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三摩地 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

さん

维基百科ひゃっか自由じゆうてき百科ひゃっかぜん

さん梵語ぼんごसमाधिSamādhi),またわけ三昧ざんまいさんひさげ意譯いやくためとう[1]せいじょう[2]せいしんぎょうしょ[3]調しらべ直定なおさだ[4]じょう[5]みなもと印度いんどいちしゅ經由けいゆめいそう進入しんにゅうてき意識いしき狀態じょうたい最早もはや出自しゅつじ婆羅門教ばらもんきょう奧義おうぎしょちゅうため傳統でんとう瑜伽ゆが修行しゅぎょう方式ほうしきいちざい瑜伽ゆがけいはちささえ瑜伽ゆがちゅうためだいはちささえざい沙門しゃもん傳統でんとうちゅう,如印度いんどきょう耆那きょう佛教ぶっきょうすずかつきょう也廣泛被採用さいよう

作為さくいしんしょおもね達磨だるまろんしょ中將ちゅうじょう它列ため大地だいちほうこれいちどおりぜんあくせんちゅう於惡てき事物じぶつしょうためよこしまじょうせんちゅう於善てき正確せいかくてき對象たいしょうじょうしょうためせいじょう佛教ぶっきょうなかせいじょうためはちささえせいみちまたこれななさとしささえこれいちまたあずか持戒じかい智慧ちえごうたたえためさんがく

概論がいろん

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さんSamādhiてき可能かのう於sam(ため結合けつごういちおこり),samaため平等びょうどう均衡きんこう),あるsammaため正確せいかくてき)。はた注意ちゅういりょく集中しゅうちゅうざいいち地方ちほう使つかいこころせんちゅう進入しんにゅうしんいちさかいせい[6]ゆずるこころ散亂さんらんとおはなれ掉舉あずか惛沈進入しんにゅう平等びょうどう平衡へいこうてき狀態じょうたい[7][8]あるゆずるこころ保持ほじざい正確せいかくてき狀態じょうたい[9][3]みなしょうためさん[10][11]

三摩地的特徵為專注,散亂さんらん。三摩地的範圍廣泛,可用かよう一般いっぱん世俗せぞくちゅうてきせんちゅう,也可よう於更高層こうそうざい精神せいしんそうめんじょうてきせんちゅう高層こうそうてきさんゆうしずかおもんばかとういたりとう引等不同ふどう名稱めいしょう修行しゅぎょう三摩地至於ぜんたたえためおごほか(samatha)。

ぜんおさむ

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字義じぎ

ぜん」這個字源じげん梵文ぼんぶんぜん」(ध्यान)(ともえ利文としふみjhāna),ためしずかおもんばか」、「おもえ維修」、「ていとし均等きんとう[12]英文えいぶんやくさくmeditateあるmeditation。ざい中部ちゅうぶ36けい》,佛陀ぶっだ便びん以「いきぜん」(appāṇakaṁyeva jhānaṁ jhāyeyyanti)描述自己じこ往的苦行くぎょう[13]しょうどうまた常常つねづね弟子でしぜんおさむ:「Jhāyatha, bhikkhave!」[14][15]ぜんざい印度いんど佛教ぶっきょうてき意義いぎせいこう泛,なみせんゆびよんしゅ禪定ぜんじょうてき階段かいだん

止觀しかん

ぜんおさむゆうりょうたね元素げんそいちとめおごほか, śamatha, またわけためじょう禪定ぜんじょうしんいちさかいせい),重視じゅうし心的しんてき平靜へいせいあずか相續そうぞく不動ふどう,以成就じょうじゅ三昧ざんまいため目標もくひょうかん(毗婆しゃ, vipassana),以觀照かんしょう所緣しょえん生起せいきただしみるとめかん兩者りょうしゃのうしょう互助ごじょ[16][17]ほうけいうん:「ぜんさとしさとしぜんみちしたがえぜんさとしとくいたりどろ洹。」反映はんえい早期そうき佛教ぶっきょうみとめため禪定ぜんじょうあずか智慧ちえあいだみつ不可分ふかぶん[18]

修習しゅうしゅう

じゅうろくしょうぎょうよんねんじゅうゆずわが們繫ねん呼吸こきゅうかえしかいとうしたせきふところ身體しんたいさとし行住坐臥ぎょうじゅうざが修習しゅうしゅうあいたい聽,なみあきら顧內しん滋養じようけいやす喜樂きらくしんじ慈悲じひ、捨離。こころざい這種やすとめ而覺狀態じょうたい非常ひじょう適合てきごう觀照かんしょう所緣しょえん (れい身體しんたい情緒じょうちょ、內心、事物じぶつ本質ほんしつとう)[19]のうじょぶた,引發智慧ちえかいひらけ無明むみょうひとしこころゆい

其他ぜんかん修習しゅうしゅう包括ほうかつすういきかん身分みぶんかん(またたたえ不淨ふじょうかん)、さかい分別ふんべつかんはかえんかん慈觀無常むじょうかん因緣いんねんかんとう。而空、そうねがいさん三昧ざんまいさら佛教ぶっきょうどくゆうてき禪定ぜんじょうのうたいらい解脫げだつ[20][21]

よんぜんはちじょう

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ぜんそくしずかおもんばか止觀しかん能生のうじょうとし,四禪那和四無色定,其中てき修習しゅうしゅう方式ほうしきいち[10]

よんぜん

よんぜんてき實際じっさい操作そうさしたがえはなれ(不善ふぜんほう)かずじょう(やす般那ねん)生起せいき喜樂きらくずいこころへんとくせんちゅう微細びさいひろ伺(思惟しい)開始かいしどめいきしんはなれみょうたのし進入しんにゅうらくせい正念しょうねん、捨離、清淨せいじょうてき狀態じょうたい。這時,こころ容易ようい受煩惱習動搖どうようのうせい如實にょじつ[22]

はつぜん はなれよくはなれあく不善ふぜんほうゆうさとしゆうかんはなれせい喜樂きらくはつぜん具足ぐそくじゅう
ぜん ゆうさとしゆうかんいき,內淨,一心いっしんさとしじょうせい喜樂きらくだいぜん具足ぐそくじゅう
さんぜん はなれむさぼ,捨心じゅう正念しょうねんせい安樂あんらくじゅうかれひじりせつ捨,だいさんぜん具足ぐそくじゅう
よんぜん はなれいきらくゆうさきやめはなれらく,捨淨ねん一心いっしんだいよんぜん具足ぐそくじゅう

よん無色むしょくじょう

四無色定非佛陀原創,また曾經修習しゅうしゅうよん無色むしょくじょうただしみとめためじょしるべこう解脫げだつ[23][13]

ぜんてきかくしょく

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おもねきょうみとめため修行しゅぎょうしゃおう直接ちょくせつさとし察內こころ狀態じょうたい,而毋須以よんぜんさくしるべくじいやのり容易よういたいらいれい修行しゅぎょう本末ほんまつ倒置とうち[24]

德寶とくほう禪師ぜんじ指出さしで經藏きょうぞう所說しょせつてき禪定ぜんじょうあずかさとしおと尊者そんじゃてき清淨せいじょうどうろん有明ありあけあらわ分別ふんべつ兩者りょうしゃおうこんためいちだん[25]あい比論ひろんしょ經藏きょうぞうゆうふと強調きょうちょうていかずとしてき劃分,修習しゅうしゅう四禪能止觀雙運,而非ただ有安ありやすとめ而無かんてき境界きょうかい清淨せいじょうどうろんまたざいじょうがくじょうまた加入かにゅうじゅうへんしょ(kasina),なみ提出ていしゅつきんくだりていやすとめじょうてきそう。這種止觀しかん二分にぶんてき觀念かんねん影響えいきょうとしかんぜんてき發展はってん(Vipassana movement)。

ちょ比丘びく於《せい定之さだゆき意義いぎ[26]論文ろんぶん透過とうか對照たいしょう南北なんぼくでんてき早期そうき經典きょうてん指出さしでよんぜん可能かのうたいせいじょう」較後てき定義ていぎ原因げんいん如下:

  1. 長部おさべ22 だいねんじゅうけい[27]加入かにゅうりょう四諦したい八道はちどうなみ以四ぜん定義ていぎ三昧ざんまい,而同けいてき較早版本はんぽん中部ちゅうぶ10ねんじゅうけい並無ならびなつつみ及四ぜん
  2. 中部ちゅうぶ141 たい分別ふんべつけい》以四ぜん定義ていぎ三昧ざんまいただし對應たいおうてき增一ますいちおもね含27.1けい[28]、《ちゅうおもね含31けい[29]、《T32四諦したいけい[30]ところ描述てきせいじょうひとしひさげ及四ぜん
  3. よんぜん出現しゅつげん於《相應そうおう45.8 分別ふんべつけい》,而相おうてきざつおもね含784けい[9]ただ描述ていため:「じゅうこころ不亂ふらんけんさびどめ三昧ざんまい一心いっしん。」安世やすよだかてき《T112佛說ぶっせつはち正道せいどうけい[31]またゆうひさげ及四ぜん

綜上しょじゅつ原始げんし僧團そうだんてきぜんおさむじゅう六勝行和四念住為核心,また修習しゅうしゅう身分みぶんかんさかい分別ふんべつかんはかえんかん、慈觀、無常むじょうかん因緣いんねんかんさん三昧ざんまいとうしたがえちゅう培養ばいようていかずとし[19]四禪那和各禪支是對定境中不同心所的描述,きょう參考さんこうただしおう執着しゅうちゃく於某境地きょうちある以此作為さくい修行しゅぎょう目標もくひょうおもんみずい教團きょうだん發展はってん,四禪又被理解成高不可攀的止境,なみ且與其他沙門しゃもん教派きょうは修行しゅぎょうてき四無色定結合為八定。

注釋ちゅうしゃく

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  1. ^ 翻譯ほんやく名義めいぎしゅう》:「こぼしとうしゃいいはなれ沈(惛沈)、掉(掉舉)曰等,れいしんじゅういちさかいせい曰持」
  2. ^ 大乘だいじょう義章よしあき》:「ところげんじょうしゃとうからだためめいこころじゅういちえんはなれ於散どうめいためじょう』。げん三昧ざんまいしゃ外國がいこく,此名せいじょうてい如前しゃくはなれ於邪みだれせつためせいげん。……さんひさげしゃ外國がいこくさん三昧ざんまいほんいちめいつておとこと。此名せいじょう。」
  3. ^ 3.0 3.1 大智たいちろん》:「一切いっさい禪定ぜんじょうこころみなめいためさんひっさげはたげんせいしんぎょうしょこころしたがえはじめ世界せかいらいつねきょくはしとく是正ぜせいしんぎょうしょしんそくはしじきたとえ蛇行だこうつねきょくにゅう竹筒たけづつちゅうのりじき。」
  4. ^ 訶止かん》:「通稱つうしょう三昧ざんまいしゃ調しらべ直定なおさだ也。だいろんうん善心ぜんしんいちしょじゅう不動ふどうめい三昧ざんまい法界ほうかいいちしょせいかんのうじゅう不動ふどうよん行為こういえんかんこころ藉緣調ちょうじきしょうさん昧也。」
  5. ^ ながおもね含·遊行ゆぎょうけい》:「戒じょうとしかいじょうただふつのう分別ふんべつ
    長部おさべ·だい般涅槃經》:「戒、じょうあずかとし,以及無上むじょう解脫げだつ,這些法被はっぴ有名ゆうめいごえてきたかしたちりょうさとる。(Sīlaṃ samādhi paññā ca, vimutti ca anuttarā; Anubuddhā ime dhammā, gotamena yasassinā. )。」
  6. ^ げん奘譯《おもね達磨だるま俱舍ろんまき4:「さんいいしんいちさかいせい。」
  7. ^ げん奘譯《おもね毗達ほう蘊足ろんまき5:「さんしゃいいしんぞう上所かみところおこりこころじゅうとうじゅうきんじゅう安住あんじゅう不亂ふらんとめとうしんいちさかいせいめいさん。」
  8. ^ おもね達磨だるまじゅんせい理論りろんまき10:「れいこころみだれ所緣しょえんさかい不流ふりゅういんめいさん。」
  9. ^ 9.0 9.1 ざつおもね含經》(ななはちよん如是にょぜ我聞がもん一時いちじふつじゅうしゃまもるこく祇樹きゅう孤獨こどくえんなんじ世尊せそんつげしょ比丘びく:「ゆうよこしま有正ありまさたい聽,ぜんおもえ當為とういなんじせつ何等なんらためよこしまいい邪見じゃけん乃至ないしよこしまじょう何等なんらためただしいいせい乃至ないしせいじょう何等なんらためせいいいせつゆうほどこせゆうせつゆうときゆう善行ぜんこうゆう惡行あくぎょうゆう善惡ぜんあくぎょう果報かほうゆう此世、ゆうゆう父母ちちははゆう眾生せいゆう阿羅漢あらかんぜんいたぜんむこうゆう此世、さくしょう具足ぐそくじゅう:『わがなまやめつき,梵行やめりつ所作しょさやめさく受後ゆう。』何等なんらためせいこころざしいいようこころざし恚志、がいこころざし何等なんらためせいいいはなれ妄語もうごはなれ兩舌りょうぜつはなれ惡口わるぐちはなれ綺語きご何等なんらため正業せいぎょういいはなれころせぬすめいん何等なんらためせいいのちいい如法にょほうもとめ衣服いふく飲食いんしょくやく如法にょほう何等なんらため正方せいほう便びんいいよく精進しょうじん方便ほうべん出離しゅつりつとむきそえ堪能たんのう常行つねゆき退すさ何等なんらため正念しょうねんいいねん隨順ずいじゅんねん妄、きょ何等なんらためせいじょういいじゅうこころ不亂ふらん堅固けんごさびどめ三昧ざんまい一心いっしん。」佛說ぶっせつ此經やめしょ比丘びく聞佛所說しょせつ歡喜かんき奉行ぶぎょう
  10. ^ 10.0 10.1 瑜伽ゆがろん》:「わか略說りゃくせつさん呬多當知とうちよしそうしるべ安立あだち作意さくい差別さべつそう差別さべつほぼしょけいそうかなめとうゆえうんなんそうしるべいい:此地ちゅうりゃくゆうよんしゅいちしゃしずかおもんばかしゃ解脫げだつさんしゃとうよんしゃとういたりしずかおもんばかしゃいいよんしずかおもんばか。……解脫げだつしゃいいはち解脫げだつ。……とうしゃいいさんさんいちそらねがいさんしょうふくゆうさんしゅいいゆうひろゆう伺,ひろただ伺,ひろ伺。ふくゆうさんしゅいいしょうだい無量むりょうふくゆうしゅいいいちふんおさむぶんおさむふくゆうさんしゅいい俱行,らく俱行,捨俱ぎょうふくゆうよんしゅいいよんおさむじょうふくゆうしゅいいひじりさとしさんふくゆうしゅいいせいささえさんふくゆうゆういんゆうひじり正三しょうさんふくゆうきむつよしさんふくゆうゆうがく無學むがくがく無學むがくとうさんとういたりものいいげんさんはちそこはちしょうしょさんはちそこじゅうへんしょさんはちそこよん無色むしょくさんはちそこ無想むそうさんはちそこ滅盡めつじんじょうとうさんはちそこうんなん安立あだちいいただ此等,めいとう於欲かいしんいちさかいせいよし此定とう悔、歡喜かんき安樂あんらくしょ引,欲界よくかいなんじ欲界よくかいちゅう於法ぜんしんせい觀察かんさつ。」
  11. ^ ひとしやく清淨せいじょうどうろんだいさんしょうせつぎょうしょひん〉:「什麼いんもじょうてき語義ごぎとうためじょう什麼いんもとうそくしょうこころあずかしんしょ平等びょうどう(sama)たいらただし(samma)てきせんちゅう在所ざいしょえん境上さかいかみ以持戒之りょく使つかいこころあずかしんしょせんちゅう在所ざいしょえんうえ便びんとうてい以不散亂さんらんため特性とくせい,以去じょ散亂さんらんためあじ作用さよう)。」
  12. ^ 《俱舍ろん頌疏》まき28:「とい何等なんらめいためしずかおもんばかこたえゆかりてい寂靜じゃくじょうとしのうしんおもんばかおもんばかからだとしていゆうせいよう及生としおもんばかめいしずかおもんばか。」
  13. ^ 13.0 13.1 Mahāsaccakasutta MN 36. [2022-07-24]. (原始げんし内容ないようそん于2022-07-26). 
  14. ^ ちゅうおもね含經いちけい. [2022-07-24]. (原始げんし内容ないようそん于2022-07-26). なんじとうまたとうふく自作じさくいたり無事ぶじしょ山林さんりん樹下じゅかむなし安靜あんせいしょうたげすわ思惟しい,勿得放逸ほういつつとむ精進しょうじんれい後悔こうかい。此是きょうみことのりわがくん誨。 
  15. ^ MN19 Dvedhāvitakkasutta. [2022-07-24]. (原始げんし内容ないようそん于2022-07-26). Meditate monks. Do not be negligent. Do not regret later. This is our instruction to you. 
  16. ^ AN2.30 Vijja-bhagiya Sutta. [2022-07-24]. (原始げんし内容ないようそん于2022-07-26). 
  17. ^ いちぎょう禪師ぜんじ. 止觀しかんじゅうよん. [2022-07-24]. (原始げんし内容ないようそん于2022-07-26). 如鳥ゆう雙翼そうよくぜんおさむゆう止觀しかん雙翼そうよく互相とめかん並行へいこう 
  18. ^ ほうけい沙門しゃもんひん. [2022-07-24]. (原始げんし内容ないようそん于2022-07-26). 
  19. ^ 19.0 19.1 Nhất Hạnh, Thích. Appendix Two. Breathe, you are alive! : the sutra on the full awareness of breathing 20th anniversary ed. Berkeley, Calif.: Parallax Press. 2008 [2022-07-24]. ISBN 978-1-935209-26-3. OCLC 647906962. (原始げんし内容ないようそん于2022-07-26). The practices of the Four Jhanas and the Four Formless Concentrations are not necessary for arriving at the fruit of practice, the awakened mind. The methods of mindfulness taught by the Buddha in the Sutra on the Four Establishments of Mindfulness can be seen as the incomparable path leading to emancipation. Although the Anapanasati and Satipatthana Suttas do not refer to the Four Jhanas and the Four Formless Concentrations, we should not conclude that they do not emphasize the importance of concentration. Meditation has two aspects: stopping (shamatha), and observation or looking deeply (vipashyana). Stopping is concentration, and looking deeply is insight. The Full Awareness of the Breath, or of any other object such as the body, the feelings, the mind, the objects of mind, and so forth, all aim at the goal of concentrating the mind on an object so that it is possible to see the object in all its depth. Concentrating the mind is stopping it from running around from one object to another in order to stay with just one object. We stay with one object in order to observe it and look deeply into it. In this way, stopping and observing become one. 
  20. ^ しゃく一行いっこう; かた怡蓉. Fo tuo zhi xin : yi xing chan shi de fo fa jiang tang. 佛陀ぶっだしん - いちぎょう禪師ぜんじてき佛法ぶっぽう講堂こうどう. とちじつ文化ぶんか. 2017. ISBN 978-986-94876-5-8. OCLC 999201784. 
  21. ^ しゃく, ほらつね. さん三昧ざんまい-佛教ぶっきょうどくもんぜんほう. 佛教ぶっきょうぜんほう研究けんきゅう : 依據いきょともえとしあま卡雅》及漢やくおもね含經》. [2022-07-24]. ISBN 9789863262343. OCLC 959201892. (原始げんし内容ないようそん于2022-07-26). 
  22. ^ ざつおもね含483けい. [2022-07-24]. (原始げんし内容ないようそん于2022-07-26). 
  23. ^ 梵動けい. [2022-07-25]. (原始げんし内容ないようそん于2022-07-27). 
  24. ^ Ajahn, Chah. The Teachings of Ajahn Chah, A collection of Ajahn Chah's Dhamma talks (PDF). The Sangha Wat Nong Pah Pong. 2007: 515 [2022-07-24]. (原始げんし内容ないようそん (PDF)于2022-07-26). Although a number of highly esteemed scholars have written descriptions of the first, second, third, and fourth jh¯ana, what's written is merely external information. If the mind actually enters these states of profound peace, it doesn’t know anything about those written descriptions. It knows, but what it knows isn’t the same as the theory we study. If the scholars try to clutch their theory and drag it into their meditation, sitting and pondering, “Hmmm...what could this be? Is this first jh¯ana yet?” There! The peace is shattered, and they don’t experience anything of real value. And why is that? Because there is desire, and once there’s craving what happens? The mind simultaneously withdraws out of the meditation. So it’s necessary for all of us to relinquish thinking and speculation. Abandon them completely. Just take up the body, speech and mind and delve entirely into the practice. Observe the workings of the mind, but don’t lug the Dhamma books in there with you. Otherwise everything becomes a big mess, because nothing in those books corresponds precisely to the reality of the way things truly are. 
  25. ^ Richard Shankman. The Experience of Samadhi, An In-depth Exploration of Buddhist Meditation (PDF). Shambhala. : 137 [2022-07-24]. (原始げんし内容ないようそん (PDF)于2022-07-24). The Venerable Buddhaghosa (who wrote the Visuddhimagga) invented these terms. Parikamma samadhi (preparatory concentration), upacara samadhi (access concentration), appanasamadhi (absorption concentration) —even these are his own words. You don't find these terms in the suttas, either. So therefore we don't see any evidence for supporting dry insight in the suttas. 
  26. ^ Analayo. DEFINITIONS OF RIGHT CONCENTRATION IN COMPARATIVE PERSPECTIVE (PDF). [2022-07-24]. (原始げんし内容ないようそん (PDF)于2022-07-14). 
  27. ^ ともえとし大藏おおくら·长部》(まき22《だいねん处经》):“しょ什麼いんも是正ぜせいてい呢?しょ,於此,やめはなれしょよくはなれしょ不善ふぜんほうゆうひろゆう伺,はなれせいらく具足ぐそくはつぜん而住;ひろ伺寂どめ,內潔きよしこころせんいちせいひろ伺,ていなまらく具足ぐそくだいぜん而住;はなれじゅう於舍,ねんあずかせい,以身受樂,せい如聖しゃ們所せつてき:『しゃねんらくじゅう。』具足ぐそくだいさんぜん而住;しゃだんらくあずかしゃだんさきまえてきゆうやめめつぼつらくしゃねん清淨せいじょう具足ぐそくだいよんぜん而住。しょ,這稱ためせいじょう。”
  28. ^ Lee, Axian. CBETA 線上せんじょう閱讀. cbetaonline.dila.edu.tw. [2022-07-22]. (原始げんし内容ないようそん于2022-07-26). うんなんためつきたい所謂いわゆるつきたいしゃ愛欲あいよくゆいひさしつきいいつきたいうんなんためどうたい所謂いわゆるかしこせいはちひんどうせい正治しょうじせい正方せいほう便びんせいいのち正業せいぎょう正念しょうねんせいじょういいどうたい也。かれ眾生かいとくぜん,乃能聞此四諦したいほう 
  29. ^ ちゅうおもね含31けい. agama.buddhason.org. [2022-07-22]. (原始げんし内容ないようそん于2022-07-26). うんなんせいじょういいせい弟子でしねん, 習是習, めつほろび, ねんどう どう, あるかん本所ほんじょさく, あるがくねん諸行しょぎょう, ある諸行しょぎょうわざわい患, ある涅槃ねはんとめいき, あるちょねんかん善心ぜんしん解脫げだつ , 於中わかこころじゅう, ぜんじゅう, じゅんじゅう, 不亂ふらん, , , とめ, せいじょう, めいせいじょう. 
  30. ^ Chinese text of T 32, “T32 佛說ぶっせつ四諦したいけい. SuttaCentral. [2022-07-22]. (原始げんし内容ないようそん于2022-07-26) えい语). 何等なんらため賢者けんじゃ直正なおまさじょうわか賢者けんじゃ道德どうとく弟子でしにがためねん,習為ねん習,つきためねんつきみちためねんどうとめ不動ふどうはしやめとめ故意こいねんざいいちめいため直正なおまさじょう 
  31. ^ やす, だか. 佛說ぶっせつはち正道せいどうけい T112 (PDF). [2022-07-25]. (原始げんし内容ないようそん (PDF)于2022-07-27). 

相關そうかん條目じょうもく

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外部がいぶ連結れんけつ

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