奈良盆地ならぼんち

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
大和やまと平野へいやから転送てんそう
奈良盆地ならぼんち地形ちけい
龍王りゅうおう山城やましろ北城ほくじょう本丸ほんまるから奈良盆地ならぼんち

奈良盆地ならぼんち(ならぼんち)は、日本にっぽん奈良ならけん北西ほくせい位置いちする標高ひょうこう100メートル以下いか断層だんそう盆地ぼんちす。大和やまと盆地ぼんち(やまとぼんち)、大和やまと平野へいや(やまとへいや)ともばれる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

東西とうざい10 - 15キロメートル南北なんぼく25 - 30キロメートル、面積めんせきやく300平方へいほうキロメートル盆地ぼんちで、菱形ひしがたをなしている。盆地ぼんち周囲しゅういは、ひがし笠置山地かさぎさんち大和やまと高原こうげん)、西にし生駒山地いこまさんち金剛山地こんごうさんちみなみ竜門山りゅうもんざんといった山地さんちとなっている一方いっぽうきた標高ひょうこう100メートル前後ぜんこう平城山ならやま丘陵きゅうりょうとなっている。

排水はいすいこう生駒山地いこまさんち金剛山地こんごうさんちあいだのみとなるため、奈良盆地ならぼんちながれる河川かせんはいずれも大和やまとがわ水系すいけい河川かせんとなる。きたからみなみ佐保川さほがわ富雄川とみおがわ竜田川たつたがわなどが、みなみからきた寺川てらがわ飛鳥川あすかがわ曽我川そががわ高田川たかだがわ葛下かつしもがわなどがながれ、いずれも最終さいしゅうてき大和やまとがわ合流ごうりゅうし、西にしながして大阪おおさかわんそそいでいる。

盆地ぼんち北西ほくせいから西にしにかけて西ノ京にしのきょう丘陵きゅうりょう矢田やた丘陵きゅうりょう馬見うまみ丘陵きゅうりょうといった丘陵きゅうりょう位置いちするが、このうち大和川やまとがわ以南いなん位置いちする馬見うまみ丘陵きゅうりょう標高ひょうこう70メートル前後ぜんこうひくく、平城山ならやま丘陵きゅうりょうとともに奈良盆地ならぼんち一部いちぶとされる。これらの丘陵きゅうりょうでは大阪おおさか京都きょうと奈良なら中心ちゅうしんなどのベッドタウンとしてニュータウン開発かいはつさかんにおこなわれた。そのため、けん面積めんせきやく12パーセントにすぎない奈良盆地ならぼんち県民けんみんやく86パーセントが居住きょじゅうしている。奈良なら県内けんないの12のうち9(の中心ちゅうしん)が奈良盆地ならぼんち位置いちしており、盆地ぼんちがいとなるのは五條ごじょう生駒いこま宇陀うだの3だけである。

平城山ならやま丘陵きゅうりょう西ノ京にしのきょう丘陵きゅうりょう矢田やた丘陵きゅうりょうかく一部いちぶ関西文化学術研究都市かんさいぶんかがくじゅつけんきゅうとし(けいはんな学研がっけん都市とし)の奈良なら県域けんいきとして開発かいはつされている。なお、平城山ならやま丘陵きゅうりょう以北いほくながれる河川かせん天野川あまのがわ木津川きづがわなどにそそぐ、淀川よどがわ水系すいけい河川かせんとなる。

典型てんけいてき盆地ぼんち特有とくゆう内陸ないりくせい気候きこうであり、なつふゆ気温きおんはげしい。

歴史れきし[編集へんしゅう]

おおくの歴代れきだい天皇てんのう皇居こうきょき、南部なんぶでは藤原ふじわらきょう北部ほくぶでは平城京へいじょうきょうといったじょうぼうせい都城みやこのじょうきずかれ、奈良なら時代じだいまでのほとんどの期間きかんにおいて日本にっぽん政治せいじ文化ぶんか中心ちゅうしんだった場所ばしょである。5世紀せいき中盤ちゅうばんには盆地ぼんち最北端さいほくたんに、天皇てんのう一族いちぞくりょうである佐紀さきたてれつ古墳こふんぐんがつくられた。大和やまとこく(=奈良なら県域けんいき)では、奈良盆地ならぼんちたる場所ばしょくにちゅう(くんなか)、山間さんかん山中さんちゅう(さんちゅう)とも[1]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

  1. ^ しょう項目こうもく事典じてん,世界せかいだい百科ひゃっか事典じてんない言及げんきゅう, 精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん,日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい,日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ),ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん. “くにちゅう(くになか)とは? 意味いみ使つかかた”. コトバンク. 2024ねん5がつ6にち閲覧えつらん