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せいぶくてら (福岡ふくおか)

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せいぶくてら

山門さんもん
所在地しょざいち 福岡ふくおか博多はかた御供所ごくしょまち6-1
位置いち 北緯ほくい3335ふん49.3びょう 東経とうけい13024ふん50.8びょう / 北緯ほくい33.597028 東経とうけい130.414111 / 33.597028; 130.414111座標ざひょう: 北緯ほくい3335ふん49.3びょう 東経とうけい13024ふん50.8びょう / 北緯ほくい33.597028 東経とうけい130.414111 / 33.597028; 130.414111
山号さんごう 安国やすくにさん
宗派しゅうは 臨済宗りんざいしゅう妙心寺みょうしんじ
創建そうけんねん たてひさ6ねん1195ねん
開基かいき 栄西えいさい
別称べっしょう 扶桑ふそう最初さいしょぜんくつ
法人ほうじん番号ばんごう 6290005000325 ウィキデータを編集
地図
聖福寺 (福岡市)の位置(福岡県内)
聖福寺 (福岡市)
せいぶくてら (福岡ふくおか) (福岡ふくおかけん)
聖福寺 (福岡市)の位置(日本内)
聖福寺 (福岡市)
せいぶくてら (福岡ふくおか) (日本にっぽん)
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せいぶくてら(しょうふくじ)は、福岡ふくおかけん福岡ふくおか博多はかたにある臨済宗りんざいしゅう妙心寺みょうしんじ寺院じいんである。栄西えいさい創建そうけんで、日本にっぽん最初さいしょ本格ほんかくてきぜんてら、「扶桑ふそう最初さいしょぜんくつ」としてられる。境内けいだいくに史跡しせき指定していされており、おも江戸えど時代じだい再建さいけんされた伽藍がらんがある。山号さんごう安国やすくにさん通称つうしょうやすさん)。

歴史れきし

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てらつたわる『栄西えいさい言上ごんじょうじょう』によると、たてひさ6ねん1195ねん)に日本にっぽん臨済宗りんざいしゅう開祖かいそ栄西えいさいそうより帰国きこく鎌倉かまくら幕府ばくふみなもと頼朝よりともよりはちまち四方しほうやく900m四方しほう)をたまわ[1][2]博多はかた居住きょじゅうそうじん建立こんりゅうしたひゃくどうあと寺院じいん創建そうけんした[2][3]元久もとひさ元年がんねん1204ねん)に落成らくせいし、「扶桑ふそう最初さいしょぜんくつ」および「方丈ほうじょう」の宸翰しんかんたまわり、山門さんもんには後鳥羽ごとば天皇てんのう宸筆しんぴつつたわる「扶桑ふそう最初さいしょぜんくつ」のがくかる[2]。これが日本にっぽん最初さいしょ本格ほんかくてきぜんてらであり、ぜん道場どうじょうである[2]最盛さいせいは、京都きょうと五山ごさんじゅうせいだい3れっする名刹めいさつであり[2]丈六じょうろく釈迦しゃか弥勒みろく阿弥陀あみださんせいほとけ安置あんちする七堂伽藍しちどうがらん、および塔頭たっちゅういんを38ケてらようする一大いちだい伽藍がらんほこ博多はかた中心ちゅうしんてき寺院じいんであった[4]境内けいだいなか寺中じちゅうまち関内かんないばれている)を形成けいせいし、いまにものこ博多はかた地名ちめいで、ひろし賢堂かしこどう中小路なかこうじさかなまちてん蓮池はすいけ西門にしもんなどは当時とうじ寺内てらうちまちまちりがそのままのこったものである[1][3]。またいんちょくゆびあん九州きゅうしゅう探題たんだいかれた場所ばしょでもあり、外交がいこう交渉こうしょう窓口まどぐちとして外交がいこうそう輩出はいしゅつした[2][5]室町むろまち時代ときよ末期まっきえいろく6ねん1563ねん)には戦乱せんらん兵火へいか伽藍がらん焼失しょうしつ[6]えいろく11ねん1568ねんだい110せいみみほうげんぐま住職じゅうしょく就任しゅうにんし、もとかめ元年がんねん (1570ねん)から 再興さいこうするが、ふたた天正てんしょう2ねん (1574ねん) 伽藍がらんがことごとく消失しょうしつ荒廃こうはいする。天正てんしょう15ねん1587ねん)に豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる太閤たいこうまちわりによって境内けいだいよんまち四方しほう縮小しゅくしょうされるが、領主りょうしゅ小早川こばやかわ隆景たかかげ寺領じりょう300せき寄進きしん隆景たかかげ庇護ひごのもと、げんぐま仏殿ぶつでん総門そうもんなどのしょ堂宇どうう再建さいけんした。そのとき状況じょうきょうつたえる、隆景たかかげ寄進きしんめいがある朝鮮ちょうせんがねや、「えいろくへん散逸さんいつしたが修補しゅうほした」むねげんぐま奥書おくがきのある「せいぶくてら絵図えず」や寺内てらうちまちの「借家しゃくや牒」などが現存げんそんし、げんぐま中興ちゅうこうしょうせられる[1]ぶんろく4ねん1595ねん)に豊臣とよとみ秀吉ひでよしより200せき慶長けいちょう5ねん1600ねん)に黒田くろだ長政ながまさより200せきなど、幾多いくた武将ぶしょうによる寺領じりょう寄進きしんつたえられている。

とうてらは、当初とうしょ臨済宗りんざいしゅう単独たんどく寺院じいんであったが、開山かいさん栄西えいさい京都きょうと建仁寺けんにんじ開山かいさんしたのち、建仁寺けんにんじとなる。また、江戸えど時代じだいには黒田くろだ長政ながまさいのちにより、妙心寺みょうしんじとなり現在げんざいいたっている。

江戸えど時代じだい文化ぶんか文政ぶんせいには、ぜん名高なだかせん厓義梵がこのてら住職じゅうしょくつとめ、文人ぶんじんあいだとうてら知名度ちめいどげた。

現存げんそんする主要しゅよう伽藍がらんは、江戸えど時代じだい再建さいけんされたものであり、三門さんもん仏殿ぶつでん本堂ほんどう一直線いっちょくせんなら配置はいちは、禅宗ぜんしゅう寺院じいん典型てんけいてき伽藍がらん配置はいちをよくしめしており、境内けいだいくに指定してい史跡しせきとなっている[2]

1946ねん8がつから1947ねん2がつまで164めいの引揚孤児こじ世話せわがなされた「せいぶくりょう」は、福岡ふくおか引揚援護えんごきょくによってひらかれ、福岡ふくおかともかい実務じつむ担当たんとうしたが、このりょうとうてら境内けいだいもうけられた[7]

伽藍がらん

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勅使ちょくしもん
山門さんもんまえひさごがた放生ほうじょう太鼓橋たいこばし
仏殿ぶつでん
庫裏くり

伽藍がらん配置はいちは、典型てんけいてき禅宗ぜんしゅうさましき日本にっぽん最初さいしょぜん道場どうじょうとして、塔頭たっちゅうふく全域ぜんいきくに史跡しせき指定してい境内けいだい拝観はいかん自由じゆうだが堂宇どうう内部ないぶ基本きほんてき拝観はいかん不可ふかで、通常つうじょう一般いっぱん公開こうかいおこなっていない。行事ぎょうじとうがあるときのみ公開こうかいされる場所ばしょがある。

塔頭たっちゅう寺院じいん

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円覚寺えんかくじこうぶくあんふししんいん瑞応ずいおうあんまもるせいいん[注釈ちゅうしゃく 2]まぼろしじゅうあん[注釈ちゅうしゃく 3]西光寺さいこうじなどがある。

鎮守ちんじゅしゃ

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境内けいだいに3しゃ鎮守ちんじゅしゃがある[22]

  • 八幡やはたしゃ
  • 白山はくさんしゃ
  • 稲荷いなりしゃ

文化財ぶんかざい

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鐘楼しゅろう
庭園ていえんいけ太鼓橋たいこばし
日本にっぽんちゃ発祥はっしょうの「ちゃ

くに指定してい

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史跡しせき

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  • せいぶくてら境内けいだい - 指定してい年月日ねんがっぴ:1969ねん昭和しょうわ44ねん)11月7にち指定してい基準きじゅん社寺しゃじあとまたはきゅう境内けいだいその祭祀さいし信仰しんこうかんする遺跡いせき[23]

重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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  • 絹本けんぽんちょしょく大鑑たいかん禅師ぜんじぞう - 指定してい年月日ねんがっぴ:1912ねん大正たいしょう元年がんねん)9がつ3にちけいもとつちのえうまはなぞう宗演そうえんだいあり。1198ねんさく[24]
  • 絹本けんぽんちょしょく高峰こうほう断崖だんがい中峰なかみね和尚おしょうぞう - 指定してい年月日ねんがっぴ:1912ねん大正たいしょう元年がんねん)9がつ3にち比丘びく文康ふみやすさんあり。もと時代じだいさく[25]
  • どうがね - 指定してい年月日ねんがっぴ:1906ねん明治めいじ39ねん)4がつ14にち朝鮮ちょうせんがね高麗こうらい時代じだいさく天正てんしょうじゅうななねん小早川こばやかわ隆景たかかげ寄進きしんのちめいじあり[26]
  • ゆう細型ほそがた銅剣どうけん 1くちうちぎょうはなぶんきょう 1めん - 指定してい年月日ねんがっぴ:1952ねん昭和しょうわ27ねん)3がつ29にち糸島いとしまぐん怡土むら大字だいじさんくもげん糸島いとしまもと前原まえはらさんくも出土しゅつど[27][28]

福岡ふくおかけん指定してい

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有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • 梵鐘ぼんしょう - 指定してい年月日ねんがっぴ:1958ねん昭和しょうわ33ねん)10がつ29にち[29]
  • どうせいくもばん - 指定してい年月日ねんがっぴ:1958ねん昭和しょうわ33ねん)10がつ29にち[29]
  • せん関係かんけい資料しりょう 15てん - 指定してい年月日ねんがっぴ:1991ねん平成へいせい3ねん)11月15にち[30]
  • ぞう 経蔵きょうぞう - 指定してい年月日ねんがっぴ:1963ねん昭和しょうわ38ねん)1がつ16にち[31]

福岡ふくおか指定してい

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有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • 木造もくぞうじゅうろく羅漢らかんぞう 16 石膏せっこうがた - 指定してい年月日ねんがっぴ:2001ねん平成へいせい13ねん)3がつ12にち[32]
    造立ぞうりゅう技法ぎほうは、油土ゆどあぶら、ゆど・あぶらつち)で原型げんけいつくり、石膏せっこうがたにおこし、それをさらに星取ほしとり比例ひれいコンパス)で木材もくざいにうつして木彫きぼりとしたものである[33]
    内訳うちわけまろうどばつ囉堕闍尊しゃ、迦諾迦伐蹉尊しゃ、迦諾迦跋釐堕闍尊しゃまろうど陀尊しゃだく距羅尊者そんじゃばつ陀羅尊者そんじゃ、迦哩迦尊しゃ闍羅どる尊者そんじゃえびすひろし迦尊しゃはんたく迦尊しゃ怙羅尊者そんじゃ迦犀尊者そんじゃいん掲陀尊者そんじゃ那波なば斯尊しゃおもね尊者そんじゃちゅう荼半たく迦尊しゃ石膏せっこう原型げんけい那波なば斯尊しゃ)。大正たいしょう時代じだい山崎やまざきちょうくもさく[34]
  • せいぶくてらいにしえ - 指定してい年月日ねんがっぴ:2004ねん平成へいせい16ねん)3がつ11にち[35]
    形態けいたいほんちょしょく 巻子まきこそうだいいちだいだいさん奥書おくがきの4構成こうせいである[36]
    中世ちゅうせい博多はかたえがいた絵図えずとして「博多はかたいにしえ」としょうするものが多数たすうつてそんするが、それらは江戸えど時代じだいえがかれた復元ふくげん回想かいそうである。ほんいにしえはそれら「復元ふくげん回想かいそう」とはことなり、ほり蓮池はすいけ土塀どべい複数ふくすうもんかこまれたせいぶくてら境内けいだい寺内てらうちまちしょどうなら町家まちやなど、中世ちゅうせい博多はかたまちを、その当時とうじ描写びょうしゃしたものであり、せいぶくてらうけたまわてんてら寺内てらうちまち蓮池はすいけほり景観けいかんはもとより、海岸かいがんいしるい大鋸おが使つか職人しょくにんなど、中世ちゅうせい博多はかた寺院じいんまち研究けんきゅう、また職人しょくにん研究けんきゅう貴重きちょうかつ稀有けう絵画かいが史料しりょうである[36]
    せいぶくてらいにしえは、ほんちょしょくいちかんなりまきされ、絵図えずさん)と奥書おくがきいち)からなるが、だいだいさんあいだ脱落だつらくあり、さいかくされた部分ぶぶんもある。九州大学きゅうしゅうだいがく九州きゅうしゅう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ戦前せんぜんうつした写本しゃほんがあるが、配列はいれつ若干じゃっかんことなり、かつて現状げんじょうことなるかたであったといえる。『筑前ちくぜんこくちゅう神佛しんぶつたからぶつ』(のべとおるよんねん(1747ねん)に「せいぶくてら繪図えず さんまい」とあるが、ほんいにしえかかわる記録きろくかんがえられ、岡倉おかくら天心てんしん1912ねん明治めいじ45ねん)の旅行りょこう日誌にっしに「せいぶくてら古地こちいちかん えいろくいち」としるしている[36]
    奥書おくがきしるされているえいろくうまえいろく13ねんもとかめ元年がんねん1570ねん))のこと。奥書おくがきしょしたのは、せいぶくてらかい再興さいこうしたことでられるせいぶくてらだいひゃくじゅうせい住職じゅうしょくみみほうげんぐまである。
    えいろく5ねん(1562ねん)11がつごろ、たからみつるじょうただし高橋たかはしあきらしゅ毛利もうり内通ないつうし、主君しゅくん大友おおとも宗麟そうりんたいして反乱はんらんこした。博多はかたもその影響えいきょうけ、戦乱せんらんまれ、せいぶくてら戦火せんか焼失しょうしつ大友おおとも毛利もうり立花りっかじょうをめぐる攻防こうぼうせん熾烈しれつきわめたが、えいろく12ねん1569ねん)に大友おおとも勝利しょうりせん終結しゅうけつし、北部ほくぶ九州きゅうしゅう一時いちじ平穏へいおんおとずれた。
    えいろく11ねん1568ねん)5がつせいぶくてら住職じゅうしょくとなったみみほうげんぐまは、えいろく13ねんもとかめ元年がんねん1570ねん以降いこう様々さまざま再興さいこうんでいる。当古とうご奥書おくがきによると、「せいぶくてらいにしえ」はえいろく6ねん1563ねん)の戦乱せんらん過半かはん紛失ふんしつしたが、げんぐま残余ざんよひろあつ修復しゅうふくしたとしるされている。このことは、えいろく13ねん(1570ねん)3がつ26にち日付ひづけがある「栄西えいさい言上ごんじょうじょう極書きわめがき」の内容ないよう酷似こくじしている。 また、奥書おくがきより「せいぶくてらいにしえ」の成立せいりつ年代ねんだいは、えいろく6ねん(1563ねん以前いぜんということがかるが、成立せいりつ時期じきがいつなのかは不明ふめいである[36]
    いにしえせいぶくてら中心ちゅうしんに、その周囲しゅうい塔頭たっちゅう境内けいだいにあった寺内てらうちまち関内かんないしょうする)がえがかれているが、せいぶくてらかんしては、見取みとのみがえがかれ景観けいかんえがかれていない。そのため造営ぞうえいちゅうえがかれた絵図えずとのせつもある。いにしええがかれている三門さんもん仏殿ぶつでんほうどう方丈ほうじょうならしょどう基本きほんてき配置はいち現在げんざいおなじで、せいぶくてら右手みぎてにはうけたまわてんてらえがかれ、りょうてら背後はいごにはほりがめぐり、寺内てらうちまち左側ひだりがわ蓮池はすいけへとつづき、蓮池はすいけ左側ひだりがわ途中とちゅう脱落だつらくがある。うけたまわてんてら背後はいご松林まつばやしがあるが、箱崎はこざき松原まつばらへとつづ松原まつばらであるとかんがえられている。 蓮池はすいけ左側ひだりがわだいさんには、博多はかた海岸かいがんえがかれ、松原まつばらひだりえるいしるい海岸かいがんにあることから、13世紀せいき後半こうはんきずかれたもと防塁ぼうるいであるとかんがえられている。いしるい外側そとがわでは、大工だいくいたる大鋸おが手斧ちょうな加工かこうしているが、船大工ふなだいくかんがえられている。描法は大和絵やまとえ踏襲とうしゅうし、いち画面がめん視点してん描画びょうがであり、絵画かいが観点かんてんからも成立せいりつねん戦国せんごくから室町むろまちまでさかのぼりうるとかんがえられる[36]
  • やすさん - 指定してい年月日ねんがっぴ:2004ねん平成へいせい16ねん)3がつ11にち[37]
    形態けいたい冊子さっしこうじ袋綴ふくろとじ墨付すみつき丁数ちょうすう:32ちょう[38]
    やすさん牒は、安国やすくにさんきよしぶくてら境内けいだい形成けいせいされた寺内てらうちまち課税かぜい台帳だいちょうである。「せいぶくてらいにしえ」からも、中世ちゅうせい博多はかたせいぶくてら境内けいだい寺内てらうちまち門前もんぜまち形成けいせいされていたことがかるが、その実態じったいほん文書ぶんしょによって具体ぐたいてきることができる。寺内てらうちまちを「関内かんない」としょうしたことも博多はかた独特どくとく用語ようごであるいわれ、記載きさいされた町名ちょうめい9まちのうち、中小路なかこうじひろし賢堂かしこどうさかなまち近世きんせいにもがれた町名ちょうめいだが、近世きんせいには消滅しょうめつした中世ちゅうせい博多はかた地名ちめいることができる。また、追記ついきがみによって「百姓ひゃくしょう」とばれた博多はかた住人じゅうにん変動へんどうしょう工業こうぎょうもの成長せいちょう、および、その信仰しんこう習俗しゅうぞくをもうかがうことができる。とくせいぶくてら寺院じいん経済けいざい町家まちや規模きぼ住人じゅうにん博多はかた住民じゅうみんにかかる諸税しょぜいが、この史料しりょうから明確めいかくになる。さらに「せいぶくてらいにしえ」や様々さまざま発掘はっくつデータと照合しょうごうすることでせいぶくてら寺内てらうちまち復元ふくげんのための貴重きちょう基礎きそ史料しりょうとなっている。せいぶくてら境内けいだい当初とうしょ方八ほうはっまちはちまち四方しほう)であったが、のちに豊臣とよとみ秀吉ひでよしによりかたよんまち四町しちょう四方しほう)に縮小しゅくしょうされたが、ほん資料しりょうはそれ以前いぜん中世ちゅうせい博多はかた都市とし実態じったいしめ史料しりょうである[38]
    天文てんもんじゅうねん1543ねん)の年紀としのりがあり、奥書おくがきに「せいぶくてらだいひゃく五世住持湖心碩鼎」と「だいひゃく七世住持前住惟新元命」のがある。湖心こしんせきかなえは、だい18あかりせん正使せいしとして入明いりあけしたことでられている。また奥書おくがきに、おいひつで「此帳、えいろくらん雖失住山すみやまこれかえし璧也、もとかめさんねんじゅうがつ吉日きちじつげんぐま花押かおう)」としるされている。 おいひつにあるげんぐまは、前述ぜんじゅつしたせいぶくてらだい110みみほうげんぐまである。奥書おくがきにあるもとかめさんねん1572ねん)のげんぐまおいひつにより、えいろく6ねん(1563ねん)の兵乱へいらんにより散逸さんいつしたものを、げんぐまが「かえし璧」(回収かいしゅう回復かいふく)したことがかる。このやすやま牒の戦乱せんらんによる散逸さんいつげんぐまによる回収かいしゅう修復しゅうふく経緯けいい前述ぜんじゅつした「せいぶくてらいにしえ」と同様どうようである[38]
    なお、「筑前ちくぜんこくぞく風土記ふどき附録ふろく」、「筑前ちくぜんこくぞく風土記ふどき拾遺しゅうい」にも「ちょう」が什物じゅうもつひとつとしてあげられている。
    やすさんは、天文てんもん12ねん(1543ねん当時とうじせいぶくてら寺内てらうちまち関内かんないかれている)の有様ありさましるされている借家しゃくや借地しゃくちじんあいだすうりょうおっとぜにしるした借家しゃくや借地しゃくちりょう徴収ちょうしゅう台帳だいちょうである。中小ちゅうしょうひろし賢堂かしこどうくぼ小路こうじそとくぼ小路こうじひればんさかなまちさかなまち店屋みせや中屋敷なかやしき毘沙門堂びしゃもんどうまえ門前もんぜ新屋敷しんやしきなど、まちごとにまとめられ、借家しゃくやいちけんごとに、間口まぐち借家しゃくやじんりょう大山口おおやまぐちおっとしょう山口やまぐちおっと小夫おうぶぜにぜに合計ごうけいしるされている。ほとんどの借家しゃくや間口まぐちいちあいだ前後ぜんこうであり、当時とうじ屋敷やしき規模きぼ推定すいていでき、大山口おおやまぐちおっとしょう山口やまぐちおっとなどのやくしるされ、とうてら博多はかたにどのようなぜいけられていたかが克明こくめいしるされている。 記載きさいされた住人じゅうにんかずは290めいかぞえ、ほとんどが仮名かめい名前なまえのみがしるされ、「百姓ひゃくしょう」とばれているが、なかには例外れいがいてき職業しょくぎょうしるした箇所かしょがあり、それらから当時とうじせいぶくてら寺内てらうちまちに、紺屋こんや・あめ酒屋さかやおけ大工だいくなどの商工しょうこう業者ぎょうしゃんでいたことがわかる。また、天文てんもん12ねん1543ねん以降いこうげんぐま時代じだいまでの30年間ねんかんにおける借家しゃくやじん変更へんこうがみしめすとともに、所々ところどころ追記ついき内容ないようからまち発展はってん博多はかた住民じゅうみん成長せいちょううかがうことができる[38]
    なお、1962ねん昭和しょうわ37ねん)に九州きゅうしゅう史料しりょうしゅう刊行かんこうかいより九州きゅうしゅう史料しりょう叢書そうしょいちさつとして翻刻ほんこくおこなわれている。
  • 絹本けんぽんちょしょくみなもと頼朝よりともぞう  立花りっかぞうひろひつ たてまついのちおくせいぶくてらがん和尚おしょうしょ いちぶく - 指定してい年月日ねんがっぴ:2014ねん平成へいせい26ねん)3がつ17にち[39]
    形態けいたい絹本けんぽんちょしょく かけはばそう じゅうきりばこおさめられている[39]
    絹本けんぽんちょしょくみなもと頼朝よりともぞう狩野かのあきらうんにより元禄げんろく11ねん(1698ねん)にえがかれた絵画かいがで、かけはば表装ひょうそうされじゅうきりばこおさめられている。法量ほうりょうたて148.4cm、よこ111.3cmである。ぞうよう衣冠いかんひがしたい着用ちゃくようした成年せいねん男性だんせいが、左前ひだりまえいてしゃく太刀たちこしじょうたたみする姿すがたを、おおよそ等身とうしんだいえがかれている。ほんぞう製作せいさくとうてらへの伝来でんらい経緯けいいは、つけ立花りっかぞうひろひつたてまついのちおくせいぶくてらがん和尚おしょうしょきゅう軸木じくぎ墨書ぼくしょめいじ、その関連かんれん史料しりょうよりあきらかとなっている。みなもと頼朝よりともひゃくねん遠忌えんき元禄げんろく11ねん(1698ねん)1がつ13にちたり、せいぶくてら当住とうじゅうひゃくじゅうろくせい)のたんいわおまこと和尚おしょうは、みなもと頼朝よりとも開基かいき大壇おおだんえつあおいでいたため、遠忌えんき法要ほうよう企図きとしたが、当時とうじせいぶくてらには、みなもと頼朝よりとも礼拝れいはい対象たいしょうとするような尊像そんぞう存在そんざいしなかったためまえ福岡ふくおか藩主はんしゅ黒田くろだ光之みつゆき絵師えし狩野かのあきらうんめいじ、山城やましろこくこう雄山ゆうざん神護かんごてら所蔵しょぞう頼朝よりともぞうすことでほんぞう製作せいさくさせ、まえ家老がろう立花りっかぞうひろしかいせいぶくてら寄贈きぞうしたものである[39]
    文書ぶんしょいちぶくは、かみほん墨書ぼくしょかけはば表装ひょうそうされ、法量ほうりょうたて51.3センチメートル、よこ37.9センチメートルで、まきとめに「頼朝よりともおおやけしんぞう寄附きふ書状しょじょう せいぶくてら什寶じゅうほう」と墨書ぼくしょがある。きりばこおさめられ、はこにはぶたひょうには「頼朝よりともおおやけ畫像がぞう寄附きふ書状しょじょう 立花りっかぞうひろしょ」、ぶたうらには「昭和しょうわさんじゅう九甲辰歳七月箱新添 やす國山くにやませいぶくてら 現住げんじゅう戒應だい」と墨書ぼくしょめいがある。ほん文書ぶんしょ頼朝よりともぞう製作せいさくとうてらへの寄贈きぞう経緯けいい明確めいかくしめ史料しりょうである[39]

所在地しょざいち

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福岡ふくおかけん福岡ふくおか博多はかた御供所ごくしょまち6-1

交通こうつうアクセス

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく
  1. ^ 明治めいじ-昭和しょうわ時代じだいそう方廣寺ほうこうじ管長かんちょう臨済宗りんざいしゅう初代しょだい管長かんちょう
  2. ^ ウィキメディア・コモンズには、まもるせいいんかんするカテゴリがあります。
  3. ^ ウィキメディア・コモンズには、まぼろしじゅうあんかんするカテゴリがあります。
出典しゅってん
  1. ^ a b c せいぶくてら境内けいだい文化ぶんか遺産いさんオンライン”. 文化庁ぶんかちょう. 2021ねん9がつ25にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g せいぶくてら福岡ふくおか文化財ぶんかざい”. 福岡ふくおか経済けいざい観光かんこう文化ぶんかきょく 文化財ぶんかざい活用かつよう 文化財ぶんかざい活用かつよう. 2021ねん9がつ25にち閲覧えつらん
  3. ^ a b せいぶくてら歴史れきし”. 安国やすくにさん きよしぶくてら公式こうしき. 2021ねん9がつ25にち閲覧えつらん
  4. ^ せいぶくてら境内けいだい福岡ふくおか文化財ぶんかざい”. 福岡ふくおか経済けいざい観光かんこう文化ぶんかきょく 文化財ぶんかざい活用かつよう 文化財ぶんかざい活用かつよう. 2021ねん9がつ25にち閲覧えつらん
  5. ^ せいぶくてらてん記者きしゃ発表はっぴょう” (PDF). 福岡ふくおか博物館はくぶつかん. 2021ねん9がつ25にち閲覧えつらん
  6. ^ だい110代みみほうげんぐま歴代れきだい住職じゅうしょく”. 安国やすくにさん きよしぶくてら公式こうしき. 2021ねん9がつ25にち閲覧えつらん
  7. ^ もりまゆみ「羽仁はにもととその時代じだい さんじゅういち 引揚援護えんご活動かつどう」〔『婦人ふじんとも 』2023ねん7がつごう、124-127ぺーじ〕。なお、もりは『婦人ふじんとも掲載けいさい記事きじほかうえつぼたかし水子みずこ(うた)―ドキュメント引揚孤児こじおんなたち』を参考さんこうにしている。
  8. ^ 総門そうもん”. 安国やすくにさん きよしぶくてら公式こうしき. 2021ねん9がつ24にち閲覧えつらん
  9. ^ 勅使ちょくしもん”. 安国やすくにさん きよしぶくてら公式こうしき. 2021ねん9がつ24にち閲覧えつらん
  10. ^ しみ放生ほうじょう”. 安国やすくにさん きよしぶくてら公式こうしき. 2021ねん9がつ24にち閲覧えつらん
  11. ^ 山門さんもん”. 安国やすくにさん きよしぶくてら公式こうしき. 2021ねん9がつ24にち閲覧えつらん
  12. ^ 鐘楼しゅろう”. 安国やすくにさん きよしぶくてら公式こうしき. 2021ねん9がつ24にち閲覧えつらん
  13. ^ 仏殿ぶつでん”. 安国やすくにさん きよしぶくてら公式こうしき. 2021ねん9がつ24にち閲覧えつらん
  14. ^ 方丈ほうじょう”. 安国やすくにさん きよしぶくてら. 2021ねん9がつ24にち閲覧えつらん
  15. ^ 庫裏くり”. 安国やすくにさん きよしぶくてら公式こうしき. 2021ねん9がつ24にち閲覧えつらん
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