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鎌田かまた栄吉えいきち

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鎌田かまた榮吉えいきちから転送てんそう
鎌田かまたかまた 栄吉えいきちえいきち
かま󠄁 榮吉えいきち
肖像しょうぞう写真しゃしん
生年月日せいねんがっぴ 1857ねん2がつ15にち
安政あんせい4ねん1がつ21にち
出生しゅっしょう 日本の旗 紀伊きいこく
ぼつ年月日ねんがっぴ (1934-02-06) 1934ねん2がつ6にち(76さいぼつ
出身しゅっしんこう 慶應義塾けいおうぎじゅく
所属しょぞく政党せいとう 交友こうゆう倶楽部くらぶ
称号しょうごう せいさん
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう

日本の旗 だい30だい 文部もんぶ大臣だいじん
内閣ないかく 加藤かとう友三郎ともさぶろう内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1922ねん6月12にち - 1923ねん9月2にち

選挙せんきょ 貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいん
在任ざいにん期間きかん 1906ねん5月17にち - 1927ねん12月24にち
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鎌田かまた 栄吉えいきち(かまた えいきち、きゅう字体じたいかま󠄁 榮吉えいきち1857ねん2がつ15にち安政あんせい4ねん1がつ21にち[ちゅう 1]) - 1934ねん昭和しょうわ9ねん2がつ6にち)は、紀州きしゅうはん出身しゅっしん明治めいじ官僚かんりょう政治せいじ枢密すうみつ顧問こもんかん貴族きぞくいん議員ぎいん衆議院しゅうぎいん議員ぎいん文部もんぶ大臣だいじん慶應義塾けいおうぎじゅくちょう帝国ていこく教育きょういく会長かいちょう交詢社こうじゅんしゃ理事りじちょう[1]せいさん勲一等くんいっとうごうたけどう

経歴けいれき

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紀州きしゅうはん家臣かしんだん鎌田かまたくわぞうとして、紀伊きいこくまれる。どう世代せだい津田つだいずる陸奥むつ宗光むねみつ桑山くわやま覚三かくぞう北畠きたばたけみちりゅうなど。

藩校はんこう学習がくしゅうかんはい兵学へいがく漢籍かんせきまなび、みなみりゅういん徳川とくがわ茂承もちつぐ)のいのちによりはん選抜せんばつ東都とうと遊学ゆうがくいのち谷井たにいたもつらととも慶應義塾けいおうぎじゅくはいる。1875ねん明治めいじ8ねん)に卒業そつぎょう慶應義塾けいおうぎじゅく教鞭きょうべんる。紀州きしゅうはん藩政はんせい改革かいかくとき津田つだいずる多額たがくはんきんついやして、紀州きしゅう仏蘭西ふらんすしき陸軍りくぐんとうとしたことに反対はんたいし、人物じんぶつ養成ようせい必要ひつようせい主張しゅちょうして対立たいりつした。

1877ねん明治めいじ10ねん)に西南せいなん戦争せんそうこると塾生じゅくせいおおくが旧藩きゅうはん帰郷ききょうしたため財政難ざいせいなんとなるが、日夜にちや寝食しんしょくわすれて教職きょうしょくささげる。1881ねん明治めいじ14ねん)に設立せつりつされた公立こうりつ鹿児島かごしま学校がっこう鹿児島かごしま県立けんりつ中学ちゅうがくづくりかん)の教頭きょうとうとしてへいせられる[2]1884ねん明治めいじ17ねん内務省ないむしょう御用ごようかけとなる[3]1886ねん明治めいじ19ねん大分おおいた中学ちゅうがく校長こうちょう就任しゅうにんし、1887ねん明治めいじ20ねん大分おおいたけん尋常じんじょう師範しはんがく校長こうちょうてん1889ねん明治めいじ22ねん)まで在任ざいにんした[3]

1894ねん明治めいじ27ねん)にはだい3かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ和歌山わかやま1から衆議院しゅうぎいん議員ぎいん当選とうせん。その1898ねん明治めいじ31ねん)に慶應義塾けいおうぎじゅくちょう(1922ねんまで)、高等こうとう教育きょういく会議かいぎいんとなり、1906ねん明治めいじ39ねん)5がつ17にち貴族きぞくいん議員ぎいんみことのりせんされる[4]慶應義塾けいおうぎじゅくでは、臨時りんじ教育きょういくかいはしはっする学校がっこう教練きょうれん首唱しゅしょうしゃ山川やまかわ健次郎けんじろう東京帝大とうきょうていだい総長そうちょう)ととも軍事ぐんじ予備よび教育きょういく確立かくりつするよう提言ていげんへいしき体操たいそう改善かいぜんして、退役たいえき下士官かしかん現役げんえき将校しょうこう起用きよう

1919ねん大正たいしょう8ねん)には国際こくさい労働ろうどう機関きかん開催かいさいだい1かい国際こくさい労働ろうどう会議かいぎ政府せいふ代表だいひょうとして出席しゅっせき1922ねん大正たいしょう11ねん)には文政ぶんせい審議しんぎかい委員いいん教育きょういく評議ひょうぎかい会長かいちょうとなり、加藤かとう友三郎ともさぶろう内閣ないかく文部もんぶ大臣だいじんとなった。1927ねん昭和しょうわ2ねん)より枢密すうみつ顧問こもんかんつとめ、同年どうねん帝国ていこく教育きょういく会長かいちょう就任しゅうにんした。いで臨時りんじマ字まじ調査ちょうさかい委員いいん教科書きょうかしょ調査ちょうさかい会長かいちょうとなる。1930ねん12月15にち発足ほっそくした臨時りんじマ字まじ調査ちょうさかいでは、田中たなかたて愛橘あいきつ対抗たいこうしてヘボンしきマ字まじ使用しよう主張しゅちょう

死去しきょさいしてまんしゅうこく建国けんこく功労こうろうしょうおくられる。また、紀州きしゅう徳川とくがわだい15だい当主とうしゅ徳川とくがわよりゆきりん指南しなんやく教育きょういくがかり)をつとめ、みなみあおい育英いくえいかい設立せつりつするにあたって序文じょぶん担当たんとうした。

栄典えいてん

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位階いかい
勲章くんしょうとう
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

著書ちょしょ

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全集ぜんしゅう

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  • 鎌田かまた栄吉えいきち全集ぜんしゅうだい1かん伝記でんきへん)、鎌田かまた栄吉えいきち先生せんせい伝記でんき及全しゅう刊行かんこうかい、1935ねん2がつNCID BN01524374全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:58008458 
    • 鎌田かまた栄吉えいきち全集ぜんしゅう だいいちかん 伝記でんきへん』(復刻ふっこくばん大空おおぞらしゃ伝記でんき叢書そうしょ 366〉、2012ねん1がつISBN 9784283008434NCID BN01524374全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:58008458 
    • 収録しゅうろくだい一部いちぶ先生せんせい生涯しょうがい, 先生せんせい人物じんぶつ風韻ふういん, 先生せんせい発病はつびょうから葬送そうそうまで, 自伝じでんかたる, 慶応義塾けいおうぎじゅくかんする論説ろんせつ, 福沢ふくさわ先生せんせいに就て), だい欧米おうべい漫遊まんゆう雑記ざっき, 欧米おうべい漫遊まんゆうしょかん, みなみたび
  • 鎌田かまた栄吉えいきち全集ぜんしゅうだい2かん著作ちょさくへん)、鎌田かまた栄吉えいきち先生せんせい伝記でんき及全しゅう刊行かんこうかい、1934ねん6がつNCID BN01524374全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:58008458 
    • 収録しゅうろく独立どくりつ自尊じそん, 教育きょういく実業じつぎょう, 進取しんしゅろん
  • 鎌田かまた栄吉えいきち全集ぜんしゅうだい3かんしょさくへん)、鎌田かまた栄吉えいきち先生せんせい伝記でんき及全しゅう刊行かんこうかい、1934ねん10がつNCID BN01524374全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:58008458 
    • 収録しゅうろく修養しゅうよう道徳どうとくかんするしょろん, 時事じじ問題もんだいもろろん, 旅行りょこうろんその, うた句集くしゅう

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ アジア歴史れきし資料しりょうセンター『鎌田かまた栄吉えいきち』では「安政あんせい4ねん1がつ21にち」であるが、鎌田かまた本人ほんにんは、それは戸籍こせき日付ひづけ実際じっさいには「安政あんせい4ねん8がつ26にちまれであるとかたっている。

出典しゅってん

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  1. ^ 鎌田かまた栄吉えいきち人事じんじ興信録こうしんろくだい8はん [昭和しょうわ3(1928)ねん7がつ]
  2. ^ 慶應義塾けいおうぎじゅく機関きかん三田みた評論ひょうろん』2017ねん8・9がつ合併がっぺいごう「【福澤ふくさわ諭吉ゆきちをめぐる人々ひとびと鎌田かまた栄吉えいきち」(Onlineばん 2019ねん3がつ3にち閲覧えつらん
  3. ^ a b 鎌田かまた栄吉えいきち」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A06051178200 
  4. ^ 官報かんぽうだい6863ごう明治めいじ39ねん5がつ18にち
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n 鎌田かまた栄吉えいきち」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A06051178200 
  6. ^ 官報かんぽうだい2965ごう叙任じょにん及辞れい」1922ねん6がつ21にち
  7. ^ 官報かんぽうだい539ごう叙任じょにん及辞れい」1928ねん10がつ10日とおか
  8. ^ 官報かんぽう号外ごうがい叙任じょにん及辞れい」1915ねん11がつ10日とおか
  9. ^ 官報かんぽうだい1499ごう附録ふろく辞令じれい」1931ねん12月28にち
  10. ^ 官報かんぽうだい2130ごう叙任じょにん及辞れい」1934ねん2がつ9にち

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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ウィキメディア・コモンズには、鎌田かまた栄吉えいきちかんするカテゴリがあります。

公職こうしょく
先代せんだい
はやし博太郎ひろたろう
日本の旗 教科書きょうかしょ調査ちょうさかい会長かいちょう
1932ねん - 1934ねん
次代じだい
永田ながた秀次郎ひでじろう
先代せんだい
中橋なかはし徳五郎とくごろう
日本の旗 航空こうくう評議ひょうぎかい会長かいちょう
1922ねん - 1923ねん
次代じだい
いぬやしなえあつし
先代せんだい
岡野おかの敬次郎けいじろう
日本の旗 教育きょういく評議ひょうぎかい会長かいちょう
1922ねん
次代じだい
はやし博太郎ひろたろう
先代せんだい
村上むらかみ田長たなご
大分おおいたけん師範しはんがく校長こうちょう
大分おおいたけん尋常じんじょう師範しはんがく校長こうちょう
1887ねん - 1889ねん
次代じだい
小野おの一郎いちろう
先代せんだい
村上むらかみ田長たなご
大分おおいた中学ちゅうがく校長こうちょう
大分おおいたけん尋常じんじょう中学校ちゅうがっこうなが
1886ねん - 1887ねん
大分おおいた中学ちゅうがく校長こうちょう
1886ねん
次代じだい
ころも斐鉸太郎たろう
その役職やくしょく
先代せんだい
西園寺さいおんじ公望きんもち
マ字まじひろめかい会頭かいとう
1927ねん - 1934ねん
次代じだい
門野もんのいくこれしん
先代せんだい
はやし博太郎ひろたろう
帝国ていこく教育きょういくかい会長かいちょう
1932ねん - 1934ねん
次代じだい
永田ながた秀次郎ひでじろう