新規しんきほり用水ようすい

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新規しんきほり用水ようすい
久喜くき吉羽よしば地区ちく(2011ねん11月)
河口かこう合流ごうりゅうさき

青毛あおげ堀川ほりかわ久喜くき吉羽よしば下河原しもかわはる
北緯ほくい3603ふん33びょう 東経とうけい13941ふん57びょう / 北緯ほくい36.059184 東経とうけい139.699080 / 36.059184; 139.699080 (終点しゅうてん)座標ざひょう: 北緯ほくい3603ふん33びょう 東経とうけい13941ふん57びょう / 北緯ほくい36.059184 東経とうけい139.699080 / 36.059184; 139.699080 (終点しゅうてん)

中堀なかほり落川おちかわ久喜くき吉羽よしばまえ
ながれ 久喜くき久喜くきひがし吉羽よしば
流域りゅういき 久喜くき久喜くきひがし吉羽よしば
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新規しんきほり用水ようすい(しんきほりようすい)は、埼玉さいたまけん久喜くき太田おおた地区ちくながれる水路すいろである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

1959ねん揚水ようすい設置せっち記念きねんしててられた記念きねん。(座標ざひょう

新規しんきほり用水ようすい明治めいじ以前いぜんに「新規しんき用水ようすい」の名称めいしょう開削かいさくされた農業のうぎょう用水路ようすいろである[よう出典しゅってん]

今日きょう久喜くきえき東部とうぶ久喜くき久喜くきひがし吉羽よしばあたり)は、さき土器どき時代じだいからひとんでおり、新規しんきほり用水ようすいきたにある高輪たかなわてら遺跡いせきにはふる地層ちそうがそのままのこっていて、さき土器どき時代じだい縄文じょうもん時代じだい[1]遺物いぶつつかっている。このあたりには紀元前きげんぜん100ねんごろ稲作いなさく伝播でんぱしたとかんがえられている[2]:3

江戸えど時代じだい以降いこう、このあたりは天領てんりょうであり、江戸えど幕府ばくふにより時代じだいとも開墾かいこん奨励しょうれい開墾かいこん禁止きんし下流かりゅう水不足みずぶそくとなるため)がかえされ[3]:644開墾かいこんとも用水ようすい(きれいなみずかわ)とあく水堀みずほり排水はいすい)がえられていった。今日きょうのこのあたりの河川かせんめいで「ほり」「落」のかたりふくむものは、だい世界せかい大戦たいせんまでは排水はいすいとして使つかわれていたものがほとんどである。元禄げんろく6ねん1693ねんころ)の『騎西きさいりょう久喜くきりょうあく水堀みずほり争論そうろん裁許さいきょ絵図えず』にえがかれている吉羽よしばむらは、北部ほくぶ東部とうぶあく水落みずおち新堀しんぼりに、西部せいぶ南部なんぶ中落なかおちほりかこまれている。これらはいずれもあく水堀みずほりである。用水ようすい新川しんかわ用水ようすい水源すいげんとし、北西ほくせい野久喜のぐきむら方面ほうめんからいていた[3]:647

しかし江戸えど末期まっきから明治めいじにかけて田畑たはたえたり河川かせん改修かいしゅうがあったりして、用水ようすい不足ふそく目立めだつようになった。1875ねん明治めいじ8ねんごろ記録きろくである武藏むさしこく郡村こおりむらには、江戸えど時代じだい末期まっき野久喜のぐき方面ほうめんから新規しんき用水ようすいいたむねかれている[4]:294明治めいじはじめには青毛あおげ堀川ほりかわからみずき、昭和しょうわはじめには稲荷台いなりだい用水ようすいなどがもうけられたが、依然いぜんとして水不足みずぶそく状況じょうきょうつづいた[5]

1954ねん昭和しょうわ29ねん)、久喜くきまち下水道げすいどう工事こうじ認可にんかくだり、整備せいびはじまった[6]。それにともない、いままで排水はいすいだった中落なかおちほり用水ようすいとして利用りよう可能かのうとなり、ここに揚水ようすいけてあらたな用水路ようすいろもうけられた。これが新規しんきほり用水ようすいである[5]起点きてん当時とうじ久喜くきまち西にし1049で[7]今日きょう久喜くき久喜くきひがし2-5にたる。おおむ東南東とうなんとう方面ほうめんながれ、そのきたにほぼ平行へいこうしてながれる稲荷台いなりだい用水ようすい下流かりゅう合流ごうりゅうし、そこから南下なんかしてちゅう落堀川おちぼりがわとされていた。新規しんきほり用水ようすい一部いちぶは、新規しんきほり用水ようすいみなみ平行へいこうする排水はいすい中堀なかほりにもながされた。1959ねん昭和しょうわ34ねん)には、これを記念きねんしたいしぶみてられている。

新規しんきほり用水ようすいは、おも吉羽よしば西にし青毛あおげ堀川ほりかわ古称こしょうしも青毛あおげほり、しもあおげほり・しもおおげぼり)より西側にしがわ地域ちいきにおいて灌漑かんがいもちいられてきた。吉羽よしば西にし主要しゅよう灌漑かんがい水路すいろであるためおおくの支流しりゅうゆうしていたが、現在げんざい流域りゅういき都市としともな支流しりゅうおおくはてられた。かつて灌漑かんがいされていた地区ちく吉羽よしば西にしまえ寺田てらだ沼向ぬまむかい山下やました・および西にしである。現在げんざいでは本流ほんりゅうほか支流しりゅうのうち中落なかおち堀川ほりかわいた支流しりゅう太田おおたしょうどお沿い:暗渠あんきょ)、中堀なかほり落川おちかわいた支流しりゅうの2分流ぶんりゅうのこる。なお、現存げんそんするりゅう支流しりゅうについては下記かきりゅうぶし参照さんしょうされたい。(ちゅう:いちょうどおり(青毛あおげ下早見しもはやみせん以西いせい流域りゅういき区画くかく整理せいり終了しゅうりょうしているため、めい現在げんざいもちいられていない。めい吉羽よしばない公園こうえん名称めいしょうのこる。)ひらきみぞ区間くかんおおくは現代げんだいにおいてももとりである。現在げんざいひらけみぞ流域りゅういき土地とち改良かいりょう地区ちくである。また流域りゅういきには絶滅ぜつめつ危惧きぐしゅなどの希少きしょう生物せいぶついきづいている[よう出典しゅってん]自然しぜん観察かんさつかい観察かんさつ場所ばしょにも選択せんたくされている。

今日きょういちょうどお東側ひがしがわひらきみぞ開始かいし付近ふきん地点ちてん[8]において1984ねん昭和しょうわ59ねん)より1988ねん昭和しょうわ63ねん)にかけホタル生息せいそく調査ちょうさおこなわれた。そのさい流域りゅういき周辺しゅうへんにおいてヘイケボタル生息せいそく確認かくにんされている[9]

分流ぶんりゅう

ながれ[編集へんしゅう]

支流しりゅう分流ぶんりゅう
  • 太田おおたしょうどおり、本流ほんりゅうとの交差点こうさてんより50mほどきた周辺しゅうへんよりおこる。(座標ざひょう
  • 本流ほんりゅう暗渠あんきょにて交差こうさする。(暗渠あんきょじょうとも歩道ほどう
  • 太田おおたしょうとお沿いにみなみながれる。
  • 東口ひがしぐち大通おおどおりを南側みなみがわ横断おうだんする。
  • さらにみなみ太田おおたしょうどお沿いに久喜くきひがし3丁目ちょうめながれる。
  • 途中とちゅうでさらに水路すいろかれる。(本流ほんりゅう南方なんぽうへ。分流ぶんりゅうかけほり用水ようすい)は西にし地区ちくめい)へ流下りゅうか
  • ちゅう落堀川おちぼりがわいた終点しゅうてん。(座標ざひょう

周辺しゅうへん施設しせつ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 久喜くき 埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい包蔵ほうぞう一覧いちらん
  2. ^ 久喜くき教育きょういく委員いいんかい へん久喜くき歴史れきし年表ねんぴょうだい11かん埼玉さいたま県立けんりつ図書館としょかん、1984ねん 
  3. ^ a b 久喜くき 通史つうしへん 上巻じょうかん埼玉さいたまけん久喜くき、1993ねん 
  4. ^ 埼玉さいたまけん 編纂へんさん へん武藏むさしこく郡村こおりむらだい11かん埼玉さいたま県立けんりつ図書館としょかん、1954ねん 
  5. ^ a b 久喜くき久喜くきひがし2-5にある石碑せきひ
  6. ^ 久喜くきまちだより』、1954ねん10がつ14にちづけ久喜くきまち役場やくば久喜くき市立しりつ図書館としょかんぞう
  7. ^ 久喜くきまちぜん』、1966ねん人文じんぶんしゃ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんぞう
  8. ^ 生息せいそく調査ちょうさ地区ちく周辺しゅうへん - Goo地図ちず ホームページ
  9. ^ 久喜くき調査ちょうさ報告ほうこくしょだい14しゅう 久喜くきどう植物しょくぶつ(Ⅱ)[190ページ~193ページ]』 久喜くきへんさんしつ 編集へんしゅう 久喜くき 発行はっこう、1989ねん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

久喜くきえき東口ひがしぐち周辺しゅうへん