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だてへい主神しゅしんしゃ

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だてへい主神しゅしんしゃ

神門ごうど
所在地しょざいち 兵庫ひょうごけん姫路ひめじ総社本そうじゃほんまち190
位置いち 北緯ほくい3450ふん02.4びょう 東経とうけい13441ふん47.8びょう / 北緯ほくい34.834000 東経とうけい134.696611 / 34.834000; 134.696611 (だてへい主神しゅしんしゃ)座標ざひょう: 北緯ほくい3450ふん02.4びょう 東経とうけい13441ふん47.8びょう / 北緯ほくい34.834000 東経とうけい134.696611 / 34.834000; 134.696611 (だてへい主神しゅしんしゃ)
主祭しゅさいしん だて大神だいじん
へいぬし大神だいじん
社格しゃかくひとし 式内しきないしゃしょう
播磨はりまこく総社そうじゃ
きゅうけんしゃ
別表べっぴょう神社じんじゃ
本殿ほんでん様式ようしき あいだしゃ流造ながれづくり
例祭れいさい 11月13にち14にち15にち16にち
おも神事しんじ 一ツ山ひとつやま神事しんじ
三ツ山みつやま神事しんじ
地図ちず
射楯兵主神社の位置(兵庫県内)
射楯兵主神社
だてへい主神しゅしんしゃ
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だてへい主神しゅしんしゃ(いたてひょうずじんじゃ)は、兵庫ひょうごけん姫路ひめじ総社本そうじゃほんまちにある神社じんじゃ播磨はりまこく総社そうじゃで、播磨はりま地域ちいきではにごらずに「そうしゃ」、「そうしゃさん」とばれる。社格しゃかくは、式内しきない小社しょうしゃけんしゃ姫路城ひめじじょうちゅう曲輪くるわない位置いちする。60ねんに1一ツ山ひとつやま大祭たいさい、20ねんに1三ツ山みつやま大祭たいさい有名ゆうめい

祭神さいじん[編集へんしゅう]

由緒ゆいしょ歴史れきし[編集へんしゅう]

再建さいけんされた総社そうじゃ御門みかど

飾磨しかまぐん伊和いわさと姫路ひめじ市街地しがいち周辺しゅうへん)は伊和いわぞく宍粟しさわ一宮いちのみやまち須行名すぎょうめにある、播磨はりまこく一宮いちのみや伊和いわ神社じんじゃ伊和いわ大神だいじんまつ氏族しぞく)の平野へいやにおいての拠点きょてんであったようで、へい主神しゅしん伊和いわだいかみであるとわれている。出雲いずもけいである伊和いわ大神だいじんだいおのれかみ大国たいこく主命しゅうめい)と同一どういつされ、へい主神しゅしん大国たいこく主命しゅうめいであるといわれるようになったとかんがえられる。

神仏しんぶつ習合しゅうごう時代じだいには、神宮寺じんぐうじとして般若はんにゃいん般若寺はんにゃじ)があった。また、播磨はりま天台てんだいろくやま書写しょしゃさん圓教寺えんきょうじぞう位山くらいやまずいねがいてら法華ほっけさん一乗寺いちじょうじはち徳山とくやま八葉寺はつしょうじ妙徳山みょうとくさん神積寺しんせきじ蓬莱山ほうらいさん普光寺ふこうじ)によるだい般若はんにゃかいおこなわれていた。

江戸えど時代じだいには、姫路ひめじはんおも崇敬すうけいあつかったとつたえられる。

境内けいだい[編集へんしゅう]

  • 本殿ほんでん 東殿ひがしとのだて大神だいじん 西にし殿どのへいぬし大神だいじん 中央ちゅうおう殿どのそら殿どの

中央ちゅうおう殿どのそら殿どのであることや神饌しんせんけんずるさい西にし殿どのからおこなうなどの特色とくしょくがある。

摂社せっしゃ

末社まっしゃ

播磨はりまこくそう神殿しんでん西にし播総神殿しんでん

祭事さいじ[編集へんしゅう]

非常ひじょうおおくの祭事さいじおこなわれる。おもなものは以下いか、このほか特殊とくしゅだい祭礼さいれいとして一ツ山ひとつやま大祭たいさい三ツ山みつやま大祭たいさいがある。

はつえびすさい
たからめぐみかごぶくむすめ

霜月しもづきれい大祭たいさい[編集へんしゅう]

播磨はりまこく総社そうしゃとなった11月15にちいわっておこなわれる。姫路ひめじさいとも。神幸しんこうさい神輿しんよ巡幸じゅんこうする。普段ふだん中央ちゅうおう殿どのそら殿どのとなっているが、れい大祭たいさいのときのみ、本殿ほんでんだいゆか中央ちゅうおうかみませもうけ、きゅうしょ御霊みたましんまつる。

一ツ山ひとつやま大祭たいさい三ツ山みつやま大祭たいさい[編集へんしゅう]

20ねんいち開催かいさいされる三ツ山みつやま大祭たいさい

三ツ山みつやまひながたくに重要じゅうよう有形ゆうけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい一ツ山ひとつやま大祭たいさい三ツ山みつやま大祭たいさいくに選択せんたくけん指定してい無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい指定していされている。一ツ山ひとつやま大祭たいさい三ツ山みつやま大祭たいさいで、かつては神事しんじ内容ないようことなっていたようだが、現在げんざいおなじである。5しゅ神事しんじ流鏑馬やぶさめ競馬けいば(くらべうま)・神子かみこ(みこ)わたり・ひとぶつゆみぼこゆび(ゆみほこさし)がおこなわれる。流鏑馬やぶさめ競馬けいば吉凶きっきょううらな神事しんじで、神子かみこひとぶつゆみぼこゆびものにはみこ(よりまし)としての役割やくわりがある。このような神事しんじは、近代きんだい以前いぜんには播磨はりま地域ちいきおおくの神社じんじゃおこなわれていたが、現在げんざいはあまりられない。神事しんじのほか、様々さまざま奉祝ほうしゅく行事ぎょうじおこなわれ大祭たいさいおおくの参詣さんけいしゃにぎわう。 播磨はりま国一くにいちみや宍粟しさわ一宮いちのみやまち)の伊和いわ神社じんじゃにおいてもひとやまさいみっやまさいときぎょうされている。こちらはみっやまが61ねんいちひとやまが21ねんいち伊和いわ神社じんじゃかこ白倉山しらくらやま花咲はなさきさん高畑山たかはたさん三ツ山みつやま)、宮山みややま一ツ山ひとつやま)という実際じっさいやまにおいておこなわれる。総社そうじゃ一ツ山ひとつやま三ツ山みつやまはそれらをかたどったものであるという伝承でんしょうがあり、このあたりからも両社りょうしゃ関係かんけいうかがえる。

かつては大祭たいさいあわせて、うちまちいたところ町屋まちや屋上おくじょう壮大そうだいな「つくぶつ」がかざられていた。屋上おくじょうづくぶつふるくは寛政かんせい5ねん記述きじゅつがある。「晴天せいてんななにち」といって雨天うてんのぞいて7日間にちかんかざられたのちまつりの終了しゅうりょうをもってすべつぶされる。屋上おくじょうづくぶつなかには、1つのまち建物たてもの屋根やねうみ見立みたてて50メートルから60メートルほどもあるくじらつくぶつや、「羅生門らしょうもん」、「義経よしつねはちそうび」、「業平なりひらひがしくだり」、「安宅あたかせき」などの30メートルから50メートルきゅうものおおくあり、まちごとに規模きぼなどをきそっていた[2]よしみひさし年間ねんかん三ツ山みつやま大祭たいさいでは、姫路ひめじはん家老がろう展示てんじを1にち延長えんちょうするようもとめたが、先述せんじゅつならわしどおりにまつりのわりとともつぶされた。1953ねん昭和しょうわ28ねん)の大祭たいさいでは全体ぜんたいつくられたものの以後いご社会しゃかい構造こうぞう変化へんかとも衰退すいたいしていたが、2013ねん平成へいせい22ねん)の三ツ山みつやま大祭たいさいでは「つくぶつ」が60ねんりに復活ふっかつ神社じんじゃ周辺しゅうへんに10設置せっちされた。この「つくぶつ」をめぐるスタンプラリーも開催かいさいされた[3]

平成へいせい25ねん1がつから3がつまで姫路ひめじ平和へいわ資料しりょうかん昭和しょうわ28ねん三ツ山みつやま大祭たいさいとき発売はつばいされた「三ツ山みつやま音頭おんど」のレコードが展示てんじ演奏えんそうされていた[4]

一ツ山ひとつやま大祭たいさい
一ツ山ひとつやま大祭たいさいは、不定期ふていきときぎょうされていた天神てんじん地祇ちぎさい神前しんぜん松原まつばらで3732天神てんじん地祇ちぎまつる)で、かつておこなわれていた影向ようごうさい(ようごうさい、かみ影向ようごう降臨こうりん)を再現さいげんする祭礼さいれい)を踏襲とうしゅうしたことにはじまる。6月11にちちょうしげるおこなわれており、ちょうしげるさいばれた。不定期ふていきだったが、現在げんざいではちょうしげるちなみ60ねんいちちょうしげるとしに)ときぎょうされる。ふるくから、かみさんやその山頂さんちょういわ樹木じゅもくだいとして降臨こうりんするとかんがえられていた。それにならって、たかさ18m直径ちょっけい10mで5しょくぬのいた五色山ごしきやまばれるやまつくり、そのさい上部じょうぶ山上さんじょう殿どのもうけ、それをだいとしてかみ降臨こうりんあおぐのが一ツ山ひとつやま大祭たいさいである。神門ごうどうえもうけたもん上殿かみどのだてしんへい主神しゅしんうつし、かみ門前もんぜんやま天神てんじん地祇ちぎまねく。
三ツ山みつやま大祭たいさい
三ツ山みつやま大祭たいさい臨時りんじさい)は、一ツ山ひとつやま大祭たいさい臨時りんじさいで20ねんに1ときぎょうされる。三ツ山みつやま大祭たいさいでは、五色山ごしきやまくわえ、その東側ひがしがわ二色にしきさん西側にしがわ小袖こそでかざった小袖こそでさんならぶ。一ツ山ひとつやまおなじように、3つのつくやまかみ降臨こうりんあおぐ。
2013ねん平成へいせい25ねん)におこなわれただい22かいしき三ツ山みつやま大祭たいさいでは、横綱よこづなはくほう土俵入どひょういりを奉納ほうのうした[5][6]

過去かこ祭事さいじ[編集へんしゅう]

刀剣とうけんおどり神事しんじ修羅しゅらおどり)
近傍きんぼうには過去かこに「いけ」があり、1976ねん昭和しょうわ51ねん)にてられて総社そうじゃ公園こうえんとなっている。かつて旧暦きゅうれき7がつには総社そうじゃ人々ひとびと抜刀ばっとうしておどう「刀剣とうけんおどり神事しんじ」があり、江戸えど時代じだいには「おどりまい神事しんじ」「修羅しゅら念仏ねんぶつ」、江戸えど時代じだい後半こうはんには「修羅しゅらおどり」「豊年ほうねんおどり」とばれた。その行事ぎょうじきずこうむったものいけあらうと止血しけつしたとされたことがいけ名称めいしょう由来ゆらいという[7]。あるいはたたかいののち、このいけ武具ぶぐあらい、修羅しゅらおどりで戦勝せんしょういわったなどともつたわる[8]

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

重要じゅうよう文化財ぶんかざいくに指定してい[編集へんしゅう]

  • 太刀たち めい じょう以下いかくき(なかご)すりげ)(綾小路あやのこうじじょう:韋巻がら(かわまきつか)およくき断片だんぺん

重要じゅうよう有形ゆうけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • 三ツ山みつやまひながた

その[編集へんしゅう]

  • 石造せきぞう鳥居とりい けん指定してい文化財ぶんかざい
  • 一ツ山ひとつやま大祭たいさい けん指定してい無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい
  • 三ツ山みつやま大祭たいさい けん指定してい無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい
  • 三ツ山みつやま祭礼さいれい屏風びょうぶ けん指定してい文化財ぶんかざい
  • どうがね 指定してい文化財ぶんかざい
  • 忠国ただくにけん 指定してい文化財ぶんかざい

伊勢神宮いせじんぐう神宝しんぽう[編集へんしゅう]

伊勢神宮いせじんぐうおこな神宮じんぐう式年しきねん遷宮せんぐうでは神宝しんぽう新調しんちょうされるが、ふるくなった神宝しんぽう5てん1975ねん昭和しょうわ50ねん)に譲渡ゆずりわたされている。また2016ねん平成へいせい28ねん)2がつにも、伊勢神宮いせじんぐう内宮ないくう外宮げくうおさめられ先年せんねん遷宮せんぐうふるくなった神宝しんぽうのうち、かわうつぼどうくろづくり御太刀みたちあずさ御弓おゆみだての4てん譲渡じょうとされた[9]

交通こうつう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 姫路ひめじ だい15かんじょう べつへん 民俗みんぞくへん姫路ひめじ、1992ねん、130-182ぺーじ 
  • かみのやま だい6ごう”. 播磨はりまこく総社そうしゃ 一ツ山ひとつやま大祭たいさい三ツ山みつやま大祭たいさい保存ほぞんかい. 2024ねん7がつ7にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ろんしゃとしてくだりしゃだてへい主神しゅしんしゃ姫路ひめじ辻井つじい)もがったが、一般いっぱんてきには総社そうじゃのことであるとかんがえられている。
  2. ^ 江戸えど姫路ひめじにあった「つくぶつ」 但馬たじま一式いっしきかざりとのちがいは?
  3. ^ 三ツ山みつやま大祭たいさい、31にち開幕かいまく きゅう姫路城ひめじじょうで「つくぶつめぐ神戸こうべ新聞しんぶん2013ねん3がつ30にち
  4. ^ a b まぼろしのSPレコード「みっやま音頭おんど」を発見はっけん平和へいわ資料しりょうかん展示てんじ演奏えんそうちゅう姫路ひめじ広報こうほう
  5. ^ 三ツ山みつやま大祭たいさい 横綱よこづなしろおおとり土俵入どひょういりを奉納ほうのう神戸こうべ新聞しんぶん2013ねん4がつ1にち
  6. ^ 横綱よこづなはくほうせき姫路ひめじ土俵入どひょうい奉納ほうのうへ 20ねんいち三ッ山みつやま大祭たいさい記念きねん産経新聞さんけいしんぶん2013ねん1がつ11にち
  7. ^ 姫路ひめじのコトモノ (2023ねん3がつ2にち). “姫路ひめじ】「 いけあと 」という場所ばしょが、播磨はりまこく総社そうしゃちかくにあることを、みなさんはっていましたか。”. Yahoo!ニュース. 2023ねん12月24にち閲覧えつらん
  8. ^ 乃池あと”. 姫路ひめじWebマップ. 姫路ひめじ. 2023ねん12月24にち閲覧えつらん
  9. ^ 国宝こくほうきゅう伊勢神宮いせじんぐう神宝しんぽう 姫路ひめじ播磨はりまこく総社そうしゃ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]