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シバの女王じょおう

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マケダから転送てんそう
シバの女王じょおう
ソロモンとシバの女王じょおう
ピエロ・デラ・フランチェスカ

シバの女王じょおう(シバのじょおう、ヘブライ: מלכת שבאMalkat Shvaゲエズ:ንግሥተ ሳባ Nigist Sabaアラビア: ملكة سبأ Malikat Sabaʾ)は、旧約きゅうやく聖書せいしょ登場とうじょうする女王じょおう本名ほんみょう伝承でんしょうによってことなりニカウレービルキースマーケダー などと呼称こしょうされる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

シバの女王じょおうについてもっともふる記録きろくは『旧約きゅうやく聖書せいしょ』「れつおううえ」10しょう[1]および「歴代れきだいした」9しょう[2]にみえる。それによると、「シバの女王じょおうソロモン知恵ちえうわさつたくと、おおくの随員ずいいんともなって、香料こうりょう大量たいりょうかね宝石ほうせきなどのおくものをラクダではこび、難問なんもんを以ってかれためそうとエルサレム訪問ほうもんした。女王じょおうはソロモンに数々かずかず質問しつもんびせるが、ソロモンにこたえられないことはなにもなかった。また、その宮殿きゅうでん食卓しょくたく料理りょうり居並いなら臣下しんか神殿しんでんの燔祭などの様子ようすたりにした女王じょおう感嘆かんたんし、ソロモンがつかえるかみとなえ、かね200キカル(1キカルはやく34.2 kgなので6.84 t)と非常ひじょうおおくの香料こうりょう宝石ほうせきおくった。ソロモンも女王じょおうたいしておくものをしたほか、彼女かのじょのぞむものをあたえた。こうして女王じょおういちぎょう故国ここく帰還きかんした。」という内容ないようである。このとおり『旧約きゅうやく聖書せいしょ』には女王じょおう名前なまえもシバこく位置いちしるされていないが、後世こうせいになると地域ちいき宗派しゅうはによって様々さまざま伝承でんしょう付随ふずいすることになる。

「シバ」の表記ひょうきについて[編集へんしゅう]

女王じょおう統治とうちするくに名称めいしょうシバは、ヘブライ旧約きゅうやく聖書せいしょ』の表記ひょうき「シェバ(שבא)」を英語えいごで「Sheba(シーバ)」と転写てんしゃしたのが日本語にほんごはいったことから一般いっぱんした表記ひょうきで、英語えいご以外いがいおおくの欧米おうべいでは「Saba」と表記ひょうきされる[3]。なお、ギリシアやく聖書せいしょでは「サバ」、アラビアでは「サバァ(سبأ)」であり、さきイスラーム古代こだいみなみアラビアでの発音はつおんは「シャバァ」だったと推定すいていされている[3]

シバこく位置いち[編集へんしゅう]

1世紀せいき人物じんぶつフラウィウス・ヨセフスちょの『ユダヤ古代こだい』によるとシバの女王じょおうは「エジプトエチオピア支配しはいした女王じょおう」で、名前なまえニカウレー(Nikaule)としるされている[ちゅう 1]。ヨセフスのす「サバ」は『旧約きゅうやく聖書せいしょ』「イザヤしょ」にあるエジプトやスーダン南方なんぽうの「セバ(Saba)」と「れつおう」の「シバ(Sheba)」との混同こんどうあるいはどういちがあると指摘してきされている[4]

一方いっぽうで、紀元前きげんぜん4世紀せいきからまえ1世紀せいきにかけてテオフラストス、アガタルキデス、ストラボンなどの著作ちょさくみなみアラビアの香辛料こうしんりょう産地さんちとして「サバ」というくにしるされている。また、5世紀せいきのフィロストルギオスちょの『教会きょうかい』では、女王じょおうくにみなみアラビアにあったとしている。『教会きょうかい』によると4世紀せいきごろにみなみアラビアを支配しはいしていたヒムヤル王国おうこくげんイエメン西岸せいがん)は、かつてサバとばれ、その首都しゅとから女王じょおうがソロモンにうために出立しゅったつしたとしるされている[5]。しかし、紀元前きげんぜん7世紀せいきごろにサバおうカリブイル・ワタルがアッシリアおうみつげおさめしたことをしるした碑文ひぶんより以前いぜん、つまりソロモンの活動かつどうした紀元前きげんぜん10世紀せいきごろにシバこく存在そんざいしたことを証明しょうめいする資料しりょう碑文ひぶんなどは発見はっけんされていないため史実しじつせい否定ひていされている[6]

王国おうこく所在地しょざいちについては上記じょうきのようにエチオピア近辺きんぺんみなみアラビアのせつがあるが、りょう地域ちいきはまったくの無関係むかんけいではない。みなみアラビアのサバこくと、対岸たいがんエリトリアエチオピア北部ほくぶには、りょう地域ちいきふか関係かんけいしめ遺跡いせき碑文ひぶん多数たすうのこされている[7]。また、紀元前きげんぜん5世紀せいきごろのおうは「ダァマトとサバのムッカリブ」としょうしたが、現地げんちみんのダァマトと移民いみんのサバを支配しはいするムッカリブ(おうたちの支配しはいしゃ)という意味いみで、この「ムッカリブ」はどう時代じだいみなみアラビアでも使用しようされたなど称号しょうごうかんしてもりょう地域ちいき関係かんけいせいられる[8]

ユダヤきょうにおける伝説でんせつ[編集へんしゅう]

『タルグム・シェーニー』の記述きじゅつ[編集へんしゅう]

旧約きゅうやく聖書せいしょ』「エステル」の『タルグム・シェーニー』(エステル番目ばんめのアラムやくおよび註釈ちゅうしゃく)はソロモンとシバの女王じょおうかんして以下いかのような異説いせつせている。 あるときソロモンは東西とうざい諸王しょおうまねいてだい宴会えんかいひらいた。その酒宴しゅえん遅参ちさんしたとりヤツガシラ激怒げきどしたが、ヤツガシラのはなおどろくほどゆたかな東方とうほう都市としキトルとそのおさめるシェバの女王じょおう興味きょうみしめし、女王じょおう親書しんしょとどけるようにめいじた。その親書しんしょには恭順きょうじゅん表敬ひょうけい訪問ほうもん女王じょおうめいじるもので、なければほろぼすとおどすものであった。女王じょおうはまずソロモンへの手紙てがみおくもの、6000の少年しょうねん少女しょうじょせたふねおくし、自身じしん陸路りくろ旅立たびだった。ソロモンとガラスの広間ひろま対面たいめんした女王じょおうだったが、ガラスをみず勘違かんちがいしてすそをたくしげたため、毛深けぶかあしられてしまいソロモンにからからかわれる。それを無視むしして女王じょおうみっつのなぞいかける。

  • 1. 貯水ちょすいそうてつのつるべ、つるべはいしげてみずながす。
  • 2. それはほこりのようにからまれやしなわれる。それはみずのようにながれるがいえなからす。
  • 3. そのあたまあらしけ、大声おおごえさけぶ。そのあたまあしのよう。それは自由じゆうじんには栄誉えいよたねで、貧乏人びんぼうにんには不名誉ふめいよたねせるものには栄誉えいよたねけるものには不名誉ふめいよたねとりにとってはよろこびのたねさかなにとってはなげきのたね

ソロモンはいごとにすぐさま「コールぼく容器ようき」、「ナフサ」、「亜麻あま」と正答せいとうした[ちゅう 2]。それ以下いかは「れつおう」の表記ひょうきおなじである。

『ベン・シラのアルファベット』の記述きじゅつ[編集へんしゅう]

中世ちゅうせいつくられた『ベン・シラのアルファベット』[ちゅう 3]にはさらにべつ逸話いつわせられている。しんバビロニアネブカドネザル2せいは、7さいにして賢人けんじんうわさのベン・シラ[ちゅう 4]との問答もんどうで「脱毛だつもうざいつくかたは、くわしくは自身じしんのお母上ははうえにおたずねください。」とわれて困惑こんわくする。ベン・シラがかたることによると、すうじゅうねんまえ、ソロモンは対面たいめんしたシバの女王じょおうしくも毛深けぶかいことをにして、召使めしつかいめいじて脱毛だつもうざいほどこした。そうして女王じょおうたいしておもいをげたが、その結果けっかまれたのがネブカドネザル2せいであったという。

キリスト教きりすときょうにおける伝説でんせつ[編集へんしゅう]

せい十字架じゅうじか伝説でんせつ』(アレッツォせいフランチェスコ聖堂せいどう)、イタリアの画家がかピエロ・デラ・フランチェスカによる15世紀せいき作品さくひん

新約しんやく聖書せいしょ』の記述きじゅつ[編集へんしゅう]

マタイによる福音ふくいんしょ」ではイエス直接ちょくせつ言及げんきゅうしている。イエスはりつほう学者がくしゃファリサイ人々ひとびとから「しるし」をせるようにせまられたさい、「しるし」なしでも回心かいしんしたれいとして「みなみくに」「てからた」女王じょおうをあげてかれらをいさめている[9]。またイエスは審判しんぱん女王じょおうよみがえ信仰しんこうしゃたちを断罪だんざいするだろうと予言よげんしており、これ以降いこう女王じょおう回心かいしんする異教徒いきょうと原型げんけいとみなされ、ソロモンと女王じょおう主題しゅだいとした絵画かいが彫刻ちょうこくおおつくられることになる[ちゅう 5]

黄金おうごん伝説でんせつ』の記述きじゅつ[編集へんしゅう]

ヤコブス・デ・ウォラギネちょの『黄金おうごん伝説でんせつ』にはせい十字架じゅうじか伝説でんせつ付随ふずいして女王じょおう逸話いつわのこる。ウォラギネ自身じしん内容ないよう懐疑かいぎてき歴史れきししょによると、アダムエデン追放ついほうされる原因げんいんとなったえだだい天使てんしミカエルつうじてセツ(アダムの)にわたされ、それがおおきくなりソロモンの時代じだいまでのこっていた。このして建設けんせつちゅう神殿しんでん建材けんざい使つかおうとしたが、どうにもながさがわずぬまはしとしていていた。その、シバの女王じょおうエルサレムおとずれたさいにこのはしると、いつか世界せかいすくぬしがこのけられることを心眼しんがん見抜みぬき、そのひざまずいて拝礼はいれいしたという。ソロモンは女王じょおうからそのはなしくと、地下ちかふかめた。月日つきひながれそのには神殿しんでん犠牲ぎせいじゅうあらほりつくられ、イエスの磔刑たっけいさいにひとりでにかびがってきたという。

イスラームにおける伝説でんせつ[編集へんしゅう]

シェバの女王じょおうにソロモンの手紙てがみとどける戴勝(ヤツガシラ)、サファヴィーあさ時代じだいのミニアチュール だいえい博物館はくぶつかん所蔵しょぞう

『クルアーン』の記述きじゅつ[編集へんしゅう]

『クルアーン』だい27番目ばんめあきらあり(アン・ナムル)」に「サバアの女王じょおう」のはなしせられている。前述ぜんじゅつの『タルグム・シェーニー』の記述きじゅつかさなる部分ぶぶんおおい。スレイマーン(ソロモン)が精霊せいれい人間にんげん鳥類ちょうるいだい動員どういんけたさいに、ヤツガシラが遅刻ちこくをしてきた。わけうとサバアというくに君臨くんりんする女王じょおうアッラーいて太陽たいよう崇拝すうはいしていると報告ほうこくしてきた。それをいたおうは、恭順きょうじゅん表敬ひょうけい訪問ほうもんめいじる親書しんしょおくった。女王じょおうがわ使者ししゃおくものたせて様子ようすようとしたがそれをかえし、女王じょおう玉座ぎょくざ自身じしん臣下しんか所望しょもうするとけいてん知識ちしきもの一瞬いっしゅんってきた。おうおとずれた女王じょおうたいして、よそおいをえた玉座ぎょくざについていてみると「自身じしんものらしい」とこたえた(スレイマーンはアッラーに帰依きえしていないゆえに知恵ちえまり明言めいげんできないのだろうと解釈かいしゃくする[10])。女王じょおう宮殿きゅうでんまねかれたが、水晶すいしょうゆかみずられていると勘違かんちがいしてすそくってしまう。おうにそのおもちがいをただされると、みずからのあやまちをみとめアッラーに帰依きえする、という内容ないようである。

そのイスラーム世界せかい文学ぶんがく歴史れきししょにおいてこの逸話いつわ様々さまざま発展はってんげるが、およそ共通きょうつうしているてんは、女王じょおうおやはフドフード、あるいはフドハードというで、母親ははおやジン女王じょおうビルキースばれ、女王じょおう母親ははおやのジンの影響えいきょう毛深けぶかいということがあげられる[11]

エチオピアにおける伝説でんせつ[編集へんしゅう]

エルサレムにあるエチオピア教会きょうかいのチャペルの絵画かいが

『ケブラ・ナガスト』の記述きじゅつ[編集へんしゅう]

エチオピアの古代こだい伝説でんせつしるした『ケブラ・ナガスト(Kebra Nagast、おうたちの栄光えいこう)』にはソロモンおうとシバの女王じょおう逸話いつわが、エチオピアのくに誕生たんじょう伝説でんせつ関係かんけいしてしるされている。『ケブラ・ナガスト』には「シバ」の単語たんごないが、『新約しんやく聖書せいしょ』の「みなみくに女王じょおう」とはエチオピアの女王じょおうマーケダー[ちゅう 6]であったと紹介しょうかいされる[13]陸路りくろ海路かいろでさかんに交易こうえきおこなっていた女王じょおうはあるとき、タムリーンという豪商ごうしょう[ちゅう 7]からソロモンのうわさき、エルサレムへ旅立たびだつ。おうとの会見かいけんかれ聡明そうめいさをった女王じょおうは、太陽たいよう崇拝すうはいイスラエルかみ回心かいしんするのだった。6カ月かげつ滞在たいざいのち女王じょおう帰国きこくのぞむようになると、彼女かのじょとのあいだほっしたおう送別そうべつ宴会えんかい一計いっけいこうじ、料理りょうり香辛料こうしんりょういたものやもちいたものをおおした。そして、女王じょおう一夜いちやともにするようさそうと、女王じょおうは「無理むりやりおそわないなら」という条件じょうけんし、おうは「寝室しんしつものうばわないかぎり」約束やくそくするとちかった。やがてにん寝室しんしつよこになったが夜半やはん女王じょおうのどかわきをおぼえて、おもわずわきにおいてあった水差みずさしのみずんでしまう。そこを見計みはからったおうさき条件じょうけん口実こうじつに、女王じょおうとのあいだいちをもうけることをたした。帰国きこくして出産しゅっさんした女王じょおう息子むすこをバイナ・レフケム(イブン・アルハキームのゲエズ音訳おんやく、“賢者けんじゃ”の)と名付なづ[15]、これが転訛てんかしてメネリクばれるようになったとわれる。バイナ・レフケムは22さいになるとエルサレムかいちち対面たいめんする。よろこんだソロモンはかれ王位おうい継承けいしょうもとめるが、それがことわられると国内こくない貴顕きけんあつめエチオピアにだいのエルサレム建国けんこく計画けいかくかたる。バイナ・レフケムはしんイスラエルのおう即位そくいし、祖父そふってダビデと命名めいめいされりつほう知識ちしきさづけられた。しかし、しんおう随行ずいこうすることになった祭司さいしちょう最高さいこう神官しんかん)の息子むすこアザールヤースは突然とつぜん事態じたい不満ふまんち、ひそかに十戒じっかいおさめた「せいひつ」(契約けいやくはこ、シオン)をぬすしてエチオピアにっていってしまう[16]せいひつかみ御座所ござしょでもあったため、この事件じけんかみがエルサレムからはなれてエチオピアへうつることを意味いみした。ソロモンはそのかみ見放みはなされたことから知恵ちえうしない、女色じょしょくおぼれ、ついには偶像ぐうぞう崇拝すうはいおちいりエルサレムは衰退すいたいしていったという。一方いっぽう帰国きこくしたしんおうダビデはエチオピア首都しゅとダブラ・マーケダー(マーケダーさん)に到着とうちゃくすると女王じょおうからあらためて王位おういゆずられ[17]、これによりイスラエル王家おうけしん王朝おうちょう誕生たんじょうした。

『エチオピア王国おうこく』などのつて[編集へんしゅう]

16世紀せいきにエチオピアに使節しせつだん一員いちいんとして入国にゅうこくしたポルトガルひとのフランシスコ・アルヴァレスは『エチオピア王国おうこく』で、アクスムまち教会きょうかい史書ししょ引用いんようして女王じょおうつてせる。ソロモンの神殿しんでんづくりをったサバの女王じょおうはエルサレムへかう途中とちゅう浮橋うきはしがキリストの十字架じゅうじかとなることをさとり、迂回うかいしてソロモンに面会めんかいした。ソロモンとのあいだいちをもうけた女王じょおう帰国きこくしたが、のこされたその横暴おうぼうであったためエチオピアへおくかえすことになった。ソロモンは途中とちゅう休憩きゅうけいとしてガザあたえた、というものである。

1563ねん刊行かんこうされたジョアン・デ・バロスの『アジア』だいさんへんでは、ぬすすのはせいひつではなく十戒じっかい石版せきばんであった。

コプト教徒きょうとつたわるアラビアつてでは、アビシニア(アラビアにおけるエチオピアの旧名きゅうめい)の女王じょおうがまだ胎内たいないにいたころ、あるとき彼女かのじょははふとってうつくしい山羊やぎ欲情よくじょうしたため、女王じょおう片足かたあし山羊やぎのような奇形きけいであった。ソロモンはそのはなし真実しんじつたしかめるべく神殿しんでん中庭なかにわみずたしていたが、女王じょおうすそくってすすむとちょうど放置ほうちされていたせい十字架じゅうじかれたため、普通ふつうひとあしになったという。また、『ケブラ・ナガスト』とことなりせいひつ奪取だっしゅ息子むすこのダビデの発案はつあんで、にせせいひつつくらせそのくちふうじに職人しょくにんころしている[18]

アクスムにあるティグレ地方ちほう伝承でんしょうによると、メネリクははティグレ少女しょうじょエテイェー・アゼーブみなみ女王じょおう)というであった。当時とうじ人々ひとびとから崇拝すうはいされたりゅう生贄いけにえとなってしばられているところを、とおりかかったなな聖人せいじんによって解放かいほうされる。りゅう聖人せいじん十字架じゅうじかえられ退治たいじされたが、そのときかかとにかかるとその部分ぶぶんはロバのように変形へんけいしてしまった。そうして少女しょうじょりゅう退治たいじしたと勘違かんちがいした人々ひとびとから推戴すいたいされ女王じょおうとなる。その、ソロモンの治療ちりょうしゃとしての名声めいせいいたエテイェー・アゼーブは侍女じじょとともに男装だんそうしてエルサレムへかう。ソロモンの宮殿きゅうでんでアビシニアのおうとしてむかえられ、宮殿きゅうでんゆかあしれたとたんかかと奇形きけい綺麗きれいもともどった。ソロモンは宴会えんかいでエテイェー・アゼーブのしょくほそいことから女性じょせいではないかとうたがい、自身じしん寝室しんしつめた彼女かのじょ侍女じじょともども無理むりやり手篭てごめにしてしまう。二人ふたり帰国きこくまれたメネリクらは成長せいちょうするとエルサレムにかい、ソロモンからミカエルのターボート(小型こがたせいひつあるいは十戒じっかい石版せきばん)をあたえられる。しかしメネリクはちちいて、より価値かちのあるマリアのターボートをぬすす、というものである[19]

にはソロモンがシバ王国おうこく訪問ほうもんした逸話いつわのこ[20]

シバの女王じょおうにちなむ作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

音楽おんがく[編集へんしゅう]

菓子かし[編集へんしゅう]

ギャラリー[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ヨセフスはエチオピアのおうみやこサバはメロエスーダン都市とし)であるとしているため、現在げんざいエチオピアとは位置いちことなる。
  2. ^ コールすみかたなまりこうてるやすこう、カーボン、すみ樹脂じゅしなどをぜた顔料がんりょうほそてつぼうにつけてかおる。ナフサは揮発きはつせいたか石油せきゆ、あるいは土製どせいのランプをす。亜麻あまえているときはあしのようで、ぬのにすれば金持かねもちの着物きもの死者ししゃにかけるもので名誉めいよであり、なわならば捕縛ほばく首吊くびつりで不名誉ふめいよとりには食料しょくりょうであり、あみになるとさかなつかまえられる。
  3. ^ ぜん2世紀せいき人物じんぶつベン・シラに仮託かたくしたアラムとヘブライの22のアルファベットごとに格言かくげん解説かいせつせたしょう冊子さっし
  4. ^ 紀元前きげんぜん6世紀せいきぜん2世紀せいき人物じんぶつなので実際じっさいには対面たいめん不可能ふかのう
  5. ^ イギリスのカンタベリーだい聖堂せいどうのステンドグラスやきたフランスのアミアンだい聖堂せいどうのファサードをかざ石像せきぞうなど。
  6. ^ マーケダーのは『ケブラ・ナガスト』だい26しょう冒頭ぼうとう一文いちぶん女王じょおうマーケダーはソロモンおうった。」ではじめて登場とうじょうする[12]。なお、同書どうしょ後半こうはんだい85しょう・88しょうには「マケダー」、だい87しょうには「マカダー」の表記ひょうきもある。
  7. ^ 『ケブラ・ナガスト』だい22しょうはじめて登場とうじょうするが、あきらだいのみ「タームリーン」と表記ひょうきする(訳注やくちゅう参照さんしょう[14]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ s:れつおうおさむじょう(口語こうごやく)#だい10しょう
  2. ^ s:歴代れきだい志下しげ(口語こうごやく)#だい9しょう
  3. ^ a b しとみ勇造ゆうぞう 訳注やくちゅう 2020, p. 444, 「解説かいせつさん. 本書ほんしょかかわるしょ問題もんだい)」.
  4. ^ しとみ 勇造ゆうぞう『シェバの女王じょおう』p. 21.
  5. ^ しとみ勇造ゆうぞう 訳注やくちゅう 2020, p. 446, 「解説かいせつさん. 本書ほんしょかかわるしょ問題もんだい)」.
  6. ^ しとみ 勇造ゆうぞう『シェバの女王じょおう』p. 24.
  7. ^ しとみ勇造ゆうぞう 訳注やくちゅう 2020, p. 446-447, 「解説かいせつさん. 本書ほんしょかかわるしょ問題もんだい)」.
  8. ^ しとみ 勇造ゆうぞう『シェバの女王じょおう』p. 31.
  9. ^ s:マタイでんきよし福音ふくいん(しん契約けいやく聖書せいしょ) だいじゅうしょう
  10. ^ しとみ 勇造ゆうぞう『シェバの女王じょおう』p. 60.
  11. ^ しとみ 勇造ゆうぞう『シェバの女王じょおう』p. 66.
  12. ^ しとみ勇造ゆうぞう 訳注やくちゅう 2020, p. 68, 「だい26しょう おう女王じょおう会話かいわわすじょう」.
  13. ^ しとみ勇造ゆうぞう 訳注やくちゅう 2020, pp. 52–53, 「だい21しょう みなみ女王じょおうについて」.
  14. ^ しとみ勇造ゆうぞう 訳注やくちゅう 2020, pp. 54, 56, 「だい22しょう 商人しょうにんのタームリーンについて」.
  15. ^ しとみ勇造ゆうぞう 訳注やくちゅう 2020, pp. 88–89, 「だい32しょう 女王じょおうはどのように出産しゅっさん故国ここくかえったか」.
  16. ^ しとみ勇造ゆうぞう 訳注やくちゅう 2020, pp. 154–166, 「だい53しょうくるま〉がエチオピアにあたえられたじょう」「だい54しょう ダビデが預言よげんしてシオンを拝受はいじゅするじょう」「だい55しょう エチオピアの人々ひとびとよろこびにひたったようについて」.
  17. ^ しとみ勇造ゆうぞう 訳注やくちゅう 2020, pp. 270–275, 「だい84しょう エチオピアおうかれくににどのように帰還きかんしたのか」「だい85しょう 女王じょおうマーケダーがよろこんだじょう」「だい86しょう マーケダーが息子むすこおうとしたじょう」.
  18. ^ しとみ 勇造ゆうぞう『シェバの女王じょおう』pp. 144-145.
  19. ^ しとみ 勇造ゆうぞう『シェバの女王じょおう』pp. 149-151.
  20. ^ アーサー・コッテル『世界せかい神話しんわ辞典じてん柏書房かしわしょぼう、1993ねん、48-49ぺーじより引用いんよう
  21. ^ 大森おおもり由紀子ゆきこ『フランス菓子かし図鑑ずかん : お菓子かし名前なまえ由来ゆらい世界文化社せかいぶんかしゃ、35ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • ニコラス・クラップ 『シバの女王じょおう : すなうずもれた古代こだい王国おうこくなぞ紀伊國屋きのくにや書店しょてん矢島やじま文夫ふみお 監修かんしゅう, 柴田しばた裕之ひろゆき やく、2003ねん3がつ
  • しとみ 勇造ゆうぞう 『シェバの女王じょおう : 伝説でんせつ変容へんよう歴史れきしとの交錯こうさく山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ〈historia〉、2006ねん5がつ
  • しとみ 勇造ゆうぞう やく『ケブラ・ナガスト : せいひつ将来しょうらいとエチオピアの栄光えいこう平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこ〉、2020ねん10がつISBN 978-4-582-80904-6 
  • 埼玉県立久喜図書館さいたまけんりつくきとしょかん(2015ねん9がつ22にち) “「シバの女王じょおう」という、イスラエルのダビデおうについての資料しりょうんだことがあるが、この「シバ」というくにはどういうこっいてある資料しりょうはあるかりたい。”、レファレンス協同きょうどうデータベース、2023ねん8がつ11にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]