ウィスキー税 ぜい 反乱 はんらん Whiskey Rebellion ペンシルベニア州 しゅう 西部 せいぶ での反乱 はんらん 鎮圧 ちんあつ に際 さい してメリーランド州 しゅう カンバーランド砦 とりで で閲兵 えっぺい するジョージ・ワシントン 。衝突 しょうとつ した勢力 せいりょく
開拓 かいたく 地 ち の納税 のうぜい 拒否 きょひ 者 しゃ
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 指揮 しき 官 かん
ジェームズ・マクファーレン
ジョージ・ワシントン ヘンリー・リー (3世 せい ) アレクサンダー・ハミルトン 部隊 ぶたい
反乱 はんらん 軍 ぐん
州兵 しゅうへい 連邦 れんぽう 正規 せいき 軍 ぐん 戦力 せんりょく
ペンシルベニア州 しゅう 反乱 はんらん 軍 ぐん 600人 にん
各 かく 州民 しゅうみん 兵隊 へいたい 総計 そうけい 13,000人 にん 、連邦 れんぽう 正規 せいき 兵 へい 10人 にん 被害 ひがい 者 しゃ 数 すう
死者 ししゃ 3-4人 にん 逮捕 たいほ 者 しゃ 170人 にん [ 1]
なし。約 やく 12人 にん が病死 びょうし または事故死 じこし [ 2]
民間 みんかん 人 じん 犠牲 ぎせい 者 しゃ 2人 にん
ウィスキー税 ぜい 反乱 はんらん (ウィスキーぜいはんらん、英 えい :Whiskey Rebellion または Whiskey Insurrection)は、初代 しょだい 合衆国 がっしゅうこく 大統領 だいとうりょう ジョージ・ワシントン 時代 じだい のアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく で1791年 ねん から1794年 ねん にかけて起 お きたウィスキー への課税 かぜい に対 たい して行 おこな われた大 だい 規模 きぼ な反対 はんたい 運動 うんどう (租税 そぜい 抗議 こうぎ 運動 うんどう (英語 えいご 版 ばん ) )、暴動 ぼうどう 。ウイスキー反乱 はんらん 、ウイスキー一揆 いっき とも。狭義 きょうぎ では1794年 ねん にペンシルベニア州 しゅう 西部 せいぶ 辺境 へんきょう 地 ち で起 お こった大 だい 規模 きぼ 暴動 ぼうどう と、それを連邦 れんぽう 軍 ぐん が鎮圧 ちんあつ した出来事 できごと を指 さ すが、納税 のうぜい 拒否 きょひ 運動 うんどう 自体 じたい はペンシルベニア西部 せいぶ 以外 いがい でも起 お きていた。
アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう 後 ご 、成立 せいりつ して間 あいだ もないアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 連邦 れんぽう 政府 せいふ は戦費 せんぴ によって生 しょう じた負債 ふさい を償却 しょうきゃく するため、1791年 ねん 3月 がつ に初 はつ の国内 こくない 生産 せいさん 物 ぶつ に対 たい する課税 かぜい (内国 ないこく 税 ぜい )として、蒸留酒 じょうりゅうしゅ に物品 ぶっぴん 税 ぜい を課 か すことを決定 けってい した。当時 とうじ のアメリカにおいて国内 こくない で生産 せいさん ・流通 りゅうつう していた蒸留酒 じょうりゅうしゅ は基本 きほん 的 てき にウィスキーであったために、この税法 ぜいほう はウィスキーに対 たい するものと認識 にんしき され、一般 いっぱん に「ウィスキー税 ぜい 」と呼 よ ばれることになった。そしてこの税法 ぜいほう に対 たい して、特 とく に西部 せいぶ 辺境 へんきょう の開拓 かいたく 農民 のうみん たちが反発 はんぱつ した。当時 とうじ 、西部 せいぶ の辺境 へんきょう 地域 ちいき では農民 のうみん たちが副 ふく 収入 しゅうにゅう として余剰 よじょう 穀物 こくもつ を使 つか ってウィスキーを生産 せいさん するのが一般 いっぱん 的 てき であったこと、また辺境 へんきょう 地 ち では貨幣 かへい の代 か わりとしてもウィスキーが流通 りゅうつう していたことが大 おお きかった。加 くわ えて、税法 ぜいほう 上 じょう の優遇 ゆうぐう 措置 そち や連邦 れんぽう 政府 せいふ に対 たい する抗議 こうぎ の困難 こんなん さは、かねてよりあった裕福 ゆうふく な東部 とうぶ に対 たい する貧 まず しい西部 せいぶ という不公平 ふこうへい 感 かん に拍車 はくしゃ をかけ、西部 せいぶ の戦争 せんそう 帰還 きかん 兵 へい たちには、独立 どくりつ 戦争 せんそう の動機 どうき が代表 だいひょう のいない議会 ぎかい による課税 かぜい に反対 はんたい して起 お こしたもの(代表 だいひょう なくして課税 かぜい なし )だったことを思 おも い出 だ させた。
その大 だい 部分 ぶぶん においてペンシルベニア州 しゅう 西部 せいぶ の者 もの たちは、派遣 はけん されてきた連邦 れんぽう 政府 せいふ の徴税 ちょうぜい 官 かん に、時 とき に暴力 ぼうりょく を伴 ともな う嫌 いや がらせや脅迫 きょうはく などを行 おこな い、納税 のうぜい を拒絶 きょぜつ した。しだいに矛先 ほこさき は連邦 れんぽう 政府 せいふ だけではなく、その賛同 さんどう 者 しゃ や協力 きょうりょく 者 しゃ にも向 む けられるようになっていった。転機 てんき は1794年 ねん 7月 がつ 、派遣 はけん された連邦 れんぽう 保安 ほあん 官 かん が納税 のうぜい 拒否 きょひ 者 しゃ に対 たい する召喚 しょうかん 令状 れいじょう を発行 はっこう した時 とき だった。反対 はんたい 運動 うんどう は最高潮 さいこうちょう に達 たっ し、500人 にん 以上 いじょう の武装 ぶそう した男 おとこ たちによって徴税 ちょうぜい 官 かん ジョン・ネビルの自宅 じたく が襲撃 しゅうげき された。ここに至 いた ってワシントンは武力 ぶりょく 鎮圧 ちんあつ を指示 しじ し、各州 かくしゅう から提供 ていきょう された民兵 みんぺい 1万 まん 3千 せん 人 にん を自 みずか ら率 ひき いてペンシルベニア州 しゅう 西部 せいぶ に出動 しゅつどう した。しかし、暴徒 ぼうと 達 たち は軍隊 ぐんたい が到着 とうちゃく する前 まえ に解散 かいさん したことで本格 ほんかく 的 てき な武力 ぶりょく 衝突 しょうとつ には至 いた らず反乱 はんらん は終結 しゅうけつ 、逮捕 たいほ から起訴 きそ までされた者 もの は20名 めい 、この中 なか で有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を受 う けたのは2名 めい であり、それすらも大統領 だいとうりょう 恩赦 おんしゃ を受 う けて解放 かいほう された。
この反乱 はんらん は樹立 じゅりつ したばかりの連邦 れんぽう 政府 せいふ が、その法律 ほうりつ の施行 しこう に際 さい して、暴力 ぼうりょく 的 てき な抵抗 ていこう 運動 うんどう を弾圧 だんあつ する意志 いし と能力 のうりょく を持 も っていることを示 しめ し、また、政策 せいさく への反対 はんたい は議会 ぎかい で示 しめ すという、すでに進行 しんこう していたアメリカにおける政党 せいとう 政治 せいじ の形成 けいせい に貢献 こうけん した。一方 いっぽう で、ウィスキー税 ぜい の徴収 ちょうしゅう は依然 いぜん として困難 こんなん なままであり、実効 じっこう 性 せい を持 も たぬままに、1801年 ねん に当選 とうせん した第 だい 3代 だい 大統領 だいとうりょう トーマス・ジェファーソン の政権 せいけん 下 か で廃止 はいし された。
アレクサンダー・ハミルトン の肖像 しょうぞう 画 が (1792年 ねん 、ジョン・トランブル 作 さく )。初代 しょだい 財務 ざいむ 長官 ちょうかん としてウィスキー税 ぜい の導入 どうにゅう を主導 しゅどう した。
アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう 後 ご の1789年 ねん 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 憲法 けんぽう が採択 さいたく され、ジョージ・ワシントン を初代 しょだい 合衆国 がっしゅうこく 大統領 だいとうりょう とする新 あら たな連邦 れんぽう 政府 せいふ が始 はじ まった。この前身 ぜんしん となる連合 れんごう 会議 かいぎ 体制 たいせい 下 か (連合 れんごう 規約 きやく )においては、中央 ちゅうおう 政府 せいふ には課税 かぜい 権 けん がなく、独立 どくりつ 戦争 せんそう ではその費用 ひよう を調達 ちょうたつ するために借金 しゃっきん をし、5400万 まん ドルもの負債 ふさい を抱 かか えた。これにさらに各州 かくしゅう 政府 せいふ の負債 ふさい 2,500万 まん ドルが積 つ み上 あ がっていた[ 3] 。
初代 しょだい 財務 ざいむ 長官 ちょうかん アレクサンダー・ハミルトン は、この負債 ふさい を利用 りよう して、アメリカの繁栄 はんえい と国家 こっか 統一 とういつ を促 うなが す金融 きんゆう システムを構築 こうちく することを目論見 もくろみ 、『公的 こうてき 信用 しんよう に関 かん する報告 ほうこく 書 しょ 』の中 なか で、連邦 れんぽう 政府 せいふ の資金 しきん を投入 とうにゅう することで州 しゅう と国 こく の債務 さいむ を統合 とうごう し、単一 たんいつ の債務 さいむ とすることを議会 ぎかい に促 うなが した。議会 ぎかい は1790年 ねん 6月 がつ と7月 がつ にこれらの措置 そち を承認 しょうにん した[ 4] 。
この措置 そち を取 と るにあたって、債権 さいけん 者 しゃ に相当 そうとう の金額 きんがく を支払 しはら うために、政府 せいふ 独自 どくじ の新 あら たな収入 しゅうにゅう 源 げん が必要 ひつよう になった。当時 とうじ 、政府 せいふ の主要 しゅよう な収入 しゅうにゅう 源 げん は輸入 ゆにゅう 関税 かんぜい であったが、これは1790年 ねん 12月 がつ までで既 すで に限界 げんかい まで引 ひ き上 あ げられた状態 じょうたい にあるとハミルトンは判断 はんだん していた[ 5] 。
そこで彼 かれ は、国内 こくない で生産 せいさん された蒸留酒 じょうりゅうしゅ に対 たい する物品 ぶっぴん 税 ぜい の可決 かけつ を促 うなが した。これは国内 こくない 生産 せいさん 物 ぶつ に対 たい して、連邦 れんぽう 政府 せいふ が課 か した最初 さいしょ の租税 そぜい となった[ 6] 。
課税 かぜい 対象 たいしょう はあくまで蒸留酒 じょうりゅうしゅ 全般 ぜんぱん であったが、18世紀 せいき 後半 こうはん のアメリカにおいて一般 いっぱん に生産 せいさん ・流通 りゅうつう していた蒸留酒 じょうりゅうしゅ とはウィスキー であったために、通称 つうしょう 「ウィスキー税 ぜい 」と呼 よ ばれるようになった。課税 かぜい 法 ほう が政治 せいじ 的 てき に難題 なんだい であることはハミルトンも認識 にんしき していたが、贅沢 ぜいたく 品 ひん に対 たい する課税 かぜい (奢侈 しゃし 税 ぜい )であれば可能 かのう だと考 かんが えた[ 7] 。
また、一部 いちぶ の社会 しゃかい 改革 かいかく 者 しゃ は、これを「悪行 あくぎょう 税 ぜい 」とし、アルコールの害 がい について国民 こくみん の意識 いしき を高 たか めることができるものとして支持 しじ した[ 8] 。
こうして、通称 つうしょう 「ウィスキー法 ほう 」として知 し られる、ウィスキー物品 ぶっぴん 税法 ぜいほう は1791年 ねん 3月 がつ に議会 ぎかい で成立 せいりつ した[ 9] 。
これを受 う けて同年 どうねん 11月 がつ 、ジョージ・ワシントンは課税 かぜい 対象 たいしょう 地域 ちいき を定義 ていぎ し、徴税 ちょうぜい 監督 かんとく 官 かん (revenue supervisor)と徴税 ちょうぜい 調査官 ちょうさかん (revenue inspector)を任命 にんめい し、彼 かれ らの給与 きゅうよ を決定 けってい した[ 10] 。
1790年 ねん 当時 とうじ 17,000人 にん ほどの人口 じんこう [ 11] があったペンシルベニア西部 せいぶ において、ウィスキー税 ぜい は、すぐにこの地域 ちいき の農民 のうみん 層 そう で議論 ぎろん となり、辺境 へんきょう 地域 ちいき の多 おお くの人々 ひとびと は、この課税 かぜい が西部 せいぶ の人間 にんげん を不当 ふとう に狙 ねら い撃 う ったものだと主張 しゅちょう した[ 12] 。
ウィスキーは需要 じゅよう の高 たか い物品 ぶっぴん であり、農民 のうみん は小 ちい さな蒸留 じょうりゅう 器 き を使 つか ってウィスキーを生産 せいさん し、副 ふく 収入 しゅうにゅう としていた[ 13] 。
アパラチア山脈 さんみゃく の西側 にしがわ に住 す む農民 のうみん たちは余剰 よじょう 穀物 こくもつ を使 つか ってウィスキーを生産 せいさん しており、これは運搬 うんぱん が面倒 めんどう な穀物 こくもつ よりもウィスキーの方 ほう が、山 やま を超 こ えて東部 とうぶ に運 はこ ぶのに簡単 かんたん で収益 しゅうえき 性 せい が高 たか い側面 そくめん もあった。よってウィスキー税 ぜい は、東部 とうぶ の穀物 こくもつ 生産 せいさん 者 しゃ に対 たい する競争 きょうそう 力 りょく を削 そ ぎ落 お とすことに繋 つな がった[ 14] 。
さらに開拓 かいたく 地 ち では常 つね に現金 げんきん が不足 ふそく していたために、ウィスキーはしばしば代替 だいたい 通貨 つうか として機能 きのう していた。このため、ウィスキーが貨幣 かへい 代 か わりだった貧 まず しい人々 ひとびと にとって、この物品 ぶっぴん 税 ぜい は、本質 ほんしつ 的 てき には所得 しょとく 税 ぜい と同 おな じであり、裕福 ゆうふく な東部 とうぶ の者 もの たちが払 はら うことのない税 ぜい であった[ 15] 。
加 くわ えて、小規模 しょうきぼ 農家 のうか は、この物品 ぶっぴん 税 ぜい が東部 とうぶ に拠点 きょてん を置 お く大 だい 規模 きぼ 蒸留 じょうりゅう 所 しょ に事実 じじつ 上 じょう の不公平 ふこうへい な税制 ぜいせい 的 てき 優遇 ゆうぐう 措置 そち を与 あた えるものと抗議 こうぎ した。これはウィスキー税 ぜい の納税 のうぜい 方法 ほうほう には、一括 いっかつ で支払 しはら う方法 ほうほう (定額 ていがく 税 ぜい )と、ガロン単位 たんい (従量税 じゅうりょうぜい )で支払 しはら う2つの方法 ほうほう があり、大 だい 規模 きぼ 蒸留 じょうりゅう 所 しょ は大量 たいりょう 生産 せいさん しているがゆえに一括 いっかつ で払 はら うことが可能 かのう であったことによる。生産 せいさん 効率 こうりつ が上 あ げれば上 あ がるほど、1ガロンあたりの納税 のうぜい 額 がく は相対 そうたい 的 てき に少 すく なくなり(ハミルトンによれば6セントまで下 さ がった)、対 たい して、小規模 しょうきぼ 蒸留 じょうりゅう 所 しょ は通年 つうねん でフル稼働 かどう しているわけではなかったために、ガロンあたりの割高 わりだか な税 ぜい (9セント)を支払 しはら わねばならなかった[ 16] 。
この税金 ぜいきん の逆進 ぎゃくしん 性 せい は、別 べつ 要因 よういん によってさらに悪化 あっか した。現金 げんきん 流通 りゅうつう が少 すく ない西部 せいぶ 辺境 へんきょう では裕福 ゆうふく で人口 じんこう の多 おお い東部 とうぶ よりもウィスキーの価格 かかく はかなり安 やす かった。つまり、すべての蒸留 じょうりゅう 所 しょ が1ガロンあたり、同額 どうがく の税金 ぜいきん を納 おさ めなければならなかったとしても、開拓 かいたく 地 ち の小規模 しょうきぼ な蒸留 じょうりゅう 所 しょ は、東部 とうぶ の大 だい 規模 きぼ なそれよりも、製品 せいひん 価格 かかく に占 し める税 ぜい の割合 わりあい が高 たか くなることを意味 いみ していた。小規模 しょうきぼ 蒸留 じょうりゅう 所 しょ の業者 ぎょうしゃ たちは、ハミルトンが意図 いと 的 てき に小規模 しょうきぼ 業者 ぎょうしゃ を破滅 はめつ させ、大 だい 企業 きぎょう 化 か を促 うなが すために税制 ぜいせい 設計 せっけい を行 おこな ったと信 しん じており、この見解 けんかい は、一部 いちぶ の歴史 れきし 家 か たちも支持 しじ している[ 17] 。
しかし、歴史 れきし 家 か のトーマス・スローターは「この種 たね の陰謀 いんぼう は立証 りっしょう するのが難 むずか しい」と論 ろん じている[ 18] 。
もっとも意図 いと したものかどうかに関 かか わらず、大 だい 規模 きぼ 蒸留 じょうりゅう 所 しょ は物品 ぶっぴん 税 ぜい が自分 じぶん たちに与 あた える優位 ゆうい を認識 にんしき しており、この税法 ぜいほう を支持 しじ した[ 19] 。
ウィスキー税 ぜい は、別 べつ の側面 そくめん からの懸念 けねん もあった。この法律 ほうりつ ではすべての蒸留 じょうりゅう 所 しょ に、必 かなら ず登記 とうき を要求 ようきゅう しており、納税 のうぜい を拒否 きょひ した者 もの は地元 じもと の裁判所 さいばんしょ ではなく、遠 とお く離 はな れた連邦 れんぽう 裁判所 さいばんしょ に出頭 しゅっとう しなければならなかった。当時 とうじ 、連邦 れんぽう 裁判所 さいばんしょ はフィラデルフィア にあり、開拓 かいたく 時代 じだい の小 ちい さな町 まち であったピッツバーグ からは300マイル(約 やく 482キロ)も離 はな れていた。
ただ、当初 とうしょ から連邦 れんぽう 政府 せいふ は辺境 へんきょう 地 ち でのウィスキー税 ぜい の徴収 ちょうしゅう にはほとんど失敗 しっぱい していた。西部 せいぶ の小規模 しょうきぼ 蒸留 じょうりゅう 所 しょ の多 おお くは納税 のうぜい を拒否 きょひ し、連邦 れんぽう 政府 せいふ の徴税 ちょうぜい 官 かん と彼 かれ らを支援 しえん する住民 じゅうみん たちは、抗議 こうぎ 者 しゃ の怒 いか りの矢面 やおもて に立 た たされた。反対 はんたい 者 しゃ は、何人 なんにん もの徴税 ちょうぜい 官 かん に嫌 いや がらせを行 おこな い、事務所 じむしょ や住居 じゅうきょ を提供 ていきょう した者 もの を脅迫 きょうはく をしたり、暴力 ぼうりょく を加 くわ えた。この結果 けっか 、多 おお くの西部 せいぶ の群 ぐん (カウンティ )では、連邦 れんぽう 政府 せいふ の税務 ぜいむ 官 かん は常駐 じょうちゅう できなかった[ 20] 。
また、もともと西部 せいぶ 地域 ちいき は、連邦 れんぽう 政府 せいふ に対 たい して多 おお くの不満 ふまん を抱 かか えていた。その中 なか でも主 おも に政府 せいふ が西部 せいぶ 辺境 へんきょう 地域 ちいき の住民 じゅうみん たちを適切 てきせつ に保護 ほご していないという認識 にんしき があった[ 20] 。
1785年 ねん に始 はじ まった北西 ほくせい インディアン戦争 せんそう はアメリカにとって悪 わる い状況 じょうきょう に進 すす み、1791年 ねん には大 おお きな損害 そんがい が発生 はっせい した。さらに当時 とうじ ルイジアナ を領有 りょうゆう していたスペイン によってミシシッピ川 がわ の商業 しょうぎょう 利用 りよう を禁 きん じられてもいた。これらの問題 もんだい が解決 かいけつ されるまで、西部 せいぶ では政府 せいふ が自分 じぶん たちの安全 あんぜん や経済 けいざい を無視 むし していると感 かん じていた。こうした既存 きそん の不満 ふまん にウィスキー税 ぜい が追加 ついか されたことは、開拓 かいたく 地 ち での緊張 きんちょう を高 たか めるだけであった[ 21] 。
「Famous Whiskey Insurrection in Pennsylvania(有名 ゆうめい なペンシルベニアのウィスキー反乱 はんらん )」(1880年 ねん )。タール羽 わ の刑 けい を受 う けた徴税 ちょうぜい 官 かん が横木 よこぎ に乗 の せられて町 まち から追 お い出 だ されるところが描 えが かれている。
西部 せいぶ 辺境 へんきょう 地 ち の住民 じゅうみん の多 おお くはウイスキー物品 ぶっぴん 税 ぜい の可決 かけつ に反対 はんたい するよう請願 せいがん を行 おこな った。それが失敗 しっぱい すると、ペンシルバニア州 しゅう 西部 せいぶ の者 もの たちの一部 いちぶ が、法律 ほうりつ の廃止 はいし を訴 うった えるための非合法 ひごうほう 的 てき な会議 かいぎ を組織 そしき した[ 22] 。
課税 かぜい に対 たい する反対 はんたい 運動 うんどう は、南西 なんせい 部 ぶ の4つの群 ぐん (アレゲニー 、ファイエット 、ワシントン 、ウェストモアランド )で特 とく に盛 さか んであった[ 23] 。
1791年 ねん 7月 がつ 27日 にち 、ファイエット郡 ぐん レッドストーン・オールドフォートで予備 よび 会議 かいぎ が開催 かいさい され、同年 どうねん 9月 がつ に開催 かいさい されたピッツバーグでの本 ほん 会議 かいぎ に参加 さんか する代表 だいひょう 者 しゃ が決 き められた。本 ほん 会議 かいぎ は暴動 ぼうどう の発生 はっせい は望 のぞ まなかったヒュー・ヘンリー・ブラッケンリッジ (英語 えいご 版 ばん ) のような穏健 おんけん 派 は によって占 し められた[ 24] 。
会議 かいぎ はペンシルバニア州 しゅう 議会 ぎかい とフィラデルフィアの連邦 れんぽう 下院 かいん 議会 ぎかい に不満 ふまん 解消 かいしょう のための嘆願 たんがん 書 しょ を送 おく った[ 25] 。
これや、また他 た の嘆願 たんがん 書 しょ によって、1792年 ねん 5月 がつ に物品 ぶっぴん 税法 ぜいほう の修正 しゅうせい が行 おこな われた。この修正 しゅうせい ではペンシルベニア西部 せいぶ 選出 せんしゅつ の下院 かいん 議員 ぎいん ウィリアム・フィンドリー (英語 えいご 版 ばん ) が提唱 ていしょう した1セントの減税 げんぜい が含 ふく まれていたが、それでもまだ多 おお くの西部 せいぶ の者 もの 達 たち にとって不満 ふまん が残 のこ るものであった[ 26] 。
反対 はんたい 運動 うんどう を非 ひ 暴力 ぼうりょく で進 すす めたい思惑 おもわく はうまくいかなかった。1791年 ねん 9月 がつ 11日 にち 、ワシントン郡 ぐん にて、任官 にんかん したばかりの徴税 ちょうぜい 官 かん ロバート・ジョンソンが、変装 へんそう したギャングによってタール羽 わ の刑 けい (標的 ひょうてき にタールと羽毛 うもう を掛 か けて晒 さら し者 しゃ にする私刑 しけい )を受 う ける事件 じけん が発生 はっせい した[ 27] 。
ジョンソンを襲撃 しゅうげき した者 もの に裁判所 さいばんしょ の召喚 しょうかん 令状 れいじょう を渡 わた すために当局 とうきょく から派遣 はけん された者 もの もまた、鞭打 むちう ちにタール羽 わ の刑 けい を受 う けた[ 28] 。
こうした暴力 ぼうりょく 行為 こうい を含 ふく む、攻撃 こうげき 的 てき な反抗 はんこう 運動 うんどう のために1791年 ねん と1792年 ねん 初期 しょき の徴税 ちょうぜい 実績 じっせき はゼロとなった[ 29] 。
襲撃 しゅうげき 者 しゃ たちはアメリカ独立 どくりつ 運動 うんどう の抗議 こうぎ 活動 かつどう を模範 もはん とした。一方 いっぽう で物品 ぶっぴん 税 ぜい の支持 しじ 者 しゃ たちは、植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい における代表 だいひょう 者 しゃ のいない議会 ぎかい での課税 かぜい (代表 だいひょう なくして課税 かぜい なし )と、アメリカ国民 こくみん による選挙 せんきょ で選 えら ばれた代表 だいひょう によって定 さだ められた課税 かぜい には違 ちが いがあると主張 しゅちょう した[ 30] 。
ウィスキー税 ぜい 反乱 はんらん に関 かん する古 ふる い記録 きろく では、この反対 はんたい 運動 うんどう はペンシルバニア西部 せいぶ でのみ起 お こったかのように記 しる されていたが、実際 じっさい にはアパラチア山脈 さんみゃく の西側 にしがわ に領域 りょういき を持 も つすべての州 しゅう (メリーランド 、バージニア 、ノースカロライナ 、サウスカロライナ 、ジョージア )でも同様 どうよう の運動 うんどう が起 お こっていた[ 31] 。
また、開拓 かいたく 時代 じだい のケンタッキー州 しゅう でも、その全域 ぜんいき において法 ほう を執行 しっこう できる者 もの がおらず、脱税 だつぜい 者 しゃ を起訴 きそ することもできず、結果 けっか 、全域 ぜんいき で徴税 ちょうぜい はなされなかった[ 32] [ 33] 。
1792年 ねん 時点 じてん でハミルトンは、ノースカロライナ州 しゅう 西部 せいぶ における暴力 ぼうりょく 的 てき な抵抗 ていこう 運動 うんどう を収拾 しゅうしゅう するには軍事 ぐんじ 行動 こうどう が必要 ひつよう だと訴 うった えたが、司法 しほう 長官 ちょうかん エドムンド・ランドルフ はその措置 そち を法的 ほうてき に正当 せいとう 化 か する根拠 こんきょ が不十分 ふじゅうぶん だと主張 しゅちょう した[ 34] 。
1792年 ねん 8月 がつ 、ピッツバーグで2回 かい 目 め の反対 はんたい 運動 うんどう の会議 かいぎ が開 ひら かれた。この時 とき は前回 ぜんかい よりも急進 きゅうしん 派 は で占 し められ、ブラッケンリッジやフィンドリーのような穏健 おんけん 派 は は出席 しゅっせき しなかった。後 ご の財務 ざいむ 長官 ちょうかん であり、出席 しゅっせき した穏健 おんけん 派 は の一人 ひとり アルバート・ギャラティン は、後 のち に出席 しゅっせき したことを後悔 こうかい した[ 35] 。
会議 かいぎ ではミンゴ・クリーク協会 きょうかい として知 し られる過激 かげき 派 は グループが、場 ば を牛耳 ぎゅうじ り、過激 かげき な要求 ようきゅう を出 だ した。彼 かれ らはアメリカ独立 どくりつ 運動 うんどう で行 おこな ったように、自由 じゆう の柱 はしら を掲 かか げ、通信 つうしん 連絡 れんらく 委員 いいん 会 かい (英語 えいご 版 ばん ) を結成 けっせい し、地元民 じもとみん 兵 へい を統制 とうせい した。さらに独自 どくじ の裁判所 さいばんしょ を立 た ち上 あ げ、借金 しゃっきん の取 と り立 た てや差 さ し押 お さえのための訴訟 そしょう を思 おも い留 と まらせた[ 36] 。
ハミルトンは、この第 だい 2回 かい 会議 かいぎ を、連邦 れんぽう 政府 せいふ の法 ほう の執行 しっこう に対 たい する重大 じゅうだい な脅威 きょうい と見 み なした。1792年 ねん 9月 がつ 、彼 かれ はペンシルベニア州 しゅう の徴税 ちょうぜい 官 かん ジョージ・クライマー を州 しゅう 西部 せいぶ に派遣 はけん し、調査 ちょうさ させた。しかし、彼 かれ がやったことは変装 へんそう して現地 げんち を回 まわ ることと、現地 げんち の役人 やくにん を脅 おど すという不器用 ぶきよう な企 くわだ てであり、緊張 きんちょう を高 たか めただけであった。そして彼 かれ のやや誇張 こちょう された報告 ほうこく 書 しょ は、ワシントン政権 せいけん の対応 たいおう に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた[ 37] 。
ワシントンとハミルトンは、当時 とうじ 首都 しゅと があったペンシルベニア州 しゅう 内 ない で、連邦 れんぽう 法 ほう に対 たい する反抗 はんこう が起 お こっていることを、特 とく に厄介 やっかい なものと捉 とら えていた。ハミルトンは独断 どくだん で物品 ぶっぴん 税法 ぜいほう への反対 はんたい 運動 うんどう を糾弾 きゅうだん する大統領 だいとうりょう 布告 ふこく を作成 さくせい し、ランドルフ司法 しほう 長官 ちょうかん に提出 ていしゅつ した。ランドルフが一部 いちぶ 修正 しゅうせい を加 くわ えたものを1792年 ねん 9月 がつ 15日 にち にワシントンが署名 しょめい し、この布 ぬの 告文 こくぶん は大判 おおばん の形 かたち で多 おお くの新聞 しんぶん に掲載 けいさい された[ 38] 。
ペンシルベニア州 しゅう 西部 せいぶ の連邦 れんぽう 徴税 ちょうぜい 官 かん に任命 にんめい されたジョン・ネヴィル (英語 えいご 版 ばん ) 将軍 しょうぐん は、法 ほう の執行 しっこう を決意 けつい していた[ 39] 。
ネヴィルは著 ちょ 明 あかり な政治 せいじ 家 か であると同時 どうじ に裕福 ゆうふく な農場 のうじょう 主 ぬし でもあり、大 だい 規模 きぼ な蒸溜 じょうりゅう 所 しょ も所有 しょゆう していた。そのため、彼 かれ 自身 じしん も当初 とうしょ はウィスキー税 ぜい に反対 はんたい していた。彼 かれ の転向 てんこう は、一部 いちぶ のペンシルベニア西部 せいぶ の住人 じゅうにん たちを怒 おこ らせた[ 40] 。
1792年 ねん 8月 がつ 、ネヴィルは徴税 ちょうぜい 業務 ぎょうむ のオフィスとしてピッツバーグで部屋 へや を借 か りたが、ミンゴ・クリーク協会 きょうかい が暴力 ぼうりょく を振 ふ るうと大家 たいか を脅 おど したために、ネヴィルは追 お い出 だ されてしまった[ 41] 。
この頃 ころ から、ペンシルベニアで標的 ひょうてき となったのは徴税 ちょうぜい 官 かん だけではなく、彼 かれ らに協力 きょうりょく する者 もの も含 ふく まれるようになり、嫌 いや がらせを受 う けた。「トム・ザ・ティンカー」(Tom the Tinker、行商 ぎょうしょう 人 じん トム)と署名 しょめい された匿名 とくめい のメモや新聞 しんぶん 記事 きじ は、ウィスキー税 ぜい に応 おう じる者 もの を脅 おど した[ 42] 。
警告 けいこく に従 したが わなかった者 もの たちは、納屋 なや を焼 や かれたり、蒸留 じょうりゅう 器 き を破壊 はかい されることがあった[ 43] 。
反対 はんたい 運動 うんどう はアパラチア沿 ぞ いの開拓 かいたく 地 ち において1793年 ねん まで続 つづ いた。特 とく にペンシルベニア西部 せいぶ が激 はげ しかった[ 44] 。
6月、ワシントン郡 ぐん にて、約 やく 100人 にん の群衆 ぐんしゅう がネヴィルを象 かたど った人形 にんぎょう を焼 や く出来事 できごと が発生 はっせい した[ 45] 。
11月22日 にち の夜 よる には、ファイエット郡 ぐん の徴税 ちょうぜい 官 かん で、ネヴィルと同 おな じく地域 ちいき で最 もっと も裕福 ゆうふく であったベンジャミン・ウェルズの家 いえ に男 おとこ たちが押 お し入 い る事件 じけん が起 お こった。
侵入 しんにゅう 者 しゃ たちは銃口 じゅうこう を突 つ きつけると、職務 しょくむ を放棄 ほうき するよう脅迫 きょうはく した[ 46] 。
ワシントン大統領 だいとうりょう は、犯人 はんにん 逮捕 たいほ のための懸賞 けんしょう 金 きん を公示 こうじ したが無駄 むだ であった[ 47] 。
1794年 ねん 8月 がつ 9日 にち には新 あたら しいウィスキー税 ぜい への報復 ほうふく として30人 にん の男 おとこ たちが、バージニア州 しゅう モーガンタウンの地方 ちほう 税 ぜい 徴 ちょう 官 かん ウィリアム・マクレリーの家 いえ を取 と り囲 かこ んだ。マクレリーは、怒 おこ れる暴徒 ぼうと たちに身 み の危険 きけん を感 かん じて、奴隷 どれい に扮 ふん して家 いえ から脱出 だっしゅつ し、川 かわ を泳 およ いで安全 あんぜん な場所 ばしょ に退避 たいひ した。その後 ご 、3日間 にちかん にわたり部外 ぶがい 者 しゃ や町民 ちょうみん がモーガンタウンを包囲 ほうい したため、州 しゅう 当局 とうきょく はこの出来事 できごと が他 た の辺境 へんきょう 地 ち の郡 ぐん にも波及 はきゅう することを恐 おそ れた[ 48] 。
連邦 れんぽう 下院 かいん 議員 ぎいん ウィリアム・フィンドリー (英語 えいご 版 ばん ) の肖像 しょうぞう 画 が 。彼 かれ は1796年 ねん の自著 じちょ においてハミルトンが意図 いと 的 てき に暴動 ぼうどう を誘発 ゆうはつ したと論 ろん じている。
1794年 ねん 、反対 はんたい 運動 うんどう は頂点 ちょうてん に達 たっ した。その年 とし の5月 がつ に連邦 れんぽう 地方 ちほう 検事 けんじ のウィリアム・ロウル (英語 えいご 版 ばん ) は物品 ぶっぴん 税 ぜい の納税 のうぜい を拒否 きょひ したペンシルバニア州 しゅう の60以上 いじょう の蒸留 じょうりゅう 所 しょ に召喚 しょうかん 状 じょう を発行 はっこう した[ 49] 。
当時 とうじ の法律 ほうりつ では、この召喚 しょうかん 状 じょう を受 う け取 と った者 もの は連邦 れんぽう 裁判所 さいばんしょ に出頭 しゅっとう することが義務付 ぎむづ けられていたが、それがあるのはアパラチア山脈 さんみゃく を挟 はさ んで州 しゅう 東端 ひがしばた のフィラデルフィアであった。開拓 かいたく 時代 じだい の西部 せいぶ の農民 のうみん たちにとってそのような旅 たび は費用 ひよう も時間 じかん もかかり、到底 とうてい 無理 むり なことであった[ 50] 。
1794年 ねん 6月 がつ 5日 にち 、ウィリアム・フィンドリーの働 はたら きかけによって議会 ぎかい は修正 しゅうせい 案 あん を可決 かけつ し、物品 ぶっぴん 税 ぜい の裁判 さいばん が地元 じもと の裁判所 さいばんしょ でも行 おこな えることを許可 きょか した[ 51] 。
ところが、その時 とき すでに連邦 れんぽう 保安 ほあん 官 かん デイヴィッド・レノックスが、税金 ぜいきん 未納 みのう の蒸溜 じょうりゅう 所 しょ をフィラデルフィアに呼 よ び出 だ す令状 れいじょう を送達 そうたつ するために派遣 はけん されていた。司法 しほう 長官 ちょうかん ウィリアム・ブラッドフォード は、後 のち に、法律 ほうりつ の遵守 じゅんしゅ を強制 きょうせい するために行 い ったものであり、政府 せいふ として、実際 じっさい にフィラデルフィアで裁判 さいばん を行 おこな うつもりはなかったと弁明 べんめい した[ 52] 。
これら出来事 できごと のタイミングは、後世 こうせい にハミルトンが意図 いと 的 てき に暴動 ぼうどう を引 ひ き起 お こしたかについての論争 ろんそう に繋 つな がった。
ハミルトンの政治 せいじ 的 てき な対立 たいりつ 者 しゃ であったフィンドリーは、彼 かれ の暴動 ぼうどう に関 かん する著作 ちょさく において、法律 ほうりつ が緩 ゆる められる直前 ちょくぜん に召喚 しょうかん 状 じょう を発行 はっこう することによって財務 ざいむ 長官 ちょうかん は意図 いと 的 てき に暴動 ぼうどう を誘発 ゆうはつ したと主張 しゅちょう した[ 53] 。
1963年 ねん 、ハミルトンの論文 ろんぶん を編集 へんしゅう した歴史 れきし 家 か ジェイコブ・クックは、この告発 こくはつ を「馬鹿 ばか げている」と見 み なし、ハミルトンの連邦 れんぽう 政府 せいふ に対 たい する支配 しはい 力 りょく を誇張 こちょう した「陰謀 いんぼう 論 ろん 」と呼 よ んだ[ 54] 。
1986年 ねん に歴史 れきし 家 か のトーマス・ローターは、「動機 どうき についての疑問 ぎもん は常 つね に残 のこ されていなければない」と前置 まえお きした上 うえ で、当時 とうじ における暴動 ぼうどう の発生 はっせい は「皮肉 ひにく な偶然 ぐうぜん の連鎖 れんさ 」によるものと論 ろん じた[ 55] 。
2006年 ねん 、アメリカ史 し におけるハミルトンの役割 やくわり に一般 いっぱん 的 てき に批判 ひはん 的 てき であるウィリアム・ホージランドは、ハミルトン、ブラッドフォード、ロウルが「連邦 れんぽう 軍 ぐん が弾圧 だんあつ を正当 せいとう 化 か するための暴力 ぼうりょく 」を誘発 ゆうはつ するような方針 ほうしん を意図 いと 的 てき に追求 ついきゅう したと主張 しゅちょう した[ 56] 。
歴史 れきし 家 か のサミュエル・モリソン は、ハミルトンが一般 いっぱん 的 てき に「収入 しゅうにゅう 源 げん としてよりも社会 しゃかい 的 てき 規律 きりつ の尺度 しゃくど として」物品 ぶっぴん 税 ぜい を施行 しこう することを望 のぞ んでいたと推測 すいそく している[ 57] 。
ペンシルベニア州 しゅう アレゲニー郡 ぐん サウスパークタウンシップのオリバー・ミラー・ホームステッド (英語 えいご 版 ばん ) にあるジェームズ・ミラー・ハウス。1794年 ねん の反乱 はんらん における最初 さいしょ の発砲 はっぽう はこの場所 ばしょ で起 お こった。
連邦 れんぽう 保安 ほあん 官 かん レノックスは、特 とく に問題 もんだい なくほぼすべての召喚 しょうかん 令状 れいじょう を交付 こうふ した。
7月15日 にち 、ネヴィル将軍 しょうぐん がアレゲニー郡 ぐん における案内 あんない 役 やく を申 もう し出 で て、2人 ふたり は共 とも に巡回 じゅんかい を行 おこな った[ 58] 。
同夜 どうや 、ピッツバーグから南 みなみ に16キロほどの所 ところ にあったミラー農場 のうじょう (英語 えいご 版 ばん ) にて、2人 ふたり が威嚇 いかく 射撃 しゃげき される事件 じけん が起 お こった。レノックスはピッツバーグへと引 ひ き返 かえ し、ネヴィルは自宅 じたく に戻 もど った[ 59] 。
翌 よく 16日 にち 、少 すく なくとも30人 にん のミンゴ・クリーク協会 きょうかい の民兵 みんぺい がネヴィルのバウアー・ヒルにあった要塞 ようさい 化 か された邸宅 ていたく を取 と り囲 かこ んだ[ 60] 。
彼 かれ らは、連邦 れんぽう 保安 ほあん 官 かん が中 なか にいると考 かんが え、その身柄 みがら を要求 ようきゅう したが、ネヴィルは「反逆 はんぎゃく 者 しゃ たち」に発砲 はっぽう することで応 こた えた(この発砲 はっぽう で暴徒 ぼうと のオリバー・ミラーが致命傷 ちめいしょう を負 お った)[ 61] 。
暴徒 ぼうと 達 たち も応戦 おうせん して発砲 はっぽう したが、ネヴィルは奴隷 どれい たちの助 たす けを借 か りて家 いえ を守 まも った[ 62] 。
暴徒 ぼうと 達 たち は援軍 えんぐん を集 あつ めるために近 ちか くのカウチ砦 とりで に撤退 てったい した[ 63] 。
翌日 よくじつ 、暴徒 ぼうと らはバウアー・ヒルに戻 もど ってきた。彼 かれ らの規模 きぼ は600人 にん 近 ちか くに膨 ふく れ上 あ がり、独立 どくりつ 戦争 せんそう にも参加 さんか した退役 たいえき 軍人 ぐんじん ジェームズ・マクファーレン少佐 しょうさ が指揮 しき を取 と っていた[ 64] 。
対 たい するネヴィルも援軍 えんぐん を受 う けており、ピッツバーグからネヴィルの義兄 ぎけい で陸軍 りくぐん 少佐 しょうさ のエイブラハム・カークパトリックが、部下 ぶか である10人 にん の兵士 へいし を率 ひき いてやってきていた[ 65] 。
カークパトリックは、暴徒 ぼうと たちが到着 とうちゃく する前 まえ に、近 ちか くの渓谷 けいこく に部隊 ぶたい を潜 ひそ ませた。
レノックスとネヴィルの息子 むすこ プレスリー・ネヴィル (英語 えいご 版 ばん ) も応援 おうえん のため駆 か けつけていたが、ネヴィルの邸宅 ていたく に入 はい る前 まえ に暴徒 ぼうと たちに捕 と らえられた[ 66] 。
いくつかの無駄 むだ に終 お わった交渉 こうしょう の後 のち 、女 おんな 子供 こども は家 いえ から退却 たいきゃく することが許 ゆる され、その後 ご 、双方 そうほう による銃撃 じゅうげき 戦 せん が始 はじ まった。約 やく 1時 じ 間 あいだ 後 ご 、マクファーレンが停戦 ていせん を呼 よ びかけた。一説 いっせつ によれば、家 いえ の中 なか で白旗 はっき を降 ふ るのが見 み えたからだという。マクファーレンが攻囲 こうい から出 で てきたところ、邸宅 ていたく 内 ない から銃声 じゅうせい が聞 き こえ、彼 かれ は致命傷 ちめいしょう を負 お った。これに激怒 げきど した暴徒 ぼうと たちは奴隷 どれい 宿舎 しゅくしゃ を含 ふく む屋敷 やしき に火 ひ を放 はな ち、カークパトリックは降伏 ごうぶく した[ 67] 。
バウアー・ヒルの戦 たたか いにおける死傷 ししょう 者 しゃ の数 かず は不明 ふめい である。暴徒 ぼうと 側 がわ は少 すく なくともマクファーレンと、他 た 1,2名 めい の民兵 みんぺい が殺 ころ された。また、アメリカ兵 へい 1名 めい が、このときの戦傷 せんしょう が元 もと で死亡 しぼう した可能 かのう 性 せい がある[ 68] 。
暴徒 ぼうと たちはアメリカ兵 へい を追 お い払 はら い、カークパトリック、レノックス、プレスリー・ネヴィルは捕虜 ほりょ として捕 つか まったが、後 のち に逃亡 とうぼう に成功 せいこう した[ 69] 。
穏健 おんけん 派 は だったヒュー・ヘンリー・ブラッケンリッジ (英語 えいご 版 ばん ) の肖像 しょうぞう 画 が 。暴徒 ぼうと たちの破壊 はかい 行為 こうい を防 ふせ ごうとした。
7月 がつ 18日 にち 、マクファーレンを英雄 えいゆう として弔 とむら う葬儀 そうぎ が行 おこな われた。この「殺人 さつじん 」は、反乱 はんらん 軍 ぐん の言葉 ことば を借 か りれば、地方 ちほう をさらに過激 かげき 化 か させることにつながった[ 70] 。
ブラッケンリッジのような穏健 おんけん 派 は は民衆 みんしゅう を強 つよ く宥 なだ めることを余儀 よぎ なくされる一方 いっぽう で、デヴィッド・ブラッドフォード (英語 えいご 版 ばん ) のような過激 かげき な指導 しどう 者 しゃ が現 あらわ れ、暴力 ぼうりょく による抵抗 ていこう を推進 すいしん した。7月26日 にち 、ブラッドフォード率 ひき いる一団 いちだん はピッツバーグ発 はつ の郵便 ゆうびん 物 ぶつ を強奪 ごうだつ して、自分 じぶん たちに反発 はんぱつ する町 まち の人間 にんげん を割 わ り出 だ そうとし、実際 じっさい に反乱 はんらん 軍 ぐん を非難 ひなん するいくつかの手紙 てがみ を発見 はっけん した。そしてブラッドフォードと仲間 なかま たちは、ピッツバーグの東 ひがし 約 やく 8マイル(13キロ)にあるブラドックズ・フィールド (英語 えいご 版 ばん ) に集 あつ まり、軍事 ぐんじ 集会 しゅうかい を開 ひら くことを呼 よ びかけた[ 71] 。
8月 がつ 1日 にち 、ブラドックズ・フィールドには約 やく 7,000人 にん の人々 ひとびと が集 あつ まった[ 72] 。
この時 とき 集 あつ まった者 もの たちのほとんどは、土地 とち を所有 しょゆう せず、またウィスキー蒸溜 じょうりゅう 器 き も所有 しょゆう していない貧 まず しい人々 ひとびと であった。すなわち、発端 ほったん はウィスキー税 ぜい を巡 めぐ る騒動 そうどう であったにもかかわらず、この頃 ころ になると広 ひろ く経済 けいざい 的 てき 不満 ふまん が爆発 ばくはつ した形 かたち となっており、そのためにウィスキー税 ぜい と無関係 むかんけい の裕福 ゆうふく な資産 しさん 家 か らが襲 おそ われる事例 じれい も発生 はっせい していた[ 73] 。
この参加 さんか 者 しゃ の中 なか でも特 とく に過激 かげき な者 もの たちは、彼 かれ らが「ソドム 」とみなしたピッツバーグまで行進 こうしん し、その富裕 ふゆう 層 そう の邸宅 ていたく から略奪 りゃくだつ を行 おこな った上 うえ に街 まち を焼 や き払 はら おうと考 かんが えていた[ 74] 。
また、ファイエット砦 とりで を攻撃 こうげき しようとする者 もの もいた。同 どう 時期 じき に起 お こっていたフランス革命 かくめい を称賛 しょうさん し、アメリカにギロチン を持 も ち込 こ もうと提案 ていあん する者 もの もいた。ブラッドフォードは、自分 じぶん のことをフランス革命 かくめい における恐怖 きょうふ 政治 せいじ の指導 しどう 者 しゃ であったマクシミリアン・ロベスピエール に擬 なぞら えていたとも言 い われている[ 75] 。
ブラドックズ・フィールドの集会 しゅうかい ではアメリカからの独立 どくりつ を宣言 せんげん し、スペインあるいはイギリスと手 て を組 く むという話 はなし も出 で ていた。急進 きゅうしん 派 は は独立 どくりつ 宣言 せんげん のために新 あら たな旗 はた も作 つく った。この旗 はた は集会 しゅうかい に参加 さんか したペンシルベニア州 しゅう のアレゲニー、ベッドフォード、ファイエット、ワシントン、ウェストモアランド、及 およ び、バージニア州 しゅう のオハイオといった各 かく 郡 ぐん を示 しめ す6本 ほん のストライプが描 えが かれた意匠 いしょう であった[ 76] 。
ピッツバーグの市民 しみん たちは、盗 ぬす み読 よ まれた手紙 てがみ によって反乱 はんらん 軍 ぐん を怒 おこ らせた3名 めい を追放 ついほう し、集会 しゅうかい への支持 しじ を表明 ひょうめい するためにブラドックズ・フィールドに代表 だいひょう 団 だん を送 おく ったことで緊張 きんちょう の緩和 かんわ を果 は たした[ 77] 。
ブラッケンリッジは群衆 ぐんしゅう を説得 せっとく し、抗議 こうぎ 活動 かつどう を街 まち の中 なか での行進 こうしん に留 と めさせた。結果 けっか 、ピッツバーグではカークパトリック少佐 しょうさ の納屋 なや が焼 や き討 う ちされた以外 いがい は、放火 ほうか は行 おこな われなかった[ 78] 。
アルバート・ギャラティン の肖像 しょうぞう 写真 しゃしん 。反乱 はんらん 軍 ぐん に節度 せつど ある行動 こうどう の必要 ひつよう 性 せい を訴 うった えた。
8月 がつ 14日 にち 、6つの郡 ぐん から集 あつ まった226人 にん のウィスキー反乱 はんらん 軍 ぐん の者 もの たちが、現在 げんざい のモノンガヒラにあるパーシソンズ・フェリー(現在 げんざい のウィスキー・ポイント)で集会 しゅうかい を開 ひら いた。ここではブラッケンリッジ、ギャラティン、ブラッドフォード、そしてベッドフォード郡 ぐん の代表 だいひょう であるハーマン・ハズバンド (英語 えいご 版 ばん ) という風変 ふうが わりな巡回 じゅんかい 説教 せっきょう 者 しゃ らが起草 きそう した決議 けつぎ 案 あん が検討 けんとう された。ハズバンドは地元 じもと で著名 ちょめい な人物 じんぶつ であり、25年 ねん 前 まえ のノースカロライナのレギュレーター運動 うんどう (英語 えいご 版 ばん ) の参加 さんか 者 しゃ でもある急進 きゅうしん 的 てき な民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 者 しゃ であった[ 79] 。
この集会 しゅうかい ではワシントン大統領 だいとうりょう によって西部 せいぶ に派遣 はけん された和平 わへい 委員 いいん 会 かい と会談 かいだん するための委員 いいん 会 かい も任命 にんめい された[ 80] 。
そこでギャラティンは和平 わへい 策 さく を支持 しじ し、さらに反乱 はんらん の規模 きぼ を大 おお きくするブラッドフォード案 あん に反対 はんたい する雄弁 ゆうべん な演説 えんぜつ を行 おこな った[ 81] 。
ペンシルベニア州 しゅう 西部 せいぶ における武力 ぶりょく 蜂起 ほうき の危機 きき に際 さい して、ワシントン大統領 だいとうりょう は政府 せいふ の権威 けんい を維持 いじ するために慎重 しんちょう に行動 こうどう した。世論 せろん の支持 しじ に注意 ちゅうい し、大統領 だいとうりょう 顧問 こもん 団 だん に、意見 いけん 書 しょ を求 もと めた。和解 わかい を促 うなが したランドルフ国務 こくむ 長官 ちょうかん を除 のぞ いて、顧問 こもん 団 だん は武力 ぶりょく 行使 こうし を助言 じょげん した[ 82] 。
ワシントンは民兵 みんぺい 隊 たい を招集 しょうしゅう する一方 いっぽう で、反乱 はんらん 軍 ぐん と会談 かいだん するための特使 とくし を派遣 はけん した。ワシントン自身 じしん はこの使節 しせつ が成果 せいか を上 あ げる可能 かのう 性 せい に懐疑 かいぎ 的 てき であり、反乱 はんらん を抑制 よくせい するためには軍事 ぐんじ 遠征 えんせい しかないと考 かんが えていた[ 83] 。
このため、通説 つうせつ では交渉 こうしょう のための特使 とくし は見 み せかけのものであり、武力 ぶりょく 行使 こうし は既定 きてい 路線 ろせん であったと批難 ひなん されることがある[ 84] 。
歴史 れきし 家 か のスタンリー・エルキンスとエリック・マッキトリックは、圧倒的 あっとうてき な武力 ぶりょく 示威 じい によって反乱 はんらん 軍 ぐん を牽制 けんせい できるとして、軍事 ぐんじ 遠征 えんせい は「それ自体 じたい が和解 わかい プロセスの一部 いちぶ 」とみなされると主張 しゅちょう している[ 85] 。
一方 いっぽう 、ハミルトンはフィラデルフィアの新聞 しんぶん 紙上 しじょう で、タリー(Tully)と名乗 なの ってペンシルベニア州 しゅう 西部 せいぶ の暴動 ぼうどう を糾弾 きゅうだん し、軍事 ぐんじ 行動 こうどう を提唱 ていしょう するコラムを書 か き始 はじ めた。「民主 みんしゅ 共和 きょうわ 協会 きょうかい (英語 えいご 版 ばん ) (Democratic-Republican Societies)」と名乗 なの る結社 けっしゃ が全国 ぜんこく 各地 かくち で結成 けっせい され、ワシントンとハミルトンは、これが市民 しみん 不安 ふあん の原因 げんいん とみなした。
2003年 ねん 、歴史 れきし 家 か のマーク・スペンサーは「正確 せいかく な協会 きょうかい の役割 やくわり について歴史 れきし 家 か の間 あいだ で定説 ていせつ はない」としつつ、「協会 きょうかい のメンバーとウィスキー反乱 はんらん 軍 ぐん のメンバーには一定 いってい の重複 じゅうふく がみられた」と書 か いている[ 86] 。
1792年 ねん の民兵 みんぺい 法 ほう では、軍隊 ぐんたい を編成 へんせい するには、地方 ちほう 当局 とうきょく が司法 しほう の執行 しっこう 能力 のうりょく を喪失 そうしつ していることを、合衆国 がっしゅうこく 最高裁判所 さいこうさいばんしょ の判事 はんじ が認定 にんてい する必要 ひつよう があった。1794年 ねん 8月 がつ 4日 にち 、ジェイムズ・ウィルソン 連邦 れんぽう 最高裁 さいこうさい 判事 はんじ は、ペンシルベニア州 しゅう 西部 せいぶ は反乱 はんらん 状態 じょうたい にあるという見解 けんかい を出 だ した[ 87] 。
8月7日 にち 、ワシントンは大統領 だいとうりょう 令 れい を発 はっ し、「非常 ひじょう に遺憾 いかん に思 おも う」と申 もう し添 ぞ えながら反乱 はんらん 鎮圧 ちんあつ のために民兵 みんぺい 隊 たい を派遣 はけん することを発表 はっぴょう した。そして、反乱 はんらん 軍 ぐん に対 たい し、9月1日 にち までに解散 かいさん することを命 めい じた[ 88] 。
1794年 ねん 8月 がつ 初旬 しょじゅん 、ワシントンは和平 わへい 協議 きょうぎ のための特使 とくし 3名 めい をペンシルベニア州 しゅう 西部 せいぶ に派遣 はけん した。いずれもペンシルバニア人 じん であり、ペンシルベニア州 しゅう 最高 さいこう 裁判所 さいばんしょ のウィリアム・ブラッドフォード 判事 はんじ とジャスパー・イェーツ (英語 えいご 版 ばん ) 判事 はんじ 、ジェームス・ロス (英語 えいご 版 ばん ) 州 しゅう 上院 じょういん 議員 ぎいん であった。
8月21日 にち から、ブラッケンリッジとギャラティンを含 ふく む西部 せいぶ 代表 だいひょう 者 しゃ たちとの会談 かいだん が始 はじ まった。政府 せいふ 特使 とくし は、暴力 ぼうりょく の放棄 ほうき と連邦 れんぽう 法 ほう に従 したが うことを満場一致 まんじょういっち で同意 どうい し、かつ、地元民 じもとみん がその決定 けってい を支持 しじ するかを確 たし かめる住民 じゅうみん 投票 とうひょう の実施 じっし が必要 ひつよう だと述 の べた。そして、この条件 じょうけん に同意 どうい した者 もの には恩赦 おんしゃ を与 あた え、今後 こんご 追訴 ついそ されないとした[ 89] 。
西部 せいぶ 代表 だいひょう 団 だん は強硬 きょうこう 派 は と穏健 おんけん 派 は に分 わ かれ、僅差 きんさ で政府 せいふ 案 あん を飲 の むことに同意 どうい する決議 けつぎ を採択 さいたく した。9月11日 にち に行 おこな われた州 しゅう 全体 ぜんたい の住民 じゅうみん 投票 とうひょう でも様々 さまざま な結果 けっか が出 で た。連邦 れんぽう 法 ほう に従 したが うことを圧倒的 あっとうてき に指示 しじ する町村 ちょうそん もある一方 いっぽう 、貧民 ひんみん 層 そう や小作 こさく 農民 のうみん が多 おお くいる地域 ちいき では政府 せいふ に対 たい する反対 はんたい が依然 いぜん として強 つよ かった[ 90] 。
1794年 ねん 9月 がつ 24日 にち 、ワシントンは特使 とくし から「法 ほう の正当 せいとう な執行 しっこう を確保 かくほ するためには、現地 げんち 当局 とうきょく を軍事 ぐんじ 力 りょく で支援 しえん する必要 ひつよう がある」という報告 ほうこく を受 う けた[ 91] 。
9月25日 にち 、ワシントンはニュージャージー、ペンシルベニア、メリーランド、ヴァージニアの民兵 みんぺい を召集 しょうしゅう する大統領 だいとうりょう 令 れい を発 はっ し、反乱 はんらん 軍 ぐん に協力 きょうりょく した者 もの は危険 きけん を承知 しょうち で行 おこな ったとみなすと警告 けいこく した[ 91] [ 92] 。
もっとも、西側 にしがわ 地域 ちいき は降伏 ごうぶく する方向 ほうこう に進 すす んでおり、代表 だいひょう のウィリアム・フィンドリーとデイヴィッド・レディック (英語 えいご 版 ばん ) を派遣 はけん してワシントンと会談 かいだん し、連邦 れんぽう 軍 ぐん の撤退 てったい を求 もと めた。しかし、ワシントンとハミルトンは、これを拒否 きょひ し、撤退 てったい すれば再 ふたた び反乱 はんらん が起 お こる可能 かのう 性 せい が高 たか いと指摘 してき した[ 90] 。
連邦 れんぽう 軍 ぐん の出動 しゅつどう と反乱 はんらん 軍 ぐん の解散 かいさん [ 編集 へんしゅう ]
反乱 はんらん 鎮圧 ちんあつ にあたって、実際 じっさい に現場 げんば で連邦 れんぽう 軍 ぐん を率 ひき いたダニエル・モーガン 。
成立 せいりつ して間 あいだ もない連邦 れんぽう 民兵 みんぺい 法 ほう に基 もと づき、ニュージャージー、メリーランド、バージニア、ペンシルベニアの各州 かくしゅう 知事 ちじ の権限 けんげん で州民 しゅうみん 兵 へい が召集 しょうしゅう された。集 あつ められた12,950人 にん の民兵 みんぺい は、当時 とうじ のアメリカとしては大 だい 規模 きぼ な軍隊 ぐんたい であり、独立 どくりつ 戦争 せんそう 中 ちゅう のワシントン軍 ぐん に匹敵 ひってき する大軍 たいぐん であった[ 93] 。
しかし、民兵 みんぺい に志願 しがん する者 もの は少 すく なく、徴兵 ちょうへい が行 おこな われた。徴兵 ちょうへい 忌避 きひ は広 ひろ く行 おこな われ、東部 とうぶ 地域 ちいき では抗議 こうぎ や暴動 ぼうどう が起 お きた。バージニア州 しゅう 東部 とうぶ の3つの郡 ぐん では、徴兵 ちょうへい に対 たい して武力 ぶりょく 抵抗 ていこう が起 お きた。メリーランド州 しゅう ではヘイガーズタウン で起 お きた反 はん 徴兵 ちょうへい 暴動 ぼうどう 鎮圧 ちんあつ のために、トーマス・シム・リー (英語 えいご 版 ばん ) 知事 ちじ が800人 にん の兵士 へいし を送 おく り、約 やく 150人 にん が逮捕 たいほ された[ 94] 。
民兵 みんぺい の募集 ぼしゅう に対 たい して、各地 かくち で自由 じゆう の柱 はしら (英語 えいご 版 ばん ) (リバティポール)が掲 かか げられ、連邦 れんぽう 政府 せいふ を危惧 きぐ させた。
ペンシルバニア州 しゅう カーライル には9月11日 にち に掲 かか げられたが[ 95] 、同月 どうげつ 末 まつ に連邦 れんぽう 軍 ぐん が町 まち に入 はい ると柱 はしら を立 た てた容疑 ようぎ 者 しゃ は一斉 いっせい 検挙 けんきょ され、この騒動 そうどう の中 なか で2人 ふたり の民間 みんかん 人 じん が殺 ころ された。9月29日 にち には警官 けいかん の拳銃 けんじゅう の誤 あやま 射 しゃ により、丸腰 まるごし の少年 しょうねん が亡 な くなる事件 じけん が起 お きた。この2日 にち 後 ご には、逮捕 たいほ に抵抗 ていこう した「地域 ちいき 移動 いどう 者 しゃ (Itinerant Person)」が、兵士 へいし に「銃剣 じゅうけん (Bayoneted)」で殺 ころ される事件 じけん が発生 はっせい した(殺 ころ された男 おとこ は、スクールキル川 がわ の運河 うんが 掘削 くっさく のために集 あつ められた500人 にん 規模 きぼ のアイルランド人 じん 労働 ろうどう 者 しゃ の一人 ひとり である可能 かのう 性 せい があり、兵士 へいし からライフルを奪 うば おうとして殺 ころ されたという。この殺害 さつがい に少 すく なくとも労働 ろうどう 者 しゃ の一人 ひとり が強 つよ く抗議 こうぎ したことで、彼 かれ は「監視 かんし 下 か に置 お かれた」)[ 96] 。
ワシントンは2人 ふたり の兵士 へいし の逮捕 たいほ を命 めい じ、司法 しほう 機関 きかん に引 ひ き渡 わた した。州 しゅう の判事 はんじ は、偶発 ぐうはつ 的 てき な事故 じこ と判断 はんだん し、兵士 へいし たちは釈放 しゃくほう された[ 97] 。
9月30日 にち 、ワシントンはフィラデルフィアを出発 しゅっぱつ し、進軍 しんぐん の状況 じょうきょう を確認 かくにん した[ 91] 。
歴史 れきし 家 か のジョセフ・エリス (英語 えいご 版 ばん ) によれば、「現職 げんしょく のアメリカ大統領 だいとうりょう が自 みずか ら軍隊 ぐんたい を率 ひき いて戦場 せんじょう に赴 おもむ いた最初 さいしょ かつ唯一 ゆいいつ の例 れい 」であったという[ 98] 。
まず、ペンシルバニア州 しゅう レディング で、カーライルで動員 どういん を命 めい じた残 のこ りの民兵 みんぺい と合流 ごうりゅう した後 のち [ 91] 、10月2日 にち に同地 どうち を出発 しゅっぱつ し、「(スクールキルとサスケハナの)運河 うんが を見 み る」として、西 にし のウォメルズドルフへ向 む かった[ 91] 。
ワシントンは10月9日 にち にペンシルベニア州 しゅう ベッドフォードで西部 せいぶ 地域 ちいき の代表 だいひょう と会談 かいだん した後 のち 、メリーランド州 しゅう のカンバーランド砦 とりで に行 い き、南部 なんぶ からの軍隊 ぐんたい を閲兵 えっぺい した[ 99] 。
そして連邦 れんぽう 軍 ぐん として編成 へんせい された民兵 みんぺい 隊 たい はほぼ抵抗 ていこう に遭 あ わないと確信 かくしん し、独立 どくりつ 戦争 せんそう の英雄 えいゆう でもあったバージニア州 しゅう 知事 ちじ ヘンリー・リー (通称 つうしょう ライトホース・ハリー[ 注釈 ちゅうしゃく 1] )に指揮 しき を任 まか せることを決 き め、ワシントンはフィラデルフィアに戻 もど った。ハミルトンは文民 ぶんみん 顧問 こもん として軍 ぐん に留 とど まった[ 100] 。
ヘンリー・リー指揮 しき 下 か で、ダニエル・モーガン が部隊 ぶたい を率 ひき いてペンシルベニア州 しゅう 西部 せいぶ に進駐 しんちゅう した。モーガンは独立 どくりつ 戦争 せんそう のカウペンスの戦 たたか い で勝利 しょうり した将軍 しょうぐん であり、今回 こんかい の招集 しょうしゅう を受 う けて少将 しょうしょう に昇進 しょうしん した[ 101] 。
こうした大 だい 規模 きぼ な武力 ぶりょく 投入 とうにゅう により、一発 いっぱつ の銃声 じゅうせい もなく反乱 はんらん は鎮圧 ちんあつ された。その後 ご も、治安 ちあん 維持 いじ のためモーガンは約 やく 1200名 めい の民兵 みんぺい 隊 たい を率 ひき いて1795年 ねん までペンシルベニアに駐屯 ちゅうとん した。この中 なか には、後 のち にルイス・クラーク探検 たんけん 隊 たい の隊長 たいちょう を務 つと めたことで知 し られるメリウェザー・ルイス がいた[ 102] 。
第 だい 3代 だい 合衆国 がっしゅうこく 大統領 だいとうりょう トーマス・ジェファーソン の肖像 しょうぞう 画 が (1800年 ねん )。納税 のうぜい 反対 はんたい 者 しゃ たちに支持 しじ され、最終 さいしゅう 的 てき にウィスキー税 ぜい を廃止 はいし した。
連邦 れんぽう 軍 ぐん の進軍 しんぐん に際 さい して自壊 じかい した反乱 はんらん 軍 ぐん では、デイヴィッド・ブラッドフォードのような目立 めだ った指導 しどう 者 しゃ は、連邦 れんぽう 政府 せいふ の管轄 かんかつ 外 がい にある安全 あんぜん な西方 せいほう 地域 ちいき へと逃亡 とうぼう した。起訴 きそ された者 もの たちが実際 じっさい に裁判 さいばん にかけられるまでには6ヶ月 かげつ を要 よう した。ただ、ほとんどは人違 ひとちが い、信憑 しんぴょう 性 せい のない証言 しょうげん 、証人 しょうにん 不足 ふそく のため無罪 むざい となった。
作家 さっか のトーマス・J・クローウェルによれば、2000人 にん もの反乱 はんらん 軍 ぐん が、民兵 みんぺい の手 て の届 とど かない山奥 やまおく への逃 に げ込 こ んでしまったことは、フィラデルフィアの裁判 さいばん において、ブラッドフォードのような反乱 はんらん のリーダーを反逆 はんぎゃく 罪 ざい (英語 えいご 版 ばん ) で絞首刑 こうしゅけい にしたかったハミルトンを大 おお いに失望 しつぼう させるものであった。裁判 さいばん の被告 ひこく となった20名 めい は追跡 ついせき を諦 あきら めた民兵 みんぺい 隊 たい が捕 と らえた容疑 ようぎ 者 しゃ たちの中 なか から見 み せしめとして選 えら ばれた者 もの たちであり、仮 かり に罪 つみ がある者 もの がいたとしても単 たん に反乱 はんらん に参加 さんか した程度 ていど であったが、連邦 れんぽう 政府 せいふ にとっては何 なに もないよりは好 この ましい結果 けっか であった。
連邦 れんぽう 軍 ぐん と逮捕 たいほ された反乱 はんらん の参加 さんか 者 しゃ たちは、クリスマスにフィラデルフィアに到着 とうちゃく した。大砲 たいほう が発射 はっしゃ され、教会 きょうかい の鐘 かね が鳴 な らされる中 なか で「兵隊 へいたい を応援 おうえん し、反乱 はんらん 軍 ぐん を嘲 あざけ るために、ブロードストリートには大勢 おおぜい の人々 ひとびと が詰 つ めかけた(中略 ちゅうりゃく )プレスリー・ネヴィルは「彼 かれ らに同情 どうじょう せずにはいられない」と語 かた った。捕虜 ほりょ たちは"屈辱 くつじょく 的 てき で、ボロボロであり、半分 はんぶん 飢 う えている"状態 じょうたい でストリートを行進 こうしん させられた」。
他 た の文献 ぶんけん では重 じゅう 反逆 はんぎゃく 罪 ざい で24人 にん の男 おとこ たちが起訴 きそ されたとしているものがある[ 104] 。
いずれにせよ被告 ひこく のほとんどは逃亡 とうぼう に成功 せいこう していたため、連邦 れんぽう 裁判所 さいばんしょ での審理 しんり を受 う けたのは10人 にん だけであった[ 105] 。
さらにこの中 なか で実際 じっさい に有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を受 う けたのはフィリップ・ウィグル[ 108] とジョン・ミッチェルだけであった。ウィグルについては徴税 ちょうぜい 官 かん を殴 なぐ って、その家 いえ を焼 や いた者 もの であったが、ミッチェルはブラッドフォードに説得 せっとく されて郵便 ゆうびん 物 ぶつ を盗 ぬす んだだけの者 もの であった。2人 ふたり は反逆 はんぎゃく 罪 ざい で有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を受 う け、絞首刑 こうしゅけい を宣告 せんこく されたが、後 のち にワシントンによって恩赦 おんしゃ が出 だ された[ 109] [ 110] 。
ペンシルベニア州 しゅう の裁判所 さいばんしょ は、暴行 ぼうこう や暴動 ぼうどう の罪 つみ で、多 おお くの法 ほう を犯 おか した者 もの を捕 と らえて起訴 きそ し、有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を下 くだ すことができた[ 111] 。
7度目 どめ となる一般 いっぱん 教書 きょうしょ 演説 えんぜつ の中 なか で、ワシントンはミッチェルとウィグルに大統領 だいとうりょう 恩赦 おんしゃ を与 あた えるという決定 けってい について説明 せつめい した。いつものように、演説 えんぜつ の草稿 そうこう はハミルトンとジョン・ジェイが書 か き、最後 さいご にワシントンが手 て を入 い れたものであった。
過 あやま ちを犯 おか した者 もの たちは、それを断念 だんねん した(中略 ちゅうりゃく )私 わたし は、私 わたし に与 あた えられた憲法 けんぽう 上 じょう の権力 けんりょく を断固 だんこ かつ精力 せいりょく 的 てき に行使 こうし することが、常 つね に神聖 しんせい な義務 ぎむ であると考 かんが えているが、それでも国家 こっか の正義 せいぎ 、尊厳 そんげん 、安全 あんぜん が許 ゆる す限 かぎ りの節度 せつど と優 やさ しさを政府 せいふ の活動 かつどう に含 ふく むことは、私 わたし の個人 こじん 的 てき な感情 かんじょう に留 と まらず、公共 こうきょう の利益 りえき に適 かな うものだと思 おも うのだ。
— [ 112] [ 113]
ウィスキー税 ぜい に対 たい する暴力 ぼうりょく 的 てき な反対 はんたい 運動 うんどう は終 お わりを迎 むか えたが、依然 いぜん として穏健 おんけん な反対 はんたい 運動 うんどう は続 つづ いた。反対 はんたい 派 は は、内国 ないこく 税 ぜい に関 かん してハミルトンと対立 たいりつ したトーマス・ジェファーソン を支持 しじ し、最終 さいしゅう 的 てき に彼 かれ が1800年 ねん の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ で勝利 しょうり することに貢献 こうけん した。そして1802年 ねん までに連邦 れんぽう 議会 ぎかい はウィスキー税 ぜい を含 ふく む、すべての連邦 れんぽう 政府 せいふ による内国 ないこく 税 ぜい を廃止 はいし した。こうして連邦 れんぽう 政府 せいふ は1812年 ねん の米 べい 英 えい 戦争 せんそう まで歳入 さいにゅう を輸入 ゆにゅう 関税 かんぜい にだけ頼 たよ ることとなったが、対外 たいがい 貿易 ぼうえき の拡大 かくだい により、関税 かんぜい 収入 しゅうにゅう は急速 きゅうそく に成長 せいちょう した[ 20] 。
ウィスキー税 ぜい に端 はし を発 はっ する反乱 はんらん をワシントン政権 せいけん が武力 ぶりょく 鎮圧 ちんあつ したことは、広 ひろ く民衆 みんしゅう の支持 しじ を得 え た[ 114] 。
この出来事 できごと は、新 あたら しい中央 ちゅうおう 政府 せいふ が、法 ほう に対 たい する暴力 ぼうりょく 的 てき な反抗 はんこう を弾圧 だんあつ する意思 いし と能力 のうりょく を所有 しょゆう していることを示 しめ した。よって、一般 いっぱん に歴史 れきし 家 か の間 あいだ では、ワシントン政権 せいけん の試 こころ みは成功 せいこう したとみなすことが通説 つうせつ となっている[ 115] 。
しかしながら、ワシントン政権 せいけん とその支持 しじ 者 しゃ たちは、物品 ぶっぴん 税 ぜい の徴税 ちょうぜい が依然 いぜん として困難 こんなん であり、多 おお くの西部 せいぶ 住民 じゅうみん が支払 しはら いを拒絶 きょぜつ し続 つづ けたことには言及 げんきゅう しなかった[ 31] 。
また、この出来事 できごと は既 すで に進行 しんこう していたアメリカにおける政党 せいとう 政治 せいじ の形成 けいせい に貢献 こうけん した[ 116] 。
ハミルトンとワシントンの連邦 れんぽう 党 とう に対抗 たいこう して生 う まれたトーマス・ジェファーソン率 ひき いる民主 みんしゅ 共和党 きょうわとう は、1801年 ねん に政権 せいけん を握 にぎ るとウィスキー税 ぜい を廃止 はいし した[ 117] 。
この反乱 はんらん は新 しん 憲法 けんぽう の下 した でどのような抗議 こうぎ が許 ゆる されるかという問題 もんだい を提起 ていき した。法制 ほうせい 史家 しか のクリスチャン・G・フリッツ (英語 えいご 版 ばん ) によれば、憲法 けんぽう 批准 ひじゅん 後 ご でさえ、国家 こっか 主権 しゅけん についてのコンセンサスはまだ得 え られていなかったという。連邦 れんぽう 主義 しゅぎ 者 しゃ は、政府 せいふ は国民 こくみん の手 て によって成立 せいりつ したのだからそこに主権 しゅけん があると考 かんが え、たとえ独立 どくりつ 戦争 せんそう の間 あいだ は許 ゆる されていた過激 かげき な抗議 こうぎ 行動 こうどう であっても、もはや許 ゆる されないものだと捉 とら えた。一方 いっぽう 、ウィスキー税 ぜい の反乱 はんらん 者 しゃ とその支持 しじ 者 しゃ たちは革命 かくめい によって、国民 こくみん が「集団 しゅうだん 的 てき 主権 しゅけん 者 しゃ 」として確立 かくりつ されたのであって、憲法 けんぽう で認 みと められぬ手段 しゅだん によって、政府 せいふ を変更 へんこう したり、異議 いぎ を唱 とな えることができる集団 しゅうだん 的 てき 権利 けんり を有 ゆう していると考 かんが えていた[ 118] 。
歴史 れきし 家 か のスティーブン・ボイドは、ウィスキー税 ぜい 反乱 はんらん の鎮圧 ちんあつ は、反 はん 連邦 れんぽう 主義 しゅぎ であった西部 せいぶ の住民 じゅうみん に合衆国 がっしゅうこく 憲法 けんぽう を受 う け入 い れさせ、政府 せいふ に抵抗 ていこう するのではなく、共和党 きょうわとう に票 ひょう を投 とう じることによって変化 へんか を求 もと めさせるようになったと論 ろん じた。一方 いっぽう の連邦 れんぽう 主義 しゅぎ 者 しゃ たちにも、統治 とうち における大衆 たいしゅう の役割 やくわり を受 う け入 い れさせ、彼 かれ らは集会 しゅうかい の自由 じゆう と請願 せいがん の権利 けんり に異議 いぎ を唱 とな えなくなった[ 119] 。
劇 げき 作家 さっか 兼 けん 女優 じょゆう であったスザンナ・ローソン (英語 えいご 版 ばん ) の絵 え 。
ウィスキー税 ぜい 反乱 はんらん の直後 ちょくご に、女優 じょゆう で劇 げき 作家 さっか のスザンナ・ローソン (英語 えいご 版 ばん ) は『志願 しがん 兵 へい たち(The Volunteers)』と題 だい する、この反乱 はんらん を題材 だいざい としたミュージカルを書 か いた。この作品 さくひん の詳細 しょうさい は不明 ふめい だが、作曲 さっきょく 家 か アレクサンダー・レイナグルによる歌曲 かきょく は残 のこ っており、ここからローソンが連邦 れんぽう 主義 しゅぎ 者 しゃ よりであったことがわかる。このミュージカルはアメリカの英雄 えいゆう として反乱 はんらん を鎮圧 ちんあつ した民兵 みんぺい たちを、すなわち、題 だい にある「志願 しがん 兵 へい 」を讃 たた えている[ 120] 。
1795年 ねん 1月 がつ 、ワシントン大統領 だいとうりょう は妻 つま マーサ と共 とも にフィラデルフィアで行 おこな われた公演 こうえん を観覧 かんらん している[ 121] 。
コメディアンのW・C・フィールズ (英語 えいご 版 ばん ) は、晩年 ばんねん の1946年 ねん に、レス・ポール のスタジオで「The Temperance Lecture」と題 だい した音 おと 劇 げき のコメディを収録 しゅうろく した。これはアルバム『W. C. Fields ... His Only Recording Plus 8 Songs by Mae West.』に収録 しゅうろく されている[ 122] 。
SF小説 しょうせつ 家 か のL・ニール・スミス (英語 えいご 版 ばん ) は、「North American Confederacy Series(北米 ほくべい 連合 れんごう 軍 ぐん シリーズ)」の一環 いっかん として1980年 ねん に歴史 れきし 改変 かいへん SF小説 しょうせつ 『The Probability Broach』を書 か いた。この小説 しょうせつ ではアルバート・ギャラティン が、農民 のうみん たちの利益 りえき を守 まも るために反乱 はんらん 者 しゃ 側 がわ に参加 さんか し、結果 けっか として第 だい 2次 じ アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう に発展 はってん する。最終 さいしゅう 的 てき に連邦 れんぽう 政府 せいふ の転覆 てんぷく に成功 せいこう し、ワシントンは反逆 はんぎゃく 罪 ざい で処刑 しょけい された上 うえ に合衆国 がっしゅうこく 憲法 けんぽう も破棄 はき され、ギャラティンが第 だい 2代 だい 大統領 だいとうりょう となる[ 123] [ 124] 。
デイヴィッド・リス の2008年 ねん の歴史 れきし 小説 しょうせつ 『The Whiskey Rebels』は、1794年 ねん の反乱 はんらん 自体 じたい は描 えが かれないものの、架空 かくう の主人公 しゅじんこう らの視点 してん で、そこに至 いた る1788年 ねん から1792年 ねん の出来事 できごと が展開 てんかい される。
2011年 ねん にペンシルベニア州 しゅう ワシントンで「ウィスキー税 ぜい 反乱 はんらん フェスティバル(Whiskey Rebellion Festival)」が始 はじ まった。毎年 まいとし 7月 がつ に開催 かいさい され、ライブ音楽 おんがく や食事 しょくじ の提供 ていきょう 、また徴税 ちょうぜい 官 かん にタール羽 わ の刑 けい を行 おこな うといった歴史 れきし の再現 さいげん 劇 げき が行 おこな われる[ 125] [ 126] 。
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