「ダイダラボッチ」の版 間 の差分
43 |
43 |
||
* [[ |
* [[ |
||
* |
* |
||
* |
* |
||
* |
* |
2021年 4月 2日 (金) 16:21時点 における版
ダイダラボッチは、
概要
名称
「でいだらぼっち[4]」、「ダイランボウ[5]」、「だいだらぼう[6]」、「でいらんぼう[7]」、「だいらぼう[8]」、「デエダラボッチ[9]」、「デイラボッチ[8]」、「デイラボッチャ[10]」、「デーラボッチャ[10]」、「デエラボッチ[11]」、「デーラボッチ[12]」、「タイタンボウ[2]」(
文献
常陸 国 風土記
《口語 解釈 例 》 ※振 り仮名 は口語 体 。[ ]内 は文意 を整 えるための補足 文 。( )内 の※に続 く記述 は注釈 。
[の 常陸 国 にある 那賀 郡 交通 の要衝 ・]から 平津 駅 家 西 へ一 二 もしくは1 里 里 ・2里 ほど行 った所 [* 2]に( 岡 丘 )があり、名 を「大櫛 (おおくし)」という。大昔 、[この地 に]人 がいた。[その人 の]は 体 極 めてで、 長大 岡 の上 にいながらにして手 は海浜 の蜃 を掘 り起 こしてしまう。[それほどの巨人 であった。][ここでいう蜃 とは]である(※『うむき(蜃、 大 蛤 蛤 )』はハマグリの古語 )[* 3]。その[巨人 の]食 べた貝 [の殻 ]は、積 もり積 もって岡 になった。当時 の人 (※現代 〈すなわち、奈良 時代 〉の我々 から見 て大昔 の人々 )は[“大量 の貝 が朽 ちている”意 をもって、この岡 を]「大 朽 (おおくち)」と呼 んだが、[それが訛 って]今 は「大櫛 之 岡 (おおくしのおか)」という(※比定 地 は。その 大串 貝塚 所在地 は、現在 の茨城 県 水戸 市 塩崎 町 1064-1[* 4]、かつての東茨城 郡 常澄 村 塩崎 [18][* 5])。その[巨人 の]足跡 は、おおよそ、長 さ40歩 あまり、幅 20歩 あまりで、尿 の穴 (※立 ち小便 によって穿 たれた穴 )は直径 20歩 あまりであった。
播磨 国 風土記
各地 の伝承
山 を作 る・運 ぶ
富士山 を作 るため、甲州 の土 を取 って土盛 りした。そのため甲州 は盆地 になった[27]。富士山 を作 るため近江 の土 を掘 り、その掘 った跡地 が琵琶湖 となった[15]。この伝説 の縁 で1968年 に富士宮 市 と近江八幡 市 は夫婦 都市 となっている[15]。上 州 の榛名富士 を土盛 りして作 り、掘 った後 は榛名湖 となった。榛名富士 が富士山 より低 いのは、もう少 し土 を運 ぼうとしたが夜 が明 け、途中 でやめたためである[28]。浅間山 が、自分 より背 の高 い妹 の富士山 に嫉妬 し、土 を自分 にわけろといった。富士山 は了解 し、だいだらぼっちが自分 の前掛 けで土 を運 んだ。しかし浅間 山 は土 の量 が足 りないと怒 り、彼 を叩 いた。その際 にこぼれた土 が前掛山 となった。怒 りだした浅間山 はついに噴火 してしまった。西 の富士 、東 の筑波 と呼 ばれる関東 の名山 の重 さを量 ろうとし天秤棒 に2つの山 を結 わえつけ持 ち上 げると、筑波山 のほうは持 ち上 がったが富士山 は持 ち上 がらない。そのうちに結 わえていたつるが切 れ、筑波 山 が地上 に落 ちてしまった。その衝撃 でもともと1つの峰 だった筑波山 は、2峰 になってしまったという。信州 佐久 郡 で土 を運 んでいた時 、もっこの綱 が切 れ、平尾 山 と糠塚山 ができた[29]。富士山 と八ヶ岳 が背 比 べをして、八ヶ岳 が勝 ったが、それを妬 ましく思 った富士山 に蹴 られ、山 が八 つに割 れた。それを治 そうとデエダラボッチが茅 で出来 たもっこで土 を運 び、線香 を杖 にしたら折 れてしまい、暫 く置 いておいたら大泉 山 と小泉 山 が出来 た(諏訪 地方 、茅野 市 )。信州 安曇 郡 で西側 の飛騨山脈 から削 り取 った土 を東側 の山地 に運 んでいた時 、もっこの綱 が切 れ、室山 ができた。
足 あと・手 のあとを残 す
上 州 の赤城山 に腰掛 けて踏 ん張 ったときに窪 んで出来 た足跡 が水 たまりになった。木部 の赤沼 がそれである[27]。長野 県 大町 市 北部 の青木湖 、中綱湖 、木崎湖 からなる仁科 三 湖 はいずれもダイダラボッチの足 あとである。遠 州 の山奥 に住 んでいたダイダラボッチが子供 たちを手 にのせて歩 いている時 に、腰 くらいの高 さの山 をまたいだ拍子 に子供 たちを手 から投 げ出 してしまった。びっくりした子供 たちとダイダラボッチは泣 き出 してしまい、手 をついてできた窪 みに涙 が流 れ込 んで浜名湖 となった。現在 、東京 都 世田谷 区 にある地名 「代田 」(だいた)や[2]、さいたま市 の「太田窪 」(だいたくぼ)は、ダイタ坊 (ダイダラボッチ、ダーダラボッチ)の足跡 に由来 すると言 われている。[30] なお、代田 のダイダラボッチについては2021.3.28日 に小田急 線 世田谷 代田 駅前 にダイダラボッチをかたどった駅前 広場 が完成 した。これを記念 して当日 づけで「巨人 伝説 読本 代田 のダイダラボッチ」(著作 きむらけん発行 世田谷 代田 駅 駅前 広場 記念 事業 委員 会 )が発行 された。「代田 ダイダラボッチ音頭 」も作曲 された。[31]
長野 県 戸隠山 の大座法師池 、三重 県 志摩 郡 の大王 町 はダイダラボッチに由来 する地名 である[13]。静岡 市 のだいらぼう山頂 には全長 150mほどの窪 みがあるが、ダイダラボッチが左足 を置 いた跡 と伝 えられている。琵琶湖 から富士山 へ土 を運 ぶ途中 に遺 したものであるという。相模原 市 の伝説 ではデイラボッチと呼 ばれ、富士山 を持 ち上 げ違 う場所 に運 ぶ途中 、疲 れたので、富士山 に乗 っかり休 んだところそこにまた根 が生 えてしまいもちあげようとするが、持 ち上 がらずそのときふんばった所 が今 の鹿沼 公園 であるという。また、相模原 市 南 区 に「大沼 ・小沼 」の地名 が残 るが、かつて実在 したこの二 つの沼 はデイラボッチが尻餅 をついた跡 であり、その間 に「ふんどし窪 」という溝 状 のくぼ地 があったという伝承 もある。小便 をしようと飯野山 (香川 県 中部 )に足 をかけた際 に山頂 付近 に足跡 が付 いた(現在 もその跡 であるという伝説 の足跡 が残 っているが非常 に小 さい)。なお、その小便 の際 に出来 たのが大束川 といわれる。愛知 県 東海 市 の南側 に加木屋 町 陀々法師 (だだぼうし)という地名 があり、ダイダラボッチが歩 いて移動 する際 に出来 た足跡 が池 になったとして伝説 が残 っている。この「足跡 池 」(「陀々法師 池 」ともいう)は名古屋鉄道 八幡新田 駅 の南方 100m辺 りにあったが、1986~7年 (昭和 61~62年 )頃 に埋 め立 てられ(ゼンリン住宅 地図 「東海 市 」1986年 発行 の1986年版 、1987年 発行 の1988年版 による)、2000年 (平成 12年 )頃 にモータースが出来 て、現在 その形跡 はない(「ものがたり通信 」の「18.ダイダラボッチの足跡 」参照 )。長野 県 佐久 市 安原 にある二 つの丸 い水田 は、デーラン坊 の足跡 だと言 われる[32]。
休 む・洗 う・食 べる
赤城山 に腰掛 けて、利根川 で足 を洗 った[33]。羽黒山 には人間 がまだ誕生 しない大昔 、でいだらぼっちが羽 黒山 に腰掛 けて鬼怒川 で足 を洗 ったというい伝 えがある。長野 県 塩尻 市 の高 ボッチ高原 はダイダラボッチが腰 を下 ろして一休 みした場所 であるという(諸説 あり)。- 「
常陸 国 風土記 」によると、茨城 県 水戸 市 東部 にある大串 貝塚 は、ダイダラボッチが貝 を食 べて、その貝殻 を捨 てた場所 だと言 われている。そのい伝 えから、近 くにダイダラボッチの巨大 な石像 が創 られている。[34] 碓氷峠 で休 んでいる時 に、足 が妙義山 まで届 き、その足 の指 を猪 が芋 と間違 えかじったので、猪 を握 り潰 して浅間山 で猪 鍋 を煮 た。なお、鍋 をこぼした場所 から塩気 のある温泉 が湧 いたと言 う[35]。
人間 を助 ける
秋田 県 の横手盆地 が湖 であったので干拓 事業 を行 った際 、ダイダラボッチが現 れて水 をかき、泥 を掬 ったため工事 がはかどった(鳥 の海 の干拓 伝説 )[36]。このダイダラボッチは秋田 市 の太平山 三吉 神社 の化身 と考 えられている[36]。太平山 及 び山麓 の太平 地区 の名 は現在 「たいへい」と読 まれるが、明治 期 までは「おいだら」と読 まれており、由来 を巨 人 「オイダラボッチ」であるとする説 (秋田 の今 と昔 )がある。
茨城 県 水戸 市 大足 (おおだら)は、土地 の西南 にあった山 のおかげで村 は一 日 の半分 は日陰 になり、日 が早 く暮 れてしまい困 っていた。そこでダイダラボッチ(この地方 ではダイダラボウと呼称 )は村人 のために山 をどけてあげた。しかし、山 をどけた跡 の土地 がえぐれてしまい、雨 が溜 まるようになったので、川 をつくり沼 底 をさらって水 が流 れるようにした。どけた山 は水戸 市 ・笠間 市 ・東茨城 郡 城 里 町 に跨 がる朝房山 、作 った川 と沼 は桜川 、千波湖 である[38]。
参考 文献
柳田 ,国男 『妖怪 談義 』講談社 、1977年 。ISBN 406158135X。 NCID BN04293132。OCLC 33519725。
脚注
注釈
- ^ (
柳田 1977)の「じんだら沼 記事 」(『妖怪 談義 』所収 )にて相模原 市 大沼 に調査 に行 ったとの記述 あり。その地 ではダイダラボッチの伝説 は無 かったと落胆 しているが、ダイダラボッチ伝説 があるのは北 に5キロメートルほどずれた鹿沼 であった。 - ^ 「
一 二 (いちに)」は「わずか」の意 。従 って「一 二 里 」は「里 の単位 でわずかな距離 」の意 。しかし「一 二 里 」を「1・2里 」の意 で捉 えれば、具体 的 距離 を示 すものとなり、古代 日本 の1里 は約 5.3km、2里 は約 10.7kmと、数値 を割 り出 すことができる。 - ^
市井 の娯楽 本 やインターネット上 の記述 で、本文 中 の「蜃」を妖怪 の「蜃(しん)」と関連付 けるものが見 られるが、ここで語 られている「蜃(うむき、うむぎ)」は実体 があって食用 にされる貝類 の「蛤 (うむき、うむぎ)」、すなわち「蛤 (はまぐり)」のことであって、妖怪 ではない。 - ^
水戸 市 塩崎 町 1064-1(地図 - Google マップ - ^
江戸 時代 における常陸 国 茨城 郡 塩 ヶ崎 村 、幕 藩 体制 下 の常 州 水戸 藩 知行 等 塩 ヶ崎 村 。 - ^
大 鼠 が岩鼻 を食 い破 ったことで湖水 が排水 されたとする伝説 もある(『日本 伝説 叢書 信濃 の巻 』157 - 159ページ)。
出典
- ^
宮本 幸枝 ・熊谷 あづさ『日本 の妖怪 の謎 と不思議 』学習研究社 〈GAKKEN MOOK〉、2007年 、89頁 頁 。ISBN 978-4-05-604760-8。 NCID BA81963861。 - ^ a b c d 『
妖怪 の本 』学習研究社 、1999年 、92,98頁 。92頁 の挿絵 (加賀 国 河北 郡 木越 の光林寺 跡 で大 太 法師 の足跡 を見物 する人々 )の出典 は『古今 角 偉 談 』巻 之 二 の「大 足跡 と大 足跡 との角 偉 」 - ^ 「ダイダラ
坊 の足跡 」 - ^ “でいだらぼっち”. さがみはら
百 選 . シニアネット相模原 . 2011年 2月 13日 閲覧 。 - ^
井ノ口 章次 他 編 「静岡 県 庵原 郡 両 河内 村 」『民俗 採訪 』昭和 29年度 号 、國學院大學 民俗 学 研究 会 、1955年 、109頁 、NCID BN13889905。 - ^
村上 健司 編著 『日本 妖怪 大 事典 』角川書店 〈Kwai books〉、2005年 、195-196頁 頁 。ISBN 978-4-04-883926-6。 - ^
和田 孝 弌. “「信濃 でぃらんぼう音 舞 」普及 保存 会 ホームページ”.信濃 でぃらんぼう音 舞 普及 保存 . 2011年 2月 13日 閲覧 。 - ^ a b
宮田 登 著 「諸国 の富士 と巨人 伝説 」、斉藤 滋 与 史 他 編 編 『静岡 県 史 24民俗 2』静岡 県 、1993年 、957-964頁 。 - ^
竹川 義徳 「節分 の行事 」『民間 伝承 』5巻 6号 、民間 伝承 の会 、1940年 3月 、5頁 。 - ^ a b
高木 直子 他 著 「その他 の伝説 」、塚田 正 朋 他 編 編 『長野 県 史 民俗 編 』 3巻 3号 、長野 県 、1990年 、483-484頁 。 - ^
中村 成文 「大 太 法師 伝説 四 種 」『郷土 研究 』4巻 7号 、郷土 研究 社 、1916年 10月 、50-51頁 。 - ^
井田 安雄 著 「群馬 の伝説 の代表 例 」、志村 彦衛他 編 編 『群馬 県 史 資料 編 27民俗 3』群馬 県 、1982年 、773頁 。 - ^ a b c d e f
村上 健司 『妖怪 事典 』毎日新聞社 、2000年 、206,207,226頁 。 - ^ 『
佐久 口碑 伝説 集 南佐久 編 限定 復刻 版 』発行 者 長野 県 佐久 市 教育 委員 会 全 332頁 中 105~7頁 昭和 53年 9月 20日 発行 - ^ a b c “
富士山 へ注 ぐ琵琶湖 の水 くむ滋賀 ・近江八幡 、伝説 が結 ぶ”.京都 新聞 . (2014年 7月 24日 ) 2014年 7月 25日 閲覧 。 - ^
衣 袖 漬 常陸 國 風土記 香 島 郡 /那賀 郡 - ^
那珂川 沿岸 農業 水利 事業 所 . “さらに詳 しく大串 貝塚 と巨人 伝説 ”.公式 ウェブサイト.関東 農政 局 . 2019年 5月 20日 閲覧 。 - ^ a b “
大串 貝塚 ”. コトバンク. 2019年 5月 20日 閲覧 。 - ^
鷹野 光行 (博物館 学者 、東北 歴史 博物館 館長 ). “第 3回 館長 講座 『縄 紋 時代 の研究 史 明治 時代 以前 と大森 貝塚 』” (PDF).公式 ウェブサイト.東北 歴史 博物館 、宮城 県 . p. 1. 2019年 5月 20日 閲覧 。 - ^
古典 のテキストについて :文学 研究 におけるテキ スト論 [PDF]三重大学 学術 機関 リポジトリ研究 教育 成果 コレクション - ^
小田 勝 『日本語 史 要 講 』2008年 - Google "上古 有人 " - ^ “
大串 貝塚 ”.小学館 『日本 大 百科全書 :ニッポニカ』. コトバンク. 2019年 5月 20日 閲覧 。 - ^ “
大串 貝塚 ”.講談社 『国 指定 史跡 ガイド』. コトバンク. 2019年 5月 20日 閲覧 。 - ^ “
大串 貝塚 ”. 『ブリタニカ国際 大 百科 事典 小 項目 事典 』. コトバンク. 2019年 5月 20日 閲覧 。 - ^ “
大串 貝塚 ”.小学 館 『精選 版 日本 国語 大 辞典 』. コトバンク. 2019年 5月 20日 閲覧 。 - ^
衣 袖 漬 常陸 國 風土記 託 賀 郡 /賀 毛 郡 /美嚢 郡 針 間 播磨 國 風土記 託 賀 郡 - ^ a b
安部 晃司 他 著 、人文 社 編集 部 編 編 『日本 の謎 と不思議 大全 東日本 編 』人文 社 〈ものしりミニシリーズ〉、2006年 、122頁 頁 。ISBN 978-4-7959-1986-0。 - ^ 『
日本 の民話 20上 州 の民話 第 一 集 』1959年 、140~4頁 (榛名 の大男 )未來社 - ^ 『
佐久 口碑 伝説 集 北佐久 編 限定 復刻 版 』発行 者 長野 県 佐久 市 教育 委員 会 全 434頁 中 219頁 昭和 53年 11月15日 発行 - ^ 『
代田 のダイダラボッチ』(きむらけん著 )北沢 川 文化 遺産 保存 の会 紀要 第 5号 2017年 /『浦和 市 史 民俗 編 』浦和 市 総務 部 市 史 編 さん室 昭和 55年 、793頁 。 - ^ “
代田 ダイダラボッチ音頭 =”. 2021年 3月 28日 閲覧 。 - ^ 『
佐久 口碑 伝説 集 北佐久 編 限定 復刻 版 』発行 者 長野 県 佐久 市 教育 委員 会 、全 434頁 中 218頁 、昭和 53年 11月15日 発行 。 - ^
草野 巧 『幻想 動物 事典 』新 紀元 社 、1997年 、190頁 。 - ^ “
大串 貝塚 ふれあい公園 (埋蔵 文化財 センター)”.水戸 市 (2013年 4月 2日 ). 2017年 4月 17日 閲覧 。 - ^ 『
佐久 口碑 伝説 集 北佐久 編 限定 復刻 版 』発行 者 長野 県 佐久 市 教育 委員 会 、全 434頁 中 216頁 、昭和 53年 11月15日 発行 。 - ^ a b
秋田 の昔話 ・伝説 ・世間 話 口承 文芸 検索 システム鳥 の海 の干拓 - ^ 『
佐久 口碑 伝説 集 南佐久 編 限定 復刻 版 』発行 者 長野 県 佐久 市 教育 委員 会 、全 332頁 中 105頁 、昭和 53年 9月 20日 発行 。 - ^
今 瀬 文也 「「ダイダラ坊 」考 」『茨城 の民俗 』第 31号 、茨城 民俗 学会 、1992年 12月、36-46頁 。