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きゅうだい

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重定しげさだこう五代ごだいふみ
中國ちゅうごくじゅうよん
次序じじょ 書名しょめい 作者さくしゃ
姓名せいめい 時代じだい
1 ふみ 司馬しば 西にしかん
2 汉书 はんかた ひがしかん
3 きさき汉书 范曄 りゅうそう
4 三國志さんごくし 陈寿 西にしすすむ
5 すすむ ぼうげんひとし とう
6 そう 沈约 しょうはり
7 みなみ齐书 萧子显
8 りょう 姚思れん とう
9 陈书
10 おさむ きた
11 きた齐书 ひゃく とう
12 しゅう れいきつねとくひとし
13 みなみ 延寿えんじゅ
14 きた
15 ずい ちょうひとし
16 きゅうから 刘昫ひとし きさきすすむ
17 しんから おう阳修ひとし きたそう
18 きゅうだい 薛居ただしひとし
19 しんだい おう阳修
20 そうふみ だつだっひとし もと
21 辽史
22 きむふみ
23 もと そうひとし あきら
24 あかり 张廷だまひとし きよし
相關そうかん ひがしかんかん りゅうちんひとし ひがしかん
あい じゅうこく春秋しゅんじゅう 吴任しん きよし
相關そうかん 新元しんもと 柯劭忞 みんこく
相關そうかん 南明なんめい 钱海だけ 共和きょうわこく
相關そうかん 清史きよし稿こう ちょうなんじたつみひとし みんこく
相關そうかん 清史きよし ちょう其昀ひとし みんこく
相關そうかん てん校本こうほんじゅうよん 顧頡つよしひとし 共和きょうわこく

きゅうだい》,きたそう薛居ただしとうせん原名げんめい五代ごだいふみ》,またたたえりょうからすすむ汉周书[a]原本げんぽんやめ佚,今本いまもと乃邵すすむ涵等四庫館臣自《永樂えいらく大典たいてんとう文獻ぶんけんちゅう輯出,じゅうよんちゅうただいち輯本。[1]:1

きゅうだいいちどもいちひゃくじゅうかん比較ひかくしょうつき記載きさいりょうだい50ねんてき歷史れきし。該書ぶんためはりとうすすむかんしゅうしょ,以「世襲せしゅう列傳れつでん」「僭偽列傳れつでんじゅう國政こくせいけん,以「外國がいこく列傳れつでん周邊しゅうへん政權せいけんある部族ぶぞく,另有天文てんもんとうじゅうこころざし

おうおさむしんだい刊行かんこう,《薛史》とげはいきよしいぬい隆年たかとしあいだ,邵晉涵在《永樂えいらく大典たいてんちゅう輯錄きゅうぶんさんこうさつもとかめとうしょためきゅうだい》輯本。雖非原書げんしょさいじょう內容ゆう竄改しょただし輯本保留ほりゅうりょう大量たいりょう史料しりょうあずかおう互相補充ほじゅうゆう相当そうとうてき价值。

編纂へんさん

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よりどころたまかいまきよんじゅうろく引《中興ちゅうこうかんかく書目しょもくてき記載きさいそうふとし於開たからろくねん(973ねんよんがつじゅうにちつちのえさるしたれい編修へんしゅうりょうこうとうすすむかんしゅうだい」,なみれい薛居ただしさく監修かんしゅうへりくだ扈蒙ちょうひとしどうおさむ。薛居せいきゅうだいてきあるじへん當時とうじにんさん政事せいじいちしょくざい編成へんせいこれますにんため宰相さいしょう。其下ゆうりゅうけんきよしきゅうよわいとうひと參與さんようつしさくよういちねんなりしょ於開たからななねん(974ねんうるうじゅうがつ甲子きのえね[1]:1-4書中しょちゅうかえゆう一些開寶六年後的紀事,估計なりしょかえさくりょういち技術ぎじゅつ性的せいてき加工かこうさいおそてきてい珏傳》しょ引及てき太平たいへい興國こうこく(976ねん—984ねん年號ねんごう[1]:7

史料しりょうらいげん

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きゅうだい主要しゅようもたれだい時期じきてき各種かくしゅ實錄じつろく范質てきだいどおりろく》而編纂へんさんてき。雖然だい時期じき戰爭せんそう頻繁ひんぱんただしかくあさ皇帝こうてい依然いぜん重視じゅうし編纂へんさん實錄じつろく工作こうさく。《そう·藝文げいぶんこころざしちゅう記載きさいこう五代ごだい實錄じつろくゆう17しゅこうとうこうすすむこうかんこうしゅうゆう其實ろく[2]:417-418學者がくしゃみとめため,這些實錄じつろくゆうさんひゃくろくじゅうかん[1]:8きゅうだいちゅう保留ほりゅうりょう本朝ほんちょう人的じんてき語氣ごき,如「本朝ほんちょう」、「くにはつこれるい其編うつし相當そうとうもたれ實錄じつろく[1]:14

范質てきだいどおりろく》也是重要じゅうようてき編纂へんさんらいげんよりどころひねまごちょくときしょろく解題かいだい》,此書ろくじゅうかん,范質いんだい實錄じつろくしげる冗,「節略せつりゃく而成此書」,其各あさてき實錄じつろく合作がっさくいちおこりたい編纂へんさん工作こうさくおこりりょう很大てき作用さよう[2]:418

きゅうだいいんため編纂へんさん時間じかん甚短,いん此編うつしたいれいしげるかぶらざい本紀ほんぎ方面ほうめん基本きほんうえもたれかくだい實錄じつろく而成。實錄じつろくてき卷數かんすう甚多,うつしさく巨細きょさい,《薛史》へんうつし人員じんいん雖以取《實錄じつろく大意たいいあるもの刪合瑣節,以及對話たいわそうとう方式ほうしきそぎなりろくじゅういちかん,其內よう依然いぜん過多かたかず紀傳きでんたいはた事情じじょう具體ぐたいほそぶしいたり列傳れつでんてき做法ゆうこと[1]:14-15

內容

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きよし輯本目錄もくろく

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全書ぜんしょどもいちひゃくじゅうかん記載きさいりょうじょういたりりょうふとし開平かいへい元年がんねん(907ねん),しもいたりしゅうきょうみかど顯德けんとくななねん(960ねんあいだてきごと。其體れい仿了《三國志さんごくし》,りょうからすすむかんしゅう五個朝代各至為一書,かくあさてきほん列傳れつでんれつ於各しょなか。五書之後另有《世襲せしゅう列傳れつでん》、《僭偽列傳れつでん》、《外國がいこく列傳れつでん》以記載きさい王朝おうちょう本身ほんみ外的がいてき情況じょうきょう列傳れつでんこうこころざし記述きじゅつりょう政治せいじ經濟けいざい文化ぶんかとうかく方面ほうめんてき典章てんしょう制度せいど[2]:419よりどころたまかいまきよんじゅうろく引《中興ちゅうこう書目しょもく》,本紀ほんぎろくじゅういちかんこころざしじゅうかんつてななじゅうななかんきよし輯本てきぶんまきただだい推定すいていただし原書げんしょかいゆうふとだい差別さべつ[1]:7

しもよりどころ大典たいてんほんれつ其目ろく

しん輯會證本しょうほん目錄もくろく

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ちんしょうくんしん輯會證本しょうほんきゅうだい对清輯本てきじゅう輯,內容じょう較原輯本有ほんゆう很大あらためどう參考さんこう多種たしゅ文獻ぶんけんあずか金石かねいしいしぶみ改訂かいてい增補ぞうほぶんきんまんしょ。其除おもしん輯錄《りょうふとし本紀ほんぎそと又重またしげ輯列でんじゅうへんあずか地理ちりこころざしいちへんしんぞう列傳れつでんろくじゅうへん,刪去清人きよひとあやまおさむあやまろくしゃきゅうへん適當てきとう調整ちょうせいりょう原書げんしょ部分ぶぶんまき[1]:77-79

げんまたれつ出新いでしん輯會證本しょうほん目錄もくろく以供參考さんこうあきら

流傳りゅうでん

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《薛史》なりしょこれゆうやすししゅう楊及於天ひじりねん(1057ねんすすむじゅうおさむだい》,同年どうねんじゅう二月秘書監致士胡旦進《だいりゃくよんじゅうさんかんただし此二書在後代近乎沒有任何影響。おうおさむせんしんだい,其史りょう內容だいきゅうだい》。[1]:19-23きたそう時期じき,《きゅうだい廣行ひろゆき於世。司馬しばひかりとう編修へんしゅうどおりてき時候じこう,「みなせんよりどころ薛史,而不おう」。沈括ゆめけい筆談ひつだん》及おう欽若さつもとかめまた大量たいりょう引用いんよう《薛史》。[3]:40

いたりみなみそう,《しんだいだいりょうきゅうだいてき地位ちいよりどころぞくどおりかんまきいちはちてき記載きさいかねしたがえだいじょう(1161ねん—1189ねんこれ學校がっこう所用しょよう正史せいしいちちょくなみよう薛、おうきむ泰和やすかずななねん(1207ねん),「みことのりしんがくれい內削薛居ただしだい》,而專用せんようしんだい》」。ちょうもとすみみとめためみなみそうはやざいかねじん以前いぜんしゅうえしつらえ各科かっかてき時候じこうやめけい棄用《きゅうだい》,「北朝ほくちょう文化ぶんか逮,おこり而從其後」。雖然如此,みなみそう時期じき此書依然いぜんゆうしょう記載きさい,如ちょうのぞみべんこおりひとし讀書どくしょ後志しりべ卷一けんいち、《ちょくときしょろく解題かいだい》、《とげはつどう書目しょもくとうみなみそう時期じき著作ちょさくちょう引此しょしゃいたりしょうけいゆうじゅうすういえ[1]:23-24

いたり元明もとあき時期じき,薛史やめけい罕有援引えんいんもとうまはし文獻ぶんけんどおりこう》,もと末明ほのかはつおうてき大事だいじ續編ぞくへんちゅう依然いぜんゆう引用いんようきゅうだい》,なおゆう小量しょうりょう流傳りゅうでん入明いりあけこれ,「おもんみあきら內府ゆう於《文淵ぶんえんかく書目しょもく》,永樂えいらく大典たいてん其文,しかわりきれ淆亂,やめきょせいとうへんだいこれきゅう」。まん曆年れきねんあいだえびすおうせつきゅうだいやめけいはいおけあかりまつこく書家しょかもうすすむ也說《きゅうだいやめひさつて於世」。[1]:23-24

にゅう清之きよゆき,《きゅうだいさら無人むじんとくつとむしんざいへんうつしじゅうこく春秋しゅんじゅうてき時候じこう,曾向むねきゅうだい》。《じゅうこく春秋しゅんじゅう卷首かんしゅ凡例はんれい》敘中採用さいようしょゆう「薛氏《きゅうだい》」,確實かくじつゆう此書,ただしぜんもち以為「これ而未とく」。假設かせつかくゆう此書,むね羲的藏書ぞうしょ也已けい毀於うみ,《きゅうだい》也應ずいこれため灰燼かいじんあかり藏書ぞうしょひねだい曾藏ゆうきゅうだい》,しんだい藏書ぞうしょりくしんげん曾說よしみけいねん(1796ねん-1820ねん杭州こうしゅう藏書ぞうしょちょう雖欲收藏しゅうぞうただし未見みけん[1]:24-25

近代きんだいちょうもとすみ於1930ねん輯印ひゃく衲本じゅうよん,曾刊とう廣告こうこくかかきょしょう徵集ちょうしゅう原書げんしょしか而未とくいちはんよう[1]:19-23

特色とくしょく

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からだれいかんせい

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きゅうだいだんだい为史,そくはた五代各朝独立成书。《薛史》仿了《三国志さんごくしてき编撰方法ほうほうりょうからすすむ汉周五个朝代各自为一书,たいれいかんせいところわたる朝代あさしろてきほん纪、れつ传分别编うつし并列いれかく书之ちゅう书之きさき,另有《袭列传》《僣伪れつ传》《外国がいこくれつ传》记载中原なかはら王朝おうちょう以外いがいてきじょう况。さいきさき天文てんもん、历、ぎょうれい、乐、しょく货、刑法けいほう、选举、职官、ぐんじゅうこころざし全面ぜんめん叙述じょじゅつりょうだい时期政治せいじ、经济、文化ぶんかとう方面ほうめんてき典章てんしょう制度せいどぜん书以だい为正,じゅうこく为伪,目的もくてきとつ显继承きさきしゅうてきそうだい乃正统政权。[2]:419

内容ないよう丰富

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きゅうだい五代各朝的重大事件都连贯地记录在各个皇帝的本纪里,材料ざいりょう相当そうとうたかし实,总体かまちしん晰,ぼつゆう琐碎れいこれかんざい主要しゅよう叙述じょじゅつ中原なかはら地区ちくてき历史そと,也对其他地区ちくてき历史さくりょう记述。此外,书中对礼乐及职官制度せいど、选举及刑法的ほうてき沿革えんかくしょく货和ぐん县的变化とう也作りょう详细かい绍。[2]:419-420

觀點かんてん

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きゅうだいざい观点うえ也有やゆうしょうこれ处,主要しゅようゆう以下いか几方めん:一是在某些部分具有一定的唯物主义倾向,如在谈及きさき汉灭ほろび时,就否定ひていりょう天命てんめい论”,统治しゃてきざん暴看さく王朝おうちょう灭亡てき重要じゅうよう原因げんいん,这是さわ及到问题ほん质的论述;二是在分析方法上也有一定程度的辩证因素,如卷九十六对有作为的帝王如周世宗,すんで赞扬神武じんむ雄略ゆうりゃく,乃いちだい英主えいしゅ”,また批评“禀性伤于ふとし察,ようけいしつ于太たかし”;三是在对人民的态度上也比较宽厚,指出さしで:“こうざんみんおっとなんそく贵!”对王しゅうてきとおるせい宽惠,にん庶便かず刘审交的“无扰于民,百姓ひゃくしょう”,だい赞扬。[2]:420-421

版本はんぽん

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大典たいてんほん

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ざいあきらはつ編纂へんさん永樂えいらく大典たいてんてき時候じこう編纂へんさんしゃはた《薛史》てき內容分散ぶんさん收入しゅうにゅう於其かくいんなかいぬい隆三りゅうぞうじゅうななねん(1772ねん),しゅうえ《謹陳管見かんけん開館かいかんこうしょすり》,建議けんぎしたがえ永樂えいらく大典たいてん》輯錄逸書いっしょいたりねんがつ開館かいかん邵晉涵以大學士がくしりゅうみつるこも,於開かんはついれたかし纂修かんせんしょくいたり四十年秋母喪南歸。ざい這兩ねん時間じかん,邵晉涵在參與さんよ編纂へんさんよん全書ぜんしょてき時候じこうざいかく書中しょちゅう引自(あるほかみとめため)《薛史》てき條文じょうぶんさい以編はい注釋ちゅうしゃく編成へんせいきゅうだい》。とうなかさい永樂えいらく大典たいてんしゃゆう822じょう、《さつもとかめ》318じょう司馬しばひかりどおりかんこうこと》6じょうえびすさんしょうどおりかんちゅう》12じょう、《太平たいへい御覽ごらん》2じょうひろし邁《容齋ようさい隨筆ずいひつ》1じょう[2]:266-267

當時とうじ永樂えいらく大典たいてんぞう翰林院かんりんいんてき典籍てんせきちゅう。邵氏ある其他纂修かんかいさき簽出《永樂えいらく大典たいてんちゅうてき佚文いつぶんしょうかいはた以輯てき書目しょもくねば標識ひょうしきしかこうよしつくろえうつしかん抄出しょうしゅつとうなかてきかたよしため永樂えいらく大典たいてん不便ふべん移出いしゅつ移入いにゅういん此繕うつしてき工作こうさくざい翰林院かんりんいんうら進行しんこう。《大典たいてんしょかけしゃのり參照さんしょうさつとうしょ以補其缺。遺文いぶんゆうだつなまり衍者,たてしん貯會ざいかく紀傳きでんじょうねば簽,以說明せつめい差異さいくま宿やどかげほんねば簽尚かんせいため統一とういつ規格きかくじゅうしょう影印えいいんねば簽中しょわたる各項かくこうあずかしょ歧互しゃ,邵晉涵重こうていへんうつし按語,さくきゅうだいこうことかん[2]:287-290[4]:69-84

きよし輯本版本はんぽんくま宿やどかげほんあなつぎこう抄本しょうほん最早もはやりゅうよしみぎょうどう刊本かんぽん文淵ぶんえんかくよん全書ぜんしょほん武英たけひで殿どのほんさいおそざいいぬいたかしよんじゅうきゅうねん(1784ねん)。對比たいひ各個かっこ版本はんぽんくまあな二本的諱改較少,りゅうほん較多,文淵ぶんえんかくもとかず殿どの本則ほんそくさいげき[2]:287-290

大典たいてんほんてき評價ひょうか

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きゅうだいてき辑本成就じょうじゅりょう启超曾给肯定こうてい,认为,“极繁难者,れい如《だい》,散在さんざいかくじょうへんだいしのげみだれさがせしゅうすんで备,以他书,苦心くしんはい,乃克なり编。とく邵二云辈深通著述家法,而赴以精こころはてりょく不能ふのう蒇事。此种工作こうさくとげ为后此辑佚家范。”[5]陈尚くん认为,邵晋涵《きゅうだい》辑本取得しゅとくてき成就じょうじゅ主要しゅようたい现于よん个方めんいち取材しゅざい较为广泛。,标明りょう史料しりょうらいげん有利ゆうり後世こうせいしゃ校勘こうかんさんこう订细致。よん,编次接近せっきん薛《ふみ原本げんぽん面貌めんぼう[1]:28-42

きよし辑本てき不足ふそく主要しゅようゆうさんいち史料しりょう輯。よりどころちんさとしちょう統計とうけい現存げんそん永樂えいらく大典たいてんざんまき引《きゅうだいきょう72だんきよし辑本仅采よう60だん;《太平たいへい览》わたる及《きゅうだいしゃ76じょうきよし辑本たださいようりょう2じょう:《资治どおり鉴考异》わたる及266じょうきよし辑本たださいようりょう6じょう,而且还有误引;《资治どおり鉴注》わたる及138じょうきよし辑本たださいようりょう12じょう;《よう斋随笔》わたる及10じょうきよし辑本仅采ようりょう1じょう。此外,引用いんようきゅうだいてき其它文献ぶんけん,如《たまかい》、《职官ぶん》、《だい阙文》、《つう》、《ぐん书考さく》、《つう鉴目录》、《记纂渊海》、《锦绣まんはなだに》、《ぐん书会もと截江网とう书,みな採用さいよう、篡改原文げんぶんちんかきざいきゅう五代史輯本發覆》中指なかゆび四庫館臣在輯校時有十忌:とりこえびすえびす夷狄いてきとうとうなみゆびかんしんかいたい這些かい作出さくしゅつおさむあらためさんだつ衍舛あやま甚多,僅中はなしょきょくこうてんほん校勘こうかん》就考ていいちせんじょう錯誤さくご[1]:28-42

中華ちゅうかしょきょくこうてんほん

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中華ちゅうかしょきょくこうてんほん最初さいしょゆかりりゅう迺龢ざいひねかき指導しどうせめ文革ぶんかくまえやめけい完成かんせい大部たいぶ工作こうさくよしふくだん大學だいがく完成かんせいこうてん工作こうさく參與さんよてんこうてきゆうしゅふゆじゅんとうじゅういちにん參與さんよてい稿こうてきゆうにん參與さんよ編輯へんしゅう整理せいり工作こうさくてきゆうりくかえでとうろくにん。1976ねんゆかり中華ちゅうかしょきょく出版しゅっぱんしゃ發行はっこう[1]:42-46

該校てんほん對當たいとうのう夠看いたてききよし輯本系統けいとうてき主要しゅようでんほんさくりょうどおりこう確定かくてい以江西熊にしくま宿やどかげほんため底本ていほんまいり校了こうりょう多種たしゅ保存ほぞんりょうきゅうだいてき書籍しょせき,如《永樂えいらく大典たいてん》、《さつもとかめとうさく校勘こうかんざいきよし輯本上作じょうさくりょう一千七百多條校記。[1]:42-46

じゅう

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きゅう五代史新輯會證》,ちんしょうくんちょ,2005ねんゆかりふくだん大學だいがく出版しゅっぱんしゃ出版しゅっぱん全書ぜんしょ12さつ,150かん,300まんかずきよし輯本しょう,《しん輯會しょうほん擴大かくだいりょう佚文いつぶん文獻ぶんけんてき範圍はんい,刪除りょうあやまおさむ佚文いつぶんじゅう輯已ゆう佚文いつぶんなみざい校勘こうかんじょう取得しゅとくしんてき成果せいか[3]:49-50

《輯補きゅうだい》,ちんさとしちょうちょ,2021ねんゆかりともえしょくしょしゃ出版しゅっぱん全書ぜんしょ6さつ通行つうこうほんしょう,《輯補きゅうだいしん增補ぞうほ列傳れつでん113校正こうせい內容480しょ增補ぞうほりょうじゅうこころざしてき內容,糾正りょう通行つうこうほんてきいち錯誤さくご[6]

評價ひょうか

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よん提要ていようざい评论《きゅうだい》时指:「虽其文体ぶんたいたいらじゃくめんじょ烦冗やめ,而遗ぶん琐事,はん藉以获传,实足为考しゃさん稽之すけ。」(虽然《きゅうだい文体ぶんたいたいらじゃくめん叙述じょじゅつしげる琐重复的びょうただし遗文琐事,はん而借此得以流传,ゆうじょこうしゃさん稽。)[7]

しんだい史学しがく赵翼评价《きゅうだい》:「こと实较详,盖欧《ふみ》专重书法,薛《ふみ》专重叙事じょじほん不可ふかしょう无」。[8]

复旦大学だいがく中国ちゅうごく语言文学ぶんがくけい教授きょうじゅ陈尚くん认为:「だい虽还ゆうしん》,其长处在义例あずか文章ぶんしょう,就史りょうてき原始げんし丰富らい说,远不能取のとろだい《薛史》」。[2]:304

ちゅう

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  1. ^ 此書原名げんめいだい》,おうおさむ私撰しせんてきしんだい編成へんせいこれそう人為じんいりょう分別ふんべつ兩者りょうしゃしょうきゅうだい》,ある簡稱《薛史》。這些名稱めいしょうやめ司馬しばひかりどおりかんこうこと》。[1]:1

參考さんこう資料しりょう

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  1. ^ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 1.17 1.18 ちんしょうくん, 前言ぜんげん, きゅうだいしん輯會しょう, 上海しゃんはい: ふくだん大學だいがく出版しゅっぱんしゃ, 2005 
  2. ^ 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 むかいつばめみなみ; ほう (编). 新舊しんきゅうとうしょあずか新舊しんきゅうだい研究けんきゅう. 20世紀せいきじゅうよん研究けんきゅう叢書そうしょだいななかん). 北京ぺきん: 中國ちゅうごくだい百科全書ひゃっかぜんしょ出版しゅっぱんしゃ. 
    • りょうふとしずみ, 薛史「輯本いん避諱而改動的どうてき文字もじ」,ため什麼いんも一般いっぱんさいあらためかい」?——たいきゅうだいてん校本こうほんてきいちてん意見いけん: 257-263 
    • ちんさとしちょう, 《きゅうだい》輯本檢討けんとうあずかじゅうしん整理せいり構想こうそう: 264-286 
    • ちんしょうくん, きよし輯《きゅうだい評議ひょうぎ: 287-304 
    • たんどお慕, 薛居正和しょうわてききゅうだい》: 414-423 
    • ちんのぼるもと, 薛氏《きゅうだいめいもとむ: 540-563 
  3. ^ 3.0 3.1 3.2 まごさきぶん. 《きゅうだい研究けんきゅう (博士はかせ论文). 安徽あんき大學だいがく. 2014. 
  4. ^ 4.0 4.1 ちょうのぼる. よん全書ぜんしょかん研究けんきゅう. 北京ぺきん: 北京ぺきん師範しはん大學だいがく出版しゅっぱんしゃ. 2012. ISBN 9787303140503. 
  5. ^ りょうあきらちょう. 中國ちゅうごくきんさんひゃくねん學術がくじゅつ. ふくだん大學だいがく出版しゅっぱんしゃ. 1985: 397. 
  6. ^ 《輯補きゅうだい書評しょひょう. 四川しせん圖書館としょかんがくほう. 2021, (3): 2. 
  7. ^ よんくらかんかんしん. よん提要ていよう··きゅうだい. [2023-07-04]. (原始げんし内容ないようそん于2023-07-04). 
  8. ^ ちょうつばさ. 廿にじゅうさつ·まきじゅういちだい. [2023-07-04]. (原始げんし内容ないようそん于2023-04-01). 

延伸えんしん阅读

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[ざい维基すうすえ]

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维基文库中的相关文本:きゅうだい (よん全書ぜんしょほん)
维基文库中的相关文本:欽定きんてい古今ここん圖書としょ集成しゅうせい·理學りがく彙編·經籍けいせきてん·だい》,出自しゅつじ陈梦かみなり古今ここん圖書としょ集成しゅうせい