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みや道弥みちやえき

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みや道弥みちやえき
時代じだい 平安へいあん時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん しょう
死没しぼつ しょう
墓所はかしょ 大宅おおたくてら境内けいだい
官位かんい したがえよん宮内みやうち大輔だいすけ
主君しゅくん 宇多天皇うだてんのう醍醐天皇だいごてんのう
氏族しぞく みやみち
みやみちれつみやみちきよしきょう[1]
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みやみち わたるえき(みやじ の いやます、なま没年ぼつねんしょう)は、平安へいあん時代じだい前期ぜんき貴族きぞくせい朝臣あそん官位かんいしたがえよん宮内みやうち大輔だいすけ醍醐天皇だいごてんのうそと祖父そふ

出自しゅつじ

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みやみちは、日本にっぽんたけたかしけんかいおう(『古事記こじき』)あるいはややたけおう(『先代せんだいきゅうこと本紀ほんぎ』)の裔、みやみちべつとされる。

愛知あいちけん豊川とよかわみやみち天神てんじんしゃには、けんかいおうみやみち宿禰すくねそく麿まろけんぬしとなり、その子孫しそんけんかいおうまつったのがみやどう天神てんじんしゃであるという伝承でんしょうがある[2]うけたまわ2ねん835ねん)には、山城やましろこく宇治うじぐん本拠地ほんきょちとする、みやみち宿禰すくね吉備きび麻呂まろみやみち宿禰すくね吉備きびつぎらが朝臣あそんせいたまわっている。

京都きょうと京都きょうと山科やましなみやみち神社じんじゃでは、みやみちである日本にっぽんたけたかしとそのややたけおうまつっている。

あるいは、みやみちは、けいぎょう天皇てんのうみやどうべつ皇子おうじ[3]とされるが詳細しょうさい不明ふめいである。戦後せんごの「蜷川にながわしょながれだい系図けいず」では「物部ものべ弓削ゆげみやどう守屋もりや」の9だいまごわたるえきとして[1]編纂へんさんされ、また、江戸えど時代じだいの『寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん』や『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』では物部ものべの裔[4][5]とのみあり詳細しょうさい不明ふめいである。

経歴けいれき

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清和せいわちょうさだかん4ねん862ねん薩摩守さつまのかみさだかん5ねん863ねん主計しゅけいすけ歴任れきにんしたのち漏刻ろうこく博士はかせ在職ざいしょくちゅうさだかん9ねん877ねんうちしたがえじょせられている。陽成ようぜいあさから光孝みつたかあさにかけて主計しゅけいあたまつとめる一方いっぽうで、越後えちごかい伊予いよけんかい兼帯けんたいし、このあいだもとけい6ねん882ねんしたがえじょう昇叙しょうじょされている。

むすめみやみちれつ藤原ふじわら高藤たかとうしつとなってもうけた藤原ふじわらたねもとけい8ねん884ねんごろ光孝みつたか天皇てんのうだい7皇子おうじみなもとじょうしょう結婚けっこんたねもとけい9ねん885ねん)に長男ちょうなんみなもと維城(のちあつしじん改名かいめい)をむ。仁和にわ3ねん887ねんみなもとじょうしょう即位そくい宇多天皇うだてんのう)したことからわたるえき昇進しょうしんし、時期じき不明ふめいながら位階いかいしたがえよんいたり、刑部おさかべ大輔だいすけ宮内みやうち大輔だいすけつとめたとされる。その寛平かんぺい9ねん897ねん)にあつしじん親王しんのう即位そくい醍醐天皇だいごてんのう)したため、わたるえき天皇てんのうそと曾祖父そうそふとなった。

寛平かんぺい10ねん898ねん)にみやみち祖神そしんである日本にっぽんたけたかしとそのであるややたけおうまつった神社じんじゃみやみち神社じんじゃ)が創設そうせつされた。寛平かんぺい8ねん896ねん)にぼっしたたね菩提ぼだいとむらうために、醍醐天皇だいごてんのういのちにより栗栖野くりすのにあったわたるえき邸宅ていたくてらあらためられ、高藤たかとう諡号しごうから勧修寺かんしゅうじ名付なづけられた[6][注釈ちゅうしゃく 1]

今昔こんじゃく物語ものがたりしゅうでの説話せつわ

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今昔こんじゃく物語ものがたりしゅうまき22「高藤たかとう内大臣ないだいじん だいなな」にはつぎのような高藤たかとうれつのロマンスがつたえられている。

鷹狩たかがり趣味しゅみであった高藤たかとうは、15、16さいとき鷹狩たかがりのため南山なんざんかい山城やましろこく宇治うじぐん現在げんざい京都きょうと山科やましな)にていた。にわかにあめはじめ、うま口取くちとりをしている舎人とねりとともにとおりかかったぐんだいりょうであるわたるえき屋敷やしき雨宿あまやどりをした。すすめられるままにわたるえきやしきに1はくした高藤たかとうわたるえきむすめれつ)に一目いちもくぼれして一夜いちやちぎりをむすんだ。
翌日よくじつ鷹狩たかがりからかえらぬ息子むすこ心配しんぱいしてっていた高藤たかとうちちりょうもん激怒げきどし、高藤たかとう今後こんご鷹狩たかがりくことをきびしくきんじた。また、道案内みちあんないをした舎人とねり田舎いなかかえってしまったため、高藤たかとうれつながらく音信いんしん不通ふつうになってしまった。それから6ねんきょうかえってきた舎人とねり案内あんないとともに高藤たかとうはようやくれつ再会さいかいする。再開さいかいしたれつにはむすめがいた。6ねんまえ高藤たかとうとの一夜いちやちぎりで宿やどしたであった。高藤たかとうれつあいだまれたひめくんたね)は宇多天皇うだてんのう女御にょうごとなり、のちまれた男子だんし2めい定国さだくに定方さだかた)もおおいに繁栄はんえいし、その祖父そふであるわたるえきよんににじょせられ、修理しゅうり大夫たいふとなった。

説話せつわなかでは、わたるえき宇治うじぐん大領だいりょうしたがえななじょう相当そうとう)としてしるされているが、郡司ぐんじとしての記録きろくはなくきょうかんとして漏刻ろうこく博士はかせなど任官にんかん記録きろくがあることから、まさしくは山科やましなほんぬきとするなか下級かきゅう貴族きぞくであったとかんがえられる[7][8]。また、交野かたの少将しょうしょう物語ものがたりでは、狩場かりばとして有名ゆうめい交野かたのぐんだいりょうとしてしるされている[7]

かんれき

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注記ちゅうきのないものは『日本にっぽんさんだい実録じつろく』にる。

系譜けいふ

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旧跡きゅうせき

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墓所はかしょ

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京都きょうと山科やましな大宅中小路おおやけなかこうじまちにある大宅おおたくてら(おおやけでら)の境内けいだいわたるえき夫妻ふさいはかつたわる2石塔せきとう存在そんざいする[13]大宅おおたくてら現在げんざい京都きょうと市立しりつ大宅おおたく中学校ちゅうがっこう場所ばしょにあった大宅おおたく廃寺はいじ後続こうぞくにあたるてらだとされている[13]

神社じんじゃ

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わたるえき祭神さいじんとしてまつ神社じんじゃ存在そんざいする。

  • みやみち神社じんじゃ - 勸修寺かんしゅうじ南側みなみがわにある神社じんじゃみやみち祖神そしんとされる日本にっぽんたけたかしとそのであるまさたけしおうとともにまつられている。

参考さんこう文献ぶんけん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ また、一説いっせつではたね生前せいぜん創設そうせつしたというせつてら創設そうせつかんがえていたたね意思いしいで醍醐天皇だいごてんのう創設そうせつされたというせつもある[6]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 蜷川にながわこう編纂へんさん委員いいんかいへん蜷川にながわ郷土きょうど所収しょしゅう蜷川にながわしょながれだい系図けいず」(蜷川にながわこう自治じち振興しんこうかい、1968ねん
  2. ^ みやどう天神てんじんしゃ[1]」『ようこそ豊川とよかわへ』豊川とよかわ観光かんこう協会きょうかい
  3. ^ 音羽おとわ商工会しょうこうかいみやどう天神てんじんしゃ[2]
  4. ^ 寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん
  5. ^ 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか
  6. ^ a b 勧修寺かんしゅうじ | やましなさん - 京都きょうと山科やましな子育こそだ世代せだい応援おうえんサイト - 2020ねんれい2ねん)10がつ27にち閲覧えつらん
  7. ^ a b 後藤ごとう昭雄あきお交野かたの少将しょうしょう物語ものがたりについてのいち試論しろんぶん研究けんきゅう25ごう p.37、九州大学きゅうしゅうだいがく国語こくご国文こくぶん学会がっかい、1968ねん昭和しょうわ43ねん
  8. ^ 池上いけがみまこといち説話せつわ虚構きょこう虚構きょこう説話せつわ日本にっぽん文学ぶんがく35かん2ごう p.64 - 65、1986ねん昭和しょうわ61ねん
  9. ^ 国司こくし補任ほにん
  10. ^ かんれい
  11. ^ たから[1986: 668]
  12. ^ みやみち蜷川にながわ家正いえまさ系図けいず」(太田おおた[1963: 5944])
  13. ^ a b みや道弥みちやえき夫妻ふさい - 平安へいあん時代じだいきの京都きょうと旅行りょこう - 2020ねんれい2ねん)10がつ27にち閲覧えつらん