大沢おおさわけいおのれ

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おおさわ よしみ

大沢おおさわ けいおのれ
大澤おおさわ けいおのれ
1953ねんだい4かい東京とうきょう選手権せんしゅけん大会たいかいにて優勝ゆうしょう
生誕せいたん (1926-03-06) 1926ねん3月6にち
千葉ちばけん印旛いんばぐん宗像むなかたむら
げん印西いんざい
死没しぼつ (2022-10-21) 2022ねん10月21にち(96さいぼつ
死因しいん 肺炎はいえん
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしんこう 早稲田大学わせだだいがく
職業しょくぎょう 柔道じゅうどう
著名ちょめい実績じっせき 全日本ぜんにほん柔道じゅうどう選手権せんしゅけん大会たいかい出場しゅつじょう
全日本ぜんにほん東西とうざい対抗たいこう柔道じゅうどう大会たいかい出場しゅつじょう
流派りゅうは 講道館こうどうかんじゅうだん
身長しんちょう 167 cm (5 ft 6 in)
体重たいじゅう 67 kg (148 lb)
肩書かたが 全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい評議ひょうぎいん理事りじもと)・顧問こもんげん
講道館こうどうかん参与さんよもと)・評議ひょうぎいんげん
こう道学どうがくしゃ学頭がくとうもと
早稲田大学わせだだいがく名誉めいよ教授きょうじゅげん) ほか
受賞じゅしょう 早稲田大学わせだだいがくスポーツ功労こうろうしゃ(2006ねん
印西いんざい名誉めいよ市民しみん(2010ねん
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大沢おおさわ けいおのれ大澤おおさわ けいおのれ、おおさわ よしみ、1926ねん3月6にち - 2022ねん10月21にち)は、日本にっぽん柔道じゅうどう講道館こうどうかんじゅうだん)、早稲田大学わせだだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ

現役げんえき時代じだい身長しんちょう167cm・体重たいじゅう67kgというしょうむくろながら、松本まつもとやすし醍醐だいご敏郎としお戦中せんちゅう戦後せんご代表だいひょうする大型おおがた選手せんしゅたちと鎬をけずり、全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん大会たいかい全日本ぜんにほん東西とうざい対抗たいこう大会たいかいひとし主要しゅよう大会たいかい活躍かつやく。その軽快けいかいのこなしから“こんうしわかまる”や“昭和しょうわしょう天狗てんぐ”とばれた。

引退いんたい1964ねん東京とうきょう五輪ごりんでコーチをつとめ、のち全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい国際こくさい試合しあい選手せんしゅ強化きょうか委員いいんかい女子じょし委員いいんちょう講道館こうどうかん女子じょし部長ぶちょう歴任れきにんして黎明れいめい女子じょし柔道じゅうどういしずえきずいたほか、母校ぼこう早稲田大学わせだだいがくでは柔道じゅうどう師範しはん教授きょうじゅつとめるなどはん世紀せいき以上いじょうわた後進こうしん指導しどうたって、今日きょう柔道じゅうどう隆盛りゅうせいおおきく貢献こうけんした。講道館こうどうかん事実じじつじょう最高さいこう段位だんいとなっているじゅう段位だんい所有しょゆうしゃでもある。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

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千葉ちばけん印旛いんばぐん宗像むなかたむら(のちの印旛いんばむら現在げんざい印西いんざい造谷つくりやにて4にん兄妹きょうだい長男ちょうなんとしてまれる[1][注釈ちゅうしゃく 1]父親ちちおや農業のうぎょういとなかたわなが同村どうそん村長そんちょうつとめる家柄いえがら[注釈ちゅうしゃく 2]田舎いなかだったためスポーツをやるような環境かんきょうにはなかったが、大沢おおさわ幼少ようしょうより野山のやままわってあそんでいた関係かんけい自然しぜん足腰あしこしつよくなっていったという[1]1932ねん宗像むなかた尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこう(のちの市立しりつ宗像むなかた小学校しょうがっこう)に入学にゅうがくし、卒業そつぎょう1938ねん4がつ旧制きゅうせい佐倉さくら中学校ちゅうがっこう(のちの県立けんりつ佐倉さくら高校こうこう)にすすむと武道ぶどうのうち柔道じゅうどう剣道けんどう必修ひっしゅうとなっていて、大沢おおさわはこのうち柔道じゅうどう選択せんたくすることに[1]さらに、おさなころからからだちいさく丈夫じょうぶではかった大沢おおさわ将来しょうらいあんじたちちすすめで柔道じゅうどうにも入部にゅうぶすることとなり、大沢おおさわ当時とうじかえって「からだちいさかったので柔道じゅうどうをやるなんてかんがえてもいなかったが、父親ちちおやこと絶対ぜったいだった」と述懐じゅっかいする[1]

中学ちゅうがく時代じだい通学つうがくとなっていた印旛沼いんばぬま

柔道じゅうどうでは、国士舘大学こくしかんだいがくOBの土谷つちたに新次しんじ(のち講道館こうどうかんはちだん)による指導しどうのもと、やく30にん柔道じゅうどう仲間なかまたちと日々ひび2あいだ程度ていどのまとまった稽古けいこはげんだ[1]。また、自宅じたくから旧制きゅうせい佐倉さくら中学校ちゅうがっこうまでは片道かたみちやく8kmの道程どうていがあり、自宅じたくから印旛沼いんばぬま西沼にしぬま)まで砂利じゃりどうあく自転車じてんしゃ全力ぜんりょく疾走しっそうし、印旛沼いんばぬまわたぶね自転車じてんしゃごとわたってさら対岸たいがんからは臼井うすいえきまで自転車じてんしゃぎ、最後さいご臼井うすいえきから佐倉さくらえきまで汽車きしゃかっていた[2]。この片道かたみち3あいだ通学つうがく卒業そつぎょうするまでの5年間ねんかんつづけた結果けっか大沢おおさわ足腰あしこし否応いやおうしにおのずときたえられ、益々ますますつよたくましくなっていった[2]。なお、印旛沼いんばぬまでは突風とっぷうあふられてふねごと転覆てんぷくし、ぬまちたことも2ほどあったという[1][注釈ちゅうしゃく 3]旧制きゅうせい佐倉さくら中学校ちゅうがっこう時代じだい身体しんたいちいさく柔道じゅうどうはじめてあいだもなかったこともあり、「納得なっとくのいくような試合しあいく、あまりパッとしなかった」と自身じしんべているが[1]、このあいだ1941ねん11月に講道館こうどうかん入門にゅうもんして、1週間しゅうかんには初段しょだんくろたいゆるされたほか、1943ねん2がつ講道館こうどうかん月次げつじ試合しあいでは15にんきの偉業いぎょう達成たっせいよく3がつにはだんとなった[1]天性てんせい反射はんしゃ神経しんけいからださばきは当時とうじからひいでていたようで、内股うちまた名手めいしゅであった土谷つちたにぎゃく内股うちまたとおるころがし渋面じゅうめんつくらせたこともなんかあったという[2]中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょうさいしては、おな旧制きゅうせい佐倉さくら中学校ちゅうがっこうから早稲田大学わせだだいがく進学しんがくしていた鈴木すずき吾郎ごろうからさそいをけたが、大沢おおさわ本人ほんにんれば推薦すいせんるほど柔道じゅうどうつよくはかったので一般いっぱん受験じゅけんをし、同大どうだいせん門部かとべ商科しょうか合格ごうかくした[1]

早稲田わせだ頭角とうかくあらわ[編集へんしゅう]

学徒がくと出陣しゅつじんからかえ早稲田わせだ学友がくゆうたちと(前列ぜんれつみぎはし大沢おおさわ

1943ねん4がつ早稲田大学わせだだいがく入学にゅうがく柔道じゅうどう入部にゅうぶすると、師範しはんには三船みふね久蔵きゅうぞうとく三宝さんぼうらがかおそろえ、つきに1ほどではあったが指導しどうてその薫陶くんとうけた。このほか早稲田大学わせだだいがく時代じだい印象いんしょうのこった人物じんぶつとして、大沢おおさわ小内こうちかり名人めいじん山本やまもと秀雄ひでおげている[1]入部にゅうぶ早々そうそうだい4かい柔道じゅうどう早慶そうけいせんには先鋒せんぽうとして出場しゅつじょう活躍かつやくする機会きかいて、よく44ねん2がつ講道館こうどうかん月次げつじ試合しあいではまたも12にんきという快挙かいきょ達成たっせい[1]同年どうねん9がつにはさん段位だんいれっせられた。大学だいがく在学ざいがくちゅう主将しゅしょうつと[2]学校がっこうで2あいだ活動かつどうのち講道館こうどうかんとおってさらに2あいだ稽古けいこし、その移動いどう手段しゅだんはランニングということもあったという。日々ひび4あいだという稽古けいこ時間じかん現在げんざい大学だいがく柔道じゅうどうくらべてもかなりながく、いわゆる“もう稽古けいこ”の部類ぶるいはいるが、大沢おおさわは「当時とうじはそれが普通ふつうだった」と謙遜けんそんする[1]一方いっぽうで、太平洋戦争たいへいようせんそうのために1945ねん6がつ陸軍りくぐん歩兵ほへいだい57連隊れんたい佐倉さくら連隊れんたい)に入隊にゅうたい千葉ちばけん館山たてやま防衛ぼうえいにんたったが、着任ちゃくにんして2ヵ月かげつには終戦しゅうせんむかえた[1]

1946ねん3がつ大学だいがく卒業そつぎょうは、1947ねん11月のだい1かいいねもん三田みた対抗たいこうせん出場しゅつじょうして水谷みずたに英男ひでおけたほか、1948ねん3月の都下とか近県きんけん選手権せんしゅけん大会たいかいよんだん出場しゅつじょうして夏井なついのぼるきち成毛なるけ秀臣ひでおみらをくだ優勝ゆうしょう同年どうねん5がつ講道館こうどうかん春季しゅんき紅白こうはく試合しあいでは後々あとあとまでライバルとなる醍醐だいご敏郎としおよんだんやぶれたものの、10月の関東かんとう一部いちぶろくけん優勝ゆうしょう試合しあいには千葉ちばけん副将ふくしょうとして出場しゅつじょうし、決勝けっしょうせん醍醐だいごやぶって雪辱せつじょくたした。なお、大沢おおさわ醍醐だいご両者りょうしゃおな1926ねんおな千葉ちばけんまれ[注釈ちゅうしゃく 4]体格たいかくこそおおきくちがうがたがいにライバルとみとい、全日本ぜんにほんを2せいした醍醐だいごは「おれ大沢おおさわけた」と周囲しゅういかたり、一方いっぽう大沢おおさわも「醍醐だいごさんは本当ほんとうつよかった」とたたえている[1]。 このほか学生がくせい時代じだいには、48ねん10がつぜん関東かんとうぜん九州きゅうしゅう対抗たいこう試合しあい出場しゅつじょう石橋いしばしだん試合しあい開始かいしわずか30びょう出足であしはらい仕留しとめ、翌日よくじつじゅう地区ちく対抗たいこう試合しあいには関東軍かんとうぐん大将たいしょうとして出場しゅつじょうして同年どうねん全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん大会たいかい覇者はしゃである松本まつもとやすしだいそとかりうつりこし逆襲ぎゃくしゅうあざやかにやぶ金星きんぼしげたほか[4]、11月のだい2かいいねもん三田みた対抗たいこうせんでは小坂こさかはじめだんくだした記録きろくのこっている。 学生がくせい時代じだい戦時せんじ占領せんりょうごしたためにおおくの大会たいかい試合しあいにはめぐまれなかったが[5]、それでも柔道じゅうどう評論ひょうろんのくろだだけしは、この柔道じゅうどうかい不毛ふもう時代じだい奇跡きせきてきそだった2人ふたり選手せんしゅとして大沢おおさわ醍醐だいごげている[6]

全日本ぜんにほんでの活躍かつやく[編集へんしゅう]

講道館こうどうかんでの昇段しょうだんれき
段位だんい 年月日ねんがっぴ 年齢ねんれい
入門にゅうもん 1941ねん11月8にち 15さい
初段しょだん 1941ねん11月15にち 15さい
だん 1943ねん3月12にち 17さい
さんだん 1944ねん9月14にち 18さい
よんだん 1946ねん9月12にち 20さい
だん 1948ねん5月24にち 22さい
ろくだん 1953ねん1がつ30にち 26さい
ななだん 1961ねん5月2にち 35さい
はちだん 1971ねん5月1にち 45さい
きゅうだん 1992ねん4がつ28にち 66さい
じゅうだん 2006ねん1がつ8にち 79さい

戦後せんごかえり「柔道じゅうどうをやっている場合ばあいではなく、べていくのにしらげいちはいだった」と大沢おおさわ[1]柔道じゅうどう生業せいぎょうにするつもりなど更々さらさらかった大沢おおさわ1949ねんたまづか証券しょうけん(のちのみずほ証券しょうけん)に入社にゅうしゃし、その会社かいしゃいんをしながら講道館こうどうかんとおって稽古けいこあせながした[1]同年どうねん5がつだい2かい全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん大会たいかい関東かんとう代表だいひょうはつ出場しゅつじょうすると、初戦しょせん東北とうほく島谷しまたに一美かずみろくだんつりこみこし勝利しょうりしたが[6]、2回戦かいせん柔道じゅうどうおう木村きむら政彦まさひこななだんくずしじょう四方しほうかたくっした[4]。10月に大阪大おおさかだい国技こくぎかん開催かいさいだい3かい全日本ぜんにほん東西とうざい対抗たいこう大会たいかいにはひがしぐんじゅうよんしょうとして出場しゅつじょうし、竹下たけした忠次ただつぐろくだん優勢ゆうせいしょう丸山まるやまあつしいちろくだん得意とくい内股うちまたとおるやぶり、つづあさ速夫はやおろくだんとはける活躍かつやくせて優秀ゆうしゅう選手せんしゅえらばれた[6]。このほか、11月にオープンゲームとして開催かいさいされた国民こくみん体育たいいく大会たいかいにも千葉ちばけん代表だいひょうとして出場しゅつじょうしている。身長しんちょう167cm・体重たいじゅう67kgのしょうむくろながら華麗かれい動作どうさ天下一てんかいちわれた足技あしわざ武器ぶきに、絶妙ぜつみょうからださばきからされる内股うちまたすきおくあしはらいそでつりこみこしからだにもながじて[1][5]、その変化へんかんだわざ素早すばやうごきから“こんうしわかまる”“昭和しょうわしょう天狗てんぐとうばれた[4][6]

選手せんしゅとしてもこのころ全盛期ぜんせいきで、体重たいじゅう無差別むさべつおこなわれる全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん大会たいかいにはけい4出場しゅつじょうし、1950ねん大会たいかいではもと選手権せんしゅけんしゃであるだいごう松本まつもとやすしろくだん相対あいたいして一本いっぽんゆるさず、僅差きんさ判定はんていやぶれたものの満場まんじょう観衆かんしゅうかせた[6]1951ねん怪我けがのため出場しゅつじょうできなかったが、1952ねん大会たいかいでは熊田くまだ吉夫よしおだん遠藤えんどうさかえよんだん相手あいてに2回戦かいせんいて3回戦かいせんよしまつ義彦よしひころくだんだいそとかりやぶれたもののベスト8にのこ活躍かつやくせ、大男おおおとこたち次々つぎつぎとなぎたお大沢おおさわ姿すがたおなじく小兵こひょうとして活躍かつやくしたあさ速夫はやおとも人気にんきまととなった[6]。また全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんなら檜舞台ひのきぶたい全日本ぜんにほん東西とうざい対抗たいこう大会たいかいでは、名古屋なごや開催かいさいされた1951ねん大会たいかいにはひがしぐんじゅうさんしょう出場しゅつじょう西原にしはら基之もとゆきろくだんからだいて2人ふたり岡本おかもと信晴のぶはるろくだん敢闘かんとうしょうを、秋田あきた開催かいさい1952ねん大会たいかいにはひがしぐんはちしょう出場しゅつじょう伊勢いせしげるいちろくだん優勢ゆうせいしょういて前年ぜんねん同様どうよう2にん岡本おかもと信晴のぶはるろくだん技能ぎのうしょうを、それぞれ受賞じゅしょうしている[6]一方いっぽう会社かいしゃいんとしては、証券しょうけん会社かいしゃ入社にゅうしゃ2ヵ月かげつながら“ち”をつとめたが、独特どくとくジェスチャーおぼれるわけもなく、伝票でんぴょう毎日まいにちわずに社員しゃいん全員ぜんいん残業ざんぎょうする羽目はめ[2]次第しだい社員しゃいんもうわけなくおもって嫌気いやけしていたころ後述こうじゅつとお嘉納かのうくつただし館長かんちょうすすめで1951ねんより創設そうせつあいだもない講道館こうどうかん研修けんしゅういんにんぜられ、さらよく52ねんには南米なんべいでの柔道じゅうどう指導しどうはなしもあり、大沢おおさわわたりにふねとばかりこのはなしいて3ねんつとめた会社かいしゃ退職たいしょくした[2]

指導しどうしゃとして[編集へんしゅう]

柔道じゅうどう普及ふきゅうするにつれて指導しどうしゃ自体じたい資質ししつ向上こうじょう必要ひつようせいにもせまられた講道館こうどうかんでは、1948ねん研修けんしゅういん制度せいどを、1952ねん研修生けんしゅうせい制度せいどをスタートし、大沢おおさわ醍醐だいご敏郎としおとも初代しょだい研修けんしゅういん重責じゅうせきまかされた[6]日本にっぽん大学だいがく松下まつした三郎さぶろう中央大学ちゅうおうだいがく渡辺わたなべ喜三郎きさぶろうといったかく大学だいがくのエースきゅう強豪きょうごう選手せんしゅ研修生けんしゅうせいとしてあつめ、毎週まいしゅう土曜日どようび午後ごご4から乱取らんどりかたち稽古けいこ没頭ぼっとうした。大沢おおさわはこのころのことを「日本にっぽん代表だいひょうする学生がくせいたちだったので、稽古けいこ相手あいてになった」「柔道じゅうどうきなものたちあつまっていたのでくるしさやつらさはあまりかんじなかった」と述懐じゅっかいし、「うのにしらげいちはい時代じだい柔道じゅうどう専念せんねんできてしあわせだった」とつづける[1]

講道館こうどうかんブラジル使節しせつだん
ひだりから吉松よしまつ高垣たかがき団長だんちょう大沢おおさわ現地げんち在住ざいじゅうひと

また、9月24にちブラジルサンパウロしゅう政府せいふ体育たいいく局長きょくちょう招聘しょうへい柔道じゅうどう派遣はけん使節しせつだんいちぎょうくわわると、団長だんちょう高垣たかがき信三しんぞうはちだんよしまつ義彦よしひこななだんとも9月24にち出国しゅっこくし、10月4にち5にちにパカエンブー屋内おくない体育たいいくじょうもよおされたぜんブラジル大会たいかい講道館こうどうかん使節しせつ歓迎かんげい大会たいかい)でかたちや15にんかけ披露ひろうした。ブラジルにおとずれたさいエリオ・グレイシーから大沢おおさわなん対戦たいせんもうまれるが講道館こうどうかんめられ対戦たいせん実現じつげんしなかった、と早稲田大学わせだだいがく大沢おおさわから指導しどうけ、エリオの一番いちばん弟子でしペドロ・エメテリオブラジリアン柔術じゅうじゅつ道場どうじょう指導しどういんをしていた石井いしい千秋ちあきかたった[7]。そのアルゼンチンペルーキューバメキシコ歴訪れきほうして柔道じゅうどう普及ふきゅう振興しんこうはかり、とりわけ現地げんちデモンストレーションとしてった10にんかけ・15にんかけ人気にんきはくし、すべての相手あいてことなるわざげたりすると会場かいじょう大変たいへんがりだったという[1]やく4ヵ月かげつあいだ活動かつどうとしけた1がつ16にち帰国きこくし、直後ちょくご大沢おおさわろくだん昇段しょうだんつづいて、同年どうねん全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん大会たいかい東京とうきょう地区ちく予選よせんとなる4がつだい4かい東京とうきょう選手権せんしゅけん大会たいかいせいしたが、全日本ぜんにほん大会たいかい本選ほんせん怪我けがのため出場しゅつじょう辞退じたいした[6]。9月に福岡ふくおか開催かいさいされただい6かい全日本ぜんにほん東西とうざい対抗たいこう大会たいかいにはしょう出場しゅつじょうしたが、山口やまぐちごうりょく河野こうのはじめえんろくだんはらいこしたたみ背負しょわされた[6]。なお、大沢おおさわ全日本ぜんにほん東西とうざい対抗たいこう大会たいかいやぶれたのはこれがはじめてのことであった。 半年はんとし1954ねん4がつには自身じしん4度目どめ出場しゅつじょうとなる全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん大会たいかいのぞんだが、初戦しょせん当時とうじいきおいであった夏井なついのぼるきちだん優勢ゆうせいやぶれて、上位じょうい進出しんしゅつはならなかった[6]

大沢おおさわはこのころから指導しどうしゃとしての活動かつどうじくあしうつしたが、当時とうじ講道館こうどうかん財政ざいせいてき逼迫ひっぱくしていたこと母校ぼこう早稲田大学わせだだいがく体育たいいくきょく教員きょういん募集ぼしゅうしていたこともあって同大どうだいもど[2]柔道じゅうどう師範しはん1953ねんから1996ねんまで)、どう教授きょうじゅ1974ねん4がつから1996ねんまで、以後いご名誉めいよ教授きょうじゅ)、どう柔道じゅうどう部長ぶちょう1982ねんから1995ねんまで)をつとめておおくの後輩こうはい指導しどうたり、同時どうじ講道館こうどうかん指導しどういん1954ねん1がつから1980ねんまで)、どう研修生けんしゅうせい補導ほどう1955ねん1がつから1963ねんまで)、柔道じゅうどう私塾しじゅくこう道学どうがくしゃふく学頭がくとう1975ねんから2007ねんまで、以後いご学頭がくとう)、法務省ほうむしょう関東かんとう管区かんく矯正きょうせいきょく教官きょうかんとう重責じゅうせき歴任れきにんした[1][6]一方いっぽう1957ねん4がつ28にち宮城みやぎ球場きゅうじょう開催かいさいだい6かい東北とうほく北海道ほっかいどう対抗たいこう大会たいかいでは並居なみい強豪きょうごう相手あいてに7にんかけえんじ、芸術げいじゅつともうべき華麗かれいわざを以ってめかけた観衆かんしゅう感嘆かんたんさせたほか[8]同年どうねん9がつに31さいむかえただい10かい全日本ぜんにほん東西とうざい対抗たいこう大会たいかいではひがしぐん副将ふくしょうとして出場しゅつじょうし、西にしぐん副将ふくしょう中村なかむら常男つねおろくだん攻防こうぼうすえけている。

最高さいこう段位だんいじゅうだん[編集へんしゅう]

海外かいがいでの指導しどうれきとしては前述ぜんじゅつ南米なんべいのほか、北米ほくべい欧州おうしゅうくわえ、当時とうじ柔道じゅうどうちいさかったアジアでも1963ねんにフィリピン柔道じゅうどう連盟れんめい招聘しょうへいにより1ヵ月かげつ柔道じゅうどう指導しどうおこなうなどし、斯道しどう国際こくさい尽力じんりょくして1971ねんには講道館こうどうかん外人がいじん臨時りんじ試験しけん委員いいんを、1979ねんから1989ねんまでは国際こくさい指導しどういんつとめた[1]

また大沢おおさわ功績こうせきとして、日本にっぽんにおける女子じょし柔道じゅうどういしずえきずいたてん特筆とくひつされる。海外かいがいでの柔道じゅうどうブームと女子じょし柔道じゅうどう隆盛りゅうせいされるかたち1979ねん全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい女子じょし選手せんしゅ強化きょうかすと、大沢おおさわがこのにんたることとなった。醍醐だいご男子だんし強化きょうかを、大沢おおさわ女子じょし強化きょうか担当たんとうすることとなった当時とうじを「正直しょうじきえば、なん女子じょしなんだよっておもった」と大沢おおさわかえっている[2]1980ねん女子じょしだい1かい世界せかい選手権せんしゅけん大会たいかい開催かいさいされると選手せんしゅだん団長だんちょうして会場かいじょうニューヨークむが、結果けっか差別さべつきゅうふくむ8かいきゅうのうちメダル山口やまぐちかおりぎんメダル1つのみで、新聞しんぶんにも「家芸いえげいかたなし」とてられる始末しまつだった。それでも1983ねん1がつより講道館こうどうかん女子じょし指導しどういんを、1985ねん4がつから1989ねんまで全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい国際こくさい試合しあい強化きょうか委員いいんかい女子じょし強化きょうか担当たんとう部長ぶちょうつとめるなどしてコーチの柳沢やなぎさわひさともなが女子じょし柔道じゅうどう育成いくせいたずさわり、1982ねんだい2かい世界せかい選手権せんしゅけん大会たいかいぎんメダル2どうメダル1個いっこ獲得かくとくしたのを皮切かわきりに、1984ねんだい3かい世界せかい選手権せんしゅけん大会たいかいでは山口やまぐち日本にっぽん女子じょし柔道じゅうどうはつきんメダル獲得かくとくさらだい4かい大会たいかいぎんメダル2どうメダル1個いっこ男女だんじょ共催きょうさいとなっただい5かい大会たいかいではぎんメダル2どうメダル3獲得かくとくして、1988ねんソウル五輪ごりんでは公開こうかい競技きょうぎ位置付いちづけながら佐々木ささきひかりきんメダルにみちびいた。

またこのあいだ1976ねんモントリオール五輪ごりん柔道じゅうどう競技きょうぎ1981ねんだい11かい世界せかい選手権せんしゅけん大会たいかい審判しんぱんいん大役たいやくまかせられ、全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめいでは1983ねんから1992ねんまで審判しんぱん委員いいんかい委員いいんつとめた[1]。このほか、全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい幹事かんじ1980ねん4がつから1983ねんまで)、どう理事りじ1983ねん4がつから1989ねんまで)、どう評議ひょうぎいん1990ねん4がつから2012ねんまで)、どう顧問こもん2012ねん4がつから)、講道館こうどうかん評議ひょうぎいん1992ねん4がつから)、どう参与さんよ2008ねん1がつから)を歴任れきにんするなど柔道じゅうどうかい運営うんえいたずさわり[1]、1992ねん4がつきゅう段位だんいけてべにたいゆるされた[9][注釈ちゅうしゃく 5]昇段しょうだんさい大沢おおさわは、「道場どうじょう一貫いっかんして柔道じゅうどうころもつづけたことみとめられたのではないか」とひかべている[9]同時どうじに、1981ねんには自身じしんかんした大沢おおさわけいおのれはい争奪そうだつ少年しょうねん大会たいかいだい1かい大会たいかい有志ゆうしらによって企画きかくされ、新座にいざ開催かいさいされたこの大会たいかいからはのち鈴木すずき若葉わかば鈴木すずきかつらおさむおおくのめい選手せんしゅたちが輩出はいしゅつされた[1]

柔道じゅうどうかいたいする永年えいねん尽力じんりょく功績こうせきみとめられた大沢おおさわ2006ねん1がつ8にち講道館こうどうかん鏡開かがみびらしきにおいて、おなじく柔道じゅうどう発展はってん寄与きよした安部あべ一郎いちろう醍醐だいご敏郎としおともに、事実じじつじょう最高さいこう段位だんいであるじゅうだん昇段しょうだん。3にんでの同時どうじ昇段しょうだん史上しじょうはじめてのことであった。1991ねん小谷おたにきよしこれぼっして以来いらい15ねんりのじゅうだん誕生たんじょうで、120ねん以上いじょう歴史れきしと177まんにんえる有段者ゆうだんしゃ(いずれも当時とうじ)をかかえる講道館こうどうかんでもじゅうだんけたのはわずか15にんじつに12まんにんに1にんというせまもんであった[10]専門せんもん雑誌ざっし近代きんだい柔道じゅうどう』のインタビューで大沢おおさわは、「格好かっこうければみちのためにんでいきたいが、そんなキザなことえない」「いままでやってきたことつづけていくだけ」と意気込いきごみをかたっている[2]同年どうねん3月25にちづけ早稲田大学わせだだいがくスポーツ功労賞こうろうしょう受章じゅしょう[11]

90さいえてからも道場どうじょうつづけ、健康けんこう秘訣ひけつわれた大沢おおさわは「ワイン毎日まいにち2はいつづけていること」とこたえていた[1]

2022ねん10がつ21にち肺炎はいえんのため死去しきょ[12]。96さいぼつ大沢おおさわ死去しきょって、存命ぞんめいじゅうだん所有しょゆうしゃ一旦いったん不在ふざいとなった。

おも戦績せんせき[編集へんしゅう]

全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん大会たいかい[編集へんしゅう]

会場かいじょうには皇太子こうたいし講道館こうどうかん嘉納かのうくつただし館長かんちょうらの顔触かおぶれがあり、ちょう満員まんいん観衆かんしゅうもと[13]、16にん精鋭せいえいによってもよおされた全日本ぜんにほん大会たいかい大沢おおさわ関東かんとう代表だいひょうとして出場しゅつじょうした。初戦しょせん東北とうほく王者おうじゃのベテラン・島谷しまたに一美かずみろくだんかおわせ、これをつりこみこしちゅうわせた。2回戦かいせんでは8ねんりのだい試合しあいとなる木村きむら政彦まさひこななだん相対そうたい。しっかりもうとまえ木村きむらたい大沢おおさわはヒラリヒラリとかろやかにちょうばし、これに翻弄ほんろうされまいと木村きむらまえるのをやめ、ぎゃく後退こうたいして大沢おおさわさそ展開てんかいに。大沢おおさわはこれをけてかるあしさばきで2、3たが、そこに木村きむらタックル強襲きょうしゅうし、きょをつかれた大沢おおさわからだ(たい)はたたみころちた。大沢おおさわはすぐさま上体じょうたいこそうとしたが、このとき木村きむらすで寝技ねわざはい態勢たいせいで、そのままくずしじょう四方しほうかたおさまれて一本いっぽんけをきっした[4]木村きむらのち著書ちょしょで「小兵こひょうならではのからださばきは、まさにしょう天狗てんぐのごとき素早すばやさであった」と大沢おおさわ称賛しょうさんし、また後日ごじつ、この大会たいかい決勝けっしょうせん激突げきとつした石川いしかわ隆彦たかひこさそわれ、石川いしかわなかかった大沢おおさわふくめて3にんさかずきわし、「3にんんださけうまかった」と述懐じゅっかいしている[4]
  • 1950ねん5月5にち(於:しばスポーツセンター) -
戦後せんご3かい大会たいかいとなる全日本ぜんにほん大会たいかいには、ぜん大会たいかい同様どうよう全国ぜんこく俊英しゅんえい16にんかおそろえ、このうち8にんはつ出場しゅつじょうであった[14]大会たいかい当日とうじつ生憎あいにく空模様そらもようであったが、会場かいじょう立錐りっすい余地よちもないきゃくさま[14]関東かんとう代表だいひょう大沢おおさわ初戦しょせんで、2ねんまえ王者おうじゃである九州きゅうしゅう代表だいひょう松本まつもとやすしろくだんたいし、身長しんちょう184cmで2まわりほどもおおきい松本まつもとげることはできなかったが、ぎゃくげられることもなく、結果けっか僅差きんさ判定はんてい松本まつもと軍配ぐんばいがった。ちいさな大沢おおさわ優勝ゆうしょう候補こうほ松本まつもと相手あいてによくたたか姿すがたに、満員まんいん観衆かんしゅう大変たいへんがりであったという[6]
全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん大会たいかい益々ますます人気にんきとなり、会場かいじょうれない観客かんきゃく姿すがたすらあった[15]選手権せんしゅけんは32にんあらそわれ、関東かんとう代表だいひょう大沢おおさわ初戦しょせん東海とうかい代表だいひょう熊田くまだ吉夫よしおだんあざやかなおくあしはらいちゅうわせ、2回戦かいせんでは東京とうきょう代表だいひょう遠藤えんどうさかえよんだん対峙たいじ途中とちゅう大沢おおさわつりこみこし場外じょうがいちた遠藤えんどう頭部とうぶ強打きょうだ試合しあい中断ちゅうだんするというアクシデントがあったが、最後さいごからだでこれをくだした[6]。3回戦かいせんでは九州きゅうしゅう代表だいひょうよしまつ義彦よしひころくだんたいし、吉松よしまつ得意とくいだいそとかりくっするも、身長しんちょう167cmのしょうむくろながら2度目どめのベスト8進出しんしゅつという快挙かいきょおおくの柔道じゅうどうファンに感銘かんめいあたえた。
  • 1954ねん5月5にち(於:きゅう両国りょうこく国技こくぎかん) -
1954ねん大会たいかいにて、出場しゅつじょうしゃたちと
最後さいご出場しゅつじょうとなった全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんには28さい出場しゅつじょう当日とうじつかがやくばかりの日本晴にっぽんばれで、つづ人気にんきはくしていた全日本ぜんにほん大会たいかい早暁そうぎょうからおおくの観衆かんしゅうけ、9開場かいじょう予定よていを30ふんげる有様ありさまだった[16]早稲田大学わせだだいがく教員きょういんとなっていた大沢おおさわ東京とうきょう代表だいひょう出場しゅつじょうしたが、初戦しょせん台頭たいとう目覚めざましい秋田あきた県警けんけい警察官けいさつかん夏井なついのぼるきちだん優勢ゆうせいやぶ上位じょうい進出しんしゅつはならなかった。身長しんちょうはさほどわらないが、30kgちか体重たいじゅう如何いかともしがたかったといえる(大沢おおさわ身長しんちょう167cm・体重たいじゅう67kgにたいし、夏井なつい身長しんちょう174cm・体重たいじゅう100kg)。なお、大沢おおさわおな年齢ねんれい夏井なついはこの大会たいかい戸高とだか清光せいこうろくだん岡山おかやま長年ながねんよんだんつづけにやぶって準決勝じゅんけっしょうせんまで進出しんしゅつして3入賞にゅうしょうさらよく55ねん大会たいかいではじゅん優勝ゆうしょうするなどして頭角とうかくあらわし、1956ねん世界せかい選手権せんしゅけん大会たいかいせいして初代しょだい世界せかい王者おうじゃかがやいている。

全日本ぜんにほん東西とうざい対抗たいこう大会たいかい[編集へんしゅう]

戦後せんごはじめての大会たいかいとなっただい3かい大会たいかいひがしぐん西にしぐんそれぞれ27めいずつの試合しあい形式けいしきおこなわれ、大沢おおさわひがしぐんじゅうよんしょうとして出場しゅつじょうした。試合しあい序盤じょばんから、ひがしぐん金子かねこ泰興たいこうよんだんが3にんけば、すぐに西にしぐん吉田よしだ広一ひろかずだんが3にんかえすという一進一退いっしんいったい攻防こうぼうであったが、橋元はしもとちかしななだん活躍かつやくとう西にしぐん試合しあい優位ゆういすすめたまま大沢おおさわ出番でばんまわってきた。ここで大沢おおさわ竹下たけした忠次ただつぐろくだん優勢ゆうせいやぶり、丸山まるやまあつしいちだん内股うちまたとおるころがし、3にんあさ速夫はやおろくだんとはけて、ひがしぐん1人ひとりビハインドまでなおした。しかし、その西にしぐん岡本おかもと信晴のぶはるろくだんの3にんきでおおきくリードをゆるし、ひがしぐん宮内みやうち英二えいじろくだん副将ふくしょうつとめた大沢おおさわ盟友めいゆう醍醐だいご敏郎としおろくだん2人ふたりきで一矢いっしむくいるも、最後さいご大将たいしょう羽鳥はとり輝久てるひさろくだん松本まつもとやすしろくだんだいそとかりやぶれ、西にしぐん副将ふくしょう広瀬ひろせいわおななだん大将たいしょう伊藤いとう徳治とくじななだん不戦ふせん悠々ゆうゆう勝利しょうりにした。
だい4かい大会たいかい出場しゅつじょう選手せんしゅすうぜん大会たいかいから2にんらしりょうぐん25めいずつでおこなわれ、大沢おおさわはこれにひがしぐんじゅうさんしょう出場しゅつじょうひがしぐん夏井なついのぼるきちだん伊藤いとう信夫しのぶだんが、西にしぐん広川ひろかわあきらおんだん各々おのおの2にん活躍かつやくせ、大沢おおさわ西原にしはら基之もとゆきろくだんとのじゅうさんしょう同士どうしたたかいになった。ここで大沢おおさわ西原にしはらからだやぶり、つづ2人ふたり激突げきとつしたのはぜん大会たいかいだい活躍かつやくした岡本おかもと信晴のぶはるろくだんであったが、首尾しゅびよくこれとけてひがしぐんにリードをもたらした。試合しあいはそのひがしぐん藤森ふじもり徳衛とくえろくだん2人ふたり活躍かつやくせたが、一方いっぽう西にしぐん宮川みやがわ善一ぜんいちろくだん山本やまもとひろしろくだん中村なかむら常男つねおろくだんまめにがえし、最後さいごひがしぐん大将たいしょう醍醐だいご敏郎としおろくだん西にしぐん副将ふくしょうまつ本安もとやすななだんけ、ひがしぐん西にしぐん大将たいしょう広瀬ひろせいわおななだんのこして、またしてもやぶれる結果けっかとなった。
格上かくあげのひがしぐんはちしょう出場しゅつじょうしただい5かい大会たいかいは、ひがしぐん選手せんしゅ1人ひとりけば西にしぐん選手せんしゅ1人ひとりかえすという試合しあい内容ないようで、大沢おおさわまえ出場しゅつじょうしたひがしぐんきゅうしょう夏井なついのぼるきちだんが2にんいて(棄権きけんしょうふくむ)均衡きんこうくずれ、さら大沢おおさわ夏井なついやぶった伊勢いせしげるいちろくだん相手あいて優勢ゆうせいしょうおさめ、いで岡本おかもと信晴のぶはるろくだんとはけた。試合しあいはそのきつかれつをかえし、最後さいごひがしぐん大将たいしょう前年ぜんねん全日本ぜんにほん王者おうじゃ醍醐だいご敏郎としおろくだん西にしぐん副将ふくしょう広瀬ひろせいわおななだん大将たいしょう伊藤いとう徳治とくじななだんつづけにやぶってき、ひがしぐん石川いしかわ隆彦たかひこななだん羽鳥はとり輝久てるひさななだんのこして勝利しょうり全日本ぜんにほん東西とうざい対抗たいこう大会たいかい5かいにして、はじめてひがしぐん頭上ずじょう栄冠えいかんかざられた。
4度目どめ出場しゅつじょうとなる大沢おおさわひがしぐんしょうとしてこれにのぞんだが、雪辱せつじょくちか西にしぐん河野こうの宗達そうたつよんだん明治大学めいじだいがくらした曽根そね康治こうじだん活躍かつやく目覚めざましく、試合しあい終始しゅうし西にしぐん優位ゆういすすんだ。西にしぐんじゅういちしょう河野こうのはじめえんろくだん大沢おおさわはらいこしに、つづあさそくおっとろくだんしょうそとかけかい進撃しんげきせて優秀ゆうしゅう選手せんしゅしょう獲得かくとくひがしぐんさんしょう醍醐だいごろくだん2人ふたりを、副将ふくしょう伊藤いとう秀雄ひでおが3にん挽回ばんかいせるもおよばず、西にしぐんに3にんのこしの大勝たいしょうゆずった。
大沢おおさわ自身じしん4大会たいかいりの出場しゅつじょうとなっただい10かい大会たいかいではひがしぐん副将ふくしょう抜擢ばってきされ、副将ふくしょう大沢おおさわ大将たいしょう醍醐だいごという布陣ふじんのぞんだ。試合しあい内容ないようとしてはけがおおく、西にしぐんじゅうきゅうしょう河野こうの雅英まさひでよんだんひがしぐんじゅうしょう渡辺わたなべ喜三郎きさぶろうよんだんがそれぞれ2にんいて3にんけた以外いがい見張みはるような活躍かつやくかった。大沢おおさわ中村なかむら常男つねおろくだんとの副将ふくしょう同士どうし試合しあいふくめ、ろくしょうから大将たいしょうまでの6試合しあいがいずれもけるかたちとなり、大会たいかい史上しじょうはじめて東西とうざい優劣ゆうれつけという結果けっかわった。

その[編集へんしゅう]

  • 1943ねん5月30にち(於:講道館こうどうかん) - だい4かい早慶そうけいせんに1年生ねんせいながら先鋒せんぽうとして出場しゅつじょう
  • 1947ねん11月16にち(於:講道館こうどうかん) - だい1かいいねもん三田みた対抗たいこうせん出場しゅつじょう水谷みずたに英男ひでおけ。
  • 1948ねん3月21にち(於:講道館こうどうかん) - だい1かい都下とか近県きんけん選手権せんしゅけん大会たいかいよんだん)に出場しゅつじょう夏井なついのぼるきち成毛なるけ秀臣ひでおみらを退しりぞけて優勝ゆうしょう
  • 1948ねん5月16にち(於:講道館こうどうかん) - 講道館こうどうかん春季しゅんき紅白こうはく試合しあい出場しゅつじょう醍醐だいご敏郎としおよんだんやぶれる。
  • 1948ねん10月3にち(於:講道館こうどうかん) - 関東かんとういちろくけん優勝ゆうしょう試合しあい千葉ちばけん副将ふくしょうとして出場しゅつじょう決勝けっしょうせん醍醐だいご敏郎としおよんだんやぶる。
  • 1948ねん10月31にち(於:福岡ふくおかけん多賀たが神社じんじゃ相撲すもうじょう) - ぜん関東かんとうたいぜん九州きゅうしゅう対抗たいこう試合しあいぜん関東かんとう代表だいひょうとして出場しゅつじょう石橋いしばしだん開始かいしわずか30びょうおくあしはらいやぶる。
  • 1948ねん11月1にち(於:福岡ふくおかけん多賀たが神社じんじゃ相撲すもうじょう) - じゅう地区ちく対抗たいこう試合しあい関東かんとう大将たいしょうとして出場しゅつじょう準決勝じゅんけっしょうせん松本まつもとやすしろくだんうつりこしやぶる。
  • 1948ねん11月21にち(於:講道館こうどうかん) - だい2かいいねもん三田みた対抗たいこうせん出場しゅつじょう小坂こさかはじめだんやぶる。
  • 1949ねん3月21にち - だい2かい都下とか近県きんけん選手権せんしゅけん大会たいかい出場しゅつじょう
  • 1949ねん10月2にち(於:しばスポーツセンター) - 東京とうきょう選手権せんしゅけん大会たいかい出場しゅつじょう決勝けっしょうせん醍醐だいご敏郎としおろくだんやぶれる。
  • 1949ねん11月3にち(於:講道館こうどうかん) - だい4かい国民こくみん体育たいいく大会たいかい千葉ちばけん代表だいひょうとして出場しゅつじょう
  • 1949ねん11月27にち(於:講道館こうどうかん) - だい3かいいねもん三田みた対抗たいこうせん出場しゅつじょう
  • 1950ねん3月21にち(於:講道館こうどうかん) - だい3かいぜん関東かんとう近県きんけん選手権せんしゅけん大会たいかい出場しゅつじょう優勝ゆうしょう
  • 1951ねん3月21にち(於:講道館こうどうかん) - だい4かい関東かんとう近県きんけん段別たんべつ優勝ゆうしょう試合しあいだん)に出場しゅつじょう優勝ゆうしょうして3連覇れんぱたす。
  • 1952ねん6月28にち29にち(於:両国りょうこくメモリアルホール) - 日本にっぽんさんだい地区ちく対抗たいこう大会たいかい出場しゅつじょう
  • 1953ねん4がつ12にち(於:講道館こうどうかん) - だい4かい東京とうきょう選手権せんしゅけん大会たいかい出場しゅつじょう優勝ゆうしょう

技術ぎじゅつろん[編集へんしゅう]

大沢おおさわ講道館こうどうかん機関きかん柔道じゅうどう』のなかのインタビューで、身体しんたいちいさな自分じぶんおおきいもの相手あいてにしてもたたかってこれた要点ようてんべており、それを可能かのうにした技術ぎじゅつろんをまとめると大略たいりゃく以下いかとおりである。

  • 防御ぼうぎょてて攻撃こうげき[1]
現在げんざいのように体重たいじゅうべつという概念がいねんがなく試合しあい体重たいじゅう差別さべつたりまえであった当時とうじ体重たいじゅう67kgと小柄こがら大沢おおさわにとっては自分じぶんよりおおきい相手あいてとの試合しあいがほとんどであった。
んでっていても強引ごういんけられてげられてしまうため、つね先手せんてることだけをかんがえ、多少たしょう玉砕ぎょくさい覚悟かくごうえ攻撃こうげきをしたという。稽古けいこ乱取らんどりでも自分じぶんよりつよものとしかやらず、10ふん程度ていど乱取らんどり一息ひといきれているあいだべつつよものさがしてまた挑戦ちょうせんするという練習れんしゅうほうで、これをつづけることで結果けっかてき相手あいてつよくてもおおきくても対応たいおうできるようになっていった。
  • 相手あいてまとしぼらせない」[1]
ケンカよっつの相手あいて場合ばあい相手あいて胸元むなもとではなくわきつようにした。まともにんだらちいさい選手せんしゅほう不利ふりなのはえているが、大沢おおさわればこのかた場合ばあい相手あいてよりうでみじかくても十分じゅうぶん通用つうようするという。けられないように力一杯ちからいっぱいおさえて、このりとからださばきで相手あいてちから分散ぶんさんさせ、相手あいてまとしぼらせないように意識いしきしていた。
事実じじつおおきな相手あいて内股うちまたにきてもけっして自分じぶんまた相手あいてあしれさせず、相手あいて変化へんかたいして素早すばや反応はんのうさばくことで得意とくいわざである内股うちまたとおる完成かんせいをみた経緯けいいもあり、全日本ぜんにほん王者おうじゃでライバルの醍醐だいご敏郎としおくだしたのもこのわざであった。
一方いっぽうで、相四あいよつの相手あいてにはこれが通用つうようしないため、非常ひじょうぶんわるかったという。
  • ちいさなうごきで相手あいてのバランスをくずす」[1]
柔道じゅうどうにおいてよくうごくことは大切たいせつだが、相手あいてうごきにられて自分じぶんおおきなうごきをしたり、無駄むだうごぎたりすれば、自分じぶんがバランスをくず不利ふりになってしまう。
得意とくいわざ内股うちまたとおるれいれば、相手あいてあしれさせないためにまえながらわざけるが、このときあしすのはすこしだけで、のちからださばき以ってたくみに相手あいてころがすことが肝要かんようという。「体重たいじゅうべつ全盛ぜんせい現在げんざいではあまり必要ひつようとされることもないが、体重たいじゅう無差別むさべつ試合しあいおおきいものとやるにはあまりたいさくうごぎないよう注意ちゅういすべき」とく。
  • 相手あいてちかられたときこそちからく」[1]
もと全日本ぜんにほん王者おうじゃ松本まつもととは個人こじんてきにもしたしかった
小柄こがらものおおきい相手あいてちからくらべをしてもかなうわけはいので、小柄こがらものにとってはちかられるべきときれ、くべきときくという緩急かんきゅう重要じゅうようになってくる。
ただし、つねちからいていても駄目だめで、ときには相手あいて強引ごういんけにフルパワーで対処たいしょしなければならないことも。そのに、自分じぶんちかられたりいたり、あるいはまえたりうしろにがったりすることで、相手あいてちからかせ、バランスがくずれるわざけていくという対処たいしょほう必要ひつようだという。

なお、大沢おおさわひだりぐみみぎわざはほとんどやらず、前述ぜんじゅつとお内股うちまたすきおくあしはらいそでつりこみこしからだ得意とくいとした[1][5]

大沢おおさわ自身じしん現役げんえき生活せいかつかえり、おものこ強豪きょうごう選手せんしゅとして醍醐だいごのほか、よしまつ義彦よしひこ松本まつもとやすしげている[1]。いずれも全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんしゃであるが、大沢おおさわはこれらの相手あいてにもからださばきを駆使くししてよくたたかい、当時とうじ大型おおがた選手せんしゅからは「わざけたらそこにいない」とわれるほどで、それらの選手せんしゅにとっては非常ひじょうにやりがらおおいになやませたという[5][6]

なお、試合しあいでははげしい闘志とうしてるわざ駆使くししてちからかぎたたかった間柄あいだがらだが、いちたたみりればおなどうあゆ仲間なかまでもあり、なかでも7さい年長ねんちょう松本まつもとには可愛かわいがられて食事しょくじさそわれたこともあったという[1]

こんうしわかまる”と異名いみょうったほどの大沢おおさわ足技あしわざあじ評価ひょうかするひとおおく、画家がか伊原いはら宇三郎うさぶろう1964ねん東京とうきょうオリンピック柔道じゅうどう競技きょうぎ男子だんし差別さべつきゅう決勝けっしょう神永かみなが昭夫あきお富士ふじ製鐵せいてつ)がアントン・ヘーシンクオランダ)にやぶれた試合しあいのち講道館こうどうかんのアンケートにこたえて「神永かみながくんに、大沢おおさわくんのような足技あしわざあじにつけることが出来できなかったものか」とかたっている[17]

主張しゅちょう[編集へんしゅう]

  • 体重たいじゅうべつせいについて
大沢おおさわは「いくら“やわらのうせいつよし”や体重たいじゅう無差別むさべつっても、いま体重たいじゅうべつ全盛ぜんせい時代じだいだからそれよう柔道じゅうどう仕方しかたない」と前置まえおきしたうえで、それでも、技術ぎじゅつを以って自分じぶんよりおおきくちからつよ相手あいて勝負しょうぶする大切たいせつさを主張しゅちょうする[2]自身じしん現役げんえき時代じだい体重たいじゅうべつという概念がいねんがなかったため、大沢おおさわなにとかおおきい相手あいてげてやろうと努力どりょくし、からださばきや工夫くふうすることでこれを体現たいげん、また頭脳ずのうかぎりをくして醍醐だいご敏郎としおよしまつ義彦よしひこ松本まつもとやすし大型おおがた選手せんしゅとも互角ごかくわたってきた[2]いわく「優勝ゆうしょう無理むりでも、なにとかおおきいものってやろうという気持きもちはつよかった」とのことで、最近さいきん選手せんしゅでは、体重たいじゅう無差別むさべつおこなわれる全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん大会たいかい1990ねんじゅん優勝ゆうしょうした古賀こが稔彦としひこ称賛しょうさん[2]
現在げんざい選手せんしゅたち最初さいしょからおおきな相手あいてにはてきわないとおもっているようで、とても残念ざんねんこと」とべ、「体重たいじゅう無差別むさべつもどすのは無理むりでも、せめて10~15kgのがあってもたたかえるようにしなくては」とつづけている[1]
  • 試合しあいについて
むかしほか指導しどうしゃたち同様どうよう、「基本きほん重視じゅうしし、もう一度いちど柔道じゅうどう原点げんてんかえってあくまで一本いっぽんかち目指めざ柔道じゅうどうてっしてしい」とかたっている[2]姑息こそくなポイントあらそいではなく、ひと感動かんどうあたえるような柔道じゅうどう、すなわち日本にっぽん柔道じゅうどうさという根本こんぽんかえった柔道じゅうどうをやってしい、とわか現役げんえき選手せんしゅたちにアドバイスをおくっていた[2]
  • 指導しどうほう稽古けいこほうについて
大沢おおさわ自身じしんわかかりしころ稽古けいこについて、「素直すなおって、相手あいてくずし、わざけろとおそわった」「そうすること自分じぶん柔道じゅうどうつくげてきた」とべ、初心者しょしんしゃたいしても試合しあいつことだけをすぐにおしえる現在げんざい指導しどうほうにはこととなえている[2]。「はじめからひざいて背負投せおいなげけたり、くみしゅったりたせなかったりという柔道じゅうどうは(自分じぶんは)おしえたくない」と大沢おおさわ。そういったものを柔道じゅうどうおもっているわか選手せんしゅすくなくなく、ただしい稽古けいこほういても選手せんしゅたちからはけむたがれることすらあるが、「だれかがつづけないとね...」とポツリべていた[2]
また、「柔道じゅうどう上手うまくなるには稽古けいこ稽古けいこ稽古けいこしかないが、漫然まんぜん稽古けいこをするのではなく、意欲いよく研究けんきゅうしんってのぞむべき」「他人たにん稽古けいこからわざぬすみ、自分じぶんわざえること大事だいじ」と選手せんしゅたちにエールをおく[1]
また指導しどうしゃたちたいしては、「自分じぶん柔道じゅうどうをやっているからえらい、というようなかんがかたっては駄目だめ」「柔道じゅうどうのおかげでいま自分じぶんがあるという謙虚けんきょ姿勢しせいを」とべ、「いま試合しあいおおメディアからもちやほやされがちだが、有頂天うちょうてんになってはいけない」といましめる[1]
  • 審判しんぱんについて
きゅうだん昇段しょうだんさいに、「審判しんぱんいん必要ひつように「て」をぎで、(選手せんしゅたちに)もっと自由じゆう勝負しょうぶをさせるべきでは」と苦言くげんひっさげしていた[9]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 出生しゅっしょう佐原さわら佐倉さくらとしている文献ぶんけんがあるが[2]、これはあやまりで、まさしくはのちの印西いんざいまれ。2010ねんには同市どうしから名誉めいよ市民しみん受章じゅしょうしている[3]
  2. ^ ただし、生家せいかにあった田圃たんぼすうじゅう町歩ちょうぶ山林さんりん父親ちちおや指示しじのもとで3にん奉公人ほうこうにん実質じっしつてき管理かんりしていた[1]
  3. ^ 印旛沼いんばぬま水深すいしんあさいためいのちかかわるような事故じこではなく、このとき救助きゅうじょふねことなきをた。
  4. ^ ただし醍醐だいご実際じっさいは1925ねん12月26にちまれで、出生しゅっしょうとどけおくれたため戸籍こせきじょうは1926ねん1がつ2にちまれとされている。
  5. ^ このとき大沢おおさわおなじくきゅうだんとなったのは、羽鳥はとり輝久てるひさ宮川みやがわ善一ぜんいち醍醐だいご敏郎としお橋元はしもとちかしみなと庄市しょういち高嶋たかしま吉次郎きちじろう川村かわむら禎三ていぞう安部あべ一郎いちろう夏井なついのぼるきちの9めい[9]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj 宮崎みやざきあつし (2012ねん9がつ1にち). “講道館こうどうかん柔道じゅうどうじゅうだん物語ものがたり だい14かい -こんうしわかまるしょうされた 大澤おおさわけいおのれ-”. 機関きかん柔道じゅうどう(2012ねん9がつごう)、10-20ぺーじ (財団ざいだん法人ほうじん講道館こうどうかん) 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 村田むらた直樹なおき (2006ねん3がつ20日はつか). “しんじゅうだんく -スペシャルインタビュー(3) 大沢おおさわけいおのれ10だん-”. 近代きんだい柔道じゅうどう(2006ねん3がつごう)、38-39ぺーじ (スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ) 
  3. ^ 印西いんざい名誉めいよ市民しみん市民しみん栄誉えいよしょう市長しちょう特別とくべつしょう -名誉めいよ市民しみん 大澤おおさわ けい (おおさわ よしみ)-”. 印西いんざい公式こうしきページ (印西いんざい). (2017ねん5がつ16にち). http://www.city.inzai.lg.jp/0000006416.html 
  4. ^ a b c d e 木村きむら政彦まさひこ (2001ねん11月16にち). “木村きむら柔道じゅうどう復活ふっかつ”. わが柔道じゅうどう -グレイシー柔術じゅうじゅつたおしたおとこ、155ぺーじ (学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ) 
  5. ^ a b c d 山縣やまがた淳男あつお (1999ねん11月21にち). “大沢おおさわけいおのれ -おおさわよしみ”. 柔道じゅうどうだい事典じてん、66ぺーじ (アテネ書房しょぼう) 
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o くろだたけし (1980ねん5がつ20日はつか). “めい選手せんしゅものがたり7 8だん大澤おおさわけいおのれまき”. 近代きんだい柔道じゅうどう(1980ねん5がつごう)、57ぺーじ (スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ) 
  7. ^ 海外かいがい活躍かつやくされる先輩せんぱいたち(その2)”. 早稲田大学わせだだいがく柔道じゅうどう (2010ねん5がつ23にち). 2019ねん9がつ5にち閲覧えつらん
  8. ^ DVD激闘げきとうわだち -全日本ぜんにほん柔道じゅうどう選手権せんしゅけん大会たいかい60ねんあゆみ- (財団ざいだん法人ほうじん講道館こうどうかん財団ざいだん法人ほうじん全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい). (2010ねん4がつ29にち) 
  9. ^ a b c d 大沢おおさわけいおのれ (1992ねん6がつ1にち). “講道館こうどうかん創立そうりつひゃくじゅう周年しゅうねん記念きねんきゅうだん昇段しょうだんしゃおよびしんきゅうだんのことば”. 機関きかん柔道じゅうどう(1992ねん6がつごう)、42-44ぺーじ (財団ざいだん法人ほうじん講道館こうどうかん) 
  10. ^ 竹園たけぞの隆浩たかひろ (2006ねん3がつ7にち). “じゅうだん 柔道じゅうどう、12まんにん1人ひとり 22ねんぶり3にん”. 朝日新聞あさひしんぶん (朝日新聞社あさひしんぶんしゃ) 
  11. ^ 表彰ひょうしょうデータベース -スポーツ功労賞こうろうしょう-”. 早稲田大学わせだだいがく公式こうしきページ (早稲田大学わせだだいがく). https://www.waseda.jp/top/about/work/organizations/academic-affairs-division/honors-and-awards/data 
  12. ^ 訃報ふほう 大澤おおさわけいおのれじゅうだん』(HTML)(プレスリリース)講道館こうどうかん、2022ねん10がつ21にちhttp://kodokanjudoinstitute.org/news/2022/10/epost-289/2021ねん10がつ21にち閲覧えつらん 
  13. ^ 丸山まるやま三造みつぞう (2009ねん4がつ29にち). “木村きむら政彦まさひこ石川いしかわ隆彦たかひこが「異例いれい二人ふたり優勝ゆうしょう」”. 激闘げきとうわだち -全日本ぜんにほん柔道じゅうどう選手権せんしゅけん大会たいかい60ねんあゆみ-、28-29ぺーじ (財団ざいだん法人ほうじん講道館こうどうかん財団ざいだん法人ほうじん全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい) 
  14. ^ a b 丸山まるやま三造みつぞう (2009ねん4がつ29にち). “石川いしかわ隆彦たかひこ広瀬ひろせいわおって2連覇れんぱ”. 激闘げきとうわだち -全日本ぜんにほん柔道じゅうどう選手権せんしゅけん大会たいかい60ねんあゆみ-、30-31ぺーじ (財団ざいだん法人ほうじん講道館こうどうかん財団ざいだん法人ほうじん全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい) 
  15. ^ 丸山まるやま三造みつぞう (2009ねん4がつ29にち). “吉松よしまつ義彦よしひこ石川いしかわ隆彦たかひこやぶ念願ねんがんはつ栄冠えいかん”. 激闘げきとうわだち -全日本ぜんにほん柔道じゅうどう選手権せんしゅけん大会たいかい60ねんあゆみ-、34-35ぺーじ (財団ざいだん法人ほうじん講道館こうどうかん財団ざいだん法人ほうじん全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい) 
  16. ^ 菊池きくちよう (2009ねん4がつ29にち). “醍醐だいご敏郎としおが3ねんぶりに王座おうざかえき”. 激闘げきとうわだち -全日本ぜんにほん柔道じゅうどう選手権せんしゅけん大会たいかい60ねんあゆみ-、38-39ぺーじ (財団ざいだん法人ほうじん講道館こうどうかん財団ざいだん法人ほうじん全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい) 
  17. ^ 村田むらた直樹なおき. “柔道じゅうどう国際こくさい”. 日本武道館にほんぶどうかん. 2021ねん7がつ24にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]