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江戸三座 - Wikipedia コンテンツにスキップ

江戸えどさん

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芝居しばいまちから転送てんそう
歌川うたがわ廣重ひろしげ東都とうと名所めいしょ  芝居しばいまち繁榮はんえい
芝居しばい見物けんぶつきゃくにぎわうさるわかまちとお左側ひだりがわ手前てまえから中村なかむら市村いちむら河原崎かわらざき。それぞれの芝居しばい小屋こや木戸口きどぐちうえにはがあがっている。天保てんぽうまつねん(1830–1843ねん)。

江戸えどさん(えど さんざ)は、江戸えど時代じだい中期ちゅうきから後期こうきにかけて江戸えどまち奉行ぶぎょうしょによって歌舞伎かぶき興行こうぎょうゆるされた芝居しばい小屋こや官許かんきょさん(かんきょ さんざ)、公許こうきょさん(こうきょ さんざ)、またたんさん(さんざ)ともいう。江戸えどには当初とうしょすうおおくの芝居しばい小屋こやがあったが、次第しだい整理せいりされてよんになり、最終さいしゅうてきさんとなった。

さん江戸えど時代じだいつうじて日本にっぽん独自どくじ伝統でんとう芸能げいのうである歌舞伎かぶき醸成じょうせい明治めいじ以降いこう歌舞伎かぶき殿堂でんどうとして大正たいしょうすえ年頃としごろまで日本にっぽん演劇えんげきかい牽引けんいんした。

概要がいよう[編集へんしゅう]

歌舞伎かぶき元祖がんそかんがえられている出雲阿国いずものおくに名古屋なごやさん三郎さぶろうが、寺院じいん境内けいだいなどで歌舞伎かぶきおどりを披露ひろうしてだい評判ひょうばんをとったといわれるのは慶長けいちょう年間ねんかん(1596–1615ねん)のことである。その、かれらを真似まね遊女ゆうじょ若衆わかしゅたちによる興行こうぎょう各地かくち寺院じいん境内けいだい河原かわはらなどでおこなわれるようになっていったが、江戸えど府内ふない常設じょうせつ芝居しばい小屋こやができたのははやくも寛永かんえい元年がんねん(1624ねん)のことだった。

歌舞伎かぶき泰平たいへい町人ちょうにん娯楽ごらくとして定着ていちゃくしはじめると、府内ふないのあちこちに芝居しばい小屋こやつようになる。しかし奉行ぶぎょうしょ風紀ふうきみだすという理由りゆう遊女ゆうじょ歌舞伎かぶき(1629ねん)や若衆わかしゅ歌舞伎かぶき(1652ねん)を禁止きんし野郎やろう歌舞伎かぶきには興行こうぎょうけん認可にんかせいとすることで芝居しばい小屋こや乱立らんりつふせ方針ほうしんをとった。芝居しばい小屋こやかず制限せいげんしたおおきな理由りゆうは、江戸えど頻発ひんぱつした火災かさいへの対応たいおうだった。町屋まちやなか芝居しばい小屋こやはひとぎわその図体ずうたいおおきいばかりか、構造こうぞうじょういったんがつくとしばたあいだ紅蓮ぐれんほのおげてがり、周囲しゅうい家屋かおくにもたちまち延焼えんしょうした。当時とうじ町火消まちびけによる消火しょうか活動かつどうといえば、炎上えんじょうしている家屋かおくやそれに隣接りんせつする家屋かおくこわしてそれ以上いじょう延焼えんしょうふせぐというものだったため、芝居しばい小屋こやのようなきょだい建造けんぞうぶつがるともうちようがなかったのである。

こうして府内ふない芝居しばい小屋こや次第しだい整理せいりされてゆき、のべたからはじめごろ(1670年代ねんだい)までには中村なかむら市村いちむら森田もりた山村さんそんよんかぎって「をあげる」ことがみとめられるようになった。これを江戸えどよん(えど よんざ)という。

歌舞伎座かぶきざにあがった
今日きょう歌舞伎座かぶきざでは通常つうじょう毎年まいとし11がつの「顔見世かおみせだい歌舞伎かぶき」のさいにのみあがる。

とは、ひとひとりがれるほどのかごのような骨組ほねぐみに、2ほん梵天ぼんてんと5ほんやりわせ、それを定紋じょうもんいたまくかこった構築こうちくぶつで、これを芝居しばい小屋こや入口いりくち上方かみがたけ、かつてはそこで人寄ひとよせの太鼓たいこたたいた。このをあげていることが官許かんきょ芝居しばい小屋こやであることのあかしだった。ぎゃくのない芝居しばい小屋こや宮地みやじ芝居しばい(みやぢ しばい)[1]ばれ、簡略かんりゃく小屋掛こやがけであること、舞台ぶたいうえ以外いがいには屋根やねをつけないこと、引幕ひきまくまわ舞台ぶたい花道かどうなどの装置そうち使つかわないことなど、さまざまな制限せいげんもうけられた。

正徳まさのり4ねん(1714ねん)には山村さんそんつぶされて中村なかむら市村いちむら森田もりた江戸えどさんとなる[2]。そのさん座元ざもと所有しょゆうしゃ)が後継こうけいしゃいたり経営けいえい困難こんなんになったりすると、興行こうぎょうけん譲渡じょうとされたりべつ座元ざもとわって興行こうぎょうおこなうことがしばしばあった。とおるまつねん以降いこう(1735)になると、さんにはそれぞれ事実じじつじょう従属じゅうぞくするひかえがつき、ほん経営けいえいなん破綻はたんきゅうまれると年限ねんげんってその興行こうぎょうけん代行だいこうした。

歴史れきし[編集へんしゅう]

さかいまち・葺屋まち[編集へんしゅう]

江戸えど名所めいしょ圖會ずえ卷一けんいちより「さかいまち葺屋まち戲場ぎじょう
天保てんぽう5ねん(1834ねんごろさかいまち・葺屋まち表通おもてどおりにめんして中村なかむらおく)と市村いちむら手前てまえ)がのきならべるようにしてっている。

江戸えど芝居しばい小屋こやは、寛永かんえい元年がんねん(1624ねん)に山城やましろ狂言きょうげんきょうさるわかまい創始そうししたさるわか勘三郎かんざぶろうが、中橋なかはしみなみ(なかばしなんち、現在げんざい京橋きょうばしのあたり)にをあげたのにはじまる。これがさるわか(さるわかざ)である。ところがこのしろちかく、人寄ひとよ太鼓たいこ旗本はたもと登城とじょうらせる太鼓たいこまぎらわしいということで、寛永かんえい9ねん(1632ねん)には北東ほくとうはちまちほどはなれた禰宜ねぎまち(ねぎまち、現在げんざい日本橋堀留にほんばしほりどめまち2丁目ちょうめ)へ移転いてん、さらに慶安けいあん4ねん(1651ねん)にはそこからほどちかさかいまち(さかいちょう、現在げんざい日本橋にほんばし人形にんぎょうまち3丁目ちょうめ)へ移転いてんした。そのさい名称めいしょう座元ざもと名字みょうじである中村なかむらあわせて中村なかむら(なかむらざ)と改称かいしょうしている。

一方いっぽう寛永かんえい11ねん(1634ねん)には泉州せんしゅうさかいひとで、きょうほんをしていた村山むらやま又兵衛またべえというものおとうと村山むらやままた三郎さぶろう江戸えどて、葺屋まち(ふきやちょう、現在げんざい日本橋にほんばし人形にんぎょうまち3丁目ちょうめ)にをあげてこれを村山むらやま(むらやまざ)といった。しかし村山むらやま経営けいえいははかばかしくなく、うけたまわおう元年がんねん(1652ねん)にはうえしゅうひとまた三郎さぶろう弟子でしだった市村いちむら宇左衛門えもんがその興行こうぎょうけんり、これを市村いちむら(いちむらざ)とした。

さかいまち中村なかむらと葺屋まち市村いちむらおなどおりにめんしたはなさきっていた。また界隈かいわいにはこのほかにもしょう芝居しばい玉川たまがわ[3]浄瑠璃じょうるり薩摩さつま人形にんぎょうげき結城ゆうきなどがのきつらねていたので、この一帯いったいには芝居しばい茶屋ちゃや[4]をはじめ、役者やくしゃ芝居しばい関係かんけいしゃ住居じゅうきょがひしめき、一大いちだい芝居しばいまち形成けいせいした。

木挽こびきまち[編集へんしゅう]

江戸えど名所めいしょ圖會ずえ卷一けんいちより「木挽こびきまち芝居しばい
天保てんぽう5ねんごろ木挽こびきまち森田もりた天保てんぽう8ねんには河原崎かわらざきだい興行こうぎょうとなった。

寛永かんえい19ねん(1642ねん)、山村さんそんしょう兵衛ひょうえ初代しょだい山村さんそんちょう太夫たゆうというもの木挽こびきまちよん丁目ちょうめ(こびきちょう、現在げんざい中央ちゅうおう銀座ぎんざ4丁目ちょうめ昭和しょうわどおりの東側ひがしがわ)にをあげ、これを山村さんそん(やまむらざ)といった。つづいて慶安けいあん元年がんねん(1648ねん)には筑前ちくぜん狂言きょうげん作者さくしゃ初代しょだい河原崎かわらざきけんすけ木挽こびきまち丁目ちょうめ現在げんざい銀座ぎんざ5丁目ちょうめ昭和しょうわどおりの東側ひがしがわ)にをあげ、これを河原崎かわらざき(かわらさきざ)といった。さらに万治まんじ3ねん(1660ねん)には摂津せっつひとで「うなぎ太郎たろう兵衛ひょうえ」とばれた森田もりた太郎たろう兵衛ひょうえがやはり木挽こびきまち丁目ちょうめをあげ、これを森田もりた(もりたざ)といった。

こうして木挽こびきまちよん丁目ちょうめ界隈かいわいにも芝居しばい茶屋ちゃや[4]芝居しばい関係かんけいしゃ住居じゅうきょのきつらね、一時いちじさかいまち・葺屋まち匹敵ひってきする芝居しばいまち形成けいせい、「木挽こびきまちく」とえば「芝居しばい見物けんぶつかける」ことを意味いみするほどの盛況せいきょうとなった。この山村さんそん河原崎かわらざき森田もりたさんを、木挽こびきまちさん(こびきちょう さんざ)という。

しかしもなく河原崎かわらざき座元ざもと後継こうけいしゃいてきゅうになったので、寛文ひろふみ3ねん(1663ねん)に森田もりたがこれを吸収きゅうしゅうするかたちで合併がっぺいした。さらに正徳しょうとく4ねん(1714ねん)には江島えじま生島いくしま事件じけん連座れんざして山村さんそん座元ざもと代目だいめ山村さんそんちょう太夫たゆう伊豆いず大島おおしま遠島えんとうとなり、山村さんそん官許かんきょし、はいとなってしまった。こうして木挽こびきまちにはひとり森田もりたのこるのみとなり、あたりには次第しだい閑古鳥かんこどりきはじめる。そこにとおる改革かいかくによってもたらされたきょうなみせ、森田もりた経営けいえいとしうごとに悪化あっか一途いっとをたどっていった。ついにとおる19ねん(1734ねん)には地代じだい滞納たいのうがかさんで地主じぬしからうったえられてしまう。みなみ町奉行まちぶぎょう大岡おおおか越前えちぜんさばきは地主じぬしがわうったえを全面ぜんめんてきみとめたものとなり、森田もりた返済へんさいくびまわらなくなって破綻はたん、とうとうこれもきゅうまれてしまった。

あわてたのは芝居しばい関係かんけいしゃだった。芝居しばい小屋こや役者やくしゃ狂言きょうげん作者さくしゃやとっているだけではなく、周囲しゅうい数々かずかず芝居しばい茶屋ちゃや[4]浮世絵うきよえ版元はんもとなどをしたがえた歓楽街かんらくがい中核ちゅうかくである。それがなくなってしまうということは、木挽こびきまち全体ぜんたい死活しかつ問題もんだいでもあった。そこで森田もりたわるあたらしいをあげることが模索もさくされたが、すでにこのころまでに官許かんきょさんせい確立かくりつしており、新規しんきみとめられることはまずのぞめない。それならばと、かつて官許かんきょながらはいになった河原崎かわらざき[5]きり[6]座元ざもと子孫しそん名乗なのて、それぞれの由緒ゆいしょしょとともにきゅう再興さいこうねがたのである。

まちえてしまうことは治安ちあんめんからものぞましいことではなかったので、町奉行まちぶぎょうしょとしてはなんらかのかたちで再興さいこう容認ようにんすることにしていた。しかしさんせい手前てまえもあり、かれらすべてにこれをゆるすわけにはいかない。そこで再興さいこうするのはあくまでも森田もりたであるとし、さんしゃのうちの一人ひとり森田もりた興行こうぎょうけん当面とうめんあいだ代行だいこうするというかたちでこれをゆるすことにした。そして森田もりた勝手向かってむ改善かいぜんしたあかつきには、だい興行こうぎょうぬしはすみやかに興行こうぎょうけんもともどすという条件じょうけんをこれにつけくわえた。こうしてさんしゃによるうらみっこなしのくじきの結果けっか代目だいめ河原崎かわらざきけんすけ森田もりただい興行こうぎょうけんて、よくとおる20ねん(1735ねん)に河原崎かわらざき復興ふっこうしたのである。

ほんひかえ[編集へんしゅう]

寛政かんせい年間ねんかん(1789–1800ねん)の木挽こびきまち森田もりた

河原崎かわらざきはその9年間ねんかんにわたってだい興行こうぎょうつづけたのち、のべとおる元年がんねん(1744ねん)に再生さいせいなった森田もりたのもとに興行こうぎょうけん無事ぶじ返還へんかんしている。それから40ねんたった天明てんめい4ねん(1784ねん)には、市村いちむら破綻はたんしてむこう3年間ねんかんきゅう町奉行まちぶぎょうしょねがた。その結果けっか今度こんどきりちょうきり(きり ちょうきり)がだい興行こうぎょうけんて、よく天明てんめい5ねん(1785ねん)にきり(きりざ)を復興ふっこうした。そして約束やくそくどおり3ねん天明てんめい8ねん(1788ねん)には再生さいせいなった市村いちむら興行こうぎょうけん返還へんかんしている。この結果けっか、もし将来しょうらい中村なかむらきゅうするようなことになればみやこつたえない(みやこ でんない)の(みやこざ)にその興行こうぎょうけんわたることが事実じじつじょう確定かくていし、ここに中村なかむら市村いちむら森田もりたほん(ほんやぐら)にたいするきり河原崎かわらざきひかえ(ひかえやぐら)というだい興行こうぎょう慣行かんこう定着ていちゃくした。

この天明てんめいから寛政かんせい(1781〜1800ねん)の時代じだいは、天明てんめいだい飢饉ききん米価べいか記録きろくてき高騰こうとうせたかとおもえば、寛政かんせい改革かいかくによる極端きょくたん緊縮きんしゅく財政ざいせい市場いちば深刻しんこくきょうおちいったりして、経済けいざい混乱こんらんきわめ、庶民しょみんはそれに翻弄ほんろうされた。「宵越よいごしのぜにたない」とわれるほど気前きまえかった江戸えども、そう易々いい芝居しばい見物けんぶつへなどとはっていられないご時勢じせいとなったのである。この影響えいきょうをもろにけたのが芝居しばいまちで、客足きゃくあし激減げきげんしたさんはいずれも深刻しんこく経営けいえいなんおちいった。まず寛政かんせい2ねん(1790ねん)には森田もりた破綻はたんして2度目どめきゅう寛政かんせい5ねん(1793ねん)には地代じだい滞納たいのう請求せいきゅう訴訟そしょうすうにん地主じぬしからこされた中村なかむらがついにきゅうとなり、これにつづいて再興さいこうしたばかりの市村いちむらもまた破綻はたんして2度目どめきゅうとなってしまった。その結果けっかさかいまちにはが、葺屋まちにはきりが、木挽こびきまちには河原崎かわらざきをあげ、江戸えどさんはそのすべてがひかえとなる事態じたいになったのである。

さらに20ねんほどくだった文化ぶんか14ねん(1817ねん)には、その前年ぜんねんに3度目どめ破綻はたんきゅうした市村いちむらわってだい興行こうぎょうをしていたきりが1ねんらずでやはり破綻はたんするという局面きょくめんむかえていた。その結果けっか市村いちむらだい興行こうぎょうけんきりによって代行だいこうされるという変則へんそくてき事態じたいとなったが、その翌年よくねんにはなんとそのもまた破綻はたんしてしまうのである。のこ河原崎かわらざきはこのときすでに3度目どめ破綻はたんきゅうした森田もりたわってをあげていた。そこで市村いちむら座元ざもとじゅういち代目だいめ市村いちむら羽左衛門うざえもん座元ざもとでんないはかって、あらたにだい4のだい興行こうぎょうぬし仕立したてげるという窮余きゅうよさくをひねりす。白羽しらはったのは、神田かんだ明神みょうじん宮地みやじ芝居しばい座元ざもと名跡みょうせき玉川たまがわじゅうろう」をあずかっていた薬舗やくほさん臓園の主人しゅじんだった。かれ先祖せんぞうけたまわおう元年がんねん(1652ねん)に葺屋まちをあげた玉川たまがわは、そのあいだもなく経営けいえいなんはいとなり宮地みやじ芝居しばい転落てんらく、その興行こうぎょうかずばずで、この文化ぶんか年間ねんかんにはもうすっかりわすられた存在そんざいになっていた。そこでりょう座元ざもとは「玉川たまがわじつはそのをあげつづけていた」ということにして、「寛文ひろふみ9ねん(1669ねん)にはさかいまち移転いてん、さらにその元禄げんろくのはじめごろまで都合つごう30有余ゆうよねんにわたって興行こうぎょうをしていた」という「事実じじつ」を大胆だいたんにも捏造ねつぞうし、この虚偽きょぎ沿革えんかくしるした玉川たまがわ由緒ゆいしょしょともに、市村いちむら興行こうぎょうけん玉川たまがわじゅうろう代行だいこうさせることを町奉行まちぶぎょうしょねがたのである。

じゅういち代目だいめ市村いちむら羽左衛門うざえもん

破綻はたんきゅうした座元ざもとである市村いちむら羽左衛門うざえもんは、本来ほんらいならば人目ひとめはばかって謹慎きんしんしているべきうえである。にもかかわらず、羽左衛門うざえもんきりだい興行こうぎょうぬしをまるでごまのように使つかたした挙句あげくさんせい枠組わくぐみを無視むしするかのようにあらたなだい興行こうぎょうぬし模索もさくし、芝居しばい興行こうぎょうとはまった無縁むえんとなっていた薬屋くすりや主人しゅじん座元ざもと仕立したてげるというなりふりかまわぬ手段しゅだんこうじた。しかも古文書こもんじょ調しらべればすぐにでも捏造ねつぞう露見ろけんするような虚偽きょぎ由緒ゆいしょしょまでえたとあっては、これはもう立派りっぱ違法いほう行為こういである。かつて江島えじま生島いくしま事件じけん没落ぼつらくした山村さんそん代目だいめ山村さんそんちょう太夫たゆうのように、羽左衛門うざえもんにとってこの申請しんせいひと間違まちがえば伊豆いず大島おおしま遠島えんとう、そして市村いちむらはいとなりかねないきわめて危険きけんけだった。ところが意外いがいにも町奉行まちぶぎょうしょはこの申請しんせい受理じゅりすると、すんなりと数日すうじつないにこれを許可きょか、葺屋まちにはだれいたことがないような玉川たまがわ(たまがわざ)のがあがる一幕ひとまくとなった。このあいだわずかに3ねん市村いちむらきり玉川たまがわ とたらいまわしされた興行こうぎょうけんは、玉川たまがわによる3年間ねんかんだい興行こうぎょう[7]ののち、文政ぶんせい4ねん(1821ねん)に無事ぶじ市村いちむら返還へんかんされている。

江戸えど文化ぶんかすえねんから文政ぶんせい初年しょねんにかけてひろげられたこの未曾有みぞう椿事ちんじからは、官許かんきょさんせい江戸えどではたん常設じょうせつ芝居しばい小屋こやかず制限せいげんするための規制きせいおわらず、このころまでにはすでに江戸えど歌舞伎かぶき興行こうぎょう存続そんぞくするための根拠こんきょとして進化しんかげていたことがれる。そのかぎとなったのがひかえ制度せいどであり、またそれをきわめて柔軟じゅうなん運用うんようしたことだった。結果けっかてきにはこのことが、江戸えどでは歌舞伎かぶき興行こうぎょう衰退すいたいするようなことがただのいちもなかったことの最大さいだい要因よういんとなった。官許かんきょせいひかえ制度せいど発達はったつしなかった上方かみがた歌舞伎かぶきでは、実際じっさいにこの江戸えど時代じだい後期こうきから衰退すいたいはじまり、その凋落ちょうらく傾向けいこうおさまることなく戦後せんご昭和しょうわまでつづいて関西かんさい歌舞伎かぶき崩壊ほうかいするにいたったのである。

さてひかえなかでも河原崎かわらざき森田もりた興行こうぎょうけん頻繁ひんぱん代行だいこうした。これは森田もりた経営けいえいきわめて不安定ふあんていで、資金繰しきんぐりにまっては破綻はたんしてきゅうすることがとくおおかったためである[8]森田もりたには、ときに20ねんちかくにわたって河原崎かわらざきをあげつづけていたこともあった[9]今日きょうのこ江戸えどさんえがいた錦絵にしきえ江戸えど府内ふない地図ちずには、中村なかむら市村いちむらにならんで河原崎かわらざきえがかれているものが非常ひじょうおおいのはこのためである。

時代じだいくだるにつれてほんひかえ関係かんけい表裏一体ひょうりいったいちかいものとなり、だい興行こうぎょう負債ふさいのがれの常套じょうとう手段しゅだんしていった。つまりほん借金しゃっきんかさんでくびまわらなくなると、破綻はたんきゅうによってその負債ふさいをいったん棚上たなあげにし、わってひかえいちから商売しょうばいをやりなおす。そのひかえまるとやはり破綻はたんきゅうして負債ふさい一時いちじ棚上たなあげし、そこでそろそろほとぼりもめたほん債権さいけんしゃたいして、元本がんぽん利子りし大幅おおはば減額げんがく返済へんさい年限ねんげん延長えんちょうなど、とき負債ふさい棒引ぼうびきにちかいほど債務さいむしゃ有利ゆうり返済へんさい計画けいかく提示ていじし、それをもってほん再興さいこうけるという具合ぐあいである。債権さいけんしゃにとっては結局けっきょく大損おおぞんとなったが、それでもほん返済へんさい不能ふのうはいになりでもしたら文字通もじどおもともなくなってしまうので、すこしでもきが回収かいしゅうできるみちえらばざるをなかったのである。

さるわかまち[編集へんしゅう]

けいときえいいずみさるわかまち芝居しばい略圖りゃくず
天保てんぽう13ねんさるわかまち中央ちゅうおうひだり中村なかむら、そのみぎ市村いちむらがみえる。そのみぎくもおおわれているところはおくれて移転いてんすることになっていた河原崎かわらざき予定よてい

天保てんぽう12ねん(1841ねん)10がつ7にち中村なかむら失火しっか全焼ぜんしょう火災かさいさかいまち・葺屋まち一帯いったい延焼えんしょうし、市村いちむら類焼るいしょうして全焼ぜんしょうした。浄瑠璃じょうるり薩摩さつま人形にんぎょうげき結城ゆうき被災ひさいした。

おりしも幕府ばくふでは、老中ろうじゅう首座しゅざ水野みずの忠邦ただくに中心ちゅうしん天保てんぽう改革かいかく推進すいしんされていた。改革かいかく逼迫ひっぱくした幕府ばくふ財政ざいせいなおすことを目的もくてきとしたものだったが、水野みずのはこれと同時どうじ倹約けんやくれいによって町人ちょうにん贅沢ぜいたくきんじ、風俗ふうぞくまって庶民しょみん娯楽ごらくにまで掣肘せいちゅうくわえた。とく歌舞伎かぶきたいしては、なな代目だいめ市川いちかわだん十郎じゅうろう奢侈しゃし理由りゆう江戸えど所払ところばらいにしたり、役者やくしゃ交際こうさい範囲はんい外出がいしゅつよそおいを限定げんていするなど、弾圧だんあつちか統制とうせいにおいてこれを庶民しょみんへのみせしめとした。

さるわかまち地図ちず
中央ちゅうおうひだりから中村なかむら市村いちむら河原崎かわらざきとある。天保てんぽうまつねんから安政あんせいはつ年頃としごろ(1843–1855)。

さかいまち・葺屋まち一帯いったいけたことは、こうした綱紀こうき粛正しゅくせいをさらにすすめるうえでのねがってもいない好機こうきだった。奉行ぶぎょうしょはやくも同年どうねんれには中村なかむら市村いちむら芝居しばい小屋こや再建さいけんきんじ、一方いっぽう幕府ばくふ浅草あさくさ聖天しょうてんまち(しょうでんちょう、現在げんざい台東たいとう浅草あさくさ6丁目ちょうめ)にあった丹波たんば園部そのべはん下屋敷しもやしきおさむおおやけよく天保てんぽう13ねん(1842ねん)2がつにはその跡地あとちいちまんつぼあまりを代替だいたいとして中村なかむら市村いちむら薩摩さつま結城ゆうきかくくだし、そこにうつることをめいじた。聖天しょうてんまち外堀そとぼりのはるか外側そとがわさかいまち・葺屋まちからは東北とうほくいちはあろうかという辺鄙へんぴ土地とちだった。水野みずのはそこに芝居しばい関係かんけいしゃめることで、城下じょうかから悪所あくしょ一掃いっそうしようとしたのである[10]

同年どうねん4がつ聖天しょうてんまち江戸えどにおける芝居しばい小屋こや草分くさわけであるさるわか勘三郎かんざぶろうちなんでさるわかまち(さるわかまち[11])と改名かいめいされた。なつごろまでにはかく芝居しばい小屋こや新築しんちく完了かんりょう、9月には中村なかむら市村いちむらがこの杮落しおこなっている。さらに同年どうねんふゆには木挽こびきまち河原崎かわらざきにもさるわかまちへの移転いてんめいじられ、よく天保てんぽう14ねん(1843ねんあきにはこれが完了かんりょうした。芝居しばい茶屋ちゃや芝居しばい関係かんけいしゃ住居じゅうきょもこぞってこのうつり、ここに一大いちだい芝居しばいまち形成けいせいされた。

河原崎かわらざき移転いてん完了かんりょうした直後ちょくごに、幕府ばくふでは水野みずの失脚しっきゃく天保てんぽう改革かいかく頓挫とんざする。そして水野みずの目論見もくろみとは裏腹うらはらに、さるわかまちではさんのきつらねたことで役者やくしゃ作者さくしゃりが容易よういになり、芝居しばい演目えんもく充実じゅうじつした。また城下じょうかではつねあたまなやまされていた火災かさい類焼るいしょうによる被害ひがいもこの町外まちはずれではまれ[12]相次あいつ修理しゅうりなおしによる莫大ばくだい損益そんえき激減げきげんした。そして浅草寺せんそうじ参詣さんけいねた芝居しばい見物けんぶつきゃく連日れんじつこのあしはこぶようになった結果けっか歌舞伎かぶきはかつてない盛況せいきょうをみせるようになった。浅草あさくさ界隈かいわいはこうして江戸えど随一ずいいち娯楽ごらくへと発展はってんしていく。

このさるわかまちのきつらねた中村なかむら市村いちむら森田もりた(または河原崎かわらざき)のさんを、さるわかまちさん(さるわかまちさんざ)という。

明治めいじ以降いこう[編集へんしゅう]

明治めいじ初年しょねんさるわかまち
アメリカじんチャールズ・ロングフェロー日本にっぽん滞在たいざいちゅう撮影さつえいしたさるわかまち写真しゃしん。「Shibaia match Yedo」(芝居しばいまち 江戸えど)と手書てがきされている。『ロングフェロー日本にっぽん滞在たいざい』には明治めいじ4ねん(1871ねん)8がつ10日とおか東京とうきょう芝居しばい見物けんぶつをしたという記述きじゅつがある。

慶応けいおう3ねん(1867ねんれに幕府ばくふ崩壊ほうかいすると、よく慶応けいおう4ねん(1868ねん)は春先はるさきから江戸えど開城かいじょう船橋ふなばしたたか上野うえの戦争せんそうなどの騒擾そうじょうつづき、さるわかまちへの庶民しょみんあし遠退とおのいて、芝居しばい興行こうぎょう不振ふしんをきわめた。あきにはろく代目だいめ河原崎かわらざきけんすけ自宅じたく浪人ろうにん強盗ごうとうされて絶命ぜつめいするという、物騒ぶっそう世情せじょう象徴しょうちょうするような事件じけんおこり、おおくの芝居しばい関係かんけいしゃ震撼しんかんさせている。

そんななかしん政府せいふ同年どうねん9がつまつになって突然とつぜんさるわかまちさんたいし、他所よそ早々そうそう移転いてんすることを勧告かんこくした。しかしさん困惑こんわくする。天保てんぽうところえからすでに25ねん世代せだい交替こうたいし、さるわかまちおおくの芝居しばい関係かんけいしゃにとってれた土地とちとなっていた。ただでさえ御一新ごいっしん先行さきゆ不透明ふとうめい時勢じせいさん座元ざもとはいずれも移転いてんには慎重しんちょうにならざるをなかったのである。

ごうやした東京とうきょうは、明治めいじ6ねん(1873ねんれいによって東京とうきょううち劇場げきじょう一方いっぽうてきじゅうさだめてしまった。これをうけて市内しないには、中橋なかはし現在げんざい中央ちゅうおう京橋きょうばし)に澤村さわむらが、久松ひさまつまち現在げんざい中央ちゅうおう日本橋にほんばし久松ひさまつまち)にのぼり[13]が、かきからまち現在げんざい日本橋蛎殻にほんばしかきがらまち)に中島なかじまが、四谷よつや現在げんざい新宿しんじゅく四谷よつや)にきりが、春木はるきまち現在げんざい文京ぶんきょう本郷ほんごう3丁目ちょうめ)に奥田おくだ[14]が、新堀しんぼりまち現在げんざいみなとしば2丁目ちょうめ)に河原崎かわらざき[15]が、次々つぎつぎ開場かいじょうしていった。さるわかまちさんあたまごなしに「じゅう」のなかにまれてしまったうえ、しん劇場げきじょうがいずれも外濠そとぼり内側うちがわにあるのにたいして、さるわかまち歓楽街かんらくがいとはいえ東北とうほくかたよったにあることはいなめなかった。これがおもこしをあげるひとつの理由りゆうとなる。

さんのなかで最初さいしょさるわかまちはなれたのは守田もりた[8]で、明治めいじ5ねん(1872ねん)に新富しんとみまち(しんとみちょう、現在げんざい新富しんとみ2丁目ちょうめ)に移転いてん明治めいじ8ねん(1875ねん)にこれを新富しんとみ(しんとみざ)と改称かいしょうした[16]つぎ中村なかむらで、明治めいじ15ねん(1882ねん)に失火しっかにより全焼ぜんしょうすると、明治めいじ17ねん(1884ねん)にしん劇場げきじょう浅草あさくさ西鳥越にしとりごえまち(にしとりごえちょう、現在げんざい鳥越とりこし)に新築しんちく、これをさるわか(さるわかざ)[17]改称かいしょうした。最後さいご市村いちむらで、明治めいじ25ねん(1892ねん)に下谷しもたに長町ながまち(にちょうまち、現在げんざい台東たいとう1丁目ちょうめ)に さんかいけん煉瓦れんがづくりしん劇場げきじょうてて移転いてんした。

じゅう代目だいめ守田もりた勘彌かんや

新富しんとみ座元ざもとじゅう代目だいめ守田もりた勘彌かんやには先見せんけんあかりがあり、明治めいじ9ねん(1876ねん)9がつ新富しんとみ類焼るいしょうにより全焼ぜんしょうすると、そのかり小屋こやでしのぎ、そのあいだ巨額きょがく借金しゃっきんをして、明治めいじ11ねん(1878ねん)6がつには西洋せいようしきだい劇場げきじょう新富しんとみ開場かいじょうした。杮落としの来賓らいひん政府せいふ高官こうかん各国かっこく公使こうしまねいて盛大せいだい開場かいじょうしき挙行きょこうするというのも前代未聞ぜんだいみもんだったが、なによりも新富しんとみ当時とうじ最大さいだい興行こうぎょう施設しせつ[18]、しかもガス灯がすとうによる照明しょうめい器具きぐそなえてそれまでできなかった夜間やかん上演じょうえん可能かのうした[19]画期的かっきてき近代きんだい劇場げきじょうだった。以後いごこの新富しんとみ専属せんぞく役者やくしゃきゅう代目だいめだん十郎じゅうろう代目だいめ菊五郎きくごろう初代しょだいひだりだんさん名優めいゆうげいきそいあい、ここに「だんきくひだり時代じだい」(だんぎくさ じだい)とばれる歌舞伎かぶき黄金おうごん時代じだいまくけた。

明治めいじ22ねん(1889ねん)、福地櫻痴ふくちおうちらが演劇えんげき改良かいりょう運動うんどう一環いっかんとして推進すいしんしていたあらたな歌舞伎かぶき殿堂でんどう歌舞伎座かぶきざ建設けんせつはじまる。しかし守田もりたはこれをしとせず[20]中村なかむら市村いちむら千歳ちとせ[13]連繋れんけいして歌舞伎座かぶきざ興行こうぎょうできないよう画策かくさくした。これはよんがむこう5年間ねんかんにわたってだんきくひだりをはじめ、だい芝翫しかん家橘かきつそう十郎じゅうろう源之助げんのすけなど当時とうじ人気にんき役者やくしゃ順繰じゅんぐりで使つかってずっぱりにし、その劇場げきじょう余裕よゆうがないようにしてしまうという協定きょうていで、これをよん同盟どうめい(よんざどうめい)といった。これがこうそうして、歌舞伎座かぶきざ完成かんせいもいっこうに演目えんもくてられず往生おうじょうしてしまう。福地ふくちはついにれて、よんがわ巨額きょがく見舞みまいきん支払しはらうことで妥協だきょう成立せいりつ[21]歌舞伎座かぶきざはやっと開場かいじょうできるはこびとなった。

守田もりたはこののち、一時いちじ経営けいえいじん内紛ないふんめにもめた歌舞伎座かぶきざまねかれてその経営けいえいにもあたるなど[22]だんきくひだり時代じだいつうじて歌舞伎かぶきかい中心ちゅうしんつづけたが、やがてだんきくひだりおとろえて舞台ぶたいると新富しんとみ衰退すいたいした。わっておもて舞台ぶたいおどたのは歌舞伎座かぶきざ内紛ないふんした田村たむら成義なりよしで、明治めいじ41ねん(1908ねん)に市村いちむら経営けいえいけん取得しゅとくすると、ここでろく代目だいめ菊五郎きくごろう初代しょだい吉右衛門きちえもん若手わかてそだて、この二人ふたり大正たいしょうはいって「きくよし時代ときよ」(きくきち じだい)とばれるだい歌舞伎かぶき全盛期ぜんせいききずく。きくきちはもっぱら長町ながまち市村いちむらていたので、この一時期いちじきを「長町ながまち時代ときよ」(にちょうまち じだい)ともいう。これが江戸えどさんはなった最後さいごかがやきだった。やがて市村いちむら新富しんとみ歌舞伎座かぶきざとともに関西かんさいけい松竹しょうちく合名ごうめい会社かいしゃ買収ばいしゅうされ、その独自どくじせいうしなっていく。

大正たいしょう12ねん(1923ねん)、関東大震災かんとうだいしんさい新富しんとみ市村いちむらはともに焼失しょうしつ新富しんとみはその再建さいけんされずにはいとなった。市村いちむらかり小屋こや再建さいけんしたが、それも昭和しょうわ7ねん(1932ねん)には失火しっか焼失しょうしつ以後いご再建さいけんされずにはいとなる。中村なかむらはすでに明治めいじ26ねん(1893ねん)に失火しっか焼失しょうしつはいになってひさしかった。ここに300ねん伝統でんとうほこった江戸えどさんも、ついにその歴史れきしまくかれたのである。

変遷へんせん出来事できごと[編集へんしゅう]

中村なかむら けい 市村いちむら けい 森田もりた けい 山村さんそん
寛永かんえい元年がんねん
  (1624)
さるわか勘三郎かんざぶろう中橋なかはしさるわかをあげる。
寛永かんえい 9 ねん
  (1632)
さるわか禰宜ねぎまち移転いてん
寛永かんえい10ねん
  (1633)
みやこつたえないさかいまちをあげる(もなく破綻はたんはい)。
寛永かんえい11ねん
  (1634)
村山むらやままた三郎さぶろう葺屋まち村山むらやまをあげる。
寛永かんえい19ねん
  (1642)
山村さんそんしょう兵衛ひょうえ木挽こびきまち山村さんそんをあげる。
慶安けいあん元年がんねん
  (1648)
初代しょだい河原崎かわらざきけんすけ木挽こびきまち河原崎かわらざきをあげる。
慶安けいあん 4 ねん
  (1651)
さるわかさかいまち移転いてん中村なかむら改称かいしょう
うけたまわおう元年がんねん
  (1652)
さん代目だいめ市村いちむら宇左衛門えもん村山むらやま興行こうぎょうけん市村いちむら改称かいしょう
玉川たまがわじゅうろうが葺屋まち玉川たまがわをあげる(もなく破綻はたん宮地みやじ芝居しばい転落てんらく)。
万治まんじ 3 ねん
  (1660)
森田もりた太郎たろう兵衛ひょうえ木挽こびきまち森田もりたをあげる。
寛文ひろふみ元年がんねん
  (1661)
きりだい内蔵ないぞう木挽こびきまちきりをあげる(もなく破綻はたんはい)。
寛文ひろふみ 3 ねん
  (1663)
後継こうけいしゃいた河原崎かわらざき森田もりた吸収きゅうしゅう
のべたから年間ねんかん
 (1673–81)
このころ官許かんきょよんせい定着ていちゃく このころ官許かんきょよんせい定着ていちゃく このころ官許かんきょよんせい定着ていちゃく このころ官許かんきょよんせい定着ていちゃく
正徳まさのり 4 ねん
  (1714)
官許かんきょさんせい確立かくりつ 官許かんきょさんせい確立かくりつ 官許かんきょさんせい確立かくりつ 江島えじま生島いくしま事件じけん連座れんざして座元ざもと代目だいめ山村さんそんちょう太夫たゆう伊豆いず大島おおしま遠島えんとう官許かんきょされ山村さんそんはい
とおる19ねん
  (1734)
森田もりた地代じだい滞納たいのう地主じぬし訴訟そしょうとなり敗訴はいそきゅうまれる。
とおる20ねん
  (1735)
代目だいめ河原崎かわらざきけんすけえていた河原崎かわらざき復興ふっこうし、森田もりた興行こうぎょうけん代行だいこうする(ひかえのはじまり)。
のべとおる元年がんねん
  (1744)
森田もりた再興さいこう
天明てんめい 4 ねん
  (1784)
市村いちむら破綻はたんきゅうきりちょうきりが3年間ねんかんだい興行こうぎょうゆるされきり復興ふっこう
天明てんめい 8 ねん
  (1788)
市村いちむら再興さいこう
寛政かんせい元年がんねん
  (1789)
森田もりたこのとし資金しきん不足ふそく興行こうぎょうできず。
寛政かんせい 2 ねん
  (1790)
森田もりた破綻はたんきゅう(2度目どめ)。河原崎かわらざきだい興行こうぎょう
寛政かんせい 5 ねん
  (1793)
中村なかむら破綻はたんきゅうでんないが5年間ねんかんだい興行こうぎょうゆるされ復興ふっこう
   さんすべてがひかえになる
市村いちむら破綻はたんきゅう(2度目どめ)。きりが5年間ねんかんだい興行こうぎょうゆるされる。
   さんすべてがひかえになる

   さんすべてがひかえになる
寛政かんせい 9 ねん
  (1797)
中村なかむら再興さいこう 市村いちむら再興さいこう
寛政かんせい10ねん
  (1798)
森田もりた再興さいこう
文化ぶんか12ねん
  (1815)
森田もりた破綻はたんきゅう(3度目どめ)。河原崎かわらざきだい興行こうぎょう
文化ぶんか13ねん
  (1816)
市村いちむら破綻はたんきゅう(3度目どめ)。きりだい興行こうぎょう
文化ぶんか14ねん
  (1817)
きり破綻はたんだい興行こうぎょうけん代行だいこう
文政ぶんせい元年がんねん
  (1818)
破綻はたん神田かんだ明神みょうじん宮地みやじ芝居しばい座元ざもと名義めいぎあずか玉川たまがわじゅうろうだい興行こうぎょうけん代行だいこう代行だいこうゆるされ玉川たまがわ復興ふっこう
文政ぶんせい 4 ねん
  (1821)
玉川たまがわこのとし資金しきん不足ふそく興行こうぎょうできず。市村いちむら再興さいこう
天保てんぽう12ねん
  (1841)
中村なかむら失火しっかにより全焼ぜんしょう 市村いちむら類焼るいしょうにより全焼ぜんしょう
天保てんぽう13ねん
  (1842)
中村なかむらさるわかまち再建さいけん 市村いちむらさるわかまち再建さいけん 河原崎かわらざきさるわかまち移転いてん命令めいれい
天保てんぽう14ねん
  (1843)
河原崎かわらざき移転いてん完了かんりょう
安政あんせい 2 ねん
  (1855)
河原崎かわらざき失火しっかにより全焼ぜんしょう
安政あんせい 3 ねん
  (1856)
森田もりた再興さいこう
安政あんせい 4 ねん
  (1858)
森田もりた守田もりた改称かいしょう [8]
明治めいじ元年がんねん
  (1868)
しん政府せいふさん移転いてん勧告かんこく しん政府せいふさん移転いてん勧告かんこく しん政府せいふさん移転いてん勧告かんこく
明治めいじ 5 ねん
  (1872)
守田もりた新富しんとみまち移転いてん
明治めいじ 6 ねん
  (1873)
東京とうきょう市内しない劇場げきじょうじゅう限定げんてい 東京とうきょう市内しない劇場げきじょうじゅう限定げんてい 東京とうきょう市内しない劇場げきじょうじゅう限定げんてい
明治めいじ 8 ねん
  (1875)
守田もりた新富しんとみ改称かいしょう
明治めいじ 9 ねん
  (1876)
中村なかむら類焼るいしょうにより半焼はんしょう 新富しんとみ類焼るいしょうにより半焼はんしょう翌年よくねんかり小屋こや再建さいけん
明治めいじ11ねん
  (1878)
新富しんとみ西洋せいようしきだい劇場げきじょう新築しんちく夜間やかん上演じょうえん開始かいし。「だんきくひだり時代じだい」の全盛期ぜんせいきはじまる。
明治めいじ15ねん
  (1882)
中村なかむら失火しっかにより全焼ぜんしょう
明治めいじ17ねん
  (1884)
中村なかむら浅草あさくさ西鳥越にしとりごえまち再建さいけんさるわか改称かいしょう
明治めいじ18ねん
  (1885)
さるわか失火しっかにより全焼ぜんしょう
     歌舞伎座かぶきざ
明治めいじ22ねん
  (1889)
よん同盟どうめい歌舞伎座かぶきざ対抗たいこう よん同盟どうめい歌舞伎座かぶきざ対抗たいこう よん同盟どうめい歌舞伎座かぶきざ対抗たいこう 木挽こびきまち歌舞伎座かぶきざ開場かいじょう
明治めいじ25ねん
  (1892)
市村いちむら下谷しもたに長町ながまち新築しんちく移転いてん
明治めいじ26ねん
  (1893)
さるわか失火しっかにより全焼ぜんしょう以後いご再建さいけんされずはいに。 市村いちむら類焼るいしょうにより半焼はんしょう
明治めいじ27ねん
  (1894)
市村いちむら再建さいけん
明治めいじ41ねん
  (1908)
田村たむら成義なりよし市村いちむら経営けいえいけん取得しゅとく、「きくよし時代ときよ」の全盛期ぜんせいきはじまる。
明治めいじ43ねん
  (1910)
松竹しょうちく新富しんとみ経営けいえいけん取得しゅとく以後いご衰退すいたい
大正たいしょう 2 ねん
  (1913)
松竹しょうちく歌舞伎座かぶきざ経営けいえいけん取得しゅとく
大正たいしょう10ねん
  (1921)
松竹しょうちく市村いちむら経営けいえいけん取得しゅとく以後いご衰退すいたい 歌舞伎座かぶきざ漏電ろうでんにより全焼ぜんしょう
大正たいしょう12ねん
  (1923)
市村いちむら関東大震災かんとうだいしんさい被災ひさいかり小屋こや再建さいけん 新富しんとみ関東大震災かんとうだいしんさい被災ひさい以後いご再建さいけんされずはいに。
大正たいしょう14ねん
  (1925)
歌舞伎座かぶきざ再建さいけん
昭和しょうわ 7 ねん
  (1932)
市村いちむら失火しっかにより全焼ぜんしょう以後いご再建さいけんされずはいに。

補注ほちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 江戸えど上方かみがたでは宮芝居みやしばい(みやしばい)、地方ちほうにおいては芝居しばい(ぢしばい)とんでいたものの総称そうしょう
  2. ^ 服部はっとり幸雄ゆきお, 富田とみた鉄之助てつのすけ, 廣末ひろすえたもつ へん歌舞伎かぶき事典じてん 新版しんぱん平凡社へいぼんしゃ、2011ねんISBN 978-4-582-12642-6 
  3. ^ うけたまわおう元年がんねん(1652ねん)に玉川たまがわじゅうろう(たまがわ ひこじゅうろう)というものが葺屋まちをあげ、これを玉川たまがわ(たまがわざ)といったが、もなく経営けいえいなんはいとなった。
  4. ^ a b c 明和めいわ年間ねんかん(1764–1771ねん)のさかいまち・葺屋まちでは、中村なかむらだい茶屋ちゃや高級こうきゅう料理りょうり)16けんしょう茶屋ちゃや一般いっぱんけの小料理こりょうり)15けんしたがえ、市村いちむらだい茶屋ちゃや10けんしょう茶屋ちゃや15けんしたがえていた。また木挽こびきまちでは森田もりただい茶屋ちゃや7けんしたがえていた。
  5. ^ 寛永かんえい10ねん(1633ねん)にでんない(みやこ でんない)というものさかいまちをあげ、これを(みやこざ)といったが、もなく経営けいえいなんはいとなった。
  6. ^ 寛文ひろふみ元年がんねん(1661ねん)にきりだい内蔵ないぞう(きり おおくら)というもの木挽こびきまち丁目ちょうめをあげ、これをきり(きりざ)といったが、これももなく経営けいえいなんはいとなっている。
  7. ^ ただし実際じっさいには1ねん大入おおいり、2ねんもそこそこだったが、3ねん資金繰しきんぐりがつかずついにいちまくけられなかった。
  8. ^ a b c 森田もりた安政あんせい4ねん(1858ねん)にめい守田もりた(もりたざ)とあらためているが、これは積年せきねん経営けいえい不振ふしんめいのせいにして改称かいしょうしたものとしてられている。「もりした」ではたりがわるくて稲穂いなほじつのりがわるいのも当然とうぜんで、これを「まもる」とあらためればきっと豊作ほうさくになるだろう、というけんをかついだのである。
  9. ^ 天保てんぽう8ねん(1837ねん)から安政あんせい3ねん(1856ねん)まで。
  10. ^ おなねんには吉原よしはら唯一ゆいいつ公娼こうしょうとし、城下じょうかでの遊廓ゆうかく一切いっさいきんじている。聖天しょうてんまちはこの吉原よしはら隣接りんせつしたにあった。
  11. ^ 安政あんせいから明治めいじ初年しょねんごろまでの錦絵にしきえ書籍しょせきには、「さるわかまち」に「さるわかまち」と仮名かめいったものと「さるわかちょう」したものが混在こんざいする。明治めいじまつねん以後いご町名ちょうめい便覧びんらんなどの官庁かんちょう発行はっこうによる文書ぶんしょでは「さるわかちょう」としているものがおおいが、地元じもとでは一貫いっかんして「さるわかまち」とんでいたという。
  12. ^ さんざるわかまちのきつらねた30年間ねんかん火災かさい焼失しょうしつしたのは安政あんせい2ねん(1855ねん河原崎かわらざきのただ1のみだった。そのの30年間ねんかんにはさんとも度重たびかさなる失火しっか類焼るいしょうによる被災ひさい頻繁ひんぱん修理しゅうり再築さいちく余儀よぎなくされていたのとは対照たいしょうてきである。
  13. ^ a b のぼり(きしょうざ)→ 久松ひさまつ(ひさまつざ)→ 千歳ちとせ(ちとせざ)→ 明治めいじ(めいじざ)と改称かいしょう
  14. ^ 奥田おくだ(おくだざ)→ 春木はるき(はるきざ)→ 本郷ほんごう(ほんごうざ)と改称かいしょう
  15. ^ 河原崎かわらざき安政あんせい2ねん(1855ねん)に失火しっか全焼ぜんしょうするときゅうまれ、わって翌年よくねんにはほん森田もりた再興さいこうされた。その座元ざもとろく代目だいめ河原崎かわらざきけんこれすけ市村いちむら舞台ぶたい金主きんしゅ財務ざいむ責任せきにんしゃ)をねるなど活躍かつやくしたが、明治めいじ元年がんねん(1868ねん)9がつ自宅じたくった浪人ろうにん強盗ごうとうころされる。このとき戸棚とだなかくれて九死きゅうし一生いっしょうたのが養子ようしなな代目だいめけんじょ、のちの河原崎かわらざき三升みますで、これが明治めいじ7ねん(1874ねん)にしば新堀しんぼりまち河原崎かわらざき再興さいこうし、のちにこれを新堀しんぼり(しんぼりざ)とあらためている。さんしょうはこれを節目ふしめ生家せいか市川いちかわもどってきゅう代目だいめ市川いちかわだん十郎じゅうろう襲名しゅうめい明治めいじ9ねん(1876ねん)にはきゅうほんすじにあたる新富しんとみ森田もりた)の座頭ざがしら興行こうぎょう責任せきにんしゃ)になっている。
  16. ^ この守田もりた新富しんとみまちへの移転いてん新富しんとみへの改称かいしょうも、山積さんせきする負債ふさいからなんとかしたいというねがいをめたしるしかつぎだった。文字通もじどおり「あたらしいとみ」をもとめたのである。
  17. ^ 中村なかむらさるわか(さるわかざ)→ 鳥越とりこし(とりごえざ)→ 中村なかむら改称かいしょう
  18. ^ 幕末ばくまつ中村なかむら舞台ぶたい間口まぐちは6あいだやく11メートル)、明治めいじ11ねん(1878ねん落成らくせい新富しんとみは8あいだやく15メートル)、明治めいじ22ねん(1889ねん落成らくせい歌舞伎座かぶきざは13あいだやく24メートル)あった。
  19. ^ それまでの芝居しばい小屋こや天窓てんまどからかりをとっていたため、上演じょうえん早朝そうちょうから日没にちぼつまでときまっていた。明治めいじ7ねん(1874ねん)1がつられた中村なかむら番付ばんづけ演目えんもくひょう)は上演じょうえん時間じかんたい明記めいきしたもののはつだが、そこにも「午前ごぜんななよりあいはじめ、午後ごごまで」とかれている。
  20. ^ 歌舞伎座かぶきざはかつての芝居しばいまちだった木挽こびきまち4丁目ちょうめ建設けんせつされたが、この界隈かいわいはそもそも森田もりたほんぬきであること、歌舞伎座かぶきざ当時とうじ最大さいだいだった新富しんとみよりもさらにおおきい劇場げきじょうとなったこと、新富しんとみガス灯がすとう照明しょうめいなのにたい歌舞伎座かぶきざ当時とうじ最新さいしん技術ぎじゅつだった電灯でんとう使用しようしていたこと、法人ほうじんとして新設しんせつされた歌舞伎座かぶきざには従前じゅうぜんあいだ因習いんしゅうつうじないことなど、守田もりたにとって歌舞伎座かぶきざ面白おもしろくないことばかりだった。
  21. ^ このとき守田もりた支払しはらわれたのは2まんえんで、これは劇場げきじょうひとつほどの大金たいきんだった。歌舞伎座かぶきざそう工費こうひが3まん5せんえんだった時代じだいのことである。
  22. ^ このとき守田もりた歌舞伎座かぶきざ舞台ぶたいひだりからくろ-柿色かきいろ-萌葱色もえぎいろ守田もりたしき定式ていしきまくをちゃっかりと転用てんようしているが、これがそのまま定着ていちゃくして歌舞伎座かぶきざ定式ていしきまくとなり今日きょういたっている。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

歌川うたがわ広重ひろしげさるわかまちよるのけい
安政あんせい3ねんあきさるわかまち日没にちぼつとともに上演じょうえん終了しゅうりょうして芝居しばい小屋こやしずまりかえり、からは定紋じょうもんいたまくはずされた。それでも芝居しばいまち芝居しばい見物けんぶつきゃくさけ食事しょくじしていた芝居しばい茶屋ちゃやのおかげで夜更よふけまでひと気配けはいえなかった。

ほか

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]