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「ダイダラボッチ」のはんあいだ差分さぶん

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* [[長野ながのけん]][[大町おおまち]]北部ほくぶの[[青木湖あおきこ]]、[[中綱湖なかつなこ]]、[[木崎湖きざきこ]]からなる[[仁科にしなさん]]はいずれもダイダラボッチのあしあとである。
* [[長野ながのけん]][[大町おおまち]]北部ほくぶの[[青木湖あおきこ]]、[[中綱湖なかつなこ]]、[[木崎湖きざきこ]]からなる[[仁科にしなさん]]はいずれもダイダラボッチのあしあとである。
* とおしゅう山奥やまおくんでいたダイダラボッチが子供こどもたちをにのせてあるいているときに、こしくらいのたかさのやまをまたいだ拍子ひょうし子供こどもたちをからしてしまった。びっくりした子供こどもたちとダイダラボッチはしてしまい、をついてできたくぼみになみだながんで[[浜名湖はまなこ]]となった。
* とおしゅう山奥やまおくんでいたダイダラボッチが子供こどもたちをにのせてあるいているときに、こしくらいのたかさのやまをまたいだ拍子ひょうし子供こどもたちをからしてしまった。びっくりした子供こどもたちとダイダラボッチはしてしまい、をついてできたくぼみになみだながんで[[浜名湖はまなこ]]となった。
* 現在げんざい、[[東京とうきょう]][[世田谷せたがや]]にある地名ちめい「[[代田しろた (世田谷せたがや)|代田しろた]]」(だいた)や{{r|Y}}、[[さいたま]]の「[[太田窪だいたくぼ]]」(だいたくぼ)は、ダイタぼう(ダイダラボッチ、ダーダラボッチ)の足跡あしあと由来ゆらいするとわれている。<ref>『代田しろたのダイダラボッチ』(きむらけんちょ北沢きたざわがわ文化ぶんか遺産いさん保存ほぞんかい紀要きようだいごう 2017ねん/『浦和うらわ民俗みんぞくへん浦和うらわ総務そうむへんさんしつ 昭和しょうわ55ねん、793ぺーじ。</ref> なお、代田しろたのダイダラボッチについては2021.3.28にちに[[小田急おだきゅうせん]]世田谷せたがや代田だいだ駅前えきまえにダイダラボッチをかたどった駅前えきまえ広場ひろば完成かんせいした。これを記念きねんして当日とうじつづけで「巨人きょじん伝説でんせつ読本とくほん 代田しろたのダイダラボッチ」(著作ちょさく きむらけん 発行はっこう 世田谷せたがや代田だいだえき 駅前えきまえ広場ひろば記念きねん事業じぎょう委員いいんかい)が発行はっこうされた。「代田しろたダイダラボッチ音頭おんど」も作曲さっきょくされた。<ref>{{Cite web |title =代田しろたダイダラボッチ音頭おんど=|accessdate=2021-03-028| url =//https://www.youtube.com/watch?=liKqjjoN218}}</ref>
* 現在げんざい、[[東京とうきょう]][[世田谷せたがや]]にある地名ちめい「[[代田しろた (世田谷せたがや)|代田しろた]]」(だいた)や{{r|Y}}、[[さいたま]]の「[[太田窪だいたくぼ]]」(だいたくぼ)は、ダイタぼう(ダイダラボッチ、ダーダラボッチ)の足跡あしあと由来ゆらいするとわれている。<ref>『代田しろたのダイダラボッチ』(きむらけんちょ北沢きたざわがわ文化ぶんか遺産いさん保存ほぞんかい紀要きようだいごう 2017ねん/『浦和うらわ民俗みんぞくへん浦和うらわ総務そうむへんさんしつ 昭和しょうわ55ねん、793ぺーじ。</ref> なお、代田しろたのダイダラボッチについては2021.3.28にちに[[小田急おだきゅうせん]]世田谷せたがや代田だいだ駅前えきまえにダイダラボッチをかたどった駅前えきまえ広場ひろば完成かんせいした。これを記念きねんして当日とうじつづけで「巨人きょじん伝説でんせつ読本とくほん 代田しろたのダイダラボッチ」(著作ちょさく きむらけん 発行はっこう 世田谷せたがや代田だいだえき 駅前えきまえ広場ひろば記念きねん事業じぎょう委員いいんかい)が発行はっこうされた。「代田しろたダイダラボッチ音頭おんど」も作曲さっきょくされた。<ref>{{Cite web |title =代田しろたダイダラボッチ音頭おんど=|accessdate=2021-03-28| url =https://www.youtube.com/watch?v=liKqjjoN218}}</ref>


* 長野ながのけん[[戸隠山とがくしやま]]の[[大座法師池だいざほうしいけ]]、[[三重みえけん]][[志摩しまぐん (三重みえけん)|志摩しまぐん]]の[[大王だいおうまち]]はダイダラボッチに由来ゆらいする地名ちめいである{{r|YJ}}。
* 長野ながのけん[[戸隠山とがくしやま]]の[[大座法師池だいざほうしいけ]]、[[三重みえけん]][[志摩しまぐん (三重みえけん)|志摩しまぐん]]の[[大王だいおうまち]]はダイダラボッチに由来ゆらいする地名ちめいである{{r|YJ}}。

2021ねん4がつ2にち (金)きん 16:21時点じてんにおけるはん

勝川かちがわはるあきら勝川かちがわはるえい怪談かいだんひゃくおに図会ずえ』より「大入道おおにゅうどう」。ダイダラボッチのイメージにちかいものとかんがえられている[1]

ダイダラボッチは、日本にっぽん各地かくち伝承でんしょうされる巨人きょじん類似るいじ名称めいしょう数多かずおお存在そんざいするが、以下いかでは便宜べんぎてきにダイダラボッチと呼称こしょうする。さん湖沼こしょうつくったという伝承でんしょうおおく、元々もともとくにづくりかみたいする巨人きょじん信仰しんこうがダイダラボッチ伝承でんしょうんだとかんがえられている(おに大男おおおとこなどの妖怪ようかい伝承でんしょう巨人きょじん伝承でんしょうになったというせつもある。)[2]

概要がいよう

柳田やなぎだ國男くにおが「ダイダラぼう足跡あしあと」(1927ねん昭和しょうわ2ねん4がつ、『中央公論ちゅうおうこうろん』)[3]日本にっぽん各地かくちからあつめたダイダラボッチ伝説でんせつ考察こうさつしており[* 1]、ダイダラボッチは「大人おとな(おおひと)」を意味いみする「だい太郎たろう」に法師ほうし付加ふかした「だい太郎たろう法師ほうし」で、一寸法師いっすんぼうし反対はんたい意味いみであるとしている。

名称めいしょう

「でいだらぼっち[4]」、「ダイランボウ[5]」、「だいだらぼう[6]」、「でいらんぼう[7]」、「だいらぼう[8]」、「デエダラボッチ[9]」、「デイラボッチ[8]」、「デイラボッチャ[10]」、「デーラボッチャ[10]」、「デエラボッチ[11]」、「デーラボッチ[12]」、「タイタンボウ[2]」(藤澤ふじさわ衛彦もりひこ巨人きょじん伝説でんせつこう」、『日本にっぽん伝説でんせつ研究けんきゅうだいさんかん所収しょしゅう。ただし、石川いしかわ県立けんりつ図書館としょかん調査ちょうさによれば、能登のと地方ちほうに「たいたんぼう」という呼称こしょうつかっていない。藤澤ふじさわ創作そうさく可能かのうせいがある)、「デエデエボウ[13]」、「デイデンボメ[13]」(高木たかぎ敏雄としお日本にっぽん伝説でんせつしゅう』)(柳田やなぎだ国男くにお「ダイダラぼう足跡あしあと」には「デンデンボメ」とあるが、出典しゅってんは『日本にっぽん伝説でんせつしゅう』であり、明白めいはく誤記ごきである。したがって、「デンデンボメ」は実在じつざいしない呼称こしょうである。『定本ていほん柳田やなぎだ国男くにおしゅう5』311ぺーじ参照さんしょう)、「ダイトウボウシ[13]」、「レイラボッチ[13]」、「ダダほし[13]」、「おおきいぼちゃぼちゃ」[14]。 ひとし様々さまざまがある。だいふとし法師ほうし(だいだらぼっち)[15]だい太郎坊たろうぼう(だいだらぼう)とも表記ひょうきし、九州きゅうしゅうでは大人おとな弥五郎やごろう(おおひとやごろう)とばれる[2]

文献ぶんけん

常陸ひたちこく風土記ふどき

奈良なら時代じだい成立せいりつした『常陸ひたちこく風土記ふどき』のうち、常陸ひたちこく那賀なかぐんなかのこおり[16])(現在げんざい茨城いばらきけん那珂なかぐんなかぐん〉)についてしるされた「那賀なが略記りゃっき」には、以下いかのとおり、大昔おおむかしの「大櫛おおくしおか(おおくしのおか)」にいたという長大ちょうだいひとについての記述きじゅつ平津ひらつえきじょう)がある。[17][18][19][20][21]

 はら ぶん 》 縮小しゅくしょう文字もじ原本げんぽんじょう補足ほそく。※和字わじ間隔かんかく現代げんだい補足ほそく
平津ひらつえき家西いえにしいちさと 有岡ありおか めい大櫛おおくし 上古じょうこ有人ゆうじん たいごく長大ちょうだい きょおか壟之じょう 摎海濱之はまのだいはまぐり 其所しょくかい せき成岡なるおか 時人じじん だいくちこれ いまいいだいくしおか 其踐あと ちょう卌餘 こう廿にじゅう 尿にょうあなみち廿にじゅうもと — 『常陸ひたちこく風土記ふどき那賀なが略記りゃっき
くだぶん》 仮名がな文語ぶんごたい
平津ひらつえきひらつのうまや西にしいちいちにさとおかをかあり。大櫛おおくしおほくしふ。上古じょうこいにしへひとあり。からだかたちごくきはめて長大ちょうだいたけたかく、おかをかうえうへきょながら、海浜かいひんうみべたうむきくじりぬ。だいはまぐりおほうむき なりしょくらひしかいかひせきつもりておかをかなりなりき。時人じじんときのひとだいくちおほくちよしこころりて、いま大櫛おおくしおかおほくしのをかいいふ。そのみしあとあとは、ながしじふ あしあまりひろ廿にじゅうにじふ あしあまり尿にょうあなゆまりのあなみちわたり 廿にじゅうにじふ あしあまり もとばかりなり。
口語こうご解釈かいしゃくれい》 仮名がな口語こうごからだ。[ ]ない文意ぶんいととのえるための補足ほそくぶん。( )ないの※につづ記述きじゅつ注釈ちゅうしゃく
常陸ひたちこくひたちのくに那賀なかぐんなかのこおりにある交通こうつう要衝ようしょう・]平津ひらつえきひらつのうまやから西にしいちいちにさともしくは1・2さとほどったところ[* 2]おかおかおか)があり、を「大櫛おおくし(おおくし)」という。大昔おおむかし、[このに]にんがいた。[そのひとの]からだからだきわめて長大ちょうだいちょうだいで、おかうえにいながらにして海浜かいひんうむきこしてしまう。[それほどの巨人きょじんであった。][ここでいううむきとは]だいはまぐりおおうむきである(※『うむき(蜃、はまぐり)』はハマグリ古語こご[* 3]。その[巨人きょじんの]べたかい[のから]は、もりもっておかになった。当時とうじひと(※現代げんだい〈すなわち、奈良なら時代じだい〉の我々われわれから大昔おおむかし人々ひとびと)は[“大量たいりょうかいちている”をもって、このおかを]「だいくち(おおくち)」とんだが、[それがなまっていまは「大櫛おおくしおか(おおくしのおか)」という(※比定ひてい大串おおぐし貝塚かいづかおおぐし かいづか。その所在地しょざいちは、現在げんざい茨城いばらきけん水戸みと塩崎しおがさきまち1064-1[* 4]、かつての東茨城ひがしいばらきぐん常澄つねずみむら塩崎しおざき[18][* 5])。その[巨人きょじんの]足跡あしあとは、おおよそ、ながさ40あまり、はば20あまりで、尿にょうあな(※小便しょうべんによって穿うがたれたあな)は直径ちょっけい20あまりであった。

考古学こうこがくひとししょ分野ぶんやにおいても、かかる「大櫛おおくしおか巨人きょじん伝説でんせつ」とその比定ひてい大串おおぐし貝塚かいづか相当そうとう重要じゅうようで、縄文じょうもん時代じだい貝塚かいづか遺跡いせき文献ぶんけんしるされている最古さいこれい[22][23]、もっとえば、石器せっき時代じだい遺跡いせき記録きろくされた日本にっぽん最古さいこれい[24][25]としてられている。

播磨はりまこく風土記ふどき

奈良なら時代じだい成立せいりつした『播磨はりまこく風土記ふどき』ののうち、播磨はりまこくたくぐんたかのこおり)(現在げんざい兵庫ひょうごけん多可たかぐんたかぐん〉)についてしるされた「たく略記りゃっき」には、てんたかいかららくってあるけるとってこのこのみ、ぬま数多すうた足跡あしあとのこした、大人おとな(おおひと)の伝説でんせつしるされており、先述せんじゅつした『常陸ひたちこく風土記ふどき』に所収しょしゅうされている“大櫛おおくしおか巨人きょじん伝説でんせつ”(大櫛おおくしおか長大ちょうだいひと伝説でんせつ)の類型るいけいかんがえられている。

 はら ぶん 》 縮小しゅくしょう文字もじ原本げんぽんじょう補足ほそく。※和字わじ間隔かんかく現代げんだい補足ほそく
みぎ 當為とういじょう 所以ゆえんめい たくしゃ むかし ざい大人おとな つね勾行也 南海なんかいいた北海ほっかい ひがし巡行じゅんこうとき 到來とうらい此土うん 卑者 つね勾伏而行 此土だかしゃ さる而行 こうたくぐん 此云 だかさる 伸也しんや 其踰あとしょ すうすうなりぬま — 『播磨はりまこく風土記ふどきたく略記りゃっき [26]
《 だい  》 
むかし、[播磨はりまこくはりまのくにの]たくぐんたかのこおりには大人おとなおおひと(※巨人きょじん)がいた。[大人おとなは]つねかがんであるいた。[大人おとなは]南海なんかいから北海ほっかいいたり、ひがしめぐってこのにやってきたとき、「は[てんが]ひくくてつねかがんであるいていたが、このは[てんが]たかくてまっすぐってあるける」とった。それゆえに、このを「タカ(こう)」のをもって「たくぐん」という。[大人おとなの]足跡あしあと数々かずかずぬまになった。

各地かくち伝承でんしょう

やまつくる・はこ

  • 富士山ふじさんつくるため、甲州こうしゅうって土盛どもりした。そのため甲州こうしゅう盆地ぼんちになった[27]
  • 富士山ふじさんつくるため近江おうみり、そのった跡地あとち琵琶湖びわことなった[15]。この伝説でんせつえん1968ねん富士宮ふじのみや近江八幡おうみはちまん夫婦ふうふ都市としとなっている[15]
  • うえしゅう榛名富士はるなふじ土盛どもりしてつくり、ったのち榛名湖はるなことなった。榛名富士はるなふじ富士山ふじさんよりひくいのは、もうすこはこぼうとしたがよるけ、途中とちゅうでやめたためである[28]
  • 浅間山あさまやまが、自分じぶんよりたかいもうと富士山ふじさん嫉妬しっとし、自分じぶんにわけろといった。富士山ふじさん了解りょうかいし、だいだらぼっちが自分じぶん前掛まえかけではこんだ。しかし浅間あさまさんりょうりないといかり、かれたたいた。そのさいにこぼれた前掛山まえかけさんとなった。いかりだした浅間山あさまやまはついに噴火ふんかしてしまった。
  • 西にし富士ふじひがし筑波つくばばれる関東かんとう名山めいざんおもさをはかろうとし天秤棒てんびんぼうに2つのやまわえつけげると、筑波山つくばさんのほうはがったが富士山ふじさんがらない。そのうちにわえていたつるがれ、筑波つくばさん地上ちじょうちてしまった。その衝撃しょうげきでもともと1つのみねだった筑波山つくばさんは、2ほうになってしまったという。
  • 信州しんしゅう佐久さくぐんはこんでいたときもっこつなれ、平尾ひらおさん糠塚山ぬかづかやまができた[29]
  • 富士山ふじさん八ヶ岳やつがたけくらべをして、八ヶ岳やつがたけったが、それをねたましくおもった富士山ふじさんられ、やまやっつにれた。それをなおそうとデエダラボッチがちがや出来できたもっこではこび、線香せんこうつえにしたられてしまい、しばらいておいたら大泉おおいずみさん小泉こいずみさん出来できた(諏訪すわ地方ちほう茅野ちの)。
  • 信州しんしゅう安曇あずみぐん西側にしがわ飛騨山脈ひださんみゃくからけずった東側ひがしがわ山地さんちはこんでいたとき、もっこのつなれ、室山むろやまができた。

あしあと・のあとをのこ

  • うえしゅう赤城山あかぎやま腰掛こしかけてったときにくぼんで出来でき足跡あしあとみずたまりになった。木部きべ赤沼あかぬまがそれである[27]
  • 長野ながのけん大町おおまち北部ほくぶ青木湖あおきこ中綱湖なかつなこ木崎湖きざきこからなる仁科にしなさんはいずれもダイダラボッチのあしあとである。
  • とおしゅう山奥やまおくんでいたダイダラボッチが子供こどもたちをにのせてあるいているときに、こしくらいのたかさのやまをまたいだ拍子ひょうし子供こどもたちをからしてしまった。びっくりした子供こどもたちとダイダラボッチはしてしまい、をついてできたくぼみになみだながんで浜名湖はまなことなった。
  • 現在げんざい東京とうきょう世田谷せたがやにある地名ちめい代田しろた」(だいた)や[2]さいたまの「太田窪だいたくぼ」(だいたくぼ)は、ダイタぼう(ダイダラボッチ、ダーダラボッチ)の足跡あしあと由来ゆらいするとわれている。[30] なお、代田しろたのダイダラボッチについては2021.3.28にち小田急おだきゅうせん世田谷せたがや代田だいだ駅前えきまえにダイダラボッチをかたどった駅前えきまえ広場ひろば完成かんせいした。これを記念きねんして当日とうじつづけで「巨人きょじん伝説でんせつ読本とくほん 代田しろたのダイダラボッチ」(著作ちょさく きむらけん 発行はっこう 世田谷せたがや代田だいだえき 駅前えきまえ広場ひろば記念きねん事業じぎょう委員いいんかい)が発行はっこうされた。「代田しろたダイダラボッチ音頭おんど」も作曲さっきょくされた。[31]
  • 長野ながのけん戸隠山とがくしやま大座法師池だいざほうしいけ三重みえけん志摩しまぐん大王だいおうまちはダイダラボッチに由来ゆらいする地名ちめいである[13]
  • 静岡しずおかのだいらぼう山頂さんちょうには全長ぜんちょう150mほどのくぼみがあるが、ダイダラボッチが左足ひだりあしいたあとつたえられている。琵琶湖びわこから富士山ふじさんはこ途中とちゅうのこしたものであるという。
  • 相模原さがみはら伝説でんせつではデイラボッチとばれ、富士山ふじさんちが場所ばしょはこ途中とちゅうつかれたので、富士山ふじさんっかりやすんだところそこにまたえてしまいもちあげようとするが、がらずそのときふんばったところいま鹿沼かぬま公園こうえんであるという。また、相模原さがみはらみなみに「大沼おおぬま小沼おぬま」の地名ちめいのこるが、かつて実在じつざいしたこのふたつのぬまはデイラボッチが尻餅しりもちをついたあとであり、そのあいだに「ふんどしくぼ」というみぞじょうのくぼがあったという伝承でんしょうもある。
  • 小便しょうべんをしようと飯野山いいのやま香川かがわけん中部ちゅうぶ)にあしをかけたさい山頂さんちょう付近ふきん足跡あしあといた(現在げんざいもそのあとであるという伝説でんせつ足跡あしあとのこっているが非常ひじょうちいさい)。なお、その小便しょうべんさい出来できたのが大束川だいそくがわといわれる。
  • 愛知あいちけん東海とうかい南側みなみがわ加木屋かぎやまち陀々法師ほうし(だだぼうし)という地名ちめいがあり、ダイダラボッチがあるいて移動いどうするさい出来でき足跡あしあといけになったとして伝説でんせつのこっている。この「足跡あしあと」(「陀々法師ほうし」ともいう)は名古屋鉄道なごやてつどう八幡新田はちまんしんでんえき南方なんぽう100mあたりにあったが、1986~7ねん昭和しょうわ61~62ねんごろてられ(ゼンリン住宅じゅうたく地図ちず東海とうかい」1986ねん発行はっこうの1986年版ねんばん、1987ねん発行はっこうの1988年版ねんばんによる)、2000ねん平成へいせい12ねんごろにモータースが出来できて、現在げんざいその形跡けいせきはない(「ものがたり通信つうしん」の「18.ダイダラボッチの足跡あしあと参照さんしょう)。
  • 長野ながのけん佐久さく安原やすはらにあるふたつのまる水田すいでんは、デーランぼう足跡あしあとだとわれる[32]

やすむ・あらう・べる

人間にんげんたすける

  • むかしひがし信濃しなのみずうみそこだったが、デイラボッチは「岩鼻いわはな」というやまくだすい排出はいしゅつし、平地ひらちつくった。それから、その土地とちを、大佐おおさひさ南北なんぼく佐久さく)と小佐しょうさひさししょうけん)とうようになった[37][* 6]
  • 茨城いばらきけん水戸みと大足おおあし(おおだら)は、土地とち西南せいなんにあったやまのおかげでむらいちにち半分はんぶん日陰ひかげになり、にちはやれてしまいこまっていた。そこでダイダラボッチ(この地方ちほうではダイダラボウと呼称こしょう)は村人むらびとのためにやまをどけてあげた。しかし、やまをどけたあと土地とちがえぐれてしまい、あめまるようになったので、かわをつくりぬまそこをさらってみずながれるようにした。どけたやま水戸みと笠間かさま東茨城ひがしいばらきぐんしろさとまちまたがる朝房山あさぼうやまつくったかわぬま桜川さくらがわ千波湖せんばこである[38]

参考さんこう文献ぶんけん

  • 柳田やなぎだ, 国男くにお妖怪ようかい談義だんぎ講談社こうだんしゃ、1977ねんISBN 406158135XNCID BN04293132OCLC 33519725 

脚注きゃくちゅう

注釈ちゅうしゃく

  1. ^ (柳田やなぎだ 1977)の「じんだらぬま記事きじ」(『妖怪ようかい談義だんぎ所収しょしゅう)にて相模原さがみはら大沼おおぬま調査ちょうさったとの記述きじゅつあり。そのではダイダラボッチの伝説でんせつかったと落胆らくたんしているが、ダイダラボッチ伝説でんせつがあるのはきたに5キロメートルほどずれた鹿沼かぬまであった。
  2. ^ いち(いちに)」は「わずか」のしたがって「いちさと」は「さと単位たんいでわずかな距離きょり」の。しかし「いちさと」を「1・2さと」のとらえれば、具体ぐたいてき距離きょりしめすものとなり、古代こだい日本にっぽんの1やく5.3km、2やく10.7kmと、数値すうちすことができる。
  3. ^ 市井しせい娯楽ごらくほんやインターネットじょう記述きじゅつで、本文ほんぶんちゅうの「蜃」を妖怪ようかいの「(しん)」と関連付かんれんづけるものがられるが、ここでかたられている「蜃(うむき、うむぎ)」は実体じったいがあって食用しょくようにされる貝類かいるいの「はまぐり(うむき、うむぎ)」、すなわち「はまぐり(はまぐり)」のことであって、妖怪ようかいではない。
  4. ^ 水戸みと塩崎しおがさきまち1064-1(地図ちず - Google マップ
  5. ^ 江戸えど時代じだいにおける常陸ひたちこく茨城いばらきぐんしおさきむらまくはん体制たいせいしたつねしゅう水戸みとはん知行ちぎょうとうしおさきむら
  6. ^ だいねずみ岩鼻いわはなやぶったことで湖水こすい排水はいすいされたとする伝説でんせつもある(『日本にっぽん伝説でんせつ叢書そうしょ 信濃しなのまき157 - 159ページ)。

出典しゅってん

  1. ^ 宮本みやもと幸枝ゆきえ熊谷くまがいあづさ『日本にっぽん妖怪ようかいなぞ不思議ふしぎ学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ〈GAKKEN MOOK〉、2007ねん、89ぺーじぺーじISBN 978-4-05-604760-8NCID BA81963861 
  2. ^ a b c d 妖怪ようかいほん学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、1999ねん、92,98ぺーじ。92ぺーじ挿絵さしえ加賀かがこく河北かほくぐん木越きごし光林寺こうりんじあとだいふとし法師ほうし足跡あしあと見物けんぶつする人々ひとびと)の出典しゅってんは『古今ここんかくえらだんまきの「だい足跡あしあとだい足跡あしあととのかくえら
  3. ^ 「ダイダラぼう足跡あしあと
  4. ^ でいだらぼっち”. さがみはらひゃくせん. シニアネット相模原さがみはら. 2011ねん2がつ13にち閲覧えつらん
  5. ^ 井ノ口いのぐち章次しょうじへん静岡しずおかけん庵原いはらぐんりょう河内かわちむら」『民俗みんぞく採訪さいほう昭和しょうわ29年度ねんどごう國學院大學こくがくいんだいがく民俗みんぞくがく研究けんきゅうかい、1955ねん、109ぺーじNCID BN13889905 
  6. ^ 村上むらかみ健司けんじ編著へんちょ日本にっぽん妖怪ようかいだい事典じてん角川書店かどかわしょてん〈Kwai books〉、2005ねん、195-196ぺーじぺーじISBN 978-4-04-883926-6 
  7. ^ 和田わだたかし弌. “信濃しなのでぃらんぼうおんまい普及ふきゅう保存ほぞんかいホームページ”. 信濃しなのでぃらんぼうおんまい普及ふきゅう保存ほぞん. 2011ねん2がつ13にち閲覧えつらん
  8. ^ a b 宮田みやたのぼる ちょ諸国しょこく富士ふじ巨人きょじん伝説でんせつ」、斉藤さいとうしげるあずかへん へん静岡しずおかけん24民俗みんぞく2』静岡しずおかけん、1993ねん、957-964ぺーじ 
  9. ^ 竹川たけかわ義徳よしのり節分せつぶん行事ぎょうじ」『民間みんかん伝承でんしょう』5かん6ごう民間みんかん伝承でんしょうかい、1940ねん3がつ、5ぺーじ 
  10. ^ a b 高木たかぎ直子なおこ ちょ「その伝説でんせつ」、塚田つかだただしともへん へん長野ながのけん民俗みんぞくへん』 3かん3ごう長野ながのけん、1990ねん、483-484ぺーじ 
  11. ^ 中村なかむら成文せいぶんだいふとし法師ほうし伝説でんせつよんしゅ」『郷土きょうど研究けんきゅう』4かん7ごう郷土きょうど研究けんきゅうしゃ、1916ねん10がつ、50-51ぺーじ 
  12. ^ 井田いだ安雄やすお ちょ群馬ぐんま伝説でんせつ代表だいひょうれい」、志村しむら彦衛へん へん群馬ぐんまけん資料しりょうへん27民俗みんぞく3』群馬ぐんまけん、1982ねん、773ぺーじ 
  13. ^ a b c d e f 村上むらかみ健司けんじ妖怪ようかい事典じてん毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2000ねん、206,207,226ぺーじ
  14. ^ 佐久さく口碑こうひ伝説でんせつしゅう南佐久みなみさくへん限定げんてい復刻ふっこくばん発行はっこうしゃ長野ながのけん佐久さく教育きょういく委員いいんかい ぜん332ぺーじちゅう105~7ぺーじ 昭和しょうわ53ねん9がつ20日はつか発行はっこう
  15. ^ a b c 富士山ふじさんそそ琵琶湖びわこみずくむ 滋賀しが近江八幡おうみはちまん伝説でんせつむすぶ”. 京都きょうと新聞しんぶん. (2014ねん7がつ24にち). http://kyoto-np.jp/shiga/article/20140724000050 2014ねん7がつ25にち閲覧えつらん 
  16. ^ ころもそでづけ常陸ひたちこく風土記ふどき しまぐん那賀なかぐん
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