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心理しんりがく歴史れきし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

心理しんりがく歴史れきし(しんりがくのれきし)とは、心理しんりがくという学問がくもんまれ辿たどってきた歴史れきしのことである。心理しんりがく起源きげん古代こだいギリシア時代じだいさかのぼることができ、また、古代こだいエジプト心理しんりがくてき思索しさく活動かつどう証拠しょうこのこされている。また、近代きんだい心理しんりがく哲学てつがくから独立どくりつしてひとつの学問がくもんとして成立せいりつしたのは、1879ねんドイツ心理しんり学者がくしゃヴィルヘルム・ヴントライプツィヒ大学だいがく心理しんりがく実験じっけんしつひらき、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくでも心理しんりがく研究けんきゅうはじまった1870年代ねんだいという見解けんかい一般いっぱんてきである。心理しんりがくさかいせっする様々さまざま領域りょういきとして、生理学せいりがく神経しんけい科学かがく人工じんこう知能ちのう社会しゃかいがく人類じんるいがく、さらに哲学てつがくやその人間にんげんてき活動かつどうがある。

概要がいよう

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今日きょうでは、心理しんりがくがいして「行動こうどう心理しんり作用さよう研究けんきゅう」と定義ていぎされる。精神せいしん行動こうどうたいする哲学てつがくてき関心かんしんエジプトギリシア中国ちゅうごくインドさかのぼる,

自覚じかくてき実験じっけん研究けんきゅう領域りょういきとしての心理しんりがくは1879ねんヴィルヘルム・ヴントはつ心理しんりがくてき研究けんきゅう専門せんもんとする研究けんきゅうしつライプツィヒ創立そうりつしたことにはじまる。ヴントは自身じしん心理しんり学者がくしゃ心理しんりがく教科書きょうかしょ(『生理学せいりがくてき心理しんりがく綱要こうよう』)を出版しゅっぱんしたはつ人物じんぶつでもある。初期しょき心理しんりがく貢献こうけんした人物じんぶつとしては、ヘルマン・エビングハウス記憶きおく研究けんきゅう草分くさわけ)、ウィリアム・ジェームズ(アメリカのプラグマティズムちち)、イヴァン・パブロフ古典こてんてき条件じょうけんづけかんする過程かてい研究けんきゅうした)などがいる。

実験じっけん心理しんりがく発展はってんしたすぐに、様々さまざま種類しゅるい応用おうよう心理しんりがくあらわれた。グランヴィル・スタンレー・ホールは1880年代ねんだい前半ぜんはんにドイツからアメリカに科学かがくてき教育きょういくがくをもたらした。れいとして1890年代ねんだいジョン・デューイによる教育きょういく理論りろんがある。おなじく1890年代ねんだいに、ヒューゴー・ミュンスターバーグ心理しんりがく産業さんぎょうほうその領域りょういきへの応用おうようかんする著作ちょさく活動かつどうはじめた。ライトナー・ウィトマーは1890年代ねんだいはつ心理しんりがくクリニックを設立せつりつした。ジェームズ・キャッテルフランシス・ゴルトン人体じんたい測定そくていがくてき手法しゅほうれて、1890年代ねんだいはつ心理しんり検査けんさほうした。そのころウィーンでは、ジークムント・フロイトが、精神せいしん分析ぶんせきばれる、しんたいする独立どくりつした研究けんきゅうほう発達はったつさせ、これが非常ひじょうおおきな影響えいきょうおよぼすことになる。

20世紀せいきにはヴントの経験けいけん主義しゅぎたいするエドワード・ティチェナー批判ひはんへの反動はんどうこった。この反動はんどう影響えいきょう形成けいせいされたジョン・ブローダス・ワトソン行動こうどう主義しゅぎバラス・フレデリック・スキナーによってひろめられた。行動こうどう主義しゅぎ心理しんりがく研究けんきゅう対象たいしょうを、定量ていりょうてき容易ようい測定そくていできるあきらかな行動こうどうのみに限定げんていすることを提案ていあんした。行動こうどう主義しゅぎしゃは、「しん」の知識ちしき科学かがくてきるには形而上学けいじじょうがくてきすぎるとかんがえる。20世紀せいき最後さいごの10ねんには行動こうどう主義しゅぎ衰退すいたい認知にんち科学かがく人間にんげんしん研究けんきゅうたいする学際がくさいてきアプローチ―の興隆こうりゅうこった。認知にんち科学かがくは「しん」をふたた研究けんきゅう主題しゅだいとみなし、進化しんか心理しんりがく言語げんごがく計算けいさん科学かがく哲学てつがく行動こうどう主義しゅぎ神経しんけい生物せいぶつがくといった道具どうぐもちいる。このタイプの研究けんきゅうによって、人間にんげん精神せいしん広範こうはん理解りかい可能かのうでありそうした理解りかい人工じんこう知能ちのうのようなほか研究けんきゅう領域りょういき応用おうようできると提議ていぎされた。

ぜん近代きんだい心理しんりがくてき思想しそう

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古今ここんおおくの文化ぶんかしんたましい精神せいしん等々とうとうかんする思索しさくおこなわれた。たとえば古代こだいエジプトでは、エドウィン・スミス・パピルスのうかんする初期しょき記述きじゅつのう機能きのうかんするいくらかの思索しさくふくまれている(が内科ないかてきあるいは外科げかてき文脈ぶんみゃくにおいてのものである)。古代こだい医学いがくてき文書ぶんしょやまいをもたらす悪魔あくま退散たいさんのまじない・祈願きがんやその迷信めいしんたされているのにたいして、エドウィン・スミス・パピルスにふくまれるほぼ50の病態びょうたいかんする療法りょうほううちひとつだけがあくよけのまじないである。このためエドウィン・スミス・パピルスは今日きょう常識じょうしきとみなされているものと同様どうようのものとして称揚しょうようされているが、それがまったことなる文脈ぶんみゃく起源きげんすることをわすれてはならない。

アリストテレス

タレス(紀元前きげんぜん550ねんごろ活躍かつやく)からローマ時代じだいまで、古代こだいギリシア哲学てつがくしゃたちは、かれらが「プシュケー」(psychologyという言葉ことばぜん半分はんぶんはこれに由来ゆらいする)とぶものやそのの「心理しんり学的がくてき述語じゅつご―「ヌース」、「トゥモス」、「ロギスティコン」等々とうとう―にかんする精緻せいち理論りろん発達はったつさせた[1]なかでももっと影響えいきょうりょくたかいのはプラトン(とくに『国家こっか』)[2]ピタゴラスアリストテレスとくに『霊魂れいこんろん』)による説明せつめいである[3]ヘレニズム哲学てつがくもの(すなわち、ストアエピクロスたち古典こてん時代じだいのギリシアしょ学派がくはとはいくつかの重要じゅうようてん区別くべつされる。とくに、ヘレニズム哲学てつがくしゃたちはしん生理学せいりがくてき基盤きばんかんする問題もんだい関心かんしんいたてんことなる[4]。ローマ時代じだい医師いしガレノスはこういった問題もんだいもっと精緻せいち説明せつめいし、以後いごすべての人々ひとびと影響えいきょうあたえた。こうしたギリシア哲学てつがくキリスト教きりすときょうイスラームしんろん影響えいきょうした。

ユダヤ・キリスト教きりすときょうながれでは、集団しゅうだん規定きていうみ文書ぶんしょ以降いこう紀元前きげんぜん21ねんごろ-61ねん)に人間にんげん本性ほんしょうふたつの性質せいしつ区別くべつすることが言及げんきゅうされている。

アジアでは、中国ちゅうごく教育きょういくシステムの一環いっかんとしての能力のうりょく試験しけん管理かんりしたなが歴史れきしゆうする。6世紀せいきに、Lin Xieが初期しょき試験しけん実行じっこうし、試験しけんにおいて(あきらかにひとることにたいするよわさをテストするために)片手かたて四角よつかどえがいてもう一方いっぽうまるえがくように要求ようきゅうした。これは最初さいしょ心理しんりがく実験じっけんであり、ゆえに実験じっけん科学かがくとしての心理しんりがくはじまりであると主張しゅちょうしたものもいる。

インドもまた、ヴェーダーンタ哲学てつがく著作ちょさくにみられるように「自己じこ」にかんする精緻せいち理論りろん[5]

中世ちゅうせいイスラーム医学いがくもの様々さまざまな「しんやまい」になや患者かんじゃ治療ちりょうする臨床りんしょうてき技術ぎじゅつ発展はってんさせた[6]

アブー・ザイド・アーメド・イブン・サール・バルキ(850ねん–934ねん)はそのながれのなかでも最初さいしょ位置いちし、心身しんしん両面りょうめんやまいについてろんじて、「ナフス(プシュケー)」がやまいると、肉体にくたい生活せいかつなかこころようしない、最終さいしゅうてき肉体にくたいやまいいた[7]」と主張しゅちょうした。アル・バルキは、肉体にくたいたましい健康けんこうであったりんだり、いいかえれば「バランスをたもっていたりバランスがくずれたり」することができると認識にんしきしていた。肉体にくたいのバランスがくずれると発熱はつねつ頭痛ずつう、その肉体にくたいてき症状しょうじょうはっし、一方いっぽうたましいのバランスがくずれると憤怒ふんぬ不安ふあん悲嘆ひたん、そのの「ナフス」に関係かんけいする症状しょうじょうはっするとかれいている。今日きょう我々われわれうつびょうぶようなものには種類しゅるいあるとかれ認識にんしきしていた: 一方いっぽう喪失そうしつ故障こしょうといったわかる理由りゆうによってこり、心理しんりがくてき治療ちりょうできる; そしてもう一方いっぽうはおそらく生理学せいりがくてき原因げんいんによるよくわからない理由りゆうによってこり、物理ぶつり療法りょうほうによって治療ちりょうできる[7]

学者がくしゃイブン・アル・ハイサム(アルハゼン)は、様々さまざま種類しゅるい感受性かんじゅせい触覚しょっかくてき知覚ちかくいろ認識にんしき明暗めいあん認識にんしきつき錯視さくし心理しんりがくてき説明せつめいりょうといった、視覚しかく認識にんしきやその知覚ちかくかんする実験じっけんおこなった[8]アル・ビールーニー反応はんのう時間じかん試験しけんにこういった実験じっけん手法しゅほうもちいた[9]

イブン・スィーナー

イブン・スィーナーもまた同様どうように、初期しょき研究けんきゅうでナフスに関係かんけいするやまいあつかい、内的ないてき感覚かんかく連動れんどうした心拍しんぱくすう変化へんか説明せつめいする体系たいけい発展はってんさせた。また、今日きょうでは精神せいしん神経しんけい疾患しっかんとしてあつかわれている現象げんしょうについてもイブン・スィーナーはいているが、具体ぐたいてきには、幻覚げんかく不眠症ふみんしょう躁病そうびょう悪夢あくむ憂鬱ゆううつ認知にんちしょうてんかん麻痺まひのう梗塞こうそく空間くうかん失調しっちょうふるえなどがある[10]

心理しんりがく関係かんけいする話題わだいあつかったほか医学いがく思想家しそうか以下いか:

アブー・メルワーン・アブダル=マリク・イブン・ズール(アヴェンゾアル)は今日きょううところの今日きょうずいまくえん血栓けっせん静脈じょうみゃくえんたてへだたはい細胞さいぼう腫瘍しゅようおなびょうについて著述ちょじゅつした; イブン・ルシュド網膜もうまくひかり受容じゅようせいがあるとかんがえた; そしてモーシェ・ベン・マイモーン狂犬病きょうけんびょうベラドンナ中毒ちゅうどくについて著述ちょじゅつした[14]

ウィテロ知覚ちかく心理しんりがく先駆せんくしゃとされる。かれう「ペルスペクティヴァ」(: Perspectiva)には心理しんりがくてき要素ようそおおふくまれ、近代きんだい観念かんねん連合れんごう潜在せんざい意識いしきかんする思想しそうちかいものを形作かたちづくっている。

西洋せいよう心理しんりがくあけぼの

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古代こだいじん著作ちょさくおおくがうしなわれていただろう、もし知恵ちえかん知識ちしきかんその施設しせつでのキリスト教徒きりすときょうとユダヤじんペルシアじん努力どりょくがなければ。のちに、12世紀せいきかれらの作成さくせいした辞典じてん注釈ちゅうしゃくしょラテン語らてんごやくされた。しかしながら、これらの文献ぶんけんルネサンス最初さいしょどのようにしてもちいられるようになったのかは明確めいかくにはなっておらず、のち心理しんりがくとしてこってくるものにたいするこれらの文献ぶんけん影響えいきょう学問がくもんてき議題ぎだいとなっている[17]

語源ごげん初期しょき語法ごほう

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心理しんりがく:Psychologia)という術語じゅつご最初さいしょ使用しようは、1590ねんマールブルクで『人間にんげんがくてき心理しんりがく』(:Psychologia hoc est de hominis perfectione, anima, ortu)を発表はっぴょうしたドイツスコラ哲学すこらてつがくものルドルフ・ゲッケル(1547ねん-1628ねんラテン語らてんごされたルドルフス・ゴクレニウスでよくられる)にしばしばされる。しかし、この述語じゅつごはさらに60ねん以上いじょうまえクロアチア人文じんぶん主義しゅぎものマルコ・マルリッチ(1450ねん-1524ねん)のラテン語らてんご論文ろんぶん題名だいめい人間にんげんせいてき理性りせい心理しんりがく』(:Psichiologia de ratione animae humanae)でもちいられている。この論文ろんぶん自体じたい現存げんそんしていないが、その題名だいめいはマルリッチよりわかどう時代じだいじんフラニョ・ボジチェヴィッチ・ナタリスの『スプリトのマルコ・マルリッチの生涯しょうがい』(:Vita Marci Maruli Spalatensis, Krstić, 1964)にふくまれるマルリッチの著作ちょさく一覧いちらんあらわれる。とはいえ当然とうぜんのことながら、これがまさしく最初さいしょ使用しようというわけではない。ただ、目下もっかのところ文献ぶんけん証明しょうめいできるかぎりではもっとはや使用しようではある。

しかし心理しんりがくという術語じゅつご一般いっぱんてきとなったのは、ドイツの観念論かんねんろん哲学てつがくしゃクリスティアン・ヴォルフが著書ちょしょ経験けいけんてき心理しんりがく』(1732ねん)と『合理ごうりてき心理しんりがく』(1734ねん)でもちいて以降いこうである。この、経験けいけんてき心理しんりがく合理ごうりてき心理しんりがくという区別くべつは、ドゥニ・ディドロ(1713ねん-1780ねん)に『百科全書ひゃっかぜんしょ』(1751ねん-1784ねん)にげられ、フランスフランソワ=ピエール=ゴンティエ・メーヌ・ド・ビランによってひろめられた。イングランドでは、「心理しんりがく」という術語じゅつごは19世紀せいきなかばには、とくにウィリアム・ハミルトンきょう(1788ねん-1856ねん)の著作ちょさくによって「しん哲学てつがく」を上回うわまわって一般いっぱんてきとなった(see Danziger, 1997, chap. 3)。

啓蒙けいもう時代じだい心理しんりがくてき思想しそう

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初期しょき心理しんりがくは(キリストきょうてき意味いみでの)たましい研究けんきゅうとしてあつかわれた[18]近代きんだい哲学てつがくてきかたち心理しんりがくルネ・デカルト(1596ねん-1650ねん)の著作ちょさくや、かれしそのうちもっと関連かんれんせいのあるものはかれの『省察せいさつ』(1641ねん)にたいする反論はんろんとして発表はっぴょうされた議論ぎろん影響えいきょうつよけている。心理しんりがく発展はってんたいして重要じゅうようなものとしてはかれの『情念じょうねんろん』(1649ねん)や『人間にんげんろん』(1632ねん編纂へんさんされたが、カトリック教会きょうかいによるガリレオ・ガリレイきつけて、『世界せかいろん』とともに公刊こうかんひかえられた; 最終さいしゅうてきにデカルトの死後しご1664ねん発表はっぴょうされた)がある。

医師いしとしての教育きょういくけてはいないものの、デカルトはウシ心臓しんぞうかんする広範こうはん研究けんきゅうおこなっており、かれウィリアム・ハーヴェイからの応答おうとうあたいするほど重要じゅうようとされた。デカルトは最初さいしょにハーヴェイの血液けつえき循環じゅんかんせつ賛同さんどうした人物じんぶつ一人ひとりであるが、血液けつえき循環じゅんかんせつ説明せつめいするためのハーヴェイの形而上学けいじじょうがくてき枠組わくぐみには反対はんたいした。デカルトは動物どうぶつ人間にんげん死体したい解剖かいぼうした結果けっかりゅう研究けんきゅうしたしみ、肉体にくたいたましいがなくともうごきうる複雑ふくざつ装置そうちであるという結論けつろんみちびいて、それにより「たましいきょうせつ」を否定ひていした。医学いがくいち領域りょういきとしての心理しんりがく出現しゅつげんトマス・ウィリスによっておおきく後押あとおしされたが、それはたんのう機能きのう分野ぶんやにおいてかれ心理しんりがく言及げんきゅうした(「たましいきょうせつ」)からだけではなく、かれ詳細しょうさい解剖かいぼうがく論文ろんぶんししたましいろん』(:De Anima Brutorum、1672ねん)を発表はっぴょうしたことによる。しかし、ウィリスは自身じしん著作ちょさく示唆しさあたえたものとしてデカルトのライヴァルピエール・ガッサンディ影響えいきょうみとめていた。

イギリス経験けいけんろん哲学てつがくしゃ連合れんごう主義しゅぎ哲学てつがくしゃ経験けいけんてき心理しんりがくのちにたどるみちふか影響えいきょうあたえた。ジョン・ロックの『人間にんげん悟性ごせいろん』(1699ねん)やジョージ・バークリーの『人知じんち原理げんりろん』(1710ねん)、デイヴィッド・ヒュームの『人間にんげん本性ほんしょうろん』(1739ねん-1740ねん)は、デイヴィッド・ハートリーの『人間にんげん観察かんさつ』(1749ねん)やジョン・ステュアート・ミルの『論理ろんりがく体系たいけい』(1843ねん)とともにとく影響えいきょうりょくたかい。さらに、すうにん大陸たいりく合理ごうり主義しゅぎ哲学てつがくしゃ著作ちょさくとくバールーフ・デ・スピノザ(1632ねん-1677ねん)の『人間にんげん知性ちせい改善かいぜんろん』(1662ねん)、ゴットフリート・ライプニッツ(1646ねん-1716ねん)の 『人間にんげん知性ちせいしんろん』(1705ねん完成かんせいされ1765ねん発表はっぴょうされた)がげられる[19]

デンマーク哲学てつがくしゃセーレン・キルケゴール著書ちょしょ不安ふあん概念がいねん』(1844ねん)や『いたやまい』(1849ねん)によって人文じんぶんてき実存じつぞんてき近代きんだいてき心理しんり学派がくは影響えいきょうあたえた。

現代げんだい心理しんりがくへの変化へんか

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心理しんりがく誕生たんじょう影響えいきょうあたえたものとして、催眠さいみんじゅつ催眠さいみん療法りょうほう先駆せんくしゃ)の有効ゆうこうせい骨相こっそうがく価値かちにまつわる議論ぎろんがある。前者ぜんしゃは1770年代ねんだいオーストリア医師いしフランツ・アントン・メスメル(1734ねん-1815ねん)が発展はってんさせたものである。かれ重力じゅうりょくちからや、のちには「動物どうぶつ磁気じき」をもちいて様々さまざま肉体にくたいてき精神せいしんてき病気びょうき治療ちりょうすることを提唱ていしょうした。メスメルとかれ療法りょうほうウィーンおよびパリ徐々じょじょ人気にんきはくするにつれて、いぶかしんだ官憲かんけん監視かんしはいることになった。1784ねんにはパリでルイ16せいによって検査けんさ実施じっしされ、アメリカの使節しせつベンジャミン・フランクリン化学かがくしゃアントワーヌ・ラボアジエ医師いしジョゼフ=イニャス・ギヨタンのちギロチンひろめた)らが参加さんかした。メスメルの手法しゅほう無益むえきだとかれらは結論けつろんした。インドで活動かつどうしたポルトガルじん司祭しさいアベ・ファリアふたた動物どうぶつ磁気じきたいする大衆たいしゅう関心かんしんいたが、メスメルとはちがい、ファリアはその効果こうか患者かんじゃ協力きょうりょく期待きたいちからによって「しんうちからしょうじる」と主張しゅちょうした。 このように論争ろんそうきてはいたものの、「磁気じき」による療法りょうほうはメスメルの弟子でしそのがれ、内科ないかジョン・エリオットソン(1791ねん-1868ねん)、外科医げかいジェームズ・エスデイル(1808ねん-1859ねん)やジェイムズ・ブレイド(1795ねん-1860ねん、メスメル主義しゅぎしゃう「ちから」よりもむしろ患者かんじゃ意思いし特性とくせいとして時期じきさい定式ていしきし、ヒプノティズムというあたえた)らの研究けんきゅうによって19世紀せいきイングランドでさい浮上ふじょうした。メスメル主義しゅぎはイングランドで19世紀せいきつうじて強力きょうりょくな(医学いがくてきではないにしても)社会しゃかいてき崇拝すうはいしゃ存続そんぞくした(see Winter, 1998)。ファリアの方法ほうほうナンシー学派がくはアンブロワーズ=オーギュスト・リエボーイッポリト・ベルネーム分析ぶんせきてき理論りろんてき著作ちょさくおおきく展開てんかいされた。ファリアの理論りろんてき立場たちば、そしてそれにつづくナンシー学派がくは立場たちば経験けいけんしたことがこうエミール・クーエ自己じこ暗示あんじ手法しゅほうおおきく影響えいきょうした。自己じこ暗示あんじはパリのサルペトリエール病院びょういん医長いちょうジャン=マルタン・シャルコー(1825ねん-1893ねん)によってヒステリー治療ちりょうほうとして採用さいようされた。

骨相こっそうがくは「器官きかんがく」、つまりドイツの医師いしフランツ・ヨゼフ・ガル(1758ねん-1828ねん)によって発展はってんさせられたのう構造こうぞうかんする理論りろん、として出発しゅっぱつした。のう非常ひじょうおおきな機能きのうてきな「器官きかん」にけられ、それぞれの器官きかん人間にんげん特定とくてい精神せいしんてき能力のうりょく性向せいこう希望きぼうあいれいせい強欲ごうよく言語げんご物体ぶったいおおきさ・かたちいろ検出けんしゅつする能力のうりょく等々とうとう―をつかさどっているとガルはいた。また、それぞれのこういった器官きかんおおきければおおきいほど、その器官きかん対応たいおうする精神せいしんてき特性とくせい強力きょうりょくになるともかれとなえた。さらに、ひと頭蓋骨ずがいこつ表面ひょうめん調しらべることでそのひと器官きかんおおきさを検知けんちすることができるとかれ主張しゅちょうした。ガルののうかんする極端きょくたん局在きょくざいろんてき立場たちばはすぐに、とくにフランスの解剖かいぼう学者がくしゃマリー・ジャン・ピエール・フルーラン(1794ねん-1867ねんのう機能きのう局在きょくざいせいなどないと主張しゅちょうしてにわとりたいするあなあけ手術しゅじゅつおこなった)による批判ひはんけた。ガルは(見当けんとうちがいであったにせよ)真剣しんけん研究けんきゅうおこなっていたが、かれ理論りろん助手じょしゅヨハン・ガスパル・シュプルツハイム(1776ねん-1832ねん)によって営利えいり目的もくてき通俗つうぞくてき興業こうぎょうてき骨相こっそうがく仕立したてげられ、とくにイギリスで独立どくりつした開業医かいぎょうい産業さんぎょうてき繁栄はんえい大量たいりょうこすことになった。スコットランドでは宗教しゅうきょうてき指導しどうしゃジョージ・クーム(1788ねん-1858ねんかれの『人間にんげん構造こうぞう』は19世紀せいきのベストセラーのひとつ)のにより、骨相こっそうがく社会しゃかいてき改革かいかく運動うんどう平等びょうどう主義しゅぎつよむすびついた[20]骨相こっそうがくはアメリカにもすぐにひろまり、臨床りんしょうてき骨相こっそうがく地方ちほう巡業じゅんぎょうおこなわれて希望きぼうするきゃく精神せいしんてき健康けんこう診断しんだんがなされた[21]

ドイツ実験じっけん心理しんりがく登場とうじょう

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ヴィルヘルム・ヴント

19世紀せいき中頃なかごろまでは、心理しんりがくがいして哲学てつがくいち分野ぶんやとしてあつかわれていた。たとえば、イマヌエル・カント(1724ねん-1804ねん)は著書ちょしょ自然しぜん科学かがく形而上学けいじじょうがくてき基礎きそ』(1786ねん)で、様々さまざま理由りゆうなかでも、心理しんりがくてき現象げんしょう数学すうがくてき形式けいしき表現ひょうげんできないという理由りゆうために、心理しんりがくは「厳密げんみつ科学かがくとなりえないとべている。しかし、『実用じつようてき見地けんちにおける人間にんげんがく』(1798ねん)においてカントは、近代きんだいてき視点してんからは経験けいけんてき心理しんりがく非常ひじょうちかえるものを提議ていぎしている。

ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト(1776ねん–1841ねん)はカントのした結論けつろん対立たいりつした意見いけんち、科学かがくてき心理しんりがく数学すうがくてき基礎きそ発展はってんさせた。かれ自身じしん心理しんりがく用語ようご経験けいけん主義しゅぎてきあらわすことはできなかったが、かれ努力どりょくによってエルンスト・ハインリヒ・ヴェーバー(1795ねん-1878ねん)やグスタフ・テオドール・フェヒナー(1801ねん-1887ねん)が外的がいてき刺激しげき物理ぶつりてきおおきさとそれによってしょうじる感覚かんかく精神せいしんてき強度きょうどとの数学すうがくてき関係かんけいはかることになった。フェヒナー(1860ねん)がはじめて精神せいしん物理ぶつりがくという言葉ことば使つかった。

そのころ、天文学てんもんがくにおいて反応はんのう時間じかん個人こじんが「個人こじん誤差ごさ」のした重大じゅうだい問題もんだいとなっていた。フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル(1784ねん-1846ねん)によるケーニヒスベルクでの、あるいはアドルフ・ヒルシュによる、初期しょき研究けんきゅうによってマティアス・ヒップ非常ひじょう精確せいかくクロノグラフ発明はつめい促進そくしんされ、これが、砲弾ほうだん速度そくど計測けいそくする装置そうちというチャールズ・ホイートストンのデザインにもとづくようになった[22]計時けいじ生理学せいりがくから借用しゃくようされ(たとえばキモグラフ)、ユトレヒト眼科がんかフランキスクス・コルネリス・ドンデルス(1818ねん-1899ねん)やかれ弟子でしヨハン・ヤコブ・デ・ヤーガーによって単純たんじゅん心理しんりてき決定けってい持続じぞく期間きかんはかさい利用りようされた。

19世紀せいき神経しんけい生理学せいりがくなどの生理学せいりがく専門せんもんした時代じだいでもあり、生理学せいりがく史上しじょうもっと重要じゅうよう発見はっけんのいくつかがなされている。その主導しゅどうしゃとしては、それぞれ独立どくりつ脊椎せきついうちでの知覚ちかく神経しんけい運動うんどう神経しんけい分離ぶんり発見はっけんしたチャールズ・ベル(1774ねん-1843ねん)およびフランソワ・マジャンディー(1783ねん-1855ねん)、特殊とくしゅ神経しんけいエネルギーせつとなえたヨハネス・ペーター・ミュラー(1801ねん-1855ねん)、すじ収縮しゅうしゅく電気でんきがくてき基礎きそ研究けんきゅうしたエミール・デュ・ボア=レーモン(1818ねん-1896ねん)、それぞれことなる言語げんご機能きのうをつかさどるのう領域りょういきあきらかにしたピエール・ポール・ブローカ(1824ねん-1880ねん)とカール・ヴェルニッケ(1848ねん-1905ねん)、のう運動うんどう知覚ちかく特定とくていしたグスタフ・テオドール・フリッチュ(1837ねん-1927ねん)、エドゥアルト・ヒッツィヒ(1839ねんー1907ねん)、デイヴィッド・フェリア(1843ねん-1924ねん)らがいる。経験けいけんてき生理学せいりがくだいいち創始そうししゃ一人ひとりであるヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(1821ねん-1894ねん)は、のち心理しんり学者がくしゃ関心かんしんくことになる議題ぎだい神経しんけい伝達でんたつ速度そくどおといろ実体じったいおといろ認識にんしき本性ほんしょう等々とうとう―の広範こうはん研究けんきゅうおこなった。1860年代ねんだいには、かれハイデルベルク大学だいがくしょくていたが、そこでヴィルヘルム・ヴントというわか医学いがく博士はかせ助手じょしゅとしてやとった。ヴントは生理学せいりがく研究けんきゅうしつ器材きざい―クロノスコープ、キモグラフ、様々さまざま周辺しゅうへんてき道具どうぐ―をもちいて、それまで経験けいけんてき研究けんきゅうされていたよりも複雑ふくざつ心理しんりがくてき問題もんだい説明せつめいした。とりわけ、かれ統覚とうかく認識にんしき明確めいかく意識いしき中心ちゅうしんてき関心かんしんめる領域りょういき―の実体じったい関心かんしんいた。

ヴントは1874ねんチューリヒ教授きょうじゅとなり、となる教科書きょうかしょ生理学せいりがくてき心理しんりがく綱要こうよう』を発表はっぴょうした。1875ねんにより名声めいせいたかライプツィヒ教授きょうじゅしょくくと、ヴントは1879ねんもっぱ経験けいけんてき心理しんりがく独自どくじ研究けんきゅうおこな研究けんきゅうしつ創立そうりつしたが、これは世界せかいはつのそのたね研究けんきゅうしつである。1883ねんには、自身じしん弟子でし研究けんきゅう発表はっぴょうする雑誌ざっし哲学てつがく研究けんきゅう』(どく:Philosophische Studien)をげた[23]。ヴントはドイツのみならず外国がいこくからも非常ひじょうおおくの学生がくせいけた。かれもっと影響えいきょうりょくたかいアメリカじん弟子でしにはグランヴィル・スタンレー・ホールウィリアム・ジェームズ監督かんとくすでにハーヴァードから博士はかせごうていた)、ジェームズ・キャッテル(ヴントの最初さいしょ助手じょしゅ)、フランク・アンゲルらがいる。もっと影響えいきょうりょくたかいイギリスじん弟子でしエドワード・ティチェナーのちにコーネル大学だいがく教授きょうじゅとなる)である。

実験じっけん心理しんりがく教室きょうしつカール・シュトゥンプ(1848ねん-1936ねん)によってベルリンで、ゲオルク・エリアス・ミュラー(1850ねん-1934ねん)によってゲッティンゲン設立せつりつされた。どう時期じきのもう一人ひとりのドイツの著名ちょめい実験じっけん心理しんり学者がくしゃは、自身じしん研究けんきゅうしつ管理かんりしたことはないものの、ヘルマン・エビングハウス(1850ねん-1909ねん)である。

このころのドイツ語どいつごけん心理しんりがくたいするアプローチとして実験じっけんだけがおこなわれているわけではなかった。1890年代ねんだいはじまって、事例じれい研究けんきゅうもちいてウィーンの医師いしジークムント・フロイトが、自身じしん患者かんじゃの「ヒステリー」の背後はいごよこたわる原因げんいんだといた無意識むいしき信念しんねん欲望よくぼう推定すいていてきあきらかにするために催眠さいみん療法りょうほう自由じゆう連想れんそうゆめ解釈かいしゃく発展はってん応用おうようした。かれはこの手法しゅほう精神せいしん分析ぶんせきしょうした。フロイト精神せいしん分析ぶんせき病因びょういんにおいて個々ここ性的せいてき発展はってん過程かてい重点じゅうてんくことでとくいちじるしい。精神せいしん分析ぶんせきてき概念がいねん西洋せいよう文化ぶんかとく芸術げいじゅつたいしていまつよ影響えいきょうのこしている。その科学かがくてき功績こうせきにはいま議論ぎろんがあるものの、フロイト心理しんりがくユング心理しんりがくは、いくつかの行動こうどう思考しこう意識いしきからかくされているような―しかし人間にんげん完全かんぜん一部いちぶとして活動かつどうしてはいる―分離ぶんりされた思考しこう存在そんざいあきらかにした。かくれた動機どうき、やましいしん、あるいはつみ意識いしきは、個人こじん人格じんかくやその結果けっかとしての行動こうどうのいくつかの様相ようそう理解りかい欠如けつじょ選択せんたくつうじた、個人こじん意識いしきしていない心理しんり作用さよう存在そんざい実例じつれいである。

精神せいしん分析ぶんせき自我じが作用さようする心的しんてき作用さよう考察こうさつする。これらの理解りかいによって、神経症しんけいしょうときには精神病せいしんびょうリヒャルト・フォン・クラフト=エビングはこの両者りょうしゃ人格じんかくやまい定義ていぎした)にたいする治療ちりょう効果こうかとともに個人こじんおおきな選択せんたく自意識じいしき理論りろんてき可能かのうになる。カール・ユングはフロイトの同僚どうりょうであったが、フロイトがせい強調きょうちょうすることにはしはっしてかれたもとかった。1800年代ねんだいに(ジョン・ステュアート・ミル、クラフト=エビング、ピエール・ジャネテオドール・フルールノワによって)はじめてべられた無意識むいしき概念がいねんもちいて研究けんきゅうすることで、ユングは、自我じが関係かんけいして自我じが規定きていするよっつの精神せいしん機能きのう定義ていぎした。感覚かんかく意識いしきなにかの存在そんざいつたえる)、感情かんじょう価値かち判断はんだんからなり、感覚かんかくしたものにたいする反応はんのう動機どうきづけをおこなう)、思考しこういまこっている出来事できごとっているすべての出来事できごと比較ひかくし、いまこっている出来事できごと種類しゅるい範疇はんちゅう付与ふよして、歴史れきしてき公的こうてき個人こじんてき過程かていなか理解りかいできるようにする分析ぶんせきてき機能きのう)、直感ちょっかんふか行動こうどうパターンにれる心的しんてき機能きのうであり、ユングいわく「間近まぢかたかのように」予期よきせざる結論けつろん提起ていきしたりおもいがけない結果けっか予言よげんしたりする機能きのうつ)のよっつがそれである。理論りろん心理しんり学者がくしゃ心的しんてき投影とうえい期待きたいもとづかず、事実じじつもとづいている経験けいけん心理しんりがくをユングは提唱ていしょうした。

初期しょきアメリカ心理しんりがく

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ウィリアム・ジェームズ

1875ねんごろハーヴァード大学だいがく生理学せいりがく講師こうし以前いぜんからそうだった)ウィリアム・ジェームズ自身じしん講義こうぎ使つかうための実験じっけん生理学せいりがくちいさな実験じっけん研究けんきゅうしつひらいた。この研究けんきゅうしつ当時とうじ本来ほんらい研究けんきゅう使つかわれることがなかったため、「最初さいしょの」実験じっけん心理しんりがく研究けんきゅうしつとしてあつかうべきかかという議論ぎろんおこなわれつづけている。1878ねんに、ジェームズはジョンズ・ホプキンス大学だいがくで「知覚ちかくのうとそれらの思考しこうたいする関係かんけい」とだいした連続れんぞく講義こうぎおこない、そこでトマス・ヘンリー・ハクスリー論駁ろんばくして、意識いしきとは随伴ずいはん現象げんしょうてきなものではなく進化しんかにおいてなんらかの機能きのうっていたものにちがいなく、もちろん人間にんげんによって選択せんたくされたものではなかったと主張しゅちょうした。同年どうねんにジェームズはヘンリー・ホルトに「あらたな」実験じっけん心理しんりがく教科書きょうかしょくよう契約けいやくさせられた。かれがこれを素早すばやきあげていれば、この分野ぶんやにおける最初さいしょ英語えいごでの教科書きょうかしょとなっていたであろう。しかし、かれの12かんおよぶ『心理しんりがく原理げんり』が出版しゅっぱんされたのはその12ねんであった。そのあいだイェール大学だいがくジョージ・トランブル・ラッドや(1887ねん)、レイク・フォレスト大学だいがくジェームズ・マーク・ボールドウィンが(1889ねん教科書きょうかしょ出版しゅっぱんした。

1879ねんチャールズ・サンダーズ・パースがジョンズ・ホプキンス大学だいがく哲学てつがく講師こうしとしてやとわれた。パースは天文学てんもんがく哲学てつがく研究けんきゅうでもられているが、おそらくアメリカではじめての心理しんりがく実験じっけんをもおこなっており、色覚しきかく主題しゅだいとして1877ねんに『アメリカン・ジャーナル・オヴ・サイエンス』を公刊こうかんした[24]。パースとかれ弟子でしジョゼフ・ジャストロウは1884ねんに『メモワーズ・オヴ・ザ・ナショナル・アカデミー・オヴ・サイエンス』誌上しじょう論文ろんぶん感覚かんかくこまかなちがいについて」を発表はっぴょうした。1882ねんにはパースはグランヴィル・スタンレー・ホールによってジョンズ・ホプキンズ大学だいがく赴任ふにんしているが、このスタンレー・ホールが1883ねんにアメリカで最初さいしょ実験じっけん心理しんりがく専門せんもんとする研究けんきゅうしつひらいた。のちにパースはスキャンダルでしょくすることを余儀よぎなくされ、スタンレー・ホールがジョンズ・ホプキンスで唯一ゆいいつ哲学てつがく教授きょうじゅとなった。スタンレー・ホールは1887ねんに『アメリカン・ジャーナル・オヴ・サイコロジー』を創刊そうかんし、同誌どうしおもかれ自身じしん研究けんきゅうしつからされた論文ろんぶん掲載けいさいした。1888ねんになるとスタンレー・ホールはクラーク大学だいがく総長そうちょうとなるためにジョンズ・ホプキンスの教授きょうじゅしょくし、引退いんたいするまでこのしょくにとどまった。

そのすぐに、実験じっけん心理しんりがく教室きょうしつペンシルヴァニア大学だいがく(1887ねんジェームズ・マッキーン・キャッテルによって)、インディアナ大学だいがく(1888ねんウィリアム・ローウェ・ブライアンによって)、ウィスコンシン大学だいがくマディソンこう(1888ねんジョゼフ・ジャストロウによって)、クラーク大学だいがく(1889ねんエドマンド・サンフォードによって)、マクレーン・アサイラム(1889ねん、ウィリアム・ノイエスによって)、ネブラスカ大学だいがく(1889ねんハリー・カーキ・ウォルフェによって)に創設そうせつされた。 しかし、プリンストン大学ぷりんすとんだいがくの1924ねん創設そうせつされたEno Hallこそが、それがプリンストン大学ぷりんすとんだいがくこころ理学部りがくぶ宿舎しゅくしゃとなったさいに、もっぱ実験じっけん心理しんりがく研究けんきゅうするアメリカで最初さいしょ大学だいがく建物たてものであった[25]

1890年代ねんだいに、ウィリアム・ジェームズの『心理しんりがく原理げんり』が最終さいしゅうてき発表はっぴょうされ、アメリカ心理しんりがく史上しじょうもっと急速きゅうそくひろまった教科書きょうかしょとなった。本書ほんしょは、アメリカの心理しんり学者がくしゃ長年ながねんにわたって注視ちゅうしすることになる種類しゅるい問題もんだい基盤きばんおおくを提供ていきょうした。本書ほんしょなかでも意識いしき感情かんじょう習慣しゅうかんかんするあきら問題もんだい前提ぜんてい提供ていきょうした。

ジェームズの『心理しんりがく原理げんり』の影響えいきょう体感たいかんしたもの一人ひとりとしてミシガン大学だいがく哲学てつがく教授きょうじゅだったジョン・デューイがいる。よりわか同僚どうりょうジェームズ・ヘイデン・タフツ(ミシガンに心理しんりがく教室きょうしつ設立せつりつした)やジョージ・ハーバート・ミード、そして弟子でしジェームズ・ローランド・アンゲルとともに、このグループは心理しんりがくさい定式ていしきし、これまでヴントやその弟子でしたちが重視じゅうししてきた精神せいしん物理ぶつりがく影響えいきょうけた生理学せいりがくてき心理しんりがくよりも社会しゃかいてき環境かんきょうしん行動こうどうの「活動かつどう」につよ重点じゅうてんいた。タフツはミシガンをって1892ねんあたらしく設立せつりつされたシカゴ大学だいがくわか地位ちいいた。1ねん、シカゴのろう哲学てつがくしゃしょくし、タフツはシカゴ大学だいがく学長がくちょうウィリアム・レイニー・ハーパーにデューイに教授きょうじゅしょくもうるようすすめた。最初さいしょ抵抗ていこうがあったものの、デューイは1894ねんやとわれた。デューイはすぐにミシガンでの同僚どうりょうのミードやアンゲルで学部がくぶ教員きょういん空席くうせきめた。この4にんによってシカゴ心理しんり学派がくは中核ちゅうかく形成けいせいされた。

1892ねんに、グランヴィル・スタンレー・ホールあらたにアメリカ心理しんり学会がっかい(APA)を創設そうせつする目的もくてきクラーク大学だいがく会合かいごうひらき、さんじゅうすうにん心理しんり学者がくしゃ哲学てつがくしゃ招聘しょうへいした[26]。APAの例年れいねん会合かいごう一回いっかいペンシルヴァニア大学だいがくジョージ・ステュアート・ファラートン主催しゅさいにより同年どうねん後半こうはんおこなわれた。しかし、APAのなか実験じっけん指向しこうのメンバーと哲学てつがく指向しこうのメンバーとのあいだ対立たいりつがほぼ即座そくざこった。エドワード・ティチェナーライトナー・ウィトマーによって哲学てつがくてき言明げんめいのためにかれた「部会ぶかい」を創立そうりつするかあるいは哲学てつがくしゃ完全かんぜん放逐ほうちくするかという傾向けいこうこされた。10ねんほどの議論ぎろんのち西洋せいよう哲学てつがくかい結成けっせいされてだいいちかい会合かいごうが1901ねんネブラスカ大学だいがくひらかれた。翌年よくねん1902ねんには、アメリカ哲学てつがくかいだいいちかい会合かいごうコロンビア大学ころんびあだいがくひらいた。これらは結局けっきょく現代げんだいのアメリカ哲学てつがくかい中央ちゅうおう東部とうぶとなった。

1894ねんには、『アメリカン・ジャーナル・オヴ・サイコロジー』の偏狭へんきょう編集へんしゅう方針ほうしん不満ふまんいたすうおおくの心理しんり学者がくしゃスタンレー・ホールに、同誌どうしかれ周辺しゅうへんじたものとせずに編集へんしゅう委員いいんかいもうけてよりおおくの心理しんり学者がくしゃひらかれたものにするようった。これをスタンレー・ホールが拒否きょひしたため、ジェームズ・マッキーン・キャッテルコロンビア大学ころんびあだいがく勤務きんむ)とジェームズ・マーク・ボールドウィンプリンストン大学ぷりんすとんだいがく勤務きんむ)が共同きょうどうあらたに『サイコロジカル・レヴュー』を創刊そうかんし、これがアメリカの心理しんりがく研究けんきゅうしゃ論文ろんぶん投稿とうこうさきとして急激きゅうげき成長せいちょうしていった。

1895ねんはじめに、ジェームズ・マーク・ボールドウィンエドワード・ブラッドフォード・ティチェナーコーネル大学だいがく)が、ヴントの研究けんきゅうしつまれた(最初さいしょルートヴィヒ・ランゲジェームズ・マッキーン・キャッテル報告ほうこくした)例外れいがいてき反応はんのう時間じかん発見はっけんをどう解釈かいしゃくすべきかという、辛辣しんらつになりつづける議論ぎろん参加さんかした。1896ねんに、ジェームズ・ローランド・アンゲルアディソン・ウェブスター・ムーアシカゴ大学だいがく)が『サイコロジカル・レヴュー』で一連いちれん実験じっけん結果けっか発表はっぴょうして、二人ふたりなかでボールドウィンがよりただしいことをしめした。しかし、かれらはジョン・デューイによる心理しんりがくたいするあたらしいアプローチの観点かんてんから発見はっけん解釈かいしゃくしており、それは伝統でんとうてき反射はんしゃゆみ刺激しげき反応はんのう理解りかい否定ひていして、「刺激しげき」なるものと「反応はんのう」なるものは観察かんさつしゃ状況じょうきょうをどのようにみるのかに依存いぞんしているという「遠回とおまわしな」理解りかいえらぶものであった。完全かんぜん立場たちばは、1896ねんにやはり『サイコロジカル・レヴュー』で発表はっぴょうされた、デューイの画期的かっきてき論説ろんせつ心理しんりがくにおける反射はんしゃゆみ概念がいねん」で開陳かいちんされた。

ティチェナーは『サイコロジカル・レヴュー』(1898ねん、1899ねん)において、自身じしん心理しんりがくたいする厳密げんみつな「構成こうせいてき」アプローチを、シカゴ学派がくはのより応用おうようてきな「機能きのうてき」アプローチとかれんだものと区別くべつすることで応答おうとうし、それによって構成こうせい主義しゅぎ機能きのう主義しゅぎというアメリカ心理しんりがく最初さいしょおおきな理論りろんてき断絶だんぜつまれた。ジェームズ・マッキーン・キャッテルエドワード・リー・ソーンダイクロバート・セッションズ・ウッドワースらが主導しゅどうするコロンビア大学ころんびあだいがくのグループは(シカゴにぐ)アメリカ機能きのう主義しゅぎだい世代せだいとしばしばみなされる [27]が、かれらの研究けんきゅう心理しんり検査けんさ学習がくしゅう教育きょういくといった応用おうよう分野ぶんや重点じゅうてんいていたために、かれらが自身じしんにこの言葉ことばもちいることはけっしてなかった。1899ねんにはデューイがAPAの会長かいちょう選出せんしゅつされたが、ティチェナーは会員かいいん資格しかくうしなった(ティチェナーは1904ねん自身じしんのグループを形成けいせいし、これがのち実験じっけん心理しんりがく協会きょうかいとしてられることになる)。1900ねんにはジョゼフ・ジャストロウがAPA会長かいちょうとして講話こうわおこなって機能きのう主義しゅぎてきアプローチを喧伝けんでんし、アンゲルは1904ねんかれによる影響えいきょうりょくたか教科書きょうかしょで、1906ねんにAPA会長かいちょうとしての講話こうわでティチェナーの分類ぶんるい採用さいようした。実際じっさいのところ、構成こうせい主義しゅぎしゃおおかれすくなかれティチェナーとその弟子でしかぎられる(もっと影響えいきょうりょくたか教科書きょうかしょ実験じっけん心理しんりがく歴史れきし』をいたティチェナーのかつての弟子でしエドウィン・ボーリングこそが、構成こうせい主義しゅぎ/機能きのう主義しゅぎ論争ろんそうが20世紀せいき転機てんきにおけるアメリカ心理しんりがく断層だんそうせんだというかんがえをはじめた)。機能きのう主義しゅぎがいして、行為こうい応用おうようといったより実践じっせんてきてんをより強調きょうちょうし、アメリカの文化ぶんかてきな「スタイル」により合致がっちしており、おそらくさらに重要じゅうようなことに、大学だいがく評議ひょうぎいん民間みんかん資金しきん提供ていきょう機関きかんあいだでより人気にんきつよかった。

初期しょきフランス心理しんりがく

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ジャン=マルタン・シャルコー

すくなからずルイ・ナポレオン政権せいけん大統領だいとうりょう、1848ねん-1852ねん;皇帝こうていナポレオン3せい、1852ねん-1870ねん)の保守ほしゅせいために、19世紀せいき中頃なかごろ以来いらいのフランスの大学だいがく哲学てつがくは、ヴィクトル・クザン(1792ねん-1867ねん)、テオドール・ジュフロワ(1796ねん-1842ねん)、ポール・ジャネ(1823ねん-1899ねん)といった人物じんぶつ主導しゅどうする折衷せっちゅう主義しゅぎてき唯心ゆいしんろんてきしょ学派がくは牛耳ぎゅうじられていた。これらは伝統でんとうてきかたち而学てき学派がくはであり、心理しんりがく自然しぜん科学かがくとみなすことに反対はんたいしていた。ひろしふつ戦争せんそうでの敗走はいそうによってナポレオン3せい追放ついほうされると、政治せいじてきにも学問がくもんてきにもあたらしいみちけた。1870ねん以降いこうには、心理しんりがくたいする実証じっしょう主義しゅぎてき唯物ゆいぶつろんてき進化しんかろんてき決定けっていろんてきなアプローチへの関心かんしん確実かくじつ増大ぞうだいしていき、人々ひとびとあいだでもイポリット・テーヌ(1828ねん-1893ねんたとえば『知性ちせいろん』、1870ねん)やテオデュール・アルマン・リボー(1839ねん-1916ねんたとえば『現代げんだいイギリス心理しんりがく』、1870ねん)の著作ちょさく影響えいきょうけて発展はってんした。

1876ねんには、リボーは『ルヴュ・フィロソフィック』を創刊そうかんし(同年どうねんにイギリスで『マインド』が創刊そうかんされている)、これが次世代じせだいにとって「あたらしい」こころ理学りがく論文ろんぶん実質じっしつじょう唯一ゆいいつ提出ていしゅつさきとなった[28]かれ自身じしん実験じっけん主義しゅぎしゃとして活動かつどうしていないものの、リボーの著作ちょさくおおくが次世代じせだい心理しんり学者がくしゃ甚大じんだい影響えいきょうおよぼすこととなった。そのなかでもとくに『心理しんりがくてき遺伝いでんがく』(1873ねん)および『現代げんだいドイツ心理しんりがく』(1879ねん)の名前なまえげられる。1880年代ねんだいになると、リボーは関心かんしん精神病せいしんびょう理学りがくけ、記憶きおく障害しょうがい(1881ねん)、意志いし(1883ねん)、人格じんかく(1885ねん)にかんする著書ちょしょ執筆しっぴつして、そのなかで、こういった話題わだいたいして一般いっぱん心理しんりがく知見ちけん導入どうにゅうしようとこころみた。1881ねんにはかれソルボンヌ大学そるぼんぬだいがく心理しんり学説がくせつ教授きょうじゅ伝統でんとう主義しゅぎしゃジュール・スーリ(1842ねん-1915ねん)にわたすことになったが、1885ねんから1889ねんにはふたたびソルボンヌで実験じっけん心理しんりがくおしえた。その1889ねんコレージュ・ド・フランス実験じっけん心理しんりがく比較ひかく心理しんりがく教授きょうじゅき、1896ねんまでこの地位ちいとどまった[29]

フランス心理しんりがくだいいち長所ちょうしょ精神病せいしんびょう理学りがく領域りょういきにある。パリのサルペトリエール病院びょういん神経しんけいちょうジャン=マルタン・シャルコー(1825ねん-1893ねん)はかれ患者かんじゃのうちなんにんかにヒステリー症状しょうじょうを「実験じっけんてきに」つくすために(上述じょうじゅつの)催眠さいみんじゅつ復活ふっかつさい命名めいめいしてもちいていた。かれ弟子でしのうちのにんアルフレッド・ビネー(1857ねん-1911ねん)とピエール・ジャネ(1859ねん-1947ねん)はこの手法しゅほう自身じしん研究けんきゅうれ、拡張かくちょうした。

1889ねんには、ビネーとかれ同僚どうりょうアンリ=エティエンヌ・ボーニ(1830ねん-1921ねん)はフランスはつ実験じっけん心理しんりがく教室きょうしつをソルボンヌに共同きょうどう設立せつりつした。そのちょうど5ねんの1894ねんに、ボーニ、ビネ、そしてさんにん同僚どうりょうヴィクトル・アンリ(1872ねん-1940ねん)がフランスはつ実験じっけん心理しんりがく専門せんもん『ラネー・プシコロジック』を共同きょうどう創刊そうかんした。20世紀せいき最初さいしょとしには、ビネーがフランス政府せいふから、あたらしく設立せつりつされた大学だいがくおおやけ教育きょういくシステムにおいて、標準ひょうじゅんてきなカリキュラムを修了しゅうりょうするのに特別とくべつ補助ほじょ必要ひつようとする学生がくせいつける方法ほうほう開発かいはつするよう要請ようせいされた。かれはそれにこたえて、協力きょうりょくしゃテオドール・シモンとともに、ビネー・シモンしき知能ちのう検査けんさ開発かいはつし、1905ねん公開こうかいした(1908ねんおよび1911ねん改定かいていされた)。 この検査けんさほうはフランスでも実施じっしされたが、おおきな成功せいこうおさめ(そして論争ろんそうこしもし)たのはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくにおいてであり、ヴァインランド精神せいしん薄弱はくじゃくしゃ訓練くんれん学校がっこう校長こうちょうヘンリー・ハーバート・ゴダード(1866ねん-1957ねん)およびかれ助手じょしゅエリザベス・カイトによって英訳えいやくされた(1905ねん翻訳ほんやくは1908ねんのヴァインランドの『紀要きよう』で公開こうかいされたが、よくられたのは1908ねん改定かいていばんをカイトが1916ねん翻訳ほんやくしたものであり、単行本たんこうぼんもされた)。翻訳ほんやくばん検査けんさほうはゴダードにより、かれ先天的せんてんてき精神せいしん薄弱はくじゃくだとみなしていたものたち、とく西欧せいおう諸国しょこくからの移民いみん、に着目ちゃくもくしたかれ優生ゆうせいがく思想しそうすすめるのに利用りようされた。ビネーの検査けんさほうは1916ねんスタンフォード大学だいがく教授きょうじゅルイス・マディソン・ターマン(1877ねん-1956ねん)によって改定かいていされてスタンフォード・ビネー知能ちのう検査けんさまれた。 ビネーが1911ねん死去しきょしたのにともない、ソルボンヌの研究けんきゅうしつと『ラネー・プシコロジック』はルイ・シャルル・アンリ・ピエロのものとなった。ピエロの志向しこうはビネーよりも生理学せいりがくてきであった。

ピエール・ジャネはフランスの主導しゅどうてき精神せいしんとなり、サルペトリエール病院びょういん(1890ねん-1894ねん)、ソルボンヌ大学そるぼんぬだいがく(1895ねん-1920ねん)、コレージュ・ド・フランス(1902ねん-1936ねん)の要職ようしょく歴任れきにんした。かれは1904ねん同僚どうりょうソルボンヌ大学そるぼんぬだいがく教授きょうじゅでリボの弟子でしにして忠実ちゅうじつ信奉しんぽうしゃでもあったジョルジュ・ドゥマ(1866ねん-1946ねん)と『ジャーナル・ド・プシコロジ・ノルマル・エ・パトロジック』を共同きょうどう創刊そうかんした。ジャネのシャルコーがヒステリー神経しんけいがくてき基礎きそ重点じゅうてんいたのにたいし、ジャネは「精神せいしん障害しょうがいとしての精神病せいしんびょう理学りがくたいする科学かがくてきアプローチを発展はってんさせることに関心かんしんいた。精神せいしん病理びょうりしん無意識むいしきてき部分ぶぶん意識いしきてき部分ぶぶんあいだ葛藤かっとうからこり、無意識むいしきてき精神せいしん内容ないよう象徴しょうちょうてき意味いみともな症状しょうじょうとしてあらわれるというかれ理論りろんは、ジークムント・フロイトとの公的こうてき先取せんしゅけん議論ぎろんこした。

フランスの外科医げかいポール・ブローカ(1824ねん–1880ねん)は、生物せいぶつがく進化しんかをもたらしたドイツの生理学せいりがくしゃヨハネス・ペーター・ミュラー(1801ねん-1858ねん)の著作ちょさく支持しじした。ブローカが1861ねんしたことは、頭部とうぶ強打きょうだしていちねんくなったおとこ検死けんしであった。そのおとこ強打きょうだしたのち言葉ことばはなせなくなっていた。障害しょうがいこうむった領域りょういきひだり半球はんきゅう大脳皮質だいのうひしつにあった。そこで、これが言葉ことばはな能力のうりょくをつかさどる領域りょういきであるとブローカはった[30]

初期しょきイギリス心理しんりがく

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フランシス・ゴルトン

イギリスじんにもはつ心理しんりがくせんもん学術がくじゅつ雑誌ざっし―1876ねんアレクサンダー・ベイン英語えいごばんにより1876ねん創刊そうかんされ、ジョージ・クルーム・ロバートソン編集へんしゅうつとめた『マインド』―があったが、この実験じっけん心理しんりがく発展はってんして「しん哲学てつがく」に挑戦ちょうせんするようになるまでにはなが時間じかんがかかった。『マインド』が創刊そうかんしてから最初さいしょじゅうねんにおける実験じっけんてき論文ろんぶんはほとんどすべてがアメリカじんによるもの、とくグランヴィル・スタンレー・ホールやその弟子でしたち(すなわちヘンリー・ハーバート・ドナルドソンジェームズ・マッキーン・キャッテル)によるものであった。

フランシス・ゴルトン(1822ねん–1911ねん)の人体じんたい測定そくていがく研究けんきゅうしつは1884ねんひらかれた。そこで人々ひとびと幅広はばひろ様々さまざま肉体にくたいてきたとえば打撃だげきりょく)・知覚ちかくてきたとえば視力しりょくするどさ)特性とくせい検査けんさされた。ゴルトンは1886ねんジェームズ・マッキーン・キャッテル訪問ほうもんけたが、キャッテルはのちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく自身じしん精神せいしん検査けんさ研究けんきゅうほう開発かいはつするじょうでゴルトンの手法しゅほうれることになる。しかしながら、ゴルトンは本来ほんらい心理しんり学者がくしゃではなかった。かれ人体じんたい測定そくていがく研究けんきゅうしつ蓄積ちくせきしたデータはおもかれ優生ゆうせいがくてき立場たちば支持しじするのに使つかわれることになる。かれ蓄積ちくせきしたデータのやま解釈かいしゃくたすけとして、ガルトンはすうおおくの統計とうけいがくてき手法しゅほう開発かいはつしたが、そのなかには原始げんしてきてん図表ずひょうプロットせきりつ相関そうかん係数けいすうのちカール・ピアソン、1857ねん-1936ねん、が完成かんせいする)がふくまれていた。

そのすぐに、チャールズ・スピアマン(1863ねん–1945ねん)が、知性ちせい因子いんし理論りろん事例じれい構築こうちくするじょうで、因子いんし分析ぶんせき相関そうかんがた統計とうけい処理しょり開発かいはつして1901ねん発表はっぴょうした。ひと先天的せんてんてき一般いっぱん知性ちせい能力のうりょくつまり「g因子いんし」をっていて、これが沢山たくさんせま領域りょういきにおいて特定とくてい技術ぎじゅつあつか能力のうりょく特定とくてい知性ちせい能力のうりょくつまり「s因子いんし」)として結実けつじつするのだとスピアマンはかんがえていた。

ドイツやアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくいとなまれたような研究けんきゅうしつでの心理しんりがくがイギリスに到来とうらいするのはおそかった。1870年代ねんだいちゅうごろから哲学てつがくしゃジェームズ・ウォード(1843ねん-1925ねん)がケンブリッジ大学けんぶりっじだいがく精神せいしん物理ぶつりがく研究けんきゅうしつ創設そうせつするようはたらきかけていたが、1891ねんになってやっと基本きほんてき用具ようぐそろえるために50ポンドばかりがケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくから供出きょうしゅつされたのであった[31]。1897ねん生理学せいりがく援助えんじょけて研究けんきゅうしつ創設そうせつされ、心理しんりがく講座こうざひらかれると最初さいしょウィリアム・ヘイルズ・リヴァーズ・リヴァーズ(1864ねん-1922ねん)のわたった。リヴァーズはそのすぐにチャールズ・サミュエル・マイヤーズ(1873ねん-1946ねん)やウィリアム・マクドゥーガル(1871ねん-1938ねん)と交流こうりゅうった。このグループは心理しんりがくたいするのとおなじだけの関心かんしん人類じんるいがくしめし、トレス海峡かいきょうを1898ねん探検たんけんしたことで名高なだかアルフレッド・コート・ハドン(1855ねん-1940ねん)に同意どういした。

心理しんりがく協会きょうかいが1901ねん設立せつりつされ(1906ねんみずかイギリス心理しんりがく協会きょうかい改名かいめいした)、1904ねんにウォードとリヴァーズが『ブリティッシュ・ジャーナル・オヴ・サイコロジー』を共同きょうどう創刊そうかんした。

ドイツ心理しんりがくだい世代せだい

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ヴュルツブルク学派がくは

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ヴントのライプツィヒの研究けんきゅうしつ助手じょしゅつとめていたオスヴァルト・キュルペ(1862ねん-1915ねん)が1896ねんヴュルツブルク大学だいがくあらたな研究けんきゅうしつ創設そうせつした。キュルペはすぐに周囲しゅういわか心理しんり学者がくしゃあつめたが、そのなかにはナルツィス・アハ(1871ねん-1946ねん)、カール・ビューラー(1879ねん-1963ねん)、エルンスト・デュール(1878ねん-1913ねん)、カール・マルベ(1869ねん-1953ねん)、ヘンリー・ジャクソン・ワット(1879ねん-1925ねん)らがいた。かれらはいち集団しゅうだんとして活動かつどうし、ヴントがしていた制約せいやくこうから反対はんたいしつつ心理しんりがく実験じっけんたいするあらたなアプローチを発展はってんさせた。ヴントは、より高次こうじ思考しこう過程かていたいしてなが時間じかんをかけて内省ないせいする「内観ないかん」(どく:Selbstbeobachtung)という哲学てつがくてきなスタイルと、ある時点じてん感情かんじょう感覚かんかく心像しんぞうどく:Vorstellung)に即座そくざ気付きづく「内的ないてき感覚かんかく」(どく:innere Wahrnehmung)とを区別くべつした。前者ぜんしゃ不可能ふかのうであるとヴントはべて、より高次こうじ精神せいしん機能きのうなが時間じかんをかけた内観ないかんによってではなく人文じんぶんてきに「民族みんぞく心理しんりがく」(どく:Völkerpsychologie)をつうじてのみ研究けんきゅうできるといた。後者こうしゃだけが実験じっけん適切てきせつ主題しゅだいとなる。

対照たいしょうてきに、ヴュルツブルク学派がくはは、実験じっけん主題しゅだい複雑ふくざつ刺激しげきとして(たとえば、ニーチェのアフォリズムや論理ろんりてき問題もんだいあらわれるように実験じっけんをデザインし、時間じかん経過けいかして過程かていすすむと(たとえばアフォリズムを解釈かいしゃくしたり問題もんだいいたりすると)、経過けいか時間じかんあいだ自身じしん意識いしき通過つうかしたことをすべ回顧かいこして実験じっけんしゃたちに報告ほうこくする。この過程かていで、ヴュルツブルク学派がくはは「意識いしきたい」(どく: Bewußtseinslagen)、「」(どく: Bewußtheiten)、「こうそう」(どく: Gedanken)といった、(ヴントの感情かんじょう感覚かんかく心像しんぞうえた)意識いしきあたらしい要素ようそ数多かずおお発見はっけんしたと主張しゅちょうした。英語えいごけんでは、これらはしばしばまとめて「無心むしんぞう思考しこう」(えい: imageless thoughts)とばれ、ヴントとヴュルツブルク学派がくは論争ろんそうも「無心むしんぞう思考しこうろんそう」(えい: imageless thought controversy)とばれた。

ヴントはヴュルツブルク学派がくは研究けんきゅうを「かけだけの」実験じっけんび、かれらを辛辣しんらつ批判ひはんした。ヴントのもっと著名ちょめいなイギリスじん弟子でしコーネル大学だいがくつとめていたエドワード・ブラッドフォード・ティチェナーはこの論争ろんそう干渉かんしょうして、ヴュルツブルク学派がくは心像しんぞう思考しこう感情かんじょう感覚かんかく心像しんぞう昇華しょうかできるようなより高次こうじ内観ないかんてき研究けんきゅうおこなうと主張しゅちょうした。このように、かれ逆説ぎゃくせつてきに、ヴントの見方みかた支持しじするためにヴントが賛成さんせいしない方法ほうほう使つかったのである[32]

心像しんぞう思考しこう論争ろんそうはしばしば、実験じっけん心理しんりがくにおいてあらゆる内観ないかんてき方法ほうほう正統せいとうせいがいするうえで、そして最終さいしゅうてきにはアメリカ心理しんりがく行動こうどう主義しゅぎ革命かくめいをもたらすうえで、やくったとされてきた。しかしそれは自身じしん延命えんめいされてきた正統せいとうせいうしなっただけではない。ハーバート・アレクサンダー・サイモン(1981ねん)がヴュルツブルク学派がくは心理しんり学者がくしゃ研究けんきゅうを、とくオットー・ゼルツ(1881ねん-1943ねん)の研究けんきゅういて、自身じしん著名ちょめい問題もんだいコンピュータ・アルゴリズムたとえばLogic TheoristGeneral Problem Solver)の解決かいけつプロトコル解析かいせきにおけるシンキング・アウト・ラウドほう―をすすめるうえでの霊感れいかんもととしている。さらに、カール・ポパーがビューラーおよびゼルツのした心理しんりがくまなび、かれらのしはしないもののかれらからの影響えいきょう自身じしん科学かがく哲学てつがくんだとみられている[33]

ゲシュタルト心理しんりがく

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ヴュルツブルク学派がくはおも方法ほうほうろんかんしてヴントと議論ぎろんしたのにたいして、ベルリン拠点きょてんとしたドイツのあたらしい潮流ちょうりゅうは、心理しんりがく目的もくてき意識いしきをバラバラに分解ぶんかいして推定すいていじょう基本きほん要素ようそ見出みいだすことだという一般いっぱん蔓延はびこ臆説おくせつ対立たいりつした。この臆説おくせつたいしてかれらは、心理しんりがくてき全体ぜんたい」は優先ゆうせんせいち、「部分ぶぶん」はそうではなくむしろ全体ぜんたい構成こうせいするいち構造こうぞうとして定義ていぎされると主張しゅちょうした。それゆえ、おおよそ形状けいじょう形態けいたい意味いみするドイツ由来ゆらいしてこの学派がくはは「ゲシュタルト」と名付なづけられた。この学派がくはマックス・ヴェルトハイマー(1880ねん-1943ねん)、ヴォルフガング・ケーラー(1887ねん-1967ねん)、クルト・コフカ(1886ねん-1941ねん)らが主導しゅどうしていた。ヴェルトハイマーはオーストリアの哲学てつがくしゃクリスティアン・フォン・エーレンフェルス(1859ねん-1932ねん)の弟子でしであった。フォン・エーレンフェルスは、認識にんしき対象たいしょう知覚ちかくてき要素ようそくわえて、ある意味いみでは標準ひょうじゅんてき知覚ちかくてき要素ようそ構造こうぞう由来ゆらいするが独自どくじ権利けんりつような特別とくべつ要素ようそ存在そんざいすると主張しゅちょうした人物じんぶつである。かれはその特別とくべつ要素ようそを「ゲシュタルトしつ」(どく:Gestalt-qualität、形態けいたいしつとも)とんだ。たとえば、メロディくと、ひと個々ここおとくわえて全体ぜんたいとしての旋律せんりつく。これが「ゲシュタルトしつ」である。フォン・エーレンフェルスによれば、このゲシュタルトしつ存在そんざいするからこそある旋律せんりつまったことなるおと使つかっても同一どういつせいたもったべつ旋律せんりつへと移調いちょうすることができるのである。ヴェルトハイマーは「メロディによってわたしあたえられたものは[...]そのような断片だんぺん総和そうわからてき過程かていとしてあらわれてくるのではない。そうではなく、個々ここ部分ぶぶんにおいてこるものは全体ぜんたい依存いぞんしてこっているのだ」(1925/1938)というより過激かげき主張しゅちょうおこなった。いいかえれば、ひとはまずメロディをいてそのにのみメロディを知覚ちかくてき個々ここおと分割ぶんかつできるのである。同様どうよう視覚しかくにおいても、ひとはまずえんかたちる― それは媒介ばいかいてき即時そくじてきあたえられる(すなわち、その知覚ちかく部分ぶぶん総合そうごうするという過程かていによって媒介ばいかいされてなどいないのである)。このだいいち知覚ちかくのちにのみひとえんせんてんほしえがかれていることに気付きづくことができる。

「ゲシュタルト理論りろん」は1912ねんにヴェルトハイマーのファイ現象げんしょうかんする論文ろんぶんなか公式こうしき創始そうしされた; 静止せいししているが交互こうご点滅てんめつするふたつのライトをると、そのふたつのライトの位置いちあいだひとつのライトが移動いどうしているようにえるという錯覚さっかくがある。一般いっぱんてき意見いけんはんして、かれおもねらいは行動こうどう主義しゅぎではなかった、というのは、行動こうどう主義しゅぎ当時とうじまだ心理しんり学界がっかいちからていなかったからである。かれ批判ひはん対象たいしょうはむしろヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(1821ねん-1894ねん)、ヴィルヘルム・ヴント(1832ねん-1920ねん)その当時とうじ欧州おうしゅう心理しんり学者がくしゃ原子げんしろんてき心理しんりがくであった。

イヴァン・ピトローヴィチ・パヴロフ

ファイ実験じっけんにおいてヴェルトハイマーの被験者ひけんしゃとしてはたらいたのがケーラーとコフカである。ケーラーは物理ぶつり音響おんきょうがく専門せんもんであり、物理ぶつり学者がくしゃマックス・プランク(1858ねん-1947ねん)のしたまなんだこともあるが、カール・シュトゥンプ(1848ねん-1936ねん)のした心理しんりがく学位がくい取得しゅとくした。コフカもシュトゥンプの弟子でしであり、リズムの心理しんりてき側面そくめん運動うんどう現象げんしょう研究けんきゅうした。1917ねんにケーラー(1917ねん/1925ねん)はチンパンジー学習がくしゅうかんする4年間ねんかん研究けんきゅう成果せいか発表はっぴょうした。のほとんどの学習がくしゅう理論りろん主張しゅちょうはんして、イヴァン・パヴロフ(1849ねん-1936ねん)とエドワード・リー・ソーンダイク(1874ねん-1949ねん)がそれぞれイヌネコ証明しょうめいした関連かんれんして増大ぞうだいする学習がくしゅう能力のうりょく批判ひはんてき継承けいしょうしつつ、動物どうぶつは「突発とっぱつてき認識にんしき」によって問題もんだいの「組織そしき」をまなべるということをケーラーはしめした。

構造こうぞう」と「組織そしき」という術語じゅつごはゲシュタルト心理しんり学者がくしゃにとって焦点しょうてんとなるものであった。刺激しげきはある構造こうぞうち、ある方法ほうほう組織そしきされるものであり、組織そしき応答おうとうするのは個々ここ知覚ちかくてき要素ようそたいしてよりもむしろ構造こうぞうてき組織そしきたいしてであるとされた。動物どうぶつなんらかの状況じょうきょうにおかれると、たん刺激しげき究極きゅうきょくてき特性とくせい応答おうとうするのではなく、その全体ぜんたいてき状況じょうきょうかんする特性とくせい応答おうとうする。ケーラーの好例こうれいもちいると、まい灰色はいいろのトランプのうちあかるいいろほうにあるやりかた反応はんのうするという条件じょうけんづけでは、動物どうぶつはその状態じょうたいのそれぞれの刺激しげきから究極きゅうきょくてき個々ここ特性とくせいすよりもむしろふたつの刺激しげき関係かんけい一般いっぱんしてとらえる: つまりその動物どうぶつは、テストの段階だんかいくらほうのカードがもと練習れんしゅう段階だんかいでのあかるいほうおなあかるさであるかのように、最終さいしゅう段階だんかいでもまいうちあかるいほう応答おうとうするのである。

1921ねんにコフカは発達はったつ心理しんりがくかんするゲシュタルト志向しこう文書ぶんしょしん成長せいちょう』を発表はっぴょうした。アメリカの心理しんり学者がくしゃロバート・オグデンたすけをりつつ、コフカは1922ねんに『サイコロジカル・ブリッティン』を創刊そうかんして、ゲシュタルトてき観点かんてんをアメリカの大衆たいしゅう紹介しょうかいした。この雑誌ざっしでは認識にんしきすうおおくの問題もんだいたいする当時とうじ主流しゅりゅうだった見解けんかい批判ひはんされ、ゲシュタルトによる代替だいたいとなる見解けんかいべられていた。コフカは1924ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく移住いじゅうし、最終さいしゅうてきに1927ねんスミス大学だいがくいた。1935ねんにはかれは『ゲシュタルト心理しんりがく綱要こうよう』を発表はっぴょうした。この教科書きょうかしょ科学かがくてきいとなみを相対そうたいてきにゲシュタルトてき視点してんから展開てんかいしている。かれうところでは、科学かがくたんなる事実じじつ集積しゅうせきではない。事実じじつ結合けつごうして理論りろんてき構造こうぞうつくることが研究けんきゅう科学かがくてきにするのである。ゲシュタルト主義しゅぎしゃ目的もくてき自然しぜん生命せいめい精神せいしんかんする活性かっせいてき事実じじつ統合とうごうしてひとつの科学かがくてき構造こうぞうげることである。つまり、科学かがくはコフカが物理ぶつり科学かがく定量ていりょうてき事実じじつんだものだけでなくべつふたつの「科学かがくてき範疇はんちゅう」の事実じじつをも包含ほうがんするのである: そのふたつとは、順序じゅんじょ問題もんだいと「ジン」(どく:Sinn)、重要じゅうようせい価値かち意味いみなど様々さまざまやくされるドイツ単語たんご、の問題もんだいとである。経験けいけん行動こうどう意味いみれなければ、科学かがく人間にんげん科学かがくてき研究けんきゅうにつまらないものを運命うんめいづけたであろうとコフカはかんがえていた。

1930年代ねんだい中頃なかごろまではナチスの猛襲もうしゅうなかびたものの[34]、1935ねんまでにゲシュタルト運動うんどう中核ちゅうかくメンバーはみなドイツからアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく移住いじゅうすることを余儀よぎなくされた[35]。ケーラーはべつ著書ちょしょ心理しんりがく動力どうりょくがく』を1940ねん発表はっぴょうしたがそれ以降いこうゲシュタルト運動うんどう停滞ていたい期間きかんつづくことになる。コフカが1941ねん死去しきょし、ヴェルトハイマーは1943ねん死去しきょした。ヴェルトハイマーの数学すうがくてき問題もんだい解決かいけつかんする待望たいぼうしょ生産せいさんてき思考しこう』は死後しご1945ねん出版しゅっぱんされたがケーラーは一人ひとり健在けんざいで、二人ふたり長年ながねん同僚どうりょうなしに運動うんどう指揮しきつづけたのであった[36]

アメリカにおける行動こうどう主義しゅぎ登場とうじょう

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20世紀せいき初期しょきすうおおくの出来事できごと結合けつごうした結果けっか、アメリカ心理しんりがく支配しはいてき学派がくはとして行動こうどう主義しゅぎ徐々じょじょ姿すがたあらわした。それはまず、おおくのひと意識いしきという概念がいねん懐疑かいぎてきにみるようになっていくというかたちあらわれた: 心理しんりがく生理学せいりがくからけるうえでなお本質ほんしつてき要素ようそとはみなされていたものの、意識いしき主観しゅかんてき実体じったいとそれが要求ようきゅうする信用しんようしがたい内観ないかんてき方法ほうほうおおくの問題もんだいこした。1904ねんの『ジャーナル・オヴ・フィロソフィー...』のウィリアム・ジェームズによる記事きじ意識いしき存在そんざいするのか?」はこの懸念けねんをはっきりとあらわしていた。

だいには、厳密げんみつ動物どうぶつ心理しんりがく徐々じょじょ興隆こうりゅうしつつあった。1898ねんエドワード・リー・ソーンダイクのパズル・ボックスにれられたネコ研究けんきゅうくわえて、ラット迷路めいろりぬける実験じっけんウィラード・スタントン・スモールによってはじめられた[37]。1905ねんの『ジャーナル・オヴ・フィロソフィー...』に掲載けいさいされたロバート・マーンズ・ヤーキーズの「動物どうぶつ心理しんりがくしん判断はんだん基準きじゅん」によって、どういうときにある生命せいめいたい意識いしきがあるとえるのかという一般いっぱんてき問題もんだいかびがってきた。つづすう年間ねんかんにはジョン・ブローダス・ワトソン(1878ねん–1959ねん)が神経しんけいがくてき発育はついくしろいラットの学習がくしゅう能力のうりょくとのあいだ関係かんけいかんする論文ろんぶん発表はっぴょうし、おおきな役割やくわりたすようになった[38]。もうひとつのラットをもちいた重要じゅうよう研究けんきゅうヘンリー・H・ドナルドソンにより発表はっぴょうされた[39]。1909ねんには、イヴァン・パヴロフによるイヌの条件じょうけんけの研究けんきゅうはじめて英語えいご説明せつめいされた[40]

バラス・フレデリック・スキナー

だいさん要因よういんはワトソンが心理しんり学界がっかいおおきなちから位置いちめるようになったことである。1908ねんに、ワトソンがジェームズ・マーク・ボールドウィンによってジョンズ・ホプキンスに招聘しょうへいされて下位かい教職きょうしょくいた。ジョンズ・ホプキンスの学部がくぶちょうであったのにくわえて、ボールドウィンは影響えいきょうりょくたか雑誌ざっし『サイコロジカル・レビュー』および『サイコロジカル・ブリッティン』の編集へんしゅうしゃつとめていた。わずかすうケ月かげつにはワトソンのライヴァルのボールドウィンはスキャンダルによって教授きょうじゅしょく辞職じしょくまれた。ワトソンは突然とつぜん学部がくぶちょうおよび編集へんしゅうしゃ地位ちいいた。かれはこれらの強力きょうりょく地位ちい有効ゆうこう使つかって自身じしん研究けんきゅう印象いんしょうにおける心理しんりがく革命かくめいをもたらすことを決断けつだんした。1913ねんの『サイコロジカル・レヴュー』にかれはしばしば行動こうどう主義しゅぎ運動うんどうの「マニフェスト」とばれる記事きじ行動こうどう主義しゅぎしゃかぎりでの心理しんりがく」を掲載けいさいした。そこでかれは、心理しんりがくとは「自然しぜん科学かがく純粋じゅんすい客観きゃっかんてき実験じっけんてき領域りょういきである」、「内観ないかんてき形式けいしき心理しんりがく方法ほうほう本質ほんしつてき部分ぶぶんではない[...]」、「行動こうどう主義しゅぎしゃは[...]ヒトと野獣やじゅうあいだ境目さかいめ認識にんしきしない」などと主張しゅちょうした。翌年よくねん1914ねんかれ最初さいしょ教科書きょうかしょ行動こうどう』が出版しゅっぱんされた。行動こうどう主義しゅぎ包括ほうかつてきなアプローチとしてみとめられるまでにはなお時間じかんがかかったものの[41]だいいち世界せかい大戦たいせんによる妨害ぼうがいすくなからずあり)、1920ねんごろまでにワトソンの革命かくめい軌道きどうった。初期しょき行動こうどう主義しゅぎ中心ちゅうしんてききょうせつは、心理しんりがくしんではなく行動こうどう科学かがくであるべきだというもので、信念しんねん欲望よくぼう目標もくひょうといった内的ないてき精神せいしん状態じょうたい否定ひていされた。しかしワトソン自身じしんは1920ねんにスキャンダルによりジョンズ・ホプキンス大学だいがく退職たいしょく余儀よぎなくされた。かれは1920年代ねんだいには著述ちょじゅつ公開こうかいつづけたものの、行動こうどう主義しゅぎ宣伝せんでんとうとしての役割やくわりにシフトしていった[42]

活動かつどうつづけた行動こうどう主義しゅぎしゃなかでも、続行ぞっこうさせるための最善さいぜん方法ほうほうかんしてはすうおおくの異論いろんこった。エドワード・チェイス・トールマンエドウィン・レイ・ガスリークラーク・レナード・ハルバラス・フレデリック・スキナーといったしん行動こうどう主義しゅぎしゃいたるは、(1)伝統でんとうてき心理しんりがくてき概念がいねん行動こうどう主義しゅぎてき術語じゅつごへとさい定義ていぎするかそれらを放棄ほうきしてまったあたらしい枠組わくぐみをえらぶか、(2)学習がくしゅういちにすべてこってしまうのか徐々じょじょこるのか、(3)行動こうどうの「動機どうきづけ」をあたえるために生物せいぶつがくてき動因どういんあらたな科学かがくふくめるかか、(4)どの程度ていどまで「すべての」理論りろんてき枠組わくぐみは学習がくしゅう報酬ほうしゅうばち計測けいそく効果こうかえて要求ようきゅうされるのか、といった問題もんだいについて議論ぎろんした。1950年代ねんだい後半こうはんまでに、スキナーの定式ていしき支配しはいてきとなり、行動こうどう分析ぶんせきした現代げんだい心理しんりがく一部いちぶとして存続そんぞくしている。

行動こうどう主義しゅぎは20世紀せいきなが期間きかん心理しんりがく研究けんきゅうにおける優勢ゆうせい実験じっけんモデルであったが、これは人間にんげん行動こうどう科学かがくてきモデルとしての条件じょうけんづけ理論りろんの(すくなくとも宣伝せんでんうえでは)創造そうぞうてき成功せいこうした応用おうようであったことによる。

フランス語ふらんすごけん心理しんりがくだい世代せだい

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ジュネーヴ学派がくは

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ジャン・ピアジェ

1918ねんに、ジャン・ピアジェ(1896ねん–1980ねん)が自身じしん初期しょき博物学はくぶつがくしゃとしての研鑽けんさんから転向てんこうしてチューリヒ博士はかせごう取得しゅとく研究けんきゅうとして精神せいしん分析ぶんせきはじめた。1919ねんにはかれパリおもむいてビネー・シモン研究けんきゅうしつつとめた。しかし、ビネーは1911ねん死去しきょし、シモンはルーアンにしていた。そのためピアジェの指導しどうはビネーのむかしからのライヴァルでコレージュ・ド・フランス教授きょうじゅだったピエール・ジャネが(間接かんせつてきに)おこなうことになった。

パリでの仕事しごと比較的ひかくてき単純たんじゅんだった。: 博物学はくぶつがくしゃとしてけた統計とうけいがくてき手法しゅほう使つかって、軟体動物なんたいどうぶつ研究けんきゅうし、シリル・バートの知能ちのうテストをフランスの児童じどう使つかえるように規格きかくすること。いま直接ちょくせつ指導しどうけていなかったが、かれはすぐにこの退屈たいくつ仕事しごと解決かいけつほう見出みいだした: なぜ子供こどもたちが失敗しっぱいするのかを探求たんきゅうすること。精神せいしん分析ぶんせきてき面接めんせつにおける初期しょき鍛錬たんれん応用おうようして、ピアジェはどもたちに直接ちょくせつ干渉かんしょうはじめた: 「何故なぜそうしたのか?」(等々とうとう)。のち段階だんかいせつとして定式ていしきする理論りろん最初さいしょ芽生めばえたのはこのころからであった。

1921ねんになると、ピアジェはジュネーヴうつってジャン=ジャック・ルソー教育きょういく研究所けんきゅうじょとともにエドゥアール・クラパレードとともに研究けんきゅうおこなった。

1936ねんには、ピアジェははじめての名誉めいよ博士はかせごうをハーヴァードから授与じゅよされた。

1955ねんに、遺伝いでん認識にんしきがく国際こくさいセンターが創立そうりつされた: 理論りろん科学かがくしゃ学際がくさいてき活動かつどう、ピアジェの理論りろん関係かんけいする議題ぎだい研究けんきゅうささげられた。

1969ねん、ピアジェは「科学かがくたいする顕著けんちょ貢献こうけん」をアメリカ心理しんり学会がっかいからしょうされた。

認知にんち主義しゅぎ

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ノーム・チョムスキー

スキナーの著書ちょしょ言語げんご行動こうどう』(行動こうどう主義しゅぎ枠組わくぐみで言語げんご習得しゅうとく説明せつめいすることをねらった著書ちょしょ)にたいするノーム・チョムスキー論評ろんぴょう(1957)はスキナーがいた種類しゅるい徹底的てっていてき行動こうどう主義しゅぎたいする最大さいだい理論りろんてき挑戦ちょうせんひとつとされた。スキナーが自明じめいのこととしたあるしゅのオペラント条件じょうけんけのみでは言語げんご学習がくしゅうされえないとチョムスキーはしめした。チョムスキーの主張しゅちょうは、人間にんげんはそれぞれ独自どくじ構造こうぞう意味いみ無限むげん多様たようぶん生成せいせいすることができ、それらは自然しぜん言語げんご経験けいけんのみでは生成せいせいされえないというものであった。そのわりに、内的ないてき精神せいしん構造こうぞう行動こうどう主義しゅぎ幻想げんそうとして退しりぞけた精神せいしん状態じょうたい―が存在そんざいしなければならないとチョムスキーは結論けつろんした。同様どうように、児童じどう外的がいてき行動こうどう変化へんかさせることなく社会しゃかいてき調査ちょうさから学習がくしゅうすることができ、そのため内的ないてき表象ひょうしょうによって説明せつめいされなければいけないことをアルバート・バンデューラによる研究けんきゅうしめしている。

計算けいさん技術ぎじゅつ興隆こうりゅう情報処理じょうほうしょりとして精神せいしん機能きのうをとらえる隠喩いんゆひろめた。これが、しん研究けんきゅう科学かがくてきアプローチと結合けつごうされ、内的ないてき精神せいしん状態じょうたいという概念がいねんとともに、しん支配しはいてきなモデルとしての心理しんりがく興隆こうりゅうまねいた。

のう神経しんけいけい機能きのう接続せつぞくひろられるようになったが、これはチャールズ・シェリントンドナルド・ヘッブといった人々ひとびと実験じっけんてき著作ちょさくのためというのもあれば、のう障害しょうがいをもつ人々ひとびと研究けんきゅう認知にんち神経しんけい心理しんりがく英語えいごばん参照さんしょう)のためというのもある。のう機能きのう精確せいかく調しらべる技術ぎじゅつ発展はってんとともに、神経しんけい心理しんりがく認知にんち神経しんけい科学かがく現代げんだい心理しんりがくもっと活発かっぱつ領域りょういき一部いちぶとなった。

しん理解りかいするという問題もんだいにおける分野ぶんや哲学てつがく計算けいさん科学かがく神経しんけい科学かがくひとし)とのかりいの増加ぞうかにより、包括ほうかつてき学問がくもんたる認知にんち科学かがく建設けんせつてき方法ほうほうでこの研究けんきゅう着目ちゃくもくする手段しゅだんとしてつくられた。

脚注きゃくちゅう

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  2. ^ see, e.g., Robinson, 1995
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参考さんこう文献ぶんけん

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