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蝶々夫人ちょうちょうふじん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

蝶々夫人ちょうちょうふじん』(ちょうちょうふじん、えい: Madame Butterfly, マダム・バタフライ)は、以下いかしょ作品さくひんをさす。

ジョン・ルーサー・ロングの「蝶々夫人ちょうちょうふじん」にかんしては#外部がいぶリンクさき参照さんしょうのこと。


アドルフ・ホーヘンシュタインによる1904ねん、ミラノスカラ座すからざ初演しょえんのポスター

蝶々夫人ちょうちょうふじん』(ちょうちょうふじん、: Madama Butterfly, マダマ・バタフライ[注釈ちゅうしゃく 1])は、プッチーニによって作曲さっきょくされた3まくもののオペラである。

長崎ながさき舞台ぶたいに、没落ぼつらく藩士はんし令嬢れいじょう蝶々ちょうちょうさんとアメリカ海軍かいぐん士官しかんピンカートンとの恋愛れんあい悲劇ひげきえがく。物語ものがたりは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくペンシルベニアしゅうフィラデルフィア弁護士べんごしジョン・ルーサー・ロングが1898ねんにアメリカのセンチュリー・マガジン1がつごう発表はっぴょうした短編たんぺん小説しょうせつMadame Butterfly)」を原作げんさくにアメリカのげき作家さっかデーヴィッド・ベラスコ制作せいさくした戯曲ぎきょく歌劇かげき台本だいほんしたものである。1904ねん2がつ17にちミラノスカラ座すからざ初演しょえんされたそれはだい失敗しっぱいだったが、同年どうねん5がつ28にちブレシア上演じょうえんされた改訂かいていばん成功せいこう以来いらい世界せかいのオペラハウスの標準ひょうじゅんてきなレパートリー作品さくひんとなっている。

色彩しきさいてき管弦楽かんげんがく旋律せんりつゆたかな声楽せいがく調和ちょうわした名作めいさくで、日本にっぽん舞台ぶたいということもあり、プッチーニの作品さくひんなかではとく日本人にっぽんじんになじみやす作品さくひんである。とくだい2まくアリア「あるれたに」は非常ひじょう有名ゆうめいである。

基本きほんデータ

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作曲さっきょく経緯けいい

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蝶々夫人ちょうちょうふじん」と「おきくさん」の関係かんけい

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蝶々夫人ちょうちょうふじん」の先行せんこう作品さくひんとして、フランスの作家さっかピエール・ロティの小説しょうせつ「マダム・クリザンテーム(おきくさん)」と、この小説しょうせつもとづくアンドレ・メサジェ作曲さっきょく歌劇かげききくさん」の存在そんざいひろられていた。メサジェの弟子でし作曲さっきょくのアンリ・フェブリエ(1875-1957)が、1947ねんにJEUNESSE DE LA MUSIQUE[1]寄稿きこうした、メサジェのおもわたしわたし友人ゆうじん」という文章ぶんしょうによれば、1892ねんなつメサジェとプッチーニはリコルディ出版しゅっぱんしゃ社長しゃちょうジュリオ・リコルディの招待しょうたいで、イタリアのコモ湖畔こはんのヴィラ・デステにとも滞在たいざいして、メサジェは「おきくさん」を、プッチーニは「マノン・レスコー」を作曲さっきょくした。そしておたがいのスコアを研究けんきゅうした。つまりプッチーニは「おきくさん」の作曲さっきょくにいた。またプッチーニはロティの小説しょうせつ「マダム・クリザンテーム」もんでいた。この結果けっか、それから10ねんにプッチーニが蝶々夫人ちょうちょうふじん作曲さっきょくしたさい、メサジェの「おきくさん」をヒントにしたとおもわれる。顕著けんちょ類似るいじてんとして、蝶々夫人ちょうちょうふじんだいまく冒頭ぼうとうのスズキのいのりの場面ばめんと、おきくさんだいまく冒頭ぼうとうのおうめいのりの場面ばめん、またはな二重唱にじゅうしょう後半こうはんと、おきくさんとおゆき二重唱にじゅうしょうははっきりと類似るいじてんみとめられる。それ以外いがいにも、ゴローとかんろうあつかいや結婚式けっこんしき場面ばめん、さらに日本にっぽんのメロディーのあつかいなど、多数たすう類似るいじてんみとめられる[2]

蝶々夫人ちょうちょうふじんとの出会であ

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プッチーニは24さい最初さいしょのオペラをげてから、35さいときげた3さくの「マノン・レスコー」で一躍いちやく脚光きゃっこうびた。そのラ・ボエーム」(1896ねん)、「トスカ」(1900ねん)と次々つぎつぎ傑作けっさくした。かれが「蝶々夫人ちょうちょうふじん」をくのは、音楽家おんがくかとして、まさあぶらった時期じきであった。

トスカ」を発表はっぴょうしてから、つぎのオペラの題材だいざいをプッチーニはさがしていた。1900ねん「トスカ」が英国えいこく初演しょえんされるときプッチーニはロンドンまねかれた。そのとき、デーヴィッド・ベラスコの戯曲ぎきょく蝶々夫人ちょうちょうふじん」を観劇かんげきした。英語えいご上演じょうえんされていたため、くわしい内容ないようはわからなかったが、プッチーニは感動かんどうし、つぎ作品さくひん題材だいざいに「蝶々夫人ちょうちょうふじん」をえらんだ。

制作せいさく開始かいし

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同年どうねんにプッチーニはミラノにもどると、『トスカ』の台本だいほん執筆しっぴつがけたイルリカとジャコーザにたのんで、最初さいしょから3にん協力きょうりょく蝶々ちょうちょうさんのオペラの制作せいさく開始かいしされた。翌年よくねんには難航なんこうしていた作曲さっきょくけん問題もんだい片付かたづき、本格ほんかくてき制作せいさく着手ちゃくしゅした。プッチーニは日本にっぽん音楽おんがく楽譜がくふ調しらべたり、レコードをいたり、日本にっぽん風俗ふうぞく習慣しゅうかん宗教しゅうきょうてき儀式ぎしきかんする資料しりょうあつめ、日本にっぽん雰囲気ふんいきをもつ異色いしょくさく完成かんせい目指めざして熱心ねっしん制作せいさくはげんだ。当時とうじのイタリア駐在ちゅうざい特命とくめい全権ぜんけん公使こうし[3]であった大山おおやまつなかいつま久子ひさこ再三さいさんって日本にっぽん事情じじょうき、民謡みんようなど日本にっぽん音楽おんがくあつめた。またプッチーニはヨーロッパの劇評げきひょう絶賛ぜっさんされていた日本人にっぽんじん女優じょゆう川上かわかみ貞奴さだやっこせっすることを熱望ねつぼうした。1902ねん4がつミラノで観劇かんげきかない、貞奴さだやっこ芝居しばい感銘かんめいけた。[4]オペラ歌手かしゅ小嶋こじま健二けんじがイタリアの指揮しきしゃセルジオ・ファイローニ(Sergio Failoni)の未亡人みぼうじんからいたはなしでは、ファイローニがプッチーニに蝶々夫人ちょうちょうふじんをなぜつくったかいたところ「日本にっぽん女性じょせいあいしてみればよくわかる」とこたえたという[5]

自動車じどうしゃ事故じこ結婚けっこん

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1903ねん2がつにプッチーニは自動車じどうしゃ事故じこって大腿だいたい骨折こっせつし、一時いちじ身動みうごきも出来できない重傷じゅうしょうった。はるになると車椅子くるまいす生活せいかつでの作曲さっきょく余儀よぎなくされた。しかしプッチーニは制作せいさく精力せいりょくてきすすめ、そのとしの12月27にちだつ稿こうした。そのとしうち楽譜がくふ小説しょうせつ蝶々夫人ちょうちょうふじん」も初版しょはんおなじセンチュリー出版しゅっぱんしゃからヤーネル・アボットの挿絵さしえりの単行本たんこうぼんとして出版しゅっぱんされた。原作げんさくしゃロングはこの小説しょうせつ戯曲ぎきょくとオペラおおいによろこんで序文じょぶんに「あのうつくしくかつあいしいうたってかえってくる」としるしている。またよく1904ねん1がつ3にちにはプッチーニはトッレ・デル・ラーゴで夫人ふじんエルヴィラと正式せいしき結婚けっこん儀式ぎしきおこなっている。

初演しょえん失敗しっぱい後世こうせい評価ひょうか

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初演しょえん蝶々夫人ちょうちょうふじんえんじたロジーナ・ストルキオ。拍手はくしゅひとつなく、舞台裏ぶたいうらくずれた[6]。プッチーニはどうさく成功せいこうちかい、みずからの生存せいぞんちゅうスカラ座すからざでの再演さいえんきんじた[6]
ブレシアだい劇場げきじょう好評こうひょうウクライナ出身しゅっしんのソロミヤ・クルシェリンスカヤ
1907ねんにベルリン国立こくりつ劇場げきじょう公演こうえんだい成功せいこうをおさめたジェラルディン・ファーラーはニューヨークのメトロポリタン劇場げきじょうだけでも100かいちか蝶々夫人ちょうちょうふじんえんじた

現在げんざいではイタリアオペラの主要しゅようなレパートリーとなっている「蝶々夫人ちょうちょうふじん」であるが、1904ねん2がつ17にちミラノスカラ座すからざでの初演しょえんはプッチーニの熱意ねついにもかかわらずるわなかった(かれ作品さくひんほんさくかぎらず、初演しょえん不評ふひょううのがつねであった[7])。失敗しっぱい理由りゆうはいくつか指摘してきされる。初演しょえんばんでは、だい2まくに1あいだはんようすなど上演じょうえん時間じかんながすぎたことや、文化ぶんかことなる日本にっぽん題材だいざいにした作品さくひんであったため観客かんきゃく違和感いわかんおぼえたという原因げんいんげられている。

ひどく落胆らくたんしたプッチーニだったが、すぐさま改稿かいこうりかかった。改訂かいていばん上演じょうえんは3かげつ同年どうねん5がつ28にち、イタリアのブレシアおこなわれ、だい成功せいこうおさめた。その、ロンドン、パリ公演こうえんとプッチーニはなん改訂かいていかさね、1906ねんのパリ公演こうえんのために用意よういされただい6はんが、21世紀せいき今日きょうまで上演じょうえんされつづけている決定けっていばんとなっている。

ほんさく抒情じょじょうてきなテーマをげるうつくしいメロディ複雑ふくざつ和声わせい効果こうか使用しようなどプッチーニの音楽おんがく特色とくしょくあらわれた作品さくひんであり、イタリアオペラを代表だいひょうする演目えんもくひとつとなっている。

プッチーニにとっては、ジュゼッペ・ヴェルディによって完成かんせいされたロマンオペラの後継こうけいしゃとしての地位ちい、イタリアオペラのマエストロ地位ちい確立かくりつさせることになった代表だいひょうてき作品さくひんである。

編成へんせい

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配役はいやく

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おも登場とうじょう人物じんぶつ

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脇役わきやくとされる登場とうじょう人物じんぶつ

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  • ヤマドリ公爵こうしゃく(テノール)
  • 勅使ちょくし
  • ゴロー(テノール)
  • ボンゾ蝶々ちょうちょうさんのおじ。「坊主ぼうず」か?)(バス
  • スズキメゾソプラノ
  • ケイト・ピンカートン(ピンカートンのアメリカ本国ほんごくでのつま)(メゾソプラノ)

その登場とうじょう人物じんぶつ

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  • 登記とうきがかり
  • 蝶々ちょうちょうさんのはは
  • 蝶々ちょうちょうさんのおば
  • 蝶々ちょうちょうさんのいとこ
  • 薬師くすししゅ(バリトン)
  • 蝶々ちょうちょうさんの
  • 蝶々ちょうちょうさんのいと船乗ふなのりたち

楽器がっき編成へんせい

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ピッコロだい3フルートえ)・フルート2、オーボエ2、イングリッシュホルンクラリネット2、バスクラリネットバスーン2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、コントラバストロンボーンおおくはチンバッソ代用だいよう)、ティンパニバスドラムスネアドラムシンバルトライアングルグロッケンシュピール銅鑼どらかねハープつる(14がた

舞台裏ぶたいうらヴィオラ・ダモーレ通常つうじょうヴァイオリン代用だいようされる)・銅鑼どら梵鐘ぼんしょうるいかねとりふえ大砲たいほう

演奏えんそう時間じかん

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やく2あいだ20ふんだい1まく50ふんだい2まく60ふんだい3まく30ふん)、初稿しょこうやく2あいだ30ふんだい一幕ひとまく60ふんだいまく90ふん

あらすじ

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とき場所ばしょ1904ねん長崎ながさき

だい1まく

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アメリカ海軍かいぐん戦艦せんかんエイブラハム・リンカーン所属しょぞく海軍かいぐん士官しかんピンカートン(Pinkerton)は日本人にっぽんじん少女しょうじょ結婚けっこんすることになった。

結婚けっこん斡旋あっせんのゴロー(Goro)が、長崎ながさきにきたピンカートンに、結婚けっこんらすおかふもといえや、下女げじょのスズキ(Suzuki)や下男げなん紹介しょうかいして機嫌きげんっている。

そこへちゅう長崎ながさき領事りょうじのシャープレス(Sharpless)がやってくる。ピンカートンはここでアリア「ヤンキーは世界せかいのどこへっても」うたう。シャープレスはやさしいしんおとこであり、ゴローが紹介しょうかいした少女しょうじょがこの結婚けっこん永久えいきゅうえんかたしんじていることをおもし、戸惑とまどう。だがピンカートンは、この結婚けっこん一時いちじあいだとシャープレスの危惧きぐ一笑いっしょうすのであった。

そこへ蝶々ちょうちょうさん(Cio-Cio-San)が芸者げいしゃ仲間なかまとともにあらわれる。このとき「さあ一足ひとあしよ」うたう。シャープレスが可憐かれんなこの15さい少女しょうじょうえうと、実家じっか大村おおむら没落ぼつらく士族しぞくいえであるとこたえ、ちちからいただいた切腹せっぷくのためのかたなはいったはこ披露ひろうする。それにより、一時いちじしらけてしまうが、ゴローによって結婚式けっこんしき準備じゅんびすすめられる。蝶々ちょうちょうさんは前日ぜんじつキリスト教きりすときょう改宗かいしゅうしたことをげる。 三々九度さんさんくどなど一連いちれん結婚けっこん儀式ぎしきんだころ蝶々ちょうちょうさんの叔父おじのボンゾ(Bonze)があらわれる。かれ蝶々ちょうちょうさんの改宗かいしゅうおこって詰問きつもんするが、ピンカートンにはらわれる。うろたえる蝶々ちょうちょうさんをなぐさめるピンカートン。2人ふたりはここであい二重唱にじゅうしょう可愛かわいがってくださいね」うたう。

だい2まく

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結婚式けっこんしきから3ねんぎた。ピンカートンは任務にんむわり、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくかえってしまっていた。かれ蝶々ちょうちょうさんに「コマドリつくころにはかえってくる」と約束やくそくしていた。蝶々ちょうちょうさんの忠実ちゅうじつ下女げじょスズキはかれすでにそれらを反故ほごにしたのではとうたがうが、ピンカートンを信頼しんらいする蝶々ちょうちょうさんにとがめられる。 きっとおっとかえってくるとしんじてやまぬ蝶々ちょうちょうさんは、ここでアリア「あるれたに」うたう。

そのころ、シャープレスはピンカートンがアメリカ本国ほんごくでアメリカじん女性じょせい結婚けっこんしたことを本人ほんにんわりに蝶々ちょうちょうさんにげることになっていた。しかし蝶々ちょうちょうさんのおっとへの信頼しんらいかれは、それをこわすようなことはできなかった。蝶々ちょうちょうさんはピンカートンの手紙てがみよろこぶ。そこへゴローが裕福ゆうふく紳士しんしヤマドリこう(Prince Yamadori)をれてやってくる。ヤマドリこう蝶々ちょうちょうさんに結婚けっこんもうるが、おっとからの手紙てがみよろこんでいる蝶々ちょうちょうさんはそれを拒否きょひする。ゴローは蝶々ちょうちょうさんは離婚りこんされたつまであると説明せつめいしようとしたが、蝶々ちょうちょうさんははげしくことわる。「それは日本にっぽん習慣しゅうかんぎない。いまわたしはアメリカじんである」と。ゴローとヤマドリこうがすごすごとかえってしまうと、シャープレスと蝶々ちょうちょうさんはともよ、つけて」うたう。

そして、シャープレスがピンカートンがかえってこなければどうするのか、と蝶々ちょうちょうさんにうと、芸者げいしゃもどるか、自刃じじんするしかないとこたえ、困惑こんわくしたシャープレスが「ヤマドリこうもうけてはどうか」とすすめると、「あなたまでがそんなことをうのか」といかり、シャープレスに彼女かのじょとピンカートンとの子供こどもせ、「わがおっとがこのわすれようか」といいはなち、「子供こどものために芸者げいしゃもどってはじさらすよりはえらぶわ」とさけぶ。シャープレスはいたたまれずにっていく。

スズキは蝶々ちょうちょうさんの悪評あくひょうひろげようとするゴローをつかまえる。蝶々ちょうちょうさんにとってわるはなし次々つぎつぎとどなかとおくにピンカートンの所属しょぞくかんエイブラハム・リンカーンが兵員へいいん到来とうらい礼砲れいほうげた。それを望遠鏡ぼうえんきょうつけた蝶々ちょうちょうさんとスズキはよろこび、いえはなかざり、二重唱にじゅうしょうさくらえださぶって」うたう。そして自分じぶんたち子供こども盛装せいそうさせ、障子しょうじとおして、ピンカートンのかえりを凝視ぎょうしする。よるぎ、ながいオーケストラとのハミングコーラスのパッセージが演奏えんそうされるなか、スズキと子供こどもねむってしまう。蝶々ちょうちょうさんはけっして後悔こうかいしていなかった。

だい3まく

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よるけた蝶々ちょうちょうさんのいえ蝶々ちょうちょうさんはずのばんをしていた。スズキは目覚めざめ、子供こども蝶々ちょうちょうさんのもとへれてく。スズキは憔悴しょうすいした蝶々ちょうちょうさんをやすむようせる。ピンカートンとシャープレスが登場とうじょうし、スズキにおそれるべき真実しんじつげる。しかし、ピンカートンは罪悪ざいあくかんによってふかちひしがれ、自身じしんじていた。あまりに卑劣ひれつなことで自分じぶんくちから蝶々ちょうちょうさんにげることはできず、かれ義務ぎむほうしてってしまう。このときピンカートンはアリア「さらばあいうたう。スズキは、はじめは猛烈もうれつおこっていたが、シャープレスから、蝶々ちょうちょうさんが子供こどもわたしてくれれば、ピンカートンのアメリカ人妻ひとづまがその養育よういくするということをき、せられてしまう。

蝶々ちょうちょうさんはピンカートンとえるとおもい、かがやかせて登場とうじょうする。しかしピンカートンのわりにかれのアメリカでのつまケイト(Kate Pinkerton)と対面たいめんさせられる。蝶々ちょうちょうさんは感傷かんしょうてきおだやかさをたたえつつ真実しんじつめ、礼儀れいぎただしくケイトを祝福しゅくふくした。これで平穏へいおんいだされるであろうと。それから、ケイトやシャープレスにお辞儀じぎをし、子供こどもわたすことを約束やくそくする。そしてスズキにいえ障子しょうじ全部ぜんぶめさせ一人ひとりきりになる。障子しょうじしにはべるスズキにたいしては、「子供こどもそとあそばせるように」とめいじてがらせる。

蝶々ちょうちょうさんは仏壇ぶつだんまえすわり、ちち遺品いひんかたなし、「名誉めいよのためにけることかなわざりしときは、名誉めいよのためになん(Con onor muore chi non puo serbar vita con onore.)」のめい自刃じじんしようとするが、そこへ子供こどもはしってくる。蝶々ちょうちょうさんは子供こどもきしめアリア「さよならぼうや」うたい、子供こども目隠めかくしをし、日米にちべい国旗こっきたせる。そして、かたなのどてる。今際いまわさいでも子供こどもばす蝶々ちょうちょうさん。そこへ異変いへんきつけたピンカートンとシャープレスがもどってくるが、ときすでおそく、蝶々ちょうちょうさんはいきえる。まく

著名ちょめいなアリア

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だい一幕ひとまく蝶々ちょうちょうさんとピンカートンがうた二重唱にじゅうしょう旋律せんりつとハーモニーのうつくしさで有名ゆうめい
  • 「さらばあい
ピンカートンのアリアのなかもっと有名ゆうめい
  • 「さよならぼうや」(かわいいぼうや)
最後さいごのアリア。

引用いんようされたきょく

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当時とうじジャポニスム流行りゅうこう反映はんえいしてかプッチーニは日本にっぽん音楽おんがく収集しゅうしゅうし、使用しようしている。そのため、どう時期じきつくられた「ミカド」などよりは、はるかに日本にっぽんてき情緒じょうちょのある作品さくひんたかめており、今日きょう日本人にっぽんじんこのまれるオペラのひとつにしている要因よういんとなっている。 この「引用いんよう転用てんよう」はのちに「トゥーランドット」でもおこなわれる。

蝶々夫人ちょうちょうふじんえんじた日本人にっぽんじん

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ジェラルディン・ファーラー蝶々夫人ちょうちょうふじんえんじた1911ねん3月9にちメトロポリタン歌劇かげきじょうでのマチネーで、マリー・マットフェルト英語えいごばん代役だいやくでスズキをえんじた高折たかおり寿美子すみこ矢野やの寿美子すみこ)は[9]1914ねん1がつ1にちから1がつ25にちまで帝国ていこく劇場げきじょうおこなわれた高折たかおり周一しゅういち寿美子すみこ夫妻ふさい帰朝きちょうおみやげ公演こうえん蝶々夫人ちょうちょうふじんえんじた。このときの公演こうえんは『蝶々夫人ちょうちょうふじんだい2まくからの抜粋ばっすい周一しゅういちへんさくしたもので、ぜん一場いちじょう長崎ながさき蝶子ちょうこ夫人ふじんわび住居じゅうきょ』とプログラムにしるされていた[10][11]

三浦みうらたまき。1916ねん

明治めいじから昭和しょうわ初期しょきにかけて活躍かつやくしたソプラノ歌手かしゅ三浦みうらたまきは、この蝶々夫人ちょうちょうふじんやく得意とくいとし、その生涯しょうがいにおいて世界せかい各地かくち数多かずおお蝶々夫人ちょうちょうふじんやくえんじた。1915ねん5月31にちはつ日本人にっぽんじんによる蝶々夫人ちょうちょうふじんやくとしてロンドンのオペラハウスでえんじたのを皮切かわきりに、やく20年間ねんかんらした海外かいがいだけでも2000かい以上いじょう公演こうえんした[6][12]現在げんざいでも長崎ながさきグラバーえんにはその功績こうせきたたえる三浦みうらぞうがある。

に、蝶々夫人ちょうちょうふじん得意とくいとした日本人にっぽんじんソプラノ歌手かしゅには、戦前せんぜんのヨーロッパで活躍かつやくしたはら信子のぶこ[13][14]喜波きわ貞子さだこ(きわ ていこ)・田中たなか路子みちこ1932ねんオーストリアグラーツでデビュー)、おなじくヨーロッパで戦中せんちゅう戦後せんごわた活躍かつやくした伊藤いとう敦子あつこ長谷川はせがわ敏子としこ1944ねんイタリアミラノ・スカラ座すからざ日本人にっぽんじんはつ出演しゅつえん)、20世紀せいき後半こうはん以降いこう砂原すなはら美智子みちこパリ拠点きょてん)、あずま敦子あつこ(1971ねんウィーン国立こくりつ歌劇かげきじょうデビュー(日本人にっぽんじんはつ)、1972ねんメトロポリタン歌劇かげきじょうデビュー、1978ねんボリショイ劇場げきじょうデビュー(日本人にっぽんじんはつ))、はやし康子やすこ(1972ねん蝶々ちょうちょうやくスカラ座すからざデビュー)、かた野坂のさか栄子えいこ(1977ねん、ミュンヘン国立こくりつゲルトナー歌劇かげきじょうのプレミエでうたった「蝶々夫人ちょうちょうふじん」は絶賛ぜっさんはくし“黄金おうごんのばらしょう”を受賞じゅしょう。このほか、ヨーロッパのかく歌劇かげきじょうにて200かい以上いじょうもこのオペラを主演しゅえん) らがいる。

映画えいがでは、1954ねん昭和しょうわ29ねん)にカルミネ・ガローネ監督かんとくとして、東宝とうほうとリッツオーリ・フィルム=ガローネ・プロのにち合作がっさく製作せいさくされた。『蝶々夫人ちょうちょうふじん英語えいごばん』のタイトルロールを当時とうじ宝塚歌劇団たからづかかげきだんざいだんちゅうタカラジェンヌだった八千草やちぐさかおるえんじ(えはオリエッタ・モスクッチが担当たんとう。)、日本にっぽんだけでなくイタリアでもだい評判ひょうばんをとった。

蝶々ちょうちょうさん」はだれか?

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揚羽蝶あげはちょう

蝶々夫人ちょうちょうふじん」の舞台ぶたいとなった日本にっぽんではながらく「『蝶々夫人ちょうちょうふじん』のモデルはだれか?」ということが議論ぎろんされてきた。ロングの実姉じっしサラ・ジェニー・コレルは、1890年代ねんだい初頭しょとうから鎮西ちんぜい学院がくいん代目だいめ校長こうちょう宣教師せんきょうしでもあったおっととともに長崎ながさき東山手ひがしやまてんでいた。ロングは、あねのコレル夫人ふじんからいたはなしから着想ちゃくそうて、小説しょうせつ執筆しっぴつしたとされている。

長年ながねん有力ゆうりょくされていたのは、幕末ばくまつ活躍かつやくしたイギリス商人しょうにんトーマス・ブレーク・グラバーつまツルである。これは彼女かのじょ長崎ながさき武家ぶけ出身しゅっしんであると、あやまってつたえられたことや、「ちょう」の紋付もんつきこのんで着用ちゃくようし「蝶々ちょうちょうさん」とばれたことに由来ゆらいする。長崎ながさききゅうグラバーてい長崎湾ながさきわん見下みおろすみなみ山手やまておかうえにあることも、物語ものがたり設定せってい一致いっちする。しかし、ロングの小説しょうせつ具体ぐたいてき記述きじゅつされている蝶々夫人ちょうちょうふじん経歴けいれきに、ツルの生涯しょうがいている部分ぶぶんがあるが、重要じゅうよう部分ぶぶんことなるてんおおいため、モデルとかんがえるのは不自然ふしぜんとの意見いけんもある。一方いっぽう、グラバーとツルのあいだまれた長男ちょうなんくらじょう富三郎とみさぶろうペンシルベニア大学だいがく留学りゅうがくしていたこと、ロング本人ほんにんが、「あねくらじょう富三郎とみさぶろうったことがある」とかたったとわれることなどは、「蝶々夫人ちょうちょうふじん=グラバー・ツル」せつ裏付うらづける要素ようそとされている。ただし、ロングは小説しょうせつ実話じつわもとづくとは明言めいげんしておらず、また、かれ自身じしんがアメリカ士官しかんおとしめているともとれる小説しょうせつ人物じんぶつ設定せっていについておおくの批判ひはんけていたこともあり、真相しんそう曖昧あいまいにされたまま現在げんざいいたる。

ツルが最初さいしょ結婚けっこんでもうけたむすめ・センの子孫しそん調査ちょうさによると、ロングの小説しょうせつ『マダム・バタフライ』に登場とうじょうするいえがグラバーていない酷似こくじしていることと、ロングがのちにいた戯曲ぎきょく『マダム・バタフライ その20ねん』の原稿げんこうに「Dam. Too-ri」とメモがあり、ツルとめることから、ロングはツルを下敷したじきにしていたとおもわれるが、内容ないよう自体じたいはツルの経歴けいれきとはことなり、創作そうさくである[15]

当時とうじ長崎ながさきでは、洋妾らしゃめんラシャメン)として、日本にっぽん駐在ちゅうざいする外国がいこくじん軍人ぐんじん商人しょうにん婚姻こんいんし、現地げんちつまとなった女性じょせいおお存在そんざいしていた。また19世紀せいきはじめに出島でじま駐在ちゅうざいしたドイツじん医師いしフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにも、日本人にっぽんじんつまがいた。下級かきゅう軍人ぐんじん揚屋あげやなどの売春ばいしゅん宿やどなどにかよって欲望よくぼう発散はっさんする一方いっぽう金銭きんせんてき余裕よゆうがある高級こうきゅう将校しょうこうなどは居宅きょたく女性じょせいらしていた。このさい婚姻こんいんとどけは、鎖国さこくから開国かいこくにいたる混乱こんらん日本にっぽんで、長崎ながさき居留きょりゅう外国がいこくじん日本人にっぽんじん女性じょせいとの同居どうきょによる問題もんだい発生はっせい管理かんりしたい長崎ながさき奉行ぶぎょう公認こうにんしており、くまでも一時いちじてきなものだった。相手あいて女性じょせい農家のうかから長崎ながさき外国がいこくじん居留きょりゅう出稼でかせぎにていたむすめであり、生活せいかつのために洋妾らしゃめんになったのである。たがいにった関係かんけいであり、この物語ものがたりのように外国がいこくじん男性だんせいとの関係かんけい真実しんじつ恋愛れんあいであったれいまれである。げんに、シーボルトの日本人にっぽんじんつまだった楠本くすもとたきは、シーボルトの帰国きこく婚姻こんいん離婚りこんかえしている。まして、おっと裏切うらぎられて自殺じさつをした女性じょせい記録きろく皆無かいむであり、蝶々夫人ちょうちょうふじん特別とくべつなモデルはいない創作そうさくじょう人物じんぶつであるとかんがえるせつ有力ゆうりょくである。

イヴ、おきく(おカネ)、ロティ

蝶々夫人ちょうちょうふじん」の先行せんこう作品さくひんであるメサジェの歌劇かげき「おきくさん」の原作げんさくしゃピエール・ロティの長崎ながさき現地げんちつまで、おきくさんのモデルであったおカネが蝶々夫人ちょうちょうふじんのモデルであるというせつもある。 おカネ(けん)は、1869ねん明治めいじ2ねん豊後ぶんごこくおかはん(現在げんざい大分おおいたけん竹田たけだ)の武士ぶしいえまれた。おさなころから三味線しゃみせんなどの芸事げいごとたしなんでいたが、西南せいなんやく実家じっか没落ぼつらく竹田たけだえんのあるグラバー夫人ふじんたより、長崎ながさき芸者げいしゃになり、1885ねん明治めいじ18ねん)にロティとむすばれる。ロティとの結婚けっこん生活せいかつは1ヶ月かげつわり、そのすうねん、おカネは長崎ながさき郊外こうがい川原かわら提灯屋ちょうちんや(ムシュ・パンソン)と再婚さいこんする。1900ねん明治めいじ33ねん)ロティは長崎ながさき再訪さいほうして10ヶ月かげつ滞在たいざいしたが、おカネにはおうとしなかった。そのことがショックで、おカネはいえいちにん竹田たけだもどり、烏嶽からすだけ洞窟どうくつらした。竹田たけだ人々ひとびとは「狂人きょうじんオカネ」とんだが、一部いちぶひと庇護ひごもと、その20年間ねんかんきて、1921ねん大正たいしょう10ねん)に死去しきょする。享年きょうねん52。
上記じょうき作曲さっきょく経緯けいい」でしるされているとおり、「蝶々夫人ちょうちょうふじん」と「おきくさん」の関係かんけい明確めいかくになったことから、蝶々夫人ちょうちょうふじんのモデルは、竹田たけだまれのおカネさんというせつである。 [16]

批判ひはん

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植民しょくみん主義しゅぎ時代じだい偏見へんけんもとづいたストーリーをいまだにえんじることへの批判ひはん反論はんろん国内外こくないがいわず根強ねづよくあり、2007ねんには、イギリス音楽おんがく教授きょうじゅでプッチーニの専門せんもん、ロジャー・パーカーが人種じんしゅ差別さべつてきであるとして批判ひはんした[17]

2019ねんKバレエカンパニーが9がつ27にち~29にちBunkamuraオーチャードホールと10がつ10日とおか~14にち東京文化会館とうきょうぶんかかいかんだいホールで『マダム・バタフライ』とだいしてバレエ公演こうえんおこなった[18]

トリビア

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漫画まんが・アニメ『エースをねらえ!』に登場とうじょうするキャラクター「おちょう夫人ふじん」は「蝶々夫人ちょうちょうふじん」のべつ邦訳ほうやくめいであるが、このキャラクターは元来がんらいの「蝶々夫人ちょうちょうふじん」とまったく関係かんけいがない。むしろ性格せいかく境遇きょうぐう設定せっていなどはせい反対はんたいでさえある。

島田しまだ雅彦まさひこが2000ねんより刊行かんこうした小説しょうせつシリーズ『無限むげんカノンさんさく』は、主人公しゅじんこう青年せいねんカヲルが蝶々ちょうちょうとピンカートンの末裔まつえいという設定せってい恋愛れんあい小説しょうせつで、カヲルのルーツとなる蝶々ちょうちょうらの物語ものがたりおもだい1さく彗星すいせい住人じゅうにん』でえがかれた。派生はせいする作品さくひんとして、カヲルの祖父そふにあたる蝶々ちょうちょう遺児いじ、ベンジャミン・ピンカートン・ジュニア(ニックネーム"ジュニア・バタフライ"略称りゃくしょうJ.B)のははとの死別しべつ米国べいこくられてからの半生はんせい太平洋戦争たいへいようせんそう長崎ながさき原爆げんばくをまじえてえがいたオペラ『ジュニア・バタフライ』が、ストーリー・島田しまだ雅彦まさひこ作曲さっきょく三枝さえぐさ成彰しげあきらのによって製作せいさくされた。2004ねん4月初演しょえんおも出演しゅつえんしゃ佐野さの成宏しげひろ(J.B)、佐藤さとうしのぶ(ナオミ、J.Bの恋人こいびと)ら。

なお、『ジュニア〜』は2006ねん8がつ3にちから9にちまでイタリア・トッレ・デル・ラーゴ野外やがいだい劇場げきじょうにて開催かいさいされたプッチーニ音楽おんがくさいでも佐野さの・J.B-ナオミ・佐藤さとうのコンビで上演じょうえんされ現地げんちでも絶賛ぜっさんされた。

渡辺わたなべはまうたった歌謡かようきょく長崎ながさきのおちょうさん』(作詞さくし藤浦ふじうらこう 作曲さっきょく竹岡たけおか信幸のぶゆき)は、蝶々夫人ちょうちょうふじんうたっており、間奏かんそうに「あるれたに」の旋律せんりつ使つかわれている。

桃屋ももやの「いか塩辛しおから」のCMで、ほんさくがネタにされている[19]。 

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ Madamaマダマは、フランス語ふらんすごMadameマダム語源ごげんとするイタリア英語えいごみで「マダマ・バタフライ」とまれるほか、イタリアなまりで「マダマ・ブッテルフライ」とまれることもある。

出典しゅってん

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  1. ^ JEUNESSE DE LA MUSIQUE
  2. ^ 日本橋にほんばしオペラ「おきくさん」日本にっぽん初演しょえんのプログラム P.17
  3. ^ 萩谷はぎや由喜子ゆきこ蝶々夫人ちょうちょうふじん』とにち戦争せんそう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2018ねん、p.40
  4. ^ レズリー・ダウナー『マダム貞奴さだやっこ集英社しゅうえいしゃ 2007ねん P.256
  5. ^ ひかりなかで』浅利あさり慶太けいた文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、2009ねん1がつ10日とおか、p215
  6. ^ a b c 三浦みうら 1942.
  7. ^ "Madame Butterfly premieres" The Day in History
  8. ^ 真央まおプロフィール&レコード | 浅田あさだ 真央まおオフィシャルウェブサイト”. mao-asada.jp. 2022ねん2がつ17にち閲覧えつらん
  9. ^ 音楽おんがくかい 1914, p. 48, マットフェルドから高折たかおり寿美子すみこあての3がつ10にちづけ手紙てがみうつし.
  10. ^ 音楽おんがくかい 1914, p. 20.
  11. ^ 増井ますい 1984, pp. 208–217, 巻末かんまつ41, 巻末かんまつ45-46, 高折たかおり周一しゅういち寿美子すみこ夫妻ふさいのアメリカみやげ「蝶々夫人ちょうちょうふじん」.
  12. ^ 増井ますい 1984, pp. 288–294, 巻末かんまつ47, 「蝶々夫人ちょうちょうふじん」でだい成功せいこうした三浦みうらたまき.
  13. ^ 読売新聞よみうりしんぶん. (1914ねん10がつ11にち). "彼女かのじょ得意とくい胡蝶こちょう夫人ふじん" 
  14. ^ 増井ますい 1984, p. 209.
  15. ^ おんないちにん執念しゅうねんきとめた真実しんじつ ちち遺志いしをつぎ汚名おめい誤解ごかいらすためにたたかつづけた人生じんせい日経にっけいビジネス、2009ねん11月13にち
  16. ^ 日本橋にほんばしオペラ「おきくさん」日本にっぽん初演しょえんのプログラム P.14
  17. ^ 蝶々夫人ちょうちょうふじん人種じんしゅ差別さべつてき、オペラ専門せんもん批判ひはん - 英国えいこく」afpbbnews 2007ねん02がつ14にち
  18. ^ 『マダム・バタフライ』 - Kバレエカンパニー
  19. ^ 蝶々夫人ちょうちょうふじんへん | のりへいアニメCMギャラリー | なつかしののりへいアニメCM | 広告こうこくギャラリー”. 桃屋ももや. 2024ねん3がつ22にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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