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百太郎ももたろうみぞ

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百太郎ももたろうせききゅうといもん

百太郎ももたろうみぞ(ひゃくたろうみぞ)または百太郎ももたろうせき(ひゃくたろうせき)は、熊本くまもとけん球磨くまぐん多良木たらきまちあさぎりまちにしきまちにある用水路ようすいろ

全長ぜんちょう18kmにおよび、一説いっせつには宝永ほうえい7ねん[1]完成かんせいしたとされる。

概略がいりゃく歴史れきし

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「ひゃくたろうばし」から下流かりゅう方向ほうこう左側ひだりがわきゅう百太郎ももたろうせきどう公園こうえん水戸みと神社じんじゃ多良木たらきまち

百太郎ももたろうみぞ灌漑かんがいよう用水路ようすいろである。熊本くまもとけん球磨くまぐん多良木たらきまち百太郎ももたろう球磨川くまがわから取水しゅすいして、南南西なんなんせいかってすすみ、多良木たらきまち久米くめ野添のぞえあたりから球磨川くまがわとほぼ並行へいこう南西なんせいながれており、あさぎりまちとおって同町どうちょう上北かみきたやなぎ別府べっぷからいちみなみかい、免田川めんだがわ横切よこぎって、水無川みずなしがわでU字形じけいをなしすがふたた南西なんせいきをり、にしきまちいたり、同町どうちょう一武いちぶ下原しもはら原田川はらたがわ合流ごうりゅうする。さらに錦町西にしきまちにしへかけても遺構いこうがあるが、原田川はらたがわよりさきみずながれておらず使つかわれてない。

最初さいしょいち掘削くっさく工事こうじは16世紀せいきまつごろといわれるが、あま記録きろくのこっておらず、詳細しょうさい不明ふめいである。工事こうじのべたから8ねん(1680ねん)に、さん元禄げんろく9ねんから10ねん(1696ねん - 1697ねん)、よん宝永ほうえい元年がんねんから2ねん(1704ねん - 1705ねん)。宝永ほうえいねん(1710ねん)8がつ20日はつか完成かんせい完成かんせい原田川はらたがわ以西いせい区間くかん年代ねんだいしょうである。1世紀せいき以上いじょうあいだわた掘削くっさく延長えんちょう工事こうじで、そう延長えんちょう19キロ[2]灌漑かんがい面積めんせきは1400ヘクタールの用水路ようすいろとなった。

幸野ゆきのみぞとともにうえ球磨くま地方ちほう扇状地せんじょうち水田すいでんいちじるしくすすめたが、こちらははん援助えんじょも、特別とくべつ指導しどうしゃもおらず、農民のうみんだけでりぬかれた用水路ようすいろであるとわれ、名称めいしょう百太郎ももたろう人柱ひとばしらったという伝説でんせつ由来ゆらいする。その完成かんせい幸野ゆきのみぞよりもややであるとも、工事こうじ区間くかん事実じじつじょう利用りようされていないので、さきであるともされる。

1957ねん多目的たもくてきぼうダム建設けんせつ工事こうじはじまると、これと関連かんれんづけた、だい規模きぼ県営けんえい球磨川くまがわ南部なんぶ土地とち改良かいりょう事業じぎょう翌年よくねん着工ちゃっこうされ、1968ねん完工かんこう。この事業じぎょう一環いっかんとして、百太郎ももたろうみぞ幸野ゆきのみぞ本格ほんかくてき改修かいしゅうされ、漏水ろうすいがひどい水路すいろからコンクリートりの近代きんだいてき水路すいろまれわった。百太郎ももたろうせききゅうといもん巨大きょだい石材せきざいつくられており、水戸みと神社じんじゃがわ保存ほぞんされているが、もともときゅうといもん現在げんざいより100メートルほど下流かりゅうもうけられており、取水しゅすいこう位置いちことなった。

名称めいしょう由来ゆらい

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百太郎ももたろうこれ

名称めいしょう由来ゆらいについては複数ふくすう伝承でんしょうがある。

  1. むかし、この地方ちほうながれるかわ氾濫はんらんで、田畑たはたながされる災害さいがいがたびたびこり村人むらびとこまっていた。あるとき、「すそほんせんがはいった着物きもの人物じんぶつ人柱ひとばしらてよ」というかみのおげがあった。その着物きもの人物じんぶつ百太郎ももたろうさんに白羽しらはった。轟音ごうおんとともに、はしはしらにくくりつけられた百太郎ももたろうこえが、いちばんちゅうむらひびわたったという。それからは、水害すいがいはぴたりとやんだ。
  2. 上記じょうきはなしとほぼおなじだが、殉死じゅんし方法ほうほうことなり、百太郎ももたろうみぞ建築けんちくすすめていたが、度々たびたびといもんながされるので、夢枕ゆめまくらった水神すいじんのおげによって百太郎ももたろうさんはいしはしらした人柱ひとばしらとしてめにされた。その場所ばしょせきもんきずいてからは安全あんぜんになった。
  3. 人物じんぶつぞうことなり、百太郎ももたろうさんは技術ぎじゅつしゃであったとし、はんいのちによってみぞせき建築けんちくたずさわっていたが、かれ意見いけんつくられたせきもん一夜いちや豪雨ごううながされたため、責任せきにんって自殺じさつした。またはみずか水神すいじんのおげをけたとしょうして人柱ひとばしら志願しがんした。せきもんわきにあるまつ巨木きょぼくは、百太郎ももたろうさんの墓標ぼひょうであるという。

これらが昔話むかしばなしとしてつたえられている百太郎ももたろうみぞ由来ゆらいである。いずれのはなしでも「百太郎ももたろう」という人物じんぶつ犠牲ぎせいになり、以後いご水害すいがいがなくなったりなん工事こうじ完成かんせいすることができたというはなしとなる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 水戸みと神社じんじゃ改築かいちくおり社屋しゃおくないよりてきたむねさつに、本社ほんしゃ創建そうけん宝永ほうえい7ねん8がつ27にちいてあったことを根拠こんきょとする。水戸みと神社じんじゃ完成かんせい百太郎ももたろうせき完成かんせいおなころかんがえて、宝永ほうえい7ねん推定すいていされている。
  2. ^ 熊本くまもとけんだい百科ひゃっか事典じてん[1982:697]

文献ぶんけん

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交通こうつうアクセス

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関連かんれん項目こうもく

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  • 幸野ゆきのみぞ 熊本くまもとけん球磨くまぐん湯前ゆのまえまち馬返うまがえしで球磨川くまがわから取水しゅすいし、あさぎりまちいた灌漑かんがいよう用水路ようすいろ

外部がいぶリンク

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