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さんかん図書館としょかん

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大橋おおはし図書館としょかんから転送てんそう
さんかん図書館としょかん
SANKO Research Institute
さんかん図書館としょかんはいっているあかり照会しょうかいかん
施設しせつ情報じょうほう
正式せいしき名称めいしょう 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん三康文化研究所附属三康図書館
前身ぜんしん 財団ざいだん法人ほうじん大橋おおはし図書館としょかん
専門せんもん分野ぶんや 総合そうごう宗教しゅうきょう仏教ぶっきょう
事業じぎょう主体しゅたい 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじんさんかん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ
開館かいかん 1966ねん昭和しょうわ41ねん10月12にち
所在地しょざいち 105-0011
東京とうきょうみなと芝公園しばこうえん4-7-4 あかり照会しょうかいかん1F
位置いち 北緯ほくい3539ふん25.16びょう 東経とうけい13944ふん47.91びょう / 北緯ほくい35.6569889 東経とうけい139.7466417 / 35.6569889; 139.7466417座標ざひょう: 北緯ほくい3539ふん25.16びょう 東経とうけい13944ふん47.91びょう / 北緯ほくい35.6569889 東経とうけい139.7466417 / 35.6569889; 139.7466417
ISIL JP-1001291
統計とうけい情報じょうほう
蔵書ぞうしょすう 図書としょ260,510さつ雑誌ざっし7,129タイトル(2021年度ねんど[1]時点じてん
来館らいかんしゃすう 255にん(2021年度ねんど[1]
公式こうしきサイト http://sanko-bunka-kenkyujo.or.jp
備考びこう 閉架しき閲覧えつらん有料ゆうりょうかんがい貸出かしだし不可ふか
地図ちず
地図
プロジェクト:GLAM - プロジェクト:図書館としょかん
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公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん三康文化研究所附属三康図書館(さんこうぶんかけんきゅうじょふぞくさんこうとしょかん)は、東京とうきょうみなと芝公園しばこうえんにある私立しりつ図書館としょかんである。1966ねん昭和しょうわ41ねん開館かいかん

ほんこうでは、前身ぜんしんにあたる財団ざいだん法人ほうじん大橋おおはし図書館としょかん(おおはしとしょかん、1902ねん - 1953ねん)についても解説かいせつする。

概要がいよう[編集へんしゅう]

1964ねん昭和しょうわ39ねん)に増上寺ぞうじょうじ西武鉄道せいぶてつどう共同きょうどう設立せつりつした、インドがく仏教ぶっきょうがくかんする研究けんきゅう調査ちょうさおこな公益こうえき財団ざいだん法人ほうじんさんかん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ(さんこうぶんかけんきゅうじょ)の附属ふぞく図書館としょかんであり、宗教しゅうきょう仏教ぶっきょう関係かんけいしょ専門せんもん図書館としょかんとしての性格せいかくつ。その一方いっぽう1953ねん昭和しょうわ28ねん)に閉館へいかんした大橋おおはし図書館としょかんきゅう蔵書ぞうしょ18まんさつあまりいで[2]設立せつりつされたという経緯けいいから、総合そうごう図書館としょかんとしての性格せいかくわせっている。

大橋おおはし図書館としょかんは、博文ひろぶみかん創立そうりつしゃ大橋おおはし佐平さへい新太郎しんたろう父子ふし1902ねん明治めいじ35ねん)に設立せつりつした私立しりつ公共こうきょう図書館としょかんであり、そのきゅう蔵書ぞうしょには、江戸えど時代じだい版本はんぽん写本しゃほん[注釈ちゅうしゃく 1]や、近代きんだい児童じどうしょ学習がくしゅう参考さんこうしょ博文ひろぶみかん発行はっこう雑誌ざっしなど、多数たすう稀覯きこうほんふくまれている。たとえば江戸えど時代じだい地図ちず制作せいさくしゃとしてられる伊能いのう忠敬ちゅうけい実測じっそく原図げんず、『江戸えど名所めいしょ図会ずえ』の下書したがなどがふくまれる[2]にちちゅう戦争せんそうから太平洋戦争たいへいようせんそうにかけての戦時せんじちゅう言論げんろん出版しゅっぱん統制とうせいなか閲覧えつらん禁止きんし処分しょぶんけた「けん秩紊ほん」1,189さつふくまれている[5][6]国際こくさいども図書館としょかん児童じどうしょ総合そうごう目録もくろく参加さんかかんひとつである[7]

所蔵しょぞう資料しりょうのデータベース作業さぎょうわれて対外たいがいてき情報じょうほう発信はっしんよわかったが、Wi-Fi電源でんげん整備せいびするなどコワーキングスペースとしての利用りようけているほか、大橋おおはし図書館としょかん設立せつりつ120周年しゅうねんにあたる2022ねん同館どうかん歴史れきし江戸えど時代じだい料理りょうりほんについての講演こうえんかい企画きかくした[2]

名称めいしょう[編集へんしゅう]

さんやすし」について、増上寺ぞうじょうじ法主ほっしゅさんかん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ初代しょだい所長しょちょうつとめた椎尾しいおべんただしは、「中国ちゅうごくではみちふつさんきょうといい、日本にっぽんではかみ儒仏じゅぶつといい、またさんこく仏教ぶっきょうというところから、さんやすしさだめ」た、と説明せつめいしている[8][9]に、増上寺ぞうじょうじ山号さんごうさんえんさん」の「さん」と、増上寺ぞうじょうじ徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ菩提寺ぼだいじであったことから、徳川とくがわ家康いえやすの「やすし」をとってつけられたものとするせつ[10][6]徳川とくがわ家康いえやすではなくつつみ康次郎やすじろう西武鉄道せいぶてつどう会長かいちょう)の「やすし」だとするせつもある[11]

利用りよう案内あんない[編集へんしゅう]

立地りっち
増上寺ぞうじょうじ裏側うらがわ東京とうきょうタワーかいがわ位置いちする。
サービス
利用りよう資格しかくは16さい以上いじょう入館にゅうかんりょうは1かい100えん割安わりやすとなる回数かいすうけんもある)。一部いちぶ参考さんこう図書としょのぞ閉架しきかんがい貸出かしだし不可ふか電子でんし複写ふくしゃ写真しゃしん撮影さつえい
開館かいかん時間じかん
930ふん - 17入館にゅうかん閲覧えつらん請求せいきゅう、コピー受付うけつけは1630ふんまで)
休館きゅうかん

としに1かい程度ていど、ロビーにおいてたて蔵書ぞうしょ利用りようした「ミニ展示てんじ」、蔵書ぞうしょ紹介しょうかいおこなっている[12]

蔵書ぞうしょのインターネット検索けんさく可能かのうだが、2021年度ねんどまつ時点じてんでも蔵書ぞうしょすべてのデータベース完了かんりょうしていない[1]

コレクション[編集へんしゅう]

きゅう大橋おおはし図書館としょかん蔵書ぞうしょ18まんさつ自体じたい一大いちだいコレクションを構成こうせいしている。戦前せんぜん児童じどうしょ絵本えほん雑誌ざっし多数たすう所蔵しょぞうしているほか、大衆たいしゅう文芸ぶんげいしょなどの「て」あつかいされたほんや、パンフレットるいなども廃棄はいきせずに所蔵しょぞうしているのが特徴とくちょう[5]

きゅう大橋おおはし図書館としょかん蔵書ぞうしょない特殊とくしゅコレクションとして、以下いかのものがある[13][14]

みず哉文
元大橋もとおおはし図書館としょかんちょう坪谷つぼや善四郎ぜんしろうごうみず哉)のきゅう蔵書ぞうしょやく130さつ[15]
江見えみ水蔭すいいん文庫ぶんこ
江見えみ水蔭すいいん著作ちょさくおよび関連かんれんしょ。226さつ[16]
杉村すぎむら兄弟きょうだい文庫ぶんこ
杉村すぎむら楚人冠そじんかん逝した3にん収集しゅうしゅうした詩歌しか翻訳ほんやく文学ぶんがくなど。和書わしょ255さつ洋書ようしょ10さつ[17]
杉村すぎむら随筆ずいひつ文庫ぶんこ
杉村すぎむら楚人冠そじんかんきゅうぞう隨筆ずいひつしょ。208さつ
けん秩紊ほん
さんかん図書館としょかんけん秩紊ほんのコレクション
1940ねん5がつ、1943ねん9がつ閲覧えつらん禁止きんし図書としょ指定していされたが、破棄はきまぬかれた図書としょやく1280さつ[18]

きゅう大橋おおはし図書館としょかん蔵書ぞうしょ以外いがいのコレクションとしては、以下いかのものがある。

内田うちだ文庫ぶんこ
もとさんかん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ幹事かんじもと裁判官さいばんかん内田うちだまもるぶんきゅうぞう法律ほうりつしょ[13]遺族いぞくより寄贈きぞう図書としょやく3,970さつ雑誌ざっしやく30タイトル[19]
椎尾しいお文庫ぶんこ
増上寺ぞうじょうじ法主ほっしゅさんかん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ初代しょだい所長しょちょうつとめた椎尾しいおべんただしきゅうぞう仏教ぶっきょうしょ[20]遺族いぞくより寄贈きぞうやく9,500さつ[21]
増谷ますたに文庫ぶんこ
宗教しゅうきょう学者がくしゃ増谷ますたに文雄ふみおきゅうぞう宗教しゅうきょう仏教ぶっきょうしょ[22]遺族いぞくより寄贈きぞうやく2,200さつ[23]
湯山ゆやま文庫ぶんこ
インド哲学てつがく仏教ぶっきょう学者がくしゃ湯山ゆやまあきらきゅう蔵書ぞうしょ本人ほんにんより寄贈きぞう図書としょやく13,700さつ雑誌ざっしやく350タイトル[24]
竹田たけだ宮家みやけ文庫ぶんこ
竹田たけだみやいえきゅう蔵書ぞうしょ歴史れきし地誌ちし軍事ぐんじ関係かんけいしょおおふく[22]。1969ねん寄贈きぞうやく8,400さつ[25]

歴史れきし[編集へんしゅう]

大橋おおはし図書館としょかん[編集へんしゅう]

大橋おおはし図書館としょかん
九段下くだんした時代じだい大橋おおはし図書館としょかん
施設しせつ情報じょうほう
正式せいしき名称めいしょう 財団ざいだん法人ほうじん大橋おおはし図書館としょかん
専門せんもん分野ぶんや 総合そうごう
事業じぎょう主体しゅたい 財団ざいだん法人ほうじん大橋おおはし図書館としょかん
開館かいかん 1902ねん明治めいじ35ねん6月15にち
閉館へいかん 1953ねん昭和しょうわ28ねん2がつ19にち
所在地しょざいち 東京とうきょう麹町こうじまちうえろくばんまち44番地ばんち(1902ねん - 1923ねん
東京とうきょうこうじまちきゅうだん1丁目ちょうめ3番地ばんち(1926ねん - 1949ねん
東京とうきょう新宿しんじゅく若宮わかみやまち38番地ばんち(1950ねん - 1953ねん
統計とうけい組織そしき情報じょうほう
蔵書ぞうしょすう 183,993さつ(1942ねん時点じてん
貸出かしだしすう 538,630さつ(1942ねん
来館らいかんしゃすう 317,873にん(1942ねん
とし運営うんえい 79,903えん(1942ねん
館長かんちょう 石黒いしぐろ忠悳ただのり(1902ねん - 1917ねん
坪谷つぼや善四郎ぜんしろう(1917ねん - 1944ねん
吉谷よしたにせんきち(1944ねん - 1945ねん
小谷おたに誠一せいいち(1948ねん - 1949ねん
公式こうしきサイト http://sanko-bunka-kenkyujo.or.jp
備考びこう 蔵書ぞうしょすうとうについては、来館らいかんしゃすうがピークとなった1942ねん数字すうじしめした[26]
地図ちず
地図
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本館ほんかん前身ぜんしんとなった大橋おおはし図書館としょかんは、1902ねん明治めいじ35ねん)に、当時とうじ日本にっぽん有数ゆうすう出版しゅっぱんしゃであった博文ひろぶみかん創設そうせつ15周年しゅうねん記念きねん事業じぎょうとして、博文ひろぶみかん創立そうりつしゃである大橋おおはし佐平さへい新太郎しんたろう父子ふし設立せつりつした私立しりつ公共こうきょう図書館としょかんである。「大橋おおはし」は創立そうりつしゃせい由来ゆらいし、目黒めぐろ区立くりつ大橋おおはし図書館としょかん(1970ねん開館かいかん)とは無関係むかんけいである。

こうじまち時代じだい(1902-1923ねん[編集へんしゅう]

1887ねん明治めいじ20ねん)に博文ひろぶみかん創設そうせつした大橋おおはし佐平さへいは、1893ねん明治めいじ26ねん)に欧米おうべい視察しさつしたさい文化ぶんか施設しせつとしての図書館としょかん重要じゅうようさを認識にんしきし、石黒いしぐろ忠悳ただのり上田うえだ万年かずとし田中たなか稲城いなぎらの協賛きょうさんけて図書館としょかん設立せつりつ計画けいかくした。大橋おおはし博文ひろぶみかん創設そうせつ15周年しゅうねんむかえる1902ねん計画けいかく公表こうひょうする予定よていだったが、胃癌いがん発病はつびょうしたため、1901ねん明治めいじ34ねん)2がつ、『図書館としょかん設立せつりつ趣旨しゅし』を発表はっぴょうし、文部省もんぶしょう寄付きふきん12まん5000えんをもって図書館としょかん設立せつりつのための財団ざいだん法人ほうじん設立せつりつ出願しゅつがんした。なお、この『趣旨しゅし』は、当時とうじ博文ひろぶみかん社員しゃいんだった高山樗牛たかやまちょぎゅう起草きそうしたものとされる。しかし、大橋おおはし佐平さへい計画けいかく公表こうひょうからあいだもない1901ねん11月に死去しきょし、事業じぎょう佐平さへいで、2代目だいめ社長しゃちょうとなった大橋おおはし新太郎しんたろうがれる[27]。なお、大橋おおはし佐平さへい死去しきょ1がつまえさだめた家憲かけん大橋おおはしきょう全会ぜんかい規約きやく』によって、財団ざいだん法人ほうじん大橋おおはし図書館としょかんについては「大橋おおはし子孫しそんハ該財団ざいだん法人ほうじん協議きょうぎいんども永遠えいえんニ其大成たいせいスベシ」としていた[28]

図書館としょかん麹町こうじまちうえろくばんまち44番地ばんち現在げんざい千代田ちよだ三番さんばんまち北緯ほくい3541ふん28.4びょう 東経とうけい13944ふん29.5びょう)の大橋おおはし私邸していきゅう川上かわかみ操六そうろくやしき現在げんざい東京家政学院大学とうきょうかせいがくいんだいがく千代田ちよだ三番さんばんまちキャンパス附近ふきんない設立せつりつされた[注釈ちゅうしゃく 2]開館かいかん建物たてもの(1902ねん6がつ7にち竣工しゅんこう)は、建坪たてつぼやく112つぼ建坪たてつぼ267つぼ)、本館ほんかん木造もくぞう2かいけんで、2かい普通ふつう閲覧えつらんしつ(168せき)、1かい新聞しんぶん雑誌ざっし閲覧えつらんしつ(100せき)がかれていた[30]。2かいには女性じょせい専用せんよう婦人ふじんしつもうけられていた[31]。また、書庫しょこ煉瓦れんがづくり3かいけんで、15まんさつ収容しゅうよう可能かのうとされていた[30]

1902ねん5がつ25にち大橋おおはし佐太郎さたろう財団ざいだん法人ほうじん大橋おおはし図書館としょかん設立せつりつ出願しゅつがんし、6月11にち許可きょかされた。大橋おおはし図書館としょかん博文ひろぶみかん創設そうせつ15周年しゅうねんとなる6がつ15にち開館かいかんしきひらき、20日はつかより一般いっぱん公開こうかい開始かいしした。初代しょだい館長かんちょうには石黒いしぐろ忠悳ただのり主事しゅじには伊東いとう平蔵へいぞうがそれぞれ就任しゅうにんした[32]

設立せつりつ当初とうしょ役員やくいん以下いかとおりである[33]

東京とうきょうにおける公共こうきょう図書館としょかんとしては、帝国ていこく図書館としょかん1872ねん開館かいかん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん前身ぜんしん)、帝国ていこく教育きょういくかい図書館としょかん1887ねん開館かいかん千代田ちよだ区立くりつ千代田ちよだ図書館としょかん前身ぜんしん)についでふる[34]。なお、日本にっぽんはつ私立しりつ図書館としょかんとされることがあるが、あやまりである[注釈ちゅうしゃく 4]

目録もくろくにはデューイじゅうしん分類ぶんるいほう採用さいようされた[35]

開館かいかん規則きそくでは、利用りよう資格しかくまん12さい以上いじょう有料ゆうりょうせい図書としょは1かいきん3せん雑誌ざっしは1かい1ぜに5りん(ただし、開館かいかん当初とうしょはさしあたり図書としょ2ぜに雑誌ざっし1ぜに割引わりびき[36])、閉架しき資料しりょうかん外持ほまち禁止きんしされていた。休館きゅうかん年末年始ねんまつねんし各月かくつきまつ館内かんない整理せいり紀元節きげんせつ(2がつ11にち)、図書館としょかん設立せつりつ記念きねん(6がつ15にち)、曝書ばくしょ(8-9がつちゅうのおよそ10日間にちかん)、天長節てんちょうせつ(11月3にち)とさだめられており、それ以外いがい祝祭日しゅくさいじつ開館かいかんとなっていた。開館かいかん時間じかんぶしによってことなり、たとえば1がつは9 - 16、7がつは730ふん - 17となっていた[37]1903ねん明治めいじ36ねん)8がつ1にちより、夏季かきにおいて雜誌ざっし閲覧えつらんしつかぎり21までの夜間やかん開館かいかん実施じっし[38]閲覧えつらんしゃ初年度しょねんどいちにち平均へいきん198.1人ひとりであったが、1911ねん明治めいじ44年度ねんど)には286.8にん増加ぞうかした[39]

1903年度ねんどから奨学しょうがく閲覧えつらんけん発行はっこう開始かいしし、成績せいせき優秀ゆうしゅう児童じどうたいする無料むりょう閲覧えつらん制度せいど開始かいしした。1911ねん1がつからはかんがい貸出かしだしはじめている[40]

1903ねん8がつ日本にっぽん文庫ぶんこ協会きょうかい日本にっぽん図書館としょかん協会きょうかい前身ぜんしん)が大橋おおはし図書館としょかんにおいてだい1かい図書館としょかん事項じこう講習こうしゅうかい開催かいさいした。これが近代きんだい日本にっぽんにおける図書館としょかんがく教育きょういくはじまりとされている[41]

1907ねん明治めいじ40ねん)9がつ伊東いとう平蔵へいぞう主事しゅじ新設しんせつされる東京とうきょう市立しりつ日比谷ひびや図書館としょかんよく1908ねん開館かいかん千代田ちよだ区立くりつ日比谷ひびや図書としょ文化ぶんかかん前身ぜんしん)の主事しゅじ転出てんしゅつしたため、博文ひろぶみかん編輯へんしゅう局長きょくちょう理事りじけん協議きょうぎいん坪谷つぼや善四郎ぜんしろうだい2だい主事しゅじ就任しゅうにんした。だが、坪谷つぼや博文ひろぶみかん職務しょくむ多忙たぼうだったため、司書ししょけん書記しょき横田よこた茂次しげじろう実務じつむたっている[42]。なお日比谷ひびや図書館としょかんは、東京とうきょうかい議員ぎいんでもあった坪谷つぼや建議けんぎによって設立せつりつされたもので、大橋おおはし図書館としょかんから様々さまざまかたち影響えいきょうけている[43][44]

1917ねん大正たいしょう6ねん)9がつ6にち石黒いしぐろ館長かんちょう辞任じにん坪谷つぼや善四郎ぜんしろうだい2だい館長かんちょう昇任しょうにんした[45]1922ねん大正たいしょう11ねん)7がつ1にち鳥井とりい熊一郎くまいちろう主事しゅじ就任しゅうにん[46]

九段下くだんした時代じだい(1926-1949ねん[編集へんしゅう]

開館かいかん当初とうしょ2まん5000さつあまりだった蔵書ぞうしょは、その順調じゅんちょう増加ぞうかし、1923ねん大正たいしょう12ねん)8がつまつまでに8まん8304さつ製本せいほん雑誌ざっしやく1まん)にたっしていた[47]。ところが、同年どうねん9がつ関東大震災かんとうだいしんさいによってかんしゃ全焼ぜんしょうし、蔵書ぞうしょのほとんどすべてがうしなわれてしまう。このとき、博文ひろぶみかん創業そうぎょう以来いらい発行はっこうしてきた図書としょ雑誌ざっしをはじめ、『帝国ていこく文庫ぶんこ所収しょしゅう黄表紙きびょうしなどの原本げんぽん尾崎おざき紅葉こうよう大橋おおはし乙羽おとわ寺田てらだ勇吉ゆうきちきゅう蔵書ぞうしょ黒井くろい悌次ていじろうからの寄贈きぞうしょなどがうしなわれている[48]。これによって図書館としょかん存亡そんぼう危機ききたされたが、大橋おおはし新太郎しんたろうつよ決意けついによって再建さいけん決定けっていされた[49]

これよりさきうえ六番ろくばんまちかんしゃ手狭てぜまになっていたため、1922ねん大正たいしょう11ねん)11月、移転いてんとして麹町こうじまち飯田いいだまち1丁目ちょうめ6番地ばんち1933ねん町名ちょうめい改正かいせいきゅうだん1丁目ちょうめ3番地ばんち現在げんざい千代田ちよだ九段南くだんみなみ九段会館くだんかいかんかい、現在げんざいきゅうだんビル附近ふきん北緯ほくい3541ふん40.6びょう 東経とうけい13945ふん7.9びょう)を決定けってい、1923ねん7がつまでに土地とち買収ばいしゅう退交渉こうしょう完了かんりょうしていた[50]。この九段下くだんしたに、1925ねん大正たいしょう14ねん)から1926ねん大正たいしょう15ねん)にかけて新館しんかん建設けんせつされた。清水しみずぐみ施工しこうで、本館ほんかん建坪たてつぼ574.4つぼ)は地上ちじょう3かい地下ちか1かい書庫しょこ建坪たてつぼ247.5つぼ)は地上ちじょう5かい地下ちか1かいで、20まんさつ収容しゅうよう可能かのうとされていた[51]。1926ねん6がつ15にち創立そうりつ25周年しゅうねん記念きねん復興ふっこう建築けんちく落成らくせい披露ひろうかい開催かいさい、6がつ20日はつかより、さい収集しゅうしゅうしたやく4まんさつ蔵書ぞうしょをもって一般いっぱん閲覧えつらん再開さいかいした[52]

1927ねん昭和しょうわ2ねん)11月23にち鳥井とりい主事しゅじ死去しきょ1928ねん昭和しょうわ3ねん)1がつ日比谷ひびや図書館としょかんちょう今沢いまざわ慈海斡旋あっせんで、竹内たけうちよしさく主事しゅじ就任しゅうにん[53]竹内たけうち1929ねん昭和しょうわ4ねん)より、デューイじゅうしん分類ぶんるいほうかわって独自どくじ分類ぶんるいほう採用さいようしている[54]

1930ねん昭和しょうわ5ねん)11月、児童じどうしつ復旧ふっきゅうし、学齢がくれいまえからの児童じどう入館にゅうかんみとめる[54]

1939ねん昭和しょうわ14ねん)、しん書庫しょこ地上ちじょう4かい地下ちか1かい)を増築ぞうちくし、やく25まんさつ収納しゅうのう可能かのうとなった[55]

利用りようしゃすう1942ねん昭和しょうわ17ねん)がピークで、年間ねんかん317,873にん(1にち平均へいきん954.6にん)、利用りよう冊数さっすう538,630さつ(1にち平均へいきん1,617.5さつ1人ひとりあたり1.7さつ)にたっしている。蔵書ぞうしょすう1944ねん昭和しょうわ19ねん)に19まん122さつたっした[26]利用りようしゃすうおおかったのは、暖房だんぼうなどの設備せつびかったためだという[56]

1944ねん5がつ5にち大橋おおはし新太郎しんたろう死去しきょ財産ざいさん長男ちょうなん博文ひろぶみかん社長しゃちょう大橋おおはし進一しんいち相続そうぞくした。ついで7がつ6にち坪谷つぼや館長かんちょう辞任じにん、8がつ23にち竹内たけうち主事しゅじ退職たいしょく[57]吉谷よしたにせんきちだい3だい館長かんちょう就任しゅうにんするが、終戦しゅうせん直後ちょくご1945ねん昭和しょうわ20ねん)9がつ13にち死去しきょした[58]。その主事しゅじ小谷おたに誠一せいいち1948ねん昭和しょうわ23ねん)11月13にち図書館としょかんちょう就任しゅうにんしているが、よく1949ねん昭和しょうわ24ねん)11がつ20日はつか辞任じにんしている[59]

太平洋戦争たいへいようせんそうでの直接ちょくせつ被害ひがいけていないが、職員しょくいん不足ふそくなどのため夜間やかん開館かいかん停止ていし臨時りんじ休館きゅうかん増加ぞうかなどの影響えいきょうけている[60]戦時せんじちゅう私立しりつ図書館としょかんでは閲覧えつらん禁止きんし図書としょけん秩紊ほん)は没収ぼっしゅうされることになっていたが、竹内たけうち主事しゅじはカードをき、ほんかくして没収ぼっしゅうまぬかれようとしたという[61]。それでも竹内たけうち主事しゅじ退職たいしょくの1944ねん9がつ4にちに「不良ふりょうしょ」329さつ没収ぼっしゅうされるなどしている[62]。なお、戦後せんごGHQによって、中国ちゅうごく大陸たいりくまんしゅう朝鮮ちょうせん沖縄おきなわけん地図ちず没収ぼっしゅうされることになり、1946ねん昭和しょうわ21ねん)3がつに『まんしゅうこく地名ちめいだい辞典じてん』など29てん参謀さんぼう本部ほんぶ地図ちず746まい没収ぼっしゅうされるなどしている[63][64]日本にっぽん陸軍りくぐん地図ちず作成さくせいする陸地りくち測量そくりょう参謀さんぼう本部ほんぶ所属しょぞくだった)。

新宿しんじゅく若宮わかみやまち時代じだい(1950-1953ねん[編集へんしゅう]

戦後せんご博文ひろぶみかん解体かいたいによって、大橋おおはし図書館としょかん存亡そんぼう危機ききむかえることになる。1947ねん昭和しょうわ22ねん)1がつ4にち博文ひろぶみかん公職こうしょく追放ついほうれい該当がいとう団体だんたい認定にんていされた[65]。10月には博文ひろぶみかん廃業はいぎょうとどけ[66]、11月22にちには大橋おおはし進一しんいち公職こうしょく追放ついほう対象たいしょうしゃとなった[67]。また、戦後せんごのインフレによって財団ざいだん基金ききん実質じっしつてき消失しょうしつしてしまったことも、経営けいえい危機ききまねいた原因げんいんとして指摘してきされている[68]

その図書館としょかん規模きぼ縮小しゅくしょうさせ、かんしゃ賃貸ちんたい収入しゅうにゅうによって経営けいえいはか方針ほうしんとなり、1948ねん昭和しょうわ23ねん)8がつ15にちから芸術げいじゅつ文芸ぶんげい歴史れきし集中しゅうちゅうした専門せんもん図書館としょかんとなった[69]。ところが1949ねん昭和しょうわ24ねん)9がつかんしゃ日本銀行にっぽんぎんこう売却ばいきゃくされることがまり、9月8にちをもって休館きゅうかんした[70]。9月22にち日銀にちぎんかんしゃわたされる[69]。なお、この旧館きゅうかんしゃは、その日本にっぽん不動産ふどうさん銀行ぎんこう1957ねん4がつ1にち開業かいぎょう)に譲渡ゆずりわたされている。

当初とうしょ大橋おおはし倉庫そうこのある三番さんばんまち移転いてんする予定よていであったが、11月10にち大橋おおはし進一しんいち意向いこうで、新宿しんじゅく若宮わかみやまち38番地ばんち北緯ほくい3541ふん55.7びょう 東経とうけい13944ふん17.7びょう / 北緯ほくい35.698806 東経とうけい139.738250 / 35.698806; 139.738250 (大橋おおはし図書館としょかん(1950-1953)))にあった大橋おおはし進一しんいち私邸していへの移転いてんまる。1950ねん昭和しょうわ25ねん)3がつ3にち再開さいかい[71]個人こじんたくのため図書館としょかんとしては使つか勝手がってわるく、地下ちか書庫しょこ湿気しっけおおく、環境かんきょうではなかったという[72]。またこのさい雑誌ざっしるい5447さつ処分しょぶんされている[73]

ところが、1950ねん12月15にちづけ読売新聞よみうりしんぶん』が、大橋おおはし進一しんいちによる財団ざいだん法人ほうじん大橋おおはし図書館としょかん財産ざいさん横領おうりょう疑惑ぎわくと、東京とうきょう教育庁きょういくちょう図書館としょかん自発じはつ解散かいさん勧告かんこくきつけたことをおおきくほうじ、図書館としょかん経営けいえい危機きき表面ひょうめんした。どう記事きじによれば、8がつおこなわれた教育庁きょういくちょうによる財産ざいさん検査けんさで、旧館きゅうかんしゃ売却ばいきゃく5600まんえんのうち4200まんえん使途しと不明ふめいとなっているなどの杜撰ずさん経営けいえい実態じったいあきらかとなり、さらにその問題もんだいの5600まんえん大橋おおはし進一しんいち財団ざいだん無断むだんしていたことが発覚はっかくした。事態じたいおも教育庁きょういくちょうは、大橋おおはし図書館としょかん運営うんえい能力のうりょくうしなっていると判断はんだんし、蔵書ぞうしょ散逸さんいつふせぐため、12月11にち自発じはつてき解散かいさん勧告かんこくした。その蔵書ぞうしょとして毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ日本にっぽん大学だいがく日比谷ひびや図書館としょかんなどの名前なまえがるが、いずれもえとなっている[74]

このあいだ閲覧えつらんつづけられており、1951ねん昭和しょうわ26ねん)4がつ20日はつかには、図書館としょかんほうによる公立こうりつ図書館としょかん無料むりょうわせて閲覧えつらんりょう無料むりょうしている[75]

1952ねん昭和しょうわ27ねん)11月、西武鉄道せいぶてつどうつつみ康次郎やすじろう買収ばいしゅう打診だしん[75]1953ねん昭和しょうわ28ねん)1がつ大橋おおはし図書館としょかん存続そんぞくのため加納かのうひさろう委員いいんちょうとする「大橋おおはし図書館としょかん振興しんこう委員いいんかい」(藤山ふじやま愛一郎あいいちろういち万田まんだ尚登なおと天野あまの貞祐ていゆう安井やすい誠一郎せいいちろうらが参加さんか)が設立せつりつされる[76]。1953ねん2がつ17にち図書館としょかん経営けいえいけん西武鉄道せいぶてつどう譲渡ゆずりわたされ、この最後さいご開館かいかんとなった。2月19にち閉館へいかん[75][77]当初とうしょ身売みうりと移転いてんともな一時いちじてき閉館へいかんとされていた[76]が、結果けっかてきにはその再開さいかいまで13ねんはんもかかることになる。

閉館へいかんのきっかけとなった、大橋おおはし進一しんいちによる基金ききんしについての詳細しょうさいあきらかになっていない。経理けいりじょうは、1962ねんになって、前年度ぜんねんど根津ねづ育英いくえいかいから寄付きふされた4863まんえんをもって相殺そうさいすることで解決かいけつされている[78]

さんかん図書館としょかん[編集へんしゅう]

豊島園としまえんでの再開さいかい計画けいかく[編集へんしゅう]

当初とうしょ西武鉄道せいぶてつどうでは豊島園としまえんうち施設しせつ改修かいしゅうして図書館としょかんてる計画けいかくで、1953ねん4がつ上旬じょうじゅんには再開さいかいされる見込みこみとほうじられていた[76]。しかし、よく1954ねん昭和しょうわ29ねん)2がつ時点じてんでも、つつみ康次郎やすじろう衆議院しゅうぎいん議長ぎちょう就任しゅうにん(1953ねん5がつ)や西武百貨店せいぶひゃっかてん拡張かくちょう事業じぎょうなどのために資金繰しきんぐりがうまくゆかず、再開さいかいできないとほうじられている[79]。1954ねん4がつ13にち財団ざいだん事務所じむしょ豊島としま園内えんない移転いてん[77]

芝公園しばこうえん紛争ふんそうさんかん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ設立せつりつ[編集へんしゅう]

さんかん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ設立せつりつのきっかけとなったのは、芝公園しばこうえん土地とちをめぐる西武鉄道せいぶてつどう増上寺ぞうじょうじ紛争ふんそうである。

芝公園しばこうえん一帯いったい江戸えど時代じだいには増上寺ぞうじょうじ寺領じりょうであったが、明治めいじ4ねん1がつ5にち1871ねん2がつ23にち)の社寺しゃじりょううえともれい[注釈ちゅうしゃく 5]により国有こくゆうとなり、そのうち徳川とくがわ墓地ぼちしょ27,080つぼやく89,500平方へいほうメートル)のみが、明治めいじ4ねん9がつ東京とうきょう告示こくじによって徳川とくがわ宗家そうけはらげられていた。1948ねん昭和しょうわ23ねん)、増上寺ぞうじょうじ境内けいだいくにから無償むしょう譲与じょうよされる。一方いっぽう西武鉄道せいぶてつどう1950ねん昭和しょうわ25ねん)からすうかいけて、徳川とくがわ宗家そうけ当主とうしゅ徳川とくがわ家正いえまさから、徳川とくがわ土地とちをホテル建設けんせつ用地ようちとして買収ばいしゅうした。ところがこのさい西武鉄道せいぶてつどうがわが、徳川とくがわ所有しょゆう27,080つぼのうち23,349つぼやく77,200平方へいほうメートル)をったと主張しゅちょうしたのにたいし、関東かんとう財務局ざいむきょく増上寺ぞうじょうじは、徳川とくがわ所有しょゆうじつ面積めんせきは20,233つぼやく66,900平方へいほうメートル)だと主張しゅちょうした。すなわち6,847つぼ[注釈ちゅうしゃく 6]やく22,600平方へいほうメートル)ぶんちがいがしょうじたのである。この原因げんいんは、関東かんとう財務局ざいむきょくによる国有こくゆう財産ざいさん管理かんり杜撰ずさんで、実測じっそくおこなわれていなかったためだと推定すいていされる。1954ねん6がつ西武鉄道せいぶてつどう駐車ちゅうしゃじょう建設けんせつ工事こうじ開始かいしし、増上寺ぞうじょうじがわがこれに抗議こうぎしたため、問題もんだい表面ひょうめんする[83]

1957ねん昭和しょうわ32ねん7がつ9にち西武鉄道せいぶてつどう社長しゃちょう小島こじま正治しょうじろうつつみ康次郎やすじろう会長かいちょうむすめ婿むこ)、徳川とくがわ家正いえまさ増上寺ぞうじょうじ法主ほっしゅ椎尾しいおべんただしさんしゃによる和解わかい契約けいやくしょわされた。合意ごうい内容ないようは、西武せいぶ土地とち芝公園しばこうえん1ごう現在げんざい住所じゅうしょ表記ひょうきでは芝公園しばこうえん4丁目ちょうめ8ばんザ・プリンス・パークタワー東京とうきょう)と3ごうどう・3丁目ちょうめ3ばん東京とうきょうプリンスホテル)、増上寺ぞうじょうじ土地とちを2ごうどう・4丁目ちょうめ7ばん)にそれぞれ集約しゅうやくすること、西武せいぶ国際こくさい観光かんこうホテルを建設けんせつすること、紛争ふんそうになっていた土地とち文化ぶんか施設しせつして共同きょうどう利用りようすることとし、共同きょうどうで「財団ざいだん法人ほうじんさんかん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ」と、幼稚園ようちえん小学校しょうがっこう経営けいえいする「学校がっこう法人ほうじんさんかん学園がくえん」を設立せつりつすること、などであった。財団ざいだん法人ほうじん学校がっこう法人ほうじん設立せつりつにあたっては、土地とち使用しようけん増上寺ぞうじょうじ建設けんせつ資金しきん西武鉄道せいぶてつどうがそれぞれ提供ていきょうし、両者りょうしゃから同数どうすう理事りじす、とさだめられた。しかし、西武鉄道せいぶてつどう増上寺ぞうじょうじ相互そうご不信ふしんのため、財団ざいだん法人ほうじん設立せつりつ大幅おおはばおくれ、実際じっさい設立せつりつされたのは7ねんであった。なお、学校がっこう法人ほうじん設立せつりつはそのえになっているが、理由りゆう不明ふめいである[84]

このさんかん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ設立せつりつのため、きゅう大橋おおはし図書館としょかん蔵書ぞうしょ利用りようされることになったのである。1957ねん8がつ11にち芝公園しばこうえん2ごう2番地ばんちさんかん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ設立せつりつされ、大橋おおはし図書館としょかんはその附属ふぞく図書館としょかんとなることになった。11月22にち財団ざいだん法人ほうじん大橋おおはし図書館としょかん財団ざいだん法人ほうじんさんかん図書館としょかん改称かいしょうし、翌年よくねん1がつから芝公園しばこうえん研究所けんきゅうじょ本館ほんかん大橋おおはし図書館としょかんきゅう蔵書ぞうしょ搬入はんにゅう開始かいしした。1959ねん昭和しょうわ34ねん)12月25にち財団ざいだん事務所じむしょ豊島としま園内えんないからさんかん文化ぶんか研究所けんきゅうじょない移転いてん1960ねん昭和しょうわ35ねん)3がつ図書館としょかん書庫しょこ完成かんせいする[77]財団ざいだん法人ほうじん申請しんせいまえにもかかわらず西武鉄道せいぶてつどう準備じゅんびいそいだのは、ホテル着工ちゃっこう条件じょうけんととのえるために既成きせい事実じじつつくるためだったといわれる[85][注釈ちゅうしゃく 7][注釈ちゅうしゃく 8]

1964ねん昭和しょうわ39ねん)6がつ15にち財団ざいだん法人ほうじんさんかん図書館としょかん解散かいさん決議けつぎ。6月30にちさんかん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ財団ざいだん法人ほうじん認可にんかける。9月1にち財団ざいだん法人ほうじんさんかん図書館としょかん残余ざんよ財産ざいさんさんかん文化ぶんか研究所けんきゅうじょわたされる[9]。このときがれた資料しりょうは18まん603さつであり、きゅう大橋おおはし図書館としょかん蔵書ぞうしょのほとんどが散逸さんいつせずにがれたことになる[86]。11月13にち開所かいしょしき[77]所長しょちょうには椎尾しいおべんただし研究けんきゅう指導しどういんには中村なかむらはじめ東京大学とうきょうだいがく文学ぶんがく部長ぶちょう)ら、在室ざいしつ研究けんきゅういんには石上いしがみよしおう大正大学たいしょうだいがく助教授じょきょうじゅ)、小野おの泰博やすひろ大正大学たいしょうだいがく講師こうし)、みねとうあさひゆう早稲田大学わせだだいがく助教授じょきょうじゅ)がそれぞれ就任しゅうにんした[9]。なお、つつみ康次郎やすじろう同年どうねん4がつぼっしている。

開館かいかん[編集へんしゅう]

1966ねん昭和しょうわ41ねん)10がつ12にち財団ざいだん法人ほうじん三康文化研究所附属三康図書館が開館かいかんした[77]

1979ねん昭和しょうわ54ねん)4がつ10日とおか増上寺ぞうじょうじ境内けいだい整備せいび計画けいかくともない、芝公園しばこうえん4丁目ちょうめ7ばん4ごう新設しんせつされたあきら照会しょうかいかん移転いてん[77]

2013ねん平成へいせい25ねん)4がつ1にち公益こうえき法人ほうじん制度せいど改革かいかくともない、財団ざいだん法人ほうじんさんかん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん移行いこうした[87]

2000ねん7がつ、ホームページを開設かいせつ。2019ねん10がつ25にちにはリニューアルした。また、2018ねん6がつ15にちからはFacebook、2019ねん6がつ24にちからはTwitter運用うんようしている。2021ねん7がつ2にちからはホームページじょう書庫しょこVR動画どうが公開こうかいしている[1]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 国書こくしょそう目録もくろく』で「だい橋本はしもと」と記載きさいされている典籍てんせきは、関東大震災かんとうだいしんさいすべ焼失しょうしつしている。現在げんざい所蔵しょぞうされている古典こてんせきは、震災しんさい以後いご収集しゅうしゅうされたものである[3][4]
  2. ^ この土地とちは、化物ばけもの屋敷やしきといううわさがあって安値やすねりにされていたものを、大橋おおはし佐平さへい一笑いっしょうして1900ねん明治めいじ33ねん)にったものである[29]
  3. ^ 出典しゅってん[33]では「帝国ていこく大学だいがく文学ぶんがく部長ぶちょう」となっているが、あきらかなあやまりなので訂正ていせいした。
  4. ^ たとえば石井いしい研堂けんどう改訂かいてい増補ぞうほ明治めいじ事物じぶつ起源きげん』は大橋おおはし図書館としょかんを「私立しりつ図書館としょかんはじめなり」とするが、実際じっさいにはそれ以前いぜん設立せつりつされた私立しりつ図書館としょかんすうじゅうかんにのぼる(そもそも、帝国ていこく教育きょういくかい図書館としょかん私立しりつである)。図書館としょかん定義ていぎにもよるが、現存げんそんする図書館としょかんとしては、1874ねん開館かいかん八戸はちのへ書籍しょせき縦覧じゅうらんしょ八戸はちのへ市立しりつ図書館としょかん前身ぜんしん)がもっとふるい。私立しりつ図書館としょかんとして存続そんぞくしている図書館としょかんかぎっても、成田なりた図書館としょかんげん成田山なりたやま仏教ぶっきょう図書館としょかん1901ねん設立せつりつ1902ねん2がつ1にち開館かいかん)のほうがわずかにふるい。
  5. ^ 明治めいじ4ねん正月しょうがつ5にち太政官だじょうかん布告ふこく社寺しゃじりょう現在げんざい境内けいだいじょクノがい上地じょうちおおせ出土しゅつどはんけん管轄かんかつセシム」(法令ほうれい全書ぜんしょ)。参考さんこう文献ぶんけん[80]、およびその出典しゅってんである新聞しんぶん記事きじ[81]では「明治めいじさんねんじゅうがつ太政官だじょうかん布告ふこく」となっているが、あやまりとおもわれる。
  6. ^ 参考さんこう文献ぶんけん[82]、およびその出典しゅってんである新聞しんぶん記事きじ[81]では「ろくせんななひゃくよんじゅうななつぼ」となっているが、計算けいさんミスとおもわれる。
  7. ^ 当初とうしょは1ごうにホテルを建設けんせつする予定よていだったが、地元じもと反対はんたい運動うんどうのためいったん中止ちゅうしされた。1964ねん9がつ1にち、3ごう東京とうきょうプリンスホテルが開業かいぎょうした。
  8. ^ 財団ざいだん法人ほうじん設立せつりつまえに「さんかん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ名義めいぎ発行はっこうされた書籍しょせきに、『池田いけだ内閣ないかく誕生たんじょうまで』(1960ねん)、『世界せかいうごかす人々ひとびと』(1961ねん)、つつみ康次郎やすじろう苦闘くとうさんじゅうねん』(1962ねん)、つつみ康次郎やすじろう太平洋たいへいようのかけはし』(1963ねん)がある。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

大橋おおはし図書館としょかん[編集へんしゅう]

  • さんかん図書館としょかん復刻ふっこくばん大橋おおはし図書館としょかんよんじゅうねん編集へんしゅう委員いいんかい へん復刻ふっこくばん大橋おおはし図書館としょかんよんじゅうねん別冊べっさつ付録ふろく――大橋おおはし図書館としょかん開館かいかん100ねん記念きねん博文ひろぶみかんしんしゃ、2006ねん4がつ20日はつか 
  • 坪谷つぼや善四郎ぜんしろう大橋おおはし図書館としょかんよんじゅうねん博文ひろぶみかん、1942ねん9がつ5にちNDLJP:1122718 
  • 坪谷つぼや善四郎ぜんしろう復刻ふっこくばん 大橋おおはし図書館としょかんよんじゅうねん博文ひろぶみかんしんしゃ、2006ねん4がつ20日はつかISBN 4-86115-150-3 
  • 永濱ながはま薩男「大橋おおはし図書館としょかんのこと」『名著めいちょサプリメント』だい4かんだい6ごう名著めいちょ普及ふきゅうかい、1991ねん8がつ1にち 
  • もり睦彦むつひこ大橋おおはし図書館としょかん閉館へいかん事情じじょう」『東海大学とうかいだいがく紀要きよう 課程かてい資格しかく教育きょういくセンター』だい2ごう東海大学とうかいだいがく出版しゅっぱんかい、1993ねん3がつ30にちISSN 0916-9741NAID 110000479621 
  • 是枝これえだ英子えいこ大橋おおはし佐平さへい大橋おおはし図書館としょかん」『大倉山おおくらやま論集ろんしゅうだい55ごう大倉おおくら精神せいしん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ、23-63ぺーじ、2009ねん3がつ17にちISSN 0471-5152 

さんかん図書館としょかん[編集へんしゅう]

  • 石川いしかわ武敏たけとし探訪たんぼう: 三康文化研究所附属三康図書館」『参考さんこう書誌しょし研究けんきゅうだい41ごう国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん、1992ねん3がつ25にちISSN 2189-2768NDLJP:3051343 
  • 大西おおにし健夫たけお ちょ「プリンスホテルの生成せいせい」、大西おおにし健夫たけお; 斎藤さいとうけん; 川口かわぐちひろし へんつつみ康次郎やすじろう西武せいぶグループの形成けいせい知泉ちせんしょかん、2006ねん3がつ30にち、225-248ぺーじISBN 4-901654-68-3 
  • さけがわ玲子れいこさんかん図書館としょかん」『図書館としょかん雑誌ざっしだい87かんだい2ごう日本にっぽん図書館としょかん協会きょうかい、110-111ぺーじ、1993ねん2がつISSN 0385-4000 
  • 馬場ばば萬夫ばんぷ; 飯澤いいざわ文夫ふみお; 古川ふるかわ絹子きぬこ東京とうきょう図書館としょかん 23へん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2000ねん9がつ30にち、399-400ぺーじISBN 4-490-20415-9 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]