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ハンク・グリーンバーグ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハンク・グリーンバーグ
Hank Greenberg
1937ねん
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
出身しゅっしん ニューヨーク州の旗 ニューヨークしゅうニューヨーク
生年月日せいねんがっぴ (1911-01-01) 1911ねん1がつ1にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1986-09-04) 1986ねん9月4にち(75さいぼつ
身長しんちょう
体重たいじゅう
6' 3" =やく190.5 cm
210 lb =やく95.3 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 一塁いちるいしゅ左翼さよくしゅ
プロ 1929ねん
はつ出場しゅつじょう 1930ねん9がつ14にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1947ねん9がつ18にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
殿堂でんどう表彰ひょうしょうしゃ
選出せんしゅつねん 1956ねん
得票とくひょうりつ 84.97 %
選出せんしゅつ方法ほうほう BBWAA選出せんしゅつ

ヘンリー・ベンジャミン・グリーンバーグHenry Benjamin Greenberg1911ねん1がつ1にち - 1986ねん9月4にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくニューヨークしゅうニューヨーク出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ (一塁いちるいしゅ左翼さよくしゅ)。ニックネームは「Hammerin' Hank」。

MLBにおける最初さいしょユダヤけいスター選手せんしゅとしてられている。

1947ねんジャッキー・ロビンソン黒人こくじんはつのメジャーリーガーとなり、おおくの人種じんしゅ差別さべついやがらせをけたが、グリーンバーグもおおくの軋轢あつれき経験けいけんした[1]

骨折こっせつだい世界せかい大戦たいせんによる従軍じゅうぐんにより、シーズンつうじてプレイした(100試合しあい以上いじょう出場しゅつじょう)のは9シーズンだけであるが、通算つうさん331本塁打ほんるいだ・1276打点だてん記録きろくしている。そのため、現役げんえき離脱りだつがなければ、500本塁打ほんるいだ・1800打点だてん以上いじょう記録きろく出来できたとされる[2]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

少年しょうねん時代じだい・メジャーリーグ入団にゅうだんまで (1911ねん - 1930ねん)[編集へんしゅう]

ニューヨークしゅうニューヨークのグリーンウィッチ・ビレッジにて、ルーマニアからの移民いみんであるユダヤじんちちデービッドとははサラのあいだ誕生たんじょうした。

兄弟きょうだいおお家庭かていそだち、4さい年上としうえあに・ベン (Ben) 、5さい年下とししたおとうと・ジョー (Joe) 、2さい年上としうえあね・リリアン (Lillian) がいた。あにのベンとおとうとのジョーはハンクとおなじく、野球やきゅうをしていた[3]

ブロンクス移住いじゅう、ジェームズ・モンロー高校こうこうニューヨーク大学だいがく[4]1929ねん9月フリーエージェント選手せんしゅとしてデトロイト・タイガース契約けいやくむすんだ[5]

1930ねんマイナーリーグのラレー・キャピタルズ (英語えいごRaleigh Capitals) とハートフォード・セネターズ (英語えいごHartford Senators) でけい139試合しあい出場しゅつじょうし、打率だりつ.303・27二塁打にるいだ・16三塁打さんるいだ・21本塁打ほんるいだという打撃だげき成績せいせき記録きろくたか打力だりょく発揮はっきした。守備しゅびめんでは2チームでけい138試合しあいファースト守備しゅびき、25失策しっさく守備しゅびりつ.981という成績せいせきわり、つたなもりだった。当時とうじ、グリーンバーグは19さいであった[6]

デトロイト・タイガース時代じだい (1930ねん - 1946ねん)[編集へんしゅう]

1930ねん
9月14にち地元じもとでのたいニューヨーク・ヤンキースせんにてメジャーデビューをたした。どう試合しあいには途中とちゅう出場しゅつじょうして1打席だせきはいったが、ヒットはなてなかった[7]同年どうねんメジャーで試合しあい出場しゅつじょうしたのは、この試合しあいだけであった。
1931ねん - 1932ねん
1931ねんはマイナーでプレーし、メジャーでの試合しあい出場しゅつじょうはなかった。マイナーではエバンスビル・ハブズ (Evansville Hubs) とビューモント・エクスポーターズ (英語えいごBeaumont Exporters) でけい129試合しあい出場しゅつじょうし、打率だりつ.318・41二塁打にるいだ・10三塁打さんるいだ・15本塁打ほんるいだという打撃だげき成績せいせきのこした。なお、ビューモントでは3試合しあい出場しゅつじょうしただけであり、安打あんだすべてエバンスビルではなったものである。守備しゅびでは、126試合しあいのファースト守備しゅびで25失策しっさく守備しゅびりつ.982という成績せいせきのこし、前年ぜんねんからほぼ横這よこばいの数字すうじとなった[6]
1932ねんはフルシーズン、ビューモントでプレーした。このとしは154試合しあい出場しゅつじょうし、マイナーでははじめて打率だりつ.300未満みまん (.290) にわったが、自己じこ記録きろくおおきく更新こうしんする39本塁打ほんるいだはなった。守備しゅび改善かいぜんされ、154試合しあいでファーストをまもって17失策しっさく守備しゅびりつ.989という数字すうじだった[6]
1933ねん
3ねんぶりにメジャー復帰ふっきたした。このとしからファーストのレギュラーに定着ていちゃくし、117試合しあい出場しゅつじょうして打率だりつ.301・12本塁打ほんるいだ・87打点だてん・6盗塁とうるいという好成績こうせいせきをマークした。守備しゅびめんでは15失策しっさくおかし、守備しゅびりつ.988だった。
1934ねん
ゴーデーしゃ (Goudey) の
グリーンバーグのカード
このとしは153試合しあい出場しゅつじょうし、おおきく躍進やくしんするシーズンとなった。打率だりつ.339 (リーグ6) ・26本塁打ほんるいだ (どう7) ・139打点だてん (どう3) という数字すうじ記録きろくし、打撃だげきさん部門ぶもんでリーグベスト10にはい活躍かつやくぶりだった。また、リーグ1となる63ほんもの二塁打にるいだはなち、これは1シーズンでの本数ほんすうとしてはメジャー歴代れきだい4となる記録きろくである[8]。グリーンバーグの活躍かつやくは、タイガースの25ねんぶりのワールド・シリーズ進出しんしゅつおおきく貢献こうけんしたが、セントルイス・カージナルスやぶれてシリーズ制覇せいははならなかった。MVP投票とうひょうでは6にランクインした[9] (同年どうねん受賞じゅしょうしゃはチームメイトのミッキー・コクレーン) 。
同年どうねん9がつ10日とおかローシュ・ハシャナ (ユダヤれき新年しんねん) 、9月18にちヨム・キプル (ユダヤれき贖罪しょくざい) であり、グリーンバーグは両日りょうじつ試合しあい欠場けつじょうするむね発表はっぴょうした。しかし、この発表はっぴょうたいしてファンのあいだからは「ローシュ・ハシャナは毎年まいとしやってくるが、タイガースは1909ねん以来いらいペナント・レースをせいしていないのだ」との不平ふへいた。このファンからの意見いけんについてグリーンバーグはなやみ、ラビ (ユダヤきょう指導しどうしゃ) とも相談そうだんうえで、ローシュ・ハシャナにおこなわれる試合しあいには出場しゅつじょうすることをめた(ヨム・キプルは欠場けつじょうした)[10]どう試合しあいに「6ばん・ファースト」で出場しゅつじょうしたグリーンバーグはソロ・ホームランを2ほんはなち、チームはこの2てんによりボストン・レッドソックス勝利しょうりした[11]
1935ねん
このとしオール・スターまでに25本塁打ほんるいだ・103打点だてん記録きろくしていたが、カクレーン監督かんとくはグリーンバーグをオール・スターのメンバーにくわえなかった。これは、はんユダヤ運動うんどうたいする懸念けねんがあったためであるとされる[12]。このような不遇ふぐうにも直面ちょくめんしたグリーンバーグだったが、最終さいしゅうてきには152試合しあい出場しゅつじょうし、打率だりつ.328・36本塁打ほんるいだ・170打点だてん・4盗塁とうるいOPS1.039という好成績こうせいせき記録きろくし、本塁打ほんるいだおう打点だてんおうのタイトルを獲得かくとくした。また、MVPにも選出せんしゅつされた。チームは2ねん連続れんぞくワールド・シリーズ進出しんしゅつし、シカゴ・カブスやぶってはつ世界一せかいいちかがやいた。どうシリーズではだい2せんでホームランをはなったが、どう試合しあい手首てくび骨折こっせつした。
おおくのタイトル獲得かくとく、ワールド・シリーズ制覇せいはがあった一方いっぽうで、オール・スター選出せんしゅつ手首てくび骨折こっせつなど起伏きふくんだシーズンをおくった。
1936ねん
4がつで12試合しあい出場しゅつじょうし、打率だりつ.348・出場しゅつじょう試合しあいすう上回うわまわる16打点だてん記録きろくていたが、ふたた手首てくび骨折こっせつしてのこりのシーズンをぼうってしまった。
1937ねん
1937ねんのオール・スター・ゲームにて
(ひだりからじゅんルー・ゲーリッグジョー・クローニンビル・ディッキージョー・ディマジオチャーリー・ゲーリンジャージミー・フォックス、ハンク・グリーンバーグ)
手首てくび骨折こっせつから復活ふっかつし、はじめてオール・スター一員いちいん選出せんしゅつされた(試合しあい出場しゅつじょうはなし) 。このとしは183打点だてん記録きろくし、自身じしん2度目どめとなる打点だてんおうのタイトルを獲得かくとくしたほか、打率だりつ本塁打ほんるいだでもリーグベスト10りした。守備しゅびめんでは154試合しあいのファースト守備しゅびで13失策しっさく守備しゅびりつ.992という成績せいせきのこした。シーズン180打点だてん以上いじょう達成たっせいしているのは1930ねんハック・ウィルソン (191打点だてん) と1931ねんルー・ゲーリッグ (185打点だてん) だけである[13] (2015ねんシーズン終了しゅうりょう時点じてん) 。打撃だげきさん部門ぶもん数字すうじは、自身じしんはつのMVPにかがやいた1935ねんよりうえだったが、このとしチャーリー・ゲーリンジャー(チームメイト) 、ジョー・ディマジオぐ3わった[14]
1938ねん
このとしは58本塁打ほんるいだはなち、ベーブ・ルース保持ほじする60本塁打ほんるいだのシーズン記録きろく当時とうじ)にあといちのところまでせまった。また、このとしは11試合しあいでマルチ本塁打ほんるいだ記録きろくしているが、これはメジャー記録きろく (1998ねんサミー・ソーサ達成たっせい) である[15] (2014ねんシーズン終了しゅうりょう時点じてん) 。58本塁打ほんるいだという記録きろくは、1998ねんマーク・マグワイアとソーサがやぶられるまでみぎ打者だしゃのシーズン最多さいた本塁打ほんるいだ記録きろくだった。MVP投票とうひょうでは、2ねん連続れんぞくで3わった[16]
なお、このとしにグリーンバーグがルースの本塁打ほんるいだ記録きろくえられなかったのは、はんユダヤの感情かんじょう投手とうしゅ意図いとてき四球しきゅうあたえ、グリーンバーグに本塁打ほんるいだたせなかった(いわゆる敬遠けいえん)とする意見いけんもある。事実じじつ、このとしはリーグ最多さいたの119四球しきゅう記録きろくしており、グリーンバーグのキャリアをつうじてもっと四球しきゅうりつたかかったとするデータもある[10][17]
1939ねん
出場しゅつじょう試合しあいすうが3ねんぶりに150試合しあい下回したまわり、それにともなって打撃だげき成績せいせき若干じゃっかん低下ていかした。しかし、3ねん連続れんぞくオール・スター選出せんしゅつされ、はじめて試合しあいにも出場しゅつじょうした。「5ばん・ファースト」で起用きようされたグリーンバーグは3打数だすう1安打あんだ記録きろくし、四球しきゅうを1つえらんだ[18]守備しゅびめんでは、100試合しあい以上いじょうでファーストをまもったシーズンとしては自身じしんはつとなる1ケタだいの9失策しっさくめ、守備しゅびりつ.993を記録きろくした。
1940ねん
このとしルディ・ヨーク一塁いちるいのポジションをゆずり、グリーンバーグはレフトにコンバートされた。4ねん連続れんぞくオール・スター一員いちいん選出せんしゅつされ、試合しあいには途中とちゅう出場しゅつじょうした。また、いずれも自身じしん3度目どめとなる本塁打ほんるいだおう打点だてんおうのタイトルを獲得かくとくし、1935ねん以来いらい5ねんぶりとなる打撃だげきかんかがやいた。さらに自身じしん2度目どめとなるMVPにも選出せんしゅつされたが、前回ぜんかい選出せんしゅつされたさい一塁いちるいしゅだったため、MLB史上しじょうはじめてことなるポジションでMVPにえらばれた選手せんしゅとなった[10]。チームはワールド・シリーズまでこますすめたが、シンシナティ・レッズやぶれ、世界一せかいいちはならなかった。
1941ねん - 1945ねん
従軍じゅうぐんのグリーンバーグ
このとしは4がつなかばから5がつ上旬じょうじゅんにかけて19試合しあい出場しゅつじょうしたが、ナチス・ドイツたいするつよ反感はんかんがグリーンバーグをて、メジャーリーガーとしてははじめてだい世界せかい大戦たいせん従軍じゅうぐんすることになった[10]。その、28さい以上いじょう人物じんぶつ採用さいようしないくに方針ほうしんによりいちぐんはずれたが、真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき発生はっせいしたことにより再度さいど従軍じゅうぐんした[10]以後いご、1945ねん終戦しゅうせんするまでアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐん (US Army Air Forces、現在げんざいアメリカ空軍くうぐん) の一員いちいんとして戦争せんそう参加さんかした。
終戦しゅうせん、タイガースに復帰ふっきしたグリーンバーグは78試合しあい出場しゅつじょうし、打率だりつ.311・OPS0.948を記録きろく従軍じゅうぐんまえわらぬ打棒だぼう発揮はっきした。シーズン最終さいしゅうせんではグランドスラムをはなち、チームのリーグ優勝ゆうしょう貢献こうけん。また守備しゅびめんでも72試合しあいでレフトをまもり、ファーストをまもっていた時代じだいふくめ、はじめて失策しっさく安定あんていした守備しゅび発揮はっきした。ワールド・シリーズでは2本塁打ほんるいだはなち、チーム史上しじょう2度目どめのシリーズ制覇せいは原動力げんどうりょくとなった。
1946ねん
このとし、ファーストにさいコンバートされると本塁打ほんるいだおう打点だてんおうのタイトルを獲得かくとくし、自身じしん3度目どめとなる打撃だげきかん(いずれも本塁打ほんるいだ打点だてん)を達成たっせいした。しかし、打率だりつは.300にとどかなかった。また守備しゅびめんでも、失策しっさくが15まで激増げきぞうして守備しゅびりつ.989という成績せいせきだった。

ピッツバーグ・パイレーツ時代じだい引退いんたいまで(1947ねん)[編集へんしゅう]

1947ねん
ピッツバーグ・パイレーツ時代じだいのグリーンバーグ(1947ねん)
タイガースは年俸ねんぽう減額げんがく提示ていじするが、グリーンバーグはこれをれなかったため、交渉こうしょう決裂けつれつした。これをにグリーンバーグは引退いんたいかんがえるようになり、他方たほうでタイガースは1がつ18にちかれピッツバーグ・パイレーツトレードした[5]。パイレーツは、グリーンバーグに引退いんたいおもとどまらせるべくナ・リーグ史上しじょうはつとなる10まんドルの年俸ねんぽう提示ていじし、フォーブス・フィールド (当時とうじのパイレーツの本拠地ほんきょち) のレフトスタンドがわブルペン建設けんせつして、レフトスタンドまでの距離きょり短縮たんしゅくする改修かいしゅうおこなった。このレフトスタンドは「グリーンバーグ・ガーデン (Greenberg Garden) 」と名付なづけられた[15]。また、当時とうじパイレーツの共同きょうどうオーナーであった歌手かしゅビング・クロスビーは、コメディアングローチョ・マルクスともにグリーンバーグを歓迎かんげいする「Goodbye, Mr. Ball, Goodbye」というきょく製作せいさくした。
同年どうねんパイレーツでは125試合しあい出場しゅつじょうして25本塁打ほんるいだはなち、リーグ最多さいた四球しきゅう記録きろくしたが、一方いっぽう打率だりつ.249にわり往年おうねん強打きょうだ発揮はっきされなかった。しかし、グリーンバーグの存在そんざい当時とうじメジャー2ねんのシーズンをむかえたラルフ・カイナー多大ただい影響えいきょうあたえ、カイナーにとっての指導しどうしゃとなった[10][15]。カイナーについて、グリーンバーグは以下いかのようなコメントをのこしている[10]
"Ralph had a natural home run swing. All he needed was somebody to teach him of the value of hard work and self-discipline. Early in the morning on off-days, every chance we got, we worked on hitting."
「ラルフは、天性てんせいのホームラン・ヒッターだ。かれ必要ひつようとしていたのは、懸命けんめいにプレーすることと自己じこ鍛錬たんれん重要じゅうようせいけるだれかである。オフのあさはやくから、チャンスさえあれば、我々われわれ打撃だげき練習れんしゅうんだ。」 (和訳わやく)
9月29にち、パイレーツは契約けいやく解除かいじょ[5]、このとしかぎりで現役げんえき引退いんたいした。

引退いんたい(1948ねん - 1986ねん[編集へんしゅう]

1948ねん当時とうじクリーブランド・インディアンスのオーナーであったビル・ベークから、チームのファーム・ディレクターとしてやとわれた。[15]。その、1950ねんにはファーム組織そしきゼネラル・マネージャー就任しゅうにんし、チームの再建さいけんおよ1954ねんのリーグ制覇せいはおおきく貢献こうけんした[10]

そのシカゴ・ホワイトソックス共同きょうどうオーナーおよバイス・プレジデント就任しゅうにんした[10]。ホワイトソックスのフロント在籍ざいせきちゅう1956ねんBBWAA殿堂でんどう投票とうひょうにて193ひょうちゅう164ひょう賛成さんせいひょう獲得かくとく[4]得票とくひょうりつやく85 %でアメリカ野球やきゅう殿堂でんどう選出せんしゅつされた。9ねん挑戦ちょうせんでの選出せんしゅつであった。1959ねん、ホワイトソックスはリーグ制覇せいはたし、インディアンス時代じだいつづいてチームの躍進やくしん貢献こうけんした。

1963ねん、インベストメント・バンカー (Investment banker:証券しょうけん引受ひきうけ業者ぎょうしゃ) に転身てんしん[10]野球やきゅうかいから完全かんぜんいた。

1970ねん勃発ぼっぱつしたカート・フラッド事件じけんでは、ジャッキー・ロビンソンビル・ベックらととも選手せんしゅがわ証人しょうにんとして法廷ほうていち、カート・フラッド擁護ようごする立場たちばった[19]

グリーンバーグのタイガース在籍ざいせき背番号せばんごう5」。
デトロイト・タイガースの永久えいきゅう欠番けつばん1983ねん指定してい

引退いんたい健康けんこうたいごしていたグリーンバーグだったが、1980年代ねんだいはいってがん進行しんこうした[10]1983ねん現役げんえき時代じだい大半たいはんごしたタイガースで在籍ざいせき背番号せばんごう5』が、かつてのチームメイトだったチャーリー・ゲーリンジャーの『2』とともに永久えいきゅう欠番けつばん指定していされた。

その3ねん1986ねん9月4にちカリフォルニアしゅうビバリーヒルズ逝去せいきょ。75さいだった[10]。グリーンバーグのはかは、カリフォルニアしゅうロサンゼルスにあるヒルサイド・メモリアル・パーク (Hillside Memorial Park) にてられている。

ジョー・ディマジオは、グリーンバーグについて以下いかのコメントをのこし、かれ打棒だぼうたか評価ひょうかしていた[10]

"He was one of the truly great hitters, and when I first saw him bat, he made my eyes pop out."
かれ間違まちがいなく、しん偉大いだい打者だしゃ1人ひとりだった。わたしかれ打撃だげきはじめてとき目玉めだますようなおもいだったよ。」 (和訳わやく)

詳細しょうさい情報じょうほう[編集へんしゅう]

年度ねんどべつ打撃だげき成績せいせき (メジャー)[編集へんしゅう]

とし

たま

だん
ためし

ごう


せき


かず
とく

てん
やす


るい
さん
るい
ほん
るい
るい



てん
ぬすめ

るい
ぬすめ
るい




よん

たま
けい

とお


たま
さん


ころせ


りつ

るい
りつ
なが

りつ
O
P
S
1930 DET 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 -- 0 0 -- .000 .000 .000 .000
1933 117 499 449 59 135 33 3 12 210 87 6 2 2 -- 46 -- 1 78 -- .301 .367 .468 .835
1934 153 667 593 118 201 63 7 26 356 139 9 5 9 -- 63 -- 2 93 -- .339 .404 .600 1.005
1935 152 710 619 121 203 46 16 36 389 170 4 3 4 -- 87 -- 0 91 -- .328 .411 .628 1.039
1936 12 55 46 10 16 6 2 1 29 16 1 0 0 -- 9 -- 0 6 -- .348 .455 .630 1.085
1937 154 701 594 137 200 49 14 40 397 183 8 3 2 -- 102 -- 3 101 -- .337 .436 .668 1.105
1938 155 681 556 143 175 23 4 58 380 146 7 5 3 -- 119 -- 3 92 -- .315 .438 .683 1.122
1939 138 604 500 112 156 42 7 33 311 112 8 3 11 -- 91 -- 2 95 8 .312 .420 .622 1.042
1940 148 670 573 129 195 50 8 41 384 150 6 3 3 -- 93 -- 1 75 15 .340 .433 .670 1.103
1941 19 83 67 12 18 5 1 2 31 12 1 0 0 -- 16 -- 0 12 1 .269 .410 .463 .872
1945 78 312 270 47 84 20 2 13 147 60 3 1 0 -- 42 -- 0 40 9 .311 .404 .544 .948
1946 142 604 523 91 145 29 5 44 316 127 5 1 1 -- 80 -- 0 88 17 .277 .373 .604 .977
1947 PIT 125 510 402 71 100 13 2 25 192 74 0 -- 0 -- 104 -- 4 73 16 .249 .408 .478 .885
通算つうさん:13ねん 1394 6097 5193 1050 1628 379 71 331 3142 1276 58 *26 35 -- 852 -- 16 844 *66 .313 .412 .605 1.017
  • 「--」は公式こうしき記録きろくなし。
  • 通算つうさん成績せいせきの「*数字すうじ」は、不明ふめい年度ねんどがあることしめす。
  • 太字ふとじはリーグ1
  • 1931 - 1932ねん、1942 - 1944ねん試合しあい出場しゅつじょうなし。

年度ねんどべつ打撃だげき成績せいせき (マイナー) [6][編集へんしゅう]

とし

たま

だん
ためし

ごう


せき


かず
とく

てん
やす


るい
さん
るい
ほん
るい
るい



てん
ぬすめ

るい
ぬすめ
るい




よん

たま
けい

とお


たま
さん


ころせ


りつ

るい
りつ
なが

りつ
O
P
S
1930 Raleigh 122 - 452 - 142 26 14 19 253 - - - - - - - - - - .314 - .560 -
Hartford 17 - 56 - 12 1 2 2 23 - - - - - - - - - - .214 - .411 -
'30けい 139 - 508 - 154 27 16 21 276 - - - - - - - - - - .303 - .543 -
1931 Evansville 126 - 487 - 155 41 10 15 261 - - - - - - - - - - .318 - .536 -
Beaumont 3 - 2 - 0 0 0 0 0 - - - - - - - - - - .000 - .000 -
'31けい 129 - 489 - 155 41 10 15 261 - - - - - - - - - - .317 - .534 -
1932 154 - 600 - 174 31 11 39 344 - - - - - - - - - - .290 - .573 -
通算つうさん:3ねん 422 *1597 1597 - 483 99 37 75 881 - - - - - - - - - - .302 *.302 .552 *.854
  • 「-」は公式こうしき記録きろくなし。
  • 通算つうさん成績せいせきの「*数字すうじ」は、参考さんこう記録きろく

タイトル[編集へんしゅう]

表彰ひょうしょう[編集へんしゅう]

  • シーズンMVP:2かい (1935ねん、1940ねん)
  • オールスター選出せんしゅつ:4かい (1937 - 1940ねん)
  • ワールド・チャンピオン:2かい (1935ねん、1945ねん)
  • 1シーズンでのマルチ本塁打ほんるいだ記録きろく:11試合しあい (1938ねん)

以上いじょう、いずれもア・リーグ記録きろく

背番号せばんごう[編集へんしゅう]

デトロイト・タイガース
  • 7 (1933)
  • 5 (1934 - 1946) - タイガースの永久えいきゅう欠番けつばん
ピッツバーグ・パイレーツ
  • 5 (1947)

※ 1930ねん背番号せばんごうなし。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ Bruce Markusen (2008ねん6がつ30にち). “Greenberg's rookie season honored”. MLB.com. 2014ねん12月8にち閲覧えつらん
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  3. ^ Peter S. Horvitz、Joachim Horvitz (2001). The Big Book of Jewish Baseball: An Illustrated Encyclopedia & Anecdotal History. S.p.i. Books. pp. 80ぺーじ. ISBN 978-1-561-71973-0 
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