かみ より来 き たり、すべての賛美 さんび もただしく神 かみ に帰 き すべき」と述 の べている。
ヘンリー・シーセンは著書 ちょしょ [55] において神 かみ の属性 ぞくせい として以下 いか の分類 ぶんるい を行 おこ なっている。
「非 ひ 道徳 どうとく 的 てき 属性 ぞくせい 」…①遍在 へんざい 性 せい ②全知 ぜんち 性 せい ③全能 ぜんのう 性 せい ④不変 ふへん 性 せい
「道徳 どうとく 的 てき 属性 ぞくせい 」…⑤神 しん のきよさ⑥神 しん の義 ぎ と正義 せいぎ ⑦善 ぜん ⑧真実 しんじつ
また神 かみ の性質 せいしつ として「統一 とういつ 性 せい 」「三位一体 さんみいったい 性 せい 」を挙 あ げている。
エル・ベルコフは著書 ちょしょ [56] において神 かみ の属性 ぞくせい として以下 いか の分類 ぶんるい を行 おこ なっている
絶対 ぜったい 的 てき 属性 ぞくせい ・・・①神 しん の独 どく 存 そん 性 せい または自存 じそん 性 せい ②神 しん の不変 ふへん 性 せい ③神 しん の無限 むげん 性 せい ④神 しん の単一 たんいつ 性 せい
相似 そうじ せる属性 ぞくせい (人間 にんげん の属性 ぞくせい との類比 るいひ 。ただし完全 かんぜん なる神 かみ と不完全 ふかんぜん なる人間 にんげん の類比 るいひ である。)・・・①神 しん の知識 ちしき ②神 しん の知恵 ちえ ③神 しん の善 ぜん ④神 しん の愛 あい ⑤神 しん の聖 せい ⑥神 しん の義 ぎ ⑦神 しん の真 ま ⑧神 しん の主権 しゅけん
フロイド・ハミルトンは著書 ちょしょ [57] において、神 かみ の概念 がいねん について、近代 きんだい の自由 じゆう 主義 しゅぎ 神学 しんがく 者 しゃ の傾向 けいこう である「旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ の神 かみ の概念 がいねん の軽視 けいし (新約 しんやく 聖書 せいしょ の方 ほう がまさって神 かみ の概念 がいねん を示 しめ している)」を背信 はいしん 的 てき であるとし、旧約 きゅうやく および新約 しんやく 聖書 せいしょ における神 かみ の一致 いっち 性 せい を指摘 してき している。「新約 しんやく 聖書 せいしょ の神 かみ は愛 あい の神 かみ で、旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ の神 かみ は残酷 ざんこく な復讐 ふくしゅう の神 かみ である」ということを是認 ぜにん できないとし、旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ における「愛 あい の神 かみ 」、新約 しんやく 聖書 せいしょ における「神 かみ の怒 いか り」を記 しる す言葉 ことば をあげ、聖書 せいしょ における神 かみ 概念 がいねん の統一 とういつ 性 せい を指摘 してき している。
イスラム教 いすらむきょう におけるヤハウェ(神 かみ )[ 編集 へんしゅう ]
イスラム教 いすらむきょう ではヤハウェについてアッラーフ 或 ある いはアラー、アッラーのアラビア語 ご 呼称 こしょう を用 もち いる。
以下 いか 、
アッラーフ#イスラーム教 きょう におけるアッラー より加筆 かひつ 引用 いんよう 。
イスラム書法 しょほう におけるアッラーフ
神 かみ がクルアーン を授 さづ けたとされるムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ (以下 いか 「ムハンマド」)は、神 かみ より派遣 はけん された大 だい 天使 てんし ガブリエル から神 かみ の受託 じゅたく をアラビア語 ご で語 かた った使徒 しと であり、最後 さいご にして最大 さいだい の預言 よげん 者 しゃ とされる。ムハンマドは飽 あ くまで神 かみ から被 ひ 造物 ぞうぶつ である人類 じんるい のために人類 じんるい のなかから選 えら ばれた存在 そんざい に過 す ぎない。そもそも神 かみ 自体 じたい が「生 う みもせず、生 う まれもしない」[58] 、つまり時間 じかん と空間 くうかん を超越 ちょうえつ した絶対 ぜったい 固有 こゆう であるため、キリスト教 きりすときょう 神学 しんがく におけるイエス・キリスト 像 ぞう のように、ムハンマドを「神 かみ の子 こ 」と見 み なすような信仰 しんこう 的 てき ・神学 しんがく 的 てき 位置付 いちづ けもされていない。
唯一 ゆいいつ 絶対 ぜったい にして全知全能 ぜんちぜんのう であり、すべてを超越 ちょうえつ する。「目 め 無 な くして見 み 、耳 みみ 無 な くして聞 き き、口 くち 無 な くして語 かた る」とされる(意思 いし だけの)存在 そんざい であるため、あらゆる時 とき にあらゆる場 ば にあり得 え て(遍在 へんざい )、絵画 かいが や彫像 ちょうぞう に表 あらわ すことはできない。イスラーム教 きょう がイメージを用 もち いた礼拝 れいはい を、偶像 ぐうぞう 崇拝 すうはい として完全 かんぜん 否定 ひてい しているのも、このためである。
イスラームの教 おし えは先行 せんこう するユダヤ教 きょう ・キリスト教 きりすときょう を確証 かくしょう するものであるとされるため、アッラーはユダヤ教 きょう ・キリスト教 きりすときょう のヤハウェと同 おな じであるとされる[59] 。(ユダヤ教 きょう 、キリスト教 きょう はこれを認 みと めていない。)したがって神 かみ は六 ろく 日間 にちかん で天地 てんち 創造 そうぞう しており、また最後 さいご の日 ひ には全 ぜん 人類 じんるい を死者 ししゃ までも復活 ふっかつ させ、最後 さいご の審判 しんぱん を行 おこな う「終末 しゅうまつ 」を司 つかさど る。
なお、一切 いっさい を超越 ちょうえつ した全能 ぜんのう の神 かみ (アッラーフ)が休息 きゅうそく などするはずがない[60] 、という観点 かんてん から、創造 そうぞう の六 ろく 日間 にちかん の後 のち に神 かみ が休息 きゅうそく に就 つ いたことを否定 ひてい するなど違 ちが いはある。これはイスラームがユダヤ教 きょう やキリスト教 きりすときょう を同 おな じ「啓 けい 典 てん の宗教 しゅうきょう 」として尊重 そんちょう しながらも、それらの教 おし えに人為 じんい 的 てき 改変 かいへん あり、と見 み なしてきたことの顕著 けんちょ な例 れい でもある。クルアーン が現在 げんざい の形 かたち になったのはムハンマドの死後 しご であるが、イスラム教徒 きょうと は神 かみ が遣 つか わせた大 だい 天使 てんし ガブリエルからムハンマドに言 い わせた言葉 ことば が現在 げんざい のクルアーンに、完全 かんぜん に再現 さいげん されていると考 かんが えている。
アッラーフ#イスラーム教 きょう におけるアッラー からの引用 いんよう 終 お わり。
起源 きげん に関 かん する諸説 しょせつ [ 編集 へんしゅう ]
この名 な が旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ の中 なか で初 はじ めて出 で てくるのは創世 そうせい 記 き 2章 しょう であり、ユダヤ教 きょう やキリスト教 きりすときょう においてヤハウェは人間 にんげん の創造 そうぞう 者 しゃ として人間 にんげん の歴史 れきし の始 はじ まりから崇拝 すうはい されていた唯一 ゆいいつ の神 かみ とされている。
一方 いっぽう 、聖書 せいしょ 批評 ひひょう 家 か によると、ユダヤ教 きょう 成立 せいりつ 以前 いぜん の信仰 しんこう をヤハウェ信仰 しんこう 、あるいはエロヒム信仰 しんこう とよぶが、両者 りょうしゃ は必 かなら ずしも同一 どういつ の信仰 しんこう ではなく、四 よん 資料 しりょう 説 せつ において、エル(普通 ふつう 名詞 めいし の神 かみ の意 い )やその複数 ふくすう 形 がた であるエロヒムを神 かみ の呼称 こしょう とする「E資料 しりょう 」、ヤハウェを神 かみ の名 な とする「J資料 しりょう 」が想定 そうてい されている。両者 りょうしゃ はかなり性質 せいしつ の異 こと なる別 べつ 系統 けいとう の神 かみ 々だったが、唯 ただ 一神教 いっしんきょう 化 か する過程 かてい で混同 こんどう され、同一 どういつ 神 しん とみなされるようになった。エロヒムはヤハウェに比 くら べてより古 ふる い信仰 しんこう であり、もともとはセム系 けい の諸 しょ 民族 みんぞく にみられる多神教 たしんきょう における最高 さいこう 神 しん で、抽象 ちゅうしょう 的 てき ・観念 かんねん 的 てき な天 てん の神 かみ であった。イスラエルにおいてはサマリア やガリラヤ など北部 ほくぶ で信仰 しんこう された。これに対 たい し、ヤハウェの起源 きげん はエロヒムの起源 きげん に比 くら べるとやや時代 じだい が下 くだ り、ヤハウェは、抽象 ちゅうしょう 的 てき なエロヒムと異 こと なり、具体 ぐたい 的 てき な人格 じんかく 神 しん で、慈愛 じあい だけでなく怒 いか りや妬 ねた み(ほかの神 かみ 々に傾倒 けいとう してゆく民 みん に対 たい しての感情 かんじょう をねたみと表現 ひょうげん した)も表 あらわ す感情 かんじょう 豊 ゆた かな神 かみ であり、もともとはヘブロン を中心 ちゅうしん としたイスラエル南部 なんぶ の信仰 しんこう で、王国 おうこく 時代 じだい にはエロヒムと異 こと なりヤハウェの祭儀 さいぎ は祭司 さいし 階級 かいきゅう であるレビ族 ぞく に担 にな われた。唯 ただ 一 いち 絶対 ぜったい 神 かみ の性格 せいかく を帯 お びるようになった。ただし、唯 ただ 一神教 いっしんきょう 化 か した時代 じだい をより古 ふる く見積 みつ もる説 せつ では、出 で エジプト の頃 ころ のヘブライ人 じん は古代 こだい エジプトのアテン 神 かみ を信仰 しんこう しており、そのためアテン信仰 しんこう が廃 はい された後 のち に弾圧 だんあつ され、エジプトを脱出 だっしゅつ したのではないかとする説 せつ もある[61] 。
ニュージーランド のマオリ語 ご では、固有名詞 こゆうめいし としてではなく「主 あるじ 」の訳語 やくご として“ihowā”(イホワー)が用 もち いられる[注 ちゅう 9] 。
^ a b ヘブライ語 ご は右 みぎ から左 ひだり に読 よ む
^ 原文 げんぶん まま。正 まさ しくは歴史 れきし 的 てき 仮名遣 かなづかい で「ヱホバ」。
^ 「エローヒーム」「エロヒーム」とも読 よ む。
^ 一時期 いちじき 上帝 じょうてい 版 はん 聖書 せいしょ が席巻 せっけん して、神 かみ 版 ばん 聖書 せいしょ を駆逐 くちく して、その後 ご 神 かみ という聖 ひじり 句 く を入 い れた聖書 せいしょ が出来 でき たので、一文字 ひともじ 空 あ いているという状態 じょうたい 。
^ 大文字 おおもじ で始 はじ まることに注意 ちゅうい 。
^ イスラムの神 かみ 「アラー」はアラビア語 ご で「ALLH」であり「アルラー」または「アッラー」と表記 ひょうき する(Q'ran)。またエジプト語 ご では太陽 たいよう 神 しん を「Ra」とし「ラー」と呼 よ ぶことに注意 ちゅうい したい(エジプト語 ご 辞典 じてん 泰 たい 流 りゅう 社 しゃ 1994))
^ 「エホバの証人 しょうにん 」の書 しょ である、"New World Translation 1984":Mt 1-20で"Jehova's angel"、「新 しん 世界 せかい 訳 やく 1982」マタイ 1-20で「エホバのみ使 つか いが」というように 彼 かれ らによれば「新約 しんやく 聖書 せいしょ 」中 ちゅう で約 やく 30例 れい 使用 しよう している。ヘブライ語 ご で新 あら たにおこした新約 しんやく 聖書 せいしょ では、同 どう 箇所 かしょ を"יהוה מלאך "(THE NEW COVENANT IN HEBREW 1966)と記述 きじゅつ している。英語 えいご 圏 けん ユダヤ人 じん 用 よう 新約 しんやく 聖書 せいしょ では、同 どう 箇所 かしょ を"angel of Adonai"(JEWISH NEW TESTAMENT 1989)と記述 きじゅつ している。
^ 以下 いか の論文 ろんぶん はGeorge Howard だけでなく、P. E. Kahleの1960年 ねん に掲載 けいさい した論文 ろんぶん もあるが、テトラグラマトンに関 かん して述 の べていることは共通 きょうつう している。また、George Howardだけではなく、P. E. Kahleの論文 ろんぶん も学者 がくしゃ から批判 ひはん されている。
^ 「神 かみ よニュージーランドを守 まも り給 たま え 」のマオリ語 ご 版 ばん (“Aotearoa”)の始 はじ めの方 ほう に出 で て来 く る
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^ クルアーン第 だい 112章 しょう 1-4節 せつ 。“言 い え、「かれは神 しん 、唯一 ゆいいつ の御方 おかた であられる。神 かみ (アッラー)は自存 じそん され、御 ご 産 う みなさらないし、御 ご 生 う まれになられたのではない、かれに比 くら べ得 え る何 なに もない。」”(「言 い え、」という部分 ぶぶん は大 だい 天使 てんし ガブリエル がムハンマドに、「言 い え、」と命 めい じているのである)。
^ クルアーン第 だい 4章 しょう 163-164節 せつ 、クルアーン第 だい 46章 しょう 12節 せつ
^ クルアーン第 だい 2章 しょう 255節 せつ
^ ジークムント・フロイト 『モーセと一神教 いっしんきょう 』ISBN 978-4480087935 「唯 ただ 一神教 いっしんきょう アマルナ起源 きげん 説 せつ 」等 とう という。吉村 よしむら 作治 さくじ も学説 がくせつ としてではないが、著書 ちょしょ の中 なか で類似 るいじ のアイディアを披露 ひろう している。
特定 とくてい の新興 しんこう 宗教 しゅうきょう [ 編集 へんしゅう ]