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宋高宗 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

そうこうはじめ

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重定しげさだこうちょう
そうこうはじめ
宋朝そうちょう皇帝こうてい
國立こくりつみや博物はくぶついんぞうそうだかそうけんこう皇帝こうてい肖像しょうぞう
宋朝そうちょうだい10みなみそうだい1皇帝こうてい
統治とうち1127ねん6がつ12にち-1162ねん7がつ24にち(35ねん42てん
前任ぜんにんそう钦宗赵桓(きたそう
つぎにんそうたかしむね赵昚
ふとし上皇じょうこうそう徽宗ちょうただし(1126ねん-1135ねん[1]
宋朝そうちょうみなみそうふとし上皇じょうこう
統治とうち1162ねん7がつ24にち-1187ねん11月9にち(25ねん108てん
出生しゅっしょう(1107-06-12)1107ねん6がつ12にち
大觀たいかん元年がんねんがつじゅうにち
東京とうきょう開封かいふういま河南かなんしょう開封かいふう
逝世1187ねん11月9にち(1187さい—11—09)(80さい
じゅんじゅうよんねんじゅうがつはつはちにち
臨安德壽とくじゅみやいま浙江せっこうしょう杭州こうしゅう上城かみしろ
やすそう
配偶はいぐう
おんな:无
ぜん
赵構
年號ねんごう
けんえん(1127ねんがつ-1130ねん
紹興しょうこう(1131ねん-1162ねん
尊号そんごう
睿聖仁孝にんこう皇帝こうていなえりゅうへいへんどきみことじょう
ひかり堯壽ひじりふとしじょう皇帝こうてい退位たいいみことじょう
谥号
受命じゅめい中興ちゅうこうぜんこう至德しとくきよしかみ武文たけふみ昭仁あきひとけんこう皇帝こうてい
庙号
こうはじめ
王朝おうちょう宋朝そうちょうみなみそう
父親ちちおやそう徽宗ちょうただし
母親ははおやあらわじん皇后こうごう韋氏

そうだかそうちょう(1107ねん6がつ12にち—1187ねん11月9にち),とくもと[2]ごうそんとき[3]宋朝そうちょうだいじゅう皇帝こうていみなみそうだいいちだい皇帝こうてい在位ざいいさんじゅうねんきたそう皇帝こうていそう徽宗だいきゅうそう欽宗これおとうと;曾獲ふうためかんおう」。かねあさあずかめつきたそう俘虜ふりょ包括ほうかつ徽宗あずか欽宗りょうにん皇帝こうていざい内的ないてき皇族こうぞくひゃく餘人よにんためそうしつ僅存てき希望きぼうちょう南下なんか逃亡とうぼう建立こんりゅうみなみそうてい臨安,ためそうだかむねこうむね建立こんりゅうてきみなみそうまさし成功せいこうのべ续宋祚达151ねんひさただしよし此時北方ほっぽうきんあさ領土りょうどみなみそうてき疆域またきたそうさらしょう,且無ほう實現じつげんだい一統いっとうそうだかむね在位ざいい初期しょきいんためきんあさつよいきおいためりょう保持ほじ江山えやまこうはじめ於是重用じゅうよう主戰しゅせんつなたけひとしひとしただしよしいちしんへんやす,无心きた,也此造成ぞうせい江南こうなん等地とうち遭金あさ侵略しんりゃく淪陷,ただおもえあずかかねじん缔结约,おわり紹興しょうこうじゅういちねん(1141ねんあずかきむちょう達成たっせい紹興しょうこう和議わぎ重用じゅうようぬしせんぜんひろしはくおうりんはたひのきとうひとなみしょたけ罷免ひめんつなちょうかんただしとう主戰しゅせん大臣だいじん,对金しょうしん。从此みなみそうあずかきむちょう形成けいせい南北なんぼく對峙たいじかくきょく

生平おいだいら

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そうだかむね半身はんしんぞう老年ろうねん

早年そうねん经历

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大觀たいかん元年がんねん(1107ねんがつおつ20日はつか),なま於東おひがし京大きょうだい內宮ちゅう,为そう徽宗だいきゅうはちがつ,徽宗たまもの其名かんはいていぐん節度せつど使檢校けんぎょうふとしじょうふうしょくこくこうねん(1108ねん正月しょうがつ,遷鎮海軍かいぐん節度せつど使開府かいふどうさんつかさすすむふうこう平郡へごおりおう政和まさかずさんねん(1113ねん正月しょうがつ,授檢こうふとしせんさんねん(1121ねんじゅうがつおがめぶとたもてあらためとげやすけいげんぐんりょう節度せつど使すすむふうやすしおうやすしやすし元年がんねん(1126ねんがつはいふとでんあらため靜江しずえたてまつやすしぐんりょう節度せつど使かつらしゅうまぎけん郑州まき三月さんがつあらためしゅうけいけんゆうぐんりょう節度せつど使、亳州まき兼平かねひら阳府まき十一月じゅういちがつとく授安こく安武やすたけぐん两镇節度せつど使信德しんとくまぎけん冀州まき

使きん营与招兵勤王きんのう

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やすしやすしげん年春としはる(1126ねん),かねへいかこえこま汴京なみ要求ようきゅうそう親王しんのう宰相さいしょうかくいち人為じんい人質ひとじちさい肯與そう和談わだんそう欽宗ちょう構以親王しんのう份在きむ營中ため人質ひとじちいんきんじん懷疑かいぎ宗室そうしつ份,要求ようきゅうさらかわとく以回そう正當せいとうちょう構獲しゃくかえし汴京途中とちゅうかねへいさいつぎ南侵なんしん最初さいしょそう欽宗いのち往河きた召集しょうしゅう兵馬へいば勤王きんのう後來こうらいかねじん發現はつげんちょう構原らい真正しんせい親王しんのう忿怒ふんどやめ要求ようきゅう宋朝そうちょうやすはいちょう構為使さい再議さいぎ,欽宗於是あらため他出たしゅつ使きん營求ちょう構前往金營時けい河北かほく磁州こんぞく河北かほく),守將しゅしょうそうさわすすむ阻留とく以免遭金へい俘虜ふりょ。此时きんへいやめ跟踪到やすしおう所在しょざい相州あいしゅうひろしはく请康おういれ相州あいしゅう

やすしかん元年がんねんじゅういちがつ,欽宗いのちやすしおう为河北兵きたへい马大もと帅。うるうじゅういちがつへいたつ(1127ねん1がつ9にち),かねへいおさむやぶ汴京開封かいふう造成ぞうせいやすし康之やすゆきなん」。きたそう灭亡。十二月じゅうにがつはついちみずのえいぬ(1127ねん1がつ15にちかんおうちょう構在河北かほく相州あいしゅうひらき河北かほく兵馬へいば大元帥だいげんすい幕府ばくふちょう自己じこため河北かほく兵馬へいば大元帥だいげんすいちんとおるはくため元帥げんすいひろしはくそうさわためふく元帥げんすいゆうへいまんにんふん为五军南下なんか渡河とか大名おおなそう泽请ちょく汴梁かんおう从耿南仲みなみなか及伯彦意见,よくうつり军东たいら十二月じゅうにがつおつかんおういたはくかのえとらいたり东平

やすしかんねん(1127ねんがつかのえたつかんおういれ济州。时兵やめはちまんせんぜん时归よんがつかのえたつかんおう济州おもむきおうてんいま河南かなんしょうおか),刘光以所来会らいかいみずのといたり南京なんきん

此間ゆういちだん插曲:ちょう構在磁州,曾由そうさわ陪同拜謁はいえつりょう城北しろきたちぇくんびょう當地とうちしょうためおうおうほこら”。該廟於通往邢、洺州てきえきどうがわつくり當時とうじ此處ここらみん如山よう”,眾多百姓因為擔心康王取道繼續北行,而聚しゅうざい廟宇びょうう周圍しゅういごうよびすすむ諫。進入しんにゅうほこらびょうかんおうくじぼくどくきちくじびょう吏抬おうおう神輿しんよようびょうちゅう神馬しんめ,請康おうじょう歸館きかんしゃ紛亂ふんらんちゅうちからぬし使金的きんてきおうくもころせちょう構則とめりょうらいなみ於次かえしかい相州あいしゅう。此事件じけん卻成ためみなみそうかんわたし記載きさいちゅう極力きょくりょく渲染てきちぇくんあらわきよし”、“どろ馬渡まわたりやすしおう故事こじてき緣起えんぎ;此亦ためちょう將來しょうらい引作ひきつくりためおうてんのぼりはじめ即位そくい正統せいとうせい證明しょうめい。)

やすしかんねんさんよんがつあいだ,徽、欽二きんじみかどかねぐんとりこかすめきた,赵构てき妻妾さいしょうおんな儿也俘,ただし怀孕てきはんとく以幸まぬかれきさきらい生子いくこちょう

のぼりはじめしょうみかど

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やすしやすしねんがつはついちかのえとら(1127ねん6がつ12にち),ちょう構在南京なんきんおうてんこん河南かなんしょうおかのぼりはじめためみかど改元かいげんけんえん」。けんえん改元かいげんそうだかそうはるかたかし擄到きんこくてき母親ははおや韋氏ためせん皇后こうごう」,ふう自己じこてき外祖父がいそふ韋安どうためぐんおうおやぞくさんじゅうにんひとし任官にんかんしょくなみ且從此不斷ふだん派遣はけん使者ししゃいたかねこくもとめかずかなめむかい韋氏かいみなみそう[4]

けんえん元年がんねんじゅうがつちょうはついちにちそうだかむね南京なんきん南下なんか扬州。みずのと未到みとう达扬しゅうきんじん听闻きさき,决计だい举南けんえん三年一月韩世忠在沭阳溃军,きん军快そく南下なんかいたりきんすう百骑兵到扬州西北之天长。みずのえかねじんやぶてん长军。こうはじめとく内侍ないしさがせ报,そく穿ほじ盔甲じょう马出门,出走しゅっそう扬州,而百かん宰相さいしょう不知ふちこうはじめ渡江とのえいたり京口きょうぐちさいつぎ镇江;いたりきのえとらさいつぎ长州;おつ无锡;へい辰次たつじ平江ひらえみずのえいぬいたり杭州こうしゅう。而次がつきんへい并未过江。

けんえんさんねんさんがついんきん军将领对人事じんじやすはいとう满,发生なえ刘兵变そうだかそうせりぜん皇位こうい皇子おうじちょう旉。よんがつこうはじめざい勤王きんのうだい军的进发,复辟。复辟きさき举行じん宗法しゅうほう,录用げんゆう党人とうじんしょ改易かいえき政策せいさくよんがつちょうしげる,赵构发杭州こうしゅうぜんこうたてやすし),以谋恢复。

そうだかそうかねへいついころせ多年たねんなみ曾在海上かいじょう飄泊,いたり紹興しょうこうはちねん(1138ねん正式せいしきてい臨安いま浙江せっこう杭州こうしゅう),けんえんみなみわたり完成かんせい

紹興しょうこうななねん(1137ねん),こうはじめなまちちそう徽宗まと訊傳いたみなみそう。『みかどごう慟,さとし輔臣曰:「せん皇后こうごう春秋しゅんじゅうだかちんおもえ遑甯しょこごめおのれ請和,せいため此耳。」[4]こうはじめごう哭,たい大臣だいじんせつ:「わが母親ははおやせん皇后こうごうねんさいやめけいだいりょうわが思念しねん她到りょうすわ不安ふあんてき地步ちほこごめ自己じここうかねこくもとめせいためりょう這事。」)翰林かんりん學士がくししゅしん引用いんようからとくむねてきてきこと[5],請高そうはるかみこと韋氏ため皇太后こうたいごうそうだかむね聽從ちょうじゅう

そうきん议和

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紹興しょうこうはちねん(1138ねん),ざいそう使おうりんてき成功せいこう外交がいこうきむちょう撤銷にせひとし包含ほうがん東京とうきょう開封かいふうとう三京さんきょう東京とうきょう西京にしぎょう南京なんきんこれてき河南かなん陝西せんせい歸還きかんきゅうみなみそうただしこうむね生母せいぼ韋太きさきひさし歸還きかん

紹興しょうこうじゅうねん(1140ねん),きむちょう撕毀協約きょうやくじゅうあたらしおさむ佔陝西にし河南かなんこれかねぐんしゅそちかんがおむね兀朮さきざい開封かいふう正南せいなんてきじゅんあきらはいりゅう所部ところぶてきはちぐん」,さい開封かいふう西南せいなんてき郾城穎昌ざいおんなしん精銳せいえい部隊ぶたいしょ拿手てき騎兵きへい對陣たいじんちゅう兩次りょうじはいたけてきたけぐんただざい開封かいふうひがし南面なんめんてき淮西亳州宿やどしゅう一帶戰勝了宋軍中最弱的ちょうしゅん一軍いちぐんざいそうだかむね以「じゅう二道ふたみち金牌きんぱい」召回だけぐんまえかねぐんやめ壓縮あっしゅくいた開封かいふう東部とうぶ北部ほくぶ

紹興しょうこうじゅういちねん(1141ねんがつきむ熙宗たいみなみそうしめせこうはた死去しきょてきそう徽宗ついふうため天水てんすいぐんおうはたざい押的そう欽宗ふうため天水てんすいぐんおおやけだいいちひさげだかりょうきゅうべつはららいふう徽宗ためひん昏德こうついふうぐんおうますためいちひんはららいふう欽宗ため三品みしなしげる昏侯,げんふう公爵こうしゃくますためひんだい二是去掉了原封號中的污侮含義。だい三是以趙姓天水族望之郡作為封號,以示尊重そんちょう[6]同時どうじざいそうぐんちゅう最強さいきょうだいてきたけぐん根本こんぽん參戰さんせんてき情況じょうきょうかんがおむね弼的きんこくさい精銳せいえいてき部隊ぶたいまたざい淮西柘皋さきはいちょうしゅん部下ぶか楊沂ちゅうりゅうてきれんぐん後來こうらい雖然いんためちょうしゅん搶功調ちょうはしりゅう錡,かんがおむね弼在ほりしゅうかちそうぐんちゅうさいじゃくてきちょうしゅん一軍いちぐんただしよし於韓ちゅうぐんだけぐん趕到,かんがおむね弼不とく退すさぐん北上ほくじょう

よんがつ下旬げじゅんそうだかむね解除かいじょりょうたけかんただしりゅう楊沂ちゅうちょうしゅんとう大將たいしょうてき兵權へいけんため紹興しょうこう和議わぎ》做好りょう準備じゅんびじゅうがつみなみそうりょうしん赴金,提出ていしゅつよう

十一月じゅういちがつかねこくしょうあつし、邢具瞻為審議しんぎ使ずいりょうしんかいみなみそう提出ていしゅつ條件じょうけん。此時だかむね生母せいぼ韋氏たくじんはた一封信送到趙構手裏。「ひろしあきらざいつばめもとめ(韋)きさきしょほろみかど大喜だいぎ曰:「使つかいひゃくやから如一しょ。」とげほろかんかねじんしょうあつし、邢具瞻來みかど曰:『ちんゆう天下でんか,而養及親。徽宗及矣!今立いまだてちかいしんじとう明言めいげんわが(韋)ふとしきさきちんはじしかちんはばか用兵ようへい!』(『わがようゆう天下でんかただし不能ふのう贍養おやじんわが父親ちちおや徽宗やめけいりょう現在げんざいわがはつちかいわがよう公開こうかい要求ようきゅうきんこく歸還きかんわが母親ははおや韋太きさきわが以議ためはじしかてきばなしわが怕向きんこく用兵ようへい!』),しょうあつしとうかえみかどまたかたり曰:『(韋)ふとしきさきはてかえとう謹守誓約せいやく。如其也,雖有誓約せいやくためきょぶん。』」[4](「如果わが母親ははおや韋太きさき果然かぜんのうかいみなみそうとう謹守わが們訂てき和議わぎ誓約せいやく。如果かいゆう和議わぎ誓約せいやく也是いち空文くうぶん。」)當月とうげつ,《紹興しょうこう和議わぎ最後さいごてき書面しょめん內容そく達成たっせい

十二月じゅうにがつまつじょゆうよる(1142ねん1がつ27にち),そうだかむね殺害さつがいだけとべあずか其子たけくも部將ぶしょうちょうけん於臨やすいま杭州こうしゅう),よりどころそうふみ這是ためりょう滿足まんぞくかんがおむね弼為《紹興しょうこう和議わぎしょしつらえてき前提ぜんてい防止ぼうしだけてきじゅう萬岳家軍攻入黃河以北[7]

いたり此,こうはじめ以稱しん賠款,割讓かつじょう從前じゅうぜんたけおさむふくてきからしゅう鄧州以及しょうしゅうしんしゅうてき大半たいはんため代價だいか,簽定紹興しょうこう和議わぎそうきんひがし淮河西にしだいせきためかいみなみそう正式せいしき放棄ほうきじょうやくところ獲得かくとくてき陝西せんせい河南かなん領土りょうどそうだかむね也立こく成功せいこうむかえ回生かいせいはは韋氏。《そう·だかむね本紀ほんぎ記載きさい紹興しょうこうじゅうねん(1142ねんなつよんがつちょうしげる(5がつ1にち),「(韋)皇太后こうたいごう偕梓みや(徽宗靈柩れいきゅうはつこくじょうかねかんがおそうけん護送ごそうあずさみや高居たかいやすし護送ごそう皇太后こうたいごう」。按照當時とうじしんじいきてきつて遞方しきたけ於紹きょうじゅういちねんじょゆうよる(1142ねん1がつ27にちころせみなみそう使節しせつりつこく於紹きょうじゅうねん(1142ねん正月しょうがつたいちょ正式せいしきあきらはこしたがえだけころせてき臨安(いま杭州こうしゅうかねこく禁錮きんこそう欽宗韋氏てきこくじょうこん黑龍江こくりゅうこうしょう哈爾濱市はまいちあららぎけんらん鎮五こく城村じょうむらせっじん,韋氏よんがつちょうしげる(5がつ1にちそくけいほどかいそうはちがつみずのえうま(9がつ13にち),韋氏到達とうたつそう臨安。したがえ正月しょうがつはつ一到八月壬午,じょりょうようざい行程こうてい腳力じょうぼつゆういと毫拖のべ。韋氏はなれひらきこく城前しろまえ,曾答おう欽宗かい南方なんぽう努力どりょく營救欽宗かいだかむね提出ていしゅつ让钦そうかず母后ぼこう及徽そうあずさ宫一どうみなみ归,并让临安おさむ为钦そうおさむ宫殿,ただしきむちょうざい政局せいきょく变动きさきはん悔了,于是钦宗みなみ归作罢。

《紹兴议》约定みなみそうとく以无ざい辅弼”,导致はたひのき专权ろうせい长達じゅうねんこう宗一そういち方面ほうめん对秦ひのき放任ほうにん,另一方面ほうめん,处处对秦ひのきひさげぼうはたひのきしょう时,はたひのき嗣子ししはた请求继任宰相さいしょうこうはじめこばめ绝,并将しんひのき一族いちぞく调为闲职,はたひのききさきこうそうはじめ打擊だげきしんひのきあまりとう任用にんよう曾被しんひのき击的大臣だいじんただし其中仍然とぼしあずかしんひのきもち相近すけちかしゅ张的投降とうこう

晚年ばんねん生活せいかつ

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紹興しょうこうさんじゅういちねん(1161ねん),《紹興しょうこう和議わぎかねあさ皇帝こうていかんがおあきら撕毀,かねへいさいつぎ南侵なんしんさいせきそう军以しょうかち擊退げきたいきんへい

紹興しょうこうさんじゅうねんろくがつじゅういちにち(1162ねん7がつ24にち),こうはじめ以「倦勤」そう休養きゅうようためゆかり禪讓ぜんじょう養子ようしけんおうちょう眘,ためそうたかしむね自尊じそんためふとしじょう皇帝こうてい群臣ぐんしんじょう尊號そんごうためひかり堯壽ひじりふとしじょう皇帝こうてい終結しゅうけつりょうそうふとしむね一脈いちみゃく976ねんおこりちょうたち186ねんてき統治とうち回歸かいきそうふとし一脈いちみゃくちょくいたりみなみそう滅亡めつぼう[8]

そうだかむね本有ほんゆういちちょうただしいんなえりゅうへいへん受到おどろき嚇而びょう逝,とくねん僅兩としこれのう再生さいせいにんなん子女しじょ須在そうしつめいちゅう選出せんしゅつ皇位こういつぎにんじんためそうふとしむね後裔こうえいてきそうだかむねこれ所以ゆえんりつそうふとしてき後裔こうえいちょう眘為繼承けいしょうじん,一來宋太宗的近支後裔大多在やすし康之やすゆきなんかねじんとりこ,如钦むね父子ちちし可能かのうかねじん拥立挑战だかむねすめらぎ统,而南わたりてきふとそう远支きさき裔仍しか很多(齐安ぐんおう赵士㒟曾以“阖门ひゃくくちだけ飞没ゆうしん),こうはじめ幻想げんそう自己じこ将来しょうらい还能生子おいご,也基于そうえいむねついみことせいちちそう濮议てききょう训,すなお选择ほんせい家族かぞく势力たいだいてき储君;另外根據こんきょそうふみてき記載きさい傳說でんせついんためそうふとしあらわれいたくゆめ给高むね[9]當時とうじてき宋朝そうちょうじん甚至さとしとく金太きんたむねこれそうふとしうたてぜんらい奪回だっかい皇位こうい報復ほうふくそうふとしむねしょくかげおのごえはかりごととげてき篡位[10]

雖然禪讓ぜんじょう主要しゅよう決定けってい权还在高ありだかむねゆう其在問題もんだいじょうそうたかしむねちょう眘登もと馬上まけためだけひらたはん肅清しゅくせいはたひのきとうためふとし上皇じょうこうてきだかむねなみ阻撓,而且退位たいいてきだかむねあずか君臨くんりん天下でんかてきこうむね關係かんけい相當そうとうこうちち慈子しげここうただしそうだかそう也有やゆうせい,如反对孝むねきた。一次孝宗去问安,だかむね最近さいきん大臣だいじんゆうなん议论,こうむね说在议论郑藻めと寡嫂,こうはじめ发怒りょう,说这些大臣だいじんなかだちじん面子めんつ,并说自己じこ就是なかだちじんこうむね无言以对,并将议论郑藻てきかん员贬职。

じゅんじゅうよんねんじゅうがつはつはちにち(1187ねん11月9にち),そうだかむねとおることぶきはちじゅうさいきょはちじゅういち),こうむね悲痛ひつうやめ持續じぞくまもりさんねん,也自ぎょう退位たいい

对岳飞冤狱

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こう宗之むねゆきはは韦太きさきみなみ归之きさき,曾因だけ飞没ゆうぜん来朝らいちょう见而询问だかむね皇帝こうてい群臣ぐんしんちょくいたり听闻だけ父子ふし以及部将ぶしょう张宪ぐうがいきさきいか骂高むね,此时てきそうだかむね自己じこ参与さんよせいづくりてきたけ飞冤狱之ごとふかかんきさき悔,ただし碍于帝王ていおうてき严没ゆうりつそく着手ちゃくしゅ行平ゆきひらはんちょくいたり多年たねんきさき政局せいきょく趋于稳定ざいしょう赦免しゃめんりょうだけ飞和张宪眷,しゅさき对岳飞长たけうん行平ゆきひらはんひさきさきそうだかむねぜん做了ふとし上皇じょうこう,并在其授したのぼりはじめひさてきそうたかしむね正式せいしき为岳飞以及张宪平はん并同时查处秦ひのき奸党。

特長とくちょう

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たまものだけしゅ敕》うつし於紹きょうななねん(1137ねんあきたかし

そうだかそうどう其父そう徽宗一樣いちよう,頗有藝術げいじゅつてん份,傑出けっしゅつてき書法しょほうげん「……凡五じゅう年間ねんかんだい利害りがいしょう仿,はじめいちにちしゃ筆墨ひつぼく」,初學しょがく黃庭堅おうていけんこうあらためがくべいいたりおわり以追摹すすむ法度はっと王羲之おうぎし王獻之おうけんし父子ふし流傳りゅうでんゆうたまものだけしゅ敕》及《真草しんそう嵇康養生ようじょうろん書卷しょかん》。元朝がんちょう書法しょほうちょうはじめ早年そうねんそく以宋だかむね書法しょほうため榜樣。

評價ひょうか

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正面しょうめん評價ひょうか

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ぞくどおりちゅう:「かんおういれ毅然きぜん請行,曰:“てき必欲親王しんのうしつしんためむねしゃ大計たいけいあにおう避!”欽宗りつ改元かいげんやすしかんにん拆其いいじゅうがつりつやすしおう”也。資性しせいろうさとる好學こうがく強記きょうきにち誦千あまりげん,挽弓いたりいちせき。」其他含有がんゆうせき於宋だかむね節儉せっけん迷信めいしん祥瑞しょうずいこう女色じょしょく潛心せんしん治國ちこく文才ぶんさい武德ぶとく具備ぐびとう描述。[11]

まけめん評價ひょうか

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そうだかむねためじゅう皇位こうい在位ざいい初期しょき創造そうぞう傳說でんせつ使つかい天下でんか人相にんそうしん其正とう正統せいとう地位ちい,以掩かざり自己じこ「銜命やめさくせんけいひさげにゅうまもるはんためまもるおのれにん父兄ふけいあまため俘虜ふりょ[12]」。いんきんへい追擊ついげき而貪せい怕死逃命,後世こうせいおどけしょうため「逃跑皇帝こうてい」。及後じょう臨安ためもとめへんやす保持ほじはんかべ江山えやまてき統治とうち惜把だけとうしゅ战派大臣だいじん殺害さつがい,以與きんあさ達成たっせい和議わぎなり为后評價ひょうかてき重要じゅうよう污点。

  • 當時とうじ詩人しじんはやします在宿ざいしゅく新住あたらすみ宿やどじょこうてんざい牆上ひさげだい臨安やしき諷刺ふうしとうあさてき統治とうちしゃ曰:
やまがい青山あおやまろうがいろう西湖さいこ歌舞かぶいくきゅう
だんふう熏得ゆうじんよいじき杭州こうしゅうさく汴州
  • 元朝がんちょうかんおさむ正史せいしそうふみだつだっひとしてき評價ひょうか:“むかしなつきさきせい而后羿篡,しょうやすし复立而祀なつしゅう传九世而厉王死于彘,せんおう复立而继しゅう;汉传十有一世而新莽窃位,光武みつたけ复立而兴汉;すすむよんせいゆう怀、愍之祸,もとみかどせい于建邺;からろくせい有安ありやす难,肃宗即位そくい于灵たけそうきゅうせい而徽、钦陷于金,こうはじめ缵图于南京なんきんろくくんしゃみなしょう为中兴,而有异同焉。なつ经羿、浞,しゅう共和きょうわ,汉间しんしつ更始こうしすすむとうそう则岁がつしょう续者也。萧王、琅琊みな疏属,しょうやすしせんおう、肃宗、こうはじめ父子ふし相承そうしょうしゃ也。いたり于克复旧ぶつ,则晋もとあずかそうだかむね视四くんしゃ有余ゆうよ责焉。こうそうきょう俭仁あつ,以之继体もりぶん则有あまり,以之拨乱はんせい则非其才也。况时危势逼,へいじゃく财匮,而事难处またゆう甚于すうくんしゃ乎?君子くんし于此,盖亦ゆう悯高宗之むねゆきこころ,而重伤其しょ遭之幸也ゆきやしかとう其初りついん四方しほう勤王きんのう师,内相ないしょう纲,そとにんむね泽,天下てんかことむべ不可ふか为者。顾乃播迁穷僻,じゅう以苗、刘群盗ぐんとうみだれ,权宜立国りっこく,确虖艰哉。其始惑于ひろし,其终せい于奸ひのき,恬堕猥懦,すわしつごとつくえ。甚而赵鼎、张浚しょう继窜斥,たけ父子ふし竟死于大功たいこうたれ成之しげゆきあき。一时有志之士,为之扼腕やくわんきり齿。みかどかた偷安にん耻,匿怨忘亲,そつめん来世らいせ诮,悲夫!”[13]
  • あきら末清すえきよはつ儒者じゅしゃおうおっとざいそうろんいち書中しょちゅう如此評價ひょうかだかむね:“こう宗之むねゆきかしこおんなしん也,窜身而不耻,こごめひざ而无惭,ちょく不可ふか谓有せいじん气矣。乃考其言动,察其こころざしおもむきかたしゅうすすむめぐみこれ也。なに以如其馁也?これげん不知ふち信也しんやそうこれちゅう不知ふちにん也;韩世ただしたけこれこう不知ふち赏也;吴敏、棁、耿南なか邦彦くにひこしゅ以误钦宗これざい不知ふち贬也。而忘亲释怨,つつみ羞丧节,乃至ないし陈东、おう阳澈はらい众怒而骈诛于,视李纲如かたきかたき,以释おんな直之なおゆき恨。岂汪、二竖子之能取必于高宗哉?且高むねまた终见其奸而斥矣。そもそもしゅ屈辱くつじょくしゃただしひろし也。张浚、赵鼎りょくしゅ战者,而首ほどこせ两端,ぜん却无じょうそもそも敢昌げん议之。则自纲、そう泽而がいのう以避寇求为必不可ふかしゃ,一二冗散敢言之士而止。以时势度,于斯时也,诚有旦夕たんせき保之やすゆき势,迟回葸畏,固有こゆう不足ふそくふか责者焉。苟非汉光武之たけゆき识量,そく以屡败而挠,则外竞者ちゅう必枵,况其不足ふそく以竞しゃ乎?こうはじめ为质于虏廷,熏灼于剽悍凶やましこれ气,俯身顾,かた其敌。やめ而追みかどしゃ,滨海而至あきらしゅうついりゅうゆうふとしきさきしゃうす岭而いたり皂口,これそく,则相胥为俘而やめきみたもてしん不能ふのう其君,ふるえ慑无聊,ちゅうじん恒也つねや。亢言しゃ恶足以振哉? ”
  • しんだかむねいぬいたかしみかど曾作诗《题宋ちゅう兴圣せいそう》,对宋だかむねひなうすいたり,并直言ちょくげん些所谓“正面しょうめん评价”乃是“きょくほまれ”,难逃きさきじん“绳”てき
しょうやすし光武みつたけはじめこらえたたえ何事なにごとけんえんごうちゅう兴?
轻议たけ惭尽ぜんこう谈尧しゅんひき先登せんとう
へんやす祗有姑息こそく计,きた曾无恢复のう
曰亲せいもち敌返,闻业创受终膺。
もとめ贤进退无定,远佞优游几实曾。
举凡りつ可知かち时政,きょくほまれやすのう逃后绳。
七字永言昭鉴戒,艰哉天命てんめいまき钦承。

きさきいぬいたかしみかど自己じこ这首诗做ちゅうさら曰其“顾腼しか诩为ちゅう兴,またふかひな”。[14]

軼事いつじ

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けんえんねん(1128ねんふゆそうだかむねため躲避かねぐんてき追擊ついげきたてやすしみなみわたる,逃到浙東一帶いったいつよしわたりぜに塘江いたしょうやま,就有じんざいみちつくり叩拜むかえなみ告知こくち隊伍たいごてきぜんほこさきせつ:“宗室そうしつちょうおとろえ以下いか起居ききょ。”そうだかむね聽聞ちょうもん,甚是だかきょうたいつくりてき侍從じじゅうせつ:“ちょう如是にょぜわれ無慮むりょ焉。”ずいみことのりますちょうおとろえかんさんとうなみみとめため此行雖然乘船じょうせん渡海とかい往返,しか國家こっかしたがえ現在げんざいおこり安定あんていりょうちょうおとろえそく後來こうらいてきりゅうかくちょく學士がくしちょうよし俊之としゆきちち。此事あずかそうふとしむね征討せいとう河東かわとうときそうぐん大捷たいしょうてき祥瑞しょうずいちょういちようてき當時とうじそうふとしむねしょ挑選せんてきせんこううらゆうりょうせんこう分別ふんべつめいさけべちょうたて跟畢しょうせいこうおうけんりょう此戰ちょうそんかつ宋朝そうちょう必勝ひっしょう[16]

家庭かてい

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先祖せんぞ

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先祖せんぞ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖父こうそふ濮安懿王赵允让
 
 
 
 
 
 
 
曾祖父そうそふえいむねせんこう皇帝こうてい赵曙
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖母こうそぼせんゆうけんくんつとむ
 
 
 
 
 
 
 
祖父そふかみはじめ圣孝皇帝こうてい赵顼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖父こうそふついふうすわえおうこう遵甫
 
 
 
 
 
 
 
曾祖母そうそぼ宣仁のぶひと皇后こうごうこう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖母こうそぼすわえこく夫人ふじん曹氏
 
 
 
 
 
 
 
ちち徽宗显孝皇帝こうてい赵佶
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
祖母そぼついみこと钦慈皇后こうごう陈氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こうはじめ宪孝皇帝こうてい赵构
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖父こうそふ韋舜しん
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖父そうそふ韋子はな
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖母こうそぼすわえこく夫人ふじんだん
 
 
 
 
 
 
 
外祖父がいそふぐんおう韦安どう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖母そうそぼ漢國かんごく夫人ふじん杜氏とうじ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ははついみことあらわじん皇后こうごう韦氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外祖母がいそぼえきこく夫人ふじんそう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちち
あに

後宮こうきゅう子女しじょ

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妻妾さいしょう
  • けんぶし皇后こうごう邢秉懿,かん王妃おうひふうよしみこく夫人ふじんやすし康之やすゆきなんきた遷。すえやすしかん稗史はいししょう金太きんたむねふうためけんえんそうこく夫人ふじん」。[17]こうそうはるかさつため皇后こうごう紹興しょうこうきゅうねんくずれのち韋太きさき歸國きこくほうとも皇后こうごうくずし中宮ちゅうぐうやめ虛位きょいたちじゅうろくねん
  • けんせい慈烈皇后こうごう和義かずよしぐん夫人ふじん才人さいじん、婉儀、すすむ紹興しょうこうじゅうさんねんたてため皇后こうごうこうはじめ內禪,みことのりたたえぶとうわ皇后こうごう,遷居德壽とくじゅみやこうむね即位そくいうえ尊號そんごうことぶききよしふとしじょう皇后こうごうひかりむね即位そくいさらごうことぶききよし皇太后こうたいごうこうむねくずれはじめせい太皇太后たいこうたいこうこれごうけいもとさんねんくずしねんはちじゅうさん
  • はんけんさむらいたてまつこうむね於康おうなまもと太子たいしちょう旉,紹興しょうこうじゅうはちねん薨。
  • ちょうけんはつため才人さいじんすすむ婕妤、婉儀。死後しごついためけんこうむね養母ようぼ
  • りゅうけんにゅうみやためべにかすみ帔,遷才じんるい遷婕妤、婉容,紹興しょうこうじゅうよんねんすすむけん
  • りゅう婉儀はついれみやふうよろしはるぐん夫人ふじんひろしん才人さいじんあずかりゅうけん俱被ちょうしん婉儀。
  • ちょうたか開封かいふうさちじんはついれみやふうえいよしみぐん夫人ふじんいぬいどうろくねんしん婉容。じゅんななねんふうふとし上皇じょうこうよしじゅうろくねんしんたか。紹熙元年がんねん薨。
  • 馮美じん
  • かん才人さいじんかず美人びじん冯氏,才人さいじん吴氏、おうこうむね宠幸,きさき废。
  • 才人さいじん皇后こうごうぞくじん
  • 才人さいじん相貌そうぼうあかり艳,あつし熙末ねんふとし上皇じょうこう宠爱。こうはじめ驾崩,宪圣皇后こうごう见到才人さいじん就生气,そうたかしそうそくおいかいつげいのち,许其自便びん。这并非常ひじょうせい
  • おう才人さいじん相貌そうぼうあかり艳,あつし熙末ねんふとし上皇じょうこう宠爱。こうはじめ驾崩,宪圣皇后こうごう见到才人さいじん就生气,そうたかしそうそくおいかいつげいのち,许其自便びん。这并非常ひじょうせい

另有いち地方ちほう史料しりょう記載きさいゆう三名被視為宋高宗女兒的女性流落民間,長大ちょうだい成人せいじん以民おんな份嫁じん後來こうらいざい恢復かいふく皇族こうぞく份;這些可能かのう牵强附会ふかいいんそう宗室そうしつおんな虽然无特殊とくしゅふうごう,也会みん敬称けいしょう为郡ぬし。这些“みん间郡ぬし”们包括ほうかつ

  • ちょうたまおんな(1159ねんいち1242ねん[19]:《しんやすけんこうはじめ其中いちじょけんえんさんねんかむ江西えにし縣令けんれい鄧元あきら於起へい勤王きんのうどき於道じょうおさむよう長大ちょうだいよめきゅう鄧元あきら之子ゆきこ自明じめいいたりそうひかりむね即位そくいちょうたい長子ちょうしめんこうむねひかりむねたたえちょうためすめらぎしゅうとふうためぐんぬしなみ自明じめい追贈ついぞうためぜいいんぐん」,なみたまものひがしふとい後人こうじんいた香港ほんこんりゅうおどあたまにしき廈村だい埔頭ひがしふとい等地とうち[20][21]
  • じゅうぐんぬしそうだかむね可能かのうかえゆういちじょよめ南海なんかいひとほどはらはじめ程原ほどはらはじめほど曾孫そうそんほどのぼる之子ゆきこいん其妻五十郡主之故被封為「いんぐん」,前述ぜんじゅつぜいいんぐんふうごう相似そうじ當地とうち人稱にんしょう五十郡主的父親是當朝皇帝,且南海なんかいかくゆうちょうじゅうぐんぬしはか,而她よめ其父すめらぎやめくずしちょうぐんぬしまたしょうさく公主こうしゅぐんぬしおもえみょうとうさんみなしょうそうこくおい」;いん此五十郡主可能是宋高宗女兒,まちこう
  • 荂妻ちょうそうこう宗時むねときなおゆう一位名叫葉荂的駙馬,よう荂是南海なんかい顒之居住きょじゅうざい廣東かんとんしか而這宗室そうしつおんなそうだかむねてきおや女兒じょじかえこれやぶれいふうため公主こうしゅまちこう

任用にんよう官員かんいん

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宰相さいしょう

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名將めいしょう

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女官にょかん

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かげ形象けいしょう

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延伸えんしん阅读

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维基文库中的相关文本:そう·まき024》,出自しゅつじだつだっそうふみ
维基文库中的相关文本:そう·まき025》,出自しゅつじだつだっそうふみ
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参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ 徽宗こうそうはるかみことためふとし上皇じょうこうちょくいたためどめ
  2. ^ みなみそう·しんでん,《けんえん以來いらい繫年要錄ようろく》(まき1):“おうめい構,とくもとみちくん皇帝こうていだいきゅう。”
  3. ^ あきら·沈德,《まんれきへん》(まき1):“古來ふるく帝王ていおう聞別ごうおもんみそうだかむねしょ其室曰損ときそうそくべつごう矣。”
  4. ^ 4.0 4.1 4.2 そうふみ·后妃こうひ列傳れつでん·韋賢でん》。
  5. ^ からとくむねてきてき生母せいぼ沈氏げんじゅうらく宮中きゅうちゅう,「やすみだれちゅう下落げらく不明ふめいからとくむねつぎはるかたかし沈氏ため皇太后こうたいごうなみじんよんしょひろおとずれ
  6. ^ よりどころ氏族しぞくてん·ちょうせいごとしょげん:「天水てんすいちょうもち也。」天水てんすいため古郡ふるこおりめい即今そっこん甘肅かんせいしょう天水てんすい附近ふきん
  7. ^ そう·だけでん》:「兀朮のこひのきしょ曰:『なんじ朝夕ちょうせき以和請,而岳かたため河北かほく必殺ひっさつはじめ。』」
  8. ^ そう·まきさんじゅうさん 本紀ほんぎだいさんじゅうさん こう宗一そういち》: おつ,內降劄:「皇太子こうたいしそく皇帝こうていちんたたえぶとうわ皇帝こうてい退すさしょ德壽とくじゅみや皇后こうごうたたえぶとうわ皇后こうごう。」へいちゅう使つかい召帝にゅう禁中きんちゅうめんさとしみかどまた推遜受,そく趨側殿どのもんほしかえ東宮とうぐうこうそうつとむさとし再三さいさん,乃止。於是だかむね出御しゅつぎょ紫宸殿ししんでん,輔臣そうごと畢,こうはじめかえみや。百官移班殿門外,はいみことのり畢,ふくにゅうはん殿どのにわころ,內侍わきみかどいたり榻前,がわりつすわ,內侍扶掖いたりななはち,乃略就坐。宰相さいしょうりつひゃく僚稱みかど遽興。輔臣ます殿どのかた請,みかど愀然曰:「君父くんぷめいじ獨斷どくだんしか此大,懼不かつとう。」はん退すさふとしじょう皇帝こうていそく德壽とくじゅみやみかどふくほうくつさち曦殿もんおかせわき輦以ぎょう,及宮もんどるどめ上皇じょうこう麾謝再三さいさん,且令左右さゆう扶掖以還,顧曰:「われ付託ふたくとくじんわれ憾矣。」左右さゆうみなよびまんさいみことのり有司ゆうしふとしじょう皇帝こうていふとしじょう皇后こうごう尊號そんごう以聞,ざい內諸日輪にちりん官吏かんりおうたてまつ德壽とくじゅみや增置ぞうちあさ德壽とくじゅみやひさげてんみき辦等かん德壽とくじゅみや宿衛しゅくえいすめらぎじょう及宮もんほうつちのえとら大赦たいしゃみことのり宰相さいしょうりつ百官月兩朝德壽宮。おのれ,以即位そくいつげ於天宗廟そうびょう社稷しゃしょくかのえたつみことのりにち一朝いっちょう德壽とくじゅみや。以左たけ大夫たいふりゅう大淵おおふちため樞密すうみつふくうけたまわむねたけつばさろう曾覿たい器械きかいみずのとはじめ殿どのかぶとさるみことのり中外ちゅうがい庶陳時政ときまさ闕失。へいいぬみことのりしんおさむかんとうちょうみことのり以太上皇じょうこうもとにち一朝いっちょう自今じこんがつよんあさふく除名じょめい勒停じんえびす銓官、にょうしゅうおのれうしみことのり有司ゆうしがつたてまつ德壽とくじゅみや緡錢じゅうまんからしみことのりやめ四川しせんみずのえたつみことのり百官ひゃっかんいちにんいれたい癸巳きしいなごかぶとうまうえふとしじょう皇帝こうてい尊號そんごう曰光堯壽ひじりふとしじょう皇帝こうていふとしじょう皇后こうごう曰壽ひじりふとしじょう皇后こうごうおつみそかねじんほふはらしゅう
  9. ^ そう·まきさんじゅうさん 本紀ほんぎだいさんじゅうさん こう宗一そういち》:及元懿太子たいし薨,こうはじめゆうきさき,而昭慈圣けんじ皇后こうごうまた江西えにし还行ざいきさき尝感异梦,みつ为高むねごとこうはじめだい寤。かいみぎ仆射范宗尹むねただまたみやつこひざ以请,こうはじめ曰:“ふとし以神たけじょう天下でんか孙不とくとおる,遭时艰,零落れいらく悯。ちんわか不法ふほうじんむね,为天计,なに以慰在天ざいてん灵!”于是诏选ふとしきさきどう枢密院すうみついんごとかい曰:“艺祖以大わたし其子,发于いたり诚。陛下へいか为天远虑,ごう于艺以昭かく天命てんめい。”さん政事せいじ张守曰:“艺祖诸子,闻失とく,而传ふとしそう,过尧、しゅん远甚。”こうはじめ曰:“此事难行,ちん于'はく'ぎょうちゅう选择,庶几あきらきよし顺序。”而上おそれすすむ娄寅あきらまたうえ书言:“あきらりょうきさき寂寥せきりょう无闻,仅同みん庶。艺祖ざいうえ,莫肯顾歆,此金じん所以ゆえん悔祸也。もち陛下へいか于'はく'行内こうない选太诸孙ゆう贤德しゃ。”こうはじめ读之,だいかん叹。绍兴ねんがつ,选帝そだて于禁ちゅう
  10. ^ 呻吟しんぎん》:乞買とう金太きんたあさ嘗使汴京,其貌ぜっるいわがふと皇帝こうてい塑像そぞう
  11. ^ てい航海こうかい避敵。執政しっせい請每ぶねろくじゅう衛士えじにんとくりょうくち衛士えじみな曰:“わがゆう父母ちちははゆう妻子さいし不知ふち兩者りょうしゃ如何いかとめ?”……衛士えじちょうたからとうひゃく餘人よにんさえぎみちもん以欲じょう海舟かいしゅうなに往,いん不遜ふそん……みかどみつさとしおさむ曰:“此輩よく大事だいじちん今夕こんゆうふくちゅうぐんかぶとひゃくにん于後えんきょうとうつばさりつちゅうぐん入朝にゅうちょうためくびしゃ誅之。”……みかど便殿びんでん禦介胄,引伏へい,彎弓しゅはつちゅうにん,墜於。其眾駭懼,悉就とりこ
    內侍ゆうごと:“講讀こうどくかんぼうじんじきひね甚善,しんいまなずらえ獎諭詔書しょうしょ以進。”みかど曰:“此當出自しゅつじちんわかくだ詔書しょうしょゆう學士がくしなんじとうしょうしんあにむべ如此!もと妄言ぼうげん!”
    みかどさとし輔臣曰:“ちんごと退すさあさ,押班以下いかそうごとまたせい衣冠いかんさいすわ而聽,嘗與款昵。またせい喜與きよ婦人ふじんひさしょすわ殿しんがりつくりしょうごう筆硯ひっけんがいしつらえ長物ちょうぶつ靜思せいし軍國ぐんこく大事だいじある閱疏あきら宮人みやびとゆうらいそうごとしゃまたごう處分しょぶん畢而いれ每日まいにち如是にょぜ
    みかどさとし大臣だいじん曰:“ちんしょう閱天ごとにちゆうつねまい退すさあさ,閱群臣ぐんしん四方よもあきらかなでややひまそく讀書どくしょいたりさる而常ほどみな畢,乃習ばんそくふくらんとう匭封ごとにちにち如是にょぜ也。”
    みかど曰:“ちん嘗夜かん天象てんしょう惑星わくせいややしょくもとやめじゅうにち,須俟ふくぎょう軌道きどうとうふくつねぜん。”
    りゅう光世みつよ以枯秸生ためみずそうみかど曰:“としゆたかにんとぼししょくあさとくけん輔佐ほさぐん中有ちゅううじゅうまん鐵騎てっき,乃可ためみず,此外不足ふそくしんちんざい籓邸梁間はりまゆう芝草しばくさかんみなよく上聞じょうぶんちんしゅ碎之,よくせい此奇かいごと。”輔臣嘆服。
    りょ頤浩ごと:“きんいたり天竺てんじくいのりはれこんあめしょう霽,以上いじょうひろしせいおもんばか。”みかど曰:“ちん宮中きゅうちゅうまたそだてかいこ,此不おもんみこうとしごとまたよくとも女工じょこう艱難かんなん事事ことごとしつけん
    みかど曰:“さくかんちゅう進一しんいちこうしゃくいちすんくも人臣じんしんしょ敢乘。ちんこたえ以九重之しげゆきちゅう出入でいりなに所用しょようきょうとめため戰備せんび。”
    みかど曰:“げい以聖たけじょう天下でんか,而子孫しそんとくとおる,遭時艱,零落れいらく閔。ちんわかほうじんむねため天下でんかけいなん以慰在天ざいてんれい!”
    だいこく入貢にゅうこう且賣みかどさとし大臣だいじん曰:“れいうれ可也かなりすすむたてまつ勿許,やす其虛めい而勞みん乎!”しゅまさる曰:“こと廣西ひろせそうだい入貢にゅうこうことため鑒。”みかど曰:“遐方異域いいきなによしとくみのるかれくもしんたてまつ實利じつり賈販。だいれいそちしんあたりはたつぐなえ其馬じきとうあたいそくとうつぎいたり,庶可ぞうしょしょう騎兵きへい不為ふため無益むえき也。”
  12. ^ 金太きんたむね曰:s:大金たいきんちょうろく/まき04#さつだいひとし皇帝こうていぶん
  13. ^ そう·だかむね本紀ほんぎ页面そん档备份そん互联网档あん)》
  14. ^ 清高きよたかそうせい诗文全集ぜんしゅう》。いぬいたかしみかどこく爱诗げんこころざしきさきいぬいたかしじゅうねんとくげんすず,为庆贺だいどうどうとくせいいちしゅ:“八旬開袤春秋永,だいどうどうこん古稀こき古稀こきろくみかどさんとうはちしょひなそうはりしょ慕元。おもんみいたりもとしょういちだい杰,逊乾たかしせい孙。”,そくいにしえ以來いらいねん古稀こき(70岁)てき皇帝こうていただゆう6个(包括ほうかつ汉武みかどからげんむね明太めんたい),其中ただゆうさん个活过了80岁(そくりょうたけしみかどそうだかむねもと),ただし這之ちゅうわがただ敬仰けいぎょうもとゆるがせ必烈,而鄙えびすりょうたけしみかどそうだかむね。雖然もと也是いちだい豪傑ごうけつただし也比うえわが五代同堂的乾隆皇。
  15. ^ 沈冬うめ. 專制せんせい主義しゅぎてき魔力まりょく ──ひょうおう曾瑜《荒淫こういん無道むどうそうだかむね. 中國ちゅうごくまんねんもう. [2018-01-11]. (原始げんし内容ないようそん于2009-12-26). 
  16. ^ みなみそう·おうあきらきよし,《揮麈ろく餘話よわ》(まき1):“こうそうけんえんねんふゆたてやすし避狄,こう浙東。初度しょど錢塘ぜんどもいたりしょうさんゆうれつはい於道がわしゃ,揭其ぜんうん:「宗室そうしつちょうおとろえ以下いか起居ききょ。」じょう大喜だいぎ,顧左右さゆう曰:「ちょう如是にょぜわれ無慮むりょ焉。」みことのりおとろえすすむさんとうこれぎょう雖涉うみ往返,しか天下てんか此大てい矣。おとろえそくぜん俊之としゆきちち。此與太よたそうただし河東かわとうそうとしさち一也かずやせん御舟みふね槔工,またゆうちょうりつ、畢勝讖。”
  17. ^ そう俘記》
  18. ^ 链接至维基文库 しんでんけんえん以來いらい朝野ちょうや雜記ざっき. 维基ぶん ちゅうぶん. 明年みょうねん改元かいげん紹興しょうこう……(ねんなつれい懬始たてまつみことのりせんじょう及宗はくひろしにゅう禁中きんちゅうはくひろしゆたか而澤,うえきよし而癯,こうはじめはつあいはくひろしゆるがせ曰:「さら仔細しさいかん。」乃令にん並立ならびたてゆう貓過,はくひろし足蹴あしげうえ拱立如故,こうはじめ曰:「此兒輕易けいい乃爾,やすのうにんおもよこしま?」乃賜はくひろし白銀はくぎんさんひゃく两,やめこれ,而育じょう于張媫妤しょねんろくさい矣。……よんねんがつれい懬復とく秉義郎子いらつこ彦之はく玖入宫中,ねんさいこうはじめ以其さととし可愛かわいいのちくれ才人さいじんはは 
  19. ^ 《鄧氏妣: そうすめらぎしゅうとちょうひめじゅうおさむねんとくかん
  20. ^ よしけいかこえ[永久えいきゅう失效しっこう連結れんけつ]
  21. ^ 鄧族遷岑てき真實しんじつ年代ねんだい. [2008-12-15]. (原始げんし内容ないようそん于2009-01-29). 
そうこうはじめ
出生しゅっしょう于:1107ねん逝世於:1187ねん
統治とうちしゃあたま
前任ぜんにん
そう欽宗
ちょう
あに
宋朝そうちょう皇帝こうてい
1127ねん3がつ20日はつか-1129ねん4がつ1にち
つぎにん
もと太子たいし
ちょう

なえりゅうへいへん
しんあたま
やすし康之やすゆきそうしつみなみ
みなみそう皇帝こうてい
1127ねん3がつ20日はつか-1129ねん4がつ1にち
前任ぜんにん
もと太子たいし
ちょう

なえりゅうへいへん结束
宋朝そうちょう皇帝こうてい
1129ねん4がつ20日はつか-1162ねん7がつ24にち
つぎにん
そうたかしむね
赵昚
嗣子ししぞく
みなみそう皇帝こうてい
1129ねん4がつ20日はつか-1162ねん7がつ24にち
そらかけ
うえ一位持有相同頭銜者:
そう徽宗
宋朝そうちょうふとし上皇じょうこう
1162ねん7がつ24にち-1187ねん11月9にち