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佐賀藩 - Wikipedia

佐賀さがはん

肥前ひぜんこく所在しょざいしたはん
鍋島なべしまはんから転送てんそう

佐賀さがはん(さがはん)は、肥前ひぜんこく佐賀さがぐんにあった外様とざまはん肥前ひぜんはん(ひぜんはん)ともいう。鍋島なべしま藩主はんしゅであったことから鍋島なべしまはん(なべしまはん)とばれることもある。明治維新めいじいしん推進すいしんした薩長さっちょう土肥どいのひとつである。現在げんざい佐賀さがけん長崎ながさきけん一部いちぶにあたる。はんちょう佐賀さがじょう現在げんざい佐賀さが)にいた。

佐賀さがじょうしゃちもん
佐賀藩 外様 35万7千石の位置(日本内)
佐賀藩 外様 35万7千石
佐賀さがはん
外様とざま
35まん7せんせき
佐賀さがはん位置いち

藩主はんしゅははじめ龍造寺りゅうぞうじのち鍋島なべしま石高いしたかは35まん7せんせきささえはんとして蓮池はすいけはん小城おぎはん鹿島かしまはんがあった。

はんふみ

編集へんしゅう

鍋島なべしま龍造寺りゅうぞうじ家臣かしんであったが、龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶ戦死せんし義弟ぎていである鍋島なべしまただししげる領地りょうち継承けいしょうして成立せいりつした。はん成立せいりつもしばしば残存ざんそんする龍造寺りゅうぞうじ分家ぶんけとの対立たいりつがおきた(鍋島なべしま騒動そうどう)。この対立たいりつ構図こうずからまれたのが「佐賀さがねこ騒動そうどう」というはなしである。

佐賀さがはん成立せいりつ

編集へんしゅう
 
はん鍋島なべしまただししげる

天正てんしょう12ねん1584ねん)、龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶ島原半島しまばらはんとうにおいて島津しまつ有馬ありま連合れんごうぐんとのたたかいである沖田おきたなわてたたかはいした。その遺児いじであるせい補佐ほさやくとして実権じっけんにぎったのが、重臣じゅうしん一人ひとりであった鍋島なべしまただししげるである。天正てんしょう18ねん1590ねん)にはせいはいしてその高房たかふさ擁立ようりつちょくしげるはその後見人こうけんにんとして豊臣とよとみ秀吉ひでよしよりみとめられた。以後いご鍋島なべしま主家しゅか圧倒あっとうすることとなる。文禄・慶長ぶんろくけいちょうえき秀吉ひでよし関ヶ原せきがはらたたかにおいてもちょくしげる大将たいしょうとして参戦さんせんした。関ヶ原せきがはらでは西にしぐんくみしたが、おな西にしぐん立花たちばな宗茂むねしげ攻略こうりゃくすることで徳川とくがわ家康いえやすより所領しょりょう安堵あんどされた。

慶長けいちょう12ねん1607ねん)、江戸えどにおいて高房たかふさ急死きゅうしした。これには、鍋島なべしま実権じっけんにぎられて憤慨ふんがい失望しつぼうした高房たかふさが、つま殺害さつがいみずからものうとしたがたせず、そのときのきずがもとでのちにくなった、というせつがある。高房たかぼう死後しごわずか1かげつには、肥前ひぜん隠居いんきょしていたちちせい急死きゅうしした。高房たかぼうには遺児いじはくあん実弟じってい信清のぶきよ(のちの村田むらたあんりょう)・主膳しゅぜんがいたが、ちょくしげるいのちはくあん出家しゅっけするなどして龍造寺りゅうぞうじ本家ほんけ事実じじつじょうえ、隆信たかのぶ義兄弟ぎきょうだい関係かんけいにあったちょくしげるが、嫡男ちゃくなん勝茂かつしげ龍造寺りゅうぞうじ家督かとくがせるかたち佐賀さがはん35まん7せんせきにし、名実めいじつともに大名だいみょうとなった。せいのこりょう信清のぶきよぎ、佐賀さがはんでは龍造寺りゅうぞうじ本家ほんけとしてあつかわれたが、慶長けいちょう13ねん1608ねん4がつ4にちけでちょくしげる勝茂かつしげ忠誠ちゅうせいちか起請文きしょうもん提出ていしゅつ[1]鍋島なべしまによる領国りょうごく支配しはい確立かくりつした。

慶長けいちょう18ねん1613ねん)、幕府ばくふより勝茂かつしげ領地りょうち安堵あんど沙汰さたたことで、ようやく安泰あんたいをみた。

徳川とくがわ将軍家しょうぐんけは、勝茂かつしげ嫡子ちゃくし忠直ただなお以降いこう歴代れきだい藩主はんしゅに、松平まつだいら名字みょうじ将軍しょうぐん実名じつめいいち授与じゅよした[2]

江戸えど時代じだい佐賀さがはん

編集へんしゅう

佐賀さがはんは35まん7せんせきだいふうでありながらその実情じつじょうは、3ささえはん蓮池はすいけ小城おぎ鹿島かしま)・鍋島なべしま4庶流白石しらいし川久保かわくぼ村田むらた[3]久保田くぼた)と龍造寺りゅうぞうじ4分家ぶんけ多久たく武雄たけお諫早いさはや須古すこ)のかく自治領じちりょうがあったため、藩主はんしゅ実質じっしつ知行ちぎょうだかは6まんせき程度ていどであった。龍造寺りゅうぞうじ支配しはい体制たいせいいだため、龍造寺りゅうぞうじ一族いちぞく所領しょりょうもそのまま安堵あんどする必要ひつようがあったのである[4]。このため、幕府ばくふへの普請ふしんやくへの出費しゅっぴなどを理由りゆうに、家臣かしん領地りょうち3わり返上へんじょうさせる「さん上地じょうち」を2慶長けいちょう16ねん1611ねん)、元和がんわ7ねん1621ねん))実施じっしし、直轄ちょっかつりょう拡大かくだいおこなっている。1度目どめぜん家臣かしん[5]、2度目どめ龍造寺りゅうぞうじ4分家ぶんけ対象たいしょうとなった。また、龍造寺りゅうぞうじ4分家ぶんけさせた知行ちぎょうささえはんてたり、龍造寺りゅうぞうじ4分家ぶんけ養子ようしおくむなどして、徐々じょじょはん全体ぜんたい鍋島なべしまはかっていった。

当初とうしょは、鍋島なべしま一族いちぞく鍋島なべしませいさん鍋島なべしま外戚がいせき家門かもんである石井いしい鍋島なべしま石井いしい茂里もりらが藩政はんせい主導しゅどうしていたが、のちに多久たく諫早いさはや武雄たけお須古すこ龍造寺りゅうぞうじ4いえ藩政はんせい実権じっけんにぎってゆく。これは、藩政はんせい龍造寺りゅうぞうじ4いえ担当たんとうさせる一方いっぽう財政ざいせいめん責任せきにんらせようとした「勝茂かつしげしん巧妙こうみょう統治とうちさく」の結果けっかであるという[6]寛永かんえい11ねん1634ねん)、高房たかぼう遺児いじはくあん幕府ばくふ龍造寺りゅうぞうじ再興さいこううったえ、そのもたびたび訴訟そしょうこしたが、佐賀さがはん大勢おおぜい鍋島なべしま支配しはい支持しじしており、幕府ばくふはくあんうったえをげることはなかった。

2だい光茂みつしげつかえた山本やまもとつねあさ口述こうじゅつあらわした「武士ぶしどうとはぬこととつけたり」でられる『葉隠はがくれ聞書ききがき』は、佐賀さがはん精神せいしんてき支柱しちゅうとなった。

佐賀さがはん長崎ながさき程近ほどちかいため寛永かんえい18ねん江戸えど幕府ばくふより、参勤交代さんきんこうたい江戸えど在府ざいふ期間きかん通常つうじょうの2ねんのうち1ねんから、2ねんのうちやく3かげつめんじるわりに、福岡ふくおかはんと1ねん交代こうたいで、幕府ばくふりょうである長崎ながさき警備けいびめいじられ、その負担ふたん代々だいだいはん財政ざいせいおもくのしかかった。文化ぶんか5ねん1808ねん)、ナポレオン戦争せんそうにより、イギリスのフリゲふりげト艦とかん長崎ながさき侵入しんにゅうしてオランダ商館しょうかん引渡ひきわたしを要求ようきゅうするフェートンごう事件じけんこったが、佐賀さがはん無断むだん警備けいび人員じんいんらしていたため必要ひつよう対策たいさくがとれず、その不手際ふてぎわ幕府ばくふから叱責しっせきされる。また1828ねんシーボルト台風たいふう死者ししゃ1まんにんじゃく被害ひがいし、財政ざいせい破綻はたん寸前すんぜんおちいるなど、はんをとりまく状況じょうきょう悪化あっかした。

10代藩主はんしゅ直正なおまさ(閑叟)以降いこう藩政はんせい改革かいかく西洋せいよう技術ぎじゅつ摂取せっしゅつとめた。とくおおがかりなリストラをおこない、役人やくにんを5ぶんの2に削減さくげん農民のうみん保護ほご育成いくせい陶器とうきちゃ石炭せきたんなどの産業さんぎょう育成いくせい交易こうえきちからそそぎ、はん財政ざいせいうるおった。

幕末ばくまつ維新いしん佐賀さがはん

編集へんしゅう
 
だい10代藩主はんしゅ鍋島なべしま直正なおまさ(閑叟)
凌風丸りょうふうまるえがいた絵図えず作者さくしゃ鍋島なべしま直正なおまさまご鍋島なべしまただしうつ画像がぞうひだり)と戊辰戦争ぼしんせんそう活躍かつやくしたとされる佐賀さがはんせいのアームストロングほう画像がぞうみぎ

鍋島なべしま直正なおまさ精錬せいれんかたという科学かがく技術ぎじゅつ研究けんきゅう機関きかん創設そうせつし、鉄鋼てっこう加工かこう技術ぎじゅつ大砲たいほう蒸気じょうき機関きかん電信でんしん、ガラスなどの研究けんきゅう開発かいはつ生産せいさんおこない、幕末ばくまつにおけるもっと近代きんだいされたはんひとつとなった。長崎ながさき警備けいびともにしていた福岡ふくおかはんともにいちはや牛痘ぎゅうとうワクチン輸入ゆにゅうし、嫡子ちゃくしちょくだい種痘しゅとうほどこすことで普及ふきゅうつとめ、当時とうじ不治ふじやまいであった天然痘てんねんとう根絶こんぜつげる先駆さきがけになった(ちなみに秋月しゅうげつはんはんである緒方おがたはるついたちが、ジェンナー牛痘ぎゅうとうほう成功せいこうにさかのぼること6ねんまえ秋月しゅうげつだい庄屋しょうや天野あまの甚左衛門えもん子供こどもたちにひと種痘しゅとうほうほどこ成功せいこうさせている)。よしみひさし2ねん1849ねん)に日本にっぽん最初さいしょ製鉄せいてつしょ完成かんせいさせた。黒船くろふね来航らいこう前年ぜんねんにあたる1852ねんには、築地つきじ反射はんしゃ本格ほんかくてき稼動かどうさせる。黒船くろふね来航らいこう半年はんとしまえプチャーチンひきいるロシア使節しせつだん長崎ながさき寄港きこうし、模型もけい蒸気じょうき機関きかんしゃ披露ひろうする。この公開こうかいから情報じょうほうもとに、精錬せいれんかたのトップエンジニアである石黒いしぐろひろし中村なかむら田中たなか久重くしげらが蒸気じょうき機関きかんしゃ蒸気じょうきせん製造せいぞうこころみ、成功せいこうしている(蒸気じょうき機関きかんしゃ模型もけい現在げんざい鉄道てつどう記念きねんぶつ制定せいていされている)。1853ねん幕府ばくふ大船おおふな建造けんぞうきん緩和かんわすると、オランダに軍艦ぐんかん発注はっちゅうした。また、領内りょうない三重みえ海軍かいぐんしょ設置せっちして、安政あんせい年間ねんかんには西洋せいようしき蒸気じょうきせん建造けんぞう計画けいかくをたて、慶応けいおう元年がんねん1865ねん)には日本にっぽん最初さいしょ実用じつよう蒸気じょうきせん凌風丸りょうふうまる」を進水しんすいさせ、有明海ありあけかいない要人ようじん輸送ゆそう活用かつようしている。1855ねん長崎ながさき海軍かいぐん伝習でんしゅうしょつくられると、学生がくせい派遣はけんした。慶応けいおう2ねん1866ねん)には当時とうじ最新さいしん兵器へいきであるアームストロングほうをほぼ自力じりき完成かんせいさせたとしょうし、はん洋式ようしきぐん配備はいびした。アームストロングほう製造せいぞう事実じじつについては異論いろんがあるが、アームストロングほう製造せいぞう成功せいこう言及げんきゅうしているのは、からくりみぎ衛門えもんこと田中たなか久重くしげであるためまった根拠こんきょがないわけではない(アームストロングほう参照さんしょう)。そのよんきんほう製造せいぞう実用じつよう成功せいこうし、のち品川しながわ台場だいばほどこされた砲台ほうだいにも利用りようされた。

 
佐賀さが鍋島なべしまはん屋敷やしきあと石碑せきひ京都きょうと下京しもぎょう

軍政ぐんせい改革かいかくについて、文久ぶんきゅう3ねん1862ねん)9がつと10がつ評議ひょうぎおこない、従来じゅうらいの「あずかわたし」・「体制たいせい解体かいたいして洋式ようしき銃砲じゅうほうたい編成へんせい指向しこうした。しかしだいいち長州ちょうしゅう戦争せんそう家臣かしんだん編成へんせい不備ふび体験たいけんし、慶応けいおう元年がんねん1865ねん)に実戦じっせんそくした以下いか軍政ぐんせい改革かいかくおこなった。

  • だいぐみ体制たいせいを16だいぐみ体制たいせいから13だいぐみ体制たいせい移行いこうし、長崎ながさき警備けいび偏重へんちょうじゅつぐみ中心ちゅうしん編成へんせいから、ぜんだいぐみ平均へいきんてき増強ぞうきょうはかった。
  • ちょくしん陪臣ばいしん区別くべつくし、ぜん家臣かしんだんじゅつねりじゅくじゅうじんほう採用さいようめいじ、だい組頭くみがしら相談役そうだんやくとしてくみ肝煎きもいりかくだいぐみ設置せっちして統制とうせい強化きょうかした。
  • 領内りょうない在地ざいち小身しょうしん家臣かしんについて、伊万里いまり白石はくせき三根みね山辺やまべじゅつ稽古けいこじょうもうけてじゅうたい訓練くんれん充実じゅうじつはかった
  • 海軍かいぐんについて、船方ふなかたふねしゅかれていた仕組しくみ統合とうごうして実戦じっせんきの体制たいせいとした。

だい長州ちょうしゅう戦争せんそうでは筑前ちくぜんまで出陣しゅつじんしたが、実戦じっせん体験たいけんしなかった。慶応けいおう2ねん1866ねん)から3ねん1867ねん)にかけて兵力へいりょく増強ぞうきょうはかったが、これは長州ちょうしゅうはんなどがのうしょうたい編成へんせいしたのにたいし、佐賀さがはんではさむらいあかりやり足軽あしがる次男じなん三男さんなんからの増強ぞうきょうはかり、家臣かしんだんによる統制とうせいりょくたもったまま軍事ぐんじりょくたかめたことに特徴とくちょうがあった[7]

このように一貫いっかんして当時とうじ日本にっぽんにおける産業さんぎょう革命かくめい推進すいしんしてきた佐賀さがはんは、パリ万国博覧会ばんこくはくらんかい (1867ねん)出展しゅってんするなど、日本にっぽん有数ゆうすう軍事ぐんじりょく技術ぎじゅつりょくほこったが、中央ちゅうおう政局せいきょくたいしては姿勢しせい明確めいかくにすることなく、大政奉還たいせいほうかん王政おうせい復古ふっこまで静観せいかんつづけた。また、藩士はんし藩士はんしとの交流こうりゅうきんじ、国内こくないでもめずらしい「鎖国さこくはん」といわれた。しかし1867ねんには、藩主はんしゅちょくだいしん政府せいふから北陸ほくりくどう先鋒せんぽう任命にんめいされて、佐賀さがはんへい戊辰戦争ぼしんせんそう参加さんかするために東上とうじょう江戸えどにおける上野うえの戦争せんそうなどでたたかい、その結果けっか明治めいじ政府せいふ多数たすう人物じんぶつ登用とうようされた。明治維新めいじいしん推進すいしんさせた人物じんぶつ輩出はいしゅつしたはん薩長さっちょう土肥どいかぞえられ、副島そえじま種臣たねおみ江藤えとう新平しんぺい大隈おおくま重信しげのぶ大木おおき喬任たかとう佐野さの常民じょうみんらが活躍かつやくした。また田中たなか久重くしげひとしはん有能ゆうのう人材じんざい積極せっきょくてき重用じゅうようし、日本にっぽん近代きんだい貢献こうけんした。だが、江藤えとう新平しんぺいしま義勇よしたけ明治めいじ7ねん1874ねん)に佐賀さがらんこし処刑しょけいされている。

明治めいじ4ねん(1871ねん)、廃藩置県はいはんちけんにより佐賀さがけんとなった。藩主はんしゅ鍋島なべしま明治めいじ2ねん華族かぞくれっし、明治めいじ17ねん(1884ねん)の華族かぞくれい侯爵こうしゃくじょせられた。

歴代れきだい藩主はんしゅ

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龍造寺りゅうぞうじ

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外様とざま 35まん7000せき(1600ねん - 1607ねん

だい 氏名しめい 肖像しょうぞう 官位かんい 在職ざいしょく期間きかん 享年きょうねん 備考びこう
1 龍造寺りゅうぞうじ高房たかぼう
りゅうぞうじ たかふさ
  したがえ
駿河するがまもる
天正てんしょう15ねん - 慶長けいちょう12ねん
1590ねん - 1607ねん
22 事実じじつじょう藩主はんしゅ龍造寺りゅうぞうじせい
実権じっけん家老がろう鍋島なべしまただししげる

鍋島なべしま

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外様とざま 35まん7000せき(1607ねん - 1871ねん

だい 氏名しめい 肖像しょうぞう 官位かんい 在職ざいしょく期間きかん 享年きょうねん 備考びこう
1 鍋島なべしま勝茂かつしげ
なべしま かつしげ
  したがえ
したがえよん
信濃しなのまもる
侍従じじゅう
慶長けいちょう12ねん - あかりれき3ねん
1607ねん - 1657ねん
78 龍造寺りゅうぞうじから藩主はんしゅ継承けいしょう
2 鍋島なべしま光茂みつしげ
なべしま みつしげ
  したがえよん
丹後たんごもり
侍従じじゅう
あかりれき3ねん - 元禄げんろく8ねん
1657ねん - 1695ねん
69
3 鍋島なべしまつなしげる
なべしま つなしげ
  したがえよん
信濃しなのまもる
侍従じじゅう
元禄げんろく8ねん - 宝永ほうえい3ねん
1695ねん - 1706ねん
56
4 鍋島なべしまよししげる
なべしま よししげ
  したがえよん
丹後たんごもり
侍従じじゅう
宝永ほうえい3ねん - とおる15ねん
1706ねん - 1730ねん
65 神代かみしろから復帰ふっき
5 鍋島なべしま宗茂むねしげ
なべしま むねしげ
  したがえよん
信濃しなのまもる
飛騨ひだもり
侍従じじゅう
とおる15ねん - もとぶん3ねん
1730ねん - 1738ねん
69 神代かみしろから復帰ふっき
6 鍋島なべしま宗教しゅうきょう
なべしま むねのり
  したがえよん
丹後たんごもり
侍従じじゅう
もとぶん3ねん - たかられき10ねん
1738ねん - 1760ねん
63
7 鍋島なべしま重茂おもえ
なべしま しげもち
  したがえよん
信濃しなのまもる
侍従じじゅう
たかられき10ねん - 明和めいわ7ねん
1760ねん - 1770ねん
38
8 鍋島なべしまおさむしげる
なべしま はるしげ
  したがえよん
肥前ひぜんもり
侍従じじゅう
ひだり近衛このえけん少将しょうしょう
明和めいわ7ねん - 文化ぶんか2ねん
1770ねん - 1805ねん
61 鹿島かしまはんから転出てんしゅつ
9 鍋島なべしまひとしただし
なべしま なりなお
  したがえよん
肥前ひぜんもり
侍従じじゅう
文化ぶんか2ねん - 天保てんぽう元年がんねん
1805ねん - 1830ねん
60
10 鍋島なべしまひとしただし
なべしま なりまさ
  したがえよん
肥前ひぜんもり
侍従じじゅう
大納言だいなごん
議定ぎてい
開拓かいたく長官ちょうかん
天保てんぽう元年がんねん - 文久ぶんきゅう元年がんねん
1830ねん - 1861ねん
58
11 鍋島なべしま茂実しげみ
なべしま もちざね
  せい
肥前ひぜんもり
信濃しなのまもる
侍従じじゅう
侯爵こうしゃく
文久ぶんきゅう元年がんねん - 明治めいじ4ねん
1861ねん - 1871ねん
76

明治めいじ以降いこう鍋島なべしま当主とうしゅ

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  1. ちょくうつ
  2. ちょくやすし
  3. ちょくよう
  4. ちょくあきら

家臣かしんだん

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佐賀さがはん家臣かしんだん序列じょれつは、「さんいえ」・「親類しんるい」・「親類しんるい同格どうかく」・「家老がろう」・「着座ちゃくざ」・「どくれい」・「さむらい」・「あかりやり」(※ほんはんささえはん蓮池はすいけはんのみ)・「徒士かち(歩行ほこう)」・「足軽あしがる」となっている。これ以外いがいにも、上級じょうきゅう家臣かしん主従しゅうじゅう関係かんけいゆうする陪臣ばいしん被官ひかんといった身分みぶん存在そんざいし、小禄ころくさむらいや、あかりやり以下いか日常にちじょうのう商業しょうぎょう従事じゅうじして生活せいかついとなんでいた。佐賀さが城下じょうか町人ちょうにん地図ちずに、苗字みょうじった商人しょうにん散見さんけんされるのはこのためである。

上級じょうきゅう家臣かしんだん

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  1. さんいえ蓮池はすいけ鍋島なべしま小城おぎ鍋島なべしま鹿島かしま鍋島なべしまさんささえはん
  2. 親類しんるい白石しらいし鍋島なべしま川久保かわくぼ鍋島なべしま村田むらた鍋島なべしま村田むらた
  3. 親類しんるい同格どうかく龍造寺りゅうぞうじよんいえ諫早いさはや多久たく武雄たけお鍋島なべしま須古すこ鍋島なべしま
  4. 家老がろうよこだけ鍋島なべしま石井いしい)・神代かみよ鍋島なべしま深堀ふかほり鍋島なべしま姉川あねがわ鍋島なべしま太田おおた鍋島なべしまくらまち鍋島なべしま
  5. 着座ちゃくざ納富のうとみ鍋島なべしま山代やましろ鍋島なべしま鍋島なべしまひだり太夫たゆう石井いしい成富なりとみ岡部おかべ伊万里いまり鍋島なべしま坂部さかべ千葉ちば岩村いわむら中野なかの大木たいぼく執行しっこう深江ふかえなどおおむね18いえ前後ぜんこう

さんいえさんささえはん

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親類しんるい

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親類しんるい同格どうかく

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鍋島なべしまきゅう主筋しゅうすじである、龍造寺りゅうぞうじ一門いちもん当初とうしょは「親類しんるい」としていたが、1699ねん村田むらた以外いがいあらたに「親類しんるい同格どうかく」となり、「親類しんるい」とはけた。

  • 諫早いさはや肥前ひぜん諌早いさはやりょう2まん6201せきものなり10480せき)・龍造寺りゅうぞうじ一門いちもん維新いしん男爵だんしゃく
龍造寺りゅうぞうじはれ龍造寺りゅうぞうじかんけん)-諫早いさはや直孝なおたかしげるけいしげるしん茂門しげとしげもと茂門しげとおとうと)=茂晴しげはる鍋島なべしま白石はくせきちょく堯のつましげもとむすめ)-茂行しげゆきくだりこう茂成しげなりくだりこうおとうと)=しげ茂成しげなりおとうと)-(けいてる)(やまいにて家督かとくがず)-しげるひろししげるたかししげるまごしげるたかしおとうと)=武春たけはるしげるたかし)=いちがくしげるまごおとうと
  • 多久たく肥前ひぜん多久たくりょう2まん1735せきものなり8694せき)・龍造寺りゅうぞうじ一門いちもん維新いしん男爵だんしゃく
龍造寺りゅうぞうじ長信ながのぶ龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶおとうと)-多久たくやすしじゅん=(しげるとみ)(龍造寺りゅうぞうじひとし)-しげるたつしげるのり茂文しげふみ鍋島なべしま光茂みつしげよんなん)=しげむら小城おぎ藩主はんしゅ鍋島なべしまもとつま茂文しげふみむすめ)
=茂明しげあき鍋島なべしま須古すこしげるきよし須古すこ鍋島なべしま相続そうぞく多久たく相続そうぞくつま茂文しげふみむすめ)-しげるしげるこうしげるしげるこうおとうと)-しげるきよししげぞく 
  • 武雄たけお鍋島なべしま肥前ひぜん武雄たけおりょう2まん1600せきものなり8640せき)・龍造寺りゅうぞうじ一門いちもん維新いしん男爵だんしゃく
後藤ごとう龍造寺りゅうぞうじ家信かしん龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶ)-鍋島なべしましげるつな茂和しげかず茂紀しげき茂正しげまさ茂昭しげあき茂正しげまさおとうと)-茂明しげあきしげじゅん茂義しげよししげるあきら
龍造寺りゅうぞうじしんしゅう龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶ異母弟いぼてい)-信昭のぶあき鍋島なべしましげるしゅう正辰まさとき茂俊しげとししげるきよし茂明しげあき須古すこ鍋島なべしま相続そうぞく多久たく相続そうぞく)=しげぞくしげるきよしおとうと)-しげるくんしげるりんしげるしげるしんしげる曹のおとうと)=しげるしん鍋島なべしまひとしただしじゅうよんなん)-しげるあさ
鍋島なべしましげるさと石井いしい信忠のぶただ鍋島なべしまただししげる婿養子むこようし)-しげむね-たけきょう-しげるきよしちょくろう鍋島なべしまもとしげる次男じなん)-茂和しげかず-しげおやしげのべ鍋島なべしまくらまちけいぶん)-茂明しげあき
  • 神代かみよ鍋島なべしま藩主はんしゅ一族いちぞく肥前ひぜん神代かみよりょう6263せきものなり2500せき)・重臣じゅうしん
鍋島なべしま信房のぶふさ鍋島なべしまただししげるあに)-しげるあきら-しげるさだ-かさみ就-茂樹しげき-しげるかい-しげえい-しげきょう-しげしん-しげたい-しげ堯-しげるしげひつじさるしげるおとうと)=しげもと鍋島なべしまひとしただし
深堀ふかほりじゅんけん鍋島なべしましげるけん石井いしい信忠のぶただ鍋島なべしましげるさとおとうと)-茂里もり-茂春しげはる-茂久しげひさ-しげるあつし-しげひね-しげみやび-しげのり-しげちょう-しげくん
  • くらまち鍋島なべしま佐賀さがはんない5075せきものなり2030せき)・重臣じゅうしん
鍋島なべしま時重ときしげ鍋島なべしまきよしとら)-さだむら-ちょくひろ-しげむら-しげるたかし-敬意けいいけいちか鍋島なべしま川久保かわくぼちょく贇の)-つねひろ-たかしたけし-たかしたかし-けいぶん-けい哉=文武ぶんぶ鍋島なべしまひとしただしじゅうろくなん
  • 姉川あねがわ鍋島なべしま藩主はんしゅ一族いちぞく肥前ひぜんはんない5051せきものなり2021せき)・重臣じゅうしん
鍋島なべしまきよしとら鍋島なべしまただししげる従兄弟いとこ)-生三いくさんみちとら)-しげるやすし-せいりょう-しんちょう清信きよのぶ多久たくしげるのり)=茂之しげゆき別名べつめいしげるたかし鍋島なべしま光茂みつしげじゅうろくなん)-しげおや-しげ徂-しげきょうせいひさし鍋島なべしましげるじゅん)=せいかおる
太田おおたしげるれんたいいん石井いしいむすめ婿むこ鍋島なべしま勝茂かつしげ義兄ぎけい)-しげとし-鍋島なべしましげるさだ-茂晴しげはる-しげどう-さだゆかり-しげちょうさだちょうしげちょうおとうと)-しげのう-しげつねしげきょう多久たくしげる)=しげのり多久たくしげるこう)=しげるかい鍋島なべしまひとしただしじゅうきゅうなん

着座ちゃくざ

編集へんしゅう
  • 山代やましろ鍋島なべしま肥前ひぜん芦原あしはらりょう・2250せき
鍋島なべしましげるさだ嵯峨さがはじめ後裔こうえい山代やましろじき)-かたきょう-授-しんけん-やす-つぎ-こう-ただし
  • 納富のうとみ鍋島なべしま譜代ふだい・1500せき
納富のうとみちょうあきら龍造寺りゅうぞうじしんしゅう)-こうあらわ-
石井いしいただししげる鍋島なべしまただししげる正室せいしつたいいん大叔父おおおじちょくしげる従兄じゅうけい)=茂利しげとしこうたけ長門ながとまもる鍋島なべしまただししげめい婿むこ)-しげるきよし-こうなり-つねたつ-つねなお-つねあずか-こうきよし-こう-こうおこり-こうひろしこう鍋島なべしましげるたつ)-孝善たかよし
  • 成富なりとみ譜代ふだい・1500せき
成富なりとみしげるやす=長利ながとしたいいん石井いしいまご鍋島なべしま勝茂かつしげおい)=しげ陛(龍造寺りゅうぞうじしげけい)-たねひろし-たねつね-たねとく-たね-たねはく-種美かねとみ-たねめずらし-濶
鍋島なべしまたねしんじ千葉ちばたねれん鍋島なべしまただししげる義兄ぎけい)-つねさだ鹿しかこう茂次しげじ二男じなん)-常治つねじ-つねはん=常成つねなりつねさだ
  • 鍋島なべしまひだり太夫たゆう藩主はんしゅ一族いちぞく・1500せき
  • 岡部おかべ藩主はんしゅ外戚がいせき・1250せき
  • 岡部おかべ藩主はんしゅ外戚がいせき・625せき
  • 大木たいぼく(775せき
  • 坂部さかべ(1000せき
  • 執行しっこう(750せき
  • 多久たく(1000せき
  • 伊万里いまり鍋島なべしま(925せき
  • 中野なかの(637.5せき
  • 中野なかの(500せき
  • 成松なりまつ(500せき
  • 原田はらだ(625せき
  • 深江ふかえ(750せき
  • 岩村いわむら(750せき

家臣かしんだん特質とくしつ

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旧主きゅうしゅ龍造寺りゅうぞうじ一族いちぞく藩政はんせいへの関与かんよ
龍造寺りゅうぞうじせい高房たかぼう父子ふし没後ぼつごも、龍造寺りゅうぞうじ一族いちぞく健在けんざいであり、領内りょうないにおいて広大こうだい所領しょりょうゆうしていた。龍造寺りゅうぞうじけいかくいえは、豊臣とよとみ秀吉ひでよし九州きゅうしゅうこくりのさいに、直接ちょくせつ秀吉ひでよしから朱印しゅいんじょう下付かふされていたため、かれらには、「領地りょうち太閤たいこう殿下でんかより直々じきじき安堵あんどされたもので、鍋島なべしまからあたえられたものではない」という意識いしきつよかった。それら一族いちぞくは、鍋島なべしま藩政はんせいのもと、重臣じゅうしんとして藩政はんせい左右さゆうする枢要すうようにあったが、鍋島なべしま遠慮えんりょして、龍造寺りゅうぞうじせいあらためている。村田むらた諫早いさはや多久たく武雄たけお鍋島なべしま須古すこ鍋島なべしまはいずれも龍造寺りゅうぞうじ一族いちぞくである。
あかりやり
龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶ全盛期ぜんせいき北九州きたきゅうしゅう一帯いったいだい小名しょうみょう包括ほうかつして家臣かしんだんがにわかに拡大かくだい形成けいせいされたが、天正てんしょう12ねん(1584ねん)の沖田おきたなわてたたかいにおける隆信たかのぶ横死おうしにより、龍造寺りゅうぞうじ勢力せいりょく衰退すいたいし、支配しはい大幅おおはば減少げんしょうせた。にもかかわらず、初期しょき家臣かしんだんをそのまま維持いじしていたため、おおきな財政ざいせい負担ふたんになりつつあった。そこで初代しょだい藩主はんしゅ鍋島なべしま勝茂かつしげは、知行ちぎょう50せき以下いかさむらい知行ちぎょうやくとし、蔵米くらまいからろく支給しきゅうすることにした。
ただし戦時せんじさいには、やり一本いっぽん具足ぐそくいちりょう軍役ぐんえきになうこととされた。後年こうねんいたっては、「あかりやり」でもしょやくにんじられるようになった。
地方ちほう知行ちぎょうせい
佐賀さがはんでは、戦国せんごく時代じだい領国りょうごく支配しはい形態けいたい色濃いろこのこしており、幕末ばくまつまで、家臣かしんおおくは知行ちぎょうち、そこから独自どくじ年貢ねんぐ徴収ちょうしゅう軍役ぐんえきそなえをおこない、家来けらいやしなっていた。しかし、藩政はんせい時代じだい後期こうきは、はん財政ざいせい逼迫ひっぱくにより、知行取ちぎょうとりから切米きりまいりのさむらいえた。
上級じょうきゅう家臣かしんについては、「だい配分はいぶん」としょうされ、ほんはん統一とういつ支配しはいではなく、知行ちぎょうぬし自治じちおこなわれていた。

藩校はんこう

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おもはん関係かんけいしゃ出身しゅっしん人物じんぶつ

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大隈おおくま重信しげのぶ
 
江藤えとう新平しんぺい

はいはん以降いこう人物じんぶつ佐賀さがけん出身しゅっしん人物じんぶつ一覧いちらん参照さんしょう

幕末ばくまつ領地りょうち

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佐賀さがはんりょう肥前ひぜんこく

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上記じょうきのほか、明治維新めいじいしんのち釧路くしろこく釧路くしろぐん川上かわかみぐん厚岸あっけしぐんせん島国しまぐに振別ふるべつぐん管轄かんかつしたが、のち振別ふるべつぐん仙台せんだいはん移管いかんされた。

蓮池はすいけはんりょう

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小城おぎはんりょう

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鹿島かしまはんりょう

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 久保田くぼたまち』「 むら田家たや成立せいりつ - 『久保田くぼたまち久保田くぼたまちへんさん委員いいんかい久保田くぼたまち市町村しちょうそん合併がっぺいにより佐賀さがサイトで公開こうかい
  2. ^ 村川むらかわ浩平こうへい日本にっぽん近世きんせい武家ぶけ政権せいけんろん近代きんだい文芸ぶんげいしゃ、2000ねん
  3. ^ 龍造寺りゅうぞうじ本家ほんけとしてあつかわれたが、鍋島なべしま養子ようしむかえてからは藩主はんしゅ親類しんるいとしてのあつかいがつよくなった。
  4. ^ その一方いっぽうで、龍造寺りゅうぞうじ一族いちぞく鍋島なべしまをはばかって相次あいついで改姓かいせいし、1608ねんにははんないひょうだって龍造寺りゅうぞうじせい名乗なのるものはいなくなった。
  5. ^ ただし村田むらた例外れいがいとされた。
  6. ^ 佐賀さがだいかん近世きんせいいち 佐賀さがはん成立せいりつ p.15(佐賀さがへんさん委員いいんかい
  7. ^ 藤野ふじのたもつ佐賀さがはん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん
  8. ^ 川副かわそえ荘太そうた田郷たごう出身しゅっしん太田おおただかまごしょうするもと龍造寺りゅうぞうじけんつかえ、のち竜造寺りゅうぞうじけい家臣かしん同様どうよう鍋島なべしま家臣かしんまれた。しげれんしつ鍋島なべしまただししげる養女ようじょ
  9. ^ タイムスクープハンター(NHK総合そうごう1ch 11:30~0:00)2013ねん5がつ25にち放送ほうそうぶん だい7『サムライたちの受験じゅけん戦争せんそう番組ばんぐみない説明せつめい

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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先代せんだい
肥前ひぜんこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1613ねん - 1871ねん 佐賀さがはん佐賀さがけん
次代じだい
伊万里いまりけん