(Translated by https://www.hiragana.jp/)
小林仁 (海軍軍人) - Wikipedia コンテンツにスキップ

小林こばやしひとし (海軍かいぐん軍人ぐんじん)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
小林こばやしこばやし ひとしまさし
生誕せいたん 1890ねん6月18にち
日本の旗 日本にっぽん山形やまがたけん
死没しぼつ (1977-08-07) 1977ねん8がつ7にち(87さいぼつ
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
ぐんれき 1911ねん - 1944ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん中将ちゅうじょう
墓所はかしょ 米沢よねざわよしたててら
テンプレートを表示ひょうじ

小林こばやし ひとし(こばやし まさし[1]1890ねん明治めいじ23ねん6月18にち - 1977ねん昭和しょうわ52ねん8がつ7にち)は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん海兵かいへい38うみだい21最終さいしゅう階級かいきゅう海軍かいぐん中将ちゅうじょう山形やまがたけん米沢よねざわ出身しゅっしん山形やまがた県立けんりつ米沢よねざわ中学校ちゅうがっこう海軍兵学校かいぐんへいがっこう38卒業そつぎょう条約じょうやく一人ひとり[2]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

海軍かいぐん士官しかんとなる[編集へんしゅう]

きゅう米沢よねざわはん農家のうかまれる。山下やました源太郎げんたろう黒井くろい悌次ていじろう南雲なぐも忠一ただかず同郷どうきょう先輩せんぱい同様どうように、米沢よねざわ中学ちゅうがくより海軍兵学校かいぐんへいがっこうすすむ。米沢よねざわ海軍かいぐん武官ぶかんかい会員かいいん

海兵かいへい38での卒業そつぎょう席次せきじは149めい[3]ちゅう4[4]海兵かいへい38恩賜おんし短剣たんけん拝受はいじゅしたのは首席しゅせき次席じせきの2めいのみであったため、恩賜おんしのが[注釈ちゅうしゃく 1][3]海兵かいへい38は、戸塚とつか道太郎みちたろう栗田くりた健男たけお福田ふくだ良三りょうぞう杉山すぎやま六蔵ろくぞう三川みかわ軍一ぐんいちふじ存知ぞんちら、太平洋戦争たいへいようせんそう司令しれい長官ちょうかん司令しれいかん輩出はいしゅつしたクラスである。

1916ねん海軍かいぐんだい学校がっこう専修せんしゅう学生がくせい卒業そつぎょう[1]。いわゆる「航海こうかい」となる。敷設ふせつかんかつつとむ航海こうかいちょう海防かいぼうかん秋津あきつしゅう航海こうかいちょうだいさん艦隊かんたい参謀さんぼう歴任れきにん[1]1923ねん海軍かいぐんだい学校がっこう甲種こうしゅ学生がくせい卒業そつぎょう(21[1]

横須賀よこすか鎮守ちんじゅ海軍かいぐんしょう軍務ぐんむきょくだい1勤務きんむ)、かわよう砲艦ほうかん比良びら艦長かんちょう出仕しゅっし軍令ぐんれいだい1はんだい1勤務きんむ)、アメリカ駐在ちゅうざいジョンズ・ホプキンズ大学だいがくまなぶ)、アメリカ大使館あめりかたいしかん武官ぶかん補佐ほさかん歴任れきにんして、1927ねん12月に海軍かいぐん中佐ちゅうさ進級しんきゅうし、1928ねん4がつ帰朝きちょうめいじられる[1]潜水せんすい母艦ぼかんちょうくじら副長ふくちょう出仕しゅっし海軍かいぐんしょう人事じんじきょくだい1勤務きんむ)、海軍かいぐんしょう人事じんじきょくだい1局員きょくいん出仕しゅっし海軍かいぐんしょう軍務ぐんむきょくだい1勤務きんむ)を歴任れきにんして、1931ねん12月に海軍かいぐん大佐たいさ進級しんきゅう[1]ジュネーブ軍縮ぐんしゅく会議かいぎ随員ずいいんアメリカ大使館あめりかたいしかん武官ぶかん海軍かいぐん軍令ぐんれいだい3だい5課長かちょう戦艦せんかん山城やましろ艦長かんちょう歴任れきにん[1]

ささえ事変じへん[編集へんしゅう]

ささえ事変じへん増援ぞうえん部隊ぶたいとして1937ねん10がつ20日はつかだいよん艦隊かんたい急遽きゅうきょ編成へんせいされると、初代しょだい参謀さんぼうちょうとなる。同年どうねん12がつ1にち海軍かいぐん少将しょうしょう進級しんきゅう

帰国きこく、1ねん2ヶ月かげつあいだ佐世保させぼ鎮守ちんじゅ参謀さんぼうちょうつとめたが、1939ねん11月にかんこう方面ほうめん特別とくべつ根拠地こんきょちたい司令しれいかんとなり、ふたた大陸たいりくた。翌年よくねんにも上海しゃんはい特別とくべつ根拠地こんきょちたい司令しれいかんへスライド。1941ねん5月に帰国きこくするまで大陸たいりく方面ほうめんでの陸戦りくせん揚子江ようすこう警備けいび指揮しきした。小林こばやしひととなりをいいあらわすときに「もうしょう」とびならわすことがおおいが、その評価ひょうか大佐たいさ時代じだいから少将しょうしょう時代じだいにかけての中国ちゅうごく大陸たいりくでの活躍かつやく確立かくりつされたといえる。ぎゃくに、太平洋戦争たいへいようせんそうなかには実戦じっせん経験けいけんするしょくからはなれていた。

太平洋戦争たいへいようせんそう[編集へんしゅう]

開戦かいせん半年はんとしまえの1941ねん6がつ水路すいろちょうとなる。10月の定期ていき昇進しょうしん中将ちゅうじょう昇進しょうしん水路すいろ部長ぶちょう少将しょうしょう職分しょくぶんであるため、地位ちい後任こうにんゆずって大阪おおさか警備けいび司令しれい長官ちょうかんとなる。軍需ぐんじゅ物資ぶっし生産せいさん大量たいりょう人員じんいん徴集ちょうしゅう東京とうきょう-神戸こうべあいだ航路こうろ確保かくほと、事務じむ処理しょりわれるとなる。この警備けいび長官ちょうかん時代じだい1943ねん3がつまでつづくが、このあいだ戦局せんきょく逆転ぎゃくてんしており、もうしょうでもある小林こばやしにとっては不満ふまん鬱積うっせきしていた時期じきでもあった。

1943ねん4がつ小林こばやし待望たいぼう最前線さいぜんせん勤務きんむめいぜられ、うち南洋なんよう防衛ぼうえい主力しゅりょくであるだいよん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんとなった。小林こばやしトラック環礁かんしょうすすみ、連合れんごうぐん機動きどう部隊ぶたいによるギルバート諸島しょとうマーシャル諸島しょとうへの警戒けいかいつよめた。就任しゅうにんあいだもない新参しんざん長官ちょうかんでありながら、歴戦れきせん近藤こんどうしんちくだい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん小松こまつ輝久てるひさだいろく艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん連名れんめいで、着任ちゃくにんあいだもない古賀こがみねいち連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんに「うち南洋なんよう作戦さくせんおよび防備ぼうび」の意見いけん具申ぐしんおこなっている。

このように意気込いきごみはつよかったが、1943ねん11月にマキンのたたかタラワのたたか両島りょうしま失陥しっかん、6かいおよギルバート諸島しょとうおき航空こうくうせん空振からぶりにわると、采配さいはいにぶりだす。急遽きゅうきょ増強ぞうきょうはかったマーシャル諸島しょとう防衛ぼうえい軌道きどうらないうちにクェゼリンのたたかはじまってしまい、1944ねん2がつ陥落かんらく潜水艦せんすいかん停泊ていはくとマーシャル諸島しょとう最大さいだいルオットとう飛行場ひこうじょう一挙いっきょうしなった。

うち南洋なんよう一大いちだい拠点きょてんであり“日本にっぽん真珠湾しんじゅわん”ともばれたトラック環礁かんしょうへの攻撃こうげき間近まぢかせまなか、2がつ10日とおか連合れんごう艦隊かんたい司令しれいパラオ諸島しょとう後送こうそうする。トラックではてき航空こうくうたい迎撃げいげき体制たいせいととのえたが、小林こばやしはなぜか16-17にち警戒けいかいゆるめさせた。べいぐんだい58任務にんむ部隊ぶたい襲来しゅうらいは、たまたまこの小林こばやし采配さいはいミスとかさなってしまい、17にち成功せいこうおさめた。地上ちじょう施設しせつ破壊はかいされて基地きち機能きのう喪失そうしつしたのみならず、残存ざんそんした商船しょうせんはことごとく撃沈げきちんされ、沈船のために泊地はくちとしての機能きのう完全かんぜんうしなわれた(トラックとう空襲くうしゅう)。海軍かいぐんではこの空襲くうしゅう小林こばやし判断はんだんミスによる被害ひがいとみなし、「海軍かいぐんひのと事件じけん」としょうして小林こばやし弾劾だんがいった。この失態しったい責任せきにんわれ、空襲くうしゅうの2にちだいよん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん更迭こうてつされ、5月30にち待命たいめい、その翌日よくじつ31にち予備よびやく編入へんにゅうというかたち海軍かいぐん追放ついほうされた。

戦後せんご[編集へんしゅう]

小林こばやし悲運ひうん終戦しゅうせん直後ちょくごにもおとずれた。1943ねん10がつだいよん艦隊かんたい管区かんくウェークとう捕虜ほりょ虐殺ぎゃくさつおこなわれた事実じじつ発覚はっかくしたためである。空襲くうしゅうかんほう射撃しゃげきけたウェークとうでは、上陸じょうりくせん間近まぢか判断はんだんし、酒井さかいはら繁松しげまつだい65警備けいびたい司令しれい捕虜ほりょ100めい銃殺じゅうさつ実行じっこうしたものである。酒井さかいげん司令しれい戦犯せんぱんとして死刑しけい判決はんけつけ、1947ねん処刑しょけいされたが、酒井さかいげん上官じょうかんとして小林こばやし監督かんとく責任せきにんわれることとなった。判決はんけつもとづき、講和こうわ条約じょうやく成立せいりつによるかり出所しゅっしょまで、小林こばやし巣鴨すがも拘置こうちしょ収監しゅうかんされた。

戦後せんご海上かいじょう自衛隊じえいたい幹部学校かんぶがっこう教官きょうかんつとめた竹下たけした高見たかみが、トラックとう空襲くうしゅうについてのセッションで、事前じぜん警戒けいかい不備ふび問題もんだいについてつぎのような証言しょうげんをしている。

竹下たけした:(前略ぜんりゃく)トラックとか、テニアンとか、サイパンあたりは、意識いしき問題もんだいもあるとおもうんですね。同時どうじにやっぱり、さっきいったように防備ぼうび施設しせつというようなものは、中央ちゅうおう問題もんだいもあるとおもうんです。

 わたしは、戦史せんしにおりますときに、小林こばやし中将ちゅうじょうかいほどなんとかきだそうとおもいまして、おはなしうかがいましたけれども、トラック空襲くうしゅうについては一言ひとこともしゃべられませんでした。そのことから『太平洋たいへいよう方面ほうめん海戦かいせん[注釈ちゅうしゃく 2]なかでは「専任せんにん防空ぼうくう戦闘せんとうたい不在ふざい所在しょざい航空機こうくうき部隊ぶたい明確めいかく指揮しき関係かんけい多数たすう商船しょうせんたいざいはくなど、むしろ連合れんごう艦隊かんたい司令しれいあるいは大本営だいほんえい海軍かいぐん事前じぜん適切てきせつ処置しょちすべき問題もんだいおおかったようにおもわれる。」という表現ひょうげんになったわけです。(笑) — 「太平洋たいへいよう戦史せんし研究けんきゅう部会ぶかい報告ほうこくだい3かいセッション トラック空襲くうしゅう(その1)」『太平洋たいへいよう学会がっかい』1987ねん4がつP56 

1977ねん8がつ7にち死去しきょ享年きょうねん87。

栄典えいてん[編集へんしゅう]

勲章くんしょう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 海兵かいへい優等ゆうとう卒業そつぎょうしゃへの恩賜おんしひん短剣たんけんになったのは、小林こばやしぞくする38からである[3]
  2. ^ ちゅう:『世界せかい海戦かいせん概説がいせつだいよんかんないの「太平洋たいへいよう方面ほうめん海戦かいせん」のこと。幹部かんぶ学校がっこう依頼いらいにより竹下たけした執筆しっぴつした。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g はた 2005, p. 207, だい1 主要しゅよう陸海りくかい軍人ぐんじん履歴りれき-海軍かいぐん-佐藤さとうひとし
  2. ^ はたいく昭和しょうわ縦走じゅうそうする』p.65
  3. ^ a b c はた 2005, pp. 269–288, だい1 主要しゅよう陸海りくかい軍人ぐんじん履歴りれき-べつ索引さくいん
  4. ^ はた 2005, pp. 269–288, だい1 主要しゅよう陸海りくかい軍人ぐんじん履歴りれき-べつ索引さくいん
  5. ^ 官報かんぽうだい4506ごう叙任じょにん及辞れい」1942ねん1がつ19にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]