『蝶々夫人 ちょうちょうふじん 』(ちょうちょうふじん、英 えい : Madame Butterfly , マダム・バタフライ)は、以下 いか の諸 しょ 作品 さくひん をさす。
ジョン・ルーサー・ロング の「蝶々夫人 ちょうちょうふじん 」に関 かん しては#外部 がいぶ リンク 先 さき を参照 さんしょう のこと。
アドルフ・ホーヘンシュタイン による1904年 ねん 、ミラノスカラ座 すからざ 初演 しょえん のポスター
『蝶々夫人 ちょうちょうふじん 』(ちょうちょうふじん、伊 い : Madama Butterfly , マダマ・バタフライ[注釈 ちゅうしゃく 1] )は、プッチーニ によって作曲 さっきょく された3幕 まく もののオペラ である。
長崎 ながさき を舞台 ぶたい に、没落 ぼつらく 藩士 はんし 令嬢 れいじょう の蝶々 ちょうちょう さん とアメリカ海軍 かいぐん 士官 しかん ピンカートン との恋愛 れんあい の悲劇 ひげき を描 えが く。物語 ものがたり は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく ペンシルベニア州 しゅう フィラデルフィア の弁護士 べんごし ジョン・ルーサー・ロング が1898年 ねん にアメリカのセンチュリー・マガジン1月 がつ 号 ごう に発表 はっぴょう した短編 たんぺん 小説 しょうせつ (Madame Butterfly )」を原作 げんさく にアメリカの劇 げき 作家 さっか デーヴィッド・ベラスコ が制作 せいさく した戯曲 ぎきょく を歌劇 かげき 台本 だいほん 化 か したものである。1904年 ねん 2月 がつ 17日 にち 、ミラノ のスカラ座 すからざ で初演 しょえん されたそれは大 だい 失敗 しっぱい だったが、同年 どうねん 5月 がつ 28日 にち ブレシア で上演 じょうえん された改訂 かいてい 版 ばん の成功 せいこう 以来 いらい 、世界 せかい のオペラハウスの標準 ひょうじゅん 的 てき なレパートリー作品 さくひん となっている。
色彩 しきさい 的 てき な管弦楽 かんげんがく と旋律 せんりつ 豊 ゆた かな声楽 せいがく 部 ぶ が調和 ちょうわ した名作 めいさく で、日本 にっぽん が舞台 ぶたい ということもあり、プッチーニの作品 さくひん の中 なか では特 とく に日本人 にっぽんじん になじみ易 やす い作品 さくひん である。特 とく に第 だい 2幕 まく のアリア 「ある晴 は れた日 ひ に」は非常 ひじょう に有名 ゆうめい である。
「蝶々夫人 ちょうちょうふじん 」と「お菊 きく さん」の関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
「蝶々夫人 ちょうちょうふじん 」の先行 せんこう 作品 さくひん として、フランスの作家 さっか ピエール・ロティの小説 しょうせつ 「マダム・クリザンテーム(お菊 きく さん)」と、この小説 しょうせつ に基 もと づくアンドレ・メサジェ 作曲 さっきょく の歌劇 かげき 「お菊 きく さん 」の存在 そんざい は広 ひろ く知 し られていた。メサジェの弟子 でし で作曲 さっきょく 家 か のアンリ・フェブリエ(1875-1957)が、1947年 ねん にJEUNESSE DE LA MUSIQUE[1] 誌 し に寄稿 きこう した、メサジェの思 おも い出 で 「私 わたし の師 し 、私 わたし の友人 ゆうじん 」という文章 ぶんしょう によれば、1892年 ねん 夏 なつ メサジェとプッチーニはリコルディ出版 しゅっぱん 社 しゃ 社長 しゃちょう ジュリオ・リコルディの招待 しょうたい で、イタリアのコモ湖畔 こはん のヴィラ・デステに共 とも に滞在 たいざい して、メサジェは「お菊 きく さん」を、プッチーニは「マノン・レスコー」を作曲 さっきょく した。そしてお互 たが いのスコアを弾 ひ き合 あ い研究 けんきゅう した。つまりプッチーニは「お菊 きく さん」の作曲 さっきょく の場 ば にいた。またプッチーニはロティの小説 しょうせつ 「マダム・クリザンテーム」も読 よ んでいた。この結果 けっか 、それから10年 ねん 後 ご にプッチーニが蝶々夫人 ちょうちょうふじん を作曲 さっきょく した際 さい 、メサジェの「お菊 きく さん」をヒントにしたと思 おも われる。顕著 けんちょ な類似 るいじ 点 てん として、蝶々夫人 ちょうちょうふじん 第 だい 2幕 まく 冒頭 ぼうとう のスズキの祈 いの りの場面 ばめん と、お菊 きく さん第 だい 2幕 まく 冒頭 ぼうとう のお梅 うめ の祈 いの りの場面 ばめん 、また花 はな の二重唱 にじゅうしょう の後半 こうはん と、お菊 きく さんとお雪 ゆき の二重唱 にじゅうしょう ははっきりと類似 るいじ 点 てん が認 みと められる。それ以外 いがい にも、ゴローと勘 かん 五 ご 郎 ろう の扱 あつか いや結婚式 けっこんしき の場面 ばめん 、さらに日本 にっぽん のメロディーの扱 あつか いなど、多数 たすう の類似 るいじ 点 てん が認 みと められる[2] 。
プッチーニは24歳 さい で最初 さいしょ のオペラを書 か き上 あ げてから、35歳 さい の時 とき 書 か き上 あ げた3作 さく 目 め の「マノン・レスコー 」で一躍 いちやく 脚光 きゃっこう を浴 あ びた。その後 ご 「ラ・ボエーム 」(1896年 ねん )、「トスカ 」(1900年 ねん )と次々 つぎつぎ と傑作 けっさく を生 う み出 だ した。彼 かれ が「蝶々夫人 ちょうちょうふじん 」を書 か くのは、音楽家 おんがくか として、正 まさ に脂 あぶら の乗 の り切 き った時期 じき であった。
「トスカ 」を発表 はっぴょう してから、次 つぎ のオペラの題材 だいざい をプッチーニは探 さが していた。1900年 ねん 「トスカ」が英国 えいこく で初演 しょえん されるときプッチーニはロンドン に招 まね かれた。その時 とき 、デーヴィッド・ベラスコの戯曲 ぎきょく 「蝶々夫人 ちょうちょうふじん 」を観劇 かんげき した。英語 えいご で上演 じょうえん されていたため、詳 くわ しい内容 ないよう はわからなかったが、プッチーニは感動 かんどう し、次 つぎ の作品 さくひん の題材 だいざい に「蝶々夫人 ちょうちょうふじん 」を選 えら んだ。
同年 どうねん にプッチーニはミラノに戻 もど ると、『トスカ』の台本 だいほん の執筆 しっぴつ を手 て がけたイルリカとジャコーザに頼 たの んで、最初 さいしょ から3人 にん の協力 きょうりょく で蝶々 ちょうちょう さんのオペラの制作 せいさく が開始 かいし された。翌年 よくねん には難航 なんこう していた作曲 さっきょく 権 けん の問題 もんだい も片付 かたづ き、本格 ほんかく 的 てき に制作 せいさく に着手 ちゃくしゅ した。プッチーニは日本 にっぽん 音楽 おんがく の楽譜 がくふ を調 しら べたり、レコードを聞 き いたり、日本 にっぽん の風俗 ふうぞく 習慣 しゅうかん や宗教 しゅうきょう 的 てき 儀式 ぎしき に関 かん する資料 しりょう を集 あつ め、日本 にっぽん の雰囲気 ふんいき をもつ異色 いしょく 作 さく の完成 かんせい を目指 めざ して熱心 ねっしん に制作 せいさく に励 はげ んだ。当時 とうじ のイタリア駐在 ちゅうざい 特命 とくめい 全権 ぜんけん 公使 こうし [3] であった大山 おおやま 綱 つな 介 かい の妻 つま ・久子 ひさこ に再三 さいさん 会 あ って日本 にっぽん の事情 じじょう を聞 き き、民謡 みんよう など日本 にっぽん の音楽 おんがく を集 あつ めた。またプッチーニはヨーロッパの劇評 げきひょう で絶賛 ぜっさん されていた日本人 にっぽんじん 女優 じょゆう 川上 かわかみ 貞奴 さだやっこ に接 せっ することを熱望 ねつぼう した。1902年 ねん 4月 がつ ミラノで観劇 かんげき が叶 かな い、貞奴 さだやっこ の芝居 しばい に感銘 かんめい を受 う けた。[4] オペラ歌手 かしゅ の小嶋 こじま 健二 けんじ がイタリアの指揮 しき 者 しゃ セルジオ・ファイローニ(Sergio Failoni)の未亡人 みぼうじん から聞 き いた話 はなし では、ファイローニがプッチーニに蝶々夫人 ちょうちょうふじん をなぜ作 つく ったか聞 き いたところ「日本 にっぽん 女性 じょせい を愛 あい してみればよくわかる」と答 こた えたという[5] 。
1903年 ねん 2月 がつ にプッチーニは自動車 じどうしゃ 事故 じこ に遭 あ って大腿 だいたい 部 ぶ を骨折 こっせつ し、一時 いちじ は身動 みうご きも出来 でき ない重傷 じゅうしょう を負 お った。春 はる になると車椅子 くるまいす 生活 せいかつ での作曲 さっきょく を余儀 よぎ なくされた。しかしプッチーニは制作 せいさく を精力 せいりょく 的 てき に進 すす め、その年 とし の12月27日 にち に脱 だつ 稿 こう した。その年 とし の内 うち に楽譜 がくふ は小説 しょうせつ 「蝶々夫人 ちょうちょうふじん 」も初版 しょはん と同 おな じセンチュリー出版 しゅっぱん 社 しゃ からヤーネル・アボットの挿絵 さしえ 入 い りの単行本 たんこうぼん として出版 しゅっぱん された。原作 げんさく 者 しゃ ロングはこの小説 しょうせつ の戯曲 ぎきょく 化 か とオペラ化 か を大 おお いに喜 よろこ んで序文 じょぶん に「あの子 こ が美 うつく しくかつ哀 あい しい歌 か を歌 うた って帰 かえ ってくる」と記 しる している。また翌 よく 1904年 ねん 1月 がつ 3日 にち にはプッチーニはトッレ・デル・ラーゴで夫人 ふじん エルヴィラと正式 せいしき に結婚 けっこん の儀式 ぎしき を行 おこな っている。
初演 しょえん の失敗 しっぱい と後世 こうせい の評価 ひょうか [ 編集 へんしゅう ]
初演 しょえん で蝶々夫人 ちょうちょうふじん を演 えん じたロジーナ・ストルキオ。拍手 はくしゅ ひとつなく、舞台裏 ぶたいうら で泣 な き崩 くず れた。プッチーニは同 どう 作 さく の成功 せいこう を誓 ちか い、自 みずか らの生存 せいぞん 中 ちゅう はスカラ座 すからざ での再演 さいえん を禁 きん じた
ブレシア大 だい 劇場 げきじょう で好評 こうひょう を得 え たウクライナ 出身 しゅっしん のソロミヤ・クルシェリンスカヤ
1907年 ねん にベルリン国立 こくりつ 劇場 げきじょう 公演 こうえん で大 だい 成功 せいこう をおさめたジェラルディン・ファーラー はニューヨークのメトロポリタン劇場 げきじょう だけでも100回 かい 近 ちか く蝶々夫人 ちょうちょうふじん を演 えん じた
現在 げんざい ではイタリアオペラの主要 しゅよう なレパートリーとなっている「蝶々夫人 ちょうちょうふじん 」であるが、1904年 ねん 2月 がつ 17日 にち ミラノ 、スカラ座 すからざ での初演 しょえん はプッチーニの熱意 ねつい にもかかわらず振 ふ るわなかった(彼 かれ の作品 さくひん は本 ほん 作 さく に限 かぎ らず、初演 しょえん で不評 ふひょう を買 か うのが常 つね であった[7] )。失敗 しっぱい の理由 りゆう はいくつか指摘 してき される。初演 しょえん 版 ばん では、第 だい 2幕 まく に1時 じ 間 あいだ 半 はん を要 よう すなど上演 じょうえん 時間 じかん が長 なが すぎたことや、文化 ぶんか の異 こと なる日本 にっぽん を題材 だいざい にした作品 さくひん であったため観客 かんきゃく が違和感 いわかん を覚 おぼ えたという原因 げんいん が挙 あ げられている。
ひどく落胆 らくたん したプッチーニだったが、すぐさま改稿 かいこう に取 と りかかった。改訂 かいてい 版 ばん の上演 じょうえん は3か月 げつ 後 ご の同年 どうねん 5月 がつ 28日 にち 、イタリアのブレシア で行 おこな われ、大 だい 成功 せいこう を収 おさ めた。その後 ご 、ロンドン、パリ公演 こうえん とプッチーニは何 なん 度 ど も改訂 かいてい を重 かさ ね、1906年 ねん のパリ公演 こうえん のために用意 ようい された第 だい 6版 はん が、21世紀 せいき の今日 きょう まで上演 じょうえん され続 つづ けている決定 けってい 版 ばん となっている。
本 ほん 作 さく は抒情 じょじょう 的 てき なテーマを盛 も り上 あ げる美 うつく しいメロディ や複雑 ふくざつ な和声 わせい 効果 こうか の使用 しよう などプッチーニの音楽 おんがく の特色 とくしょく が現 あらわ れた作品 さくひん であり、イタリアオペラを代表 だいひょう する演目 えんもく の一 ひと つとなっている。
プッチーニにとっては、ジュゼッペ・ヴェルディ によって完成 かんせい されたロマン派 は オペラの後継 こうけい 者 しゃ としての地位 ちい 、イタリアオペラのマエストロ の地位 ちい を確立 かくりつ させることになった代表 だいひょう 的 てき 作品 さくひん である。
ヤマドリ公爵 こうしゃく (テノール)
勅使 ちょくし
ゴロー (テノール)
ボンゾ (蝶々 ちょうちょう さんのおじ。「坊主 ぼうず 」か?)(バス )
スズキ (メゾソプラノ )
ケイト・ピンカートン (ピンカートンのアメリカ本国 ほんごく での妻 つま )(メゾソプラノ)
登記 とうき 係 がかり
蝶々 ちょうちょう さんの母 はは
蝶々 ちょうちょう さんのおば
蝶々 ちょうちょう さんのいとこ
薬師 くすし 手 しゅ (バリトン)
蝶々 ちょうちょう さんの子 こ
蝶々 ちょうちょう さんの知 し り合 あ いと船乗 ふなの りたち
ピッコロ (第 だい 3フルート持 も ち替 か え)・フルート 2、オーボエ 2、イングリッシュホルン 、クラリネット 2、バスクラリネット 、バスーン 2、ホルン 4、トランペット 3、トロンボーン 3、コントラバストロンボーン (多 おお くはチンバッソ で代用 だいよう )、ティンパニ 、バスドラム 、スネアドラム 、シンバル 、トライアングル 、グロッケンシュピール 、銅鑼 どら 、鉦 かね 、ハープ 、弦 つる 五 ご 部 ぶ (14型 がた )
舞台裏 ぶたいうら でヴィオラ・ダモーレ (通常 つうじょう ヴァイオリン で代用 だいよう される)・銅鑼 どら ・梵鐘 ぼんしょう 類 るい ・鐘 かね ・鳥 とり 笛 ふえ ・大砲 たいほう
約 やく 2時 じ 間 あいだ 20分 ふん (第 だい 1幕 まく 50分 ふん 、第 だい 2幕 まく 60分 ふん 、第 だい 3幕 まく 30分 ふん )、初稿 しょこう :約 やく 2時 じ 間 あいだ 30分 ふん (第 だい 一幕 ひとまく 60分 ふん 、第 だい 二 に 幕 まく 90分 ふん
時 とき と場所 ばしょ :1904年 ねん の長崎 ながさき 。
アメリカ海軍 かいぐん の戦艦 せんかん エイブラハム・リンカーン所属 しょぞく の海軍 かいぐん 士官 しかん ピンカートン(Pinkerton)は日本人 にっぽんじん の少女 しょうじょ と結婚 けっこん することになった。
結婚 けっこん 斡旋 あっせん 屋 や のゴロー(Goro)が、長崎 ながさき にきたピンカートンに、結婚 けっこん 後 ご に暮 く らす丘 おか の麓 ふもと の家 いえ や、下女 げじょ のスズキ(Suzuki)や下男 げなん を紹介 しょうかい して機嫌 きげん を取 と っている。
そこへ駐 ちゅう 長崎 ながさき 領事 りょうじ のシャープレス(Sharpless)がやってくる。ピンカートンはここでアリア「ヤンキーは世界 せかい のどこへ行 い っても」 を歌 うた う。シャープレスは優 やさ しい心 しん の男 おとこ であり、ゴローが紹介 しょうかい した少女 しょうじょ がこの結婚 けっこん が永久 えいきゅう の縁 えん と堅 かた く信 しん じていることを思 おも い出 だ し、戸惑 とまど う。だがピンカートンは、この結婚 けっこん も一時 いちじ の愛 あい だとシャープレスの危惧 きぐ を一笑 いっしょう に付 ふ すのであった。
1913年 ねん 、フランセス・アルダによる歌唱 かしょう
そこへ蝶々 ちょうちょう さん(Cio-Cio-San)が芸者 げいしゃ 仲間 なかま とともに現 あらわ れる。このとき「さあ一足 ひとあし よ」 を歌 うた う。シャープレスが可憐 かれん なこの15歳 さい の少女 しょうじょ に身 み の上 うえ を問 と うと、実家 じっか は大村 おおむら の没落 ぼつらく 士族 しぞく の家 いえ であると答 こた え、父 ちち から頂 いただ いた切腹 せっぷく のための刀 かたな の入 はい った箱 はこ を披露 ひろう する。それにより、座 ざ は一時 いちじ しらけてしまうが、ゴローによって結婚式 けっこんしき の準備 じゅんび が進 すす められる。蝶々 ちょうちょう さんは前日 ぜんじつ にキリスト教 きりすときょう に改宗 かいしゅう したことを告 つ げる。
三々九度 さんさんくど など一連 いちれん の結婚 けっこん の儀式 ぎしき が済 す んだ頃 ころ 、蝶々 ちょうちょう さんの叔父 おじ のボンゾ(Bonze)が現 あらわ れる。彼 かれ は蝶々 ちょうちょう さんの改宗 かいしゅう を怒 おこ って詰問 きつもん するが、ピンカートンに追 お い払 はら われる。うろたえる蝶々 ちょうちょう さんを慰 なぐさ めるピンカートン。2人 ふたり はここで愛 あい の二重唱 にじゅうしょう 「可愛 かわい がってくださいね」 を歌 うた う。
結婚式 けっこんしき から3年 ねん が過 す ぎた。ピンカートンは任務 にんむ が終 お わり、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に帰 かえ ってしまっていた。彼 かれ は蝶々 ちょうちょう さんに「コマドリ が巣 す を作 つく る頃 ころ には帰 かえ ってくる」と約束 やくそく していた。蝶々 ちょうちょう さんの忠実 ちゅうじつ な下女 げじょ スズキは彼 かれ は既 すで にそれらを反故 ほご にしたのではと疑 うたが うが、ピンカートンを信頼 しんらい する蝶々 ちょうちょう さんにとがめられる。
きっと夫 おっと は帰 かえ ってくると信 しん じてやまぬ蝶々 ちょうちょう さんは、ここでアリア「ある晴 は れた日 ひ に」 を歌 うた う。
その頃 ころ 、シャープレスはピンカートンがアメリカ本国 ほんごく でアメリカ人 じん 女性 じょせい と結婚 けっこん したことを本人 ほんにん の代 か わりに蝶々 ちょうちょう さんに告 つ げることになっていた。しかし蝶々 ちょうちょう さんの夫 おっと への信頼 しんらい を見 み た彼 かれ は、それを壊 こわ すようなことはできなかった。蝶々 ちょうちょう さんはピンカートンの手紙 てがみ を見 み て喜 よろこ ぶ。そこへゴローが裕福 ゆうふく な紳士 しんし ヤマドリ公 こう (Prince Yamadori)を連 つ れてやってくる。ヤマドリ公 こう は蝶々 ちょうちょう さんに結婚 けっこん を申 もう し出 で るが、夫 おっと からの手紙 てがみ に喜 よろこ んでいる蝶々 ちょうちょう さんはそれを拒否 きょひ する。ゴローは蝶々 ちょうちょう さんは離婚 りこん された妻 つま であると説明 せつめい しようとしたが、蝶々 ちょうちょう さんは激 はげ しく断 ことわ る。「それは日本 にっぽん の習慣 しゅうかん に過 す ぎない。今 いま の私 わたし はアメリカ人 じん である」と。ゴローとヤマドリ公 こう がすごすごと帰 かえ ってしまうと、シャープレスと蝶々 ちょうちょう さんは「友 とも よ、見 み つけて」 を歌 うた う。
そして、シャープレスがピンカートンが帰 かえ ってこなければどうするのか、と蝶々 ちょうちょう さんに問 と うと、芸者 げいしゃ に戻 もど るか、自刃 じじん するしかないと答 こた え、困惑 こんわく したシャープレスが「ヤマドリ公 こう の申 もう し出 で を受 う けてはどうか」と勧 すす めると、「あなたまでがそんなことを言 い うのか」と怒 いか り、シャープレスに彼女 かのじょ とピンカートンとの子供 こども を見 み せ、「わが夫 おっと がこの子 こ を忘 わす れようか」とい放 いはな ち、「子供 こども のために芸者 げいしゃ に戻 もど って恥 はじ を晒 さら すよりは死 し を選 えら ぶわ」と泣 な き叫 さけ ぶ。シャープレスはいたたまれずに去 さ っていく。
スズキは蝶々 ちょうちょう さんの悪評 あくひょう を拡 ひろ げようとするゴローを捕 つか まえる。蝶々 ちょうちょう さんにとって悪 わる い話 はなし が次々 つぎつぎ と届 とど く中 なか 、遠 とお くにピンカートンの所属 しょぞく 艦 かん エイブラハム・リンカーンが兵員 へいいん の到来 とうらい を礼砲 れいほう で告 つ げた。それを望遠鏡 ぼうえんきょう で見 み つけた蝶々 ちょうちょう さんとスズキは喜 よろこ び、家 いえ を花 はな で飾 かざ り、二重唱 にじゅうしょう 「桜 さくら の枝 えだ を揺 ゆ さぶって」 を歌 うた う。そして自分 じぶん 達 たち と子供 こども を盛装 せいそう させ、障子 しょうじ を通 とお して、ピンカートンの帰 かえ りを凝視 ぎょうし する。夜 よる が過 す ぎ、長 なが いオーケストラとのハミングコーラス のパッセージが演奏 えんそう される中 なか 、スズキと子供 こども は眠 ねむ ってしまう。蝶々 ちょうちょう さんは決 けっ して後悔 こうかい していなかった。
夜 よる が明 あ けた蝶々 ちょうちょう さんの家 いえ 。蝶々 ちょうちょう さんは寝 ね ずの番 ばん をしていた。スズキは目覚 めざ め、子供 こども を蝶々 ちょうちょう さんのもとへ連 つ れて行 い く。スズキは憔悴 しょうすい した蝶々 ちょうちょう さんを休 やす むよう説 と き伏 ふ せる。ピンカートンとシャープレスが登場 とうじょう し、スズキに恐 おそれ るべき真実 しんじつ を告 つ げる。しかし、ピンカートンは罪悪 ざいあく 感 かん によって深 ふか く打 う ちひしがれ、自身 じしん を恥 は じていた。余 あま りに卑劣 ひれつ なことで自分 じぶん の口 くち から蝶々 ちょうちょう さんに告 つ げることはできず、彼 かれ は義務 ぎむ を放 ほう り出 だ して去 さ ってしまう。このときピンカートンはアリア「さらば愛 あい の巣 す 」 を歌 うた う。スズキは、はじめは猛烈 もうれつ に怒 おこ っていたが、シャープレスから、蝶々 ちょうちょう さんが子供 こども を渡 わた してくれれば、ピンカートンのアメリカ人妻 ひとづま がその子 こ を養育 よういく するということを聞 き き、説 と き伏 ふ せられてしまう。
蝶々 ちょうちょう さんはピンカートンと会 あ えると思 おも い、目 め を輝 かがや かせて登場 とうじょう する。しかしピンカートンの代 か わりに彼 かれ のアメリカでの妻 つま ケイト(Kate Pinkerton)と対面 たいめん させられる。蝶々 ちょうちょう さんは感傷 かんしょう 的 てき な穏 おだ やかさをたたえつつ真実 しんじつ を受 う け止 と め、礼儀 れいぎ 正 ただ しくケイトを祝福 しゅくふく した。これで平穏 へいおん が見 み いだされるであろうと。それから、ケイトやシャープレスにお辞儀 じぎ をし、子供 こども を渡 わた すことを約束 やくそく する。そしてスズキに家 いえ の障子 しょうじ を全部 ぜんぶ 閉 し めさせ一人 ひとり きりになる。障子 しょうじ 越 ご しに侍 はべ るスズキに対 たい しては、「子供 こども を外 そと で遊 あそ ばせるように」と命 めい じて下 さ がらせる。
蝶々 ちょうちょう さんは仏壇 ぶつだん の前 まえ に座 すわ り、父 ちち の遺品 いひん の刀 かたな を取 と り出 だ し、「名誉 めいよ のために生 い けることかなわざりし時 とき は、名誉 めいよ のために死 し なん(Con onor muore chi non puo serbar vita con onore.)」の銘 めい を読 よ み自刃 じじん しようとするが、そこへ子供 こども が走 はし ってくる。蝶々 ちょうちょう さんは子供 こども を抱 だ きしめアリア「さよなら坊 ぼう や」 を歌 うた い、子供 こども に目隠 めかく しをし、日米 にちべい の国旗 こっき を持 も たせる。そして、刀 かたな を喉 のど に突 つ き立 た てる。今際 いまわ の際 さい でも子供 こども に手 て を伸 の ばす蝶々 ちょうちょう さん。そこへ異変 いへん を聞 き きつけたピンカートンとシャープレスが戻 もど ってくるが、とき既 すで に遅 おそ く、蝶々 ちょうちょう さんは息 いき 絶 た える。幕 まく 。
「ある晴 は れた日 ひ に」
「可愛 かわい がってくださいね」
第 だい 一幕 ひとまく で蝶々 ちょうちょう さんとピンカートンが歌 うた う二重唱 にじゅうしょう 。旋律 せんりつ とハーモニーの美 うつく しさで有名 ゆうめい 。
ピンカートンのアリアの中 なか で最 もっと も有名 ゆうめい 。
最後 さいご のアリア。
当時 とうじ のジャポニスム の流行 りゅうこう も反映 はんえい してかプッチーニは日本 にっぽん の音楽 おんがく を収集 しゅうしゅう し、使用 しよう している。そのため、同 どう 時期 じき に作 つく られた「ミカド 」などよりは、はるかに日本 にっぽん 的 てき 情緒 じょうちょ のある作品 さくひん に高 たか めており、今日 きょう 、日本人 にっぽんじん に好 この まれるオペラの一 ひと つにしている要因 よういん となっている。
この「引用 いんよう 、転用 てんよう 」は後 のち に「トゥーランドット 」でも行 おこな われる。
蝶々夫人 ちょうちょうふじん を演 えん じた日本人 にっぽんじん [ 編集 へんしゅう ]
ジェラルディン・ファーラー が蝶々夫人 ちょうちょうふじん を演 えん じた1911年 ねん 3月9日 にち のメトロポリタン歌劇 かげき 場 じょう でのマチネーで、マリー・マットフェルト (英語 えいご 版 ばん ) の代役 だいやく でスズキを演 えん じた高折 たかおり 寿美子 すみこ (矢野 やの 寿美子 すみこ )は、1914年 ねん 1月 がつ 1日 にち から1月 がつ 25日 にち まで帝国 ていこく 劇場 げきじょう で行 おこな われた高折 たかおり 周一 しゅういち ・寿美子 すみこ 夫妻 ふさい の帰朝 きちょう おみやげ公演 こうえん で蝶々夫人 ちょうちょうふじん を演 えん じた。このときの公演 こうえん は『蝶々夫人 ちょうちょうふじん 』第 だい 2幕 まく からの抜粋 ばっすい を周一 しゅういち が編 へん 作 さく したもので、全 ぜん 一場 いちじょう 『長崎 ながさき 市 し 蝶子 ちょうこ 夫人 ふじん 侘 わび 住居 じゅうきょ 』とプログラムに記 しる されていた。
三浦 みうら 環 たまき 。1916年 ねん
明治 めいじ から昭和 しょうわ 初期 しょき にかけて活躍 かつやく したソプラノ歌手 かしゅ の三浦 みうら 環 たまき は、この蝶々夫人 ちょうちょうふじん 役 やく を得意 とくい とし、その生涯 しょうがい において世界 せかい 各地 かくち で数多 かずおお く蝶々夫人 ちょうちょうふじん 役 やく を演 えん じた。1915年 ねん 5月31日 にち に初 はつ の日本人 にっぽんじん による蝶々夫人 ちょうちょうふじん 役 やく としてロンドンのオペラハウスで演 えん じたのを皮切 かわき りに、約 やく 20年間 ねんかん 暮 く らした海外 かいがい だけでも2000回 かい 以上 いじょう 公演 こうえん した。現在 げんざい でも長崎 ながさき のグラバー園 えん にはその功績 こうせき を称 たた える三浦 みうら の像 ぞう がある。
他 た に、蝶々夫人 ちょうちょうふじん を得意 とくい とした日本人 にっぽんじん ソプラノ歌手 かしゅ には、戦前 せんぜん のヨーロッパで活躍 かつやく した原 はら 信子 のぶこ [13] ・喜波 きわ 貞子 さだこ (きわ ていこ)・田中 たなか 路子 みちこ (1932年 ねん にオーストリア ・グラーツ でデビュー)、同 おな じくヨーロッパで戦中 せんちゅう 戦後 せんご に渡 わた り活躍 かつやく した伊藤 いとう 敦子 あつこ ・長谷川 はせがわ 敏子 としこ (1944年 ねん 、イタリア ミラノ・スカラ座 すからざ で日本人 にっぽんじん 初 はつ の出演 しゅつえん )、20世紀 せいき 後半 こうはん 以降 いこう は砂原 すなはら 美智子 みちこ (パリ を拠点 きょてん )、東 あずま 敦子 あつこ (1971年 ねん ウィーン国立 こくりつ 歌劇 かげき 場 じょう デビュー(日本人 にっぽんじん 初 はつ )、1972年 ねん メトロポリタン歌劇 かげき 場 じょう デビュー、1978年 ねん ボリショイ劇場 げきじょう デビュー(日本人 にっぽんじん 初 はつ ))、林 はやし 康子 やすこ (1972年 ねん 、蝶々 ちょうちょう 役 やく でスカラ座 すからざ デビュー)、片 かた 野坂 のさか 栄子 えいこ (1977年 ねん 、ミュンヘン国立 こくりつ ゲルトナー歌劇 かげき 場 じょう のプレミエで歌 うた った「蝶々夫人 ちょうちょうふじん 」は絶賛 ぜっさん を博 はく し“黄金 おうごん のばら賞 しょう ”を受賞 じゅしょう 。この他 ほか 、ヨーロッパの各 かく 歌劇 かげき 場 じょう にて200回 かい 以上 いじょう もこのオペラを主演 しゅえん ) らがいる。
映画 えいが では、1954年 ねん (昭和 しょうわ 29年 ねん )にカルミネ・ガローネ が監督 かんとく として、東宝 とうほう とリッツオーリ・フィルム=ガローネ・プロの日 にち 伊 い 合作 がっさく が製作 せいさく された。『蝶々夫人 ちょうちょうふじん (英語 えいご 版 ばん ) 』のタイトルロールを当時 とうじ 宝塚歌劇団 たからづかかげきだん 在 ざい 団 だん 中 ちゅう でタカラジェンヌ だった八千草 やちぐさ 薫 かおる が演 えん じ(吹 ふ き替 か えはオリエッタ・モスクッチが担当 たんとう 。)、日本 にっぽん だけでなくイタリアでも大 だい 評判 ひょうばん をとった。
揚羽蝶 あげはちょう
「蝶々夫人 ちょうちょうふじん 」の舞台 ぶたい となった日本 にっぽん では長 なが らく「『蝶々夫人 ちょうちょうふじん 』のモデルは誰 だれ か?」ということが議論 ぎろん されてきた。ロングの実姉 じっし サラ・ジェニー・コレルは、1890年代 ねんだい 初頭 しょとう から鎮西 ちんぜい 学院 がくいん 五 ご 代目 だいめ 校長 こうちょう で宣教師 せんきょうし でもあった夫 おっと とともに長崎 ながさき の東山手 ひがしやまて に住 す んでいた。ロングは、姉 あね のコレル夫人 ふじん から聞 き いた話 はなし から着想 ちゃくそう を得 え て、小説 しょうせつ を執筆 しっぴつ したとされている。
長年 ながねん 、有力 ゆうりょく 視 し されていたのは、幕末 ばくまつ に活躍 かつやく したイギリス 商人 しょうにん トーマス・ブレーク・グラバー の妻 つま 、ツル である。これは彼女 かのじょ が長崎 ながさき の武家 ぶけ の出身 しゅっしん であると、誤 あやま って伝 つた えられたことや、「蝶 ちょう 」の紋付 もんつき を好 この んで着用 ちゃくよう し「蝶々 ちょうちょう さん」と呼 よ ばれたことに由来 ゆらい する。長崎 ながさき の旧 きゅう グラバー邸 てい が長崎湾 ながさきわん を見下 みお ろす南 みなみ 山手 やまて の丘 おか の上 うえ にあることも、物語 ものがたり の設定 せってい と一致 いっち する。しかし、ロングの小説 しょうせつ で具体 ぐたい 的 てき に記述 きじゅつ されている蝶々夫人 ちょうちょうふじん の経歴 けいれき に、ツルの生涯 しょうがい と似 に ている部分 ぶぶん があるが、重要 じゅうよう 部分 ぶぶん で異 こと なる点 てん も多 おお いため、モデルと考 かんが えるのは不自然 ふしぜん との意見 いけん もある。一方 いっぽう 、グラバーとツルの間 あいだ に生 う まれた長男 ちょうなん の倉 くら 場 じょう 富三郎 とみさぶろう がペンシルベニア大学 だいがく に留学 りゅうがく していたこと、ロング本人 ほんにん が、「姉 あね は倉 くら 場 じょう 富三郎 とみさぶろう に会 あ ったことがある」と語 かた ったと言 い われることなどは、「蝶々夫人 ちょうちょうふじん =グラバー・ツル」説 せつ を裏付 うらづ ける要素 ようそ とされている。ただし、ロングは小説 しょうせつ が実話 じつわ に基 もと づくとは明言 めいげん しておらず、また、彼 かれ 自身 じしん がアメリカ士官 しかん を貶 おとし めているともとれる小説 しょうせつ の人物 じんぶつ 設定 せってい について多 おお くの批判 ひはん を受 う けていたこともあり、真相 しんそう は曖昧 あいまい にされたまま現在 げんざい に至 いた る。
ツルが最初 さいしょ の結婚 けっこん でもうけた娘 むすめ ・センの子孫 しそん の調査 ちょうさ によると、ロングの小説 しょうせつ 『マダム・バタフライ』に登場 とうじょう する家 いえ がグラバー邸 てい 内 ない と酷似 こくじ していることと、ロングがのちに書 か いた戯曲 ぎきょく 『マダム・バタフライ その20年 ねん 後 ご 』の原稿 げんこう に「Dam. Too-ri」とメモがあり、ツルと読 よ めることから、ロングはツルを下敷 したじ きにしていたと思 おも われるが、内容 ないよう 自体 じたい はツルの経歴 けいれき とは異 こと なり、創作 そうさく である[15] 。
当時 とうじ の長崎 ながさき では、洋妾 らしゃめん (ラシャメン )として、日本 にっぽん に駐在 ちゅうざい する外国 がいこく 人 じん の軍人 ぐんじん や商人 しょうにん と婚姻 こんいん し、現地 げんち 妻 つま となった女性 じょせい が多 おお く存在 そんざい していた。また19世紀 せいき 初 はじ めに出島 でじま に駐在 ちゅうざい したドイツ人 じん 医師 いし のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト にも、日本人 にっぽんじん 妻 つま がいた。下級 かきゅう の軍人 ぐんじん が揚屋 あげや などの売春 ばいしゅん 宿 やど などに通 かよ って欲望 よくぼう を発散 はっさん する一方 いっぽう 、金銭 きんせん 的 てき に余裕 よゆう がある高級 こうきゅう 将校 しょうこう などは居宅 きょたく に女性 じょせい と暮 く らしていた。この際 さい の婚姻 こんいん 届 とどけ は、鎖国 さこく から開国 かいこく にいたる混乱 こんらん 期 き の日本 にっぽん で、長崎 ながさき 居留 きょりゅう の外国 がいこく 人 じん と日本人 にっぽんじん 女性 じょせい との同居 どうきょ による問題 もんだい 発生 はっせい を管理 かんり したい長崎 ながさき 奉行 ぶぎょう が公認 こうにん しており、飽 あ くまでも一時 いちじ 的 てき なものだった。相手 あいて の女性 じょせい も農家 のうか から長崎 ながさき の外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち に出稼 でかせ ぎに来 き ていた娘 むすめ であり、生活 せいかつ のために洋妾 らしゃめん になったのである。互 たが いに割 わ り切 き った関係 かんけい であり、この物語 ものがたり のように外国 がいこく 人 じん 男性 だんせい との関係 かんけい が真実 しんじつ の恋愛 れんあい であった例 れい は稀 まれ である。現 げん に、シーボルトの日本人 にっぽんじん 妻 つま だった楠本 くすもと 滝 たき は、シーボルトの帰国 きこく 後 ご に婚姻 こんいん ・離婚 りこん を繰 く り返 かえ している。まして、夫 おっと に裏切 うらぎ られて自殺 じさつ をした女性 じょせい の記録 きろく は皆無 かいむ であり、蝶々夫人 ちょうちょうふじん に特別 とくべつ なモデルはいない創作 そうさく 上 じょう の人物 じんぶつ であると考 かんが える説 せつ も有力 ゆうりょく である。
イヴ、お菊 きく (おカネ)、ロティ
「蝶々夫人 ちょうちょうふじん 」の先行 せんこう 作品 さくひん であるメサジェの歌劇 かげき 「お菊 きく さん」の原作 げんさく 者 しゃ ピエール・ロティの長崎 ながさき の現地 げんち 妻 つま で、お菊 きく さんのモデルであったおカネが蝶々夫人 ちょうちょうふじん のモデルであるという説 せつ もある。
おカネ(兼 けん )は、1869年 ねん (明治 めいじ 2年 ねん )豊後 ぶんご 国 こく 岡 おか 藩 はん (現在 げんざい の大分 おおいた 県 けん 竹田 たけだ 市 し )の武士 ぶし の家 いえ に生 う まれた。幼 おさな い頃 ころ から三味線 しゃみせん などの芸事 げいごと を嗜 たしな んでいたが、西南 せいなん の役 やく で実家 じっか が没落 ぼつらく 、竹田 たけだ に縁 えん のあるグラバー夫人 ふじん を頼 たよ り、長崎 ながさき で芸者 げいしゃ になり、1885年 ねん (明治 めいじ 18年 ねん )にロティと結 むす ばれる。ロティとの結婚 けっこん 生活 せいかつ は1ヶ月 かげつ で終 お わり、その数 すう 年 ねん 後 ご 、おカネは長崎 ながさき 郊外 こうがい の川原 かわら の提灯屋 ちょうちんや (ムシュ・パンソン)と再婚 さいこん する。1900年 ねん (明治 めいじ 33年 ねん )ロティは長崎 ながさき を再訪 さいほう して10ヶ月 かげつ 滞在 たいざい したが、おカネには会 あ おうとしなかった。そのことがショックで、おカネは家 いえ を捨 す て一 いち 人 にん 竹田 たけだ に戻 もど り、烏嶽 からすだけ の洞窟 どうくつ で暮 く らした。竹田 たけだ の人々 ひとびと は「狂人 きょうじん オカネ」と呼 よ んだが、一部 いちぶ の人 ひと の庇護 ひご の元 もと 、その後 ご 20年間 ねんかん 生 い きて、1921年 ねん (大正 たいしょう 10年 ねん )に死去 しきょ する。享年 きょうねん 52。
上記 じょうき 「作曲 さっきょく の経緯 けいい 」で記 しる されている通 とお り、「蝶々夫人 ちょうちょうふじん 」と「お菊 きく さん」の関係 かんけい が明確 めいかく になったことから、蝶々夫人 ちょうちょうふじん のモデルは、竹田 たけだ 生 う まれのおカネさんという説 せつ である。
[16]
植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ 時代 じだい の偏見 へんけん に基 もと づいたストーリーを未 いま だに演 えん じることへの批判 ひはん や反論 はんろん は国内外 こくないがい 問 と わず根強 ねづよ くあり、2007年 ねん には、イギリス の音楽 おんがく 教授 きょうじゅ でプッチーニの専門 せんもん 家 か 、ロジャー・パーカーが人種 じんしゅ 差別 さべつ 的 てき であるとして批判 ひはん した[17] 。
2019年 ねん 、Kバレエカンパニー が9月 がつ 27日 にち ~29日 にち Bunkamura オーチャードホール と10月 がつ 10日 とおか ~14日 にち 東京文化会館 とうきょうぶんかかいかん 大 だい ホールで『マダム・バタフライ』と題 だい してバレエ公演 こうえん を行 おこ なった[18] 。
漫画 まんが ・アニメ『エースをねらえ! 』に登場 とうじょう するキャラクター「お蝶 ちょう 夫人 ふじん 」は「蝶々夫人 ちょうちょうふじん 」の別 べつ の邦訳 ほうやく 名 めい であるが、このキャラクターは元来 がんらい の「蝶々夫人 ちょうちょうふじん 」とまったく関係 かんけい がない。むしろ性格 せいかく 、境遇 きょうぐう 設定 せってい などは正 せい 反対 はんたい でさえある。
島田 しまだ 雅彦 まさひこ が2000年 ねん より刊行 かんこう した小説 しょうせつ シリーズ『無限 むげん カノン三 さん 部 ぶ 作 さく 』は、主人公 しゅじんこう の青年 せいねん カヲルが蝶々 ちょうちょう とピンカートンの末裔 まつえい という設定 せってい の恋愛 れんあい 小説 しょうせつ で、カヲルのルーツとなる蝶々 ちょうちょう らの物語 ものがたり は主 おも に第 だい 1作 さく 『彗星 すいせい の住人 じゅうにん 』で描 えが かれた。派生 はせい する作品 さくひん として、カヲルの祖父 そふ にあたる蝶々 ちょうちょう の遺児 いじ 、ベンジャミン・ピンカートン・ジュニア(ニックネーム"ジュニア・バタフライ" 、略称 りゃくしょう J.B )の母 はは との死別 しべつ ・米国 べいこく へ引 ひ き取 と られてからの半生 はんせい を太平洋戦争 たいへいようせんそう ・長崎 ながさき 原爆 げんばく をまじえて描 えが いたオペラ『ジュニア・バタフライ 』が、ストーリー・島田 しまだ 雅彦 まさひこ 、作曲 さっきょく ・三枝 さえぐさ 成彰 しげあき らの手 て によって製作 せいさく された。2004年 ねん 4月初演 しょえん 時 じ の主 おも な出演 しゅつえん 者 しゃ は佐野 さの 成宏 しげひろ (J.B)、佐藤 さとう しのぶ (ナオミ、J.Bの恋人 こいびと )ら。
なお、『ジュニア〜』は2006年 ねん 8月 がつ 3日 にち から9日 にち までイタリア ・トッレ・デル・ラーゴ野外 やがい 大 だい 劇場 げきじょう にて開催 かいさい されたプッチーニ音楽 おんがく 祭 さい でも佐野 さの ・J.B-ナオミ・佐藤 さとう のコンビで上演 じょうえん され現地 げんち でも絶賛 ぜっさん された。
渡辺 わたなべ はま子 こ が歌 うた った歌謡 かよう 曲 きょく 『長崎 ながさき のお蝶 ちょう さん』(作詞 さくし :藤浦 ふじうら 洸 こう 作曲 さっきょく :竹岡 たけおか 信幸 のぶゆき )は、蝶々夫人 ちょうちょうふじん を歌 うた っており、間奏 かんそう に「ある晴 は れた日 ひ に」の旋律 せんりつ が使 つか われている。
桃屋 ももや の「いか塩辛 しおから 」のCMで、本 ほん 作 さく がネタにされている[19] 。