長坂ながさか用水ようすい

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長坂ながさか用水ようすい

別所べっしょないながれる長坂ながさか用水ようすい
水路すいろぜん
BUILDING uKBHFa
昭和しょうわ48ねん以降いこう取水しゅすいこう
uKBHFa uSTR
昭和しょうわ48ねんまでのきゅう取水しゅすいこう
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寛文ひろふみ取水しゅすいこう大渕おおふちワレがん 0km
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寛文ひろふみ取水しゅすいこう明治めいじ放棄ほうき
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古屋敷ふるやしき
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油粕あぶらかす
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水門すいもん
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隧道すいどう
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白岩しらいわだいのけ
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山川やまかわまち分水ぶんすいせき
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板橋いたばし水門すいもん
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釜谷かまや水門すいもん
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きゅう山川やまかわきょう
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隧道すいどう
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きむたき落水おちみず
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山川やまかわ分水ぶんすいそう 3.6km
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山川やまかわ落水おちみずせき/ひとだに
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STR utSTR exLSTR
県道けんどう沿暗渠あんきょ
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県道けんどう114ごう
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しょうじょうまい水門すいもん(蓮花れんげたき)
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蓮花れんげ宮下みやげおと
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犀川さいがわ浄水じょうすいじょう
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別所べっしょ竹林ちくりん
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法師ほうし隧道すいどう上口かみぐち
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歩道ほどう危険きけん立入禁止たちいりきんし
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法師ほうし水門すいもん(見学けんがく入口いりくち)
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法師ほうし隧道すいどうこう(見学けんがく出口でぐち)
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かね搗山(かねつきやま)深谷ふかや落水おちみず
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現在げんざい大桑おおががわ落水おちみずなし
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大桑おおくわ水門すいもん
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大桑おおくわ用水ようすい
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小寺こでらさか/水門すいもん
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御所谷ごしょだに隧道すいどう
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西にしやま隧道すいどう
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自由じゆうおか暗渠あんきょ
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かぶざかおとし(法島ほうしまへ)
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山側やまがわ環状かんじょう 9.1km
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長坂ながさか山科やましな
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じゅうかんかわ
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すずめ谷川たにがわ
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沼田川ぬまたがわ(寺町てらまち)
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鶴来つるぎ街道かいどう(巡見じゅんけんどう)
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いずみ用水ようすい(さかいがわ伏見ふしみがわへ)
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伏見ふしみがわ
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exKBHFe
犀川さいがわ

長坂ながさか用水ようすい(ながさかようすい)は、加賀かがはん金沢かなざわ野田山のだやま山麓さんろく丘陵きゅうりょう農地のうち灌漑かんがい目的もくてきに、犀川さいがわ支流しりゅうである内川うちかわ中流ちゅうりゅう左岸さがん金沢かなざわ小原おはらまち)を取水しゅすいこうとして、1671ねん寛文ひろふみ11ねん)に完成かんせいさせた水路すいろ疏水そすい)である。

長坂ながさか用水ようすい土地とち改良かいりょう管理かんりしている。

野田山のだやま西北せいほく長坂ながさか地区ちくながれることから命名めいめいされたが、別名べつめいすずめだに(すずめだに)かわともばれる[1]

概要がいよう[編集へんしゅう]

長坂ながさか用水ようすいは、取水しゅすいこう大淵おおふちおうれんがん《ワレイワ》)から野田山のだやま山麓さんろくまでを、等高線とうこうせん沿い、数々かずかずたにくように岩盤がんばん穿うがってつくったそう延長えんちょう84ちょう(9.1km、寛文ひろふみ完成かんせい)の水路すいろ疏水そすい)で、たん年度ねんど完成かんせいしたとめる史料しりょうがあるが[2][3]1667ねん寛文ひろふみ7ねん)に着工ちゃっこう1671ねん寛文ひろふみ11ねん)のはる完成かんせいしたとするのが一般いっぱんてきである[4]はんいのちけて、石川いしかわぐん押野おしのむら現在げんざい野々市ののいち押野おしの)のじゅうむらやく後藤ごとうふとし兵衛ひょうえ指揮しきして完成かんせいさせたとされる。

開発かいはつ技術ぎじゅつ辰巳たつみ用水ようすい1632ねんつうすい)や寺津てらづ用水ようすい1665ねんつうすい)を参考さんこうにしているとされ、平均へいきん勾配こうばい(1/300~1/400)などは辰巳たつみ用水ようすい同様どうようである[5]史跡しせきとして金沢かなざわ文化財ぶんかざい指定していされており[6]金沢かなざわ疏水そすいぐんひとつとして農水省のうすいしょう疏水そすいひゃくせんにもかぞえられる用水ようすいである。

野田のだまち分水ぶんすいてんからは、沼田川ぬまたがわすずめ谷川たにがわじゅうかんかわなどの農業のうぎょう用水ようすいかれて農用地のうようちながれ、寺町てらまちだい泉野いずみのだい長坂台ながさかだい山科やましなまちまち地黄じおうせんじまちいずみ有松ありまつ寺地てらじなどの農地のうちうるおしたのち最後さいごいずみ用水ようすい伏見ふしみがわ合流ごうりゅうして犀川さいがわそそぐ。取水しゅすいこうからこれらの農用地のうようちながれる用水ようすいふく全体ぜんたい長坂ながさか用水ようすいしょうする場合ばあいもある[7]

明治めいじ野田山のだやま山麓さんろく一帯いったいきゅう大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん野村のむら (石川いしかわけん)練兵れんぺいじょう[8]供用きょうようされたことや、昭和しょうわ以降いこう急激きゅうげき都市としによって農用地のうようち面積めんせきおおきく減少げんしょうしたため、灌漑かんがい用水ようすいとしての役割やくわり減少げんしょうしているが、竹林ちくりんうようにながれる用水ようすい景観けいかんには独特どくとく風情ふぜいがあり、市民しみんからしたしまれている用水ようすいひとつである[9]取水しゅすいこうから山川やまかわ(やまごう)分水ぶんすいそうまでのながさ3.6kmの部分ぶぶんは、1973ねん昭和しょうわ48ねん)のだい4金沢かなざわ上水道じょうすいどう計画けいかく工事こうじ直線ちょくせん地下ちか隧道すいどう短縮たんしゅくされた[10]。そのため、どう区間くかん寛文ひろふみ水路すいろはいになっており、過去かこ踏査とうさこころみられたが[11][5]草木くさき繁茂はんも岩盤がんばん崩落ほうらくはげしく、ちかづくのは危険きけんである。取水しゅすい一部いちぶは、おなじく1973ねん昭和しょうわ48ねん)の工事こうじによって山川やまかわ分水ぶんすいそう上水道じょうすいどうよう分水ぶんすいされ、地下水ちかすい金沢かなざわ企業きぎょうきょく犀川さいがわ浄水じょうすいじょう送水そうすいされている。

現在げんざいは、分水ぶんすいそうから野田のだまちまでの5.5kmのみが寛文ひろふみ様相ようそうのこしている。法師山ほうしやま地下ちかられた法師ほうし隧道すいどうそう延長えんちょう358m:上流じょうりゅう228m、下流かりゅう130m[5])は内部ないぶたかさ(1.7~1.9m)があるので[5]大人おとなでもったまま歩行ほこう可能かのうである。長靴ながぐつとヘルメットを装備そうびし、懐中かいちゅう電灯でんとうかりを手掛てがかりに掘削くっさくのノミあとやタンコロとばれる灯明とうみょう設置せっちあなたしかめ、往時おうじ先人せんじんたち労苦ろうくしのびながらまわ見学けんがくかい(コース:法師ほうし水門すいもん法師ほうし隧道すいどうこうあいだの130m、長坂ながさか用水ようすい土地とち改良かいりょう理事りじちょう説明せつめいやく)は、小学生しょうがくせいにも人気にんきがあり毎年まいとし参加さんかしゃえない。

用水ようすい開発かいはつ背景はいけい[編集へんしゅう]

ながかった戦乱せんらん大坂おおさかじん最後さいごにして安定あんていはじめると、かくはん経済けいざい基礎きそであるべいづくりの改革かいかくすすめてさらなる社会しゃかい安定あんていにつとめた。加賀かがはんでは、3だい藩主はんしゅ前田まえだ利常としつねによる「改作かいさくほう」の施行しこうによって農政のうせい改革かいかくはかったが、農民のうみんあいだにはほん百姓ひゃくしょうしも百姓ひゃくしょうあたまり(次男じなん三男さんなん)などの身分みぶん中世ちゅうせい農業のうぎょうのまま依然いぜんとしてのこっており、おおくの農民のうみん請負うけおい耕作こうさくや、武家ぶけ商家しょうかへのかせ奉公ほうこうくるしむことにわりなかった。当時とうじ農地のうち分割ぶんかつ相続そうぞく切売きりうりはまだ禁止きんしされており、開墾かいこんによる農地のうち拡大かくだいこそがしも百姓ひゃくしょうあたまりの唯一ゆいいつ解放かいほうさくであり、新田にった開墾かいこん新村しんむら開村かいそん随所ずいしょ実施じっしされた。ぜい徴収ちょうしゅうから農法のうほう農具のうぐ改良かいりょう開墾かいこん開村かいそんなど、すすむのうのすべてを担当たんとうしたのが、江戸えど初期しょき確立かくりつされた十村とむら制度せいどじゅうむらやくである。当時とうじ野田山のだやま山麓さんろく金沢かなざわ野田のだから、十一屋じゅういちや寺町てらまちまち弥生やよいいずみ有松ありまつ寺地てらち山科やましないたせんかこまれる広範こうはん地域ちいき)は、タケササマツしげるままの原野げんやであった[12]どう地域ちいきは、江戸えど初期しょきから押野おしのぐみ(37むらからなるじゅうむらやく管理かんり単位たんいのち米丸よねまるぐみ52むら組替くみかえ)にぞくしており、じゅうむらとしてどうくみ管理かんりしていた後藤ごとうふとし兵衛ひょうえは、私財しざいとうじて1655ねんあかりれき元年がんねん)に泉野いずみのむらを、1658ねん万治まんじ元年がんねん)にいずみ野新のうしんむら泉野出いずみのでむら開村かいそんした。しかし、どう地区ちく水利すいりいため稲作いなさく不可能ふかのうであり、灌漑かんがい用水ようすい開発かいはつ必要ひつようであった。

前田まえだ利常としつね押野おしの後藤ごとう[編集へんしゅう]

加賀かが守護しゅごしょくであった冨樫とがし最後さいご当主とうしゅ冨樫とがしやすししゅん一家いっかは、1570ねん一揆いっきによって野々市ののいちかんわれ、福井ふくいけん金津かなづきゅう坂井さかいぐん金津かなづまち)の溝江みぞえかんせた。しかし、溝江みぞえかんも1574ねんに2まんあまり一揆いっきおそわれ、冨樫とがしやすししゅん一家いっか溝江みぞえとも自害じがいしてててしまった。冨樫とがしやすししゅん三男さんなんわたるみぎ衛門えもん家俊いえとし9さいが、家臣かしんとともに溝江みぞえかん脱出だっしゅつし、冨樫とがしさとである石川いしかわぐん押野おしのむらび、冨樫とがしから後藤ごとうえたのが押野おしの後藤ごとうおこりである。押野おしの後藤ごとう初代しょだいわたるみぎ衛門えもん富樫とがし家俊いえとし佐久間さくまもりまさし従軍じゅうぐんし、一向いっこうしゅう最後さいごとりでとなった鳥越とりこししろ石川いしかわけん白山はくさんめなどで戦功せんこうげて300せきさずかった。佐久間さくまもりまさし一軍いちぐんは、北陸ほくりく一揆いっきぜいめでは前田まえだ利家としいえともたたかっており[13]身分みぶんちがうものの戦国せんごく後藤ごとう武士ぶしとして前田まえだおながわいていた。後藤ごとう2だいふじみぎ衛門えもんは、だい坂城さかき田丸たまるめをおこなった3だい藩主はんしゅ前田まえだ利常としつねの2大坂おおさかじん1614ねん1615ねん)に従軍じゅうぐんし、その功績こうせきたいしてじゅうむら肝煎きもいにんぜられた。前田まえだ利常としつね隠居いんきょさき小松こまつしろへ、有能ゆうのうじゅうむらなん招集しょうしゅうして農政のうせい改革かいかく諮問しもんしているが[14]、そこに2だい後藤ごとうふじみぎ衛門えもんと、のちじゅうむらになった3だい後藤ごとうふとし兵衛ひょうえ招集しょうしゅうされている[15]

他方たほう押野おしの後藤ごとうには、初代しょだい後藤ごとうわたるみぎ衛門えもんとその家臣かしんいちぎょうが、福井ふくいけん一向いっこう一揆いっきからのがれて押野おしのむらび、農民のうみんである村人むらびとにかくまわれたという過去かこがあり、押野おしのむらんだ当初とうしょ初代しょだい後藤ごとうわたるみぎ衛門えもんも2だい後藤ごとうふじみぎ衛門えもん農業のうぎょう従事じゅうじしている[16]じゅうむら身分みぶん士分しぶんでなく農民のうみんであるが、百姓ひゃくしょうきのじゅうむらちがって前田まえだたいする戦時せんじ功績こうせきがあり、かつ農業のうぎょう経験けいけんがあることから、農民のうみんおもいをじゅうむらとして押野おしの後藤ごとう代々だいだいじゅうむら歴代れきだい藩主はんしゅから格別かくべつ信任しんにん処遇しょぐうけたものとかんがえられる。3だい後藤ごとうふとし兵衛ひょうえいたっては、参勤交代さんきんこうたいどき前田まえだ利常としつねいちぎょうに、街道かいどうすじ農業のうぎょう事情じじょう説明せつめいやくねて金沢かなざわ越後えちごあいだ往路おうろ復路ふくろ随行ずいこうしているほどである[16]

長坂ながさか用水ようすい開発かいはつは、野田山のだやま山麓さんろく農業のうぎょう管理かんり責任せきにんしゃとして、自身じしん開拓かいたくした泉野いずみのむらをはじめとするむら々の水利すいりわるさをなげいた後藤ごとうふとし兵衛ひょうえが、はんねがたことが契機けいきとなって着手ちゃくしゅしたものである。前田まえだ利常としつね1658ねん万治まんじ元年がんねん10がつぼつ享年きょうねん64さい》)は長坂ながさか用水ようすいることなくぼっし、5だい前田まえだ綱紀つなのり江戸えどから金沢かなざわ下向げこうした(1661ねん《18さい》)用水ようすい完成かんせいしたことから、長坂ながさか用水ようすい開発かいはつは5だい前田まえだ綱紀つなのり功績こうせきだとする文献ぶんけんがある[11]。しかし、綱紀こうき幼少ようしょう利常としつね後見こうけんしていたことや、辰巳たつみ用水ようすい開発かいはつし、直前ちょくぜんまでじゅうむらいたると「改作かいさくほう」を画策かくさくするなど、40年余ねんよにわたって揺籃ようらん加賀かがはん農政のうせいおもづかった3だい藩主はんしゅ前田まえだ利常としつね業績ぎょうせきが、長坂ながさか用水ようすい開発かいはつたいしてもおおきく影響えいきょうしている。後藤ごとうふとし兵衛ひょうえは、用水ようすい完成かんせい前年ぜんねんの1670ねん寛文ひろふみ10ねん)に野田山のだやま鷹狩たかがりにた5だい藩主はんしゅ綱紀こうきから、工事こうじ進捗しんちょくたいする恩賞おんしょうとして陣笠じんがさかわせい陣羽織じんばおり拝領はいりょう[16]翌年よくねん完成かんせいには、おなじく綱紀こうきから800せき扶持ふちぞうけており[16]ふとし兵衛ひょうえ功績こうせきがいかにおおきかったかがうかがえる[16]。なお、押野おしの後藤ごとうは、泉野いずみのむらいずみ野新のうしんむら泉野出いずみのでむら長坂新ながさかしんむらほかに、5だい後藤ごとう安兵衛やすべえ時代じだい中村なかむらげん 金沢かなざわ中村なかむらまち)から高畠たかはたむら(〃金沢かなざわ高畠たかはたまち)にかけての犀川さいがわ左岸さがん沿いを独力どくりょく開発かいはつしている[17]

寛文ひろふみ土木どぼく工学こうがく[編集へんしゅう]

江戸えどはいると、用水ようすい開発かいはつかくはん実施じっしされるようになる。加賀かがはんでは、藩主はんしゅ利常としつねだい板屋いたやへいよんろう指揮しきによって寛永かんえい9ねん1632ねん)に完成かんせいした辰巳たつみ用水ようすい有名ゆうめいである。この時代じだい普及ふきゅうしていた土木どぼく工事こうじよう測量そくりょうが、まちばん(ちょうけんばん)とばれる水平すいへい度合どあ測定そくていであり、辰巳たつみ用水ようすい開発かいはつ使用しようされたとする報告ほうこくがある[18]はなれて点在てんざいする複数ふくすう地点ちてん同一どういつたかさを、水平すいへい回転かいてん盤上ばんじょう固定こていした照準しょうじゅんあなとおして肉眼にくがん確認かくにんするものである。現代げんだいトランシットそなえている機能きのうひとつであるが、まちばん測定そくていぶつ周囲しゅういとの明暗めいあん必要ひつようなため夜間やかんにしか使用しようできない機器ききである。まちばんよりも原始げんしてき水盛みずもりだい水準すいじゅん)をもちいたのではないかとする文献ぶんけんもある[19]。しかし、加賀かがはんまちばん水盛みずもりばん用水ようすい開発かいはつもちいたことを明記めいきした史料しりょうつかっていない。内川うちかわ左岸さがん提灯ちょうちんならべ、それらを右岸うがんからながめて長坂ながさか用水ようすいひらきみぞ隧道すいどう連結れんけつてんさだめたことを長坂ながさか土地とち改良かいりょう会員かいいん伝承でんしょうしていることから、長坂ながさか用水ようすい開発かいはつにもなんらかの水準すいじゅん検出けんしゅつ使用しようされた可能かのうせいたかい。連結れんけつてんさだまると、隧道すいどう掘削くっさく場合ばあいはまずかく連結れんけつてん横穴よこあなり、かく横穴よこあなから上流じょうりゅう下流かりゅうかって隧道すいどう本線ほんせんてん同時どうじすすめることが可能かのうになる。これにより、工期こうき短縮たんしゅくされると同時どうじに、ったいわくず(ずり)の排出はいしゅつ用水ようすい点検てんけんなどが容易よういになるなどのメリットがある。

長坂ながさか用水ようすい開発かいはつ利常としつね板屋いたやへいよんろう死去しきょしたのちおこなわれたが、けい17箇所かしょ存在そんざいする隧道すいどうのなかでも、とく長坂ながさか用水ようすい上流じょうりゅう隧道すいどうられる多数たすう横穴よこあな辰巳たつみ用水ようすい同様どうようであり、用水ようすい開発かいはつ技術ぎじゅつ辰巳たつみ用水ようすい以後いご着実ちゃくじつ工事こうじ関係かんけいしゃ伝授でんじゅされていたことがわかる。

長坂ながさか用水ようすい開発かいはつの17ねんまえ、それまで禁止きんしされていた紅毛こうもうりゅう測量そくりょうじゅつばれる測量そくりょうほう使用しよう幕府ばくふによって解禁かいきんされた。これはオランダ経由けいゆ日本にっぽんつたわり、磁石じしゃく方位ほうい計測けいそく針術しんじゅつ)するもので、測定そくてい精度せいどたか地図ちずなどの縮図しゅくず作成さくせい可能かのうになる技術ぎじゅつである。金沢かなざわ用水ようすいのなかでも比較的ひかくてきあたらしい長坂ながさか用水ようすいに、当時とうじ先端せんたん技術ぎじゅつべる紅毛こうもうりゅう測量そくりょうじゅつ採用さいようされていた可能かのうせいがあり、これが確認かくにんされれば辰巳たつみ用水ようすいにない価値かちがあるとする文献ぶんけん[5]があり注目ちゅうもくされる。

いくつかの文献ぶんけんは、隧道すいどう掘削くっさくもちいられたはずのツルハシ、タガネ、げんのうなどの工具こうぐを、隧道すいどうのノミあと当時とうじ史料しりょうから推測すいそくしているが、現代げんだいのゴーグルに相当そうとうするものが時代じだい保護ほご方法ほうほうなどについてれた史料しりょう文献ぶんけん見当みあたらず、工事こうじ技術ぎじゅつについては依然いぜんとしてなぞおおい。唯一ゆいいついわくず(ずり)の排出はいしゅつもっこ使用しようしたことが長坂ながさか用水ようすい関連かんれん史料しりょう[20]明記めいきされていることから、法師ほうし隧道すいどう小学生しょうがくせい見学けんがくかいではもっこぼう前後ぜんごにんかつ体験たいけんかい実施じっししており、とく男子だんし児童じどう人気にんきがある。

べ36まんにん投入とうにゅう[編集へんしゅう]

長坂ながさか用水ようすい開発かいはつ労務ろうむとしてぎん300ひゃくぬきぎん300×1000ぶん)が支払しはらわれた史料しりょう[2]用水ようすい工事こうじの5ねんべ3519にん動員どういんして実施じっしされた修繕しゅうぜん工事こうじそう人件じんけんが2903.9ぶんであったとする史料しりょうがある[21]。このふたつの史料しりょうから、如何いか長坂ながさか用水ようすい開削かいさく工事こうじだい規模きぼだったかがかると同時どうじに、ようした工期こうき計算けいさんできるとする文献ぶんけんがある[11]当時とうじいちにちあたりの労務ろうむを2903.9ぶん÷3519にん=0.825ぶん(0.000825かん)、動員どういんそう人数にんずうを、300かん÷0.000825かん≒363,636にんとするもので、大変たいへん興味深きょうみぶかい。この文献ぶんけん[11]長坂ながさか用水ようすい開削かいさく工期こうきが1ねんでなく、すくなくとも3ねんようしたことを史料しりょうもとづいて証明しょうめいしようとしているのだが、文献ぶんけんちゅうでは[11]工期こうき人数にんずう/仮定かていして、動員どういん人夫にんぷすう36まんにん逆算ぎゃくさん確認かくにんすることまではこころみていない。しかし、工事こうじおうじられる徒歩とほ通勤つうきん可能かのう人夫にんぷ石川いしかわぐん浅野川あさのがわ以南いなん手取川てどりがわ以北いほくないでも近隣きんりんしょむら農夫のうふかぎられること(寛文ひろふみ5ねん石川いしかわぐん家数やかずは2500[11])、当時とうじいね晩生ばんせいなこともあり、雪解ゆきどけから晩秋ばんしゅうまでを、あぜり、ほぼこし、代掻しろかき、たねまき、田植たうえ、草取くさとり、り、脱穀だっこくうすスリ、たわらつめ出荷しゅっかとうかく作業さぎょうわれ、冬季とうきなわないやべいたわらみに従事じゅうじするなど、農閑期のうかんきえる期間きかん現代げんだい農業のうぎょうくらべると皆無かいむひとしいため、従事じゅうじ可能かのう月数げっすうおおくないことを考慮こうりょすれば、動員どういんすう36まんにんから、工事こうじ期間きかん足掛あしかけ4ねん寛文ひろふみ11ねんはる完成かんせいつうすいしているのでじつ工期こうきにはすくなくとも3ねん)になることを文章ぶんしょう暗示あんじしている。

長坂新ながさかしんむら開村かいそん[編集へんしゅう]

後藤ごとうふとし兵衛ひょうえが、長坂ながさか用水ようすい開発かいはつ同時どうじ長坂新ながさかしんむら開村かいそん采配さいはいしたことは、はん記録きろくとうられていたが、昭和しょうわ30年代ねんだいはじめて実施じっしされた後藤ごとう調査ちょうさで、長坂新ながさかしんむら開村かいそん農家のうか104配置はいち絵図えず住人じゅうにんめい出身しゅっしん記載きさいされた史料しりょう発見はっけんされた[22]かれらは長坂ながさか用水ようすい開発かいはつ従事じゅうじしたのち長坂新ながさかしんむら居住きょじゅうしたとかんがえられるが、絵図えずから、入村にゅうそんしゃ石川いしかわぐん能美のみぐん鹿島かしまぐんのほか、砺波となみぐん新川しんかわぐん射水いみずぐん(いずれも現在げんざい富山とやまけんしょぐん)など加賀かがはん全域ぜんいき出身しゅっしんしゃであったことがかる。しかも、入居にゅうきょ104ほとんどは家族かぞくちであり、大人おとな子供こども(14さい以下いか)の合計ごうけいは340にんである[23]。また、後年こうねん入村にゅうそんしゃなかから肝煎きもいりに昇進しょうしんするものもあり[24][25]、それまでの新村しんむら開村かいそんことなり、用水ようすい開削かいさく重労働じゅうろうどういとわない強健きょうけん有能ゆうのうもの募集ぼしゅう[26]家族かぞくぐるみで入村にゅうそんさせたものとかんがえられ加賀かがはん意気込いきごみがかんじられる。1671ねん寛文ひろふみ11ねん)の長坂新ながさかしんむらいしこうは480せきだが[2]べい収穫しゅうかくされたことから同年どうねんはるには長坂ながさか用水ようすい完成かんせいしてつうすいしていたことがかる。用水ようすい完成かんせいから6ねん1677ねんのべたから5ねん)には石高こくだか945せきとなり、給付きゅうふまい不要ふようとなり、年貢ねんぐおさめるまでになっている。

現在げんざい[編集へんしゅう]

長坂ながさか用水ようすいはるは、前年ぜんねん崩落ほうらく堆積たいせきした土砂どしゃを9.1kmの全長ぜんちょうわたって除去じょきょし、たおれたたけ伐採ばっさい除去じょきょするこうざらいはじまる。 夏場なつばには雑草ざっそうりや、度々たびたび発生はっせいするつつみ決壊けっかい隧道すいどう落盤らくばん補修ほしゅうなどが必要ひつようとなるなど、年間ねんかんとおして維持いじ管理かんりには膨大ぼうだい労力ろうりょく必要ひつようであった。いまは、つつみ崩落ほうらくはげしい箇所かしょコルゲートかんはこがたプレキャストコンクリート(ボックスカルバート)で暗渠あんきょするなど、最新さいしん工法こうほう資材しざい使用しようして対応たいおうしている。工事こうじには陸上りくじょう自衛隊じえいたい金沢駐屯地かなざわちゅうとんち協力きょうりょくしまず参加さんかするようになっていることも心強こころづよい。300ねん以上いじょうわたって、まいはる取水しゅすいこうべいたわら80ひょう土嚢どのうんで取水しゅすいせきをつくる作業さぎょうかえしてきたが[11]昭和しょうわ48ねん4がつ取水しゅすいせきコンクリート用水ようすい上流じょうりゅう直線ちょくせん隧道すいどうとによって、維持いじ管理かんり作業さぎょう大幅おおはば軽減けいげんした。しかし、毎年まいとし4がつ実施じっしされるこうざらい作業さぎょうだけは、地形ちけいてき制限せいげんがあるため、現代げんだい土木どぼく工事こうじでは当然とうぜんのように使用しようしている各種かくしゅ建設けんせつ機械きかいめず、いまむかしのまま手作業てさぎょうかえさざるをない。

金沢かなざわ市内しないながれる疏水そすいぐんかく用水ようすいは、本来ほんらい灌漑かんがい用水ようすい防火ぼうか用水ようすい生活せいかつ用水ようすいなどであるが、みずまちでもある城下町じょうかまち金沢かなざわ構成こうせいする観光かんこう資源しげんとしての役割やくわりおおきく、涼感りょうかんさそ長坂ながさか用水ようすい景観けいかん保全ほぜん保存ほぞんしようとする気運きうんたかまり、市街しがい埋設まいせつされた用水ようすい復活ふっかつによって往時おうじしのぼうとする市民しみんうごきもある。[27]

いずみ用水ようすい
開削かいさく宝永ほうえい2ねん(1705ねん)、以前いぜん犀川さいがわ左岸さがん大橋おおはし下流かりゅうせんにちまちから取水しゅすいきた石坂いしざかまちまち)で増泉ますいずみ方向ほうこう三馬みんま方向ほうこう分水ぶんすいされていた。現在げんざいしもきくきょう付近ふきん取水しゅすいしている[28]
長坂ながさか地区ちく改良かいりょう
長坂ながさか用水ようすい管理かんり主体しゅたい長坂ながさかまち泉ヶ丘いずみがおかまち泉野いずみのまち泉野出いずみのでまち野田のだまちの5農業のうぎょう生産せいさん組合くみあい構成こうせい以前いぜん地黄じおうせんじまちふくまれていた)。

位置いち情報じょうほう[編集へんしゅう]

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用水ようすい測量そくりょう [編集へんしゅう]

明治めいじ36ねん作成さくせいされた2じょうほどのおおきさの用水ようすい測量そくりょう[29]長坂ながさか用水ようすい土地とち改良かいりょう所蔵しょぞうしている。このえがかれた山川やまかわ分水ぶんすいそうから野田のだまちまでの部分ぶぶんを、土地とち改良かいりょう組合くみあいいんがB4サイズの方眼ほうがんトレーシング4まい鉛筆えんぴつ複写ふくしゃしたとおもわれる資料しりょう存在そんざいする[30]。これらの複写ふくしゃ野田のだがわから上流じょうりゅうかってNo.1,No.2,No.3,No.4)は、現在げんざい地理ちりデータと明治めいじ測量そくりょうとを対比たいひしたもので、100ねん経過けいかでどのように用水ようすい変化へんかしたかがかり、興味深きょうみぶかい。

おも関連かんれん画像がぞう[編集へんしゅう]

取水しゅすい変遷へんせん[編集へんしゅう]

こうざらい[編集へんしゅう]

おも施設しせつなど[編集へんしゅう]


脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 竹内たけうちさん (1981ねん7がつ8にち). 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん17 石川いしかわけん. (かぶ)角川書店かどかわしょてん 
  2. ^ a b c 金沢かなざわ近世きんせい史料しりょうかんとく16.63-077、加州かしゅうぐんかた旧記きゅうき
  3. ^ 金沢かなざわ近世きんせい史料しりょうかんさんつぼ聞書ききがき
  4. ^ 金沢かなざわ近世きんせい史料しりょうかん加州かしゅうぐんかたおおやけ
  5. ^ a b c d e 長坂ながさか用水ようすい調査ちょうさ研究けんきゅう報告ほうこくしょ平成へいせい17~19年度ねんどへん)、平成へいせい20ねん3がつ31にち金沢大学かなざわだいがく大学院だいがくいん自然しぜん科学かがく研究けんきゅう
  6. ^ 金沢かなざわホームページ、最終さいしゅうアクセス2014ねん4がつ19にち
  7. ^ 寺町てらまち長坂ながさか用水ようすい試掘しくつ金沢かなざわしん年度ねんど寺院じいんぐんの「でんけん指定していけ」、北国きたぐに新聞しんぶんホームページ、最終さいしゅうアクセス2014ねん4がつ14にち
  8. ^ 陸上りくじょう自衛隊じえいたい金沢駐屯地かなざわちゅうとんち尚古しょうこかん野田のだ練兵れんぺいじょうぜん
  9. ^ 金沢かなざわ用水ようすい散歩さんぽ笹倉ささくら信行のぶゆきじゅうがつしゃ、1995ねん平成へいせい7ねん
  10. ^ 金沢かなざわ水道すいどうじゅうねん金沢かなざわ、1980ねん昭和しょうわ55ねん
  11. ^ a b c d e f g h 長坂ながさかまち年輪ねんりん長坂ながさかだいいち土地とち区画くかく整理せいり組合くみあい、 1977ねん昭和しょうわ52ねん
  12. ^ 金沢かなざわ近世きんせい史料しりょうかん微妙びみょういんこう利常としつね夜話やわしゅう山本やまもときよし兵衛ひょうえ亡父ぼうふかたるのふし
  13. ^ 賤ヶだけ鬼神きじん佐久間さくまもりまさしくすのき義昭よしあき毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2002ねん平成へいせい14ねん
  14. ^ 金沢かなざわ近世きんせい史料しりょうかん十村とむら旧記きゅうきとめあかりれき元年がんねん(1655ねん)2がつ
  15. ^ 石川いしかわけん歴史れきし博物館はくぶつかん後藤ごとう文書ぶんしょ由緒ゆいしょ一類いちるいちょう明治めいじ8ねん
  16. ^ a b c d e 石川いしかわけん歴史れきし博物館はくぶつかん後藤ごとう文書ぶんしょNo.1481、由緒ゆいしょしょじょう寛永かんえい3ねん
  17. ^ 石川いしかわけん歴史れきし博物館はくぶつかん後藤ごとう文書ぶんしょとおる8ねん安兵衛やすべえ新開しんかい証文しょうもん
  18. ^ 加賀かが辰巳たつみ用水ようすいかかわる技術ぎじゅつとその史的してき考察こうさつ中川なかがわ武夫たけおだい9かい日本にっぽん土木どぼく研究けんきゅう発表はっぴょうかいろん文集ぶんしゅう、1989ねん6がつ
  19. ^ 加賀かが辰巳たつみ用水ようすい辰巳たつみダム関係かんけい文化ぶんかとう調査ちょうさだん昭和しょうわ58ねん3がつ
  20. ^ 石川いしかわけん歴史れきし博物館はくぶつかん後藤ごとう文書ぶんしょNo.370、用水ようすいつくろえ普請ふしん入用いりようことのべたから2ねん
  21. ^ 石川いしかわけん歴史れきし博物館はくぶつかん後藤ごとう文書ぶんしょNo.370、用水ようすいつくろえ普請ふしん入用いりようことのべたから2ねん
  22. ^ 石川いしかわけん歴史れきし博物館はくぶつかん後藤ごとう文書ぶんしょNo.382、長坂新ながさかしんむら里子さとご居宅きょたく
  23. ^ 石川いしかわけん歴史れきし博物館はくぶつかん後藤ごとう文書ぶんしょNo.1211、ふとし兵衛ひょうえおきなまん覚書おぼえがき寛文ひろふみ12ねん
  24. ^ 石川いしかわけん歴史れきし博物館はくぶつかん後藤ごとう文書ぶんしょNo.375、長坂新ながさかしんむら肝煎きもいりきゅうまいづけ
  25. ^ 石川いしかわけん歴史れきし博物館はくぶつかん後藤ごとう文書ぶんしょNo.376、長坂新ながさかしんむら肝煎きもいりしょうたてこう願書がんしょづけ
  26. ^ 石川いしかわけん石川いしかわぐん(1927ねん)、1009p、国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん近代きんだいデジタルライブラリー
  27. ^ 藩政はんせい石積いしつ現存げんそん 金沢かなざわ長坂ながさか用水ようすい 図面ずめんどおり、測量そくりょう技術ぎじゅつたかしめす 調査ちょうさ」、北国きたぐに新聞しんぶんホームページ、 最終さいしゅうアクセス2014ねん4がつ9にち
  28. ^ 金沢かなざわ 資料しりょうへん17 建築けんちく建設けんせつp392
  29. ^ 石川いしかわぐん長坂ながさか用水ようすい実測じっそくぜん1903ねん明治めいじ36ねん)、長坂ながさか土地とち改良かいりょう所蔵しょぞう
  30. ^ 金沢かなざわ近世きんせい史料しりょうかんとく34.21-59-3、さかざか用水ようすい図面ずめん
  31. ^ 内川うちかわ郷土きょうど内川うちかわむらふみ発刊はっかん委員いいんかい、1971ねん昭和しょうわ46ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]