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けんこん

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キルギズから転送てんそう

けんこん(けんこん、拼音: Jiānkūn)は、かつて中央ちゅうおうユーラシア北部ほくぶ分布ぶんぷしたテュルクけい遊牧ゆうぼく民族みんぞく。キルギズ(Qïrqïz)の転写てんしゃとされており、時代じだいによっては鬲昆[1](へきこん、Gékūn)・ちぎりこつ[2](けいこつ、Qìgŭ)・きょ(きょぶつ、Jūwù)・ゆいこつ[3](けつこつ、Jiégŭ)・紇骨[4](こつこつ、Gēgŭ)・紇扢斯(こつこつし、Gēgŭsī)・黠戛斯[5](かつかつし、Xiájiásī)・戛戛斯[6](かつかつし、Jiájiásī)・よし利吉としきちおもえ[7]乞力きちおもえ[7]乞児ほいときちおもえ[7]乞里きちおもえ[7] などとしるされた。現代げんだいキルギスじん天山あまやまキルギズ)と区別くべつするためイェニセイ・キルギズともばれる。現在げんざいハカスじん祖先そせんたる。

起源きげん

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しゅうしょ異域いいきでんでは、突厥起源きげんともちぎりこつ(キルギズ)の起源きげんにもれている。

匈奴きょうどきたおもねそし大人おとな(たいじん:部族ぶぞくちょう)とする部落ぶらくがあったが、かれ愚痴ぐち性格せいかくであったため、その部落ぶらくついほろぼされた。おもねそし兄弟きょうだいは17にんいて、その1人ひとりしつどろもろというものがいた。かれ特別とくべつちからっていて天候てんこうあやつることができたため、なつしんむすめふゆしんむすめ2人ふたりめとり、4つさずかった。のちにこの4つのうち2にんからちぎりこつと突厥がまれた。 — 『しゅうしょ列伝れつでんだいよんじゅう 異域いいき

歴史れきし

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紀元前きげんぜん2世紀せいき匈奴きょうどかたこん
2世紀せいき鮮卑かたこん
4世紀せいき後半こうはんやわしかちぎりこつ
7世紀せいきはじめ、東西とうざい突厥あせこくゆいこつ
8世紀せいき後半こうはんかいと黠戛斯。

かんだい

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中国ちゅうごくでは項羽こうう劉邦りゅうほうたがいにこうそうひろげていた時代じだい匈奴きょうどおかせとみちちころしてたんくと、当時とうじ強国きょうこくであったひがしひがしえびすほろぼし、西にしつき駆逐くちくし、さらにみなみオルドス地方ちほう)のろうはんしろひつじ河南かなんおう併合へいごうし、中国ちゅうごくにも侵入しんにゅうした。こうしてそれまでは小国しょうこくにすぎなかった匈奴きょうどモンゴル高原こうげん統一とういつしてとなえると、そのきたバイカル周辺しゅうへん)にんでいた渾庾・こごめちょうれい鬲昆たきぎ犁といったしょぞくもまもなく匈奴きょうど服属ふくぞくした[8]

りゅう元年がんねんぜん49ねんごろ匈奴きょうど郅支たん在位ざいい紀元前きげんぜん56ねん - 紀元前きげんぜん36ねん)はおとうとよびかんよこしまたん在位ざいい紀元前きげんぜん58ねん - 紀元前きげんぜん31ねん)と対立たいりつしていたが、かんんでいたよびかんよこしまたん于のほう優勢ゆうせいだったので、西にしがらすまご協力きょうりょくもとめた。しかし、がらすまごしょうこんわたるがらすまご君主くんしゅごう)であるがらす就屠(うしゅうと)もかんがわについたので、郅支たん于はがらすまご撃破げきはし、これにじょうじてきたがらすってくだし、そのへい使つかってさらに西にしけんこんやぶり、さらにきたひのとれいをもくだしてがらす掲・けんこんひのとれいさんこく併合へいごうした。そのなんがらすまごへい派遣はけんして勝利しょうりつづけたので、郅支たん于はけんこんうつした[9]

さんこく時代じだい

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三国志さんごくし』の『りゃく西戎せいじゅうでんには以下いかのようにしるされている。

よびとくくにねぎみねきたがらすまご西北せいほくかんきょ東北とうほくり、かちへいは1まんにんあまり、畜牧にしたがい、りょうてん産出さんしゅつする。けんこんこくかんきょ西北せいほくり、かちへいは3まんにん、畜牧にしたがい、おおくのてんりょう産出さんしゅつする。ひのとれいこくかんきょきたり、かちへいは6まんにん、畜牧にしたがい、名産めいさんであるねずみがわはくこんかわあおこんかわ産出さんしゅつする。これらさんこくけんこん中央ちゅうおうで、匈奴きょうどたん于庭であるやす習水をること7千里せんりみなみくるまろくこくること5千里せんり西南せいなんかんきょかいること3千里せんり西にしかんきょおうること8千里せんり距離きょりにある。一方いっぽう北海ほっかい(バイカル)のみなみ地域ちいき、すなわち匈奴きょうどきたには渾庾こくこごめこくひのとれいこく・鬲昆こくたきぎ犁国がある。 — 『りゃく西戎せいじゅうでん

突厥時代じだい

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突厥やわしかあせこくほろぼしてあせこくとなると、だい3だいあせあせ在位ざいい553ねん - 572ねん)は西にしの嚈噠(エフタル)をやぶり、ひがしちぎり(キタイ)を敗走はいそうさせ、きたちぎりこつ併合へいごうし、中央ちゅうおうユーラシアを支配しはいすることとなった[10]

そのは突厥の盛衰せいすいおうじて服属ふくぞく離反りはんかえしていたが、くるまはなあせ在位ざいい:? - 650ねん)があらわれるとゆいこつかずら邏禄(カルルク)とともにふたたび突厥にいた[11]

とうだい

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さだかん22ねん648ねん)、てつしょとうにゅうしんしたといたけんこんは、すぐさま使者ししゃおくってかたぶつけんじ、酋長しゅうちょうである俟利はつ(イルテベル)のしつばちこごめおもねみずか入朝にゅうちょうしたので、ふとしむね在位ざいい626ねん - 649ねん)はよろこんで酒宴しゅえんひらき、けんこんをもってけんこんとし、しつばちこごめおもね棧をはいしてひだりたむろまもる大将軍だいしょうぐんとするとともに、けんこんとくとしてつばめしかみやこまもる隷属れいぞくさせた。

こうはじめ在位ざいい649ねん - 683ねん)のとき、けんこんふたた入朝にゅうちょうした。

けいりゅう年間ねんかん707ねん - 710ねん)、けんこんはまたとうかたぶつ献上けんじょうした。ちゅうむねは「(けんこんりょう末裔まつえいであるため)われどうむねおなせい)である」といい、酒宴しゅえんひらいた。げんむね在位ざいい712ねん - 756ねん)のときにけんこんは4かいあさけんじした。

いぬいはじめ年間ねんかん758ねん - 760ねん)、けんこんかい紇(ウイグルやぶられたので、これより中国ちゅうごく交通こうつうできなくなった。のちに狄語(テュルク)がなまって黠戛斯(かつかつし)となるが、おそらくかい(ウイグルあせこく)によるものだとおもわれる。わかくは赤面せきめんといい、またなまって戛戛斯となる。黠戛斯はつね大食たいしょく(タージ:イスラーム帝国ていこく)・吐蕃かずら邏禄(カルルク)とたがいにたよい、吐蕃の往来おうらいしゃにいたってはかい鶻の略奪りゃくだつおそれたため、かならかずら邏禄にみ、黠戛斯の護送ごそうっていた。一方いっぽうかい鶻は黠戛斯のきみちょうであるおもねねつ(あぜつ:黠戛斯の君主くんしゅごう)にかんさづけて毘伽ひたぶる頡斤(ビルゲ・トン・イルキン)とした。

[12]

かい鶻をほろぼしあせこくとなる

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かい鶻可あせこくおとろえると、おもねねつはすぐさまあせ(カガン)をしょうした。そのはは突騎ほどこせ(テュルギシュ)のむすめははあつし皇太后こうたいごう)となる。つまかずら邏禄まもる(カルルク・ヤブグ:カルルクの君主くんしゅ)のむすめあつし(カトゥン:皇后こうごう)となる。

開成かいせい5ねん840ねんごろかい鶻のみぞちょう(きょちょう:将軍しょうぐん)であるろく莫賀(ろくまつ、キュリュグ・バガ)は、きた黠戛斯(キルギス、Qïrqïz)ぐん10まんまねせてかい鶻城(オルド・バリクか?)をやぶり、㕎馺あせ[13]勿(キュレビル)をころしてそのきばちょう[14]はらった。これによってかい鶻可あせこく崩壊ほうかいし、くに有力ゆうりょくしゃたちはかくとくつとむ(テギン:皇子おうじ)をほうじて各地かくちらばった。そのうち、あせにわ(かがんてい:あせきばちょうちかくの13は、がらすかいとくつとむ(ウゲ・テギン、Ügä Tägin)をあせ推戴すいたいし、みなみの錯子やま割拠かっきょした。途中とちゅうがらすかいあせらはふとやわ公主こうしゅとうまで護送ごそうする黠戛斯のいたる(タルカン、Tarqan)[15] らと遭遇そうぐうした。がらすかいあせはそれをつけるなりたちらをころし、ふとし公主こうしゅほうじてわりにとう天徳てんとくかいまで護送ごそうしてやった。

かいあきら年間ねんかん841ねん - 846ねん)、おもねねつ使者ししゃころしたため、しばらく入朝にゅうちょうせずにいたが、ふたたびちゅうわれあいもと[16]つかわして上書うわがきげんじょうした。たけはじめ在位ざいい840ねん - 846ねん)はちゅうわれあいもとらが3ねんかけて京師けいしにたどりついたことにおおいによろこんだ。このころがらすかいあせしゅしつくろしゃ)に亡命ぼうめいしていたので、おもねねつかい鶻の残党ざんとう討伐とうばつねがた。たけはじめみぎつねさむらいぬぐえを黠戛斯につかわし、くんちょう冊立さくりつしてそう英雄ひでおたけまことあきらあせとした。しかし、使者ししゃ到着とうちゃくしないうちにたけはじめ崩御ほうぎょしてしまう。わってせんむね在位ざいい846ねん - 859ねん)が即位そくいすると、大中おおなか元年がんねん847ねん)、たけはじめそつみことのりおおとり臚卿のぎょうふしたせて黠戛斯阿ねつ冊立さくりつして英武ひでたけまことあきらあせとした。

大中おおなか2ねん848ねんはるかい鶻の遏捻あせのもとにはめいおうたかしんの500にんしかいなくなったため、かれらはしつることにした。しかし、ちょうなかたけしが遏捻あせらをとらえるべく黠戛斯などをしつ韋にかわせたため、遏捻あせは懼れてつまかずら邏禄(カルルク)ととくつとむどく斯ら9だけをれてよる西にし逃亡とうぼうし、行方ゆくえをくらました。しつ韋はかい鶻のしゅけてななふんとし、ななせいしつ韋はかくいちふん占領せんりょうした。そこへ黠戛斯宰しょうおもね播がりょうするしょしげるへい7まんが遏捻あせおよびしょかい鶻人をとらえるべくしつ韋にんできた。しつ韋はおもね播のぐん大敗たいはいし、かい鶻人ともども黠戛斯の略奪りゃくだつけた。

[12]

モンゴル帝国ていこく支配しはい

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12世紀せいきのモンゴル高原こうげんしょ部族ぶぞく

1207ねんモンゴルチンギス・カン2人ふたり官吏かんり派遣はけんし、キルギズぞくおう[17] とケムケムジュート[18]おうのもとにおもむかせ、臣従しんじゅうするようにかせた。両国りょうこく君主くんしゅはモンゴルのカンに臣従しんじゅうちかい、貢物みつぎものとして白眼しろめ大鷹おおたかハヤブサ)をおくった[19]

1217ねん[20]トゥマトぞくがモンゴル帝国ていこくたいして反旗はんきひるがえしたため、チンギス・カンはそのとなりぞくであるキルギズぞく出兵しゅっぺい要求ようきゅうをした。しかし、キルギズがそれをことわったため、チンギス・カンは長男ちょうなんジョチにキルギズ討伐とうばつめいじた。ジョチは氷結ひょうけつしたケムケムジュートかわイルティシュがわ上流じょうりゅういち支流しりゅう)をわたり、キルギズぞく服従ふくじゅうさせて帰還きかんした[21]

叛乱はんらんしゃ退却たいきゃく

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後継こうけいあらそいのすえ、モンゴルだい4だい皇帝こうていカアン)となったモンケ在位ざいい1251ねん - 1259ねん)は1252ねん、オゴデイとチャガタイ反対はんたいたいしてだい規模きぼ粛清しゅくせいをおこなった。このとき、モンケの軍隊ぐんたいはキルギズやケムケムジュートのにも派遣はけんされた[22]

モンケの死後しご、その末弟ばっていであるアリクブケおとうとであるクビライとのあいだ後継こうけいあらそいがきた(モンゴル帝国ていこく帝位ていい継承けいしょう戦争せんそう)。クビライにやぶれたアリクブケはみずからの冬営とうえいであるキルギズの退却たいきゃくした[23]

1277ねんトク・テムル[24]シリギ共謀きょうぼうし、クビライにたいして反旗はんきひるがえした。クビライは討伐とうばつぐん司令しれいかんバヤン任命にんめいし、オルホン河畔かはんにて反乱はんらんぐんやぶった。やぶれたシリギはイルティシュ川方かわかためん退却たいきゃくし、トク・テムルはキルギズの退却たいきゃくした[25]

習俗しゅうぞく

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服装ふくそう

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君主くんしゅであるおもねねつふゆてん帽子ぼうしをかぶり、なつきむ扣の帽子ぼうしをかぶる。貴人きじんてんか豽(な:ひょうているしし)のふくをまとい、しょしたはみなしろ氈(フェルト)の帽子ぼうしをかぶる[26]身分みぶん賤しきしゃかわころもをまとい、帽子ぼうしはかぶらない。女性じょせいころもむくげ毼・にしき・罽・あやせいのものをもちいる。

食物しょくもつ

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しょひとにくおよびうま酪をしょくし、君主くんしゅおもねねつのみはもちえさ小麦粉こむぎこつくったもの?)をべる。

結婚けっこん葬式そうしき

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結婚けっこん新郎しんろうがわひつじうま新婦しんぷがわおさめてよめまねく。富裕ふゆうしゃではそのかずが100〜1,000にもなる。

葬式そうしきでは歴代れきだい遊牧ゆうぼく国家こっかのように剺面(かおにナイフをれること)をせず、さんかい死体したいかこんでく。死体したい火葬かそうされ、そのほねおさめてはかれる。ふゆ室内しつないおさめ、かわおおいとした。

文化ぶんか

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楽器がっきにはふえしょう・觱篥・ばんすずがあり、げいにはろう駝・うま伎・なわ伎がある。

こよみ

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しんとうしょかい鶻伝に「としはじめをしげあい(モス・アイ、mös ai:「こおりがつ」の)といい、さんあい(3カ月かげつ)をもって一季いっきぶしとなし、じゅう動物どうぶつをもって紀年きねんとする。もし、あるとしとらとしであれば、これをとらねんしょうする」とあり、黠戛斯は「じゅうぶつ紀年きねん」すなわち中国ちゅうごく由来ゆらいする十二支じゅうにしもちいたこよみ使用しようしていた。

政治せいじ体制たいせい

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けんこん時代ときよてつ薛延陀隷属れいぞくしていたため、のべ陀が頡利はつ(イルテベル)1人ひとりをもってかんこくした。けんこん酋長しゅうちょうは3にんおり、訖悉やからきょすなやからおもねべいやから[27] の3酋長しゅうちょうくにともなおしていた。酋長しゅうちょうは俟利はつ(イルテベル)の称号しょうごうび、とうによってけんこんみやことくかれると、けんこんみやことくしょく担当たんとうした。

黠戛斯の君主くんしゅは「おもねねつ」(あぜつ)[28] といい、その氏族しぞくめいおもねねつという。おもねねつ青山あおやまきば本営ほんえい)をき、まわりにはかきをし、「みつてきささえ」とばれる毛氈もうせんつらねたものをとばりまくとし、首領しゅりょうちいさいとばりまくんだ[29]おもねねつはおよそしょよりへい徴発ちょうはつした。また、しょやくぞくしゃことごとって、てんねずみあおねずみとした。官職かんしょく宰相さいしょう(7にん)・とく(3にん)・しょく使(10にん)・ちょう(15にん)・将軍しょうぐん定員ていいんなし)・たち定員ていいんなし)のろくとうがある。

かい鶻可あせこく衰退すいたいすると、黠戛斯のおもねねつあせ(カガン)ごう採用さいようし、つま称号しょうごうあつし(カトゥン)とした。

モンゴル帝国ていこく時代じだいになると、キルギズの君主くんしゅは「イナール」という称号しょうごうびていた。イナールごうはコリ、バルグ、トゥマト、バイルク(バイアウト)のしょぞくでも使用しようされており、さらにこの地方ちほう一部いちぶであるジェニン・アン・ビディとビディ・ウラン(ビディ・アフルン、エディ・オルン)ではウルース・イナールなどの君主くんしゅごう使用しようした[30][31]

文字もじ言語げんご

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古代こだいには「ちょうれい雑種ざっしゅ」とされ、イェニセイがわ流域りゅういきに『イェニセイ碑文ひぶん』をのこし、『しんとうしょかい鶻伝に「その文字もじ言語げんごかい鶻(ウイグル)とまさおなじ」とあることから、文字もじは突厥文字もじ使用しようし、言語げんごテュルクけい言語げんごはなしていたことがわかる。また『もと地理ちりろくでは「その言語げんごかしこわれ(ウイグル)とおなじ」とある[32]

宗教しゅうきょう

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いわゆるアニミズムてき宗教しゅうきょうであり、水草みずくさ主神しゅしんとしてまつり、まつりときにない。「あま」(カム)とばれるみこがいる。

人種じんしゅ

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しんとうしょかい鶻伝に「ひとみなたかく、あかかみ、析面、みどりひとみをしており、黒髪くろかみ不祥ふしょうとした。くろひとみものかならりょう苗裔びょうえいであるという」とあることから、黠戛斯人は西方せいほうけい人種じんしゅコーカソイド)であり、東方とうほうけいモンゴロイド)ではなかったことがわかる。なかには黒髪くろかみくろひとみ人種じんしゅ(モンゴロイド)もいたが、これはかつて匈奴きょうどによってみぎけんおうふうじられたかんくだしょうりょう末裔まつえいだとされていた。また、敦煌とんこう出土しゅつどの『ペリオ・チベット文書ぶんしょ1283ばん』のなかでも、キルギスぞくは「水晶すいしょうひとみあかかみ」としるされている。

人口じんこう

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男女だんじょ割合わりあいは「おとこすくなくおんなおおい」。

地理ちり

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けんこん居住きょじゅうについて、中国ちゅうごく史書ししょでは以下いかのようにしるしている。

  • 北海ほっかいバイカル)のみなみ地域ちいき、すなわち匈奴きょうどきたには渾庾・こごめちょうれいひのとれい)・鬲昆・たきぎ犁がいる[33]
  • 郅支たんけんこんやぶると、ひがしたん于廷から7千里せんりみなみくるまから5千里せんり地点ちてん西にし匈奴きょうど建国けんこくした[9]
  • よびとくこく[34]ねぎみね(パミール高原こうげん)のきたがらすまご西北せいほくかんきょ東北とうほくり。けんこんこくかんきょ西北せいほくり。ひのとれいこくかんきょきたり。これらさんこくは、けんこん中央ちゅうおうで、倶に匈奴きょうどたん于庭があるやす習水をることなな千里せんりみなみくるまろくこくること千里せんり西南せいなんかんきょかいることさん千里せんり西にしかんきょおうることはち千里せんり位置いちする[35]
  • おもね輔水・けんすいあいだにてちぎりこつごう[10]
  • 黠戛斯のわれ西にし焉耆きた白山はくさんつくり[36]かいきばちょうまでは橐駝でくこと40にち天徳てんとくて200さと西にし受降じょういたり、きたは300さとで鸊鵜いずみいたり、鸊鵜いずみ西北せいほくかい鶻牙ちょうまで1500さとだが、東西とうざい二道ふたみちあり、いずみきた東道とうどうなり。かい鶻牙ちょうきた600さとにはせん娥河(セレンガかわ)があり、かわ東北とうほくには雪山ゆきやまがあってそのにはみずいずみおおい。青山あおやまひがしにはけんかわというかわがあり、かわことごと東北とうほくながれ、そのくに合流ごうりゅうし、きたうみはい[12]

以上いじょうのようにバイカルみなみからジュンガル盆地ぼんちカザフ草原そうげんにいたる広大こうだい範囲はんい分布ぶんぷしていることがわかる。また、ラシード・ウッディーンの『しゅう』「テュルク・モンゴルしょ民族みんぞく」ではつぎのようにしるされている。

キルギスとケム・ケムジュートは隣接りんせつした地方ちほうで、別箇べっこの2つの王国おうこくをなしている。この地方ちほう一方いっぽうはモンゴル地方ちほうせっし、一方いっぽうタイチウト氏族しぞく分布ぶんぷするセレンガかわさかいし、もう一方いっぽうではイビル・シビル地方ちほう境界きょうかいながれるアンガラばれる大河たいがたっし、さらにもう一方いっぽうではナイマンぞく領土りょうどをなす地方ちほう山地さんちせっしている。

つまり、きたひがしはアンガラがわみなみはセレンガがわ西にしアバカンがわたっし、サヤン山脈さんみゃく中心ちゅうしんとした地域ちいき分布ぶんぷしていたことがわかる。

おもな君主くんしゅ

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俟利はつ(イルテベル)
  • しつばちこごめおもね
おもねねつ(あぜつ)
  • 毘伽ひたぶる頡斤(ビルゲ・トン・イルキン)
あせ(カガン)
  • そう英雄ひでおたけまことあきらあせ英武ひでたけまことあきらあせ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 史記しき
  2. ^ きた』、『しゅうしょ』、『ずいしょ
  3. ^ きゅうとうしょ』、『しんとうしょ
  4. ^ きゅうとうしょ』、『しんとうしょ』、『しょ』、『きた』、『ずいしょ
  5. ^ きゅうとうしょ』、『しんとうしょ』、『きゅうだい』、『しんだい
  6. ^ しんとうしょ
  7. ^ a b c d もと
  8. ^ 史記しき匈奴きょうど列伝れつでん
  9. ^ a b 漢書かんしょ匈奴きょうどでん
  10. ^ a b しゅうしょ列伝れつでんだいよんじゅう 異域いいきでん
  11. ^ きゅうとうしょ列伝れつでんだいいちひゃくよんじゅうよんじょう 突厥じょう、『しんとうしょ列伝れつでんいちひゃくよんじゅうじょう 突厥じょう
  12. ^ a b c しんとうしょ列伝れつでんだいいちひゃくよんじゅう かい鶻下
  13. ^ 「㕎」は「厂+盍」とく。
  14. ^ とばりまくゲル)のこと。
  15. ^ いたる(タルカン、Tarqan)とは、テュルクけい遊牧ゆうぼく国家こっかにおけるかんめい
  16. ^ ちゅうわれ」がせいで、「ごうもと」がである。「ごうもと」の「ごう」は「alp:勇猛ゆうもうな」、「もと」は「sol:ひだり」を意味いみするテュルクである。すなわち、「ごうもと」とは「勇猛ゆうもうひだりしゃくするもの」のである。「ちゅうわれ」の意味いみ不明ふめい。(『騎馬きば民族みんぞく2』p456-457,ちゅう176)
  17. ^ このころ、キルギズやケムケムジュートなどの君主くんしゅイナールという称号しょうごうびていた。
  18. ^ 『モンゴル帝国ていこく』によると、ケムケムジュートは国名こくめいぞくめいではなく、地方ちほうめいであるとされる。
  19. ^ ドーソン 1968,p90
  20. ^ 元朝がんちょう秘史ひし』では1207ねんとしている。
  21. ^ ドーソン 1968,p134
  22. ^ ドーソン 1968,p290
  23. ^ ドーソン 1971,p13
  24. ^ しゅう』クビライ・カアンではクビライのおとうとであるスクトゥのとされている。『もとけいひょうでは、トルイだい10とし哥都(ソゲドゥ)という人物じんぶつがおり、そのまごにトク・テムルがいる。元朝がんちょうだい12だい皇帝こうていトク・テムルとは別人べつじん
  25. ^ ドーソン 1971,p110-111
  26. ^ 現在げんざいキルギスじんがかぶっているしろいフェルトぼうカルパック)とおなじか?
  27. ^ やから」は王侯おうこう酋長しゅうちょう意味いみするかん称号しょうごう「bai」にあたる。(『騎馬きば民族みんぞく2』p454ちゅう156)
  28. ^ おもねねつ」の唐音とういんは「a-net」にちかいとみられ、テュルクの「inäl」の音訳おんやく推定すいていするせつがある。13世紀せいき初頭しょとうのキルギズ部長ぶちょう一人ひとりにUrūs-inālというものがあり、このinālと比較ひかくするにたる。(『騎馬きば民族みんぞく2』p451ちゅう156)
  29. ^ 原文げんぶんで「…ごうみつてきささえ它首りょうきょしょうちょう…」とある個所かしょにおいて、白鳥庫吉しらとりくらきちは「みつてきささえ它」をひとつのかたり做し、「みつてき」をサモエードの「muat,mat:とばり」に、「ささえ它」をオスチャークの「xot,kât:いえとばり」にあてている。なお、おもねねつ本営ほんえいかれたという「青山あおやま」は、あるいはタンヌ・ウラみね北峯きたみねたるハン・テングリさんにあたると推定すいていされている。(『騎馬きば民族みんぞく2』p451-452ちゅう157)
  30. ^ ウルース・イナールはビディ・ウランの君主くんしゅごうであり、ジェニン・アン・ビディの君主くんしゅごう写本しゃほん欠落けつらくにより不明ふめい
  31. ^ ドーソン 1968,p91
  32. ^ もと地理ちりろく西北せいほく附録ふろく
  33. ^ 史記しき匈奴きょうど列伝れつでん、『漢書かんしょ匈奴きょうどでん
  34. ^ がらす掲」・「よび」ともしるされ、のちのテュルクけい民族みんぞくオグズ(Oγがんまuz)の祖先そせんとされる。(『騎馬きば民族みんぞく1』p19 ちゅう31、P100 ちゅう3、p106 ちゅう18)
  35. ^ りゃく西戎せいじゅうでん
  36. ^ このを黠戛斯のじゅうとするのは不正ふせいかく。黠戛斯の本土ほんどはイェニセイじょう流域りゅういきである。(『騎馬きば民族みんぞく2』p449ちゅう147)

参考さんこう資料しりょう

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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