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楊士奇 - 維基百科,自由的百科全書

楊士(1365ねん—1444ねん),めいぐう以字ぎょうごう東里とうりおくりなぶんさだ江西えにしとうしょゆき中書ちゅうしょしょう吉安きちやすふとしかずしゅういま江西えにししょう泰和やすかずけんにん明朝みょうちょう內閣くび兵部ひょうぶ尚書しょうしょけんはなぶた殿どのだい學士がくしあずか楊榮楊溥ごうしょうさん」,[1]

楊士
楊士奇

あきらさんさい圖會ずえしょう楊文さだおおやけぞう

大明だいめいしょう兵部ひょうぶ尚書しょうしょけんはなぶた殿どのだい學士がくし
せきぬき 江西えにしとうしょゆき中書ちゅうしょしょう吉安きちやすふとしかずしゅう
ぞく かんぞく
原名げんめい 楊寓
ごう ごう東里とうり
諡號しごう ぶんさだ
出生しゅっしょう いたりただしじゅうねん(1365ねん
江西えにし泰和やすかず
逝世 正統せいとうきゅうねん(1444ねん
江西えにし泰和やすかずけん
はかそう 泰和やすかずけん澄江すみえ鎮杏嶺村みねむら北山ほくざん
おやぞく 楊景ぎょう曾祖父そうそふ)(1277いたり1347)
楊公さかえ祖父そふ
楊子ようじはたちち
ちんはは
せい繼父けいふ
いむ琇(つま
楊稷、楊(禾道)、楊秫楊導
楊昱まご
著作ちょさく

生平おいだいら

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ひろしたけ年間ねんかん

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楊士いちさい父親ちちおや楊子ようじはた,其母あらためよめ時任ときとうとくやすどうてきせい,楊士とげ改姓かいせい[2]こう一次羅家祭祖,ねんようてき楊士做土ぞう祭祀さいし楊氏祖先そせんせい發現はつげんなみさん其志,恢復かいふく其宗せい[3]ずいせいいんとくざいけん戍邊陝西せんせい,楊士あずかははかいいたとくやすいちへん教學きょうがくいちへんさむらいははゆうはし湖北こほく湖南こなん敎學きょうがく,其中居住きょじゅう江夏えなつてき時間じかん最長さいちょう[4]

けんぶん年間ねんかん

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たてあや年間ねんかん明惠あきえみかど召集しょうしゅうぶんしんおさむせん明太めんたい實錄じつろく》,おう叔英あずかほうたかし以史ざい推薦すいせん楊士[5]これ進入しんにゅう翰林かんりん充當じゅうとう編纂へんさんかんずい吏部たい進入しんにゅうかんてきぶんしん進行しんこう考試こうし吏部尚書しょうしょちょういた楊士てきこたえまきせつ:「此非けいせいげん也。」於是奏請そうせいためだいいちめい。該授くれおうふく審理しんり,仍然きょう編纂へんさんかん職位しょくい[6]

永樂えいらく年間ねんかん

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明成めいせい即位そくいあらため楊士ため翰林院かんりんいん編修へんしゅうひさ進入しんにゅう內閣,參與さんよせめつとむすうがつすすむますため侍講じこう[7]永樂えいらくねん選拔せんばつみや僚,楊士ためひだりちゅうまこと,三年後再升為左諭德。楊士ためかん謹慎きんしん在家ざいけしたがえ不言ふげん公事こうじそく使つかいいたりおやとく聽聞ちょうもんざい明成めいせいまえ,舉止きょうまきぜん於對こたえだんごとゆう灼見。他人たにんゆう過失かしつ,楊士みやこ為之ためゆき揜覆。當時とうじ廣東かんとんぬのせい使じょすべりょう西南せいなんおく當地とうち特產とくさんあずか內廷官員かんいん有人ゆうじんいた饋贈めいたん呈上ていじょう皇帝こうてい明成めいせい其中楊士名字みょうじ,於是召見詢問。回答かいとうどう:「じょ當時とうじ奔赴廣東かんとんてき時候じこう群臣ぐんしん作詩さくしぶんおくくだり當時とうじ恰逢わがとくびょうゆう參與さんよ所以ゆえんただどくぼつ有我ありがてき名字みょうじ。如果わが當時とうじ無病むびょういや有我ありがてき名字みょうじ未知みちきょう且贈れいしょう東西とうざいおうとうぼつゆう其他意思いし。」明成めいせい於是命令めいれいしょう毀其めいたん[8]

永樂えいらくろくねん明成めいせいきたじゅんいのち楊士あずかあしなえよし一同いちどう留守るす輔佐ほさ太子たいしかんこく太子たいししゅだかおき文學ぶんがくさんぜんおうなんじだま以詩ほう進講しんこう。楊士そくしょう:「殿下でんかおうとう留意りゅうい學習がくしゅう六經りくけい》,そらひま時候じこうそく閱讀りょうかん時期じきてきみことのりれい詩歌しか乃雕むししょうわざ不足ふそくためがく。」太子たいし表示ひょうじ贊同さんどう[9]當初とうしょしゅ棣起へい時候じこうかんおうしゅだか力戰りきせん有功ゆうこうしゅ許諾きょだく成功せいこうたて其為太子たいしやすしなんやく結束けっそく,卻未曾立しゅだか煦於怨恨えんこんしゅ棣又憐憫れんびんねんようてきちょうおうしゅだかひうちなみ異常いじょう寵愛ちょうあい。於是かんおうちょうおう聯合れんごう離間りかん太子たいししゅ棣頗為心いしんどう永樂えいらくきゅうねん明成めいせいかいいた南京なんきん,召問楊士太子たいしかんこくてき情況じょうきょう他稱たしょう太子たいしこうけいなみせつ:「太子たいし天資てんしだかゆう錯必しかこう必改。其存ゆう愛人あいじんしん絕對ぜったいかい辜負陛下へいかじゅうたく。」しゅ棣聽だいえつ[10]永樂えいらくじゅういちねんぐういた日食にっしょくれい尚書しょうしょりょふるえ請求せいきゅう不要ふよう罷免ひめん朝賀ちょうがれいさむらいろうさとしのり相反あいはん觀點かんてん。楊士そく引用いんようそうひとしむね故事こじ[11] ちからすすむ明成めいせい聽後とげ罷免ひめん[12]つぎねんしゅ棣北せい,楊士留任りゅうにん輔佐ほさ太子たいしかんこく當時とうじしゅだか開始かいし不斷ふだん譖言太子たいしとうしゅ棣北せい歸還きかん太子たいしむかえ遲緩ちかんしゅ棣氣きゅう大量たいりょう東宮とうぐう大臣だいじんとうひと下獄げごく問罪もんざい。楊士こう趕到,宥免ゆうめんざいこれ召問太子たいし這件ごと,楊士頓首とんしゅどう:「太子たいし仍然以前いぜんいちようこうけい。凡是這些おそむかえてき事情じじょうみやこただししんとうてき罪過ざいか。」しゅ棣聽ややほろたいらなる。而其重臣じゅうしん仍然不斷ふだんじょう彈劾だんがい楊士おうとうどくなだめしゅ棣遂いのち其下にしきころもまもるみことのりごくこれ釋放しゃくほう[13]

永樂えいらくじゅうよんねんしゅ棣返かい京師けいしゆう聽聞ちょうもんかんおうだつ嫡的不軌ふきぎょうみち,於是といあしなえよし這些事情じじょうあしなえぼつゆう回答かいとう,於是とい楊士たいこたえどう:「しんあずかあしなえよしさむらいたてまつ東宮とうぐうてき,其他外人がいじん敢對わが倆談ろんかんおうてき事情じじょうただし皇帝こうてい兩次りょうじ派遣はけん其就はん赴任ふにん現在げんざい知道ともみち陛下へいかよう遷都せんと馬上もうえ就請留守るす南京なんきん。這些請陛仔細しさい考察こうさつてき本意ほんい。」しゅ聽聞ちょうもん默然もくぜんかたりこれおこりかえみや居住きょじゅうすうにちしゅ棣瞭かいりょう所有しょゆう事情じじょう,於是そぎかんおうてき兩個りゃんこ護衛ごえい營,なみ安置あんち其到らくやす[14]つぎねんすすむますため翰林かんりん學士がくし兼任けんにんきゅうしょく永樂えいらくじゅうきゅうねんあらためためひだりはるぼうだい學士がくし兼任けんにん翰林かんりん學士がくしつぎねんいんため輔導ほどう太子たいしゆう失職しっしょく連坐れんざしもにしきころもまもるごく,十天後即得釋[15]

ひろし熙年あいだ

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明仁あきひとむね即位そくいます楊士ためれいさむらいろうけんはなぶた殿どのだい學士がくし當時とうじひとしそうざい內閣あしなえよし夏原なつはらよしそうごと退すさ,其遠望見ぼうけん楊士,於是たい兩人りょうにんせつ:「しんうえにんてきはなぶた殿どの大學だいがくらいりょう必定ひつじょうゆう正直しょうじきげんわが們不さまたげ聽下。」楊士進言しんげんどう:「すめらぎじょう兩日りょうじつぜんごうみことのり減免げんめんとしきょうただし惜薪またせいなつめはちじゅうまんきん,這與ぜんみことのりしょう矛盾むじゅん吧。」ひとしむねとげ上下じょうげれい減免げんめん一半いっぱん[16]當時とうじしゅ棣剛くずれひとしむねふくせいじゅうななにち滿みつる大臣だいじんりょふるえうえ疏請穿きちふく。楊士そくしょう不可ふかりょふるえずいそくだかごえ厲叱楊士あしなえ義見よしみ此兼顧兩じん觀點かんてん進言しんげんつぎしゅだかおき仍然戴素かんむり穿ほじ麻衣まいじょうあさ,而廷臣ていしんちゅうただゆう楊士あずか英國えいこくこうちょう仍然ふくせい如初。やめあさひとしむねたいりょうつくりじんせつ:「(父親ちちおやかん仍然ざいとまひつぎわがまた怎能にんこころえきふく,楊士しょ做的たいてき。」これすすむます楊士ためしょうあずか楊榮きむようつとむきょうたまものなわ愆糾繆」ぎんあきらこれすすむますしょうでん[17]

當時とうじ籓司もりれいしんあさ尚書しょうしょけい建議けんぎはつぐんてきあまりうまきゅうゆうせき部門ぶもんしか每年まいとし課徵かちょうこま。楊士反對はんたいどう:「朝廷ちょうてい選拔せんばつけんのう授官,卻用らいまき,這是重視じゅうし牲畜而輕大夫たいふ,怎麼のう夠示於後じん?」ひとしむねそく批准ひじゅんけい建議けんぎ當時とうじ朝廷ちょうてい寂然じゃくねん。楊士さいつぎじょうげんりょくすすむ,仍不批准ひじゅんずい皇帝こうてい臨思ぜんもん,召見楊士せつ:「わが當時とうじ怎麼かい忘記你的ばなし呢?ただ聽聞ちょうもんりょふるえけいとうじん歡你,わが擔心你被孤立こりつかい中傷ちゅうしょう所以ゆえんよくいんため你的ばなし而罷此事。現在げんざいわが找到其他人たにんてき上書うわがきりょう。」於是拿出陝西せんせい按察使ちんさとしたたえやしなえ不便ふべんてきじょう疏,いのち其草敕執行しっこう。楊士ずい頓首とんしゅしょうしゃ[18]當時とうじ群臣ぐんしんせい在朝ざいちょうじょう商議しょうぎ元旦がんたんごとむべりょふるえ請求せいきゅうようらく,楊士あずか淮上疏勸阻,ひとしそう聽勸阻。こう楊士さいつぎ上奏じょうそうざいにわ中等ちゅうとういたりばんじょうじゅうてんひとしそう最後さいご同意どういいちにちひとしそう召對楊士奇道きどう:「りょふるえ每次まいじあやまわが,如果你等人的じんてき進言しんげんわがはやつい悔莫及了。」於是下命かめい楊士兼任けんにん兵部ひょうぶ尚書しょうしょどうしょくさん份俸祿ろく(內閣、翰林院かんりんいん兵部ひょうぶ)。楊士そく辭去じきょ兵部ひょうぶ尚書しょうしょてき俸祿[19]。  

じんむねかえざい太子たいしかん國之くにゆきそくかたき舒仲なり即位そくいよくおさむ其罪。楊士せつ:「陛下へいか即位そくい,曾下みことのり忤旨てきじんとく免罪めんざい。如果要治ようじ舒仲なりてきざいのり當時とうじてき詔書しょうしょそくしんじ,眾多大臣だいじんかいいん恐懼きょうくすめらぎじょうためなん不能ふのうこう仿かんけいみかどたいまちまもるたがね呢?」ひとしそう於是しょう此念あたま當時とうじ有人ゆうじんしょうだいてらてらきょうおそれけんげんごとみつひとしそうだいいか其一きゅう。楊士ためしろとく以虞けん恢復かいふく原籍げんせきこれだいてらしょうきょう弋謙いんごととくざい。楊士しょう:「弋謙おうみことのり而陳ごと。如果よう其罪ぎょうおそれ群臣ぐんしん此都再說さいせつばなしりょう。」ひとし宗因そういん此立ます弋謙ためふく,且下敕引とがめ[20]

ゆう大臣だいじん上書うわがき頌太ひらもりひとしむねしめせあずかれつ大臣だいじん群臣ぐんしんみな以為しかただどく楊士しょう:「陛下へいか雖然さわ天下てんかただしこれやすしなんところ牽連てきりゅう徙尚歸鄉ききょう戰爭せんそうしょしるべ致的かさ痍尚恢復かいふく,百姓仍然為溫飽擔憂。おうとう繼續けいぞく休息きゅうそく生息せいそくすうねん太平たいへいもり世才せさいいたり。」ひとしむね表示ひょうじ贊同さんどう並稱へいしょう:「わがたい你們至誠しせい希望きぼう匡正きょうせい輔佐ほさ、糾正錯誤さくごただしただゆう楊士曾經上書うわがき,你們とうじんひとし一言いちげんはて朝廷ちょうてい政事せいじ毫無錯誤さくご天下てんか太平たいへいりょう麼?」群臣ぐんしん聽後慚愧ざんきどう[21]同年どうねんよんがつひとしそうたまもの楊士璽書以表彰ひょうしょう其賢とくちゅうさだ。此後,いのちおさむ明太めんたいむね實錄じつろく》,楊士あずかきむようつとむ楊溥俱充總裁そうさいかん[22]ひさひとしむねびょうじゅう,召楊あずかあしなえよし淮、楊榮いたおもえぜんもんいのち楊士書寫しょしゃのこ敕召太子たいししゅ瞻基いた南京なんきん[23]

せんとく年間ねんかん

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あかりせんむね即位そくい擔任たんにん總裁そうさいおさむせん明仁あきひとそう實錄じつろく》。せんとく元年がんねんかんおうしゅだかおこりへい謀反ぼうほんあかりせんむねおやせい平定へいてい叛亂はんらん部隊ぶたい歸還きかん抵達けんじけんたんいえきょう戶部とべさむらいろうちんやまむかい謁,なみじょうげんかんちょう二王におう沆瀣一氣いっき,請宣むねじょうぜいかさねあきらとくこん河南かなん安陽あんよう逮捕たいほちょうおうしゅだかひうち楊榮支持しじひねやまてき主張しゅちょうただし遭到楊士てき反對はんたいしょう:「せつじん叛變おうとうゆう實証じっしょうなんみち以欺騙天地てんち鬼神きじん麼?」楊榮厲聲喊道:「你是よう阻撓國家こっか大計たいけい麼?現在げんざいぎゃくとうしゅだか煦)たたえちょうおうしょうはかりごとため,怎麼せつぼつ有理ゆうりゆかり?」せつ:「ふとしそう皇帝こうていゆうさん當今とうぎんすめらぎじょうただゆう兩個りゃんこ叔父おじ有罪ゆうざいてき不可ふか赦免しゃめんただし無罪むざいてきおうとうあつまち懷疑かいぎてきはなしそくぼうはん使つかいとくぼつゆう憂患ゆうかん而已。なに必動輒加へいしょうせんきず天上てんじょうてき皇祖こうそ呢?」當時とうじただゆう楊溥贊同さんどう楊士ほう。於是楊榮りつ先入せんにゅう諫,楊士ずいせんむねいのち皇宮こうぐうさむらいまもる兩人りょうにんにゅうみやなみ先行せんこう召見あしなえよし夏原なつはらよし兩人りょうにんひとし贊同さんどう楊士ほう[24]せんむね於是ざい於趙おう部隊ぶたい直接ちょくせつかいきょう。抵達京師けいしせんむね召見なみとい其:「現在げんざい很多じんざい上奏じょうそうちょう王事おうじ,怎麼辦?」回答かいとうどう:「ちょうおうただし您最おやてきおやじん陛下へいかおうとう保全ほぜん不要ふよう群臣ぐんしん言論げんろんしょ迷惑めいわく。」せんむねしょう:「わがそう群臣ぐんしんてきそうすり拿給ちょうおうれい自己じこ處理しょり如何いか?」たいこたえどう:「甚好,如果のう夠賜いち璽書さらこのみ。」於是朝廷ちょうてい發送はっそう璽書そうすりきゅうちょうおうちょうおう大喜だいぎ,哭著せつ:「わがかついのちりょう。」ずいそく上書うわがき表示ひょうじ感謝かんしゃ,且獻護衛ごえい部隊ぶたい言論げんろんしたがえ此停いきせんむねしたがえ此待ちょうおうにちえき親切しんせつ而輕まちひねさん,此外かえたいせつ:「ちょうおう所以ゆえんとく保全ほぜんみやこただし您的功勞こうろう啊。」なみ賜金しきんぬさきゅうほか[25]

自明じめいなりおさむ交阯げんこしみなみなみ設置せっち交阯ぬのせい使,該地區ちく屢次叛變。明朝みんちょう屢次はつへい征討せいとうひとし戰敗せんぱい。交阯はじむじんにせ請立ちん後人こうじんせんむね也厭あくへいせんあずか備答應其おうご請求せいきゅう英國えいこくこうちょう輔、戶部とべ尚書しょうしょあしなえよしとう大臣だいじん以下いかすうにんしょうとうおうてきばなしぼつゆう甚麼いんも道理どうりはん而只かいしめせじゃく於天[26]せんむね於是召見楊士、楊榮商議しょうぎりょう人力じんりきげんしょう:「陛下へいかたい百姓ひゃくしょう無名むめい舉;かんちょう放棄ほうきたまがけぐん史書ししょ以此ため美談びだんしめせじゃく。請許其方便びん。」於是せんむねれいいのち選擇せんたく使者ししゃ使交阯,あしなえ推薦すいせんぜん於口べんてきふくはくやす。楊士そく表示ひょうじ:「ぜん於言てきじん忠信ちゅうしん,雖然交阯蠻貊くに不可ふか派遣はけんふくはくやす小人こどもてきばなしただかいはずかしめこく。」せんむね贊同さんどう其言,あらため他人たにんしたがえ此,明朝みんちょう放棄ほうき交阯なみやめへい每年まいとししょう軍費ぐんぴ超過ちょうか白銀はくぎんまんりょう[27]

せんとくさんねん,楊士以吏尚書しょうしょかく璡望けい架空かくう吏部,大開おおひらきわたし謁之もん

せんとくねんせんむねたてまつ皇太后こうたいごう謁陵,召見英國えいこくこうちょう輔、尚書しょうしょあしなえ及楊、楊榮、きむようつとむ、楊溥,ざいくだり殿中でんちゅうちょうふとしきさき朝見ちょうけんなみ慰勞いろう眾臣。せんむねまたたい楊士せつ:「ふとしきさきたいせつ先帝せんてい當時とうじざいあおみやただゆう您敢於直言ちょくげん先帝せんていのう聽從ちょうじゅう所以ゆえん諸事しょじとく不敗ふはい。她又叮囑わがおうとう接受せつじゅ直言ちょくげん。」たい曰:「這是皇太后こうたいごうてき盛德せいとくげん希望きぼう陛下へいかのう夠記じゅう它。」[28] 當時とうじやめろうゆうやましうえあさひとしおそ無法むほうろんそうせんむね曾微ふくわたしおとずれぼうよる訪問ほうもん楊士くら迎接げいせつなみ頓首とんしゅどう:「陛下へいか怎麼のう社稷しゃしょく宗廟そうびょう而自けい?」せんむねこたえどう:「わがただそう商量しょうりょう事情じじょうしょ以來いらいはいおとずれ。」いくにち宮中きゅうちゅう捉獲りょうぬすめ且有はかりごとせんむね於是召見並稱へいしょうこん而後きょうあいちん也。」[29] 當時とうじ明朝みんちょう屢遭すいひでり災害さいがいせんむね召見楊士討論とうろんみことのりひろし恤免わざわい租稅そぜいとうごと。楊士於是請奏免除めんじょ百姓ひゃくしょうしょかけてきたきぎぎょぜにげんかん田租でんそ免除めんじょかてぜいきよし冤假せきあんたっ汰工やくとう建議けんぎ使つかい百姓ひゃくしょうえき兩年りょうねんせんむねたいせつ:「からだ恤百姓的詔書已經下很久了,現在げんざいかえゆう什麽ようからだ恤的呢?」のりしょう:「此前みことのりげんかん田租でんそただし戶部とべ仍然徵收ちょうしゅう如舊。」せんむねえつしょう:「現在げんざい必須ひっす執行しっこう遵守じゅんしゅしゃほう處理しょり。」かえ請求せいきゅう招撫逃民,いむ懲貪污官吏かんりつつみ舉有文學ぶんがく武勇ぶゆう才能さいのうてきじんいのち曾經はん極刑きょっけいてき犯人はんにん子孫しそん也有やゆうしたがえかん資格しかく。此外,かえ廷臣ていしん三品以上及二司官各自舉薦人才(于謙しゅうまこときょうとうひとそく此時舉薦)。這些建議けんぎひとしいたせんむね批准ひじゅん[30]

當時とうじせんむね勵精とう內閣廷臣ていしん同心どうしん輔佐ほさうみ內號ため治平じへいせんむねかえ仿古代こだい君臣くんしんゆうまいいた年初ねんしょひとしたまもの百官ひゃっかんじゅうにちかりいた西にしえんまんさいやま郊遊しょ學士がくしひとし跟從,進行しんこう賡和,せんむねなみとい民間みんかんやまし朝議ちょうぎちゅうてきろんかなでせんそうひとし虛心きょしん傾聽けいちょう採納さいのう[31]。此外,朝廷ちょうていじょう內閣大臣だいじんしょうしょとおるひろし風氣かざけためただしせんむね即位そくい,內閣しんななにん中陳なかじんやまちょうあきらあらためため其他職位しょくい淮以やまし致仕ちし,內閣ちゅうただゆう楊士、楊榮、楊溥さんにん。楊榮ためじんはてあつし敢為かんい,且屢跟隨明成めいせいきたせい熟知じゅくち邊疆へんきょう將領しょうりょうあずか敵情てきじょう事務じむただし頗愛接受せつじゅ饋遺,當時とうじあたりはた每年まいとしおくうまあずか楊榮。せんそう知道ともみちもん楊士のりしょう:「楊榮通曉つうぎょう邊疆へんきょう事務じむとうじん及,陛下へいかむべ以此しょう錯而介意かいい。」せんそうえみどう:「楊榮曾經揭你夏原なつはらよしてきたん,你為なにかえがえせつこうはなし?」たいこたえどう:「希望きぼう陛下へいかのう夠以ようわが一樣いちようよう楊榮。」せんむね於是同意どうい。此後,でんいた楊榮,楊榮そく以此愧對楊士,於是りょう人相にんそうしょ甚歡。せんむねまたいん此對其更おやあつ前後ぜんごしょたまものてきちんはてろう醴、きむあやぎぬころもぬさしょ無法むほう計算けいさん[32]

正統せいとう年間ねんかん

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せんむねくずしあきらえいむね即位そくいねんきゅうさい軍政ぐんせいひとしゆかりちょう太皇太后たいこうたいこうせめ太皇太后たいこうたいこうまたいのち所有しょゆう部門ぶもん議案ぎあんひとしさき經過けいか內閣さんてきはかさい進行しんこう裁決さいけつさんにん當時とうじまた很自しんじ,楊士くび訓練くんれん士卒しそつ堅守けんしゅ邊疆へんきょうなみ設置せっち南京なんきんまいりさんつとむ大臣だいじん分遣ぶんけん文武ぶんぶ鎮撫ちんぶ江西えにしみずうみひろ河南かなん山東さんとう等地とうちなみ罷免ひめん偵事こうじょうまた請求せいきゅう減免げんめん租稅そぜいなみまきけい牢獄ろうごく,此外嚴格げんかく官員かんいんこうかくせい。這些ひとしいた太皇太后たいこうたいこうてき批准ひじゅんなみ執行しっこう正統せいとう初年しょねん朝政ちょうせい清明せいめいひとしためさん楊等人的じんてき功勞こうろう正統せいとうさんねん,《あきらせんむね實錄じつろくせいなり,楊士すすむしょうつぎねん,乞求致仕ちし批准ひじゅんこれあきらえいむね歸省きせいひさ批准ひじゅん歸還きかん[33]

當時とうじちゅうかんおう受寵於明えいむねややややあずかいたそと政事せいじなみ誘導ゆうどうあきらえいそうらんたい大臣だいじんざいやすしこうおうしゅたすくけい偷偷贈楊榮黃金おうごん,楊榮當初とうしょただしざいしょう不知ふち此事。おう卻欲彈劾だんがい楊榮,此時楊士出面でづらりょくかいただし楊榮ひさそく,楊士、楊溥えき孤立こりつつぎねんあきらえいむねだいきょう兵馬へいば征討せいとうふもとがわぞう帑金すうまんさいいちねん太皇太后たいこうたいこうおう勢力せいりょくこしだいなみさくさくぶく,百官若有不滿均被逮捕。廷臣ていしんちゅう人人ひとびと危,楊士也無ほう制止せいし[34]

楊士之子ゆきこ楊稷ためじん嗜殺殘忍ざんにん虐殺ぎゃくさつすうじゅうにんおうただしおさむ押楊きび,楊士使おうただし左遷させんしょうつぎ彈劾だんがい楊稷,楊稷はんこし,楊士ただのう以老やましつげあきらえいむねおそれ傷害しょうがいしもみことのりやす慰。感恩かんおん哭泣,ひさ憂慮ゆうりょおこり正統せいとうきゅうねん,楊士おくふとしおくりなぶんさだ[35]。楊士そう泰和やすかずけん澄江すみえあんず嶺村みねむら北山ほくざん坡上,げんため江西えにししょう文物ぶんぶつ保護ほご單位たんい

正統せいとう初年しょねん,楊士曾經じょう疏稱かわら剌漸きょうはたため邊疆へんきょうてき患,而邊疆尚かけ兵馬へいばおそれ怕無ほう抵禦。附近ふきんふとぼくてらせきりょう西番にしのばんみつぎなみ悉數供給きょうきゅう。楊士ひさ,也先果然かぜんにゅうおかせ明朝みょうちょうはじめゆう土木どぼく堡之へん[36]。楊士またぜん於知じん歡推舉寒,甚至包括ほうかつ一些未曾謀面的人。これ指揮しき京師けいし保衛やすえせんてき于謙創立そうりつ平米へいべい法的ほうてきしゅうまことふみしょうきょう青天せいてんてききょうとうひとひとしよし其舉こも[37]

楊士曾經參與さんよへんせん明太めんたい實錄じつろく》、《明仁あきひとそう實錄じつろく》、《あきらせんむね實錄じつろく》、《歷代れきだいめいしんそう》、《文淵ぶんえんかく書目しょもく》、《三朝みささきよしさとしろくとうなみちょゆう東里とうり文集ぶんしゅう》。

評價ひょうか

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  • かつらがく《哈密疏》ひょう:「楊士援漢棄珠厓例棄之,乃陋儒當けん上下じょうげ安定あんてい,貨賂こうぎょう紀綱きこう不振ふしん,舉版じゅうぐん,棄置やすしぶたわかこうさくしつ乃不肯堂しゃ也。楊士しゃふとしそう皇帝こうてい罪人ざいにん也,またあしほう乎?」[38]

參考さんこう文獻ぶんけん

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  1. ^ こげ玉堂きょくどうくさむらまきなな:「正統せいとうあいだぶんさだ(楊士ため西にし楊,文敏ふみとし(楊榮)ためひがし楊,いんきょだいべつぶんじょう(楊溥)こおりのぞむまいしょみなみぐんせいとげしょうみなみ楊。西にし楊有しょうざいひがし楊有しょうぎょうみなみ楊有しょうろんわがあさけんしょう,必曰さん楊。」
  2. ^ おうあんずいろく》:「泰和やすかず楊文さだおおやけ父子ふしはた逝,ははちんあらためぜいとくやすどう,……こう謫死陝西せんせいあるさく遼東りゃおとん」),ぶんさだはじめじゅうさいそく養母ようぼ及京。永樂えいらくはつぶんさだかん內閣,ちんるいおく一品いっぴん夫人ふじんふくため乞恩,じょめんきょう戍藉かい泰和やすかずせん德間とくまおくれい尚書しょうしょちょうこう鑒卒,つま楊氏のこはら生子おいごぶんしつまことちゅうそくよめいく於祖ははおう正統せいとうみずのえ戍,ぶんしつとう進士しんし,其繼ちちおのれそつ,乃迎ははまたやしなえ其異ちち弟妹ていまいいたりなりあいだ,楊氏また授封太夫たゆうじんなにしょうどういたり此?明朝みんちょうよめはは而歸授封しゃ,僅此りょう。」
  3. ^ あかり》(まき148):「楊士めいぐう,以字ぎょう泰和やすかずじんずいははてきやめ而復むね。」
  4. ^ あかり》(まき148):「ひん甚。力學りきがく,授徒自給じきゅうゆうみずうみ、湘間,たて江夏えなつさいひさ。」
  5. ^ 玉堂きょくどうくさむらまきはち《讎隙》ちゅう引隆けい刑部おさかべ尚書しょうしょていあわいずみこれげん:「ほうへりくだこころざしちょうにんこも西にし楊,西にし楊修實錄じつろく,乃謗かた叩頭こうとう乞餘せい」。
  6. ^ あかり》(まき148):「けんぶんはつしゅうしょ儒修《ふとし實錄じつろく》,やめようこもせい教授きょうじゅ當行とうこうおう叔英ふく以史ざいこもとげ召入翰林かんりんたかし編纂へんさんかんひろいのち吏部こうだいかんしょ儒。尚書しょうしょちょう紞得奇策きさく,曰:「此非けいせいげん也。」そうだいいち。授吳おう審理しんりふく,仍供かんしょく。」
  7. ^ あかり》(まき148):「なり即位そくいあらため編修へんしゅうやめ,簡入內閣,てんつとむすうがつすすむ侍講じこう。」
  8. ^ あかり》(まき148):「永樂えいらくねんせんみや僚,以士ためひだりちゅうまことねんすすむひだりさとしとく奉職ほうしょく甚謹,わたしきょ不言ふげん公事こうじ,雖至おやあつとく聞。ざいみかどまえ,舉止きょうまきぜん應對おうたいげんごと輒中。ひとゆうしょう,嘗為揜覆廣東かんとんぬのせい使じょみねみなみ土物つちもの廷臣ていしんあるとく其目せき以進。みかど閱無めい,召問。たい曰:「赴廣群臣ぐんしん作詩さくしぶんおくくだりしんてきびょうどるあずか,以故どく及。こん受否可知かち,且物ほろとう他意たい。」みかど遽命毀籍。」
  9. ^ あかり》(まき148):「ろくねんみかどきたじゅんいのちあずかあしなえよし淮留輔太太子たいし文辭ぶんじさんぜんおうなんじだま以詩ほうしん曰:「殿下でんかとう留意りゅうい六經りくけい》,ひまそくかんりょうかんみことのりれいしょうわざ不足ふそくため也。」太子たいししょうぜん。」
  10. ^ あかり》(まき148):「はつみかどおこりへいかんおうすう力戰りきせん有功ゆうこうみかどもと以事成立せいりつため太子たいしすんで而不とくりつ,怨望。みかどまた憐趙おう年少ねんしょうちょうこれよしりょうおうあい而間太子たいしみかど頗心どうきゅうねんかえ南京なんきん,召士奇問きもんかん國狀こくじょう以孝けいたい,且曰:「殿下でんか天資てんしだかそくゆう必知,必改,そんこころ愛人あいじんけつまけ陛下へいかたく。」みかどえつ。」
  11. ^ 古代こだい規制きせい日食にっしょくため不祥ふしょうちょう朝廷ちょうていおうあずかとめ朝會ちょうかいけいてんやめえん撤樂。そうひとしむねかんじょう元年がんねんぐういた日食にっしょく大臣だいじんとみうえ疏勸阻宴かいそうひとしそう聽,得知とくち北方ほっぽうちぎりりょうこくはん而依規制きせいやめえん使つかいだいそう朝廷ちょうてい羞愧やめそうひとしむねまた懊悔。以至於じゅうななねんよしみたすくよんねん發生はっせい同樣どうよう日食にっしょくそうひとしむねあずかみことのりげんぜんめんらく。(そうふみ·とみ弼傳》:「かんじょう元年がんねん日食にっしょくせいだん。弼請やめえん撤樂,就館たまものきた使酒食しゅしょく執政しっせい不可ふか。弼曰:『まんいちちぎりぎょう為朝ためとも廷羞。』聞契はてやめえんみかどふか悔之。」;《そう》(まき12):「明年あきとしせいだん日食にっしょく,其自ひのと避正殿どのげんつねぜんうたげちぎり使毋作らく。」)
  12. ^ あかり》(まき148):「じゅういちねんただしだん日食にっしょくれい尚書しょうしょりょふるえ請勿やめ朝賀ちょうがさむらいろうさとし不可ふかまた引宋じんむねごとりょくげんとげやめ。」
  13. ^ あかり》(まき148):「 明年みょうねんみかどきたせい仍輔太子たいしきょもりかんおう太子たいしえききゅうみかどかえ,以迎なるつきせい東宮とうぐうかん淮等下獄げごくいたりなだめこれ。召問太子たいしごと頓首とんしゅごと:「太子たいしこうけい如初。凡所稽遲,みなしんとうざい。」みかどかいくだりざいしょしん交章劾士不當ふとうどくなだめとげにしきころもまもるごくひろしゃく。」
  14. ^ あかり》(まき148):「じゅうよんねんみかどかえ京師けいしほろ聞漢おうだつ嫡謀及諸不軌ふきじょう,以問あしなえよしたい,乃問たい曰:「しんあずかよし俱侍東宮とうぐう外人がいじん敢為かんいしん兩人りょうにんげんかん王事おうじしゃしかかんおうりょう就籓,みな肯行。こん陛下へいかはた徙都,輒請留守るす南京なんきんおもんみ陛下へいかじゅく察其。」みかど默然もくぜんおこりかえみやきょ數日すうじつみかどつきかん王事おうじそぎりょう護衛ごえいしょらくやす。」
  15. ^ あかり》(まき148):「明年みょうねん進士しんし翰林かんりん學士がくしけんかんじゅう九年改左春坊大學士,仍兼學士がくし明年みょうねんふくすわ輔導ほどうゆう闕,しもにしきころもまもるごく旬日じゅんじつ而釋。」
  16. ^ あかり》(まき148):「ひとしむね即位そくい,擢禮さむらいろうけんはなぶた殿どのだい學士がくしみかど便殿びんでんあしなえよし夏原なつはらよしそうごと退すさみかど望見ぼうけんいいにん曰:「しんはなぶた學士がくしらい,必有讜言,ためしども聽之。」にゅうげん:「おんみことのりげんとしきょうはじめにち,惜薪でんむねせいなつめはちじゅうまんきんあずかぜんみことのりもど。」みかどりついのちげん其半。」
  17. ^ あかり》(まき148):「ふくせいじゅうななにち滿みつるりょふるえ請即きち不可ふかふるえ厲聲しかこれあしなえ義兼よしかねせつしん明日あしたみかどもとかんむり麻衣まい絰而あさ廷臣ていしんおもんみ英國えいこくこうちょう輔服如之。あさやめみかどいい左右さゆう曰:「あずさみやざい殯,えきふくあに臣子しんししょにんごと是也これや。」すすむしょうたもてあずかどうかん楊榮、きむようつとむなみたまものなわ愆糾繆」ぎんあきらとく密封みっぷうげんごとひろすすむしょうでん。」
  18. ^ あかり》(まき148):「とき籓司もりれい來朝らいちょう尚書しょうしょけい建議けんぎはつぐんあまりうまきゅう有司ゆうしさい其駒。曰:「朝廷ちょうていせんけん授官,乃使まき畜而賤士也,なに以示天下でんか後世こうせい。」みかどもとちゅうむねやめこれやめ寂然じゃくねんふくりょくげんまたほうゆうごろみかどおもえぜんもん,召士いい曰:「ちんむこうしゃあに忘之。聞呂ふるえけいやからみなきょうちんねんきょう孤立こりつおそれ為所しどころきずよくいんきょうげんやめみみこんゆう矣。」陝西せんせい按察使ちんさとしげんやしなえ不便ふべん疏,使つかいくさ敕行頓首とんしゅしゃ。」
  19. ^ あかり》(まき148):「群臣ぐんしん習朝せいだんりょふるえ請用らくあずか淮疏どめほうふくそうまちにわちゅういたりよるじゅうこくほうえつにちみかど召謂曰:『ふるえまいことあやまちんきょうとうげん,悔無及。』いのちけん兵部ひょうぶ尚書しょうしょなみしょくさん祿ろく尚書しょうしょ祿ろく。」
  20. ^ あかり》(まき148):「みかどかんこく,憾御舒仲なりいたりほっざい曰:「陛下へいか即位そくいみことのりこう忤旨しゃみなとくなだめわかなかしげるのり詔書しょうしょ不信ふしん,懼者眾矣。如漢けいみかどまてまもるたがねまた乎。」みかどそくやめどるあるゆうげんだいきょうおそれけんげんごとみつみかどいかくだいちかんためしろ其罔,とくふく秩。まただいしょうきょう弋謙以言ごととくざい曰:「けんおうみことのりひねごとわかこれざいのり群臣ぐんしん此結した矣。」みかどりつしんけんふく,而下敕引。」
  21. ^ あかり》(まき148):「ゆう上書うわがき太平たいへいしゃみかど以示しょ大臣だいじんみな以為しかどく曰:『陛下へいか雖澤天下てんかしかながれ徙尚かさ痍尚ふくみんなお艱食。さら休息きゅうそくすうねん庶幾しょき太平たいへい。』みかど曰:『しか。』いん顧蹇とう曰:『ちんまちとう至誠しせいもちただし弼。おもんみ五上ごじょうあきらきょうとう皆無かいむ一言いちげんあにはてあさ闕政,天下てんか太平たいへい耶?』しょしん慚謝。」
  22. ^ あかり》(まき148):「ねんよんがつみかどたまもの璽書曰:「往者おうしゃちん膺監こくめいじきょうさむらい左右さゆう同心どうしんあいとく,徇國忘身,屢歷艱虞,曾不易ふえきこころざし。及朕嗣位以來いらいよしみ謨入つげ於治,せいかた,簡在ちんしん。茲創せい『楊貞,一印いちじるしたまものきょうなおかつ交修,以成明良あきよしほまれ。」ひろおさむふとしそう實錄じつろく》,あずか淮、きむようつとむ、楊溥俱充總裁そうさいかん。」
  23. ^ あかり》(まき148):「いくみかど,召士あずかあしなえよし淮、楊榮いたりおもえぜんもんいのち奇書きしょ敕召太子たいし南京なんきん。」
  24. ^ あかり》(まき148):「せんむね即位そくいおさむひとしそう實錄じつろく》,仍充總裁そうさいせんとく元年がんねんかんおうだか煦反。みかどおやせい平之ひらのかえけんじけんたんいえきょうさむらいろうひねさんむかえ謁,げんかんちょう二王におうじつ同心どうしん,請乘ぜいかさねあきらとくちょうおうさかえりょくさんけつ曰:「こととうゆう天地てんち鬼神きじん欺乎?」さかえ厲聲曰:「なんじほしたわわ大計たいけい耶?こんぎゃくとうげんちょうみのるあずかはかりごとなにいい?」曰:「ふとしそう皇帝こうていさん今上きんじょうおもんみりょう叔父おじ有罪ゆうざいしゃ不可ふか赦,其無罪むざいしゃむべあつまちうたぐのりぼう使つかいおそれ而已。なに遽加へいきず皇祖こうそざい天意てんい乎?」おもんみ楊溥與あいはたにゅう諫,さかえ先入せんにゅうつぎ,閽者不納ふのうひろ召義、はらよしいれ。二人以士奇言白帝。」
  25. ^ あかり》(まき148):「みかどはつ無罪むざいちょううつり兵事へいじとくかえきょうみかどおもえごといい曰:「こんしゃ多言たげんちょう王事おうじ奈何いかん?」曰:「ちょうさいおや陛下へいかとう保全ほぜん,毋惑ぐんげん。」みかど曰:「われよくふう群臣ぐんしんあきらしめせおうれいしょなん如?」曰:「ぜんさらいち璽書幸甚こうじん。」於是はつ使奉書ほうしょいたりちょうちょうおうとくしょ大喜だいぎ。泣曰:「われせい矣。」そく上表じょうひょうしゃ,且獻護衛ごえいげんしゃはじめいきみかどまちちょうおうにちえきおや而薄ひねやまいい曰:「ちょうおう所以ゆえんぜんきょう力也りきや。」賜金しきんぬさ。」
  26. ^ あかり》(まき148):「とき交阯すう叛。屢發大軍たいぐん征討せいとうみなはいぼつ。交阯はじむひとにせ請立ちんみかどまたいやへいよくもと英國えいこくこうちょう輔、尚書しょうしょあしなえ以下いかみなげんあずかこれ無名むめいしめせじゃく天下でんか。」
  27. ^ あかり》(まき148):「みかど召士さかえはかりごと二人ふたりりょくげん:「陛下へいか恤民いのち以綏あらふく不為ふため無名むめいかん棄珠厓,前史ぜんし以為美談びだん不為ふためしめせじゃくもと便びん。」ひろいのち使つかい交阯しゃあしなえこもふくはく安口はだかすべん曰:「げん忠信ちゅうしん,雖蠻貊之くに不可ふかぎょうはくやす小人こども,往且はずかしめこく。」みかどべつ使つかい。於是棄交阯,やめへいさいしょうぐんきょう巨萬きょまん。」
  28. ^ あかり》(まき148):「ねんはるみかどたてまつ皇太后こうたいごう謁陵,召英國えいこくこうちょう輔、尚書しょうしょあしなえ及士さかえようつとむ、溥,あさふとしきさき於行殿どのふとしきさき慰勞いろうみかどまたかたり曰:「ふとしきさきためちんごと先帝せんていざいあおみやおもんみきょうはばかさわ忤,先帝せんていのうしたがえ,以不敗ふはいごとまた誨朕とう直言ちょくげん。」たい曰:「此皇太后こうたいごう盛德せいとくげんねがい陛下へいかねん。」ひろ敕鴻臚寺。」
  29. ^ あかり》(まき148):「ろうゆうやまし,趨朝あるのち,毋論そうみかど微行びこうよるこうたく倉皇そうこう出迎でむかえ頓首とんしゅ曰:「陛下へいか奈何いかん社稷しゃしょく宗廟そうびょうけい?」みかど曰:「ちんほしあずかきょう一言いちげんらいみみ。」數日すうじつとうゆうはかりごとみかど召士つげ。且曰:「こん而後きょうあいちん也。」」
  30. ^ あかり》(まき148):「みかど四方しほう屢水ひでり,召士みことのりひろし恤,めんわざわいきず租稅そぜい及官虧額しゃいん請並蠲逋たきぎ芻錢,げんかんがく冤滯,汰工やく,以廣とくみんだいえつ。逾ねんみかどいい曰:「恤民みことのりやめひさし今更いまさら有可ゆか恤者乎?」曰:「ぜんみことのりげんかん田租でんそ戶部とべただし如故。」みかど怫然ふつぜん曰:「こんくびぎょうはいかくしゃろん如法にょほう。」ふく請撫逃民,察墨吏,舉文學ぶんがく武勇ぶゆうれい極刑きょっけい子孫しそんみなつかまつすすむまた廷臣ていしん三品以上及二司官,かく舉所,備方面かたもぐんもりせんみなほう。」
  31. ^ あかり》(まき148):「とうみかど勵精とう同心どうしん輔佐ほさうみ內號ため治平じへいみかど乃仿君臣くんしんゆうこと每歲まいさいくびたまもの百官ひゃっかんしゅんきゅうくるままたとき幸西さいわいにしえん萬歲ばんざいさんしょ學士がくしみなしたがえ賡和,從容しょうようとい民間みんかんやましゆう所論しょろんそうみかどみなきょふところ聽納ちょうのう。」
  32. ^ あかり》(まき148):「みかどはつ即位そくい也,內閣しんななにんひねさんちょうあきら以東いとうみや舊恩きゅうおんいれたたえためかん淮以やまし致仕ちしきむようつとむそつかくちゅうおもんみさかえ、溥さんにんさかえ疏闓はてあつしぐうごと敢為かんいかずしたがえなりきたせいのうはたかしこいややくふさがけわしえき遠近えんきん敵情てきじょう順逆じゅんぎゃくしか頗通饋遺,へんはたとし致良みかど頗知,以問りょくげん:「さかえあかつきとおるつとむしんとう及,むべ以小眚介意かいい。」みかどわらい曰:「さかえ嘗短きょう及原きちきょう乃為耶?」曰:「ねがい陛下へいか以曲ようしんしゃようさかえ。」みかど乃解。其後,やややや聞,さかえ以此愧士そうとく甚歡。みかどまたえきおやあつ先後せんごしょたまものちんはてろう醴、きむあやぎぬころもぬさしょさん。」
  33. ^ あかり》(まき148):「せんむねくずれえいむね即位そくいぽうきゅうよわい軍國ぐんこく大政たいせい關白かんぱく太皇太后たいこうたいこうふとしきさき推心にんさかえ、溥さんにん有事ゆうじちゅう使つかいまいかくはかしかこう裁決さいけつさんにんしゃまた自信じしんただしただしぎょうくび請練士卒しそついむあたりぼうしつらえ南京なんきんまいりさんつとむ大臣だいじん分遣ぶんけん文武ぶんぶ鎮撫ちんぶ江西えにしみずうみひろ河南かなん山東さんとうやめ偵事こうじょうまた請以租稅そぜいまきけいごくいむかくひゃくみなまことぎょう正統せいとうはつ朝政ちょうせい清明せいめいとう力也りきやさんねん,《せんむね實錄じつろくなりしんしょうよんねん致仕ちしまこと。敕歸省きせいいくかえ。」
  34. ^ あかり》(まき148):「ちゅうかんおうゆうちょう於帝,ややあずかそとにわごとしるべみかど以嚴御下おしも大臣だいじん往往おうおう下獄げごくやすしこう王佐おうさけいわたし饋榮きんさかえさきしょうはかこれほし藉以かたぶけさかえりょくかいとくやめさかえひろそつ、溥益。其明ねんとげだいきょうせいふもとがわ,帑藏耗費,物故ぶっこしゃすうまんまた明年みょうねん太皇太后たいこうたいこうくずれいきおいえきもり大作たいさくぶく百官ひゃっかんしょうゆう牴牾もどき,輒執而系廷臣ていしん人人ひとびと惴恐,またどるのうせい也。」
  35. ^ あかり》(まき148):「すんでほけきび傲很,嘗侵暴殺じんげんかん交章劾稷。朝議ちょうぎそく加法かほうふう其狀しめせふく有人ゆうじんはつきびよこしいたげすうじゅうこととげ下之したの以老やましざいつげ天子てんしおそれきずくだみことのり慰勉。感泣かんきゅう不能ふのうおこりきゅうねんさんがつそつねんはちじゅうおくふとおくりなぶんさだ有司ゆうし乃論ころせきび。」
  36. ^ あかり》(まき148):「はつ正統せいとうはつげんかわら剌漸きょうはたため患,而邊ぐんかけこわ不能ふのう。請於附近ふきんふとぼくてらせきりょう西番にしのばんみつぎまた悉給歿未いく,也先はて入寇にゅうこうゆう土木どぼくなん識者しきしゃおもえ其言。」
  37. ^ あかり》(まき148):「またまさよし知人ちじんこう推轂かんしょこもたちゆうはつ識面しゃ。而于けんしゅうまこときょう鍾之ぞくみなようこもきょかんいたりいちじゅうねんれんのうかんむり天下でんかためめいしんくも。」
  38. ^ すめらぎあかり經世けいせいぶんへんまきいちひゃくはちじゅうろく
かん
前任ぜんにん
楊榮
明朝みょうちょう內閣くび
1424ねん—1444ねん
永樂えいらくじゅうねんはちがつすすむ - 正統せいとうきゅうねんさんがつそつ
つぎにん
楊溥