南野みなみの知惠子ちえこ

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南野みなみの 知惠子ちえこ
のおの ちえこ
小泉こいずみ内閣ないかくにて法務大臣ほうむだいじん就任しゅうにんさいし、官邸かんてい公表こうひょうした肖像しょうぞう写真しゃしん
生年月日せいねんがっぴ (1935-11-14) 1935ねん11月14にち(88さい
出生しゅっしょう 満洲国の旗 まんしゅうこく りゅうこうしょうひとしひとし哈爾
出身しゅっしんこう 大阪大学おおさかだいがく医学部いがくぶ附属ふぞく助産婦じょさんぷ学校がっこう卒業そつぎょう
ぜんしょく 日本にっぽん赤十字せきじゅうじ看護かんご大学だいがく看護かんご学部がくぶ教授きょうじゅ
所属しょぞく政党せいとう 自由民主党じゆうみんしゅとう町村派まちむらは
称号しょうごう 旭日大綬章あさひだいじゅしょう

内閣ないかく だい2小泉こいずみ改造かいぞうないかく
だい3小泉こいずみ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 2004ねん9月27にち - 2005ねん10月31にち

選挙せんきょ 比例ひれい
当選とうせん回数かいすう 3かい
在任ざいにん期間きかん 1992ねん7がつ - 2010ねん7がつ25にち
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南野みなみの 知惠子ちえこ(のおの ちえこ、1935ねん11月14にち - )は、日本にっぽん看護かんご学者がくしゃ政治せいじ勲等くんとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう。「めぐみ」ではなく「めぐみ」をもちいて南野みなみの 知恵子ちえことも表記ひょうきされる。

山口大学やまぐちだいがく医療いりょう技術ぎじゅつ短期大学たんきだいがく看護かんご学科がっか教授きょうじゅ日本にっぽん赤十字せきじゅうじ看護かんご大学だいがく看護かんご学部がくぶ教授きょうじゅ自民党じみんとう参議院さんぎいん議員ぎいん(3)、参議院さんぎいん文教ぶんきょう科学かがく委員いいんちょう法務大臣ほうむだいじんだい7475だい)、内閣ないかく特命とくめい担当たんとう大臣だいじん青少年せいしょうねん育成いくせいおよ少子化しょうしか対策たいさく担当たんとう日本にっぽんユネスコ国内こくない委員いいんかい委員いいんなどを歴任れきにん

来歴らいれき[編集へんしゅう]

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1935ねんまんしゅうこくりゅうこうしょうひとしひとし哈爾げん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくチチハル)にてまれ[1]1946ねん日本にっぽんげる[2]。その鹿児島かごしまけんにてそだつ。1954ねん3月、鹿児島かごしま県立けんりつ甲南こうなん高等こうとう学校がっこう卒業そつぎょう[1]1958ねん3月、大阪大学おおさかだいがく医学部いがくぶ附属ふぞく助産婦じょさんぷ学校がっこう卒業そつぎょう[1]

看護かんご学校がっこう卒業そつぎょう大阪おおさか厚生こうせい年金ねんきん病院びょういん勤務きんむしたのち、イギリス留学りゅうがくした。看護かんご助産婦じょさんぷ資格しかく取得しゅとくし、帰国きこく大阪おおさか市内しないじょ産院さんいん鹿児島かごしまけん県立けんりつ病院びょういんなどで勤務きんむした。[1][3]

学界がっかい[編集へんしゅう]

その東海大学とうかいだいがく医学部いがくぶ付属ふぞく病院びょういん看護かんご次長じちょうと、東海大学とうかいだいがく医療いりょう技術ぎじゅつ短期大学たんきだいがく看護かんご学科がっか助教授じょきょうじゅ兼任けんにんした。以来いらい大阪大学医療技術短期大学部おおさかだいがくいりょうぎじゅつたんきだいがくぶ看護かんご学科がっか助教授じょきょうじゅ山口大学やまぐちだいがく医療いりょう技術ぎじゅつ短期大学たんきだいがく看護かんご学科がっか教授きょうじゅ日本にっぽん赤十字せきじゅうじ看護かんご大学だいがく看護かんご学部がくぶ教授きょうじゅなどを歴任れきにんした。[1][3]

政界せいかい[編集へんしゅう]

1992ねんだい16かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょにて自由民主党じゆうみんしゅとうから比例ひれい立候補りっこうほし、はつ当選とうせん以降いこう連続れんぞく3かい当選とうせんする。自民党じみんとう党内とうないでは、清和せいわ政策せいさく研究けんきゅうかい所属しょぞくした。せいどう一性障害者性別取扱特例法成立せいりつ尽力じんりょくした。小泉こいずみ政権せいけんでは、だい2小泉こいずみ改造かいぞうないかくにて法務大臣ほうむだいじん内閣ないかく特命とくめい担当たんとう大臣だいじん青少年せいしょうねん育成いくせいおよ少子化しょうしか対策たいさく担当たんとうとしてはつ入閣にゅうかく法務大臣ほうむだいじん在任ざいにんちゅうの2005ねん、1めい死刑しけいしゅうたいする死刑しけい執行しっこう命令めいれいした。そのだい3小泉こいずみ内閣ないかくでも、ふたた法務大臣ほうむだいじん内閣ないかく特命とくめい担当たんとう大臣だいじん青少年せいしょうねん育成いくせいおよ少子化しょうしか対策たいさく担当たんとう)に任命にんめいされた。[1][3]

政界せいかい引退いんたい[編集へんしゅう]

これまでの業績ぎょうせき評価ひょうかされ、「多年たねんにわたり国会こっかい議員ぎいんとして議案ぎあん審議しんぎ重責じゅうせきたすとともに、法務大臣ほうむだいじんとうとして国政こくせい枢機すうき参画さんかくした」[4]功労こうろうにより、2010ねん11月旭日大綬章あさひだいじゅしょう受章じゅしょうした。

発言はつげん[編集へんしゅう]

法務大臣ほうむだいじん在任ざいにんちゅう国会こっかい答弁とうべん記者きしゃ会見かいけんたっては即答そくとう質問しつもんたび官僚かんりょうがわ相談そうだんするという慎重しんちょう対応たいおう場面ばめんおおられた(看護かんごであり本来ほんらい厚生こうせいぞく)。[よう出典しゅってん]

ほう改正かいせい[編集へんしゅう]

  • 刑法けいほうとう一部いちぶ改正かいせいする法律ほうりつ平成へいせい16ねん12月8にち法律ほうりつだい156ごう)- 240じょう強盗ごうとう致死傷ちししょうざい量刑りょうけいを「無期むきまたは7ねん懲役ちょうえき」から「無期むきまたは6ねん懲役ちょうえき」にげんかる執行しっこう猶予ゆうよすことを可能かのうとしたこととう改正かいせい[5]

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

大阪おおさか鹿児島かごしまでの病院びょういん勤務きんむののち、大阪大学医療技術短期大学部おおさかだいがくいりょうぎじゅつたんきだいがくぶ講師こうし東海大学とうかいだいがく医療いりょう技術ぎじゅつ短期大学たんきだいがく助教授じょきょうじゅ山口大学やまぐちだいがく医療いりょう技術ぎじゅつ短期大学たんきだいがく教授きょうじゅ歴任れきにん
  • 1988ねん日本にっぽん赤十字せきじゅうじ看護かんご大学だいがく教授きょうじゅ
  • 1992ねん7がつ参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ比例ひれい代表だいひょう)ではつ当選とうせん
  • 1995ねん8がつ8にち労働ろうどう政務次官せいむじかん就任しゅうにん(-1996ねん1がつ11にち
  • 1998ねん7がつ参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ比例ひれい代表だいひょう)で再選さいせん
  • 2001ねん5がつ1にち厚生こうせい労働ろうどうふく大臣だいじん就任しゅうにん(-2002ねん1がつ8にち
  • 2004ねん7がつ参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ比例ひれい代表だいひょう)でさんせん(15まん2685ひょう
  • 2004ねん9がつ27にち法務大臣ほうむだいじん内閣ないかく特命とくめい担当たんとう大臣だいじん青少年せいしょうねん育成いくせいおよ少子化しょうしか対策たいさく担当たんとう)に就任しゅうにん*(-2005ねん9がつ21にち
  • 2005ねん9がつ21にち法務大臣ほうむだいじん内閣ないかく特命とくめい担当たんとう大臣だいじん青少年せいしょうねん育成いくせいおよ少子化しょうしか対策たいさく担当たんとう)に再任さいにん(-2005ねん10がつ31にち
  • 2005ねん12月24にち自由民主党じゆうみんしゅとう鹿児島かごしまけん支部しぶ連合れんごうかい会長かいちょう就任しゅうにん(-2006ねん6がつ11にち
  • 2009ねん2がつ18にち2010ねんだい22かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょには出馬しゅつばせず、政界せいかい引退いんたい表明ひょうめい[6]

栄典えいてん[編集へんしゅう]

  • 2010ねん11月3にち旭日大綬章あさひだいじゅしょう受章じゅしょう[7]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

単行本たんこうぼん

  • 『「解説かいせつせいどう一性障害者性別取扱特例法』日本加除出版にほんかじょしゅっぱん、2004ねん9がつ
  • 詳解しょうかい改正かいせいDV (ドメスティック・バイオレンス) 防止ぼうしほうぎょうせい、 2004ねん12月。
  • 詳解しょうかいDV (ドメスティック・バイオレンス) 防止ぼうしほう』 ぎょうせい、2001ねん10がつ
  • こよっかひっべ : 看護かんごみちから政治せいじみちへ』自由民主党じゆうみんしゅとう東京とうきょう参議院さんぎいん比例ひれいだいろくじゅうはち支部しぶ、 1998ねん5がつ
  • 共著きょうちょ)『アクティブバースのかんがかた展開てんかいメディカ出版しゅっぱん、1992ねん10がつ
  • 共著きょうちょ)「出生しゅっしょうおよび出生しゅっしょう直後ちょくご母子ぼし看護かんご」『母子ぼし看護かんご日本にっぽん看護かんご協会きょうかい出版しゅっぱんかい、1991ねん8がつ
  • 編集へんしゅう企画きかく)『出産しゅっさん看護かんご : 妊娠にんしんから産褥さんじょくまで』金原出版かねはらしゅっぱん、1989ねん2がつ

論文ろんぶん

  • 優生ゆうせい保護ほごほう一部いちぶ改正かいせいについて 」『看護かんご』49(1)、1997ねん1がつ
  • 出生しゅっしょう直後ちょくご新生児しんせいじあつかい(正常せいじょう新生児しんせいじ)--助産婦じょさんぷ看護かんご立場たちばから」『産婦人科さんふじんか治療ちりょう』47(2)、1983ねん8がつ
  • しゅうさん看護かんご--とくに保健ほけん指導しどう中心ちゅうしんに」『産婦人科さんふじんか治療ちりょう』42(3)、1981ねん3がつ
  • 欧米おうべい各国かっこくにおける助産婦じょさんぷのうごきとそのありかた」(共著きょうちょ竹村たけむら たかし)『産科さんか婦人ふじん』46(5)、1979ねん5がつ
  • 母乳ぼにゅう栄養えいよう推進すいしんのための保健ほけん指導しどう (乳房ちぶさとその疾患しっかん治療ちりょう)」『産婦人科さんふじんか治療ちりょう』36(6)、1978ねん6がつ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f 首相しゅしょう官邸かんてい法務大臣ほうむだいじんけん内閣ないかく特命とくめい担当たんとう大臣だいじん青少年せいしょうねん育成いくせいおよ少子化しょうしか対策たいさくのプロフィール) 2019ねん2がつ22にち閲覧えつらん
  2. ^ 現職げんしょく議員ぎいん名簿めいぼ」『南野みなみの 知惠子ちえこ  : 現職げんしょく議員ぎいん名簿めいぼ : 参院さんいんせん : 選挙せんきょ : YOMIURI ONLINE(読売新聞よみうりしんぶん読売新聞よみうりしんぶんグループ[リンク]
  3. ^ a b c 首相しゅしょう官邸かんてい厚生こうせい労働ろうどうふく大臣だいじんのプロフィール) 2019ねん2がつ22にち閲覧えつらん
  4. ^ だい綬章じゅしょう受章じゅしょうしゃ』。
  5. ^ 刑法けいほうとう一部いちぶ改正かいせいする法律ほうりつ』、衆議院しゅうぎいん
  6. ^ “<自民じみん南野みなみの知恵子ちえこもと法相ほうしょう加納かのう時男ときおふく国土こくど交通こうつうしょう引退いんたいへ”. 毎日新聞まいにちしんぶん. (2009ねん2がつ18にち) 
  7. ^ あき叙勲じょくん4173にん きりはなだい綬章じゅしょうおうぎもと参院さんいん議長ぎちょう”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん (2010ねん11月3にち). 2023ねん4がつ8にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
野沢のざわ太三たぞう
日本の旗 法務大臣ほうむだいじん
だい74・75だい:2004ねん - 2005ねん
次代じだい
杉浦すぎうらただしけん
先代せんだい
小野おの清子きよこ
日本の旗 特命とくめい担当たんとう大臣だいじん青少年せいしょうねん育成いくせいおよ少子化しょうしか対策たいさく
だい3・4だい:2004ねん - 2005ねん
次代じだい
猪口いのぐち邦子くにこ少子化しょうしか男女だんじょ共同きょうどう参画さんかく
先代せんだい
増田ますだ敏男としお
桝屋ますやけいさとる
日本の旗 厚生こうせい労働ろうどうふく大臣だいじん
桝屋ますやけいさとる共同きょうどう

2001ねん - 2002ねん
次代じだい
宮路みやじ和明かずあき
狩野かのやすし
議会ぎかい
先代せんだい
大島おおしま慶久よしひさ
日本の旗 参議院さんぎいん文教ぶんきょう科学かがく委員いいんちょう
1998ねん - 1999ねん
次代じだい
佐藤さとう泰三たいぞう