ニューヨークで公演 こうえん 中 ちゅう のビリー・ホリデイ(1947)
ビリー・ホリデイ (Billie Holiday) ことエレオノーラ・フェイガン (Eleanora Fagan, 1915年 ねん 4月 がつ 7日 にち - 1959年 ねん 7月 がつ 17日 にち )は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のジャズ 歌手 かしゅ 。
「レディ・デイ 」の呼称 こしょう で知 し られ、サラ・ヴォーン やエラ・フィッツジェラルド と並 なら んで、女性 じょせい ジャズ・ヴォーカリスト御三家 ごさんけ の1人 ひとり に数 かぞ えられる[ 1] 。彼女 かのじょ はその生涯 しょうがい を通 とお して、人種 じんしゅ 差別 さべつ や薬物 やくぶつ 依存 いぞん 症 しょう 、アルコール依存 いぞん 症 しょう との闘 たたか いなどの壮絶 そうぜつ な人生 じんせい を送 おく った。彼女 かのじょ の存在 そんざい は、ジャニス・ジョプリン をはじめとする多 おお くのミュージシャンに影響 えいきょう を与 あた えた。彼女 かのじょ の生涯 しょうがい に於 お いて代表 だいひょう 的 てき なレパートリーであった「奇妙 きみょう な果実 かじつ (Strange Fruit)」や「神 かみ よめぐみを (God Bless' the Child)」、「I Love You, Porgy」、「Fine and Mellow」などは、後年 こうねん に多 おお くのミュージシャンに取 と り上 あ げられるジャズ・ボーカルの古典 こてん となった。
彼女 かのじょ の死 し から約 やく 40年 ねん 後 ご の2000年 ねん にはロックの殿堂 でんどう 入 い りを果 は たした。また2003年 ねん には、「Q の選 えら ぶ歴史 れきし 上 じょう 最 もっと も偉大 いだい な100人 にん のシンガー」において第 だい 12位 い に選出 せんしゅつ された[ 2] 。
ビリー・ホリデイ1917年 ねん 撮影 さつえい
ホリデイことエレオノーラ・フェイガンは1915年 ねん にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のフィラデルフィア で、母 はは サラ・ジュリア・セイディー・フェイガン(当時 とうじ 19歳 さい )と父 ちち クラレンス・ホリデイ (英語 えいご 版 ばん ) (同 どう 17歳 さい )の元 もと に産 う まれた。『奇妙 きみょう な果実 かじつ -ビリー・ホリデイ自伝 じでん 』[ 3] によると、ビリーはこの本 ほん の中 なか で15歳 さい の父 ちち と13歳 さい の母 はは という、子 こ どものような二人 ふたり が結婚 けっこん し、自分 じぶん はその間 あいだ に生 う まれたと語 かた っているが、後 ご のジャーナリストたちの調査 ちょうさ によれば、実際 じっさい はクラレンスとセイディは結婚 けっこん しなかったばかりか、クラレンスは生 う まれたエレオノーラを認知 にんち すらしようとしなかったという。
父 ちち クラレンスはジャズ ・ギタリスト であり、夜 よる はナイトクラブ で演奏 えんそう 、昼 ひる は街頭 がいとう を流 なが して生活 せいかつ をしていた。そのためエレオノーラは幼少 ようしょう 期 き を母子 ぼし 家庭 かてい のもと、メリーランド州 しゅう ボルチモア のアッパー・フェルズ・ポイント (英語 えいご 版 ばん ) 地区 ちく で育 そだ てられた。しかしセイディーにとっても娘 むすめ の面倒 めんどう を見 み る時間 じかん は無 な く、結果 けっか ホリデイの世話 せわ は母 はは の親族 しんぞく に委 ゆだ ねられるようになる。セイディーはボルチモアで次々 つぎつぎ と職 しょく を変 か え、その合間 あいま を縫 ぬ ってニューヨーク を訪 おとず れては売春 ばいしゅん を重 かさ ねていた。親族 しんぞく の家 いえ を転々 てんてん として生活 せいかつ していたエレオノーラにとっても、日々 ひび の生活 せいかつ は楽 らく ではなく、従姉 じゅうし アイダの暴力 ぼうりょく に耐 た えなければならなかった。またある日 ひ 、自分 じぶん を腕 うで に抱 だ いて昼寝 ひるね させていた曾祖母 そうそぼ がそのまま死亡 しぼう してしまい、死後 しご 硬直 こうちょく した曾祖母 そうそぼ の腕 うで で首 くび を絞 し められて目覚 めざ めパニックを起 お こしたことで心 しん 的 てき 外傷 がいしょう 後 ご ストレス障害 しょうがい を発症 はっしょう し、何 なん 週間 しゅうかん もの間 あいだ 無言 むごん 症 しょう を患 わずら うことになった。
やがて学校 がっこう へ全 まった く通 かよ わなくなったエレオノーラは、1925年 ねん 1月 がつ 25日 にち に少年 しょうねん 裁判所 さいばんしょ へ引 ひ き出 だ され、裁判官 さいばんかん より「然 しか るべき保護 ほご 者 しゃ のいない未成年 みせいねん 」であると断定 だんてい された。その結果 けっか 、ボルティモアの黒人 こくじん 専用 せんよう のカトリックの女子 じょし 専用 せんよう 寄宿 きしゅく 学校 がっこう 「良 よ き羊 ひつじ 飼 か いの家 いえ 」(House of Good Shepherd for Colored Girls)へ預 あづ けられた[ 4] 。同年 どうねん 3月 がつ 19日 にち 、エレオノーラはエドワード・V・キャサリー神父 しんぷ より洗礼 せんれい を受 う けた[ 5] 。
1925年 ねん 10月 がつ 25日 にち 、セイディーは仮釈放 かりしゃくほう の身 み となったエレオノーラを手元 てもと に引 ひ き取 と った[ 5] 。しかし、セイディーは相変 あいか わらず外泊 がいはく が多 おお く、そんなある夜 よる エレオノーラは近所 きんじょ の男性 だんせい に強姦 ごうかん されてしまう。イギリス の音楽 おんがく ジャーナリストのスチュアート・ニコルソンが著 あらわ したノンフィクション書 しょ 『ビリー・ホリディ―音楽 おんがく と生涯 しょうがい 』[ 6] によると、それは1926年 ねん のクリスマス・イブのことだった。エレオノーラはすぐに医師 いし の診察 しんさつ を受 う け、男性 だんせい は有罪 ゆうざい となったものの、親 おや の保護 ほご と養育 よういく が充分 じゅうぶん ではないと判断 はんだん されたエレオノーラは、1925年 ねん に補導 ほどう されたときと同様 どうよう 、「良 よ き羊 ひつじ 飼 か いの家 いえ 」に再 さい 送致 そうち された。同 どう 施設 しせつ では1927年 ねん 2月 がつ まで生活 せいかつ した。
1928年 ねん にはセイディは再 ふたた びエレオノーラを取 と り戻 もど し、共 とも にニューヨークへと移住 いじゅう した[ 7] 。母 はは は娘 むすめ を売春 ばいしゅん 宿 やど に預 あづ けて再 ふたた び売春 ばいしゅん を始 はじ めた。1929年 ねん には母 はは と共 とも に、エレオノーラまでが売春 ばいしゅん の容疑 ようぎ で逮捕 たいほ 、留置 りゅうち されたという記録 きろく が存在 そんざい する。やがてエレオノーラは、禁酒 きんしゅ 法 ほう 時代 じだい のハーレム の真 ま ん中 なか で、非合法 ひごうほう のナイトクラブ に出入 でい りするようになった。それ以降 いこう 様々 さまざま なクラブで仕事 しごと をするようになったエレオノーラは、ハーレムの有名 ゆうめい なジャズクラブ「ポッズ&ジェリーズ」でも歌 うた い始 はじ めるようになった。この頃 ころ 父 ちち のクラレンスはフレッチャー・ヘンダーソン 楽団 がくだん で演奏 えんそう しており、彼女 かのじょ は父親 ちちおや との再会 さいかい を果 は たしていた。
そんな中 なか 、15歳 さい のある日 ひ 彼女 かのじょ はサックス 奏者 そうしゃ のケニス・ホーロン (ケネス・ホラン)と出会 であ い、彼 かれ と共 とも にクイーンズとブルックリン で最初 さいしょ の契約 けいやく を手 て に入 い れる。幼 おさな い頃 ころ 自分 じぶん に会 あ いに来 き た父 ちち が、男性 だんせい のような外見 がいけん の彼女 かのじょ をからかって「ビル」と呼 よ んでいたことを覚 おぼ えていた彼女 かのじょ は、そのニックネームに父 ちち の姓 せい をつけた「ビリー・ホリデイ」を芸名 げいめい に決 き めた。
活動 かつどう 初期 しょき にはケネス・ホランと共 とも に、ハーレムにあるいくつかのクラブを一緒 いっしょ に回 まわ り、やがてコンビを組 く むまでになった。ホリデイはそれらのクラブでチップを得 え ることで満足 まんぞく し、「Trav'lin' All Alone」や「Them There Eyes」を歌 うた うようになった頃 ころ にはそこそこの蓄 たくわ えができていた。
1933年 ねん 、コロムビア レコードのプロデューサー・ジョン・ハモンド が、クラブ「モネッツ」で穴埋 あなう めを務 つと めていたビリーの歌 うた を偶然 ぐうぜん 耳 みみ に留 と め、その才能 さいのう を見出 みいだ す。彼 かれ は早速 さっそく コロムビアのスタジオに彼女 かのじょ を呼 よ び、既 すで に契約 けいやく を交 か わしていたもう一人 ひとり の若 わか いミュージシャン、クラリネット 奏者 そうしゃ ベニー・グッドマン とのセッションを企画 きかく する。この日 ひ 、18歳 さい の彼女 かのじょ は「Your Mother's Son-in-Law」と「Riffin' the Scotch」を唄 うた い35ドルを受 う け取 と る。翌年 よくねん 、若 わか い才能 さいのう を求 もと めて人々 ひとびと が集 あつ まることで知 し られるアポロ・シアター で、彼女 かのじょ はケネス・ホランと共演 きょうえん 。しかしそれからしばらく経 た ち、ケネスが既婚 きこん 者 しゃ であったこともあり、二人 ふたり は別 わか れる。
ホリデイは将来 しょうらい 性 せい のある様々 さまざま なミュージシャンと出会 であ う機会 きかい に恵 めぐ まれたが、その中 なか にはフレッチャー・ヘンダーソン 楽団 がくだん の看板 かんばん スターであったレスター・ヤング もいた。ビリーとこのサックス奏者 そうしゃ はすぐに意気投合 いきとうごう する。レスターはビリーのことを「レディ・デイ 」と呼 よ び、ビリーは彼 かれ を「サックス奏者 そうしゃ の代表 だいひょう 」という意味 いみ で「プレジデント」、時 とき には略 りゃく して「プレズ 」と呼 よ んだ。ステージを終 お えた後 のち 、二人 ふたり は夜 よる が明 あ けるまでいくつものクラブを周 しゅう って歩 ある いていたとされる。
ホリデイは1935年 ねん に、歴史 れきし に残 のこ るジャズピアニストであり作曲 さっきょく 家 か であるデューク・エリントン とも共演 きょうえん した。デュークは発売 はつばい された自身 じしん の短編 たんぺん 映画 えいが 『シンフォニー・イン・ブラック』にホリデイを起用 きよう し「Saddest Tale」を歌 うた わせた。同 どう 時期 じき に、彼女 かのじょ は若 わか いサックス 奏者 そうしゃ ベン・ウェブスター とも共演 きょうえん し始 はじ める。
1935年 ねん 7月 がつ 2日 にち 、プロデューサーのジョン・ハモンド は、ニューヨークを拠点 きょてん とするブランズウィック・レコード から発売 はつばい するレコードを企画 きかく 。サックスのベン・ウェブスターに加 くわ えて、クラリネット にはベニー・グッドマン 、ピアノ にテディ・ウィルソン 、トランペット にジョン・トゥルーハート 、ベース にジョン・カービー 、そしてコージー・コール をドラムス に迎 むか え、「月光 げっこう のいたずら (What a Little Moonlight Can Do)」と「Miss Brown To You」を録音 ろくおん 。ベストメンバーでレコーディングされた楽曲 がっきょく は、見事 みごと その年 とし のベストセラー に輝 かがや いた。その頃 ころ には母 はは セイディに小 ちい さなレストランを経営 けいえい させ、明 あ け方 がた には朝食 ちょうしょく に立 た ち寄 よ ることも少 すく なくなかったという。
テディ・ウィルソンと組 く んで多 おお くの契約 けいやく をこなしながら、ホリデイはニューヨークにおけるジャズ・スターの一人 ひとり になる。親密 しんみつ な雰囲気 ふんいき を得意 とくい とするホリデイのスタイルは、ベッシー・スミス やそれに続 つづ くシンガーたちが好 この んで立 た つ“大 だい 舞台 ぶたい ”向 む きではなかったが、レスター・ヤングと組 く んだレコードは売 う れ、やがて彼女 かのじょ はカウント・ベイシー 楽団 がくだん やアーティ・ショウ 楽団 がくだん とも共演 きょうえん するようになる。ビリーは白人 はくじん オーケストラと仕事 しごと をした初 はつ の黒人 こくじん 女性 じょせい であり、当時 とうじ のアメリカでは画期的 かっきてき な出来事 できごと だった。しかし、彼女 かのじょ に対 たい する人種 じんしゅ 差別 さべつ は消 き えず、アーティ・ショウ楽団 がくだん との地方 ちほう 巡業 じゅんぎょう の途中 とちゅう で切 き り上 あ げざるを得 え なくなってしまう。ジム・クロウ法 ほう の激 はげ しい南部 なんぶ の州 しゅう では、黒人 こくじん であるビリーは彼 かれ らと一緒 いっしょ に唄 うた うことが出来 でき ないばかりか、楽団 がくだん 員 いん と一緒 いっしょ のホテルを予約 よやく することや、レストランに入 はい ることすらできなかった。
バンドから独立 どくりつ しニューヨークに戻 もど ったホリデイは、再 ふたた びクラブで歌 うた い続 つづ けるようになり、出演 しゅつえん 者 しゃ も観客 かんきゃく も人種 じんしゅ を問 と わず同席 どうせき できる当時 とうじ のアメリカでは革新 かくしん 的 てき なクラブであった「カフェ・ソサエティ (英語 えいご 版 ばん ) 」での専属 せんぞく 歌手 かしゅ として活動 かつどう した。この時期 じき になると、ホリデイの酒量 しゅりょう が増 ふ え、舞台 ぶたい の合間 あいま にマリファナ を吸 す うようになった他 ほか 、レズビアン との関係 かんけい を重 かさ ねたため「ミスター・ホリデイ」の異名 いみょう を取 と るようにもなった。
1937年 ねん 3月1日 にち 、テキサス州 しゅう ダラス での巡業 じゅんぎょう 中 ちゅう に風邪 かぜ から肺炎 はいえん を併発 へいはつ した父 ちち クラレンスが死亡 しぼう 。南部 なんぶ で最 もっと も人種 じんしゅ 差別 さべつ の激 はげ しい地域 ちいき の一 ひと つだったダラスでは、治療 ちりょう を受 う けるために回 まわ った幾 いく つもの病院 びょういん からは全 すべ て診療 しんりょう を拒絶 きょぜつ された。このことについてホリデイは自伝 じでん の中 なか で「肺炎 はいえん が父 ちち を殺 ころ したのではない。テキサス州 しゅう のダラスが父 ちち を殺 ころ したのだ。」と綴 つづ っている。
1939年 ねん 3月、ホリデイはルイス・アレン (英語 えいご 版 ばん 、フランス語 ふらんすご 版 ばん ) という若 わか い高校 こうこう 教師 きょうし が作詞 さくし ・作曲 さっきょく した、アメリカ南部 なんぶ の人種 じんしゅ 差別 さべつ の惨状 さんじょう について歌 うた った曲 きょく 「Strange Fruit (奇妙 きみょう な果実 かじつ )」と出合 であ い、自身 じしん のレパートリーに加 くわ えるようになった。
コロムビアレコード はビリーホリデイに反 はん リンチ 抗議 こうぎ 曲 きょく 「Strange Fruit (奇妙 きみょう な果実 かじつ )」を録音 ろくおん させることを拒否 きょひ 。ミルト・ゲイブラー は、彼女 かのじょ に小 ちい さな専門 せんもん レーベルであるコモドア・レコード に、録音 ろくおん するように勧 すす め1939年 ねん 4月 がつ 20日 はつか に録音 ろくおん 。
以来 いらい この曲 きょく はカフェ・ソサエティとホリデイのテーマソングとなり、間 ま もなく発売 はつばい されたレコードは大 おお きな成功 せいこう を収 おさ めた。
1941年 ねん にホリデイは1930年代 ねんだい にハンガリー語 ご から英訳 えいやく された「Gloomy Sunday (暗 くら い日曜日 にちようび )」をレコーディングし、この曲 きょく は『奇妙 きみょう な果実 かじつ 』に続 つづ くヒットとなった。
これに続 つづ く数 すう 年間 ねんかん 、ビリー・ホリデイは録音 ろくおん や契約 けいやく を増 ふ やし、成功 せいこう への道 みち を歩 あゆ み続 つづ ける。ロイ・エルドリッジ 、アート・テイタム 、ベニー・カーター 、ディジー・ガレスピー など多 おお くミュージシャンたちとの共演 きょうえん も果 は たした。一方 いっぽう で彼女 かのじょ は、トロンボーン 奏者 そうしゃ であり麻薬 まやく の密売 みつばい 人 じん でもあったジミー・モンロー と関係 かんけい を深 ふか め、母 はは と住 す む家 いえ を出 で て早々 そうそう に結婚 けっこん 。モンローは彼女 かのじょ にアヘン やコカイン を覚 おぼ えさせた。
また彼女 かのじょ はやがてビバップのトランペット 奏者 そうしゃ ジョー・ガイ と出会 であ い、ジョーの影響 えいきょう で今度 こんど はヘロイン にも手 て を出 だ すようになった。黒人 こくじん として初 はじ めて立 た ったメトロポリタン歌劇 かげき 場 じょう での晴 は れやかな舞台 ぶたい でも、デッカ と契約 けいやく を交 か わしたときも、彼女 かのじょ はガイの支配 しはい 下 か にあり、ヘロイン漬 づ けだったと言 い われる。ビリーは当時 とうじ を振 ふ り返 かえ り、「私 わたし はたちまちのうちにあの辺 あたり で最 もっと も稼 かせ ぎのいい奴隷 どれい の一人 ひとり になりました。週 しゅう に1,000ドルを稼 かせ ぎましたが、私 わたし にはバージニアで綿 めん 摘 つま みをしている奴隷 どれい ほどの自由 じゆう もありませんでした」と語 かた っている[ 8] 。
やがてホリデイの周 まわ りには「契約 けいやく を守 まも らない」「よく舞台 ぶたい に遅 おく れる」「歌詞 かし を間違 まちが える」といった噂 うわさ が囁 ささや かれ始 はじ める。それを払拭 ふっしょく するために、1945年 ねん にガイはホリデイのために大掛 おおがか りなツアー『ビリー・ホリデイとそのオーケストラ』を企画 きかく するが、巡業 じゅんぎょう が始 はじ まってしばらく経 た った頃 ころ 、一 いち 行 ぎょう の耳 みみ にホリデイの母 はは セイディの訃報 ふほう が届 とど き、ホリデイは鬱 うつ 状態 じょうたい に陥 おちい りアルコールと麻薬 まやく への依存 いぞん を深 ふか め、結局 けっきょく ツアーは途中 とちゅう で打 う ち切 き られてしまった。
1947年 ねん 、大麻 たいま 所持 しょじ により逮捕 たいほ 。その年 とし にモンローとの離婚 りこん を機 き にガイとも別 わか れた彼女 かのじょ は、ウェストヴァージニア州 しゅう オルダーソン連邦 れんぽう 女子 じょし 刑務所 けいむしょ で8ヵ月 かげつ 間 あいだ の服役 ふくえき 生活 せいかつ を送 おく る。その際 さい にニューヨークでのキャバレー 入場 にゅうじょう 証 しょう を失効 しっこう してしまい、それから12年 ねん もの間 あいだ キャバレーへの出演 しゅつえん ができなくなってしまった。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 終結 しゅうけつ 後 ご 、ホリデイはピアニストのボビー・タッカー (英語 えいご 版 ばん 、ドイツ語 ご 版 ばん ) とのコラボレーションを始 はじ める。レコードの売 う れ行 ゆ きは順調 じゅんちょう 。
1944年 ねん にはデッカ と契約 けいやく 。
1946年 ねん 2月 がつ にはニューヨークのタウンホールを制覇 せいは した。
同 どう 時期 じき にホリデイはアイリーン・ウィルソン が彼女 かのじょ のために書 か いた「Lover Man」「Good Morning Heartache (英語 えいご 版 ばん ) 」などを歌 うた い、また彼女 かのじょ 自身 じしん も「Fine and Mellow」「Billie's Blues」「Don't Explain 」「God Bless The Child (英語 えいご 版 ばん ) 」などの楽曲 がっきょく を作曲 さっきょく した。
1947年 ねん には、アーサー・ルービン監督 かんとく の映画 えいが 『ニューオーリンズ 』にも出演 しゅつえん した。
だが同 おな じ頃 ごろ 、彼女 かのじょ はジョー・ガイと寄 よ りを戻 もど し、今度 こんど はLSD に手 て を出 だ す。
1947年 ねん 初頭 しょとう 、マネージャー のジョー・グレイザー は解毒 げどく 治療 ちりょう のために彼女 かのじょ を私立 しりつ クリニックに入院 にゅういん させるが失敗 しっぱい に終 おわ る。結局 けっきょく 、数 すう 週間 しゅうかん 後 ご にホリデイは麻薬 まやく 不法 ふほう 所持 しょじ で逮捕 たいほ され、懲役 ちょうえき 1年 ねん の刑 けい に処 しょ される。以降 いこう 彼女 かのじょ に関 かん するスキャンダルは途切 とぎ れず、経済 けいざい 的 てき にも追 お い込 こ まれていった。
1948年 ねん 3月16日 にち には品行 ひんこう 方正 ほうせい を認 みと められて出所 しゅっしょ を果 は たしたが、彼女 かのじょ の心身 しんしん は破壊 はかい されていた。その1週間 しゅうかん 後 ご の1948年 ねん 3月27日 にち 、彼女 かのじょ はカーネギー・ホール でのコンサートに出演 しゅつえん した。
ビリー・ホリデイ1949年 ねん 3月23日 にち カール・ヴァン・ヴェクテン 撮影 さつえい
出所 しゅっしょ 後 ご にビリーはニューヨークでの労働 ろうどう 許可 きょか を没収 ぼっしゅう され、ニューヨークのクラブで歌 うた うことを禁止 きんし された。唯一 ゆいいつ の例外 れいがい は舞台 ぶたい でのコンサートであったが、幾 いく 晩 ばん も連続 れんぞく して大 だい ホールを聴衆 ちょうしゅう で埋 う めることは困難 こんなん だった。加 くわ えて、ジョー・グレイザー とその後 ご 彼女 かのじょ のマネージャーとなるエド・フィッシュマン との間 あいだ でのエージェント戦争 せんそう にも巻 ま き込 こ まれてしまう。
相次 あいつ ぐ災難 さいなん にもかかわらず、彼女 かのじょ はラジオでライオネル・ハンプトン と共演 きょうえん し、ストランド・シアターではカウント・ベイシー とも共演 きょうえん している。この頃 ころ から彼女 かのじょ の相手 あいて を務 つと めるようになったのは、ジョン・レヴィ という二流 にりゅう どころのギャング だった。彼女 かのじょ はまた、良家 りょうけ の出身 しゅっしん で一時期 いちじき マレーネ・ディートリヒ との浮名 うきな も流 なが したことのある女優 じょゆう タルラー・バンクヘッド とも関係 かんけい を結 むす ぶ[ 9] 。
一方 いっぽう で彼女 かのじょ のヘロイン 漬 づ けの生活 せいかつ は続 つづ き、労働 ろうどう 許可 きょか の没収 ぼっしゅう により仕事 しごと をニューヨーク以外 いがい の場所 ばしょ に求 もと めざるを得 え なくもなっていた。契約 けいやく 条件 じょうけん は不利 ふり になり、ギャラも少 すく なくなっていったが、レヴィは彼女 かのじょ の稼 かせ ぎをすべて吸 す い上 あ げた上 うえ 、彼女 かのじょ を脅 おど すようになる。折 おり も折 おり 、彼女 かのじょ はサンフランシスコ で麻薬 まやく 不法 ふほう 所持 しょじ により逮捕 たいほ される。これに対 たい して、タルラー・バンクヘッドは自分 じぶん のコネ、とりわけFBI 長官 ちょうかん であったエドガー・フーバー との関係 かんけい を駆使 くし して彼女 かのじょ の釈放 しゃくほう に尽力 じんりょく する。しかし彼女 かのじょ はその後 ご もレヴィの暴力 ぼうりょく を受 う け続 つづ け、伴奏 ばんそう 者 しゃ であり友人 ゆうじん であったボビー・タッカー (英語 えいご 版 ばん 、ドイツ語 ご 版 ばん ) は彼女 かのじょ と袂 たもと を分 わ かつ。警察 けいさつ は彼女 かのじょ への捜査 そうさ を続 つづ け、1950年 ねん の『ダウン・ビート 』誌 し 9月 がつ 号 ごう には、「ビリー、またも災難 さいなん 」と題 だい した記事 きじ が掲載 けいさい された。
さらに1949年 ねん のデッカでの録音 ろくおん の際 さい 、ホリデイは自身 じしん の歌声 うたごえ のリズムを合 あ わせられなくなるという事態 じたい に見舞 みま われ[ 10] 、デッカは1950年 ねん の契約 けいやく 更新 こうしん を行 おこ なわなかった。ホリデイは借金 しゃっきん で首 くび も回 まわ らなくなってしまう。レヴィは彼女 かのじょ の稼 かせ ぎをすべて懐 ふところ に入 い れ、請求 せいきゅう 書 しょ は一切 いっさい 払 はら おうとしなかった。レヴィと別 わか れたとき、彼女 かのじょ はかなりの金銭 きんせん を失 うしな うことになったが、一方 いっぽう で一定 いってい の自由 じゆう を取 と り戻 もど すことができた。だがニューヨークで歌 うた うことができなかったホリデイは、長 なが いツアーをこなさなければならなくなる。
1950年 ねん 末 まつ 、彼女 かのじょ はシカゴ でハイノートの舞台 ぶたい を若 わか き日 ひ のマイルス・デイヴィス と分 わ かち合 あ い、再 ふたた び成功 せいこう に恵 めぐ まれる。
1951年 ねん 、ビリー・ホリデイはアラジンという小 ちい さなレコード会社 かいしゃ で何 なん 枚 まい かのレコードを吹 ふ き込 こ むが、批評 ひひょう 家 か からは不評 ふひょう を買 か う。彼女 かのじょ はデトロイト で昔 むかし の恋人 こいびと ルイ・マッケイ と再会 さいかい する。彼女 かのじょ が16歳 さい のときにハーレムで知 し り合 あ った男性 だんせい だが、その時 とき には結婚 けっこん をし二 に 人 にん の子供 こども の父親 ちちおや となっていた。彼 かれ はビリーの新 あら たなマネージャー役 やく に納 おさ まり、彼女 かのじょ のキャリアの復活 ふっかつ に貢献 こうけん する。彼女 かのじょ は西海岸 にしかいがん に落 お ち着 つ き、ノーマン・グランツ のレーベル〈ヴァーヴ 〉と契約 けいやく する。ここで彼女 かのじょ は自分 じぶん に相応 ふさわ しいパートナーたちに巡 めぐ り会 あ う。トランペット のチャーリー・シェイヴァーズ 、ギター のバーニー・ケッセル 、ピアノ のオスカー・ピーターソン 、ベース のレイ・ブラウン 、ドラムス のアルヴィン・ストーラー 、サックス のフリップ・フィリップス 。『ビリー・ホリデイ・シングス』のタイトルで売 う り出 だ されたレコードは鮮 あざ やかな成功 せいこう を収 おさ め、引 ひ き続 つづ きその他 た の幾 いく つかのセッションが録音 ろくおん される。にもかかわらず労働 ろうどう 許可 きょか は再 ふたた び却下 きゃっか され、彼女 かのじょ は肉体 にくたい 的 てき 負担 ふたん の大 おお きいツアーとコンサート(アポロ劇場 げきじょう 、カーネギー・ホール)に頼 たよ る生活 せいかつ を強 し いられる。
1954年 ねん 、ビリーは昔 むかし からの夢 ゆめ を実現 じつげん する。初 はつ のヨーロッパ・ツアーである。ルイ・マッケイとピアニストのカール・ドリンカード を伴 ともな い、彼女 かのじょ はスウェーデン 、デンマーク 、ベルギー 、ドイツ 、オランダ 、フランス (パリ )、スイス を回 まわ る。彼女 かのじょ がパリに立 た ち寄 よ ったのは観光 かんこう のためで、その後 ご イギリス に向 む かい、そこでのコンサートは大 だい 成功 せいこう を収 おさ める。このツアーは実 みの り多 おお く、ビリーにとっては最良 さいりょう の思 おも い出 で の一 ひと つとなった。帰国 きこく すると、麻薬 まやく にもアルコールにもめげず、彼女 かのじょ は超 ちょう 人的 じんてき な力 ちから を発揮 はっき する。カーネギー・ホールで唄 うた い、ニューポート・フェスティバル に出演 しゅつえん し、サンフランシスコ で、ロスアンゼルス で唄 うた い、ヴァーヴ のための録音 ろくおん も続 つづ けた。〈ダウン・ビート〉誌 し は特別 とくべつ に彼女 かのじょ のための賞 しょう を設 もう け、授与 じゅよ する。彼女 かのじょ は新 あたら しい伴奏 ばんそう 者 しゃ として若 わか いメムリー・ミジェットを雇 やと う。彼女 かのじょ との関係 かんけい は単 たん なる友情 ゆうじょう 以上 いじょう のものへと発展 はってん する。メムリーはビリーが麻薬 まやく を断 た つよう励 はげ まし手伝 てつだ うが、失敗 しっぱい に終 お わる。彼女 かのじょ の影響 えいきょう を喜 よろこ ばなかったマッケイによって、メムリーは追 お い払 はら われる。
1955年 ねん 4月 がつ 2日 にち 、ビリー・ホリデイはカーネギー・ホールで催 もよお されたチャーリー・パーカー (3月 がつ 12日 にち 死去 しきょ )の追悼 ついとう コンサートに出演 しゅつえん する。サラ・ヴォーン 、ダイナ・ワシントン 、レスター・ヤング 、ビリー・エクスタイン 、サミー・デイヴィス・ジュニア 、スタン・ゲッツ 、セロニアス・モンク などと並 なら んで、ビリーがコンサートの終 お わりを告 つ げたのは朝 あさ の4時 じ 頃 ごろ であった。
1955年 ねん 8月 がつ 、彼女 かのじょ はヴァーヴのために新 あたら しいアルバムを録音 ろくおん する。『ミュージック・フォー・トーチング 』。ジミー・ロウルス のピアノ、ハリー・“スウィーツ”・エディソン のトランペット、バーニー・ケッセル のギター、ベニー・カーター のアルトサックス、ジョン・シモンズ (英語 えいご 版 ばん ) のベースそしてラリー・バンカー のドラムスを伴奏 ばんそう に彼女 かのじょ が実現 じつげん した傑作 けっさく の一 ひと つである。その後 ご 、彼女 かのじょ は西海岸 にしかいがん でクラブの仕事 しごと を得 え る。
1956年 ねん 、ビリーはルイ・マッケイと共 とも に麻薬 まやく 不法 ふほう 所持 しょじ で逮捕 たいほ される。新 あら たな裁判 さいばん が予定 よてい される。彼女 かのじょ の自叙伝 じじょでん 《レディ・シングス・ザ・ブルース》が出版 しゅっぱん される時期 じき ―この自叙伝 じじょでん は実質 じっしつ 的 てき には彼女 かのじょ のファンであった新聞 しんぶん 記者 きしゃ ウィリアム・ダフティが、それまでに行 おこ なったインタビューを編集 へんしゅう し直 なお したものだった― 、彼女 かのじょ は再度 さいど 解毒 げどく 治療 ちりょう を試 こころ みる。だが、彼女 かのじょ の健康 けんこう は次第 しだい に蝕 むしば まれてゆく。彼女 かのじょ の新 あたら しいピアニストのコーキー・ヘイル は後 のち にビリーの苦渋 くじゅう の様子 ようす を証言 しょうげん している。憔悴 しょうすい 、麻薬 まやく とアルコールによる頽廃 たいはい 、いつもは長袖 ながそで で隠 かく してはいるが遂 つい には手 て まで覆 おお うようになった注射 ちゅうしゃ 針 はり の痕 あと 、疲労 ひろう 、体重 たいじゅう の減少 げんしょう 、舞台 ぶたい 前 まえ の酔態 すいたい 。マッケイと共 とも に裁判 さいばん に掛 か けられると想像 そうぞう しただけで彼女 かのじょ は恐怖 きょうふ に陥 おちい る。そして、そのマッケイは徐々 じょじょ に彼女 かのじょ から遠 とお ざかって行 い った。
彼女 かのじょ はニューポートのフェスティバルに登場 とうじょう し、またCBSテレビ の〈ザ・サウンド・オヴ・ジャズ〉にも出演 しゅつえん する。主 おも な共演 きょうえん 者 しゃ はレスター・ヤング 、コールマン・ホーキンス 、ベン・ウェブスター 、ジェリー・マリガン そしてロイ・エルドリッジ 。また若 わか き日 ひ のマル・ウォルドロン が彼女 かのじょ の新 あら たな伴奏 ばんそう 者 しゃ として登場 とうじょう する。
1957年 ねん 3月28日 にち 、ルイ・マッケイとビリーはメキシコ で結婚 けっこん するが、これは裁判 さいばん で互 たが いに不利 ふり なことを証言 しょうげん しないためであった。いずれにしても、二人 ふたり の間 あいだ は既 すで に終 おわ っていた。判決 はんけつ (12ヶ月 かげつ の執行 しっこう 猶予 ゆうよ )がい渡 いわた されると、マッケイはビリーの許 もと を去 さ り、ビリーは離婚 りこん 手続 てつづ きを開始 かいし する。
1958年 ねん 2月 がつ 、彼女 かのじょ は新曲 しんきょく ばかりを揃 そろ えた『レディ・イン・サテン (英語 えいご 版 ばん 、フランス語 ふらんすご 版 ばん 、ハンガリー語 ご 版 ばん ) 』 を録音 ろくおん する。伴奏 ばんそう は編曲 へんきょく を担当 たんとう したレイ・エリス (英語 えいご 版 ばん ) が率 ひき いるオーケストラだった。それは胸 むね を刺 さ すようなアルバムだった。
1959年 ねん 録音 ろくおん の『ビリー・ホリデイ』とだけ題 だい された最後 さいご のアルバムにも匹敵 ひってき するような悲痛 ひつう さを感 かん じさせた。彼女 かのじょ はまた1958年 ねん 10月 がつ のモントルー・ジャズ・フェスティバル にも参加 さんか し、11月には二 に 度目 どめ のヨーロッパ・ツアーを行 おこ なう。イタリア で彼女 かのじょ の唄 うた は野次 やじ で迎 むか えられ、公演 こうえん は切 き り上 あ げられた。パリでは、オリンピアでの公演 こうえん をようやくのことで勤 つと めたものの、彼女 かのじょ は憔悴 しょうすい し切 き っていた。ツアーは風前 ふうぜん の灯 ともしび だった。彼女 かのじょ はマル・ウォルドロン とベースのミシェル・ゴードリー とともにマース・クラブの出演 しゅつえん を引 ひ き受 う ける。聴衆 ちょうしゅう はみな彼女 かのじょ の唄 うた に惹 ひ きつけられ、ビリーはここで成功 せいこう を収 おさ める。マース・クラブを埋 う めつくした聴衆 ちょうしゅう の中 なか にはジュリエット・グレコ 、セルジュ・ゲンスブール といった当時 とうじ の有名人 ゆうめいじん たちの顔 かお もあった。
当時 とうじ の記憶 きおく を作家 さっか フランソワーズ・サガン はこう綴 つづ っている。
《 それはビリー・ホリデイだった。だが、
彼女 かのじょ ではなかった。
痩 や せ
細 ほそ り、
年老 としお い、
腕 うで は
注射 ちゅうしゃ 針 はり の
痕 あと で
覆 おお われていた。……
眼 め を
伏 ふ せて
歌 うた い、
歌詞 かし を
飛 と ばした。まるで
嵐 あらし に
揉 も まれる
船上 せんじょう で
手 て すりにでも
掴 つか まるかのようにピアノにもたれた。
集 あつ まった
人々 ひとびと が
拍手 はくしゅ を
送 おく ると、
彼女 かのじょ は
聴衆 ちょうしゅう に
向 むか って
皮肉 ひにく とも
哀 あわ れみともとれる
眼差 まなざ しを
投 な げかけるのだった。それは
自分 じぶん 自身 じしん に
対 たい する
容赦 ようしゃ ない
眼差 まなざ しでもあったのだろう。 》
[ 11]
何 なん 年 ねん も前 まえ から、ビリーは病 やまい に侵 おか されていた。両脚 りょうきゃく には浮腫 ふしゅ が出現 しゅつげん していたし、何 なに よりも肝硬変 かんこうへん が悪化 あっか していた。それでも彼女 かのじょ は酒 さけ を止 と めることができなかった。朝 あさ から晩 ばん まで酒 さけ を飲 の み続 つづ けた。2回 かい 目 め のヨーロッパ・ツアーで彼女 かのじょ は疲労 ひろう していたが、数ヵ月 すうかげつ 後 ご には再 ふたた びロンドンへ渡 わた り、『チェルシー・アト・ナイン』というテレビ番組 ばんぐみ に出演 しゅつえん している。帰国 きこく は困難 こんなん を極 きわ めた。
1959年 ねん 3月15日 にち 、ビリーはレスター・ヤング の訃報 ふほう を耳 みみ にする。埋葬 まいそう のとき、レスターの妻 つま はビリーが唄 うた うことを拒絶 きょぜつ 、嘆 なげ きと悲 かな しみにビリーは泣 な き崩 くず れる。葬儀 そうぎ からの帰路 きろ でビリーはこう呟 つぶや いたと伝 つた えられる…『あいつら、唄 うた わせてくれなかった。この次 つぎ はあたしの番 ばん だわ』 。
翌 よく 4月 がつ 7日 にち 、彼女 かのじょ は44歳 さい を迎 むか える。マサチューセッツ での複数 ふくすう の契約 けいやく を果 はた した後 のち 、5月25日 にち にはニューヨークのフェニックス・シアターでのチャリティー・コンサートで唄 うた っている。舞台裏 ぶたいうら では友人 ゆうじん たちが彼女 かのじょ のあまりの変貌 へんぼう に驚 おどろ き、ジョー・グレイザー などは彼女 かのじょ を入院 にゅういん させようとするが、彼女 かのじょ はき入 きい れなかった。5月30日 にち 、彼女 かのじょ は自宅 じたく で倒 たお れ、ハーレムのメトロポリタン・ホスピタルに入院 にゅういん を認 みと められる(その前 まえ にニッカーボッカー病院 びょういん で入院 にゅういん を拒否 きょひ されたのは、麻薬 まやく 常習 じょうしゅう 者 しゃ は昏睡 こんすい 状態 じょうたい にあっても受 う け入 い れられないという理由 りゆう からだった)。
肝硬変 かんこうへん 以外 いがい にも、腎不全 じんふぜん の診断 しんだん が下 くだ される。メサドン 治療 ちりょう が施 ほどこ され、少 すこ しずつ回復 かいふく するかに見 み えた。アルコールと煙草 たばこ は禁止 きんし されていたが、ビリーは隠 かく れて喫煙 きつえん を続 つづ けた。更 さら に悪 わる いことに、6月11日 にち 、彼女 かのじょ のハンカチ箱 ばこ の中 なか から僅 わず かな白 しろ い粉 こな が発見 はっけん される。彼女 かのじょ は逮捕 たいほ され、病室 びょうしつ で何 なん 日間 にちかん か警察 けいさつ の監視 かんし 下 か に置 お かれる。裁判 さいばん は彼女 かのじょ の回復 かいふく を待 ま って行 おこ なわれることになった。回復 かいふく は順調 じゅんちょう に見 み えたが、7月 がつ 10日 とおか 、病状 びょうじょう は急変 きゅうへん する。腎臓 じんぞう 感染 かんせん と肺 はい うっ血 けつ が認 みと められた。ルイ・マッケイとウィリアム・ダフティが病床 びょうしょう に駆 か けつけた。7月15日 にち 早朝 そうちょう 、ビリーはローマ・カトリック教会 きょうかい の最後 さいご の秘蹟 ひせき を受 う ける。
1959年 ねん 7月 がつ 17日 にち 朝 あさ 3時 じ 10分 ふん 没 ぼつ 。 44年 ねん の生涯 しょうがい であった。
葬儀 そうぎ は1959年 ねん 7月 がつ 21日 にち 、セント・ポール教会 きょうかい で行 おこ なわれた。3,000人 にん の群集 ぐんしゅう が参列 さんれつ し、人 ひと の波 なみ はコロンバス・アベニューまで続 つづ いた。遺体 いたい はブロンクス のセント・レイモンド墓地 ぼち にある母親 ははおや の墓石 はかいし の下 した に埋葬 まいそう された。1960年 ねん 、ルイ・マッケイは彼女 かのじょ の棺 かん を別 べつ の墓 はか に移動 いどう させた。その死 し に当 あた って、ビリーが唯一 ゆいいつ の相続 そうぞく 人 じん であるこの前夫 ぜんふ (まだ離婚 りこん 手続 てつづ きは完了 かんりょう していなかった) に遺 のこ したのは1,345ドルであった。しかし僅 わず か6ヵ月 かげつ 後 ご の1959年 ねん 末 まつ には、彼女 かのじょ のレコードの印税 いんぜい は10万 まん ドルに上 のぼ った。
なお、彼女 かのじょ の死 し を悼 いた んで彼女 かのじょ の伴奏 ばんそう 者 しゃ であったマル・ウォルドロン が「Left Alone」を制作 せいさく している。
アルバム『レディ・イン・サテン』のレコーディングを担当 たんとう したレイ・エリス は、レコーディング時 じ に付 つ きつけられるホリデイのあまりに難 むずか しい要求 ようきゅう に疲 つか れ果 は ててミキシングを拒否 きょひ したが、後日 ごじつ このアルバムに収 おさ められた「恋 こい は愚 おろ かというけれど (I'm A Fool To Want You)」や「You've Changed」を聴 き き、歌 うた を際立 きわだ たせるその限 かぎ りない悲 かな しみを感 かん じ取 と った彼 かれ は、彼女 かのじょ の歌 うた を残 のこ すことの芸術 げいじゅつ 的 てき な意味 いみ を理解 りかい する。その後 ご 、彼女 かのじょ と共 とも にレコーディングしたアルバム『ビリー・ホリデイ』は、ビリーの遺作 いさく となった。彼 かれ は『レディ・イン・サテン』をレコーディングしたときの思 おも い出 で を書 か きしている。
《…一番 いちばん 感動 かんどう 的 てき だったのは、「恋 こい は愚 おろ かというけれど」のプレイバックを聴 き いていた時 とき だろう。彼女 かのじょ の目 め からは涙 なみだ が溢 あふ れていた。 (中略 ちゅうりゃく ) アルバム制作 せいさく 終了 しゅうりょう 後 ご 、私 わたし はコントロール室 しつ 内 ない に入 はい って全 ぜん テイクを聴 き いた。私 わたし は彼女 かのじょ の唄 うた いぶりには満足 まんぞく できなかったことを認 みと めねばならないが、感情 かんじょう を込 こ めてではなく、音楽 おんがく 的 てき にしか聴 き いていなかったのだろう。数 すう 週間 しゅうかん 後 ご ファイナル・ミックスを聴 き くまでは、彼女 かのじょ の唄 うた いぶりが本当 ほんとう はどんなに素晴 すば らしいものかが解 わか らなかった。》[ 12]
フランク・シナトラ やアビー・リンカーン らは生前 せいぜん からビリーを絶賛 ぜっさん し、彼女 かのじょ の人生 じんせい の終焉 しゅうえん に於 お いては最 もっと も近 ちか しい友人 ゆうじん の一人 ひとり になっていた。1972年 ねん には、ダイアナ・ロス がホリデイの自伝 じでん に基 もと づいた映画 えいが 『ビリー・ホリデイ物語 ものがたり /奇妙 きみょう な果実 かじつ 』でホリデイ役 やく を演 えん じた。この作品 さくひん は商業 しょうぎょう 的 てき にも大 だい 成功 せいこう し、ダイアナ・ロスはアカデミー賞 しょう 女優 じょゆう 賞 しょう にノミネートされることとなった。メイシー・グレイ も1999年 ねん に、ホリデイについて「ビリー・ホリデイは私 わたし に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えました。私 わたし が本気 ほんき で勉強 べんきょう した最初 さいしょ のシンガーは彼女 かのじょ でした[ 13] 」と語 かた っている。またU2 は、1987年 ねん にビリーへのトリビュート・ソングであるシングル「Angel of Harlem」をリリースしている。
生前 せいぜん は、エラ・フィッツジェラルド やサラ・ヴォーン ほどの知名度 ちめいど はなかったものの、ビリー・ホリデイはジャズの歴史 れきし に於 お いてユニークな地位 ちい を占 し める存在 そんざい となった。生涯 しょうがい を通 つう じて人種 じんしゅ 差別 さべつ や性 せい 差別 さべつ と闘 たたか い、乱 みだ れた生活 せいかつ にもかかわらず名声 めいせい を勝 か ち得 え た彼女 かのじょ は、現在 げんざい 、20世紀 せいき で最 もっと も偉大 いだい な歌手 かしゅ の一人 ひとり に数 かぞ えられている。また、彼女 かのじょ の名 な は、しばしばアフリカ系 けい アメリカ人 じん のコミュニティからも、ゲイ のコミュニティからも引 ひ き合 あ いに出 だ され、差別 さべつ を声高 こわだか に反対 はんたい して、同権 どうけん を求 もと めて立 た ち上 あ がろうとした彼女 かのじょ の早 はや くからの努力 どりょく に対 たい して敬意 けいい が払 はら われている。
2019年 ねん には、近年 きんねん になって発見 はっけん されたジャーナリストのリンダ・リプナック・キュール が1960年代 ねんだい に10年間 ねんかん かけて関係 かんけい 者 しゃ にインタビューを重 かさ ねた膨大 ぼうだい な録音 ろくおん テープをもとに構成 こうせい されたドキュメンタリー映画 えいが 『BILLIE ビリー 』が公開 こうかい された。また2022年 ねん に、ビリー・ホリデイが人種 じんしゅ 差別 さべつ を告発 こくはつ する楽曲 がっきょく 「奇妙 きみょう な果実 かじつ 」を歌 うた い続 つづ けたことで、FBIのターゲットとして追 お われていたエピソードに焦点 しょうてん を当 あ てた映画 えいが 『ザ・ユナイテッド・ステイツ vs. ビリー・ホリデイ 』が公開 こうかい された。当初 とうしょ は全米 ぜんべい で劇場 げきじょう 公開 こうかい される予定 よてい だったが、新型 しんがた コロナウイルス の流行 りゅうこう が収束 しゅうそく しない状況 じょうきょう を受 う け、インターネットでの配信 はいしん に切 き り替 か わった。
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^ ビリー・ホリデイ&ウィリアム・ダフティ著 ちょ 『レディ・シングス・ザ・ブルース』:1956年 ねん
^ シルヴィア・フォル:P.199 - 201、この関係 かんけい はおおっぴらなものであったにもかかわらず、国会 こっかい 議員 ぎいん の娘 むすめ であった女優 じょゆう タルラー・バンクヘッドは、ビリーの自叙伝 じじょでん の出版 しゅっぱん に際 さい し該当 がいとう 部分 ぶぶん の記述 きじゅつ を削除 さくじょ するようビリーに圧力 あつりょく をかけた。シルヴィア・フォルはフランスの作家 さっか 、引用 いんよう 著書 ちょしょ は後 ご 出 で 5.1にある《ビリー・ホリデイ》と思 おも われる。
^ 同上 どうじょう P.216
^ フランソワーズ・サガン著 ちょ 『私 わたし 自身 じしん のための優 やさ しい回想 かいそう 』(新潮社 しんちょうしゃ 刊 かん 、ガリマール著 ちょ 、1984年 ねん )
^ レイ・エリス、1997年 ねん 5月 がつ :〈レディ・イン・サテン〉復刻 ふっこく 版 ばん CD(1997年 ねん )ライナーノーツ より。(対訳 たいやく :安江 やすえ 幸子 さちこ )
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スチュアート・ニコルソン著 ちょ 、鈴木 すずき 玲子 れいこ 訳 やく 、『ビリー・ホリディ―音楽 おんがく と生涯 しょうがい (原題 げんだい 『ビリー・ホリディ』)』日本テレビ放送網 にほんてれびほうそうもう 1994年 ねん 初版 しょはん
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