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ビリー・ホリデイ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ビリー・ホリデイ
ビリー・ホリデイ 1949ねん
カール・ヴァン・ヴェクテン撮影さつえい
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい エリノラ・フェイガン・ゴフ
別名べつめい レディ・デイ
生誕せいたん 1915ねん4がつ7にち
出身しゅっしん アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくメリーランドしゅうボルチモア
死没しぼつ (1959-07-17) 1959ねん7がつ17にち(44さいぼつアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくニューヨークしゅうニューヨークマンハッタンハーレム
ジャンル ジャズ
職業しょくぎょう 歌手かしゅ
活動かつどう期間きかん 1935ねん-1959ねん
レーベル Columbia Records
1933ねん-1942ねん1958ねん
Commodore Records
1939ねん1944ねん
Decca Records
(1944ねん-1950ねん
Verve Records
1952ねん-1959ねん
公式こうしきサイト Billie Holiday Official Site
ニューヨークで公演こうえんちゅうのビリー・ホリデイ(1947)

ビリー・ホリデイ(Billie Holiday) ことエレオノーラ・フェイガン(Eleanora Fagan, 1915ねん4がつ7にち - 1959ねん7がつ17にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくジャズ歌手かしゅ

レディ・デイ」の呼称こしょうられ、サラ・ヴォーンエラ・フィッツジェラルドならんで、女性じょせいジャズ・ヴォーカリスト御三家ごさんけ1人ひとりかぞえられる[1]彼女かのじょはその生涯しょうがいとおして、人種じんしゅ差別さべつ薬物やくぶつ依存いぞんしょうアルコール依存いぞんしょうとのたたかいなどの壮絶そうぜつ人生じんせいおくった。彼女かのじょ存在そんざいは、ジャニス・ジョプリンをはじめとするおおくのミュージシャンに影響えいきょうあたえた。彼女かのじょ生涯しょうがいいて代表だいひょうてきなレパートリーであった「奇妙きみょう果実かじつ (Strange Fruit)」や「かみよめぐみを (God Bless' the Child)」、「I Love You, Porgy」、「Fine and Mellow」などは、後年こうねんおおくのミュージシャンにげられるジャズ・ボーカルの古典こてんとなった。

彼女かのじょからやく40ねん2000ねんにはロックの殿堂でんどうりをたした。また2003ねんには、「Qえら歴史れきしじょうもっと偉大いだいな100にんのシンガー」においてだい12選出せんしゅつされた[2]

生涯しょうがい

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幼少ようしょう

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ビリー・ホリデイ
1917ねん撮影さつえい

ホリデイことエレオノーラ・フェイガンは1915ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくフィラデルフィアで、ははサラ・ジュリア・セイディー・フェイガン(当時とうじ19さい)とちちクラレンス・ホリデイ英語えいごばんどう17さい)のもとまれた。『奇妙きみょう果実かじつ -ビリー・ホリデイ自伝じでん[3]によると、ビリーはこのほんなかで15さいちちと13さいははという、どものような二人ふたり結婚けっこんし、自分じぶんはそのあいだまれたとかたっているが、のジャーナリストたちの調査ちょうさによれば、実際じっさいはクラレンスとセイディは結婚けっこんしなかったばかりか、クラレンスはまれたエレオノーラを認知にんちすらしようとしなかったという。

ちちクラレンスはジャズギタリストであり、よるナイトクラブ演奏えんそうひる街頭がいとうながして生活せいかつをしていた。そのためエレオノーラは幼少ようしょう母子ぼし家庭かていのもと、メリーランドしゅうボルチモアアッパー・フェルズ・ポイント英語えいごばん地区ちくそだてられた。しかしセイディーにとってもむすめ面倒めんどう時間じかんく、結果けっかホリデイの世話せわはは親族しんぞくゆだねられるようになる。セイディーはボルチモアで次々つぎつぎしょくえ、その合間あいまってニューヨークおとずれては売春ばいしゅんかさねていた。親族しんぞくいえ転々てんてんとして生活せいかつしていたエレオノーラにとっても、日々ひび生活せいかつらくではなく、従姉じゅうしアイダの暴力ぼうりょくえなければならなかった。またある自分じぶんうでいて昼寝ひるねさせていた曾祖母そうそぼがそのまま死亡しぼうしてしまい、死後しご硬直こうちょくした曾祖母そうそぼうでくびめられて目覚めざめパニックをこしたことでしんてき外傷がいしょうストレス障害しょうがい発症はっしょうし、なん週間しゅうかんものあいだ無言むごんしょうわずらうことになった。

やがて学校がっこうまったかよわなくなったエレオノーラは、1925ねん1がつ25にち少年しょうねん裁判所さいばんしょされ、裁判官さいばんかんより「しかるべき保護ほごしゃのいない未成年みせいねん」であると断定だんていされた。その結果けっか、ボルティモアの黒人こくじん専用せんようのカトリックの女子じょし専用せんよう寄宿きしゅく学校がっこうひつじいのいえ」(House of Good Shepherd for Colored Girls)へあづけられた[4]同年どうねん3がつ19にち、エレオノーラはエドワード・V・キャサリー神父しんぷより洗礼せんれいけた[5]

1925ねん10がつ25にち、セイディーは仮釈放かりしゃくほうとなったエレオノーラを手元てもとった[5]。しかし、セイディーは相変あいかわらず外泊がいはくおおく、そんなあるよるエレオノーラは近所きんじょ男性だんせい強姦ごうかんされてしまう。イギリス音楽おんがくジャーナリストのスチュアート・ニコルソンがあらわしたノンフィクションしょ『ビリー・ホリディ―音楽おんがく生涯しょうがい[6]によると、それは1926ねんのクリスマス・イブのことだった。エレオノーラはすぐに医師いし診察しんさつけ、男性だんせい有罪ゆうざいとなったものの、おや保護ほご養育よういく充分じゅうぶんではないと判断はんだんされたエレオノーラは、1925ねん補導ほどうされたときと同様どうよう、「ひつじいのいえ」にさい送致そうちされた。どう施設しせつでは1927ねん2がつまで生活せいかつした。

1928ねんにはセイディはふたたびエレオノーラをもどし、ともにニューヨークへと移住いじゅうした[7]ははむすめ売春ばいしゅん宿やどあづけてふたた売春ばいしゅんはじめた。1929ねんにはははともに、エレオノーラまでが売春ばいしゅん容疑ようぎ逮捕たいほ留置りゅうちされたという記録きろく存在そんざいする。やがてエレオノーラは、禁酒きんしゅほう時代じだいハーレムなかで、非合法ひごうほうナイトクラブ出入でいりするようになった。それ以降いこう様々さまざまなクラブで仕事しごとをするようになったエレオノーラは、ハーレムの有名ゆうめいなジャズクラブ「ポッズ&ジェリーズ」でもうたはじめるようになった。このころちちのクラレンスはフレッチャー・ヘンダーソン楽団がくだん演奏えんそうしており、彼女かのじょ父親ちちおやとの再会さいかいたしていた。

そんななか、15さいのある彼女かのじょサックス奏者そうしゃケニス・ホーロン(ケネス・ホラン)と出会であい、かれともにクイーンズとブルックリン最初さいしょ契約けいやくれる。おさなころ自分じぶんいにちちが、男性だんせいのような外見がいけん彼女かのじょをからかって「ビル」とんでいたことをおぼえていた彼女かのじょは、そのニックネームにちちせいをつけた「ビリー・ホリデイ」を芸名げいめいめた。

活動かつどう初期しょき

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活動かつどう初期しょきにはケネス・ホランとともに、ハーレムにあるいくつかのクラブを一緒いっしょまわり、やがてコンビをむまでになった。ホリデイはそれらのクラブでチップをることで満足まんぞくし、「Trav'lin' All Alone」や「Them There Eyes」をうたうようになったころにはそこそこのたくわえができていた。

1933ねんコロムビアレコードのプロデューサー・ジョン・ハモンドが、クラブ「モネッツ」で穴埋あなうめをつとめていたビリーのうた偶然ぐうぜんみみめ、その才能さいのう見出みいだす。かれ早速さっそくコロムビアのスタジオに彼女かのじょび、すで契約けいやくわしていたもう一人ひとりわかいミュージシャン、クラリネット奏者そうしゃベニー・グッドマンとのセッションを企画きかくする。この、18さい彼女かのじょは「Your Mother's Son-in-Law」と「Riffin' the Scotch」をうたい35ドルをる。翌年よくねんわか才能さいのうもとめて人々ひとびとあつまることでられるアポロ・シアターで、彼女かのじょはケネス・ホランと共演きょうえん。しかしそれからしばらくち、ケネスが既婚きこんしゃであったこともあり、二人ふたりわかれる。

ホリデイは将来しょうらいせいのある様々さまざまなミュージシャンと出会であ機会きかいめぐまれたが、そのなかにはフレッチャー・ヘンダーソン楽団がくだん看板かんばんスターであったレスター・ヤングもいた。ビリーとこのサックス奏者そうしゃはすぐに意気投合いきとうごうする。レスターはビリーのことを「レディ・デイ」とび、ビリーはかれを「サックス奏者そうしゃ代表だいひょう」という意味いみで「プレジデント」、ときにはりゃくして「プレズ」とんだ。ステージをえたのち二人ふたりよるけるまでいくつものクラブをしゅうってあるいていたとされる。

絶頂ぜっちょう

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ホリデイは1935ねんに、歴史れきしのこるジャズピアニストであり作曲さっきょくであるデューク・エリントンとも共演きょうえんした。デュークは発売はつばいされた自身じしん短編たんぺん映画えいが『シンフォニー・イン・ブラック』にホリデイを起用きようし「Saddest Tale」をうたわせた。どう時期じきに、彼女かのじょわかサックス奏者そうしゃベン・ウェブスターとも共演きょうえんはじめる。

1935ねん7がつ2にち、プロデューサーのジョン・ハモンドは、ニューヨークを拠点きょてんとするブランズウィック・レコードから発売はつばいするレコードを企画きかく。サックスのベン・ウェブスターにくわえて、クラリネットにはベニー・グッドマンピアノテディ・ウィルソントランペットジョン・トゥルーハートベースジョン・カービー、そしてコージー・コールドラムスむかえ、「月光げっこうのいたずら (What a Little Moonlight Can Do)」と「Miss Brown To You」を録音ろくおん。ベストメンバーでレコーディングされた楽曲がっきょくは、見事みごとそのとしベストセラーかがやいた。そのころにはははセイディにちいさなレストランを経営けいえいさせ、がたには朝食ちょうしょくることもすくなくなかったという。

テディ・ウィルソンとんでおおくの契約けいやくをこなしながら、ホリデイはニューヨークにおけるジャズ・スターの一人ひとりになる。親密しんみつ雰囲気ふんいき得意とくいとするホリデイのスタイルは、ベッシー・スミスやそれにつづくシンガーたちがこのんでつ“だい舞台ぶたいきではなかったが、レスター・ヤングとんだレコードはれ、やがて彼女かのじょカウント・ベイシー楽団がくだんアーティ・ショウ楽団がくだんとも共演きょうえんするようになる。ビリーは白人はくじんオーケストラと仕事しごとをしたはつ黒人こくじん女性じょせいであり、当時とうじのアメリカでは画期的かっきてき出来事できごとだった。しかし、彼女かのじょたいする人種じんしゅ差別さべつえず、アーティ・ショウ楽団がくだんとの地方ちほう巡業じゅんぎょう途中とちゅうげざるをなくなってしまう。ジム・クロウほうはげしい南部なんぶしゅうでは、黒人こくじんであるビリーはかれらと一緒いっしょうたうことが出来できないばかりか、楽団がくだんいん一緒いっしょのホテルを予約よやくすることや、レストランにはいることすらできなかった。

奇妙きみょう果実かじつ

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バンドから独立どくりつしニューヨークにもどったホリデイは、ふたたびクラブでうたつづけるようになり、出演しゅつえんしゃ観客かんきゃく人種じんしゅわず同席どうせきできる当時とうじのアメリカでは革新かくしんてきなクラブであった「カフェ・ソサエティ英語えいごばん」での専属せんぞく歌手かしゅとして活動かつどうした。この時期じきになると、ホリデイの酒量しゅりょうえ、舞台ぶたい合間あいまマリファナうようになったほかレズビアンとの関係かんけいかさねたため「ミスター・ホリデイ」の異名いみょうるようにもなった。

1937ねん3月1にちテキサスしゅうダラスでの巡業じゅんぎょうちゅう風邪かぜから肺炎はいえん併発へいはつしたちちクラレンスが死亡しぼう南部なんぶもっと人種じんしゅ差別さべつはげしい地域ちいきひとつだったダラスでは、治療ちりょうけるためにまわったいくつもの病院びょういんからはすべ診療しんりょう拒絶きょぜつされた。このことについてホリデイは自伝じでんなかで「肺炎はいえんちちころしたのではない。テキサスしゅうのダラスがちちころしたのだ。」とつづっている。

1939ねん3月、ホリデイはルイス・アレン英語えいごばんフランス語ふらんすごばんというわか高校こうこう教師きょうし作詞さくし作曲さっきょくした、アメリカ南部なんぶ人種じんしゅ差別さべつ惨状さんじょうについてうたったきょく「Strange Fruit (奇妙きみょう果実かじつ)」と出合であい、自身じしんのレパートリーにくわえるようになった。

コロムビアレコードはビリーホリデイにはんリンチ 抗議こうぎきょく「Strange Fruit (奇妙きみょう果実かじつ)」を録音ろくおんさせることを拒否きょひミルト・ゲイブラーは、彼女かのじょちいさな専門せんもんレーベルであるコモドア・レコードに、録音ろくおんするようにすすめ1939ねん4がつ20日はつか録音ろくおん

以来いらいこのきょくはカフェ・ソサエティとホリデイのテーマソングとなり、もなく発売はつばいされたレコードはおおきな成功せいこうおさめた。

1941ねんにホリデイは1930年代ねんだいハンガリーから英訳えいやくされた「Gloomy Sunday (くら日曜日にちようび)」をレコーディングし、このきょくは『奇妙きみょう果実かじつ』につづくヒットとなった。

麻薬まやく、そしてはは

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これにつづすう年間ねんかん、ビリー・ホリデイは録音ろくおん契約けいやくやし、成功せいこうへのみちあゆつづける。ロイ・エルドリッジアート・テイタムベニー・カーターディジー・ガレスピーなどおおくミュージシャンたちとの共演きょうえんたした。一方いっぽう彼女かのじょは、トロンボーン奏者そうしゃであり麻薬まやく密売みつばいじんでもあったジミー・モンロー関係かんけいふかめ、ははいえ早々そうそう結婚けっこん。モンローは彼女かのじょアヘンコカインおぼえさせた。

また彼女かのじょはやがてビバップのトランペット奏者そうしゃジョー・ガイ出会であい、ジョーの影響えいきょう今度こんどヘロインにもすようになった。黒人こくじんとしてはじめてったメトロポリタン歌劇かげきじょうでのれやかな舞台ぶたいでも、デッカ契約けいやくわしたときも、彼女かのじょはガイの支配しはいにあり、ヘロインけだったとわれる。ビリーは当時とうじかえり、「わたしはたちまちのうちにあのあたりもっとかせぎのいい奴隷どれい一人ひとりになりました。しゅうに1,000ドルをかせぎましたが、わたしにはバージニアで綿めんつまみをしている奴隷どれいほどの自由じゆうもありませんでした」とかたっている[8]

やがてホリデイのまわりには「契約けいやくまもらない」「よく舞台ぶたいおくれる」「歌詞かし間違まちがえる」といったうわさささやかれはじめる。それを払拭ふっしょくするために、1945ねんにガイはホリデイのために大掛おおがかりなツアー『ビリー・ホリデイとそのオーケストラ』を企画きかくするが、巡業じゅんぎょうはじまってしばらくったころいちぎょうみみにホリデイのははセイディの訃報ふほうとどき、ホリデイはうつ状態じょうたいおちいりアルコールと麻薬まやくへの依存いぞんふかめ、結局けっきょくツアーは途中とちゅうられてしまった。

1947ねん大麻たいま所持しょじにより逮捕たいほ。そのとしにモンローとの離婚りこんにガイともわかれた彼女かのじょは、ウェストヴァージニアしゅうオルダーソン連邦れんぽう女子じょし刑務所けいむしょで8ヵ月かげつあいだ服役ふくえき生活せいかつおくる。そのさいにニューヨークでのキャバレー入場にゅうじょうしょう失効しっこうしてしまい、それから12ねんものあいだキャバレーへの出演しゅつえんができなくなってしまった。

逮捕たいほ服役ふくえき

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だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつ、ホリデイはピアニストのボビー・タッカー英語えいごばんドイツばんとのコラボレーションをはじめる。レコードのきは順調じゅんちょう

1944ねんにはデッカ契約けいやく

1946ねん2がつにはニューヨークのタウンホールを制覇せいはした。

どう時期じきにホリデイはアイリーン・ウィルソン彼女かのじょのためにいた「Lover Man」「Good Morning Heartache英語えいごばん」などをうたい、また彼女かのじょ自身じしんも「Fine and Mellow」「Billie's Blues」「Don't Explain」「God Bless The Child英語えいごばん」などの楽曲がっきょく作曲さっきょくした。

1947ねんには、アーサー・ルービン監督かんとく映画えいがニューオーリンズ』にも出演しゅつえんした。

だがおなごろ彼女かのじょはジョー・ガイとりをもどし、今度こんどLSDす。

1947ねん初頭しょとうマネージャージョー・グレイザー解毒げどく治療ちりょうのために彼女かのじょ私立しりつクリニックに入院にゅういんさせるが失敗しっぱいおわる。結局けっきょくすう週間しゅうかんにホリデイは麻薬まやく不法ふほう所持しょじ逮捕たいほされ、懲役ちょうえき1ねんけいしょされる。以降いこう彼女かのじょかんするスキャンダルは途切とぎれず、経済けいざいてきにもまれていった。

1948ねん3月16にちには品行ひんこう方正ほうせいみとめられて出所しゅっしょたしたが、彼女かのじょ心身しんしん破壊はかいされていた。その1週間しゅうかん1948ねん3月27にち彼女かのじょカーネギー・ホールでのコンサートに出演しゅつえんした。

ビリー・ホリデイ
1949ねん3月23にち
カール・ヴァン・ヴェクテン撮影さつえい

ジョン・レヴィとの出会であ

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出所しゅっしょにビリーはニューヨークでの労働ろうどう許可きょか没収ぼっしゅうされ、ニューヨークのクラブでうたうことを禁止きんしされた。唯一ゆいいつ例外れいがい舞台ぶたいでのコンサートであったが、いくばん連続れんぞくしてだいホールを聴衆ちょうしゅうめることは困難こんなんだった。くわえて、ジョー・グレイザーとその彼女かのじょのマネージャーとなるエド・フィッシュマンとのあいだでのエージェント戦争せんそうにもまれてしまう。

相次あいつ災難さいなんにもかかわらず、彼女かのじょはラジオでライオネル・ハンプトン共演きょうえんし、ストランド・シアターではカウント・ベイシーとも共演きょうえんしている。このころから彼女かのじょ相手あいてつとめるようになったのは、ジョン・レヴィという二流にりゅうどころのギャングだった。彼女かのじょはまた、良家りょうけ出身しゅっしん一時期いちじきマレーネ・ディートリヒとの浮名うきなながしたことのある女優じょゆうタルラー・バンクヘッドとも関係かんけいむす[9]

一方いっぽう彼女かのじょヘロインけの生活せいかつつづき、労働ろうどう許可きょか没収ぼっしゅうにより仕事しごとをニューヨーク以外いがい場所ばしょもとめざるをなくもなっていた。契約けいやく条件じょうけん不利ふりになり、ギャラもすくなくなっていったが、レヴィは彼女かのじょかせぎをすべてげたうえ彼女かのじょおどすようになる。おりおり彼女かのじょサンフランシスコ麻薬まやく不法ふほう所持しょじにより逮捕たいほされる。これにたいして、タルラー・バンクヘッドは自分じぶんのコネ、とりわけFBI長官ちょうかんであったエドガー・フーバーとの関係かんけい駆使くしして彼女かのじょ釈放しゃくほう尽力じんりょくする。しかし彼女かのじょはそのもレヴィの暴力ぼうりょくつづけ、伴奏ばんそうしゃであり友人ゆうじんであったボビー・タッカー英語えいごばんドイツばん彼女かのじょたもとかつ。警察けいさつ彼女かのじょへの捜査そうさつづけ、1950ねんの『ダウン・ビート9がつごうには、「ビリー、またも災難さいなん」とだいした記事きじ掲載けいさいされた。

さらに1949ねんのデッカでの録音ろくおんさい、ホリデイは自身じしん歌声うたごえのリズムをわせられなくなるという事態じたい見舞みまわれ[10]、デッカは1950ねん契約けいやく更新こうしんおこなわなかった。ホリデイは借金しゃっきんくびまわらなくなってしまう。レヴィは彼女かのじょかせぎをすべてふところれ、請求せいきゅうしょ一切いっさいはらおうとしなかった。レヴィとわかれたとき、彼女かのじょはかなりの金銭きんせんうしなうことになったが、一方いっぽう一定いってい自由じゆうもどすことができた。だがニューヨークでうたうことができなかったホリデイは、ながいツアーをこなさなければならなくなる。

1950ねんまつ彼女かのじょシカゴでハイノートの舞台ぶたいわかマイルス・デイヴィスかちい、ふたた成功せいこうめぐまれる。

ルイ・マッケイとの再会さいかい

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1951ねん、ビリー・ホリデイはアラジンというちいさなレコード会社かいしゃなんまいかのレコードをむが、批評ひひょうからは不評ふひょうう。彼女かのじょデトロイトむかし恋人こいびとルイ・マッケイ再会さいかいする。彼女かのじょが16さいのときにハーレムでった男性だんせいだが、そのときには結婚けっこんをしにん子供こども父親ちちおやとなっていた。かれはビリーのあらたなマネージャーやくおさまり、彼女かのじょのキャリアの復活ふっかつ貢献こうけんする。彼女かのじょ西海岸にしかいがんき、ノーマン・グランツのレーベル〈ヴァーヴ〉と契約けいやくする。ここで彼女かのじょ自分じぶん相応ふさわしいパートナーたちにめぐう。トランペットチャーリー・シェイヴァーズギターバーニー・ケッセルピアノオスカー・ピーターソンベースレイ・ブラウンドラムスアルヴィン・ストーラーサックスフリップ・フィリップス。『ビリー・ホリデイ・シングス』のタイトルでされたレコードはあざやかな成功せいこうおさめ、つづきそのいくつかのセッションが録音ろくおんされる。にもかかわらず労働ろうどう許可きょかふたた却下きゃっかされ、彼女かのじょ肉体にくたいてき負担ふたんおおきいツアーとコンサート(アポロ劇場げきじょう、カーネギー・ホール)にたよ生活せいかついられる。

1954ねん、ビリーはむかしからのゆめ実現じつげんする。はつのヨーロッパ・ツアーである。ルイ・マッケイとピアニストのカール・ドリンカードともない、彼女かのじょスウェーデンデンマークベルギードイツオランダフランスパリ)、スイスまわる。彼女かのじょがパリにったのは観光かんこうのためで、そのイギリスかい、そこでのコンサートはだい成功せいこうおさめる。このツアーはみのおおく、ビリーにとっては最良さいりょうおもひとつとなった。帰国きこくすると、麻薬まやくにもアルコールにもめげず、彼女かのじょちょう人的じんてきちから発揮はっきする。カーネギー・ホールでうたい、ニューポート・フェスティバル出演しゅつえんし、サンフランシスコで、ロスアンゼルスうたい、ヴァーヴのための録音ろくおんつづけた。〈ダウン・ビート〉特別とくべつ彼女かのじょのためのしょうもうけ、授与じゅよする。彼女かのじょあたらしい伴奏ばんそうしゃとしてわかいメムリー・ミジェットをやとう。彼女かのじょとの関係かんけいたんなる友情ゆうじょう以上いじょうのものへと発展はってんする。メムリーはビリーが麻薬まやくつようはげまし手伝てつだうが、失敗しっぱいわる。彼女かのじょ影響えいきょうよろこばなかったマッケイによって、メムリーははらわれる。

1955ねん4がつ2にち、ビリー・ホリデイはカーネギー・ホールでもよおされたチャーリー・パーカー(3がつ12にち死去しきょ)の追悼ついとうコンサートに出演しゅつえんする。サラ・ヴォーンダイナ・ワシントンレスター・ヤングビリー・エクスタインサミー・デイヴィス・ジュニアスタン・ゲッツセロニアス・モンクなどとならんで、ビリーがコンサートのわりをげたのはあさの4ごろであった。

1955ねん8がつ彼女かのじょはヴァーヴのためにあたらしいアルバムを録音ろくおんする。『ミュージック・フォー・トーチング』。ジミー・ロウルスのピアノ、ハリー・“スウィーツ”・エディソンのトランペット、バーニー・ケッセルのギター、ベニー・カーターのアルトサックス、ジョン・シモンズ英語えいごばんのベースそしてラリー・バンカーのドラムスを伴奏ばんそう彼女かのじょ実現じつげんした傑作けっさくひとつである。その彼女かのじょ西海岸にしかいがんでクラブの仕事しごとる。

レディ・イン・サテン

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1956ねん、ビリーはルイ・マッケイととも麻薬まやく不法ふほう所持しょじ逮捕たいほされる。あらたな裁判さいばん予定よていされる。彼女かのじょ自叙伝じじょでん《レディ・シングス・ザ・ブルース》が出版しゅっぱんされる時期じき―この自叙伝じじょでん実質じっしつてきには彼女かのじょのファンであった新聞しんぶん記者きしゃウィリアム・ダフティが、それまでにおこなったインタビューを編集へんしゅうなおしたものだった―彼女かのじょ再度さいど解毒げどく治療ちりょうこころみる。だが、彼女かのじょ健康けんこう次第しだいむしばまれてゆく。彼女かのじょあたらしいピアニストのコーキー・ヘイルのちにビリーの苦渋くじゅう様子ようす証言しょうげんしている。憔悴しょうすい麻薬まやくとアルコールによる頽廃たいはい、いつもは長袖ながそでかくしてはいるがついにはまでおおうようになった注射ちゅうしゃはりあと疲労ひろう体重たいじゅう減少げんしょう舞台ぶたいまえ酔態すいたい。マッケイととも裁判さいばんけられると想像そうぞうしただけで彼女かのじょ恐怖きょうふおちいる。そして、そのマッケイは徐々じょじょ彼女かのじょからとおざかってった。

彼女かのじょはニューポートのフェスティバルに登場とうじょうし、またCBSテレビの〈ザ・サウンド・オヴ・ジャズ〉にも出演しゅつえんする。おも共演きょうえんしゃレスター・ヤングコールマン・ホーキンスベン・ウェブスタージェリー・マリガンそしてロイ・エルドリッジ。またわかマル・ウォルドロン彼女かのじょあらたな伴奏ばんそうしゃとして登場とうじょうする。

1957ねん3月28にち、ルイ・マッケイとビリーはメキシコ結婚けっこんするが、これは裁判さいばんたがいに不利ふりなことを証言しょうげんしないためであった。いずれにしても、二人ふたりあいだすでおわっていた。判決はんけつ(12ヶ月かげつ執行しっこう猶予ゆうよ)がいいわたされると、マッケイはビリーのもとり、ビリーは離婚りこん手続てつづきを開始かいしする。

1958ねん2がつ彼女かのじょ新曲しんきょくばかりをそろえたレディ・イン・サテン英語えいごばんフランス語ふらんすごばんハンガリーばん録音ろくおんする。伴奏ばんそう編曲へんきょく担当たんとうしたレイ・エリス英語えいごばんひきいるオーケストラだった。それはむねすようなアルバムだった。

1959ねん録音ろくおんの『ビリー・ホリデイ』とだけだいされた最後さいごのアルバムにも匹敵ひってきするような悲痛ひつうさをかんじさせた。彼女かのじょはまた1958ねん10がつモントルー・ジャズ・フェスティバルにも参加さんかし、11月には度目どめのヨーロッパ・ツアーをおこなう。イタリア彼女かのじょうた野次やじむかえられ、公演こうえんげられた。パリでは、オリンピアでの公演こうえんをようやくのことでつとめたものの、彼女かのじょ憔悴しょうすいっていた。ツアーは風前ふうぜんともしびだった。彼女かのじょマル・ウォルドロンとベースのミシェル・ゴードリーとともにマース・クラブの出演しゅつえんける。聴衆ちょうしゅうはみな彼女かのじょうたきつけられ、ビリーはここで成功せいこうおさめる。マース・クラブをめつくした聴衆ちょうしゅうなかにはジュリエット・グレコセルジュ・ゲンスブールといった当時とうじ有名人ゆうめいじんたちのかおもあった。

当時とうじ記憶きおく作家さっかフランソワーズ・サガンはこうつづっている。

《 それはビリー・ホリデイだった。だが、彼女かのじょではなかった。ほそり、年老としおい、うで注射ちゅうしゃはりあとおおわれていた。……せてうたい、歌詞かしばした。まるであらしまれる船上せんじょうすりにでもつかまるかのようにピアノにもたれた。あつまった人々ひとびと拍手はくしゅおくると、彼女かのじょ聴衆ちょうしゅうむかって皮肉ひにくともあわれみともとれる眼差まなざしをげかけるのだった。それは自分じぶん自身じしんたいする容赦ようしゃない眼差まなざしでもあったのだろう。 》[11]

晩年ばんねん

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なんねんまえから、ビリーはやまいおかされていた。両脚りょうきゃくには浮腫ふしゅ出現しゅつげんしていたし、なによりも肝硬変かんこうへん悪化あっかしていた。それでも彼女かのじょさけめることができなかった。あさからばんまでさけつづけた。2かいのヨーロッパ・ツアーで彼女かのじょ疲労ひろうしていたが、数ヵ月すうかげつにはふたたびロンドンへわたり、『チェルシー・アト・ナイン』というテレビ番組ばんぐみ出演しゅつえんしている。帰国きこく困難こんなんきわめた。

1959ねん3月15にち、ビリーはレスター・ヤング訃報ふほうみみにする。埋葬まいそうのとき、レスターのつまはビリーがうたうことを拒絶きょぜつなげきとかなしみにビリーはくずれる。葬儀そうぎからの帰路きろでビリーはこうつぶやいたとつたえられる…『あいつら、うたわせてくれなかった。このつぎはあたしのばんだわ』

よく4がつ7にち彼女かのじょは44さいむかえる。マサチューセッツでの複数ふくすう契約けいやくはたしたのち、5月25にちにはニューヨークのフェニックス・シアターでのチャリティー・コンサートでうたっている。舞台裏ぶたいうらでは友人ゆうじんたちが彼女かのじょのあまりの変貌へんぼうおどろき、ジョー・グレイザーなどは彼女かのじょ入院にゅういんさせようとするが、彼女かのじょはききいれなかった。5月30にち彼女かのじょ自宅じたくたおれ、ハーレムのメトロポリタン・ホスピタルに入院にゅういんみとめられる(そのまえにニッカーボッカー病院びょういん入院にゅういん拒否きょひされたのは、麻薬まやく常習じょうしゅうしゃ昏睡こんすい状態じょうたいにあってもれられないという理由りゆうからだった)。

肝硬変かんこうへん以外いがいにも、腎不全じんふぜん診断しんだんくだされる。メサドン治療ちりょうほどこされ、すこしずつ回復かいふくするかにえた。アルコールと煙草たばこ禁止きんしされていたが、ビリーはかくれて喫煙きつえんつづけた。さらわるいことに、6月11にち彼女かのじょのハンカチばこなかからわずかなしろこな発見はっけんされる。彼女かのじょ逮捕たいほされ、病室びょうしつなん日間にちかん警察けいさつ監視かんしかれる。裁判さいばん彼女かのじょ回復かいふくっておこなわれることになった。回復かいふく順調じゅんちょうえたが、7がつ10日とおか病状びょうじょう急変きゅうへんする。腎臓じんぞう感染かんせんはいうっけつみとめられた。ルイ・マッケイとウィリアム・ダフティが病床びょうしょうけつけた。7月15にち早朝そうちょう、ビリーはローマ・カトリック教会きょうかい最後さいご秘蹟ひせきける。

1959ねん7がつ17にちあさ310ふんぼつ。 44ねん生涯しょうがいであった。

葬儀そうぎ1959ねん7がつ21にち、セント・ポール教会きょうかいおこなわれた。3,000にん群集ぐんしゅう参列さんれつし、ひとなみはコロンバス・アベニューまでつづいた。遺体いたいブロンクスのセント・レイモンド墓地ぼちにある母親ははおや墓石はかいしした埋葬まいそうされた。1960ねん、ルイ・マッケイは彼女かのじょかんべつはか移動いどうさせた。そのあたって、ビリーが唯一ゆいいつ相続そうぞくじんであるこの前夫ぜんふ(まだ離婚りこん手続てつづきは完了かんりょうしていなかった)のこしたのは1,345ドルであった。しかしわずか6ヵ月かげつの1959ねんまつには、彼女かのじょのレコードの印税いんぜいは10まんドルにのぼった。

なお、彼女かのじょいたんで彼女かのじょ伴奏ばんそうしゃであったマル・ウォルドロンが「Left Alone」を制作せいさくしている。

ヴォイス

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アルバム『レディ・イン・サテン』のレコーディングを担当たんとうしたレイ・エリスは、レコーディングきつけられるホリデイのあまりにむずかしい要求ようきゅうつかててミキシングを拒否きょひしたが、後日ごじつこのアルバムにおさめられた「こいおろかというけれど (I'm A Fool To Want You)」や「You've Changed」をき、うた際立きわだたせるそのかぎりないかなしみをかんったかれは、彼女かのじょうたのこすことの芸術げいじゅつてき意味いみ理解りかいする。その彼女かのじょともにレコーディングしたアルバム『ビリー・ホリデイ』は、ビリーの遺作いさくとなった。かれは『レディ・イン・サテン』をレコーディングしたときのおもきしている。

《…一番いちばん感動かんどうてきだったのは、「こいおろかというけれど」のプレイバックをいていたときだろう。彼女かのじょからはなみだあふれていた。 (中略ちゅうりゃく) アルバム制作せいさく終了しゅうりょうわたしはコントロールしつないはいってぜんテイクをいた。わたし彼女かのじょうたいぶりには満足まんぞくできなかったことをみとめねばならないが、感情かんじょうめてではなく、音楽おんがくてきにしかいていなかったのだろう。すう週間しゅうかんファイナル・ミックスをくまでは、彼女かのじょうたいぶりが本当ほんとうはどんなに素晴すばらしいものかがわからなかった。》[12]

影響えいきょう

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フランク・シナトラアビー・リンカーンらは生前せいぜんからビリーを絶賛ぜっさんし、彼女かのじょ人生じんせい終焉しゅうえんいてはもっとちかしい友人ゆうじん一人ひとりになっていた。1972ねんには、ダイアナ・ロスがホリデイの自伝じでんもとづいた映画えいがビリー・ホリデイ物語ものがたり/奇妙きみょう果実かじつ』でホリデイやくえんじた。この作品さくひん商業しょうぎょうてきにもだい成功せいこうし、ダイアナ・ロスはアカデミーしょう女優じょゆうしょうにノミネートされることとなった。メイシー・グレイ1999ねんに、ホリデイについて「ビリー・ホリデイはわたしおおきな影響えいきょうあたえました。わたし本気ほんき勉強べんきょうした最初さいしょのシンガーは彼女かのじょでした[13]」とかたっている。またU2は、1987ねんにビリーへのトリビュート・ソングであるシングル「Angel of Harlem」をリリースしている。

生前せいぜんは、エラ・フィッツジェラルドサラ・ヴォーンほどの知名度ちめいどはなかったものの、ビリー・ホリデイはジャズの歴史れきしいてユニークな地位ちいめる存在そんざいとなった。生涯しょうがいつうじて人種じんしゅ差別さべつせい差別さべつたたかい、みだれた生活せいかつにもかかわらず名声めいせい彼女かのじょは、現在げんざい20世紀せいきもっと偉大いだい歌手かしゅ一人ひとりかぞえられている。また、彼女かのじょは、しばしばアフリカけいアメリカじんのコミュニティからも、ゲイのコミュニティからもいにされ、差別さべつ声高こわだか反対はんたいして、同権どうけんもとめてがろうとした彼女かのじょはやくからの努力どりょくたいして敬意けいいはらわれている。

2019ねんには、近年きんねんになって発見はっけんされたジャーナリストのリンダ・リプナック・キュールが1960年代ねんだいに10年間ねんかんかけて関係かんけいしゃにインタビューをかさねた膨大ぼうだい録音ろくおんテープをもとに構成こうせいされたドキュメンタリー映画えいがBILLIE ビリー』が公開こうかいされた。また2022ねんに、ビリー・ホリデイが人種じんしゅ差別さべつ告発こくはつする楽曲がっきょく奇妙きみょう果実かじつ」をうたつづけたことで、FBIのターゲットとしてわれていたエピソードに焦点しょうてんてた映画えいがザ・ユナイテッド・ステイツ vs. ビリー・ホリデイ』が公開こうかいされた。当初とうしょ全米ぜんべい劇場げきじょう公開こうかいされる予定よていだったが、新型しんがたコロナウイルス流行りゅうこう収束しゅうそくしない状況じょうきょうけ、インターネットでの配信はいしんわった。

エピソード

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ コリアー、ジェイムズ・リンカンちょ《ホリデイ、ビリー》、The New Grove Dictionary of Music and Musicians、出版しゅっぱんしゃL.ナンシー
  2. ^ Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers (2007ねん4がつ). 2013ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  3. ^ 油井ゆい正一しょういち大橋おおはし巨泉きょせんわけ晶文社しょうぶんしゃかん原題げんだい『レディ・シングス・ザ・ブルース』。
  4. ^ Birī horidei : Ongaku to shōgai. Nicholson, Stuart., Suzuki, Reiko., Yamato, Akira, 1936-, 鈴木すずき, 玲子れいこ, 翻訳ほんやく., 大和やまと, あきら, 1936-. 日本テレビ放送網にほんてれびほうそうもう. (1997). pp. 34-35. ISBN 4820396641. OCLC 674735161. https://www.worldcat.org/oclc/674735161 
  5. ^ a b Birī horidei : Ongaku to shōgai. Nicholson, Stuart., Suzuki, Reiko., Yamato, Akira, 1936-, 鈴木すずき, 玲子れいこ, 翻訳ほんやく., 大和やまと, あきら, 1936-. 日本テレビ放送網にほんてれびほうそうもう. (1997). p. 37. ISBN 4820396641. OCLC 674735161. https://www.worldcat.org/oclc/674735161 
  6. ^ 鈴木すずき玲子れいこわけ日本テレビ放送網にほんてれびほうそうもうかん原題げんだい『ビリー・ホリディ』、1994ねん初版しょはん
  7. ^ Bio billieholiday.com 2024ねん4がつ8にち閲覧えつらん
  8. ^ ビリー・ホリデイ&ウィリアム・ダフティちょ『レディ・シングス・ザ・ブルース』:1956ねん
  9. ^ シルヴィア・フォル:P.199 - 201、この関係かんけいはおおっぴらなものであったにもかかわらず、国会こっかい議員ぎいんむすめであった女優じょゆうタルラー・バンクヘッドは、ビリーの自叙伝じじょでん出版しゅっぱんさい該当がいとう部分ぶぶん記述きじゅつ削除さくじょするようビリーに圧力あつりょくをかけた。シルヴィア・フォルはフランスの作家さっか引用いんよう著書ちょしょ5.1にある《ビリー・ホリデイ》とおもわれる。
  10. ^ 同上どうじょうP.216
  11. ^ フランソワーズ・サガンちょわたし自身じしんのためのやさしい回想かいそう』(新潮社しんちょうしゃかん、ガリマールちょ、1984ねん
  12. ^ レイ・エリス、1997ねん5がつ:〈レディ・イン・サテン〉復刻ふっこくばんCD(1997ねんライナーノーツより。(対訳たいやく安江やすえ幸子さちこ
  13. ^ [1]

参考さんこう文献ぶんけん

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自伝じでん

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評伝ひょうでん

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  • Julia Blackburn, With Billie, ISBN 0375406107
  • John Chilton, Billie's Blues: The Billie Holiday Story 1933-1959, ISBN 0306803631
  • Donald Clarke, Billie Holiday: Wishing on the Moon, ISBN 0306811367
  • Angela Y. Davis, Blues Legacies and Black Feminism: Gertrude "Ma" Rainey, Bessie Smith, and Billie Holiday, ISBN 0679771263
  • Leslie Gourse, The Billie Holiday Companion: Seven Decades of Commentary, ISBN 0028646134
  • Farah Jasmine Griffin, If You Can't Be Free, Be A Mystery: In Search of Billie Holiday, ISBN 0684868083
  • Chris Ingham, Billie Holiday, ISBN 1566491703
  • Burnett James, Billie Holiday, ISBN 0946771057
  • Jack Millar, Born to Sing: A Discography of Billie Holiday, ISBN 8788043045
  • スチュアート・ニコルソンちょ鈴木すずき玲子れいこやく、『ビリー・ホリディ―音楽おんがく生涯しょうがい原題げんだい『ビリー・ホリディ』)』日本テレビ放送網にほんてれびほうそうもう 1994ねん初版しょはん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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