心理 しんり 学 がく の歴史 れきし (しんりがくのれきし)とは、心理 しんり 学 がく という学問 がくもん が生 う まれ辿 たど ってきた歴史 れきし のことである。心理 しんり 学 がく の起源 きげん は古代 こだい ギリシア の時代 じだい に遡 さかのぼ ることができ、また、古代 こだい エジプト に心理 しんり 学 がく 的 てき な思索 しさく 活動 かつどう の証拠 しょうこ が残 のこ されている。また、近代 きんだい の心理 しんり 学 がく が哲学 てつがく から独立 どくりつ して一 ひと つの学問 がくもん として成立 せいりつ したのは、1879年 ねん にドイツ の心理 しんり 学者 がくしゃ ヴィルヘルム・ヴント がライプツィヒ大学 だいがく に心理 しんり 学 がく 実験 じっけん 室 しつ を開 ひら き、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく でも心理 しんり 学 がく の研究 けんきゅう が始 はじ まった1870年代 ねんだい という見解 けんかい が一般 いっぱん 的 てき である。心理 しんり 学 がく が境 さかい を接 せっ する様々 さまざま な領域 りょういき として、生理学 せいりがく 、神経 しんけい 科学 かがく 、人工 じんこう 知能 ちのう 、社会 しゃかい 学 がく 、人類 じんるい 学 がく 、さらに哲学 てつがく やその他 た の人間 にんげん 的 てき 活動 かつどう がある。
今日 きょう では、心理 しんり 学 がく は概 がい して「行動 こうどう と心理 しんり 作用 さよう の研究 けんきゅう 」と定義 ていぎ される。精神 せいしん と行動 こうどう に対 たい する哲学 てつがく 的 てき 関心 かんしん はエジプト 、ギリシア 、中国 ちゅうごく 、インド に遡 さかのぼ る,
自覚 じかく 的 てき な実験 じっけん 研究 けんきゅう 領域 りょういき としての心理 しんり 学 がく は1879年 ねん 、ヴィルヘルム・ヴント が初 はつ の心理 しんり 学 がく 的 てき 研究 けんきゅう を専門 せんもん とする研究 けんきゅう 室 しつ をライプツィヒ に創立 そうりつ したことに始 はじ まる。ヴントは自身 じしん を心理 しんり 学者 がくしゃ と呼 よ び心理 しんり 学 がく の教科書 きょうかしょ (『生理学 せいりがく 的 てき 心理 しんり 学 がく 綱要 こうよう 』)を出版 しゅっぱん した初 はつ の人物 じんぶつ でもある。他 た に初期 しょき の心理 しんり 学 がく に貢献 こうけん した人物 じんぶつ としては、ヘルマン・エビングハウス (記憶 きおく の研究 けんきゅう の草分 くさわ け)、ウィリアム・ジェームズ (アメリカのプラグマティズム の父 ちち )、イヴァン・パブロフ (古典 こてん 的 てき 条件 じょうけん づけ に関 かん する過程 かてい を研究 けんきゅう した)などがいる。
実験 じっけん 心理 しんり 学 がく が発展 はってん したすぐ後 ご に、様々 さまざま な種類 しゅるい の応用 おうよう 心理 しんり 学 がく が現 あらわ れた。グランヴィル・スタンレー・ホール は1880年代 ねんだい 前半 ぜんはん にドイツからアメリカに科学 かがく 的 てき 教育 きょういく 学 がく をもたらした。他 た の例 れい として1890年代 ねんだい のジョン・デューイ による教育 きょういく 理論 りろん がある。同 おな じく1890年代 ねんだい に、ヒューゴー・ミュンスターバーグ が心理 しんり 学 がく の産業 さんぎょう ・法 ほう その他 た の領域 りょういき への応用 おうよう に関 かん する著作 ちょさく 活動 かつどう を始 はじ めた。ライトナー・ウィトマー は1890年代 ねんだい に初 はつ の心理 しんり 学 がく クリニックを設立 せつりつ した。ジェームズ・キャッテル はフランシス・ゴルトン の人体 じんたい 測定 そくてい 学 がく 的 てき 手法 しゅほう を取 と り入 い れて、1890年代 ねんだい に初 はつ の心理 しんり 検査 けんさ 法 ほう を生 う み出 だ した。そのころウィーン では、ジークムント・フロイト が、精神 せいしん 分析 ぶんせき と呼 よ ばれる、心 しん に対 たい する独立 どくりつ した研究 けんきゅう 法 ほう を発達 はったつ させ、これが非常 ひじょう に大 おお きな影響 えいきょう を及 およ ぼすことになる。
20世紀 せいき にはヴントの経験 けいけん 主義 しゅぎ に対 たい するエドワード・ティチェナー の批判 ひはん への反動 はんどう が起 お こった。この反動 はんどう の影響 えいきょう で形成 けいせい されたジョン・ブローダス・ワトソン の行動 こうどう 主義 しゅぎ はバラス・フレデリック・スキナー によって広 ひろ められた。行動 こうどう 主義 しゅぎ は心理 しんり 学 がく の研究 けんきゅう 対象 たいしょう を、定量 ていりょう 的 てき に容易 ようい に測定 そくてい できる明 あき らかな行動 こうどう のみに限定 げんてい することを提案 ていあん した。行動 こうどう 主義 しゅぎ 者 しゃ は、「心 しん 」の知識 ちしき は科学 かがく 的 てき に得 え るには形而上学 けいじじょうがく 的 てき すぎると考 かんが える。20世紀 せいき 最後 さいご の10年 ねん には行動 こうどう 主義 しゅぎ の衰退 すいたい と認知 にんち 科学 かがく ―人間 にんげん の心 しん の研究 けんきゅう に対 たい する学際 がくさい 的 てき アプローチ―の興隆 こうりゅう が起 お こった。認知 にんち 科学 かがく は「心 しん 」を再 ふたた び研究 けんきゅう の主題 しゅだい とみなし、進化 しんか 心理 しんり 学 がく ・言語 げんご 学 がく ・計算 けいさん 機 き 科学 かがく ・哲学 てつがく ・行動 こうどう 主義 しゅぎ ・神経 しんけい 生物 せいぶつ 学 がく といった道具 どうぐ を用 もち いる。このタイプの研究 けんきゅう によって、人間 にんげん 精神 せいしん の広範 こうはん な理解 りかい は可能 かのう でありそうした理解 りかい が人工 じんこう 知能 ちのう のような他 ほか の研究 けんきゅう 領域 りょういき に応用 おうよう できると提議 ていぎ された。
前 ぜん 近代 きんだい の心理 しんり 学 がく 的 てき 思想 しそう [ 編集 へんしゅう ]
古今 ここん の多 おお くの文化 ぶんか で心 しん ・魂 たましい ・精神 せいしん 等々 とうとう に関 かん する思索 しさく が行 おこな われた。例 たと えば古代 こだい エジプトでは、エドウィン・スミス・パピルス に脳 のう に関 かん する初期 しょき の記述 きじゅつ や脳 のう の機能 きのう に関 かん するいくらかの思索 しさく が含 ふく まれている(が内科 ないか 的 てき あるいは外科 げか 的 てき な文脈 ぶんみゃく においてのものである)。他 た の古代 こだい の医学 いがく 的 てき 文書 ぶんしょ が病 やまい をもたらす悪魔 あくま の退散 たいさん のまじない・祈願 きがん やその他 た の迷信 めいしん で満 み たされているのに対 たい して、エドウィン・スミス・パピルスに含 ふく まれるほぼ50の病態 びょうたい に関 かん する療法 りょうほう の内 うち 一 ひと つだけが悪 あく 魔 ま よけのまじないである。このためエドウィン・スミス・パピルスは今日 きょう 常識 じょうしき とみなされているものと同様 どうよう のものとして称揚 しょうよう されているが、それが全 まった く異 こと なる文脈 ぶんみゃく に起源 きげん することを忘 わす れてはならない。
アリストテレス
タレス(紀元前 きげんぜん 550年 ねん 頃 ごろ 活躍 かつやく )からローマ時代 じだい まで、古代 こだい ギリシア哲学 てつがく 者 しゃ たちは、彼 かれ らが「プシュケー」(psychologyという言葉 ことば の前 ぜん 半分 はんぶん はこれに由来 ゆらい する)と呼 よ ぶものやその他 た の「心理 しんり 学的 がくてき 」述語 じゅつご ―「ヌース」、「トゥモス」、「ロギスティコン」等々 とうとう ―に関 かん する精緻 せいち な理論 りろん を発達 はったつ させた[ 1] 。中 なか でも最 もっと も影響 えいきょう 力 りょく が高 たか いのはプラトン(特 とく に『国家 こっか 』)[ 2] 、ピタゴラス とアリストテレス (特 とく に『霊魂 れいこん 論 ろん 』)による説明 せつめい である[ 3] 。ヘレニズム哲学 てつがく 者 もの (すなわち、ストア派 は やエピクロス派 は )達 たち は古典 こてん 時代 じだい のギリシア諸 しょ 学派 がくは とはいくつかの重要 じゅうよう な点 てん で区別 くべつ される。特 とく に、ヘレニズム哲学 てつがく 者 しゃ たちは心 しん の生理学 せいりがく 的 てき 基盤 きばん に関 かん する問題 もんだい に関心 かんしん を抱 だ いた点 てん で異 こと なる[ 4] 。ローマ時代 じだい の医師 いし ガレノス はこういった問題 もんだい を最 もっと も精緻 せいち に説明 せつめい し、以後 いご の全 すべ ての人々 ひとびと に影響 えいきょう を与 あた えた。こうしたギリシア哲学 てつがく がキリスト教 きりすときょう やイスラーム の心 しん 論 ろん に影響 えいきょう した。
ユダヤ・キリスト教 きりすときょう の流 なが れでは、集団 しゅうだん 規定 きてい (死 し 海 うみ 文書 ぶんしょ 以降 いこう 、紀元前 きげんぜん 21年 ねん 頃 ごろ -61年 ねん )に人間 にんげん の本性 ほんしょう を二 ふた つの性質 せいしつ に区別 くべつ することが言及 げんきゅう されている。
アジアでは、中国 ちゅうごく が教育 きょういく システムの一環 いっかん としての能力 のうりょく 試験 しけん を管理 かんり した長 なが い歴史 れきし を有 ゆう する。6世紀 せいき に、Lin Xieが初期 しょき の試験 しけん を実行 じっこう し、試験 しけん において(明 あき らかに人 ひと の気 き の散 ち ることに対 たい する弱 よわ さをテストするために)片手 かたて で四角 よつかど を描 えが いてもう一方 いっぽう の手 て で丸 まる を描 えが くように要求 ようきゅう した。これは最初 さいしょ の心理 しんり 学 がく 実験 じっけん であり、ゆえに実験 じっけん 科学 かがく としての心理 しんり 学 がく の始 はじ まりであると主張 しゅちょう した者 もの もいる。
インドもまた、ヴェーダーンタ 哲学 てつがく の著作 ちょさく にみられるように「自己 じこ 」に関 かん する精緻 せいち な理論 りろん を持 も つ[ 5] 。
中世 ちゅうせい のイスラーム医学 いがく 者 もの も様々 さまざま な「心 しん の病 やまい 」に悩 なや む患者 かんじゃ を治療 ちりょう する臨床 りんしょう 的 てき な技術 ぎじゅつ を発展 はってん させた[ 6] 。
アブー・ザイド・アーメド・イブン・サール・バルキ (850年 ねん –934年 ねん )はその流 なが れの中 なか でも最初 さいしょ 期 き に位置 いち し、心身 しんしん 両面 りょうめん の病 やまい について論 ろん じて、「ナフス(プシュケー)」が病 やまい を得 え ると、肉体 にくたい も生活 せいかつ の中 なか で快 こころよ を失 うしな い、最終 さいしゅう 的 てき に肉体 にくたい の病 やまい に至 いた る[ 7] 」と主張 しゅちょう した。アル・バルキは、肉体 にくたい も魂 たましい も健康 けんこう であったり病 や んだり、い換 いか えれば「バランスを保 たも っていたりバランスが崩 くず れたり」することができると認識 にんしき していた。肉体 にくたい のバランスが崩 くず れると発熱 はつねつ 、頭痛 ずつう 、その他 た の肉体 にくたい 的 てき 症状 しょうじょう を発 はっ し、一方 いっぽう 魂 たましい のバランスが崩 くず れると憤怒 ふんぬ 、不安 ふあん 、悲嘆 ひたん 、その他 た の「ナフス」に関係 かんけい する症状 しょうじょう を発 はっ すると彼 かれ は書 か いている。今日 きょう 我々 われわれ が鬱 うつ 病 びょう と呼 よ ぶようなものには二 に 種類 しゅるい あると彼 かれ は認識 にんしき していた: 一方 いっぽう は喪失 そうしつ や故障 こしょう といったわかる理由 りゆう によって起 お こり、心理 しんり 学 がく 的 てき に治療 ちりょう できる; そしてもう一方 いっぽう はおそらく生理学 せいりがく 的 てき 原因 げんいん によるよくわからない理由 りゆう によって起 お こり、物理 ぶつり 療法 りょうほう によって治療 ちりょう できる[ 7] 。
学者 がくしゃ イブン・アル・ハイサム (アルハゼン)は、様々 さまざま な種類 しゅるい の感受性 かんじゅせい 、触覚 しょっかく 的 てき 知覚 ちかく 、色 いろ の認識 にんしき 、明暗 めいあん の認識 にんしき 、月 つき の錯視 さくし の心理 しんり 学 がく 的 てき 説明 せつめい 、両 りょう 眼 め 視 し といった、視覚 しかく 認識 にんしき やその他 た の知覚 ちかく に関 かん する実験 じっけん を行 おこな った[ 8] 。アル・ビールーニー も反応 はんのう 時間 じかん の試験 しけん にこういった実験 じっけん 手法 しゅほう を用 もち いた[ 9] 。
イブン・スィーナー
イブン・スィーナー もまた同様 どうよう に、初期 しょき の研究 けんきゅう でナフスに関係 かんけい する病 やまい を取 と り扱 あつか い、内的 ないてき 感覚 かんかく に連動 れんどう した心拍 しんぱく 数 すう の変化 へんか を説明 せつめい する体系 たいけい を発展 はってん させた。また、今日 きょう では精神 せいしん 神経 しんけい 疾患 しっかん として扱 あつか われている現象 げんしょう についてもイブン・スィーナーは書 か いているが、具体 ぐたい 的 てき には、幻覚 げんかく 、不眠症 ふみんしょう 、躁病 そうびょう 、悪夢 あくむ 、憂鬱 ゆううつ 、認知 にんち 症 しょう 、てんかん 、麻痺 まひ 、脳 のう 梗塞 こうそく 、空間 くうかん 識失調 しっちょう 、震 ふるえ 顫 などがある[ 10] 。
心理 しんり 学 がく に関係 かんけい する話題 わだい を扱 あつか った他 ほか の医学 いがく 思想家 しそうか は以下 いか :
アブー・メルワーン・アブダル=マリク・イブン・ズール (アヴェンゾアル)は今日 きょう で言 い うところの今日 きょう の髄 ずい 膜 まく 炎 えん 、血栓 けっせん 静脈 じょうみゃく 炎 えん 、縦 たて 隔 へだた 胚 はい 細胞 さいぼう 腫瘍 しゅよう と同 おな じ病 びょう について著述 ちょじゅつ した; イブン・ルシュド は網膜 もうまく に光 ひかり 受容 じゅよう 性 せい があると考 かんが えた; そしてモーシェ・ベン・マイモーン は狂犬病 きょうけんびょう やベラドンナ 中毒 ちゅうどく について著述 ちょじゅつ した[ 14] 。
ウィテロ は知覚 ちかく 心理 しんり 学 がく の先駆 せんく 者 しゃ とされる。彼 かれ の言 い う「ペルスペクティヴァ」(羅 ら : Perspectiva )には心理 しんり 学 がく 的 てき 要素 ようそ が多 おお く含 ふく まれ、近代 きんだい の観念 かんねん 連合 れんごう や潜在 せんざい 意識 いしき に関 かん する思想 しそう に近 ちか いものを形作 かたちづく っている。
古代 こだい 人 じん の著作 ちょさく の多 おお くが失 うしな われていただろう、もし知恵 ちえ の館 かん や知識 ちしき の館 かん その他 た の施設 しせつ でのキリスト教徒 きりすときょうと ・ユダヤ人 じん ・ペルシア人 じん の努力 どりょく がなければ。後 のち に、12世紀 せいき に彼 かれ らの作成 さくせい した辞典 じてん や注釈 ちゅうしゃく 書 しょ がラテン語 らてんご に訳 やく された。しかしながら、これらの文献 ぶんけん がルネサンス 期 き に最初 さいしょ どのようにして用 もち いられるようになったのかは明確 めいかく にはなっておらず、後 のち に心理 しんり 学 がく として起 お こってくるものに対 たい するこれらの文献 ぶんけん の影響 えいきょう が学問 がくもん 的 てき 議題 ぎだい となっている[ 17] 。
心理 しんり 学 がく (羅 ら :Psychologia)という術語 じゅつご の最初 さいしょ の使用 しよう は、1590年 ねん にマールブルク で『人間 にんげん 学 がく 的 てき 心理 しんり 学 がく 』(羅 ら :Psychologia hoc est de hominis perfectione, anima, ortu)を発表 はっぴょう したドイツ のスコラ哲学 すこらてつがく 者 もの ルドルフ・ゲッケル(1547年 ねん -1628年 ねん 、ラテン語 らてんご 化 か されたルドルフス・ゴクレニウス の名 な でよく知 し られる)にしばしば帰 き される。しかし、この述語 じゅつご はさらに60年 ねん 以上 いじょう 前 まえ にクロアチア の人文 じんぶん 主義 しゅぎ 者 もの マルコ・マルリッチ (1450年 ねん -1524年 ねん )のラテン語 らてんご の論文 ろんぶん の題名 だいめい 『人間 にんげん 性 せい 的 てき 理性 りせい 心理 しんり 学 がく 』(羅 ら :Psichiologia de ratione animae humanae)で用 もち いられている。この論文 ろんぶん 自体 じたい は現存 げんそん していないが、その題名 だいめい はマルリッチより若 わか い同 どう 時代 じだい 人 じん フラニョ・ボジチェヴィッチ・ナタリス の『スプリトのマルコ・マルリッチの生涯 しょうがい 』(羅 ら :Vita Marci Maruli Spalatensis, Krstić, 1964)に含 ふく まれるマルリッチの著作 ちょさく 一覧 いちらん に現 あらわ れる。とはいえ当然 とうぜん のことながら、これがまさしく最初 さいしょ の使用 しよう というわけではない。ただ、目下 もっか のところ文献 ぶんけん で証明 しょうめい できる限 かぎ りでは最 もっと も早 はや い使用 しよう ではある。
しかし心理 しんり 学 がく という術語 じゅつご が一般 いっぱん 的 てき となったのは、ドイツの観念論 かんねんろん 哲学 てつがく 者 しゃ クリスティアン・ヴォルフが著書 ちょしょ 『経験 けいけん 的 てき 心理 しんり 学 がく 』(1732年 ねん )と『合理 ごうり 的 てき 心理 しんり 学 がく 』(1734年 ねん )で用 もち いて以降 いこう である。この、経験 けいけん 的 てき 心理 しんり 学 がく と合理 ごうり 的 てき 心理 しんり 学 がく という区別 くべつ は、ドゥニ・ディドロ (1713年 ねん -1780年 ねん )に『百科全書 ひゃっかぜんしょ 』(1751年 ねん -1784年 ねん )に取 と り上 あ げられ、フランス でフランソワ=ピエール=ゴンティエ・メーヌ・ド・ビラン によって広 ひろ められた。イングランドでは、「心理 しんり 学 がく 」という術語 じゅつご は19世紀 せいき 半 なか ばには、特 とく にウィリアム・ハミルトン卿 きょう (1788年 ねん -1856年 ねん )の著作 ちょさく によって「心 しん の哲学 てつがく 」を上回 うわまわ って一般 いっぱん 的 てき となった(see Danziger, 1997, chap. 3)。
啓蒙 けいもう 時代 じだい の心理 しんり 学 がく 的 てき 思想 しそう [ 編集 へんしゅう ]
初期 しょき の心理 しんり 学 がく は(キリスト教 きょう 的 てき な意味 いみ での)魂 たましい の研究 けんきゅう として扱 あつか われた[ 18] 。近代 きんだい 哲学 てつがく 的 てき な形 かたち の心理 しんり 学 がく はルネ・デカルト (1596年 ねん -1650年 ねん )の著作 ちょさく や、彼 かれ が生 う み出 だ しそのうち最 もっと も関連 かんれん 性 せい のあるものは彼 かれ の『省察 せいさつ 』(1641年 ねん )に対 たい する反論 はんろん として発表 はっぴょう された議論 ぎろん の影響 えいきょう を強 つよ く受 う けている。後 ご の心理 しんり 学 がく の発展 はってん に対 たい して重要 じゅうよう なものとしては他 た に彼 かれ の『情念 じょうねん 論 ろん 』(1649年 ねん )や『人間 にんげん 論 ろん 』(1632年 ねん に編纂 へんさん されたが、カトリック教会 きょうかい によるガリレオ・ガリレイ を聞 き きつけて、『世界 せかい 論 ろん 』とともに公刊 こうかん が差 さ し控 ひか えられた; 最終 さいしゅう 的 てき にデカルトの死後 しご 1664年 ねん に発表 はっぴょう された)がある。
医師 いし としての教育 きょういく を受 う けてはいないものの、デカルトはウシ の心臓 しんぞう に関 かん する広範 こうはん な研究 けんきゅう を行 おこな っており、彼 かれ はウィリアム・ハーヴェイ からの応答 おうとう に値 あたい するほど重要 じゅうよう とされた。デカルトは最初 さいしょ にハーヴェイの血液 けつえき 循環 じゅんかん 説 せつ に賛同 さんどう した人物 じんぶつ の一人 ひとり であるが、血液 けつえき 循環 じゅんかん 説 せつ を説明 せつめい するためのハーヴェイの形而上学 けいじじょうがく 的 てき 枠組 わくぐ みには反対 はんたい した。デカルトは動物 どうぶつ や人間 にんげん の死体 したい を解剖 かいぼう した結果 けっか 血 ち 流 りゅう の研究 けんきゅう に親 した しみ、肉体 にくたい は魂 たましい がなくとも動 うご きうる複雑 ふくざつ な装置 そうち であるという結論 けつろん を導 みちび いて、それにより「魂 たましい の教 きょう 説 せつ 」を否定 ひてい した。医学 いがく の一 いち 領域 りょういき としての心理 しんり 学 がく の出現 しゅつげん はトマス・ウィリス によって大 おお きく後押 あとお しされたが、それは単 たん に脳 のう 機能 きのう の分野 ぶんや において彼 かれ が心理 しんり 学 がく に言及 げんきゅう した(「魂 たましい の教 きょう 説 せつ 」)からだけではなく、彼 かれ が詳細 しょうさい な解剖 かいぼう 学 がく 論文 ろんぶん 『獣 しし 魂 たましい 論 ろん 』(羅 ら :De Anima Brutorum、1672年 ねん )を発表 はっぴょう したことによる。しかし、ウィリスは自身 じしん の著作 ちょさく に示唆 しさ を与 あた えたものとしてデカルトのライヴァルピエール・ガッサンディ の影響 えいきょう を認 みと めていた。
イギリス経験 けいけん 論 ろん 哲学 てつがく 者 しゃ や連合 れんごう 主義 しゅぎ 哲学 てつがく 者 しゃ は経験 けいけん 的 てき 心理 しんり 学 がく が後 のち にたどる道 みち に深 ふか い影響 えいきょう を与 あた えた。ジョン・ロック の『人間 にんげん 悟性 ごせい 論 ろん 』(1699年 ねん )やジョージ・バークリー の『人知 じんち 原理 げんり 論 ろん 』(1710年 ねん )、デイヴィッド・ヒューム の『人間 にんげん 本性 ほんしょう 論 ろん 』(1739年 ねん -1740年 ねん )は、デイヴィッド・ハートリー の『人間 にんげん 観察 かんさつ 』(1749年 ねん )やジョン・ステュアート・ミル の『論理 ろんり 学 がく 体系 たいけい 』(1843年 ねん )とともに特 とく に影響 えいきょう 力 りょく が高 たか い。さらに、数 すう 人 にん の大陸 たいりく 合理 ごうり 主義 しゅぎ 哲学 てつがく 者 しゃ の著作 ちょさく 、特 とく にバールーフ・デ・スピノザ (1632年 ねん -1677年 ねん )の『人間 にんげん 知性 ちせい 改善 かいぜん 論 ろん 』(1662年 ねん )、ゴットフリート・ライプニッツ (1646年 ねん -1716年 ねん )の 『人間 にんげん 知性 ちせい 新 しん 論 ろん 』(1705年 ねん に完成 かんせい され1765年 ねん に発表 はっぴょう された)が挙 あ げられる[ 19] 。
デンマーク の哲学 てつがく 者 しゃ セーレン・キルケゴール も著書 ちょしょ 『不安 ふあん の概念 がいねん 』(1844年 ねん )や『死 し に至 いた る病 やまい 』(1849年 ねん )によって人文 じんぶん 的 てき ・実存 じつぞん 的 てき ・近代 きんだい 的 てき な心理 しんり 学派 がくは に影響 えいきょう を与 あた えた。
他 た に心理 しんり 学 がく の誕生 たんじょう に影響 えいきょう を与 あた えたものとして、催眠 さいみん 術 じゅつ (催眠 さいみん 療法 りょうほう の先駆 せんく 者 しゃ )の有効 ゆうこう 性 せい や骨相 こっそう 学 がく の価値 かち にまつわる議論 ぎろん がある。前者 ぜんしゃ は1770年代 ねんだい にオーストリア の医師 いし フランツ・アントン・メスメル (1734年 ねん -1815年 ねん )が発展 はってん させたものである。彼 かれ は重力 じゅうりょく の力 ちから や、後 のち には「動物 どうぶつ 磁気 じき 」を用 もち いて様々 さまざま な肉体 にくたい 的 てき ・精神 せいしん 的 てき な病気 びょうき を治療 ちりょう することを提唱 ていしょう した。メスメルと彼 かれ の療法 りょうほう はウィーン およびパリ で徐々 じょじょ に人気 にんき を博 はく するにつれて、訝 いぶか しんだ官憲 かんけん の監視 かんし 下 か に入 はい ることになった。1784年 ねん にはパリでルイ16世 せい によって検査 けんさ が実施 じっし され、アメリカの使節 しせつ ベンジャミン・フランクリン 、化学 かがく 者 しゃ アントワーヌ・ラボアジエ 、医師 いし ジョゼフ=イニャス・ギヨタン (後 のち にギロチン を広 ひろ めた)らが参加 さんか した。メスメルの手法 しゅほう は無益 むえき だと彼 かれ らは結論 けつろん した。インドで活動 かつどう したポルトガル人 じん 司祭 しさい アベ・ファリア は再 ふたた び動物 どうぶつ 磁気 じき に対 たい する大衆 たいしゅう の関心 かんしん を引 ひ いたが、メスメルとは違 ちが い、ファリアはその効果 こうか が患者 かんじゃ の協力 きょうりょく と期待 きたい の力 ちから によって「心 しん の内 うち から生 しょう じる」と主張 しゅちょう した。
このように論争 ろんそう が起 お きてはいたものの、「磁気 じき 」による療法 りょうほう はメスメルの弟子 でし その他 た に受 う け継 つ がれ、内科 ないか 医 い ジョン・エリオットソン (1791年 ねん -1868年 ねん )、外科医 げかい ジェームズ・エスデイル (1808年 ねん -1859年 ねん )やジェイムズ・ブレイド (1795年 ねん -1860年 ねん 、メスメル主義 しゅぎ 者 しゃ の言 い う「力 ちから 」よりもむしろ患者 かんじゃ の意思 いし の特性 とくせい として時期 じき を再 さい 定式 ていしき 化 か し、ヒプノティズムという名 な を与 あた えた)らの研究 けんきゅう によって19世紀 せいき イングランドで再 さい 浮上 ふじょう した。メスメル主義 しゅぎ はイングランドで19世紀 せいき を通 つう じて強力 きょうりょく な(医学 いがく 的 てき ではないにしても)社会 しゃかい 的 てき な崇拝 すうはい 者 しゃ を得 え て存続 そんぞく した(see Winter, 1998)。ファリアの方法 ほうほう はナンシー学派 がくは のアンブロワーズ=オーギュスト・リエボー やイッポリト・ベルネーム の分析 ぶんせき 的 てき ・理論 りろん 的 てき な著作 ちょさく で大 おお きく展開 てんかい された。ファリアの理論 りろん 的 てき な立場 たちば 、そしてそれに続 つづ くナンシー学派 がくは の立場 たちば を経験 けいけん したことが後 こう のエミール・クーエ の自己 じこ 暗示 あんじ の手法 しゅほう に大 おお きく影響 えいきょう した。自己 じこ 暗示 あんじ はパリのサルペトリエール病院 びょういん の医長 いちょう ジャン=マルタン・シャルコー (1825年 ねん -1893年 ねん )によってヒステリー の治療 ちりょう 法 ほう として採用 さいよう された。
骨相 こっそう 学 がく は「器官 きかん 学 がく 」、つまりドイツの医師 いし フランツ・ヨゼフ・ガル (1758年 ねん -1828年 ねん )によって発展 はってん させられた脳 のう の構造 こうぞう に関 かん する理論 りろん 、として出発 しゅっぱつ した。脳 のう は非常 ひじょう に大 おお きな機能 きのう 的 てき な「器官 きかん 」に分 わ けられ、それぞれの器官 きかん が人間 にんげん の特定 とくてい の精神 せいしん 的 てき 能力 のうりょく や性向 せいこう ―希望 きぼう 、愛 あい 、霊 れい 性 せい 、強欲 ごうよく 、言語 げんご 、物体 ぶったい の大 おお きさ・形 かたち ・色 いろ を検出 けんしゅつ する能力 のうりょく 等々 とうとう ―を司 つかさど っているとガルは説 と いた。また、それぞれのこういった器官 きかん が大 おお きければ大 おお きいほど、その器官 きかん に対応 たいおう する精神 せいしん 的 てき 特性 とくせい も強力 きょうりょく になるとも彼 かれ は唱 とな えた。さらに、人 ひと の頭蓋骨 ずがいこつ の表面 ひょうめん を調 しら べることでその人 ひと の器官 きかん の大 おお きさを検知 けんち することができると彼 かれ は主張 しゅちょう した。ガルの脳 のう に関 かん する極端 きょくたん に局在 きょくざい 論 ろん 的 てき な立場 たちば はすぐに、特 とく にフランスの解剖 かいぼう 学者 がくしゃ マリー・ジャン・ピエール・フルーラン (1794年 ねん -1867年 ねん 、脳 のう に機能 きのう 局在 きょくざい 性 せい などないと主張 しゅちょう して鶏 にわとり に対 たい する穴 あな あけ手術 しゅじゅつ を行 おこな った)による批判 ひはん を受 う けた。ガルは(見当 けんとう 違 ちが いであったにせよ)真剣 しんけん に研究 けんきゅう を行 おこな っていたが、彼 かれ の理論 りろん は助手 じょしゅ のヨハン・ガスパル・シュプルツハイム (1776年 ねん -1832年 ねん )によって営利 えいり 目的 もくてき の通俗 つうぞく 的 てき ・興業 こうぎょう 的 てき な骨相 こっそう 学 がく に仕立 したて て上 あ げられ、特 とく にイギリスで独立 どくりつ した開業医 かいぎょうい の産業 さんぎょう 的 てき 繁栄 はんえい を大量 たいりょう に引 ひ き起 お こすことになった。スコットランド では宗教 しゅうきょう 的 てき 指導 しどう 者 しゃ ジョージ・クーム (1788年 ねん -1858年 ねん 、彼 かれ の『人間 にんげん の構造 こうぞう 』は19世紀 せいき のベストセラーの一 ひと つ)の手 て により、骨相 こっそう 学 がく が社会 しゃかい 的 てき 改革 かいかく 運動 うんどう や平等 びょうどう 主義 しゅぎ と強 つよ く結 むす びついた[ 20] 。骨相 こっそう 学 がく はアメリカにもすぐに広 ひろ まり、臨床 りんしょう 的 てき な骨相 こっそう 学 がく の地方 ちほう 巡業 じゅんぎょう が行 おこな われて希望 きぼう する客 きゃく に精神 せいしん 的 てき 健康 けんこう の診断 しんだん がなされた[ 21] 。
ヴィルヘルム・ヴント
19世紀 せいき 中頃 なかごろ までは、心理 しんり 学 がく は概 がい して哲学 てつがく の一 いち 分野 ぶんや として扱 あつか われていた。例 たと えば、イマヌエル・カント (1724年 ねん -1804年 ねん )は著書 ちょしょ 『自然 しぜん 科学 かがく の形而上学 けいじじょうがく 的 てき 基礎 きそ 』(1786年 ねん )で、様々 さまざま な理由 りゆう の中 なか でも、心理 しんり 学 がく 的 てき 現象 げんしょう が数学 すうがく 的 てき 形式 けいしき で表現 ひょうげん できないという理由 りゆう の為 ため に、心理 しんり 学 がく は「厳密 げんみつ 」科学 かがく となりえないと述 の べている。しかし、『実用 じつよう 的 てき 見地 けんち における人間 にんげん 学 がく 』(1798年 ねん )においてカントは、近代 きんだい 的 てき 視点 してん からは経験 けいけん 的 てき 心理 しんり 学 がく に非常 ひじょう に近 ちか く見 み えるものを提議 ていぎ している。
ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト (1776年 ねん –1841年 ねん )はカントの出 だ した結論 けつろん と対立 たいりつ した意見 いけん を持 も ち、科学 かがく 的 てき 心理 しんり 学 がく の数学 すうがく 的 てき 基礎 きそ を発展 はってん させた。彼 かれ は自身 じしん の心理 しんり 学 がく 用語 ようご を経験 けいけん 主義 しゅぎ 的 てき に表 あらわ すことはできなかったが、彼 かれ の努力 どりょく によってエルンスト・ハインリヒ・ヴェーバー (1795年 ねん -1878年 ねん )やグスタフ・テオドール・フェヒナー (1801年 ねん -1887年 ねん )が外的 がいてき 刺激 しげき の物理 ぶつり 的 てき 大 おお きさとそれによって生 しょう じる感覚 かんかく の精神 せいしん 的 てき 強度 きょうど との数学 すうがく 的 てき 関係 かんけい を計 はか ることになった。フェヒナー(1860年 ねん )が初 はじ めて精神 せいしん 物理 ぶつり 学 がく という言葉 ことば を使 つか った。
そのころ、天文学 てんもんがく において反応 はんのう 時間 じかん の個人 こじん 差 さ が「個人 こじん 誤差 ごさ 」の名 な の下 した に重大 じゅうだい な問題 もんだい となっていた。フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル (1784年 ねん -1846年 ねん )によるケーニヒスベルク での、あるいはアドルフ・ヒルシュ による、初期 しょき の研究 けんきゅう によってマティアス・ヒップ の非常 ひじょう に精確 せいかく なクロノグラフ の発明 はつめい が促進 そくしん され、これが、砲弾 ほうだん の速度 そくど を計測 けいそく する装置 そうち というチャールズ・ホイートストン のデザインに基 もと づくようになった[ 22] 。他 た の計時 けいじ 器 き は生理学 せいりがく から借用 しゃくよう され(例 たと えばキモグラフ )、ユトレヒト の眼科 がんか 医 い フランキスクス・コルネリス・ドンデルス (1818年 ねん -1899年 ねん )や彼 かれ の弟子 でし ヨハン・ヤコブ・デ・ヤーガー によって単純 たんじゅん な心理 しんり 的 てき 決定 けってい の持続 じぞく 期間 きかん を計 はか る際 さい に利用 りよう された。
19世紀 せいき は神経 しんけい 生理学 せいりがく などの生理学 せいりがく が専門 せんもん 化 か した時代 じだい でもあり、生理学 せいりがく 史上 しじょう の最 もっと も重要 じゅうよう な発見 はっけん のいくつかがなされている。その主導 しゅどう 者 しゃ としては、それぞれ独立 どくりつ に脊椎 せきつい 内 うち での知覚 ちかく 神経 しんけい と運動 うんどう 神経 しんけい の分離 ぶんり を発見 はっけん したチャールズ・ベル (1774年 ねん -1843年 ねん )およびフランソワ・マジャンディー (1783年 ねん -1855年 ねん )、特殊 とくしゅ 神経 しんけい エネルギー説 せつ を唱 とな えたヨハネス・ペーター・ミュラー (1801年 ねん -1855年 ねん )、筋 すじ 収縮 しゅうしゅく の電気 でんき 学 がく 的 てき 基礎 きそ を研究 けんきゅう したエミール・デュ・ボア=レーモン (1818年 ねん -1896年 ねん )、それぞれ異 こと なる言語 げんご 機能 きのう をつかさどる脳 のう 領域 りょういき を明 あき らかにしたピエール・ポール・ブローカ (1824年 ねん -1880年 ねん )とカール・ヴェルニッケ (1848年 ねん -1905年 ねん )、脳 のう の運動 うんどう 野 の や知覚 ちかく 野 の を特定 とくてい したグスタフ・テオドール・フリッチュ (1837年 ねん -1927年 ねん )、エドゥアルト・ヒッツィヒ (1839年 ねん ー1907年 ねん )、デイヴィッド・フェリア (1843年 ねん -1924年 ねん )らがいる。経験 けいけん 的 てき 生理学 せいりがく の第 だい 一 いち の創始 そうし 者 しゃ の一人 ひとり であるヘルマン・フォン・ヘルムホルツ (1821年 ねん -1894年 ねん )は、後 のち に心理 しんり 学者 がくしゃ の関心 かんしん を惹 ひ くことになる議題 ぎだい ―神経 しんけい 伝達 でんたつ 速度 そくど 、音 おと と色 いろ の実体 じったい 、音 おと や色 いろ の認識 にんしき の本性 ほんしょう 等々 とうとう ―の広範 こうはん な研究 けんきゅう を行 おこな った。1860年代 ねんだい には、彼 かれ はハイデルベルク大学 だいがく で職 しょく を得 え ていたが、そこでヴィルヘルム・ヴント という名 な の若 わか い医学 いがく 博士 はかせ を助手 じょしゅ として雇 やと った。ヴントは生理学 せいりがく 研究 けんきゅう 室 しつ の器材 きざい ―クロノスコープ、キモグラフ、様々 さまざま な周辺 しゅうへん 的 てき な道具 どうぐ ―を用 もち いて、それまで経験 けいけん 的 てき に研究 けんきゅう されていたよりも複雑 ふくざつ な心理 しんり 学 がく 的 てき な問題 もんだい を説明 せつめい した。とりわけ、彼 かれ は統覚 とうかく ―認識 にんしき が明確 めいかく な意識 いしき の中心 ちゅうしん 的 てき な関心 かんしん を占 し める領域 りょういき ―の実体 じったい に関心 かんしん を抱 だ いた。
ヴントは1874年 ねん にチューリヒ で教授 きょうじゅ となり、画 が 期 き となる教科書 きょうかしょ 『生理学 せいりがく 的 てき 心理 しんり 学 がく 綱要 こうよう 』を発表 はっぴょう した。1875年 ねん により名声 めいせい 高 たか いライプツィヒ の教授 きょうじゅ 職 しょく に就 つ くと、ヴントは1879年 ねん に専 もっぱ ら経験 けいけん 的 てき 心理 しんり 学 がく の独自 どくじ の研究 けんきゅう を行 おこな う研究 けんきゅう 室 しつ を創立 そうりつ したが、これは世界 せかい 初 はつ のその種 たね の研究 けんきゅう 室 しつ である。1883年 ねん には、自身 じしん や弟子 でし の研究 けんきゅう を発表 はっぴょう する雑誌 ざっし 『哲学 てつがく 研究 けんきゅう 』(独 どく :Philosophische Studien)を立 た ち上 あ げた[ 23] 。ヴントはドイツのみならず外国 がいこく からも非常 ひじょう に多 おお くの学生 がくせい を引 ひ き付 つ けた。彼 かれ の最 もっと も影響 えいきょう 力 りょく の高 たか いアメリカ人 じん の弟子 でし にはグランヴィル・スタンレー・ホール (ウィリアム・ジェームズ の監督 かんとく 下 か で既 すで にハーヴァードから博士 はかせ 号 ごう を得 え ていた)、ジェームズ・キャッテル (ヴントの最初 さいしょ の助手 じょしゅ )、フランク・アンゲル らがいる。最 もっと も影響 えいきょう 力 りょく の高 たか いイギリス人 じん の弟子 でし はエドワード・ティチェナー (後 のち にコーネル大学 だいがく 教授 きょうじゅ となる)である。
実験 じっけん 心理 しんり 学 がく 教室 きょうしつ がカール・シュトゥンプ (1848年 ねん -1936年 ねん )によってベルリン で、ゲオルク・エリアス・ミュラー (1850年 ねん -1934年 ねん )によってゲッティンゲン で設立 せつりつ された。同 どう 時期 じき のもう一人 ひとり のドイツの著名 ちょめい な実験 じっけん 心理 しんり 学者 がくしゃ は、自身 じしん の研究 けんきゅう 室 しつ を管理 かんり したことはないものの、ヘルマン・エビングハウス (1850年 ねん -1909年 ねん )である。
このころのドイツ語 どいつご 圏 けん で心理 しんり 学 がく に対 たい するアプローチとして実験 じっけん だけが行 おこな われているわけではなかった。1890年代 ねんだい に始 はじ まって、事例 じれい 研究 けんきゅう を用 もち いてウィーンの医師 いし ジークムント・フロイト が、自身 じしん が患者 かんじゃ の「ヒステリー 」の背後 はいご に横 よこ たわる原因 げんいん だと説 と いた無意識 むいしき の信念 しんねん ・欲望 よくぼう を推定 すいてい 的 てき に明 あき らかにするために催眠 さいみん 療法 りょうほう ・自由 じゆう 連想 れんそう ・夢 ゆめ 解釈 かいしゃく を発展 はってん ・応用 おうよう した。彼 かれ はこの手法 しゅほう を精神 せいしん 分析 ぶんせき と称 しょう した。フロイト派 は 精神 せいしん 分析 ぶんせき は病因 びょういん において個々 ここ の性的 せいてき 発展 はってん 過程 かてい に重点 じゅうてん を置 お くことで特 とく に著 いちじる しい。精神 せいしん 分析 ぶんせき 的 てき 概念 がいねん は西洋 せいよう 文化 ぶんか 、特 とく に芸術 げいじゅつ に対 たい して今 いま も強 つよ い影響 えいきょう を残 のこ している。その科学 かがく 的 てき 功績 こうせき には今 いま も議論 ぎろん があるものの、フロイト心理 しんり 学 がく とユング 心理 しんり 学 がく は、いくつかの行動 こうどう や思考 しこう が意識 いしき から隠 かく されているような―しかし人間 にんげん の完全 かんぜん な一部 いちぶ として活動 かつどう してはいる―分離 ぶんり された思考 しこう の存在 そんざい を明 あき らかにした。隠 かく れた動機 どうき 、やましい心 しん 、あるいは罪 つみ の意識 いしき は、個人 こじん の人格 じんかく やその結果 けっか としての行動 こうどう のいくつかの様相 ようそう の理解 りかい の欠如 けつじょ や選択 せんたく を通 つう じた、個人 こじん が意識 いしき していない心理 しんり 作用 さよう の存在 そんざい の実例 じつれい である。
精神 せいしん 分析 ぶんせき は自我 じが に作用 さよう する心的 しんてき 作用 さよう を考察 こうさつ する。これらの理解 りかい によって、神経症 しんけいしょう や時 とき には精神病 せいしんびょう (リヒャルト・フォン・クラフト=エビング はこの両者 りょうしゃ を人格 じんかく の病 やまい と定義 ていぎ した)に対 たい する治療 ちりょう 効果 こうか とともに個人 こじん の大 おお きな選択 せんたく や自意識 じいしき が理論 りろん 的 てき に可能 かのう になる。カール・ユングはフロイトの同僚 どうりょう であったが、フロイトが性 せい を強調 きょうちょう することに端 はし を発 はっ して彼 かれ と袂 たもと を分 わ かった。1800年代 ねんだい に(ジョン・ステュアート・ミル 、クラフト=エビング、ピエール・ジャネ 、テオドール・フルールノワ によって)初 はじ めて述 の べられた無意識 むいしき の概念 がいねん を用 もち いて研究 けんきゅう することで、ユングは、自我 じが と関係 かんけい して自我 じが を規定 きてい する四 よっ つの精神 せいしん 機能 きのう を定義 ていぎ した。感覚 かんかく (意識 いしき に何 なに かの存在 そんざい を伝 つた える)、感情 かんじょう (価値 かち 判断 はんだん からなり、感覚 かんかく したものに対 たい する反応 はんのう の動機 どうき づけを行 おこな う)、思考 しこう (今 いま 起 お こっている出来事 できごと と知 し っている全 すべ ての出来事 できごと を比較 ひかく し、今 いま 起 お こっている出来事 できごと に種類 しゅるい ・範疇 はんちゅう を付与 ふよ して、歴史 れきし 的 てき ・公的 こうてき ・個人 こじん 的 てき 過程 かてい の中 なか で理解 りかい できるようにする分析 ぶんせき 的 てき 機能 きのう )、直感 ちょっかん (深 ふか い行動 こうどう パターンに触 ふ れる心的 しんてき 機能 きのう であり、ユングいわく「間近 まぢか に見 み たかのように」予期 よき せざる結論 けつろん を提起 ていき したり思 おも いがけない結果 けっか を予言 よげん したりする機能 きのう を持 も つ)の四 よっ つがそれである。理論 りろん が心理 しんり 学者 がくしゃ の心的 しんてき 投影 とうえい や期待 きたい に基 もと づかず、事実 じじつ に基 もと づいている経験 けいけん 心理 しんり 学 がく をユングは提唱 ていしょう した。
ウィリアム・ジェームズ
1875年 ねん 頃 ごろ にハーヴァード大学 だいがく の生理学 せいりがく 講師 こうし (以前 いぜん からそうだった)ウィリアム・ジェームズ が自身 じしん の講義 こうぎ で使 つか うための実験 じっけん 生理学 せいりがく の小 ちい さな実験 じっけん 研究 けんきゅう 室 しつ を開 ひら いた。この研究 けんきゅう 室 しつ は当時 とうじ 本来 ほんらい の研究 けんきゅう に使 つか われることがなかったため、「最初 さいしょ の」実験 じっけん 心理 しんり 学 がく の研究 けんきゅう 室 しつ として扱 あつか うべきか否 ひ かという議論 ぎろん が行 おこな われ続 つづ けている。1878年 ねん に、ジェームズはジョンズ・ホプキンス大学 だいがく で「知覚 ちかく ・脳 のう とそれらの思考 しこう に対 たい する関係 かんけい 」と題 だい した連続 れんぞく 講義 こうぎ を行 おこな い、そこでトマス・ヘンリー・ハクスリー を論駁 ろんばく して、意識 いしき とは随伴 ずいはん 現象 げんしょう 的 てき なものではなく進化 しんか において何 なん らかの機能 きのう を持 も っていたものに違 ちが いなく、もちろん人間 にんげん によって選択 せんたく されたものではなかったと主張 しゅちょう した。同年 どうねん にジェームズはヘンリー・ホルト に「新 あら たな」実験 じっけん 心理 しんり 学 がく の教科書 きょうかしょ を書 か くよう契約 けいやく させられた。彼 かれ がこれを素早 すばや く書 か きあげていれば、この分野 ぶんや における最初 さいしょ の英語 えいご での教科書 きょうかしょ となっていたであろう。しかし、彼 かれ の12巻 かん に及 およ ぶ『心理 しんり 学 がく 原理 げんり 』が出版 しゅっぱん されたのはその12年 ねん 後 ご であった。その間 あいだ にイェール大学 だいがく のジョージ・トランブル・ラッド や(1887年 ねん )、レイク・フォレスト大学 だいがく のジェームズ・マーク・ボールドウィン が(1889年 ねん )教科書 きょうかしょ を出版 しゅっぱん した。
1879年 ねん にチャールズ・サンダーズ・パース がジョンズ・ホプキンス大学 だいがく の哲学 てつがく 講師 こうし として雇 やと われた。パースは天文学 てんもんがく や哲学 てつがく の研究 けんきゅう でも知 し られているが、おそらくアメリカで初 はじ めての心理 しんり 学 がく 実験 じっけん をも行 おこな っており、色覚 しきかく を主題 しゅだい として1877年 ねん に『アメリカン・ジャーナル・オヴ・サイエンス』を公刊 こうかん した[ 24] 。パースと彼 かれ の弟子 でし ジョゼフ・ジャストロウ は1884年 ねん に『メモワーズ・オヴ・ザ・ナショナル・アカデミー・オヴ・サイエンス』誌上 しじょう で論文 ろんぶん 「感覚 かんかく の細 こま かな違 ちが いについて」を発表 はっぴょう した。1882年 ねん にはパースはグランヴィル・スタンレー・ホール によってジョンズ・ホプキンズ大学 だいがく に赴任 ふにん しているが、このスタンレー・ホールが1883年 ねん にアメリカで最初 さいしょ の実験 じっけん 心理 しんり 学 がく を専門 せんもん とする研究 けんきゅう 室 しつ を開 ひら いた。後 のち にパースはスキャンダルで職 しょく を辞 じ することを余儀 よぎ なくされ、スタンレー・ホールがジョンズ・ホプキンスで唯一 ゆいいつ の哲学 てつがく 教授 きょうじゅ となった。スタンレー・ホールは1887年 ねん に『アメリカン・ジャーナル・オヴ・サイコロジー』を創刊 そうかん し、同誌 どうし は主 おも に彼 かれ 自身 じしん の研究 けんきゅう 室 しつ から出 だ された論文 ろんぶん を掲載 けいさい した。1888年 ねん になるとスタンレー・ホールはクラーク大学 だいがく の総長 そうちょう となるためにジョンズ・ホプキンスの教授 きょうじゅ 職 しょく を辞 じ し、引退 いんたい するまでこの職 しょく にとどまった。
その後 ご すぐに、実験 じっけん 心理 しんり 学 がく 教室 きょうしつ がペンシルヴァニア大学 だいがく (1887年 ねん 、ジェームズ・マッキーン・キャッテル によって)、インディアナ大学 だいがく (1888年 ねん 、ウィリアム・ローウェ・ブライアン によって)、ウィスコンシン大学 だいがく マディソン校 こう (1888年 ねん 、ジョゼフ・ジャストロウ によって)、クラーク大学 だいがく (1889年 ねん 、エドマンド・サンフォード によって)、マクレーン・アサイラム(1889年 ねん 、ウィリアム・ノイエスによって)、ネブラスカ大学 だいがく (1889年 ねん 、ハリー・カーキ・ウォルフェ によって)に創設 そうせつ された。
しかし、プリンストン大学 ぷりんすとんだいがく の1924年 ねん に創設 そうせつ されたEno Hallこそが、それがプリンストン大学 ぷりんすとんだいがく 心 こころ 理学部 りがくぶ の宿舎 しゅくしゃ となった際 さい に、専 もっぱ ら実験 じっけん 心理 しんり 学 がく を研究 けんきゅう するアメリカで最初 さいしょ の大学 だいがく の建物 たてもの であった[ 25] 。
1890年代 ねんだい に、ウィリアム・ジェームズ の『心理 しんり 学 がく 原理 げんり 』が最終 さいしゅう 的 てき に発表 はっぴょう され、アメリカ心理 しんり 学 がく 史上 しじょう で最 もっと も急速 きゅうそく に広 ひろ まった教科書 きょうかしょ となった。本書 ほんしょ は、アメリカの心理 しんり 学者 がくしゃ が長年 ながねん にわたって注視 ちゅうし することになる種類 しゅるい の問題 もんだい の基盤 きばん の多 おお くを提供 ていきょう した。本書 ほんしょ の中 なか でも意識 いしき ・感情 かんじょう ・習慣 しゅうかん に関 かん する章 あきら が問題 もんだい の前提 ぜんてい を提供 ていきょう した。
ジェームズの『心理 しんり 学 がく 原理 げんり 』の影響 えいきょう を体感 たいかん した者 もの の一人 ひとり としてミシガン大学 だいがく の哲学 てつがく 教授 きょうじゅ だったジョン・デューイ がいる。より若 わか い同僚 どうりょう のジェームズ・ヘイデン・タフツ (ミシガンに心理 しんり 学 がく 教室 きょうしつ を設立 せつりつ した)やジョージ・ハーバート・ミード 、そして弟子 でし のジェームズ・ローランド・アンゲル とともに、このグループは心理 しんり 学 がく を再 さい 定式 ていしき 化 か し、これまでヴントやその弟子 でし たちが重視 じゅうし してきた精神 せいしん 物理 ぶつり 学 がく の影響 えいきょう を受 う けた生理学 せいりがく 的 てき 心理 しんり 学 がく よりも社会 しゃかい 的 てき 環境 かんきょう と心 しん や行動 こうどう の「活動 かつどう 」に強 つよ く重点 じゅうてん を置 お いた。タフツはミシガンを去 さ って1892年 ねん に新 あたら しく設立 せつりつ されたシカゴ大学 だいがく の若 わか い地位 ちい に就 つ いた。1年 ねん 後 ご 、シカゴの老 ろう 哲学 てつがく 者 しゃ が職 しょく を辞 じ し、タフツはシカゴ大学 だいがく 学長 がくちょう ウィリアム・レイニー・ハーパー にデューイに教授 きょうじゅ 職 しょく を申 もう し出 で るよう勧 すす めた。最初 さいしょ に抵抗 ていこう があったものの、デューイは1894年 ねん に雇 やと われた。デューイはすぐにミシガンでの同僚 どうりょう のミードやアンゲルで学部 がくぶ の教員 きょういん の空席 くうせき を埋 う めた。この4人 にん によってシカゴ心理 しんり 学派 がくは の中核 ちゅうかく が形成 けいせい された。
1892年 ねん に、グランヴィル・スタンレー・ホール は新 あら たにアメリカ心理 しんり 学会 がっかい (APA)を創設 そうせつ する目的 もくてき でクラーク大学 だいがく で会合 かいごう を開 ひら き、三 さん 十 じゅう 数 すう 人 にん の心理 しんり 学者 がくしゃ ・哲学 てつがく 者 しゃ を招聘 しょうへい した[ 26] 。APAの例年 れいねん の会合 かいごう の一回 いっかい 目 め はペンシルヴァニア大学 だいがく でジョージ・ステュアート・ファラートン の主催 しゅさい により同年 どうねん 後半 こうはん に行 おこな われた。しかし、APAの中 なか で実験 じっけん 指向 しこう のメンバーと哲学 てつがく 指向 しこう のメンバーとの間 あいだ の対立 たいりつ がほぼ即座 そくざ に湧 わ き起 お こった。エドワード・ティチェナー とライトナー・ウィトマー によって哲学 てつがく 的 てき 言明 げんめい のために分 わ かれた「部会 ぶかい 」を創立 そうりつ するかあるいは哲学 てつがく 者 しゃ を完全 かんぜん に放逐 ほうちく するかという傾向 けいこう が起 お こされた。10年 ねん ほどの議論 ぎろん の後 のち 、西洋 せいよう 哲学 てつがく 会 かい が結成 けっせい されて第 だい 一 いち 回 かい の会合 かいごう が1901年 ねん にネブラスカ大学 だいがく で開 ひら かれた。翌年 よくねん 1902年 ねん には、アメリカ哲学 てつがく 会 かい が第 だい 一 いち 回 かい 会合 かいごう をコロンビア大学 ころんびあだいがく で開 ひら いた。これらは結局 けっきょく 、現代 げんだい のアメリカ哲学 てつがく 会 かい の中央 ちゅうおう 部 ぶ と東部 とうぶ となった。
1894年 ねん には、『アメリカン・ジャーナル・オヴ・サイコロジー』の偏狭 へんきょう な編集 へんしゅう 方針 ほうしん に不満 ふまん を抱 だ いた数 すう 多 おお くの心理 しんり 学者 がくしゃ がスタンレー・ホール に、同誌 どうし を彼 かれ の周辺 しゅうへん で閉 と じたものとせずに編集 へんしゅう 委員 いいん 会 かい を設 もう けてより多 おお くの心理 しんり 学者 がくしゃ に開 ひら かれたものにするよう掛 か け合 あ った。これをスタンレー・ホールが拒否 きょひ したため、ジェームズ・マッキーン・キャッテル (コロンビア大学 ころんびあだいがく 勤務 きんむ )とジェームズ・マーク・ボールドウィン (プリンストン大学 ぷりんすとんだいがく 勤務 きんむ )が共同 きょうどう で新 あら たに『サイコロジカル・レヴュー』を創刊 そうかん し、これがアメリカの心理 しんり 学 がく 研究 けんきゅう 者 しゃ の論文 ろんぶん 投稿 とうこう 先 さき として急激 きゅうげき に成長 せいちょう していった。
1895年 ねん 初 はじ めに、ジェームズ・マーク・ボールドウィン とエドワード・ブラッドフォード・ティチェナー (コーネル大学 だいがく )が、ヴントの研究 けんきゅう 室 しつ で生 う まれた(最初 さいしょ にルートヴィヒ・ランゲ とジェームズ・マッキーン・キャッテル が報告 ほうこく した)例外 れいがい 的 てき な反応 はんのう 時間 じかん の発見 はっけん をどう解釈 かいしゃく すべきかという、辛辣 しんらつ になり続 つづ ける議論 ぎろん に参加 さんか した。1896年 ねん に、ジェームズ・ローランド・アンゲル とアディソン・ウェブスター・ムーア (シカゴ大学 だいがく )が『サイコロジカル・レヴュー』で一連 いちれん の実験 じっけん 結果 けっか を発表 はっぴょう して、二人 ふたり の中 なか でボールドウィンがより正 ただ しいことを示 しめ した。しかし、彼 かれ らはジョン・デューイ による心理 しんり 学 がく に対 たい する新 あたら しいアプローチの観点 かんてん から発見 はっけん を解釈 かいしゃく しており、それは伝統 でんとう 的 てき な反射 はんしゃ 弓 ゆみ の刺激 しげき 反応 はんのう 理解 りかい を否定 ひてい して、「刺激 しげき 」なるものと「反応 はんのう 」なるものは観察 かんさつ 者 しゃ が状況 じょうきょう をどのようにみるのかに依存 いぞん しているという「遠回 とおまわ しな」理解 りかい を選 えら ぶものであった。完全 かんぜん な立場 たちば は、1896年 ねん にやはり『サイコロジカル・レヴュー』で発表 はっぴょう された、デューイの画期的 かっきてき な論説 ろんせつ 「心理 しんり 学 がく における反射 はんしゃ 弓 ゆみ の概念 がいねん 」で開陳 かいちん された。
ティチェナー は『サイコロジカル・レヴュー』(1898年 ねん 、1899年 ねん )において、自身 じしん の心理 しんり 学 がく に対 たい する厳密 げんみつ な「構成 こうせい 的 てき 」アプローチを、シカゴ学派 がくは のより応用 おうよう 的 てき な「機能 きのう 的 てき 」アプローチと彼 かれ が呼 よ んだものと区別 くべつ することで応答 おうとう し、それによって構成 こうせい 主義 しゅぎ と機能 きのう 主義 しゅぎ というアメリカ心理 しんり 学 がく で最初 さいしょ の大 おお きな理論 りろん 的 てき 断絶 だんぜつ が生 う まれた。ジェームズ・マッキーン・キャッテル 、エドワード・リー・ソーンダイク 、ロバート・セッションズ・ウッドワース らが主導 しゅどう するコロンビア大学 ころんびあだいがく のグループは(シカゴに次 つ ぐ)アメリカ機能 きのう 主義 しゅぎ の第 だい 二 に 世代 せだい としばしばみなされる [ 27] が、彼 かれ らの研究 けんきゅう は心理 しんり 検査 けんさ 、学習 がくしゅう 、教育 きょういく といった応用 おうよう 分野 ぶんや に重点 じゅうてん を置 お いていたために、彼 かれ らが自身 じしん にこの言葉 ことば を用 もち いることは決 けっ してなかった。1899年 ねん にはデューイがAPAの会長 かいちょう に選出 せんしゅつ されたが、ティチェナーは会員 かいいん 資格 しかく を失 うしな った(ティチェナーは1904年 ねん に自身 じしん のグループを形成 けいせい し、これが後 のち に実験 じっけん 心理 しんり 学 がく 協会 きょうかい として知 し られることになる)。1900年 ねん にはジョゼフ・ジャストロウ がAPA会長 かいちょう として講話 こうわ を行 おこな って機能 きのう 主義 しゅぎ 的 てき アプローチを喧伝 けんでん し、アンゲルは1904年 ねん に彼 かれ による影響 えいきょう 力 りょく の高 たか い教科書 きょうかしょ で、1906年 ねん にAPA会長 かいちょう としての講話 こうわ でティチェナーの分類 ぶんるい を採用 さいよう した。実際 じっさい のところ、構成 こうせい 主義 しゅぎ 者 しゃ は多 おお かれ少 すく なかれティチェナーとその弟子 でし に限 かぎ られる(最 もっと も影響 えいきょう 力 りょく の高 たか い教科書 きょうかしょ 『実験 じっけん 心理 しんり 学 がく の歴史 れきし 』を書 か いたティチェナーのかつての弟子 でし エドウィン・ボーリング こそが、構成 こうせい 主義 しゅぎ /機能 きのう 主義 しゅぎ 論争 ろんそう が20世紀 せいき の転機 てんき におけるアメリカ心理 しんり 学 がく の断層 だんそう 線 せん だという考 かんが えを始 はじ めた)。機能 きのう 主義 しゅぎ は概 がい して、行為 こうい や応用 おうよう といったより実践 じっせん 的 てき な点 てん をより強調 きょうちょう し、アメリカの文化 ぶんか 的 てき な「スタイル」により合致 がっち しており、おそらくさらに重要 じゅうよう なことに、大学 だいがく の評議 ひょうぎ 員 いん や民間 みんかん の資金 しきん 提供 ていきょう 機関 きかん の間 あいだ でより人気 にんき が強 つよ かった。
ジャン=マルタン・シャルコー
少 すく なからずルイ・ナポレオン 政権 せいけん (大統領 だいとうりょう 、1848年 ねん -1852年 ねん ;皇帝 こうてい ナポレオン3世 せい 、1852年 ねん -1870年 ねん )の保守 ほしゅ 性 せい の為 ため に、19世紀 せいき 中頃 なかごろ 以来 いらい のフランスの大学 だいがく の哲学 てつがく は、ヴィクトル・クザン (1792年 ねん -1867年 ねん )、テオドール・ジュフロワ (1796年 ねん -1842年 ねん )、ポール・ジャネ (1823年 ねん -1899年 ねん )といった人物 じんぶつ が主導 しゅどう する折衷 せっちゅう 主義 しゅぎ 的 てき ・唯心 ゆいしん 論 ろん 的 てき な諸 しょ 学派 がくは に牛耳 ぎゅうじ られていた。これらは伝統 でんとう 的 てき ・形 かたち 而学的 てき な学派 がくは であり、心理 しんり 学 がく を自然 しぜん 科学 かがく とみなすことに反対 はんたい していた。普 ひろし 仏 ふつ 戦争 せんそう での敗走 はいそう によってナポレオン3世 せい が追放 ついほう されると、政治 せいじ 的 てき にも学問 がくもん 的 てき にも新 あたら しい道 みち が開 あ けた。1870年 ねん 以降 いこう には、心理 しんり 学 がく に対 たい する実証 じっしょう 主義 しゅぎ 的 てき ・唯物 ゆいぶつ 論 ろん 的 てき ・進化 しんか 論 ろん 的 てき ・決定 けってい 論 ろん 的 てき なアプローチへの関心 かんしん が確実 かくじつ に増大 ぞうだい していき、他 た の人々 ひとびと の間 あいだ でもイポリット・テーヌ (1828年 ねん -1893年 ねん 、例 たと えば『知性 ちせい 論 ろん 』、1870年 ねん )やテオデュール・アルマン・リボー (1839年 ねん -1916年 ねん 、例 たと えば『現代 げんだい イギリス心理 しんり 学 がく 』、1870年 ねん )の著作 ちょさく に影響 えいきょう を受 う けて発展 はってん した。
1876年 ねん には、リボーは『ルヴュ・フィロソフィック』を創刊 そうかん し(同年 どうねん にイギリスで『マインド』が創刊 そうかん されている)、これが次世代 じせだい にとって「新 あたら しい」心 こころ 理学 りがく 論文 ろんぶん の実質 じっしつ 上 じょう 唯一 ゆいいつ の提出 ていしゅつ 先 さき となった[ 28] 。彼 かれ 自身 じしん は実験 じっけん 主義 しゅぎ 者 しゃ として活動 かつどう していないものの、リボーの著作 ちょさく の多 おお くが次世代 じせだい の心理 しんり 学者 がくしゃ に甚大 じんだい な影響 えいきょう を及 およ ぼすこととなった。その中 なか でも特 とく に『心理 しんり 学 がく 的 てき 遺伝 いでん 学 がく 』(1873年 ねん )および『現代 げんだい ドイツ心理 しんり 学 がく 』(1879年 ねん )の名前 なまえ が挙 あ げられる。1880年代 ねんだい になると、リボーは関心 かんしん を精神病 せいしんびょう 理学 りがく に向 む け、記憶 きおく 障害 しょうがい (1881年 ねん )、意志 いし (1883年 ねん )、人格 じんかく (1885年 ねん )に関 かん する著書 ちょしょ を執筆 しっぴつ して、その中 なか で、こういった話題 わだい に対 たい して一般 いっぱん 心理 しんり 学 がく の知見 ちけん を導入 どうにゅう しようと試 こころ みた。1881年 ねん には彼 かれ はソルボンヌ大学 そるぼんぬだいがく の心理 しんり 学説 がくせつ 史 し の教授 きょうじゅ 位 い を伝統 でんとう 主義 しゅぎ 者 しゃ ジュール・スーリ(1842年 ねん -1915年 ねん )に明 あ け渡 わた すことになったが、1885年 ねん から1889年 ねん には再 ふたた びソルボンヌで実験 じっけん 心理 しんり 学 がく を教 おし えた。その後 ご 1889年 ねん にコレージュ・ド・フランス で実験 じっけん 心理 しんり 学 がく ・比較 ひかく 心理 しんり 学 がく の教授 きょうじゅ の座 ざ に就 つ き、1896年 ねん までこの地位 ちい に留 とど まった[ 29] 。
フランス心理 しんり 学 がく の第 だい 一 いち の長所 ちょうしょ は精神病 せいしんびょう 理学 りがく の領域 りょういき にある。パリのサルペトリエール病院 びょういん の神経 しんけい 科 か 長 ちょう ジャン=マルタン・シャルコー (1825年 ねん -1893年 ねん )は彼 かれ の患者 かんじゃ のうち何 なん 人 にん かにヒステリー症状 しょうじょう を「実験 じっけん 的 てき に」作 つく り出 だ すために(上述 じょうじゅつ の)催眠 さいみん 術 じゅつ を復活 ふっかつ ・再 さい 命名 めいめい して用 もち いていた。彼 かれ の弟子 でし のうちの二 に 人 にん 、アルフレッド・ビネー (1857年 ねん -1911年 ねん )とピエール・ジャネ (1859年 ねん -1947年 ねん )はこの手法 しゅほう を自身 じしん の研究 けんきゅう に取 と り入 い れ、拡張 かくちょう した。
1889年 ねん には、ビネーと彼 かれ の同僚 どうりょう アンリ=エティエンヌ・ボーニ (1830年 ねん -1921年 ねん )はフランス初 はつ の実験 じっけん 心理 しんり 学 がく 教室 きょうしつ をソルボンヌに共同 きょうどう で設立 せつりつ した。そのちょうど5年 ねん 後 ご の1894年 ねん に、ボーニ、ビネ、そして三 さん 人 にん 目 め の同僚 どうりょう ヴィクトル・アンリ (1872年 ねん -1940年 ねん )がフランス初 はつ の実験 じっけん 心理 しんり 学 がく 専門 せんもん 誌 し 『ラネー・プシコロジック』を共同 きょうどう で創刊 そうかん した。20世紀 せいき 最初 さいしょ の年 とし には、ビネーがフランス政府 せいふ から、新 あたら しく設立 せつりつ された大学 だいがく の公 おおやけ 教育 きょういく システムにおいて、標準 ひょうじゅん 的 てき なカリキュラムを修了 しゅうりょう するのに特別 とくべつ な補助 ほじょ を必要 ひつよう とする学生 がくせい を見 み つける方法 ほうほう を開発 かいはつ するよう要請 ようせい された。彼 かれ はそれに応 こた えて、協力 きょうりょく 者 しゃ テオドール・シモン とともに、ビネー・シモン式 しき 知能 ちのう 検査 けんさ を開発 かいはつ し、1905年 ねん に公開 こうかい した(1908年 ねん および1911年 ねん に改定 かいてい された)。
この検査 けんさ 法 ほう はフランスでも実施 じっし されたが、大 おお きな成功 せいこう を収 おさ め(そして論争 ろんそう を引 ひ き起 お こしもし)たのはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく においてであり、ヴァインランド精神 せいしん 薄弱 はくじゃく 者 しゃ 訓練 くんれん 学校 がっこう の校長 こうちょう ヘンリー・ハーバート・ゴダード (1866年 ねん -1957年 ねん )および彼 かれ の助手 じょしゅ エリザベス・カイト によって英訳 えいやく された(1905年 ねん の翻訳 ほんやく は1908年 ねん のヴァインランドの『紀要 きよう 』で公開 こうかい されたが、よく知 し られたのは1908年 ねん の改定 かいてい 版 ばん をカイトが1916年 ねん に翻訳 ほんやく したものであり、単行本 たんこうぼん 化 か もされた)。翻訳 ほんやく 版 ばん の検査 けんさ 法 ほう はゴダードにより、彼 かれ が先天的 せんてんてき 精神 せいしん 薄弱 はくじゃく だとみなしていた者 もの たち、特 とく に非 ひ 西欧 せいおう 諸国 しょこく からの移民 いみん 、に着目 ちゃくもく した彼 かれ の優生 ゆうせい 学 がく 思想 しそう を推 お し進 すす めるのに利用 りよう された。ビネーの検査 けんさ 法 ほう は1916年 ねん にスタンフォード大学 だいがく 教授 きょうじゅ ルイス・マディソン・ターマン (1877年 ねん -1956年 ねん )によって改定 かいてい されてスタンフォード・ビネー知能 ちのう 検査 けんさ が生 う まれた。
ビネーが1911年 ねん に死去 しきょ したのに伴 ともな い、ソルボンヌの研究 けんきゅう 室 しつ と『ラネー・プシコロジック』はルイ・シャルル・アンリ・ピエロ のものとなった。ピエロの志向 しこう はビネーよりも生理学 せいりがく 的 てき であった。
ピエール・ジャネ はフランスの主導 しゅどう 的 てき な精神 せいしん 科 か 医 い となり、サルペトリエール病院 びょういん (1890年 ねん -1894年 ねん )、ソルボンヌ大学 そるぼんぬだいがく (1895年 ねん -1920年 ねん )、コレージュ・ド・フランス (1902年 ねん -1936年 ねん )の要職 ようしょく を歴任 れきにん した。彼 かれ は1904年 ねん に同僚 どうりょう のソルボンヌ大学 そるぼんぬだいがく 教授 きょうじゅ でリボの弟子 でし にして忠実 ちゅうじつ な信奉 しんぽう 者 しゃ でもあったジョルジュ・ドゥマ (1866年 ねん -1946年 ねん )と『ジャーナル・ド・プシコロジ・ノルマル・エ・パトロジック』を共同 きょうどう で創刊 そうかん した。ジャネの師 し シャルコーがヒステリー の神経 しんけい 学 がく 的 てき 基礎 きそ に重点 じゅうてん を置 お いたのに対 たい し、ジャネは「精神 せいしん 」障害 しょうがい としての精神病 せいしんびょう 理学 りがく に対 たい する科学 かがく 的 てき アプローチを発展 はってん させることに関心 かんしん を抱 だ いた。精神 せいしん 病理 びょうり は心 しん の無意識 むいしき 的 てき 部分 ぶぶん と意識 いしき 的 てき 部分 ぶぶん の間 あいだ の葛藤 かっとう から起 お こり、無意識 むいしき 的 てき な精神 せいしん 内容 ないよう は象徴 しょうちょう 的 てき 意味 いみ を伴 ともな う症状 しょうじょう として現 あらわ れるという彼 かれ の理論 りろん は、ジークムント・フロイト との公的 こうてき な先取 せんしゅ 権 けん の議論 ぎろん を起 お こした。
フランスの外科医 げかい ポール・ブローカ (1824年 ねん –1880年 ねん )は、生物 せいぶつ 学 がく の進化 しんか をもたらしたドイツの生理学 せいりがく 者 しゃ ヨハネス・ペーター・ミュラー(1801年 ねん -1858年 ねん )の著作 ちょさく を支持 しじ した。ブローカが1861年 ねん に成 な したことは、頭部 とうぶ を強打 きょうだ して一 いち 年 ねん 後 ご に亡 な くなった男 おとこ の検死 けんし であった。その男 おとこ は強打 きょうだ した後 のち に言葉 ことば を話 はな せなくなっていた。障害 しょうがい を被 こうむ った領域 りょういき は左 ひだり 半球 はんきゅう の大脳皮質 だいのうひしつ にあった。そこで、これが言葉 ことば を話 はな す能力 のうりょく をつかさどる領域 りょういき であるとブローカは言 い った[ 30] 。
フランシス・ゴルトン
イギリス人 じん にも初 はつ の心理 しんり 学 がく 専 せん 門 もん の学術 がくじゅつ 雑誌 ざっし ―1876年 ねん にアレクサンダー・ベイン (英語 えいご 版 ばん ) により1876年 ねん に創刊 そうかん され、ジョージ・クルーム・ロバートソン が編集 へんしゅう を務 つと めた『マインド』―があったが、この地 ち で実験 じっけん 心理 しんり 学 がく が発展 はってん して「心 しん の哲学 てつがく 」に挑戦 ちょうせん するようになるまでには長 なが い時間 じかん がかかった。『マインド』が創刊 そうかん してから最初 さいしょ の二 に 十 じゅう 年 ねん における実験 じっけん 的 てき な論文 ろんぶん はほとんどすべてがアメリカ人 じん によるもの、特 とく にグランヴィル・スタンレー・ホール やその弟子 でし 達 たち (すなわちヘンリー・ハーバート・ドナルドソン やジェームズ・マッキーン・キャッテル )によるものであった。
フランシス・ゴルトン (1822年 ねん –1911年 ねん )の人体 じんたい 測定 そくてい 学 がく 研究 けんきゅう 室 しつ は1884年 ねん に開 ひら かれた。そこで人々 ひとびと は幅広 はばひろ く様々 さまざま な肉体 にくたい 的 てき (例 たと えば打撃 だげき 力 りょく )・知覚 ちかく 的 てき (例 たと えば視力 しりょく の鋭 するど さ)特性 とくせい を検査 けんさ された。ゴルトンは1886年 ねん にジェームズ・マッキーン・キャッテル の訪問 ほうもん を受 う けたが、キャッテルは後 のち にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく で自身 じしん の精神 せいしん 検査 けんさ 研究 けんきゅう 法 ほう を開発 かいはつ する上 じょう でゴルトンの手法 しゅほう を取 と り入 い れることになる。しかしながら、ゴルトンは本来 ほんらい 心理 しんり 学者 がくしゃ ではなかった。彼 かれ が人体 じんたい 測定 そくてい 学 がく 研究 けんきゅう 室 しつ で蓄積 ちくせき したデータは主 おも に彼 かれ の優生 ゆうせい 学 がく 的 てき 立場 たちば を支持 しじ するのに使 つか われることになる。彼 かれ が蓄積 ちくせき したデータの山 やま の解釈 かいしゃく の助 たす けとして、ガルトンは数 すう 多 おお くの統計 とうけい 学 がく 的 てき 手法 しゅほう を開発 かいはつ したが、その中 なか には原始 げんし 的 てき な点 てん 図表 ずひょう プロット や積 せき 率 りつ 相関 そうかん 係数 けいすう (後 のち にカール・ピアソン 、1857年 ねん -1936年 ねん 、が完成 かんせい する)が含 ふく まれていた。
その後 ご すぐに、チャールズ・スピアマン (1863年 ねん –1945年 ねん )が、知性 ちせい の二 に 因子 いんし 理論 りろん の事例 じれい を構築 こうちく する上 じょう で、因子 いんし 分析 ぶんせき の相関 そうかん 型 がた 統計 とうけい 処理 しょり を開発 かいはつ して1901年 ねん に発表 はっぴょう した。人 ひと は先天的 せんてんてき に一般 いっぱん 知性 ちせい 能力 のうりょく つまり「g因子 いんし 」を持 も っていて、これが沢山 たくさん の狭 せま い領域 りょういき において特定 とくてい の技術 ぎじゅつ を扱 あつか う能力 のうりょく (特定 とくてい 知性 ちせい 能力 のうりょく つまり「s因子 いんし 」)として結実 けつじつ するのだとスピアマンは考 かんが えていた。
ドイツやアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく で営 いとな まれたような研究 けんきゅう 室 しつ での心理 しんり 学 がく がイギリスに到来 とうらい するのは遅 おそ かった。1870年代 ねんだい 中 ちゅう ごろから哲学 てつがく 者 しゃ ジェームズ・ウォード (1843年 ねん -1925年 ねん )がケンブリッジ大学 けんぶりっじだいがく に精神 せいしん 物理 ぶつり 学 がく 研究 けんきゅう 室 しつ を創設 そうせつ するよう働 はたら きかけていたが、1891年 ねん になってやっと基本 きほん 的 てき な用具 ようぐ を揃 そろ えるために50ポンドばかりがケンブリッジ大学 けんぶりっじだいがく から供出 きょうしゅつ されたのであった[ 31] 。1897年 ねん に生理学 せいりがく 部 ぶ の援助 えんじょ を受 う けて研究 けんきゅう 室 しつ が創設 そうせつ され、心理 しんり 学 がく 講座 こうざ は開 ひら かれると最初 さいしょ にウィリアム・ヘイルズ・リヴァーズ・リヴァーズ (1864年 ねん -1922年 ねん )の手 て に渡 わた った。リヴァーズはその後 ご すぐにチャールズ・サミュエル・マイヤーズ (1873年 ねん -1946年 ねん )やウィリアム・マクドゥーガル (1871年 ねん -1938年 ねん )と交流 こうりゅう を持 も った。このグループは心理 しんり 学 がく に対 たい するのと同 おな じだけの関心 かんしん を人類 じんるい 学 がく に示 しめ し、トレス海峡 かいきょう を1898年 ねん に探検 たんけん したことで名高 なだか いアルフレッド・コート・ハドン (1855年 ねん -1940年 ねん )に同意 どうい した。
心理 しんり 学 がく 協会 きょうかい が1901年 ねん に設立 せつりつ され(1906年 ねん に自 みずか らイギリス心理 しんり 学 がく 協会 きょうかい と改名 かいめい した)、1904年 ねん にウォードとリヴァーズが『ブリティッシュ・ジャーナル・オヴ・サイコロジー』を共同 きょうどう で創刊 そうかん した。
ヴント のライプツィヒの研究 けんきゅう 室 しつ で助手 じょしゅ を務 つと めていたオスヴァルト・キュルペ (1862年 ねん -1915年 ねん )が1896年 ねん 、ヴュルツブルク大学 だいがく に新 あら たな研究 けんきゅう 室 しつ を創設 そうせつ した。キュルペはすぐに周囲 しゅうい に若 わか い心理 しんり 学者 がくしゃ を集 あつ めたが、その中 なか にはナルツィス・アハ (1871年 ねん -1946年 ねん )、カール・ビューラー (1879年 ねん -1963年 ねん )、エルンスト・デュール (1878年 ねん -1913年 ねん )、カール・マルベ (1869年 ねん -1953年 ねん )、ヘンリー・ジャクソン・ワット (1879年 ねん -1925年 ねん )らがいた。彼 かれ らは一 いち 個 こ の集団 しゅうだん として活動 かつどう し、ヴントが課 か していた制約 せいやく に真 ま っ向 こう から反対 はんたい しつつ心理 しんり 学 がく 実験 じっけん に対 たい する新 あら たなアプローチを発展 はってん させた。ヴントは、より高次 こうじ の思考 しこう 過程 かてい に対 たい して長 なが い時間 じかん をかけて内省 ないせい する「内観 ないかん 」(独 どく :Selbstbeobachtung)という哲学 てつがく 的 てき なスタイルと、ある時点 じてん の感情 かんじょう ・感覚 かんかく ・心像 しんぞう (独 どく :Vorstellung)に即座 そくざ に気付 きづ く「内的 ないてき 感覚 かんかく 」(独 どく :innere Wahrnehmung)とを区別 くべつ した。前者 ぜんしゃ が不可能 ふかのう であるとヴントは述 の べて、より高次 こうじ の精神 せいしん 機能 きのう は長 なが い時間 じかん をかけた内観 ないかん によってではなく人文 じんぶん 的 てき に「民族 みんぞく 心理 しんり 学 がく 」(独 どく :Völkerpsychologie)を通 つう じてのみ研究 けんきゅう できると説 と いた。後者 こうしゃ だけが実験 じっけん の適切 てきせつ な主題 しゅだい となる。
対照 たいしょう 的 てき に、ヴュルツブルク学派 がくは は、実験 じっけん の主題 しゅだい が複雑 ふくざつ な刺激 しげき として(例 たと えば、ニーチェのアフォリズムや論理 ろんり 的 てき 問題 もんだい )現 あらわ れるように実験 じっけん をデザインし、時間 じかん が経過 けいか して過程 かてい が進 すす むと(例 たと えばアフォリズムを解釈 かいしゃく したり問題 もんだい を解 と いたりすると)、経過 けいか 時間 じかん の間 あいだ に自身 じしん の意識 いしき を通過 つうか したことを全 すべ て回顧 かいこ して実験 じっけん 者 しゃ たちに報告 ほうこく する。この過程 かてい で、ヴュルツブルク学派 がくは は「意識 いしき 態 たい 」(独 どく : Bewußtseinslagen )、「」(独 どく : Bewußtheiten )、「考 こう 想 そう 」(独 どく : Gedanken )といった、(ヴントの感情 かんじょう ・感覚 かんかく ・心像 しんぞう を超 こ えた)意識 いしき の新 あたら しい要素 ようそ を数多 かずおお く発見 はっけん したと主張 しゅちょう した。英語 えいご 圏 けん では、これらはしばしばまとめて「無心 むしん 像 ぞう 思考 しこう 」(英 えい : imageless thoughts )と呼 よ ばれ、ヴントとヴュルツブルク学派 がくは の論争 ろんそう も「無心 むしん 像 ぞう 思考 しこう 論 ろん 争 そう 」(英 えい : imageless thought controversy )と呼 よ ばれた。
ヴントはヴュルツブルク学派 がくは の研究 けんきゅう を「見 み かけだけの」実験 じっけん と呼 よ び、彼 かれ らを辛辣 しんらつ に批判 ひはん した。ヴントの最 もっと も著名 ちょめい なイギリス人 じん の弟子 でし でコーネル大学 だいがく に勤 つと めていたエドワード・ブラッドフォード・ティチェナー はこの論争 ろんそう に干渉 かんしょう して、ヴュルツブルク学派 がくは の無 む 心像 しんぞう 思考 しこう を感情 かんじょう ・感覚 かんかく ・心像 しんぞう に昇華 しょうか できるようなより高次 こうじ の内観 ないかん 的 てき 研究 けんきゅう を行 おこな うと主張 しゅちょう した。このように、彼 かれ は逆説 ぎゃくせつ 的 てき に、ヴントの見方 みかた を支持 しじ するためにヴントが賛成 さんせい しない方法 ほうほう を使 つか ったのである[ 32] 。
無 む 心像 しんぞう 思考 しこう 論争 ろんそう はしばしば、実験 じっけん 心理 しんり 学 がく においてあらゆる内観 ないかん 的 てき 方法 ほうほう の正統 せいとう 性 せい を害 がい するうえで、そして最終 さいしゅう 的 てき にはアメリカ心理 しんり 学 がく に行動 こうどう 主義 しゅぎ 革命 かくめい をもたらすうえで、役 やく に立 た ったとされてきた。しかしそれは自身 じしん の延命 えんめい されてきた正統 せいとう 性 せい を失 うしな っただけではない。ハーバート・アレクサンダー・サイモン (1981年 ねん )がヴュルツブルク学派 がくは 心理 しんり 学者 がくしゃ の研究 けんきゅう を、特 とく にオットー・ゼルツ (1881年 ねん -1943年 ねん )の研究 けんきゅう を引 ひ いて、自身 じしん の著名 ちょめい な問題 もんだい ―コンピュータ・アルゴリズム (例 たと えばLogic Theorist とGeneral Problem Solver )の解決 かいけつ やプロトコル解析 かいせき におけるシンキング・アウト・ラウド法 ほう ―を進 すす めるうえでの霊感 れいかん 元 もと としている。さらに、カール・ポパー がビューラーおよびゼルツの下 した で心理 しんり 学 がく を学 まな び、彼 かれ らの名 な を出 だ しはしないものの彼 かれ らからの影響 えいきょう を自身 じしん の科学 かがく 哲学 てつがく に持 も ち込 こ んだとみられている[ 33] 。
ヴュルツブルク学派 がくは が主 おも に方法 ほうほう 論 ろん に関 かん してヴントと議論 ぎろん したのに対 たい して、ベルリン を拠点 きょてん としたドイツの新 あたら しい潮流 ちょうりゅう は、心理 しんり 学 がく の目的 もくてき は意識 いしき をバラバラに分解 ぶんかい して推定 すいてい 上 じょう の基本 きほん 要素 ようそ を見出 みいだ すことだという一般 いっぱん に蔓延 はびこ る臆説 おくせつ と対立 たいりつ した。この臆説 おくせつ に対 たい して彼 かれ らは、心理 しんり 学 がく 的 てき 「全体 ぜんたい 」は優先 ゆうせん 性 せい を持 も ち、「部分 ぶぶん 」はそうではなくむしろ全体 ぜんたい を構成 こうせい する一 いち 構造 こうぞう として定義 ていぎ されると主張 しゅちょう した。それゆえ、おおよそ形状 けいじょう ・形態 けいたい を意味 いみ するドイツ語 ご に由来 ゆらい してこの学派 がくは は「ゲシュタルト 」と名付 なづ けられた。この学派 がくは はマックス・ヴェルトハイマー (1880年 ねん -1943年 ねん )、ヴォルフガング・ケーラー (1887年 ねん -1967年 ねん )、クルト・コフカ (1886年 ねん -1941年 ねん )らが主導 しゅどう していた。ヴェルトハイマーはオーストリアの哲学 てつがく 者 しゃ クリスティアン・フォン・エーレンフェルス (1859年 ねん -1932年 ねん )の弟子 でし であった。フォン・エーレンフェルスは、認識 にんしき 対象 たいしょう の知覚 ちかく 的 てき 要素 ようそ に加 くわ えて、ある意味 いみ では標準 ひょうじゅん 的 てき な知覚 ちかく 的 てき 要素 ようそ の構造 こうぞう に由来 ゆらい するが独自 どくじ の権利 けんり を持 も つような特別 とくべつ な要素 ようそ が存在 そんざい すると主張 しゅちょう した人物 じんぶつ である。彼 かれ はその特別 とくべつ な要素 ようそ を「ゲシュタルト質 しつ 」(独 どく :Gestalt-qualität、形態 けいたい 質 しつ とも)と呼 よ んだ。例 たと えば、メロディ を聞 き くと、人 ひと は個々 ここ の音 おと に加 くわ えて全体 ぜんたい としての旋律 せんりつ を聞 き く。これが「ゲシュタルト質 しつ 」である。フォン・エーレンフェルスによれば、このゲシュタルト質 しつ が存在 そんざい するからこそある旋律 せんりつ を全 まった く異 こと なる音 おと を使 つか っても同一 どういつ 性 せい を保 たも った別 べつ の旋律 せんりつ へと移調 いちょう することができるのである。ヴェルトハイマーは「メロディによって私 わたし に与 あた えられたものは[...]そのような断片 だんぺん の総和 そうわ から成 な る二 に 次 じ 的 てき 過程 かてい として立 た ち現 あら われてくるのではない。そうではなく、個々 ここ の部分 ぶぶん において起 お こるものは全体 ぜんたい に依存 いぞん して起 お こっているのだ」(1925/1938)というより過激 かげき な主張 しゅちょう を行 おこな った。い換 いか えれば、人 ひと はまずメロディを聞 き いてその後 ご にのみメロディを知覚 ちかく 的 てき に個々 ここ の音 おと に分割 ぶんかつ できるのである。同様 どうよう に視覚 しかく においても、人 ひと はまず円 えん の形 かたち を見 み る― それは無 む 媒介 ばいかい 的 てき ・即時 そくじ 的 てき に与 あた えられる(すなわち、その知覚 ちかく は部分 ぶぶん を総合 そうごう するという過程 かてい によって媒介 ばいかい されてなどいないのである)。この第 だい 一 いち の知覚 ちかく の後 のち にのみ人 ひと は円 えん が線 せん や点 てん や星 ほし で描 えが かれていることに気付 きづ くことができる。
「ゲシュタルト理論 りろん 」は1912年 ねん にヴェルトハイマーのファイ現象 げんしょう に関 かん する論文 ろんぶん の中 なか で公式 こうしき に創始 そうし された; 静止 せいし しているが交互 こうご に点滅 てんめつ する二 ふた つのライトを見 み ると、その二 ふた つのライトの位置 いち の間 あいだ を一 ひと つのライトが移動 いどう しているように見 み えるという錯覚 さっかく がある。一般 いっぱん 的 てき な意見 いけん に反 はん して、彼 かれ の主 おも な狙 ねら いは行動 こうどう 主義 しゅぎ ではなかった、というのは、行動 こうどう 主義 しゅぎ は当時 とうじ まだ心理 しんり 学界 がっかい で力 ちから を得 え ていなかったからである。彼 かれ の批判 ひはん の対象 たいしょう はむしろヘルマン・フォン・ヘルムホルツ (1821年 ねん -1894年 ねん )、ヴィルヘルム・ヴント (1832年 ねん -1920年 ねん )その他 た の当時 とうじ の欧州 おうしゅう の心理 しんり 学者 がくしゃ の原子 げんし 論 ろん 的 てき 心理 しんり 学 がく であった。
イヴァン・ピトローヴィチ・パヴロフ
ファイ実験 じっけん においてヴェルトハイマーの被験者 ひけんしゃ として働 はたら いたのがケーラーとコフカである。ケーラーは物理 ぶつり 音響 おんきょう 学 がく の専門 せんもん 家 か であり、物理 ぶつり 学者 がくしゃ マックス・プランク (1858年 ねん -1947年 ねん )の下 した に学 まな んだこともあるが、カール・シュトゥンプ (1848年 ねん -1936年 ねん )の下 した で心理 しんり 学 がく の学位 がくい を取得 しゅとく した。コフカもシュトゥンプの弟子 でし であり、リズムの心理 しんり 的 てき 側面 そくめん や運動 うんどう 現象 げんしょう を研究 けんきゅう した。1917年 ねん にケーラー(1917年 ねん /1925年 ねん )はチンパンジー の学習 がくしゅう に関 かん する4年間 ねんかん の研究 けんきゅう の成果 せいか を発表 はっぴょう した。他 た のほとんどの学習 がくしゅう 理論 りろん 家 か の主張 しゅちょう に反 はん して、イヴァン・パヴロフ (1849年 ねん -1936年 ねん )とエドワード・リー・ソーンダイク (1874年 ねん -1949年 ねん )がそれぞれイヌ とネコ で証明 しょうめい した関連 かんれん して増大 ぞうだい する学習 がくしゅう 能力 のうりょく を批判 ひはん 的 てき に継承 けいしょう しつつ、動物 どうぶつ は「突発 とっぱつ 的 てき に得 え た認識 にんしき 」によって問題 もんだい の「組織 そしき 」を学 まな べるということをケーラーは示 しめ した。
「構造 こうぞう 」と「組織 そしき 」という術語 じゅつご はゲシュタルト心理 しんり 学者 がくしゃ にとって焦点 しょうてん となるものであった。刺激 しげき はある構造 こうぞう を持 も ち、ある方法 ほうほう で組織 そしき されるものであり、組織 そしき が応答 おうとう するのは個々 ここ の知覚 ちかく 的 てき 要素 ようそ に対 たい してよりもむしろ構造 こうぞう 的 てき 組織 そしき に対 たい してであるとされた。動物 どうぶつ は何 なん らかの状況 じょうきょう におかれると、単 たん に刺激 しげき の究極 きゅうきょく 的 てき 特性 とくせい に応答 おうとう するのではなく、その全体 ぜんたい 的 てき 状況 じょうきょう に関 かん する特性 とくせい に応答 おうとう する。ケーラーの好例 こうれい を用 もち いると、二 に 枚 まい の灰色 はいいろ のトランプのうち明 あか るい色 いろ の方 ほう にあるやり方 かた で反応 はんのう するという条件 じょうけん づけでは、動物 どうぶつ はその状態 じょうたい のそれぞれの刺激 しげき から究極 きゅうきょく 的 てき な個々 ここ の特性 とくせい を引 ひ き出 だ すよりもむしろ二 ふた つの刺激 しげき の関係 かんけい を一般 いっぱん 化 か してとらえる: つまりその動物 どうぶつ は、テストの段階 だんかい で暗 くら い方 ほう のカードが元 もと の練習 れんしゅう 段階 だんかい での明 あか るい方 ほう と同 おな じ明 あか るさであるかのように、最終 さいしゅう 段階 だんかい でも二 に 枚 まい の内 うち の明 あか るい方 ほう に応答 おうとう するのである。
1921年 ねん にコフカは発達 はったつ 心理 しんり 学 がく に関 かん するゲシュタルト志向 しこう の文書 ぶんしょ 『心 しん の成長 せいちょう 』を発表 はっぴょう した。アメリカの心理 しんり 学者 がくしゃ ロバート・オグデン の助 たす けを借 か りつつ、コフカは1922年 ねん に『サイコロジカル・ブリッティン』を創刊 そうかん して、ゲシュタルト的 てき な観点 かんてん をアメリカの大衆 たいしゅう に紹介 しょうかい した。この雑誌 ざっし では認識 にんしき の数 すう 多 おお くの問題 もんだい に対 たい する当時 とうじ 主流 しゅりゅう だった見解 けんかい が批判 ひはん され、ゲシュタルト派 は による代替 だいたい となる見解 けんかい が述 の べられていた。コフカは1924年 ねん にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に移住 いじゅう し、最終 さいしゅう 的 てき に1927年 ねん にスミス大学 だいがく に落 お ち着 つ いた。1935年 ねん には彼 かれ は『ゲシュタルト心理 しんり 学 がく 綱要 こうよう 』を発表 はっぴょう した。この教科書 きょうかしょ は科学 かがく 的 てき 営 いとな みを相対 そうたい 的 てき にゲシュタルト的 てき な視点 してん から展開 てんかい している。彼 かれ の言 い うところでは、科学 かがく は単 たん なる事実 じじつ の集積 しゅうせき ではない。事実 じじつ を結合 けつごう して理論 りろん 的 てき 構造 こうぞう を作 つく ることが研究 けんきゅう を科学 かがく 的 てき にするのである。ゲシュタルト主義 しゅぎ 者 しゃ の目的 もくてき は自然 しぜん 、生命 せいめい 、精神 せいしん に関 かん する無 む 活性 かっせい 的 てき な事実 じじつ を統合 とうごう して一 ひと つの科学 かがく 的 てき 構造 こうぞう を組 く み上 あ げることである。つまり、科学 かがく はコフカが物理 ぶつり 科学 かがく の定量 ていりょう 的 てき 事実 じじつ と呼 よ んだものだけでなく別 べつ の二 ふた つの「科学 かがく 的 てき 範疇 はんちゅう 」の事実 じじつ をも包含 ほうがん するのである: その二 ふた つとは、順序 じゅんじょ の問題 もんだい と「ジン」(独 どく :Sinn)、重要 じゅうよう 性 せい 、価値 かち 、意味 いみ など様々 さまざま に訳 やく されるドイツ語 ご 単語 たんご 、の問題 もんだい とである。経験 けいけん ・行動 こうどう の意味 いみ を組 く み入 い れなければ、科学 かがく は人間 にんげん の科学 かがく 的 てき 研究 けんきゅう につまらないものを運命 うんめい づけたであろうとコフカは考 かんが えていた。
1930年代 ねんだい 中頃 なかごろ まではナチスの猛襲 もうしゅう の中 なか を生 い き延 の びたものの[ 34] 、1935年 ねん までにゲシュタルト運動 うんどう の中核 ちゅうかく メンバーは皆 みな ドイツからアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく へ移住 いじゅう することを余儀 よぎ なくされた[ 35] 。ケーラーは別 べつ の著書 ちょしょ 『心理 しんり 学 がく の動力 どうりょく 学 がく 』を1940年 ねん に発表 はっぴょう したがそれ以降 いこう ゲシュタルト運動 うんどう は停滞 ていたい 期間 きかん が続 つづ くことになる。コフカが1941年 ねん に死去 しきょ し、ヴェルトハイマーは1943年 ねん に死去 しきょ した。ヴェルトハイマーの数学 すうがく 的 てき 問題 もんだい 解決 かいけつ に関 かん する待望 たいぼう の書 しょ 『生産 せいさん 的 てき 思考 しこう 』は死後 しご 1945年 ねん に出版 しゅっぱん されたがケーラーは一人 ひとり 健在 けんざい で、二人 ふたり の長年 ながねん の同僚 どうりょう なしに運動 うんどう を指揮 しき し続 つづ けたのであった[ 36] 。
アメリカにおける行動 こうどう 主義 しゅぎ の登場 とうじょう [ 編集 へんしゅう ]
20世紀 せいき 初期 しょき の数 すう 多 おお くの出来事 できごと が結合 けつごう した結果 けっか 、アメリカ心理 しんり 学 がく の支配 しはい 的 てき な学派 がくは として行動 こうどう 主義 しゅぎ が徐々 じょじょ に姿 すがた を現 あらわ した。それはまず、多 おお くの人 ひと が意識 いしき という概念 がいねん を懐疑 かいぎ 的 てき にみるようになっていくという形 かたち で現 あらわ れた: 心理 しんり 学 がく を生理学 せいりがく から分 わ けるうえでなお本質 ほんしつ 的 てき な要素 ようそ とはみなされていたものの、意識 いしき の主観 しゅかん 的 てき な実体 じったい とそれが要求 ようきゅう する信用 しんよう しがたい内観 ないかん 的 てき な方法 ほうほう は多 おお くの問題 もんだい を引 ひ き起 お こした。1904年 ねん の『ジャーナル・オヴ・フィロソフィー...』のウィリアム・ジェームズ による記事 きじ 「意識 いしき は存在 そんざい するのか?」はこの懸念 けねん をはっきりと表 あらわ していた。
第 だい 二 に には、厳密 げんみつ な動物 どうぶつ 心理 しんり 学 がく が徐々 じょじょ に興隆 こうりゅう しつつあった。1898年 ねん のエドワード・リー・ソーンダイク のパズル・ボックスに入 い れられたネコ の研究 けんきゅう に加 くわ えて、ラット が迷路 めいろ を取 と りぬける実験 じっけん がウィラード・スタントン・スモール によって始 はじ められた[ 37] 。1905年 ねん の『ジャーナル・オヴ・フィロソフィー...』に掲載 けいさい されたロバート・マーンズ・ヤーキーズ の「動物 どうぶつ 心理 しんり 学 がく と心 しん の判断 はんだん 基準 きじゅん 」によって、どういうときにある生命 せいめい 体 たい に意識 いしき があると言 い えるのかという一般 いっぱん 的 てき な問題 もんだい が浮 う かび上 あ がってきた。続 つづ く数 すう 年間 ねんかん にはジョン・ブローダス・ワトソン (1878年 ねん –1959年 ねん )が神経 しんけい 学 がく 的 てき 発育 はついく と白 しろ いラットの学習 がくしゅう 能力 のうりょく との間 あいだ の関係 かんけい に関 かん する論文 ろんぶん を発表 はっぴょう し、大 おお きな役割 やくわり を果 は たすようになった[ 38] 。もう一 ひと つのラットを用 もち いた重要 じゅうよう な研究 けんきゅう がヘンリー・H・ドナルドソン により発表 はっぴょう された[ 39] 。1909年 ねん には、イヴァン・パヴロフによるイヌの条件 じょうけん 付 づ けの研究 けんきゅう が初 はじ めて英語 えいご で説明 せつめい された[ 40] 。
バラス・フレデリック・スキナー
第 だい 三 さん の要因 よういん はワトソンが心理 しんり 学界 がっかい で大 おお きな力 ちから を持 も つ位置 いち を占 し めるようになったことである。1908年 ねん に、ワトソンがジェームズ・マーク・ボールドウィン によってジョンズ・ホプキンスに招聘 しょうへい されて下位 かい の教職 きょうしょく に就 つ いた。ジョンズ・ホプキンスの学部 がくぶ 長 ちょう であったのに加 くわ えて、ボールドウィンは影響 えいきょう 力 りょく の高 たか い雑誌 ざっし 『サイコロジカル・レビュー』および『サイコロジカル・ブリッティン』の編集 へんしゅう 者 しゃ を務 つと めていた。わずか数 すう ケ月 かげつ 後 ご にはワトソンのライヴァルのボールドウィンはスキャンダルによって教授 きょうじゅ 職 しょく 辞職 じしょく に追 お い込 こ まれた。ワトソンは突然 とつぜん 学部 がくぶ 長 ちょう および二 に 誌 し の編集 へんしゅう 者 しゃ の地位 ちい に就 つ いた。彼 かれ はこれらの強力 きょうりょく な地位 ちい を有効 ゆうこう に使 つか って自身 じしん の研究 けんきゅう の印象 いんしょう における心理 しんり 学 がく に革命 かくめい をもたらすことを決断 けつだん した。1913年 ねん の『サイコロジカル・レヴュー』に彼 かれ はしばしば行動 こうどう 主義 しゅぎ 運動 うんどう の「マニフェスト」と呼 よ ばれる記事 きじ 「行動 こうどう 主義 しゅぎ 者 しゃ が見 み る限 かぎ りでの心理 しんり 学 がく 」を掲載 けいさい した。そこで彼 かれ は、心理 しんり 学 がく とは「自然 しぜん 科学 かがく の純粋 じゅんすい に客観 きゃっかん 的 てき ・実験 じっけん 的 てき 領域 りょういき である」、「内観 ないかん 的 てき 形式 けいしき は心理 しんり 学 がく の方法 ほうほう の本質 ほんしつ 的 てき 部分 ぶぶん ではない[...]」、「行動 こうどう 主義 しゅぎ 者 しゃ は[...]ヒトと野獣 やじゅう の間 あいだ の境目 さかいめ を認識 にんしき しない」などと主張 しゅちょう した。翌年 よくねん 1914年 ねん に彼 かれ の最初 さいしょ の教科書 きょうかしょ 『行動 こうどう 』が出版 しゅっぱん された。行動 こうどう 主義 しゅぎ が包括 ほうかつ 的 てき なアプローチとして認 みと められるまでにはなお時間 じかん がかかったものの[ 41] (第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん による妨害 ぼうがい も少 すく なからずあり)、1920年 ねん ごろまでにワトソンの革命 かくめい は軌道 きどう に乗 の った。初期 しょき の行動 こうどう 主義 しゅぎ の中心 ちゅうしん 的 てき 教 きょう 説 せつ は、心理 しんり 学 がく は心 しん ではなく行動 こうどう の科学 かがく であるべきだというもので、信念 しんねん ・欲望 よくぼう ・目標 もくひょう といった内的 ないてき 精神 せいしん 状態 じょうたい は否定 ひてい された。しかしワトソン自身 じしん は1920年 ねん にスキャンダルによりジョンズ・ホプキンス大学 だいがく 退職 たいしょく を余儀 よぎ なくされた。彼 かれ は1920年代 ねんだい には著述 ちょじゅつ の公開 こうかい を続 つづ けたものの、行動 こうどう 主義 しゅぎ の宣伝 せんでん 塔 とう としての役割 やくわり にシフトしていった[ 42] 。
活動 かつどう を続 つづ けた行動 こうどう 主義 しゅぎ 者 しゃ の中 なか でも、続行 ぞっこう させるための最善 さいぜん の方法 ほうほう に関 かん しては数 すう 多 おお くの異論 いろん が起 お こった。エドワード・チェイス・トールマン 、エドウィン・レイ・ガスリー 、クラーク・レナード・ハル 、バラス・フレデリック・スキナー といった新 しん 行動 こうどう 主義 しゅぎ 者 しゃ 達 いたる は、(1)伝統 でんとう 的 てき な心理 しんり 学 がく 的 てき 概念 がいねん を行動 こうどう 主義 しゅぎ 的 てき 術語 じゅつご へと再 さい 定義 ていぎ するかそれらを放棄 ほうき して全 まった く新 あたら しい枠組 わくぐ みを選 えら ぶか、(2)学習 がくしゅう は一 いち 度 ど にすべて起 お こってしまうのか徐々 じょじょ に起 お こるのか、(3)行動 こうどう の「動機 どうき づけ」を与 あた えるために生物 せいぶつ 学 がく 的 てき 動因 どういん を新 あら たな科学 かがく に含 ふく めるか否 ひ か、(4)どの程度 ていど まで「全 すべ ての」理論 りろん 的 てき 枠組 わくぐ みは学習 がくしゅう の報酬 ほうしゅう と罰 ばち の計測 けいそく 効果 こうか を超 こ えて要求 ようきゅう されるのか、といった問題 もんだい について議論 ぎろん した。1950年代 ねんだい 後半 こうはん までに、スキナーの定式 ていしき 化 か が支配 しはい 的 てき となり、行動 こうどう 分析 ぶんせき の名 な の下 した に現代 げんだい 心理 しんり 学 がく の一部 いちぶ として存続 そんぞく している。
行動 こうどう 主義 しゅぎ は20世紀 せいき の長 なが い期間 きかん 、心理 しんり 学 がく 研究 けんきゅう における優勢 ゆうせい な実験 じっけん モデルであったが、これは人間 にんげん の行動 こうどう の科学 かがく 的 てき モデルとしての条件 じょうけん づけ理論 りろん の(少 すく なくとも宣伝 せんでん の上 うえ では)創造 そうぞう 的 てき で成功 せいこう した応用 おうよう であったことによる。
フランス語 ふらんすご 圏 けん 心理 しんり 学 がく の第 だい 二 に 世代 せだい [ 編集 へんしゅう ]
ジャン・ピアジェ
1918年 ねん に、ジャン・ピアジェ (1896年 ねん –1980年 ねん )が自身 じしん の初期 しょき の博物学 はくぶつがく 者 しゃ としての研鑽 けんさん から転向 てんこう してチューリヒ で博士 はかせ 号 ごう 取得 しゅとく 後 ご の研究 けんきゅう として精神 せいしん 分析 ぶんせき を始 はじ めた。1919年 ねん には彼 かれ はパリ へ赴 おもむ いてビネー・シモン研究 けんきゅう 室 しつ に勤 つと めた。しかし、ビネーは1911年 ねん に死去 しきょ し、シモンはルーアンに引 ひ っ越 こ していた。そのためピアジェの指導 しどう はビネーの昔 むかし からのライヴァルでコレージュ・ド・フランス の教授 きょうじゅ だったピエール・ジャネ が(間接 かんせつ 的 てき に)行 おこな うことになった。
パリでの仕事 しごと は比較的 ひかくてき 単純 たんじゅん だった。: 博物学 はくぶつがく 者 しゃ として身 み に着 つ けた統計 とうけい 学 がく 的 てき 手法 しゅほう を使 つか って、軟体動物 なんたいどうぶつ を研究 けんきゅう し、シリル・バートの知能 ちのう テストをフランスの児童 じどう に使 つか えるように規格 きかく 化 か すること。未 いま だ直接 ちょくせつ の指導 しどう を受 う けていなかったが、彼 かれ はすぐにこの退屈 たいくつ な仕事 しごと の解決 かいけつ 法 ほう を見出 みいだ した: なぜ子供 こども たちが失敗 しっぱい するのかを探求 たんきゅう すること。精神 せいしん 分析 ぶんせき 的 てき 面接 めんせつ における初期 しょき の鍛錬 たんれん に応用 おうよう して、ピアジェは子 こ どもたちに直接 ちょくせつ に干渉 かんしょう し始 はじ めた: 「何故 なぜ そうしたのか?」(等々 とうとう )。後 のち に段階 だんかい 説 せつ として定式 ていしき 化 か する理論 りろん が最初 さいしょ に芽生 めば えたのはこのころからであった。
1921年 ねん になると、ピアジェはジュネーヴ に移 うつ ってジャン=ジャック・ルソー教育 きょういく 研究所 けんきゅうじょ とともにエドゥアール・クラパレード とともに研究 けんきゅう を行 おこな った。
1936年 ねん には、ピアジェは初 はじ めての名誉 めいよ 博士 はかせ 号 ごう をハーヴァードから授与 じゅよ された。
1955年 ねん に、遺伝 いでん 認識 にんしき 学 がく 国際 こくさい センターが創立 そうりつ された: 理論 りろん 家 か と科学 かがく 者 しゃ の学際 がくさい 的 てき 活動 かつどう 、ピアジェの理論 りろん に関係 かんけい する議題 ぎだい の研究 けんきゅう に捧 ささ げられた。
1969年 ねん 、ピアジェは「科学 かがく に対 たい する顕著 けんちょ な貢献 こうけん 」をアメリカ心理 しんり 学会 がっかい から賞 しょう された。
ノーム・チョムスキー
スキナーの著書 ちょしょ 『言語 げんご 行動 こうどう 』(行動 こうどう 主義 しゅぎ の枠組 わくぐ みで言語 げんご 習得 しゅうとく を説明 せつめい することを狙 ねら った著書 ちょしょ )に対 たい するノーム・チョムスキー の論評 ろんぴょう (1957)はスキナーが説 と いた種類 しゅるい の徹底的 てっていてき 行動 こうどう 主義 しゅぎ に対 たい する最大 さいだい の理論 りろん 的 てき 挑戦 ちょうせん の一 ひと つとされた。スキナーが自明 じめい のこととしたある種 しゅ のオペラント条件 じょうけん 付 づ けのみでは言語 げんご は学習 がくしゅう されえないとチョムスキーは示 しめ した。チョムスキーの主張 しゅちょう は、人間 にんげん はそれぞれ独自 どくじ の構造 こうぞう ・意味 いみ を持 も つ無限 むげん に多様 たよう な文 ぶん を生成 せいせい することができ、それらは自然 しぜん 言語 げんご の経験 けいけん のみでは生成 せいせい されえないというものであった。その代 か わりに、内的 ないてき な精神 せいしん 構造 こうぞう ―行動 こうどう 主義 しゅぎ が幻想 げんそう として退 しりぞ けた精神 せいしん 状態 じょうたい ―が存在 そんざい しなければならないとチョムスキーは結論 けつろん した。同様 どうよう に、児童 じどう は外的 がいてき 行動 こうどう を変化 へんか させることなく社会 しゃかい 的 てき 調査 ちょうさ から学習 がくしゅう することができ、そのため内的 ないてき 表象 ひょうしょう によって説明 せつめい されなければいけないことをアルバート・バンデューラ による研究 けんきゅう が示 しめ している。
計算 けいさん 機 き 技術 ぎじゅつ の興隆 こうりゅう は情報処理 じょうほうしょり として精神 せいしん 機能 きのう をとらえる隠喩 いんゆ も広 ひろ めた。これが、心 しん の研究 けんきゅう の科学 かがく 的 てき アプローチと結合 けつごう され、内的 ないてき 精神 せいしん 状態 じょうたい という概念 がいねん とともに、心 しん の支配 しはい 的 てき なモデルとしての心理 しんり 学 がく の興隆 こうりゅう を招 まね いた。
脳 のう と神経 しんけい 系 けい 機能 きのう の接続 せつぞく も広 ひろ く知 し られるようになったが、これはチャールズ・シェリントン やドナルド・ヘッブ といった人々 ひとびと の実験 じっけん 的 てき 著作 ちょさく のためというのもあれば、脳 のう 障害 しょうがい をもつ人々 ひとびと の研究 けんきゅう (認知 にんち 神経 しんけい 心理 しんり 学 がく (英語 えいご 版 ばん ) を参照 さんしょう )のためというのもある。脳 のう 機能 きのう を精確 せいかく に調 しら べる技術 ぎじゅつ の発展 はってん とともに、神経 しんけい 心理 しんり 学 がく と認知 にんち 神経 しんけい 科学 かがく が現代 げんだい の心理 しんり 学 がく の最 もっと も活発 かっぱつ な領域 りょういき の一部 いちぶ となった。
心 しん を理解 りかい するという問題 もんだい における他 た の分野 ぶんや (哲学 てつがく 、計算 けいさん 機 き 科学 かがく 、神経 しんけい 科学 かがく 等 ひとし )との掛 か かり合 あ いの増加 ぞうか により、包括 ほうかつ 的 てき 学問 がくもん たる認知 にんち 科学 かがく が建設 けんせつ 的 てき な方法 ほうほう でこの研究 けんきゅう に着目 ちゃくもく する手段 しゅだん として作 つく られた。
^ see e.g., Everson, 1991; Green & Groff, 2003
^ see, e.g., Robinson, 1995
^ see, e.g., Durrant, 1993; Nussbaum & Rorty, 1992
^ see e.g., Annas, 1992
^ see e.g., Paranjpe, 1998
^ A. Vanzan Paladin (1998), "Ethics and neurology in the Islamic world: Continuity and change", Italial Journal of Neurological Science 19 : 255-258 [257], Springer-Verlag.
^ a b Nurdeen Deuraseh and Mansor Abu Talib (2005), "Mental health in Islamic medical tradition", The International Medical Journal 4 (2), p. 76-79.
^ Omar Khaleefa (Summer 1999). "Who Is the Founder of Psychophysics and Experimental Psychology?", American Journal of Islamic Social Sciences 16 (2). Link
^ Muhammad Iqbal , The Reconstruction of Religious Thought in Islam , "The Spirit of Muslim Culture" (cf. [1] and [2] )
^ S Safavi-Abbasi, LBC Brasiliense, RK Workman (2007), "The fate of medical knowledge and the neurosciences during the time of Genghis Khan and the Mongolian Empire", Neurosurgical Focus 23 (1), E13, p. 3.
^ Amber Haque (2004), "Psychology from Islamic Perspective: Contributions of Early Muslim Scholars and Challenges to Contemporary Muslim Psychologists", Journal of Religion and Health 43 (4): 357-377 [375].
^ Amber Haque (2004), "Psychology from Islamic Perspective: Contributions of Early Muslim Scholars and Challenges to Contemporary Muslim Psychologists", Journal of Religion and Health 43 (4): 357-377 [361]
^ a b Amber Haque (2004), "Psychology from Islamic Perspective: Contributions of Early Muslim Scholars and Challenges to Contemporary Muslim Psychologists", Journal of Religion and Health 43 (4): 357-377 [363].
^ a b Martin-Araguz, A.; Bustamante-Martinez, C.; Fernandez-Armayor, Ajo V.; Moreno-Martinez, J. M. (2002). "Neuroscience in al-Andalus and its influence on medieval scholastic medicine", Revista de neurología 34 (9), p. 877-892.
^ Muhammad Iqbal , The Reconstruction of Religious Thought in Islam , "The Spirit of Muslim Culture"
^ G. A. Russell (1994), The 'Arabick' Interest of the Natural Philosophers in Seventeenth-Century England , pp. 224-262, Brill Publishers , ISBN 90-04-09459-8 .
^ Advances in the History of Psychology » Blog Archive » Presentism in the Service of Diversity?
^ Webster, Richard (2005). Why Freud Was Wrong: Sin, Science and Psychoanalysis . Oxford: The Orwell Press. p. 461. ISBN 0-9515922-5-4
^ Rauch, Frederick A. (1806–1841) Psychology, or a view of the human soul, including anthropology (1840).
^ see, e.g., Shapin, 1975; but also see van Wyhe, 2004
^ see Sokal, 2001
^ Edgell & Symes, 1906
^ For more on Wundt, see, e.g., Bringmann & Tweney, 1980; Rieber & Robinson, 2001
^ see Cadwallader, 1974
^ Glucksberg, S. History of the psychology department: Princeton University. Retrieved July 9, 2008 from “アーカイブされたコピー ”. 2010年 ねん 6月 がつ 14日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2011年 ねん 6月 がつ 7日 にち 閲覧 えつらん 。
^ On the history of the APA, see Evans, Staudt Sexton, & Cadwallader, 1992.
^ see, e.g., Heidbredder, 1933
^ Plas, 1997
^ Nicolas, 2002
^ Heth, C. Donald;Carlson,Neil R, Psychology the science of behaviour, Canadian fourth edition, 2010
^ Bartlett, 1937
^ see Kusch, 1995; Kroker, 2003
^ Ter Hark, 2004
^ see Henle, 1978
^ Henle, 1984
^ For more on the history of Gestalt psychology, see Ash, 1995
^ 1900, 1901 in American Journal of Psychology
^ 1907, Psychological Review Monograph Supplement ; Carr & Watson, 1908, J. Comparative Neurology & Psychology
^ 1908, J. Comparative Neurology & Psychology
^ Yerkes & Morgulis, 1909, Psychological Bulletin
^ see Samelson, 1981
^ see Coon, 1994
Carlson, Heth et Al (2010). "Psychology, the science of behaviour" Toronto, Ontarion, Canada: Pearson Canada.
Annas, J. E. (1992). Hellenistic philosophy of mind . Berkeley, California: University of California Press.
Ash, M. G. (1995). Gestalt psychology in German culture, 1890-1967 . Cambridge, UK: Cambridge University Press.
Bakalis, N. (2005). Handbook of Greek Philosophy: From Thales to the Stoics: Analysis and Fragments . Victoria, BC: Trafford Publishing.
Bardon, F. (2001). Initiation Into Hermetics . Salt Lake City, Utah: Merkur Publishing Co..
Bartlett, F. C. (1937). Cambridge, England: 1887–1937. American Journal of Psychology, 50 , 97–110.
Bringmann, W. G. & Tweney, R. D. (Eds.) (1980). Wundt studies . Toronto: Hogrefe.
Cadwallader, T. C. (1974). Charles S. Peirce (1839–1914). The first American experimental psychologist. Journal of the *History of the Behavioral Sciences, 10 , 291–298.
Carlson, N.R. & Heth, C.D. (2007). Psychology the science of behaviour . 4th ed. Upper Saddle River, New Jersey: Pearson Education, Inc., 18.
Cockren, A. (2007). Alchemy Rediscovered and Restored . New York, New York: Forgotten Books.
Coon, Deborah J. (1994). 'Not a Creature of Reason': The Alleged Impact of Watsonian Behaviorism on Advertising in the 1920s. In J.T. Todd & E.K. Morris (Eds.), Modern Perspectives on John B. Watson and Classical Behaviorism . New York: Greenwood.
Cooper, J. C. (1990). Chinese Alchemy: the Daoist Quest for Immortality . New York, New York: Sterling Publishing Co. Inc..
Danziger, K. (1997). Naming the mind: How psychology found its language. London: Sage.
Durrant, M. (Ed.) (1993). Aristotle's De Anima in focus . London: Routledge.
Edgell, Beatrice & Symes, W. Legge (1906). The Wheatstone-Hipp Chronoscope. Its Adjustments, Accuracy, and Control. British Journal of Psychology, 2 , 58–88.
Edwardes, M. (1977). The Dark Side of History . New York, New York: Stein and Day.
Evans, R. B., Staudt Sexton, V., & Cadwallader, T. C. (Eds.) (1992). The American Psychological Association: A historical perspective . Washington, D.C.: American Psychological Association.
Everson, S. (Ed.)(1991). Companions to Ancient thought 2: Psychology. New York: Cambridge University Press.
Fechner, G. T. (1860). Elemente der psychophysik . Engelmann(?).
Furumoto, L., & Scarborough, E. (1987). Untold Lives: The First Generation of American Women Psychologists . New York: Columbia University Press.
Green, C. D. (2000). Introduction to: "Perception: An introduction to the Gestalt-Theorie" by Kurt Koffka (1922). Classics in the History of Psychology (http://psychclassics.yorku.ca/Koffka/Perception/intro.htm ).
Green, C. D. & Groff, P. R. (2003). Early psychological thought: Ancient accounts of mind and soul. Westport, Connecticut: Praeger.
Hauck, D. W. (2008). The Complete Idiot's Guide to Alchemy . New York, New York: Alpha.
Heidbredder, E. (1933). Seven psychologies. New York: Appleton-Century-Crofts.
Henle, M. (1978). One man against the Nazis: Wolfgang Köhler. American Psychologist, 33 , 939–944.
Henle, M. (1984). Robert M. Ogden and gestalt psychology in America. Journal of the History of the Behavioral Sciences, 20 , 9–19.
Hollister, C. W. & Bennett, J. (1990). Medieval Europe: A Short History . New York, New York: McGraw-Hill College.
Jarzombek, M. (2000). The Psychologizing of Modernity Cambridge: Cambridge University Press.
Jung, C. G. (1980). Psychology and Alchemy . New York, New York: Routledge.
Koffka, K. (1922). Perception: and introduction to the Gestalt-theorie. Psychological Bulletin, 19 , 531–585.
Koffka, K. (1924). The growth of the mind (R. M. Ogden, Trans.). London: Routledge & Kegan Paul. (Original work published 1921)
Koffka, K. (1935). Principles of Gestalt psychology . New York: Harcourt, Brace, & World.
Köhler, W. (1925). Mentality of apes (E. Winter, Trans.). London: Routledge & Kegan Paul. (Original work published 1917)
Köhler, W. (1940). Dynamics in psychology . New York: Liveright.
Kroker, K. (2003). The progress of instrospection in America, 1896–1938. Studies in History and Philosophy of Biological and Biomedical Sciences, 34 , 77–108.
Krstic, K. (1964). Marko Marulic—The Author of the Term "Psychology." Acta Instituti Psychologici Universitatis Zagrabiensis , no. 36, pp. 7–13. Reprinted at http://psychclassics.yorku.ca/Krstic/marulic.htm
Kusch, M. (1995). Recluse, interlocutor, interrogator: Natural and social order in turn-of-the-century psychological research schools. Isis, 86 , 419–439.
Mandler, G. (2007) A history of modern experimental psychology: From James and Wundt to cognitive science . Cambridge, MA: MIT Press
Nicolas, S. (2002). Histoire de la psychologie française: Naissance d'une nouvelle science . Paris: In Press.
Nussbaum, M. C. & Rorty, A. O. (Eds.) (1992). Essay on Aristotle's De Anima. Oxford: Clarendon Press.
Paranjpe, A. C. (1998). Self and identity in modern psychology and Indian thought . New York: Springer.
Plas, R. (1997). French psychology. In W. G. Bringmann, H. E. Lück, R. Miller, & C. E. Early (Eds.), A pictorial history of psychology (pp. 548–552). Chicago: Quintessence.
Plato, & Whitaker, K. A. (1996). Plato: Parmenides . Newburyport, Massachusetts: Focus Publishing.
Rieber, R. W. & Robinson, D. K. (Eds.) (2001). Wilhelm Wundt in history: The making of a scientific psychology . New York: Kluwer & Plenum.
Robinson, T. M. (1995). Plato's pschology (2nd ed.). Toronto: University of Toronto Press.
Schwartz, J. M. & Begley, S. (2002). The Mind and The Brain: Neuroplasticity and the Power of Mental Force . New York, New York: Harper Perennial.
Shapin, S. (1975). Phrenological knowledge and the social structure of early nineteenth-century Edinburgh. Annals of Science, 32 , 219–243.
Simon, Herbert A. (1981) Otto Selz and information-processing psychology. In N. H. Frijda A. D. de Groot (Eds.), Otto Selz: His Contribution to Psychology, Mouton , The Hague.
Sokal, M. M. (2001). Practical phrenology as psychological counseling in the 19th-century United States. In C. D. Green, M. Shore, & T. Teo (Eds.), The transformation of psychology: Influences of 19th-century philosophy, technology, and natural science (pp. 21–44). Washington, D.C.: American Psychological Association.
Ter Hark, Michel. (2004). Popper, Selz, and the rise of evolutionary epistemology. Cambridge, UK: Cambridge University Press.
Three Initiates, (1940). The Kybalion . Chicago, Illinois: Yogi Publication Society.
van der Eijk, P. (2005). Medicine and Philosophy in Classical Antiquity: Doctors and Philosophers on Nature, Soul, Health and Disease . New York, New York: Cambridge University Press.
van Wyhe, J. (2004). Phrenology and the origins of scientific naturalism . Aldershot, Hants, UK.
Vidal, F. (2011). The Sciences of the Soul: The Early Modern Origins of Psychology Chicago, University of Chicago Press.
Watson, J. B. (1913). Psychology as the behaviorist views it. Psychological Review, 20 , 158–177.
Wertheimer, M. (1912). Experimentelle Studien über das Sehen Bewegung. Zeitschrift für Psychologie, 61 , 247–250.
Wertheimer, M. (1938). Gestalt theory. In W. D. Ellis (Ed. & Trans.), A source book of gestalt psychology (pp. 1–11). London: Routledge & Kegan Paul. (Original work published 1925)
Wertheimer, W. (1945). Productive thinking . London: Tavistock.
Heth, carlson et Al. "Psychology, the science of behaviour" Canadian fourth edition. pg. 13, 2010
Winter, A. (1998). Mesmerized: Powers of mind in Victorian Briatin . Chicago: University of Chicago Press.
For more information, including rejection rates and average publication lag, see this report
Classics in the History of Psychology - on-line full texts of 250+ historically significant primary source articles, chapters, & books, ed. by Christopher D. Green
Fondation Jean Piaget - Collection of primary sources by, and secondary sources about, Jean Piaget (in French; edited by Jean-Jacques Ducret and Wolfgang Schachner)
The Mead Project - collection of writings by George Herbert Mead and other related thinkers (e.g., Dewey, James, Baldwin, Cooley, Veblen, Sapir), ed. by Lloyd Gordon Ward and Robert Throop
Sir Francis Galton, F.R.S.
William James Site ed. by Frank Pajares
History of Phrenology on the Web ed. by John van Wyhe
Frederic Bartlett Archive - A collection of Bartlett's own writings and related material maintained by Brady Wagoner, Gerard Duveen and Alex Gillespie
心理 しんり 学 がく 史 し の二 に 次 じ 文献 ぶんけん の集成 しゅうせい [ 編集 へんしゅう ]
実際 じっさい の公文書 こうぶんしょ の掲載 けいさい されたウェブサイト[ 編集 へんしゅう ]