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紀元節きげんせつ

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宮中きゅうちゅう祭祀さいし主要しゅよう祭儀さいぎ一覧いちらん
四方拝しほうはい歳旦さいたんさい
元始げんしさい
そう事始ことはじめ
昭和しょうわ天皇てんのうまつり先帝せんていさい
孝明天皇こうめいてんのう例祭れいさい先帝せんてい以前いぜんさんだい例祭れいさい
祈年祭としごいのまつり
てんちょうさい天長節てんちょうせつさい
春季しゅんき皇霊こうれいさい春季しゅんき神殿しんでんさい
神武じんむ天皇てんのうさい皇霊こうれい殿どの御神楽みかぐら
こうじゅん皇后こうごう例祭れいさいさききさき例祭れいさい
ふしおり大祓おおはらい
明治天皇めいじてんのう例祭れいさい先帝せんてい以前いぜんさんだい例祭れいさい
秋季しゅうき皇霊こうれいさい秋季しゅうき神殿しんでんさい
神嘗祭かんなめさい
新嘗祭にいなめさい
賢所かしこどころ御神楽みかぐら
大正天皇たいしょうてんのう例祭れいさい先帝せんてい以前いぜんさんだい例祭れいさい
ふしおり大祓おおはらい

紀元節きげんせつ(きげんせつ)は、古事記こじき日本書紀にほんしょき日本にっぽん初代しょだい天皇てんのうとされる神武じんむ天皇てんのう即位そくいをもってさだめた祝日しゅくじつ日付ひづけ紀元前きげんぜん660ねん2がつ11にち1873ねん明治めいじ6ねん)にさだめられた。かつての祝祭日しゅくさいじつなか四大しだいぶしひと[1]

1948ねん7がつ20日はつかの「国民こくみん祝日しゅくじつかんする法律ほうりつ公布こうふ施行しこうにより、紀元節きげんせつふく四大しだいぶし廃止はいしされた[2]1966ねん昭和しょうわ41ねん)にどうじ2がつ11にちが「建国けんこく記念きねん」として国民こくみん祝日しゅくじつとなり、翌年よくねんから適用てきようされた。

2がつ11にち日付ひづけは、日本書紀にほんしょき神武じんむ天皇てんのう即位そくいしたとされる神武じんむ天皇てんのう元年がんねん紀元前きげんぜん660ねん1がつ1にち月日つきひを、明治めいじはいグレゴリオれき換算かんさんしたものである。

紀元節きげんせつ制定せいていまで

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8世紀せいきはじめにまれた『日本書紀にほんしょき』によれば、神武じんむ天皇てんのう即位そくいは「からしとり年春としはる正月しょうがつかのえたつついたち」であり、日付ひづけ正月しょうがつ朔日さくじつ、すなわち1がつ1にちとなる。

からしとり年春としはる正月しょうがつ かのえたつついたち 天皇てんのうそく帝位ていい於橿はらみや — 『日本書紀にほんしょきまきだいさんかみ武紀たけのり

しかし、明治めいじ5ねん11月15にち1872ねん12月15にち)、明治めいじ政府せいふ神武じんむ天皇てんのう即位そくいをもって「紀元きげん」とさだめ(明治めいじ5ねん太政官だじょうかん布告ふこくだい342ごう)、同日どうじつには「だいいちがつ廿にじゅうきゅうにち」(1がつ29にち)を神武じんむ天皇てんのう即位そくい相当そうとうとして祝日しゅくじつにすることをさだめた(明治めいじ5ねん太政官だじょうかん布告ふこくだい344ごう)。(新暦しんれきによる表示ひょうじである)1873ねん1がつ29にちは、新暦しんれき太陽暦たいようれきグレゴリオれき)で旧暦きゅうれき太陰たいいん太陽暦たいようれき天保てんぽうれき)のままえなかったときの明治めいじ6ねん1がつ1にちたる日付ひづけ並行へいこうしてふたつのこよみすすめたときかさなる)である。おりがら明治めいじ5ねん12月2にち1872ねん12月31にち)の翌日よくじつをもって明治めいじ6ねん1がつ1にち(1873ねん1がつ1にち)とし、新暦しんれき施行しこうされることになっていた。

今般こんぱん太陽暦たいようれき頒行神武じんむ天皇てんのう即位そくいヲ以テ紀元きげんていこうづけ其旨ヲためつげこうためらい廿にじゅう五日御祭典被執行候事
ただし當日とうじつふくしゃ[3]参朝さんちょうはばかこと

— 「太陽暦たいようれき頒行神武じんむ天皇てんのう即位そくいヲ以テ紀元きげんていメラルニづけじゅういちがつじゅうにち祭典さいてん」(明治めいじ5ねん太政官だじょうかん布告ふこくだい342ごう)、[4]

だいいちがつ廿にじゅうきゅうにち 神武じんむ天皇てんのう即位そくいしょう當日とうじつづけ祝日しゅくじつ定例ていれいねん祭典さいてん執行しっこうこうごと

— 「神武じんむ天皇てんのう即位そくい祝日しゅくじつ例年れいねん祭典さいてん」(明治めいじ5ねん太政官だじょうかん布告ふこくだい344ごう

1873ねん明治めいじ6ねん)1がつ29にち神武じんむ天皇てんのう即位そくいいわって、神武じんむ天皇てんのう御陵ごりょう遙拝ようはいしき各地かくちおこなわれた。同月どうげつ神武じんむ天皇てんのう即位そくい天長節てんちょうせつ天皇誕生日てんのうたんじょうび)を祝日しゅくじつとする布告ふこくしている。同年どうねん3がつ7にちには、神武じんむ天皇てんのう即位そくいを「紀元節きげんせつ」としょうすることをさだめた(明治めいじ6ねん太政官だじょうかん布告ふこくだい91ごう)。

今般こんぱん改暦かいれき付人つきびと上巳じょうし端午たんごななゆう重陽ちょうようせつはい神武じんむ天皇てんのう即位そくい天長節てんちょうせつ両日りょうじつヲ以テ自今じこん祝日しゅくじつていこうごと

— 「せつはい祝日しゅくじつていム」(明治めいじ6ねん太政官だじょうかん布告ふこくだい1ごう

神武じんむ天皇てんのう即位そくい紀元節きげんせつしょうこうごと

— 「神武じんむ天皇てんのう即位そくい紀元節きげんせつしょうセラル」(明治めいじ6ねん太政官だじょうかん布告ふこくだい91ごう

ところで、これらの太政官だじょうかん布告ふこく先立さきだって、明治めいじ5ねん11月9にち(1872ねん12月9にち)にされていた太陽暦たいようれき施行しこうするむね太政官だじょうかん布告ふこくでは、祭典さいてんとう日付ひづけは、旧暦きゅうれき月日つきひ新暦しんれき月日つきひには換算かんさんせずまったくおな数字すうじになるように施行しこうするものとさだめていた(明治めいじ5ねん太政官だじょうかん布告ふこくだい337ごう)。

りゃく
いち しょ祭典さいてんとう舊曆きゅうれき月日つきひ新曆しんれき月日つきひ相當そうとう施行しこう致事ちし
りゃく

— 「太陰暦たいいんれきはい太陽暦たいようれきヲ頒行ス」(明治めいじ5ねん太政官だじょうかん布告ふこくだい337ごう抜粋ばっすい

これは、祭典さいてん執行しっこう新暦しんれき固定こていし、毎年まいとし旧暦きゅうれき月日つきひから新暦しんれき月日つきひ換算かんさんする煩雑はんざつさをけるための規定きていである。たとえば、例年れいねん1がつ1にち新年しんねんいわっておこなわれる歳旦さいたんさいは、旧暦きゅうれき1がつ1にち新暦しんれき相当そうとうではなく新暦しんれき1がつ1にちおこなうということになる。

この規定きてい影響えいきょうなどもあって、紀元節きげんせつ旧暦きゅうれき1がつ1にち、すなわちきゅう正月しょうがついわ祝日しゅくじつとの誤解ごかい国民こくみんのあいだにひろまった。国民こくみんのこの反応はんのう政府せいふは、紀元節きげんせつ神武じんむ天皇てんのう即位そくいいわ祝日しゅくじつであるという理解りかいひろまらないのではないかとかんがえた。また、1がつ29にちでは、孝明天皇こうめいてんのう命日めいにち慶応けいおう2ねん12月25にち(1867ねん1がつ30にち)、孝明天皇こうめいてんのうさい)と前後ぜんごするため、不都合ふつごうでもあった[5]

そこで、政府せいふは、1873ねん明治めいじ6ねん)10がつ14にちあらたに神武じんむ天皇てんのう即位そくいさだなおし、2がつ11にち紀元節きげんせつとした(明治めいじ6ねん太政官だじょうかん布告ふこくだい344ごう)。

年中ねんじゅう祭日さいじつ祝日しゅくじつとう休暇きゅうかひだりつうこうじょう此旨布告ふこくこうごと
りゃく
孝明天皇こうめいてんのうさい いちがつさんじゅうにち
紀元節きげんせつ がつじゅういちにち
神武じんむ天皇てんのうさい よんがつさんにち
りゃく

— 「年中ねんじゅう祭日さいじつ祝日しゅくじつ休暇きゅうかていム」(明治めいじ6ねん太政官だじょうかん布告ふこくだい344ごう

2がつ11にちという日付ひづけは、文部省もんぶしょう天文てんもんきょく算出さんしゅつし、暦学れきがくしゃ塚本つかもとあきらあつし審査しんさして決定けっていした。その具体ぐたいてき計算けいさん方法ほうほうあきらかにされていないが、当時とうじ説明せつめいでは「干支えとそうより簡法相ほうしょうて」としている。

干支えと紀年きねんほうは、こうかん元和がんわ2ねんユリウスれき85ねん)にさんすべれき廃止はいしして以降いこうは、60の周期しゅうき単純たんじゅんかえすようになっている[6]神武じんむ天皇てんのう即位そくいねんの「からしとりねん」は『日本書紀にほんしょき』のへんねん720ねん養老ようろう4ねん)に成立せいりつ)をもと計算けいさんすると西暦せいれき紀元前きげんぜん660ねん相当そうとうし、即位そくいがつは「はる正月しょうがつ」であることから立春りっしゅん前後ぜんごであり、即位そくい干支えとは「かのえたつ」である。そこで西暦せいれき先発せんぱつグレゴリオれき)で紀元前きげんぜん660ねん立春りっしゅんもっとちかかのえたつさがすと新暦しんれき2がつ11にち特定とくていされる。その前後ぜんごでは前年ぜんねん12がつ20日はつか同年どうねん4がつ19にちかのえたつであるが、これらは「はる正月しょうがつ」にならない。したがって、「からしとり年春としはる正月しょうがつかのえたつ」は紀元前きげんぜん660ねん2がつ11にちとした。なお、『日本書紀にほんしょき』はこのが「ついたち」、すなわち新月しんげつであったとも記載きさいしているが、ついたち暦法れきほう依存いぞんしており「簡法」では計算けいさんできないので、明治めいじ政府せいふによる計算けいさんでは考慮こうりょされなかったとかんがえられる。なお、現代げんだい天文てんもん知識ちしきもとづき当時とうじ月齢げつれい計算けいさんすると、この[7]天文てんもんじょうついたちたるが、これは天文てんもんじょうついたちにあわせるため、かのえたつ即位そくいとしたとかんがえられている。

制定せいていから「建国けんこく記念きねん」にわるまで

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紀元節きげんせつには、宮中きゅうちゅう皇霊こうれい殿どの天皇てんのう親祭しんさい祭儀さいぎおこなわれ、各地かくち神武じんむ天皇陵てんのうりょう遙拝ようはいしきおこなわれた。1889ねん明治めいじ22ねん)には、このして大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう発布はっぷされ、これ以降いこう憲法けんぽう発布はっぷ記念きねんするにもなった。1891ねん明治めいじ24ねん)には小学校しょうがっこう祝日しゅくじつ大祭たいさい儀式ぎしき規程きてい明治めいじ24ねん6月17にち文部省もんぶしょうれいだい4ごう)がさだめられ、天皇てんのう皇后こうごう御真影ごしんえい写真しゃしん)にたいするさい敬礼けいれい万歳ばんざい奉祝ほうしゅく校長こうちょうによる教育きょういく勅語ちょくご奉読ほうどくなどからなる儀式ぎしき小学校しょうがっこうおこなうことになった。1914ねん大正たいしょう3ねん)からは全国ぜんこく神社じんじゃ紀元節きげんせつさいおこなうこととなった。1926ねん大正たいしょう15ねん)からは青年せいねんだん在郷ざいきょう軍人ぐんじんかいなどを中心ちゅうしんとした建国けんこくさい式典しきてん各地かくち開催かいさいされるようになった。

だい世界せかい大戦たいせん1947ねん昭和しょうわ22ねん)、片山かたやまあきら内閣ないかくにより、日本国にっぽんこく憲法けんぽうにふさわしい祝日しゅくじつ法案ほうあん紀元節きげんせつが「建国けんこく」としてまれていたが、連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれいにより削除さくじょされ、ほう1948ねん昭和しょうわ23ねん)7がつ施行しこうされた。日本にっぽん独立どくりつ回復かいふくした1952ねん昭和しょうわ27ねん)から復活ふっかつ運動うんどうがおき、1957ねん2がつ13にち自民党じみんとう纐纈こけつわたるさんらは、建国けんこく記念きねん法案ほうあん国会こっかい提出ていしゅつし、5月15にち衆議院しゅうぎいん可決かけつ(のち審議しんぎ未了みりょう)、また1958ねん昭和しょうわ33ねん)に国会こっかい議案ぎあん提出ていしゅつされた。その、「紀元節きげんせつ」の復活ふっかつ賛否さんぴ両論りょうろん[8]あるなかすう廃案はいあんさい提案ていあんて、1965ねん2がつ3にち首相しゅしょう佐藤さとう全国ぜんこく知事ちじ会議かいぎ建国けんこく記念きねんは2がつ11にち適当てきとう祝日しゅくじつほう改正かいせいあん政府せいふ立法りっぽう国会こっかい提出ていしゅつすると所信しょしん表明ひょうめい1966ねん昭和しょうわ41ねん)に、「建国けんこくをしのび、くにあいするしんやしなう。」という趣旨しゅしの「建国けんこく記念きねん」をさだめる国民こくみん祝日しゅくじつかんする法律ほうりつ改正かいせい成立せいりつした。どう改正かいせいほうでは、「建国けんこく記念きねん」の具体ぐたいてき日付ひづけについてさだめず、政令せいれいによってさだめることとしていた。そのため、同年どうねん12がつ佐藤さとう栄作えいさく内閣ないかくは、建国けんこく記念きねんとなるさだめる政令せいれい昭和しょうわ41ねん政令せいれいだい376ごう)をさだめて、「建国けんこく記念きねん」を2がつ11にちとした。どう政令せいれい即日そくじつ施行しこうされ、よく1967ねん昭和しょうわ42ねん)の2がつ11にち実施じっしされた。こうして、紀元節きげんせつ祭日さいじつであった2がつ11にちは、「建国けんこく記念きねん」として祝日しゅくじつとなった。

1966ねん12月8にち建国けんこく記念きねん審議しんぎかい建国けんこく記念きねんを2がつ11にち答申とうしんし、12月9にち公布こうふされた(政令せいれい)。

紀元節きげんせつさい

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紀元節きげんせつ祭日さいじつとされていたときには、その当日とうじつ宮中きゅうちゅうさん殿どの賢所かしこどころ皇霊こうれい殿どの神殿しんでんでは、紀元節きげんせつさいおこなわれ、紀元節きげんせつ祝宴しゅくえんおこなわれた。また、全国ぜんこく神社じんじゃにおいても、紀元節きげんせつさいおこなわれた。

紀元節きげんせつさいは、はじめて紀元節きげんせつとされた1873ねん明治めいじ6ねん)1がつ29にちに、宮中きゅうちゅうさん殿どの皇霊こうれい殿どのにおいておこなわれたのが最初さいしょである。このときには皇霊こうれい殿どのにおいてのみ祭祀さいしおこなわれ、賢所かしこどころには便たよりのはいおこなわれただけであった。1914ねん大正たいしょう3ねん)から、全国ぜんこく神社じんじゃでも紀元節きげんせつさいおこなうようにさだめられ、1927ねん昭和しょうわ2ねん)の皇室こうしつ祭祀さいしれい一部いちぶ改正かいせいによって、賢所かしこどころ皇霊こうれい殿どの神殿しんでんにおいておこなわれるようになった。

皇室こうしつ祭祀さいしれいさだめる大祭たいさいのひとつで、天皇てんのう皇族こうぞくおよび官僚かんりょうひきいておや祭典さいてんおこなう。天皇てんのう出御しゅつぎょ午前ごぜん930ふんで、拝礼はいれい告文こくぶんそうしてにゅう。ついで皇后こうごう皇太后こうたいごうはい皇族こうぞくはいがある。参列さんれついん文武ぶんぶだか官有かんゆう爵者優遇ゆうぐうしゃみことのりにん待遇たいぐうまでの官僚かんりょうで、正午しょうごから午後ごご330ふんまで、ゆう資格しかくしゃ参拝さんぱいゆるされた。当夜とうや賢所かしこどころ御神楽みかぐらじゅんじて皇霊こうれい殿どの御神楽みかぐら奏楽そうがくがあり、このとき天皇てんのうはいして、にゅうののち神楽かぐらうつった。天皇てんのうは、神楽かぐらわるまで就寝しゅうしんしなかった。伊勢神宮いせじんぐうかん国幣社こくへいしゃ以下いか神社じんじゃにおいては、1914ねん大正たいしょう3ねん)から、ちゅう祭式さいしき祭典さいてんおこなわれた。

1947ねん昭和しょうわ22ねん)5がつ2にち皇室こうしつ祭祀さいしれい廃止はいし1948ねん昭和しょうわ23ねん)7がつ20日はつか休日きゅうじつせきスルけん廃止はいしけて、1949ねん昭和しょうわ24ねん以降いこう大祭たいさいとしての紀元節きげんせつさいおこなわれなくなった[9]。ただし、昭和しょうわ天皇てんのう同年どうねんの2がつ11にちより、宮中きゅうちゅうさん殿どのにおいて、臨時りんじはい(りんじごはい)として、しゅんさいおな作法さほう親拝しんぱいおこなった[10]平成へいせい以降いこうさん殿御とのごはい(さんでんごはい)に名称めいしょうあらためられ、同様どうよう天皇てんのう親拝しんぱいおこなわれている[11]橿原神宮かしはらじんぐうへも勅使ちょくし派遣はけんされ[12]御神楽みかぐら奉納ほうのう神武じんむ天皇てんのうさい(4がつ3にち)にあわせておこなわれている。

1954ねん昭和しょうわ29ねん)、神社じんじゃ本庁ほんちょう通達つうたつしたが橿原神宮かしはらじんぐう伊勢神宮いせじんぐう鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうなどが紀元節きげんせつさいおこなはじめた[13]。このほか、一部いちぶ有志ゆうしによって建国けんこくさいなどと名称めいしょうえて式典しきてんおこなわれている。また、1967ねん昭和しょうわ42ねん)の建国けんこく記念きねん制定せいてい以降いこう全国ぜんこく神社じんじゃでもふたた紀元節きげんせつさいおこなわれるようになった。神社じんじゃ本庁ほんちょうなどから宮中きゅうちゅうでの紀元節きげんせつさい復活ふっかつ要求ようきゅうがあるが、宮内庁くないちょうはこれを拒否きょひしている。右翼うよく団体だんたいは21世紀せいきにも建国けんこく記念きねんに「紀元節きげんせつ」を奉祝ほうしゅくする集会しゅうかい街宣がいせん活動かつどう日本にっぽん各地かくちおこな[14][15]

唱歌しょうか紀元節きげんせつ

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高崎たかさき正風まさかぜ作詞さくし伊沢いさわ修二しゅうじ作曲さっきょく唱歌しょうか紀元節きげんせつ」が1888ねん明治めいじ21ねん)に発表はっぴょうされ、1893ねん明治めいじ26ねん)には文部省もんぶしょうによって祝日しゅくじつ大祭たいさい唱歌しょうか選定せんていされた。

いちくもにそびゆる髙ちほの髙ねおろしにそうこう
  なびきふしけんだい御世みよおおせぐけふこそたのしけれ
、うなばらなせるはにやすのいけのおもよりなほひろき
  めぐみのなみにあみしおおせぐけふこそたのしけれ
さんてんつひつぎの髙みくらせんだいよろづうごきなき
  もとゐさだめしそのかみをあお今日きょうこそたのしけれ
よんそらにかがやくもとまんくににたぐひなき
  くにのみはしらたてしおおせぐけふこそたのしけれ — 紀元節きげんせつ 高崎たかさき正風まさかぜ

諸説しょせつ

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紀元節きげんせつの2がつ11にちという日付ひづけ由来ゆらいについては、「たてたけし年間ねんかん」「たてたけし年中ねんじゅう行事ぎょうじ」によると、延喜えんぎしきかみめいちょう筆頭ひっとうにある宮中きゅうちゅうないしんかん神社じんじゃ」のまつりを、たてたけし2ねん2がつ11にち後醍醐天皇ごだいごてんのうおこなったことに由来ゆらいするとするせつがある[16]

その

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紀元節きげんせつには、社会しゃかい事業じぎょう奨励しょうれい目的もくてきみや内省ないせいから、業績ぎょうせき顕著けんちょ病院びょういん財団ざいだん法人ほうじんとうたいし、金一封きんいっぷう下賜かしされた[17]。また、都道府県とどうふけん単位たんい社会しゃかい事業じぎょう功労こうろうしゃ教育きょういく功労こうろうしゃ産業さんぎょう功労こうろうしゃとうたいする表彰ひょうしょう伝達でんたつおこなわれていた[18]表彰ひょうしょう制度せいどおおくは、だい世界せかい大戦たいせんつづけられているが、表彰ひょうしょう節目ふしめおこなわれるれいおおくなった。

天皇てんのう即位そくいなど節目ふしめとし紀元節きげんせつには恩赦おんしゃおこなわれた。 具体ぐたいてきには1934ねん昭和しょうわ9ねん)の紀元節きげんせつでは明仁あきひと親王しんのう誕生たんじょう記念きねんした恩赦おんしゃが、1938ねん昭和しょうわ13ねん)の紀元節きげんせつでは憲法けんぽう発布はっぷ50ねん記念きねんした恩赦おんしゃおこなわれている、当時とうじ服役ふくえきしていたいち事件じけん首謀しゅぼうしゃれいでは、刑期けいきをそれぞれの恩赦おんしゃに1/4減刑げんけいされるなどの恩恵おんけいている[19]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 四大しだいぶしは、きゅう制度せいどの4つの祭日さいじつで、紀元節きげんせつ(2がつ11にち)、四方しほうぶし(1がつ1にち)、天長節てんちょうせつ明治めいじぶしす。
  2. ^ 小野おの雅章まさあき象徴しょうちょう天皇てんのうせいにおける祝日しゅくじつ学校がっこう儀式ぎしき展開てんかい過程かてい : 復古ふっこてき天皇てんのうかん象徴しょうちょう天皇てんのうかんとの相克そうこく」『教育きょういくがく雑誌ざっしだい57かん日本にっぽん大学だいがく教育きょういく学会がっかい、2021ねん3がつ、1ぺーじdoi:10.20554/nihondaigakukyouikugakkai.57.0_1ISSN 02884038CRID 1390850578954444160 
  3. ^ ふくしゃ」(ぶくしゃ)とは、近親きんしんんだために、ふくしているもののこと。
  4. ^ 内閣ないかく官報かんぽうきょくへん法令ほうれい全書ぜんしょ』、国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん近代きんだいデジタルライブラリー
  5. ^ この不都合ふつごう回避かいひするため、1873ねん明治めいじ6ねん)の「孝明天皇こうめいてんのう例祭れいさい」(孝明天皇こうめいてんのう命日めいにち祭祀さいし)は、1がつ23にちさだめられた。
  6. ^ さんすべれきまでは木星もくせい運行うんこう考慮こうりょする「ちょうたつほう」がもちいられた。
  7. ^ 天文学てんもんがくじょう記法きほうでは−659ねん2がつ18にちユリウスどおりは1480407、ユリウスれきでは紀元前きげんぜん660ねん2がつ18にちとなる。
  8. ^ たとえば、三笠みかさみやたかしじん親王しんのうは、科学かがくてき根拠こんきょけると歴史れきし学者がくしゃとしての立場たちばから復活ふっかつ批判ひはんてきであった。
  9. ^ 大岡おおおかひろし「『元始げんしさいならびに『紀元節きげんせつさい創始そうし思想しそうてき源流げんりゅうさい処遇しょぐう変遷へんせんについて」『明治めいじ聖徳せいとく記念きねん学会がっかい紀要きよう』、復刊ふっかんだい46ごう、2009ねん、p113
  10. ^ 大岡おおおかひろし「『元始げんしさいならびに『紀元節きげんせつさい創始そうし思想しそうてき源流げんりゅうさい処遇しょぐう変遷へんせんについて」『明治めいじ聖徳せいとく記念きねん学会がっかい紀要きよう』、復刊ふっかんだい46ごう、2009ねん、p113
  11. ^ さん殿御とのごはい”. 宮内庁くないちょう. 2024ねん1がつ15にち閲覧えつらん
  12. ^ 皇室こうしつ祭祀さいし建国けんこくしん 日本にっぽん会議かいぎ
  13. ^ 世相せそう風俗ふうぞく観察かんさつかい現代げんだい世相せそう風俗ふうぞく年表ねんぴょう:1945-2008』河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2009ねん3がつ、61ぺーじISBN 9784309225043 
  14. ^ 最近さいきん内外ないがい情勢じょうせい 2017ねん2がつ
  15. ^ 内外ないがい情勢じょうせい回顧かいこ展望てんぼう れいねんねんいちがつ
  16. ^ はやしあお梧『「日本書紀にほんしょき」の暗号あんごう真相しんそう古代こだい講談社こうだんしゃ日本にっぽん、1990ねんISBN 4062049635 
  17. ^ 富山とやま編纂へんさん委員いいんかいへん富山とやま だいへん』(p842)1960ねん4がつ 富山とやま編纂へんさん委員いいんかい
  18. ^ 富山とやま編纂へんさん委員いいんかいへん富山とやま だいへん』(p900)1960ねん4がつ 富山とやま編纂へんさん委員いいんかい
  19. ^ 山岸やまぎし海軍かいぐんがわさんにんかり出所しゅっしょ東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』(昭和しょうわ13ねん2がつ2にち夕刊ゆうかん)『昭和しょうわニュース辞典じてんだい6かん 昭和しょうわ12ねん-昭和しょうわ13ねん』p133 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅうかい神武じんむ天皇てんのう紀元きげんろん紀元節きげんせつただしい見方みかた立花たちばな書房しょぼう1958ねん昭和しょうわ33ねん)3がつ

関連かんれん項目こうもく

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