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荒谷あらやのぞむほまれ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
荒谷あらや信孝のぶたかから転送てんそう
荒谷あらや のぞむほまれ
プロフィール
リングネーム 荒谷あらや のぞむほまれ
荒谷あらや 信孝のぶたか
ジョニー・ダン
あーちゃん
ウルトラセブン2ごう[1]
本名ほんみょう 荒谷あらや 信孝のぶたか
ニックネーム 湘南しょうなんよいとらでん
平成へいせい生傷なまきずおとこ
身長しんちょう 185cm
体重たいじゅう 120kg
誕生たんじょう (1968-03-07) 1968ねん3月7にち(56さい
出身しゅっしん 神奈川かながわけん茅ヶ崎ちがさき
所属しょぞく フリー
スポーツれき 大相撲おおずもう
トレーナー 天龍てんりゅう源一郎げんいちろう
武藤むとうたかし
デビュー 1992ねん7がつ26にち
引退いんたい 2009ねん7がつ26にち
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荒谷あらや のぞむほまれ(あらや のぶたか、1968ねん3月7にち - )は、神奈川かながわけん茅ヶ崎ちがさき出身しゅっしん九重ここのえ部屋へや所属しょぞくもと大相撲おおずもう力士りきし全日本ぜんにほんプロレス所属しょぞくもと男性だんせいプロレスラー大相撲おおずもう時代じだい四股しこめいおよ本名ほんみょう荒谷あらや 信孝のぶたか(あらや のぶたか)。選手せんしゅ生活せいかつ晩年ばんねんふち正信まさのぶきくタローらと会場かいじょうあたためる試合しあい展開てんかいし、哀愁あいしゅうかんじさせる貴重きちょう選手せんしゅだった。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょうすぐに大相撲おおずもう九重ここのえ部屋へや入門にゅうもんして、1983ねん3がつ場所ばしょに15さいはつ土俵どひょうむ。じょだんまで昇進しょうしんしたが、1985ねん7がつ場所ばしょかぎりで廃業はいぎょうしてプロレスラーに転向てんこうする。1992ねんオリエンタルプロレス入門にゅうもんするが、団体だんたい経営けいえいなんともな離脱りだつしたのち、レスリング・ユニオン傘下さんかIWA流山ながれやま移籍いせきしエースとして活動かつどうするが、こちらも経営けいえいなんにより離脱りだつ

そのW★INGプロモーションにフリーで参戦さんせんしたのち、1994ねんIWAジャパン入団にゅうだん。エースとして期待きたいされるが不本意ふほんい試合しあいつづき、苦悩くのう日々ひびつづくが、後楽園こうらくえんホールでの興行こうぎょうにおいてバルコニーからダイビングをして[2]ブレイクのきざしをせるものの、わずか9かげつ団体だんたい離脱りだつ

そのフリーになり、1995ねん6がつ天龍てんりゅう源一郎げんいちろうひきいるWAR参加さんか[3]次期じきエース候補こうほとして活躍かつやくする。1998ねん1がつ14にち日本にっぽんJ1選手権せんしゅけん争奪そうだつトーナメント決勝けっしょう天龍てんりゅうやぶれるも、天龍てんりゅうより次期じきエースのお墨付すみつきをけ、同年どうねん2がつ天龍てんりゅうがフリーとなったことからエースに昇格しょうかくする。しかし同年どうねんあき九重ここのえ部屋へや時代じだいびとつとめたこともある安田やすだ忠夫ただおとのシングルマッチで勝利しょうりするもくび負傷ふしょうし、ファイトに精彩せいさいくようになる。

2000ねん全日本ぜんにほんプロレスにWARぐんとして参戦さんせんし、同年どうねん10がつ正式せいしき入団にゅうだん

2002ねん4がつあらしとのタッグでアジアタッグ王座おうざ獲得かくとく。3防衛ぼうえいし、あらし世界せかいタッグ王座おうざ奪取だっしゅ返上へんじょう。このときにリングネームを本名ほんみょうから荒谷あらや のぞむほまれみはおなじ)に改名かいめいあらし自分じぶん許可きょかくベルト返上へんじょうしたという文句もんくをつけ、こうそうはじめるもかえちにう。

2003ねん7がつ28にちから試合しあい長期ちょうき欠場けつじょう肉体にくたい改造かいぞう(ダイエット)をおこなう。やく3かげつあいだで20kgげんの105kgまで体重たいじゅうとして復帰ふっきし、2004ねんおこなわれたチャンピオン・カーニバルでは小島こじまさとしやぶった。

2004ねんまつ平井ひらい伸和のぶかず世界せかい最強さいきょうタッグ決定けっていリーグせん出場しゅつじょうするも、全敗ぜんぱい翌年よくねん1がつ3にちふち正信まさのぶ提案ていあんおなじくリーグせん全敗ぜんぱい本間ほんまともあきら諏訪間すわま幸平こうびらくみ対戦たいせんし、敗北はいぼくふちから「圏外けんがいタッグ」の称号しょうごうあたえられた。なお、このころから着用ちゃくようしていた「圏外けんがいTてぃーシャツ」は、一般いっぱん販売はんばいしてかなりのきであった。

圏外けんがい」となりれたのか、それ以降いこうはコミカルな試合しあい展開てんかい人気にんきしゃに。きくタローの参戦さんせんもあって、前座ぜんざでの地位ちい不動ふどうのものにした。

2007ねん5がつには、なりゆきでメキシコ・アミーゴス加入かにゅう。やけにちいさいアミーゴスTてぃーシャツとルチャリブレらしい覆面ふくめんあたえられ、セコンドについたり試合しあい参加さんかするも、メンバーからはつね無視むしをされている。6月におこなわれた武藤むとうさいでは、ムトーランブルの試合しあいスキンヘッドになって登場とうじょうした。きくタローには『出所しゅっしょおめでとうございます』とまれた。

2007ねん8がつプロレスサミットにてDDT EXTREMEきゅう選手権せんしゅけん試合しあいDDT所有しょゆう王座おうざ)に挑戦ちょうせんだい4だい王者おうじゃ君臨くんりんした。おな両国りょうこく大会たいかいまれており、前座ぜんざで「カラダよろこぶ体操たいそう」を披露ひろうする大車輪だいしゃりん仕事しごとりょうであった。

2007ねん10がつシリーズではアブドーラ・ザ・ブッチャーとのタッグで試合しあいをした(最終さいしゅうせんのぞく)。試合しあいではつね荒谷あらや勝利しょうりするなど絶好調ぜっこうちょう調子ちょうしったのかブッチャーとの世界せかい最強さいきょうタッグリーグせん出場しゅつじょうねらったが、ブッチャーは鈴木すずきみのるとの出場しゅつじょうめたため、ねがいはかなわずにわる[4]しかし最強さいきょうタッグにかんしては大鷲おおわしとおるとのタッグで出場しゅつじょう[5]。そのあと同年どうねん12がつ29にちプロレスリング・エルドラド後楽園こうらくえん大会たいかい大鷲おおわしひきいるユニット『猛獣もうじゅう惑星わくせい(アニマルプラネッツ)』に電撃でんげき加入かにゅうした。

2008ねん5がつ13にちよりボノちゃんよしえちゃんともにあーちゃんとしてハッスル参戦さんせん。ボノちゃん部屋へや一員いちいんとしてデビューせんするがルールがあまりかっていないうえ試合しあいにもやぶれ、天龍てんりゅう源一郎げんいちろうに『ふざけんな、この野郎やろう中途半端ちゅうとはんぱなことをやってるとヤキれるぞ』とマイクをげつけられた。5月24にち試合しあいでもタッグせん天龍てんりゅうRGたたかうがまたやぶれ、天龍てんりゅうから『むかし、おまえにスリーミリオン使つかったんだ。ちっとも成長せいちょうしてないな。なみだるよ』と生々なまなましい発言はつげんをされてまたマイクをげつけられた。

なお、全日本ぜんにほんでの2008ねん前座ぜんざ毎回まいかいのようにふちくびがためにやぶれている。

2009ねん5がつ11にち引退いんたい表明ひょうめい

同年どうねん7がつ26にち、デビューせんおな引退いんたい試合しあい試合しあいはいつものように前座ぜんざ戦線せんせんだいいち試合しあいで、きくタローとんでふち正信まさのぶTAKAみちのくくみ激突げきとつ。この試合しあい串刺くしざ攻撃こうげき失敗しっぱい回数かいすうが5000かい記録きろく。そして試合しあいはいつもふちにかけられているくびかためを今度こんどふちがえフォふぉル勝るがち、最後さいごまで荒谷あらやらしいプロレスリングをおこなった。

引退いんたい電気でんき工事こうじ会社かいしゃ勤務きんむしているが、金属きんぞくアレルギーがるようになってしまったため、皮膚ひふがボロボロになっているという。2011ねん5がつ15にち全日本ぜんにほんプロレス・後楽園こうらくえんホール大会たいかい久々ひさびさ姿すがたあけぼのはま亮太りょうたくみのセコンドについたことから現役げんえき復帰ふっきせつながれたが、本人ほんにんは「講道館こうどうかんおこなわれたむすめ柔道じゅうどう大会たいかいったついでに挨拶あいさつったらあけぼのつかまっただけ」とかた復帰ふっき可能かのうせい否定ひていしている[6]

2013ねん10がつ27にち全日本ぜんにほんプロレス両国りょうこく国技こくぎかん大会たいかい限定げんてい復帰ふっきしている。

大相撲おおずもう時代じだいおも成績せいせき[編集へんしゅう]

  • 通算つうさん成績せいせき:40しょう51はい7きゅう 勝率しょうりつ.440
  • じょだん成績せいせき:15しょう27はい7きゅう 勝率しょうりつ.357
  • 現役げんえき在位ざいい:15場所ばしょ
  • じょだん在位ざいい:7場所ばしょ

場所ばしょべつ成績せいせき[編集へんしゅう]

荒谷あらや 信孝のぶたか
いちがつ場所ばしょ
初場所はつばしょ東京とうきょう
さんがつ場所ばしょ
春場所はるばしょ大阪おおさか
五月ごがつ場所ばしょ
夏場所なつばしょ東京とうきょう
なながつ場所ばしょ
名古屋なごや場所ばしょ愛知あいち
九月場所くがつばしょ
秋場所あきばしょ東京とうきょう
十一月じゅういちがつ場所ばしょ
九州きゅうしゅう場所ばしょ福岡ふくおか
1983ねん
昭和しょうわ58ねん
x ぜん相撲すもう ひがし序ノ口じょのくち40まい
2–5 
ひがし序ノ口じょのくち37まい
4–3 
西にし序ノ口じょのくち7まい
3–4 
ひがし序ノ口じょのくち18まい
3–4 
1984ねん
昭和しょうわ59ねん
西にし序ノ口じょのくち19まい
4–3 
西にしじょだん121まい
3–4 
西にしじょだん128まい
2–5 
西にし序ノ口じょのくち16まい
4–3 
西にしじょだん128まい
1–6 
ひがし序ノ口じょのくち18まい
5–2 
1985ねん
昭和しょうわ60ねん
西にしじょだん108まい
3–4 
西にしじょだん120まい
5–2 
ひがしじょだん88まい
1–6 
ひがしじょだん124まい
引退いんたい
0–0–7
x x
かくらん数字すうじは、「ち-け-休場きゅうじょう」をしめす。    優勝ゆうしょう 引退いんたい 休場きゅうじょう じゅうりょう 幕下まくした
さんしょう=敢闘かんとうしょうこと=殊勲賞しゅくんしょうわざ=技能ぎのうしょう     その=金星かなぼし
番付ばんづけ階級かいきゅう幕内まくうち - じゅうりょう - 幕下まくした - さんだん - じょだん - 序ノ口じょのくち
幕内まくうち序列じょれつ横綱よこづな - 大関おおぜき - 関脇せきわけ - 小結こむすび - 前頭まえがしら(「#数字すうじ」は各位かくいない序列じょれつ

タイトルれき[編集へんしゅう]

得意とくいわざ[編集へんしゅう]

ムーンサルトプレス
荒谷あらやおくであり最大さいだい必殺ひっさつわざ。オリプロ時代じだい参戦さんせんしていたW★INGにて、当時とうじW★INGの常連じょうれん外国がいこくじん選手せんしゅであったクラッシュ・ザ・ターミネーターことビル・デモット伝授でんじゅされた。そのため、体格たいかくりに距離きょりもフォームも見事みごとで、距離きょりにおいてはふち正信まさのぶをもおどろかせた。荒谷あらやのそれは、うでうえばさずにみずからのこしあたりにえている。また、荒谷あらやのムーンサルトが成功せいこうすると「ムササビがった!!」という実況じっきょうはいる。
ラリアット
体格たいかくかした一撃いちげき見舞みまう。ダイエット直後ちょくごはスピードもあり必殺ひっさつわざとして機能きのうしたが、後年こうねん助走じょそうみじかいショートレンジしきおおい。串刺くしざしきなども使用しようするが、コメディターンしてからはたまに成功せいこうする程度ていどとなった。
一時期いちじき小島こじま敵意てきいやしていたことがある。
垂直すいちょく落下らっかしきブレーンバスター
もっと使用しようされるフィニッシュ・ホールド。
バイバレー
ハーフネルソンの状態じょうたいからリバースこし相手あいてよこまたは後方こうほうてる。相手あいてのラリアットやエルボーをキャッチしてげることもある。晩年ばんねんはあまり使つかわなくなった。
カンチョー
こし持病じびょうかかえるふちたいして使用しようしたところ、とてもいたがったため頻繁ひんぱん使つかうようになる。

試合しあいでのムーブ[編集へんしゅう]

  • 味方みかたにラリアットが誤爆ごばく
  • コーナーへの串刺くしざしラリアットの失敗しっぱい味方みかた相次あいついで成功せいこうするのに、荒谷あらやだけがかえされる。
  • 味方みかたきくタローに股間こかんられてやめがる。
  • きくタローにコーナーにのぼるよう指示しじされ、ほっとかれる。
  • 味方みかたきくタローからなぐるの暴行ぼうこうける。
  • 間違まちがえてレフェリーにカンチョーまたは金的きんてきり。
  • メキシコ・アミーゴスのムーブにからもうとするも無視むしされる。

入場にゅうじょうきょく[編集へんしゅう]

退場たいじょうきょく[編集へんしゅう]

  • 元祖がんそ天才てんさいバカボンのはる」(こおろぎ'73コロムビアゆりかごかい[7]
  • ロッキー荒谷あらやむかし荒谷あらやらしい試合しあいをしたり、つぎ試合しあいなにかあるときにだけ使用しようされる勝利しょうりきょく

人柄ひとがら[編集へんしゅう]

  • さけきであり、ニックネームの「湘南しょうなんよいとらでん」は実生活じっせいかつからである。
  • あかるくひょうきんで天然てんねんボケな性格せいかくのため、家族かぞくやレスラー仲間なかま困惑こんわくさせた。
  • 小島こじまさとしを「小島こじまさん」とび、小島こじま荒谷あらやを「荒谷あらやさん」とんだ。これは小島こじまほうがプロレスラーとして先輩せんぱいではあるが、年齢ねんれい荒谷あらやうえだったこともある。
  • 花屋はなやのスポンサーを獲得かくとくしたこともあり、さらに2007ねん12月にはつぼはちをコスチュームにくわえる。12月9にち大阪おおさか大会たいかいでは『荒谷あらやつぼはち』とコールされた。
  • 体重たいじゅう詐称さしょうし、ジュニアヘビーきゅうのバトルロイヤルに出場しゅつじょうしたこともある。
  • ダイエットのスリムな体型たいけい長続ながつづきせず、リバウンドして120kgにもどってしまった。
  • きくタローとのタッグは「バカ兄弟きょうだい」とばれた。
  • むすめ小学校しょうがっこうに、愛犬あいけん(すこし)の散歩さんぽをしていたさい学校がっこう関係かんけいしゃから不審ふしんしゃあつかいされ、その小学校しょうがっこうは「不審ふしんしゃた」という理由りゆう集団しゅうだん下校げこうさせている。
  • 一時期いちじきメキシコにルチャ修行しゅぎょうをしていたが、参戦さんせんしていたそのとし地元じもとのルチャ雑誌ざっしにてワースト外国がいこくじんレスラーという名誉めいよいただく(論外ろんがいだん)。
  • 荒谷あらやつくちゃんこなべ美味おいしいと評判ひょうばんで、さらにならかた綺麗きれいかざられている。「週刊しゅうかんプロレス」の「ちゃんこなべ特集とくしゅうでは、しおつみれちゃんこを誌上しじょう披露ひろうした。
  • バトルロイヤルでは最後さいごまでのこることがおおかったが、大抵たいていけてしまっている。

哀愁あいしゅう[編集へんしゅう]

前座ぜんざ起用きようされるようになり、そのダメっぷりで観客かんきゃく失笑しっしょうさそうようになった荒谷あらや。さる2006ねん晩秋ばんしゅう後楽園こうらくえん大会たいかいきくタローから最強さいきょうタッグへの出場しゅつじょう打診だしんされるも、裏切うらぎられ股間こかんられる。リングじょうでうずくまる荒谷あらたに姿すがた観客かんきゃく哀愁あいしゅうかんじた。会場かいじょうにはせつないきょくながれ、なんともいえない雰囲気ふんいき会場かいじょうつつんだ。

地方ちほう会場かいじょうでもふちきくタローにもてあそばれ、リングにひとりのこされることがおおい。2007ねん2がつ17にち両国りょうこく大会たいかいまえリキシから「8りゅうレスラーの荒谷あらやなんかとめない」とタッグ結成けっせい拒絶きょぜつされる。代理だいりでジョニー・ダンという金髪きんぱつおとこ出場しゅつじょうした(荒谷あらや大相撲おおずもう時代じだい最高さいこうじょだんのもじり)ものの、かお試合しあい呆気あっけなさは完全かんぜん荒谷あらやだった。あけぼのから64でやはり呆気あっけなくフォールをられたため、試合しあいリキシが激怒げきどし、必殺ひっさつわざスティンク・フェイスをらう破目われめになった。全日本ぜんにほんプロレスの特別とくべつ興行こうぎょうでは女子じょしプロレスラーのはなめいからも拒絶きょぜつされ、強烈きょうれつらい、鼻血はなぢしたこともある。

団体だんたいからベルトをねら挑戦ちょうせんしゃあらわれた場合ばあい門番もんばんてき役割やくわりとしてシングルマッチをおこなっていたが、その大半たいはんにあっけなくやぶっている。高山たかやまよしひろとの試合しあいではわずか53びょうやぶれた。

脚注きゃくちゅう出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ W★INGプロモーションの興行こうぎょうで、高杉たかすぎ正彦まさひこがウルトラセブンとしてリングにがったさい、パートナーとして、このリングネームを使つかっている。
  2. ^ バルコニーダイブをおこなったのは松永まつなが光弘みつひろつづいて2人ふたりだが、荒谷あらやあたまからりている。
  3. ^ 当初とうしょ冬木ふゆき弘道ひろみちひきいる『冬木ふゆきぐん』の一員いちいんとして参戦さんせんしたが、すぐに正規せいきぐんりしている。
  4. ^ なお、みのるがないときにはなぜか荒谷あらやとブッチャーがよくみ、勝率しょうりつ非常ひじょうたかい。
  5. ^ 。しかし結果けっかはわずか1しょうわる。しかもその1しょうもTARU&ゾディアックの反則はんそくによるもので実質じっしつ全敗ぜんぱいだった。
  6. ^ 東京とうきょうスポーツ・2011ねん5がつ22にちづけ 5めん
  7. ^ プロレスラーとしては史上しじょうはつの「退場たいじょうのテーマきょく」である。

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]