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ソユーズ35ごう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ソユーズ35ごう
COSPAR ID1980-027A
SATCAT №11753
任務にんむ期間きかん55にち1あいだ28ふん1びょう
特性とくせい
宇宙うちゅう機種きしゅべつソユーズ7K-T
製造せいぞうしゃS.P.コロリョフ ロケット&スペース コーポレーション エネルギア
重量じゅうりょう6,800 kg
乗員じょういん
乗員じょういんすう2
レオニード・ポポフ
ワレリー・リューミン
着陸ちゃくりくワレリー・クバソフ
ファルカシュ・ベルタラン
コールサインДнепр (Dnepr - ドニエプル)
任務にんむ開始かいし
1980ねん4がつ9にち 13:38:22(UTC)
ロケットソユーズU
打上うちあ場所ばしょバイコヌール宇宙うちゅう基地きち31ばんてん
任務にんむ終了しゅうりょう
着陸ちゃくりく1980ねん6がつ3にち 15:06:23(UTC)
着陸ちゃくりく地点ちてんジェスカスガン南東なんとう180km
軌道きどう特性とくせい
参照さんしょう座標ざひょう地球ちきゅう周回しゅうかい軌道きどう
体制たいせいてい軌道きどう
きんてん高度こうど198 km
とおてん高度こうど259.7 km
傾斜けいしゃかく51.65°
軌道きどう周期しゅうき88.81ふん
サリュート6ごうのドッキング(捕捉ほそく
ソユーズ計画けいかく
(有人ゆうじんミッション)

ソユーズ35ごう(Soyuz 35)は、サリュート6ごうおとずれた1980ねんソビエト連邦れんぽう有人ゆうじん宇宙うちゅう飛行ひこうである。軌道きどうじょう施設しせつ目指めざす10度目どめのミッションで、ドッキングの成功せいこうは8度目どめとなった。ソユーズ35ごう乗組のりくみいんは、人類じんるい宇宙うちゅうステーション滞在たいざいした4番目ばんめなが記録きろくとなった[1]

レオニード・ポポフワレリー・リューミンは、185日間にちかん宇宙うちゅうごし、宇宙うちゅう滞在たいざい記録きろく更新こうしんした。リューミンは8かげつまえまえのミッションをえたばかりだった。かれらは、ハンガリーキューバベトナムはじめての宇宙うちゅう飛行ひこうふくむ4にん宇宙うちゅう飛行ひこう宇宙うちゅうステーションにむかえた。

長期ちょうき滞在たいざい乗組のりくみいんは、あらたにやってきた乗組のりくみいん宇宙船うちゅうせん交換こうかんするのが通例つうれいである。ソユーズ35ごう機体きたいは、ソユーズ36ごう乗組のりくみいん地球ちきゅう帰還きかんするのにもちい、滞在たいざい乗組のりくみいんは、ソユーズ37ごう機体きたい地球ちきゅう帰還きかんした。

乗組のりくみいん

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打上うちあとき

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帰還きかん

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バックアップ

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パラメータ

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  • 質量しつりょう: 6,800 kg
  • きんてん: 198 km
  • とおてん: 259.7 km
  • 軌道きどう傾斜けいしゃかく: 51.65°
  • 軌道きどう周期しゅうき: 88.81ふん

打上うちあげと宇宙うちゅうステーションの起動きどう

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ソユーズ35ごうは、1980ねん4がつ9にちにレオニード・ポポフとワレリー・リューミンをせてげられた[2]軌道きどうじょうのサリュート6ごう宇宙うちゅうステーションとのランデブーが計画けいかくされていた。この打上うちあげは、直近ちょっきんおこなわれた多数たすう無人むじん宇宙うちゅうステーション活動かつどうつづいておこなわれた。無人むじん試験しけんソユーズT-1は、3月23にちにドッキング解除かいじょし、3月25にち軌道きどう離脱りだつするまで、すうげつあいだ宇宙うちゅうステーションとドッキングしていた[2]無人むじん補給ほきゅうせんプログレス8ごうはその直後ちょくご3がつ27にちげられ、後方こうほうポートとドッキングした。4月2にちまでに、プログレスをもちいてステーションの軌道きどう修正しゅうせい操作そうさなんおこなわれた[2]

当初とうしょは、ワレンティン・レベデフがフライトエンジニアをつとめる予定よていであったが、トランポリン事故じこひざ怪我けがしたため、交代こうたいとなった[3]。バックアップの乗組のりくみいん宇宙うちゅう飛行ひこう経験けいけんソユーズ25ごう失敗しっぱいのため必要ひつようとなった)をものはおらず、8がつに6かげつ宇宙うちゅう滞在たいざいえたばかり[2]のリューミンがレベデフにわってふたた宇宙うちゅうくか、ミッションを延期えんきするかの選択せんたくになった[3]。リューミンの家族かぞくはこの一連いちれん出来事できごとによって動揺どうようした[3]

ソユーズ35ごういていたぜんポートにドッキングすると、乗組のりくみいんは4がつ10日とおか宇宙うちゅうステーションにはいった。リューミンは、まえ乗組のりくみいんのこしたノートをんだ。かれがそのノートをいたときには、自分じぶん自身じしんがそれをることになるとはおもってもいなかった[2]。サリュート6ごう軌道きどうはいって4ねんであり、消耗しょうもう兆候ちょうこうがいくつかあきらかになりつつあった。リューミンは、移動いどう区画くかくの2つのビューポートが透明とうめいでなくなっていることを記録きろくした。また、流星りゅうせいちり軌道きどうじょうのデブリのため、まどにも多数たすうのひびがはいっていた。乗組のりくみいんは、姿勢しせい制御せいぎょ装置そうち生命せいめい維持いじ装置そうち部品ぶひん交換こうかんし、あたらしい警報けいほうシステムを設置せっちし、ステーションの時計とけいRKAミッションコントロールセンターのものと同期どうきさせ、80㎏の蓄電池ちくでんち追加ついかし、プログレス8ごうもちいて生命せいめい維持いじ装置そうちのタンクに酸素さんそ窒素ちっそたした[3]

プログレス8ごうのミッションは4がつ15にち完了かんりょうした。この機体きたいにゴミをめ、3にちにドッキング解除かいじょ軌道きどう離脱りだつした。4月29にちにはプログレス9ごうがドッキングし、翌日よくじつみず補給ほきゅう終了しゅうりょうした。カーゴない物資ぶっし燃料ねんりょう移動いどうは、5月12にち完了かんりょうした[2]。この飛行ひこうで、長期ちょうき滞在たいざい乗組のりくみいんのためのサリュートへの補給ほきゅう完了かんりょうした[3]

その軽微けいび修復しゅうふく作業さぎょうや、特殊とくしゅカビプラスチック製品せいひんつく実験じっけん軌道きどうじょうポリウレタンフォームもちいて構造こうぞうつく実験じっけんとうおこなわれた[2]

ソユーズ36ごうとソユーズT-2の乗組のりくみいん来訪らいほう

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プログレス9ごうは、5月20にちにドッキング解除かいじょして、あたらしい乗組のりくみいんむかえるために後方こうほうポートをけた。ソユーズ36ごうは、ワレリー・クバソフハンガリーひと宇宙うちゅう飛行ひこうファルカシュ・ベルタランせて5がつ26にちげられた[2]元々もともとは1979ねん6がつ5にち打上うちあげげを予定よていしていたが、ソユーズ33ごう失敗しっぱいにより延期えんきとなっていた[3]。ソビエト連邦れんぽうインターコスモスプログラムの一環いっかんであり、友好国ゆうこうこく宇宙うちゅう飛行ひこうが1週間しゅうかん宇宙うちゅうステーションをおとずれることになっていた。ファルカシュはサリュートで、乗組のりくみいんける放射線ほうしゃせんりょう測定そくてい重力じゅうりょく環境かんきょうでのヒト細胞さいぼうちゅうインターフェロン形成けいせい研究けんきゅうとう実験じっけんおこなった[2]

クバソフとファルカシュは、長期ちょうき滞在たいざいしゃのためにあたらしいソユーズ36ごう機体きたいのこし、ソユーズ35ごう地球ちきゅう帰還きかんした。そのソユーズ36ごうは、90分間ふんかん手動しゅどう操作そうさでサリュート6ごう前方ぜんぽうポートにうつされた[2]。ソユーズ36ごう乗組のりくみいん回収かいしゅう可能かのうもっとはや打上うちあまどげられ、また機体きたい移動いどう迅速じんそくおこなわれたことから、ソビエト連邦れんぽうがソユーズ33ごう失敗しっぱいうしなった時間じかんもどすために2度目どめのインターコスモスミッションを秘密裏ひみつり計画けいかくしているのではないかと推測すいそくされた[2]実際じっさい打上うちあげはまもなく再開さいかいされたが、予測よそくされたミッションではなかった。

ソユーズT-2は、ユーリイ・マリシェフウラジーミル・アクショーノフせて6がつ5にちげられ、ソユーズTはつ有人ゆうじんミッションとなった。翌日よくじつ、サリュート6ごう後方こうほうポートにドッキングした。たんにソユーズの試験しけんであったため、ミッションは2日間にちかん終了しゅうりょうし、地球ちきゅう帰還きかんした[2][3]

のこった乗組のりくみいんは、ステーションのKaskad姿勢しせい制御せいぎょ装置そうち修理しゅうりし、材料ざいりょう処理しょり実験じっけんおこなった。7月1にち、ポポフとリューミンは、プログレス10ごうむかえた[3]通常つうじょう補給ほきゅうひんとともに、交換こうかんよう装置そうち補給ほきゅうせんからろされた。補給ほきゅうひんには、ポラロイドカメラカラーテレビモニター、ソビエト連邦れんぽうポップ音楽おんがくのテープとうふくまれた[3]補給ほきゅうせんは、ステーションに燃料ねんりょううつしたのち、7がつ17にちにドッキング解除かいじょし、7がつ19にち軌道きどう離脱りだつした[2] 。また7がつ19にちには、ポポフとリューミンは、宇宙うちゅうから1980ねんモスクワオリンピック開会かいかいしきおこなわれていたルジニキ・スタジアム当時とうじレーニン・スタジアム)になま中継ちゅうけい挨拶あいさつおくった。

アジアおよびキューバのはつ宇宙うちゅう飛行ひこうとミッションのわり

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つぎ打上うちあまどでは、キューバのインターコスモスミッションがおこなわれると予測よそくされていたが、実際じっさいはアジアはつ宇宙うちゅう飛行ひこうであるベトナムじんファム・トゥアンヴィクトル・ゴルバトコとともにソユーズ37ごうり、7がつ23にちげられた[2]。この打上うちあげは、オリンピック期間きかんちゅう世界せかい注目ちゅうもくをソビエト連邦れんぽうあつめるタイミングでおこなわれた[2]乗組のりくみいん宇宙船うちゅうせん交換こうかんし、ソユーズ36ごうんで7がつ31にち地球ちきゅう帰還きかんした。

ソビエト連邦れんぽうのメディアは、ファム・トゥアンがベトナム戦争せんそうエース・パイロットであり、アメリカ軍機ぐんきなん撃墜げきついしていたことから、政治せいじてき意味合いみあいを指摘してきし、オリンピックをボイコットしたアメリカにたいする巧妙こうみょう報復ほうふくであると解釈かいしゃくした。

翌日よくじつ、ポポフとリューミンはソユーズ37ごうり、機体きたい前方ぜんぽうポートにうつした。このことは、つぎ訪問ほうもんしゃあいだをあけずにおとずれるのではとの憶測おくそくんだが、訪問ほうもんしゃもプログレス補給ほきゅうせんもすぐにはなかった[2]乗組のりくみいんは、地上ちじょう科学かがくしゃ共同きょうどうでエレーナFガンマ線がんません望遠鏡ぼうえんきょうもちいた実験じっけんおこなった。この実験じっけん地上ちじょうにあるべつ望遠鏡ぼうえんきょうとの比較ひかくのためにったが、実験じっけんもちいたゴム気球ききゅう故障こしょうし、地上ちじょう研究けんきゅうしゃがそこに辿たどまえおおくの装置そうちぬすまれてしまった[3]

つぎ着陸ちゃくりくまどは、10月2-15にちで、キューバじん宇宙うちゅう飛行ひこう打上うちあげげは9月24にち予想よそうされたが、ソユーズ38ごう予想よそうよりもやく1週間しゅうかんはやい9がつ18にちげられた[2]

はじめてのアフリカけい宇宙うちゅう飛行ひこうでもあるキューバじんアルナルド・タマヨ・メンデスは、ユーリ・ロマネンコとともにサリュート6ごうおとずれた。キューバの国民こくみん同胞どうほう頭上ずじょうながめられるようにはやめの打上うちあ日程にってい選択せんたくされた[2]。27の材料ざいりょう処理しょり医学いがく実験じっけんおこなわれた[3]。ソユーズ35ごう乗組のりくみいんがそのすぐに地球ちきゅう帰還きかんするため、ソユーズ38ごう乗組のりくみいんは、9月26にち地球ちきゅう帰還きかんするさい宇宙船うちゅうせん交換こうかんおこなわなかった[2]

帰還きかん間近まぢか乗組のりくみいん補給ほきゅうひん必要ひつようとしないとかんがえられたため、9月28にちプログレス11ごう打上うちあげはおどろかれた[2]実際じっさいに、10月11にちにはソユーズ35ごう乗組のりくみいん帰還きかんしており、プログレスからは一部いちぶろされただけだった[2]。プログレス11ごうしん目的もくてきは、故障こしょうした推進すいしんシステムにわり、サリュート6ごう軌道きどうげることであった。乗組のりくみいんは185日間にちかん宇宙うちゅう滞在たいざいというしん記録きろく樹立じゅりつしたが、それまでの記録きろく175日間にちかんたいし、国際こくさい宇宙うちゅう航行こうこう連盟れんめいもとめる10%以上いじょう更新こうしんという基準きじゅんたせず、認定にんていされなかった[2]。リューミンは3のミッションで352日間にちかん宇宙うちゅうごし、最長さいちょう記録きろく更新こうしんした[2]通常つうじょうとはことなり、乗組のりくみいん飛行ひこうちゅう平均へいきん2kgふとった。これは、かれらがきびしい運動うんどう食事しょくじ遵守じゅんしゅしたためであると説明せつめいされた。着陸ちゃくりく翌日よくじつには、かれらは30ぶん散歩さんぽができ、10月15にちまでにテニスができるようになっていた。かずせんまい地球ちきゅう資源しげん写真しゃしん、4まんまい以上いじょうスペクトログラム撮影さつえいされた。サリュート6ごうへの4度目どめ乗組のりくみいん滞在たいざいは、過去かこ3様々さまざま技術ぎじゅつてき失敗しっぱいまえ、完全かんぜん成功せいこうおさめた[3]

出典しゅってん

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  1. ^ The mission report is available here: http://www.spacefacts.de/mission/english/soyuz-35.htm
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w Clark, Phillip (1988). The Soviet Manned Space Program. New York: Orion Books, a division of Crown Publishers, Inc.. pp. 117?123. ISBN 0-517-56954-X 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l Newkirk, Dennis (1990). Almanac of Soviet Manned Space Flight. Houston, Texas: Gulf Publishing Company. pp. 209?219. ISBN 0-87201-848-2