ダイダラボッチ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
勝川かちがわはるあきら勝川かちがわはるえい怪談かいだんひゃくおに図会ずえ』より「大入道おおにゅうどう」。ダイダラボッチのイメージにちかいものとかんがえられている[1]

ダイダラボッチは、日本にっぽん各地かくち伝承でんしょうされる巨人きょじん類似るいじ名称めいしょう数多かずおお存在そんざいするが、以下いかでは便宜べんぎてきにダイダラボッチと呼称こしょうする。さん湖沼こしょうつくったという伝承でんしょうおおく、元々もともとくにづくりかみたいする巨人きょじん信仰しんこうがダイダラボッチ伝承でんしょうんだとかんがえられている(おに大男おおおとこなどの妖怪ようかい伝承でんしょう巨人きょじん伝承でんしょうになったというせつもある。)[2]

概要がいよう[編集へんしゅう]

柳田やなぎだ國男くにおが「ダイダラぼう足跡あしあと」(1927ねん昭和しょうわ2ねん4がつ、『中央公論ちゅうおうこうろん』)[3]日本にっぽん各地かくちからあつめたダイダラボッチ伝説でんせつ考察こうさつしている[* 1]江戸えど後期こうきやなぎてい種彦たねひこによる随筆ずいひつ、『用捨ようしゃばこ』には「だいふとし発意はつい(だいだぼっち)は大男おおおとこそしりいひしにて、一寸法師いっすんぼうし反対はんたいなり」とある[4]南方みなかた熊楠くまぐすは「だいふとしボッチ」の「だいふとし」を「だい太郎たろう」のりゃくであると推測すいそくしている[5]

名称めいしょう[編集へんしゅう]

「でいだらぼっち[6]」、「ダイランボウ[7]」、「だいだらぼう[8]」、「でいらんぼう[9]」、「だいらぼう[10]」、「デエダラボッチ[11]」、「デイラボッチ[10]」、「デイラボッチャ[12]」、「デーラボッチャ[12]」、「デエラボッチ[13]」、「デーラボッチ[14]」、「タイタンボウ[2][* 2]」、「デエデエボウ[15]」、「デイデンボメ[15][* 3]」、「ダイトウボウシ[15]」、「レイラボッチ[15]」、「ダダほし[15]」、「おおきいぼちゃぼちゃ」[16]ひとし様々さまざまがある。だいふとし法師ほうし(だいだらぼっち)[17]だい太郎坊たろうぼう(だいだらぼう)とも表記ひょうきし、九州きゅうしゅうでは大人おとな弥五郎やごろう(おおひとやごろう)とばれる[2]

文献ぶんけん[編集へんしゅう]

常陸ひたちこく風土記ふどき[編集へんしゅう]

奈良なら時代じだい成立せいりつした『常陸ひたちこく風土記ふどき』のうち、常陸ひたちこく那賀なかぐんなかのこおり[18] 現在げんざい茨城いばらきけん那珂なかぐんなかぐん〉)についてしるされた「那賀なが略記りゃっき」には、大昔おおむかしの「大櫛おおくしおか(おおくしのおか)」にいたという長大ちょうだいひとについての記述きじゅつ平津ひらつえきじょう)が以下いかのようにある。[19][20][21][22][23]

 はら ぶん 》 縮小しゅくしょう文字もじ原本げんぽんじょう補足ほそく。※和字わじ間隔かんかく現代げんだい補足ほそく
平津ひらつえき家西いえにしいちさと 有岡ありおか めい大櫛おおくし 上古じょうこ有人ゆうじん たいごく長大ちょうだい きょおか壟之じょう 摎海濱之はまのだいはまぐり 其所しょくかい せき成岡なるおか 時人じじん だいくちこれ いまいいだいくしおか 其踐あと ちょう卌餘 こう廿にじゅう 尿にょうあなみち廿にじゅうもと — 『常陸ひたちこく風土記ふどき那賀なが略記りゃっき
くだぶん》 仮名がな文語ぶんごたい
平津ひらつえきひらつのうまや西にしいちいちにさとおかをかあり。大櫛おおくしおほくしふ。上古じょうこいにしへひとあり。からだかたちごくきはめて長大ちょうだいたけたかく、おかをかうえうへきょながら、海浜かいひんうみべたうむきくじりぬ。だいはまぐりおほうむき なりしょくらひしかいかひせきつもりておかをかなりなりき。時人じじんときのひとだいくちおほくちよしこころりて、いま大櫛おおくしおかおほくしのをかいいふ。そのみしあとあとは、ながしじふ あしあまりひろ廿にじゅうにじふ あしあまり尿にょうあなゆまりのあなみちわたり 廿にじゅうにじふ あしあまり もとばかりなり。
口語こうご解釈かいしゃくれい》 仮名がな口語こうごからだ。[ ]ない文意ぶんいととのえるための補足ほそくぶん。( )ないの※につづ記述きじゅつ注釈ちゅうしゃく
常陸ひたちこくひたちのくに那賀なかぐんなかのこおりにある交通こうつう要衝ようしょう・]平津ひらつえきひらつのうまやから西にしいちいちにさともしくは1・2さとほどったところ[* 4]おかおかおか)があり、を「大櫛おおくし(おおくし)」という。大昔おおむかし、[このに]にんがいた。[そのひとの]からだからだきわめて長大ちょうだいちょうだいで、おかうえにいながらにして海浜かいひんうむきこしてしまう。[それほどの巨人きょじんであった。][ここでいううむきとは]だいはまぐりおおうむきである(※『うむき(蜃、はまぐり)』はハマグリ古語こご[* 5]。その[巨人きょじんの]べたかい[のから]は、もりもっておかになった。当時とうじひと(※現代げんだい〈すなわち、奈良なら時代じだい〉の我々われわれから大昔おおむかし人々ひとびと)は[“大量たいりょうかいちている”をもって、このおかを]「だいくち(おおくち)」とんだが、[それがなまっていまは「大櫛おおくしおか(おおくしのおか)」という(※比定ひてい大串おおぐし貝塚かいづかおおぐし かいづか。その所在地しょざいちは、現在げんざい茨城いばらきけん水戸みと塩崎しおがさきまち1064-1[* 6]、かつての東茨城ひがしいばらきぐん常澄つねずみむら塩崎しおざき[20][* 7])。その[巨人きょじんの]足跡あしあとは、おおよそ、ながさ40あまり、はば20あまりで、尿にょうあな(※小便しょうべんによって穿うがたれたあな)は直径ちょっけい20あまりであった。

考古学こうこがくひとししょ分野ぶんやにおいても、かかる「大櫛おおくしおか巨人きょじん伝説でんせつ」とその比定ひてい大串おおぐし貝塚かいづか相当そうとう重要じゅうようで、縄文じょうもん時代じだい貝塚かいづか遺跡いせき文献ぶんけんしるされている最古さいこれい[24][25]、もっとえば、石器せっき時代じだい遺跡いせき記録きろくされた日本にっぽん最古さいこれい[26][27]としてられている。

播磨はりまこく風土記ふどき[編集へんしゅう]

奈良なら時代じだい成立せいりつした『播磨はりまこく風土記ふどき』ののうち、播磨はりまこくたくぐんたかのこおり)(現在げんざい兵庫ひょうごけん多可たかぐんたかぐん〉)についてしるされた「たく略記りゃっき」には、てんたかいかららくってあるけるとってこのこのみ、ぬま数多すうた足跡あしあとのこした、大人おとな(おおひと)の伝説でんせつしるされており、先述せんじゅつした『常陸ひたちこく風土記ふどき』に所収しょしゅうされている“大櫛おおくしおか巨人きょじん伝説でんせつ”(大櫛おおくしおか長大ちょうだいひと伝説でんせつ)の類型るいけいかんがえられている。

 はら ぶん 》 縮小しゅくしょう文字もじ原本げんぽんじょう補足ほそく。※和字わじ間隔かんかく現代げんだい補足ほそく
みぎ 當為とういじょう 所以ゆえんめい たくしゃ むかし ざい大人おとな つね勾行也 南海なんかいいた北海ほっかい ひがし巡行じゅんこうとき 到來とうらい此土うん 卑者 つね勾伏而行 此土だかしゃ さる而行 こうたくぐん 此云 だかさる 伸也しんや 其踰あとしょ すうすうなりぬま — 『播磨はりまこく風土記ふどきたく略記りゃっき [28]
《 だい  》 
むかし、[播磨はりまこくはりまのくにの]たくぐんたかのこおりには大人おとなおおひと(※巨人きょじん)がいた。[大人おとなは]つねかがんであるいた。[大人おとなは]南海なんかいから北海ほっかいいたり、ひがしめぐってこのにやってきたとき、「は[てんが]ひくくてつねかがんであるいていたが、このは[てんが]たかくてまっすぐってあるける」とった。それゆえに、このを「タカ(こう)」のをもって「たくぐん」という。[大人おとなの]足跡あしあと数々かずかずぬまになった。

各地かくち伝承でんしょう[編集へんしゅう]

やま[編集へんしゅう]

  • 富士山ふじさんつくるため、甲州こうしゅうって土盛どもりした。そのため甲州こうしゅう盆地ぼんちになった[29]
  • 富士山ふじさんつくるため近江おうみり、そのった跡地あとち琵琶湖びわことなった[17]。この伝説でんせつえん1968ねん富士宮ふじのみや近江八幡おうみはちまん夫婦ふうふ都市としとなっている[17]
  • うえしゅう榛名富士はるなふじ土盛どもりしてつくり、ったのち榛名湖はるなことなった。榛名富士はるなふじ富士山ふじさんよりひくいのは、もうすこはこぼうとしたがよるけ、途中とちゅうでやめたためである[30]
  • 浅間山あさまやまが、自分じぶんよりたかいもうと富士山ふじさん嫉妬しっとし、自分じぶんにわけろといった。富士山ふじさん了解りょうかいし、だいだらぼっちが自分じぶん前掛まえかけではこんだ。しかし浅間あさまさんりょうりないといかり、かれたたいた。そのさいにこぼれた前掛山まえかけさんとなった。いかりだした浅間山あさまやまはついに噴火ふんかしてしまった。
  • 西にし富士ふじひがし筑波つくばばれる関東かんとう名山めいざんおもさをはかろうとし天秤棒てんびんぼうに2つのやまわえつけげると、筑波山つくばさんのほうはがったが富士山ふじさんがらない。そのうちにわえていたつるがれ、筑波つくばさん地上ちじょうちてしまった。その衝撃しょうげきでもともと1つのみねだった筑波山つくばさんは、2ほうになってしまったという。
  • 信州しんしゅう佐久さくぐんはこんでいたときもっこつなれ、平尾ひらおさん糠塚山ぬかづかやまができた[31]
  • 富士山ふじさん八ヶ岳やつがたけくらべをして、八ヶ岳やつがたけったが、それをねたましくおもった富士山ふじさんられ、やまやっつにれた。それをなおそうとデエダラボッチがちがや出来できたもっこではこび、線香せんこうつえにしたられてしまい、しばらいておいたら大泉おおいずみさん小泉こいずみさん出来できた(諏訪すわ地方ちほう茅野ちの)。
  • 信州しんしゅう安曇あずみぐん西側にしがわ飛騨山脈ひださんみゃくからけずった東側ひがしがわ山地さんちはこんでいたとき、もっこのつなれ、室山むろやまができた。

足跡あしあと[編集へんしゅう]

  • うえしゅう赤城山あかぎやま腰掛こしかけてったときにくぼんでできた足跡あしあとみずたまりになり、木部きべ赤沼あかぬまができあがった[29]
  • 長野ながのけん大町おおまち北部ほくぶ青木湖あおきこ中綱湖なかつなこ木崎湖きざきこからなる仁科にしなさんはいずれもダイダラボッチの足跡あしあとである。
  • とおしゅう山奥やまおくんでいたダイダラボッチが子供こどもたちをにのせてあるいているときに、こしくらいのたかさのやまをまたいだ拍子ひょうし子供こどもたちをからしてしまった。びっくりした子供こどもたちとダイダラボッチはしてしまい、をついてできたくぼみになみだながんで浜名湖はまなことなった。
  • 東京とうきょう武蔵村山むさしむらやまには大多羅おおだら法師ほうしふじづるで丸山まるやま背負せおあるいた足跡あしあと井戸いどになったという伝説でんせつがあり、「でびいしゃら井戸いど」の現在げんざい井戸いどのこっているほか[32]毎年まいとしあきに「デエダラボッチ」の山車だし登場とうじょうするデエダラまつりが開催かいさいされている[33]
世田谷せたがや代田だいだ駅前えきまえ広場ひろば
  • 現在げんざい東京とうきょう世田谷せたがやにある地名ちめい代田しろた」(だいた)や[2]さいたまの「太田窪だいたくぼ」(だいたくぼ)は、ダイタぼう(ダイダラボッチ、ダーダラボッチ)の足跡あしあと由来ゆらいするとわれている[34]。なお、代田しろたのダイダラボッチについては2021.3.28にち小田急おだきゅう小田原おだわらせん世田谷せたがや代田だいだ駅前えきまえにダイダラボッチをかたどった駅前えきまえ広場ひろば完成かんせいした。これを記念きねんして当日とうじつづけで『巨人きょじん伝説でんせつ読本とくほん 代田しろたのダイダラボッチ』(著作ちょさく:きむらけん、発行はっこう:世田谷せたがや代田だいだえき 駅前えきまえ広場ひろば記念きねん事業じぎょう委員いいんかい)が発行はっこうされた。「代田しろたダイダラボッチ音頭おんど」も作曲さっきょくされた。[35]
大座法師池だいざほうしいけ
  • 長野ながのけん戸隠山とがくしやま大座法師池だいざほうしいけ三重みえけん志摩しまぐん大王だいおうまちはダイダラボッチに由来ゆらいする地名ちめいである[15]
  • 静岡しずおかダイラボウ山頂さんちょうには全長ぜんちょう150mほどのくぼみがあるが、ダイダラボッチが左足ひだりあしいたあとつたえられている。琵琶湖びわこから富士山ふじさんはこ途中とちゅうのこしたものであるという。
  • 相模原さがみはら伝説でんせつでは「でいらぼっち」とばれている。巨人きょじん富士山ふじさん背負せおってはこ途中とちゅう大山おおやまこしかけて一休ひとやすみした。再度さいどげようとしたががらず、くやしがった挙句あげくあきらめた。そのさいった左足ひだりあしあとがJR淵野辺ふちのべえき南口みなみぐちがわ鹿沼かぬま公園こうえんない白鳥はくちょうであり、北口きたぐちがわのかつて菖蒲しょうぶぬまばれていた場所ばしょ(2022ねん現在げんざいのエスポット淵野辺ふちのべてんまえいしぶみのこる)が右足みぎあしったあとだとわれている。また神奈川かながわけんどう東京とうきょう都道とどう57ごう相模原さがみはら大蔵おおくらまちせん鹿沼台かぬまだい2丁目ちょうめ24ばん付近ふきんには「じんだらぬま」の標識ひょうしき看板かんばんがあり、これはでいらぼっちが「地団駄じだんだ」をんだという伝説でんせつ名残なごりといわれている。相模原さがみはらみなみに「大沼おおぬま小沼おぬま」の地名ちめいのこるが、かつて実在じつざいしたこのふたつのぬまはデイラボッチが尻餅しりもちをついたあとであり、そのあいだに「ふんどしくぼ」というみぞじょうのくぼがあったという伝承でんしょうもある[36][37][38]相模原さがみはらでは「でいらぼっち伝説でんせつ伝承でんしょう」として2001ねん鹿沼かぬま公園こうえんない一部いちぶ登録とうろく史跡しせきとしている[39]
  • 小便しょうべんをしようと飯野山いいのやま香川かがわけん中部ちゅうぶ)にあしをかけたさい山頂さんちょう付近ふきん足跡あしあといた(現在げんざいもそのあとであるという伝説でんせつ足跡あしあとのこっているが非常ひじょうちいさい)。なお、その小便しょうべんさい出来できたのが大束川だいそくがわといわれる。
  • 愛知あいちけん東海とうかい南側みなみがわ加木屋かぎやまち陀々法師ほうし(だだぼうし)という地名ちめいがあり、ダイダラボッチがあるいて移動いどうするさい出来でき足跡あしあといけになったとして伝説でんせつのこっている。この「足跡あしあと」(「陀々法師ほうし」ともいう)は名古屋鉄道なごやてつどう八幡新田はちまんしんでんえき南方なんぽう100mあたりにあったが、1986~1987ねん昭和しょうわ61~62ねんごろてられ(ゼンリン住宅じゅうたく地図ちず東海とうかい」1986ねん発行はっこうの1986年版ねんばん、1987ねん発行はっこうの1988年版ねんばんによる)、2000ねん平成へいせい12ねんごろにモータースが出来できて、現在げんざいその形跡けいせきはない(「ものがたり通信つうしん」の「18.ダイダラボッチの足跡あしあと参照さんしょう)。
  • 長野ながのけん佐久さく安原やすはらにあるふたつのまる水田すいでんは、デーランぼう足跡あしあとだとわれる[40]
  • 比叡山ひえいざんにつまづいておこってばした地面じめんいたあな琵琶湖びわこんでった土塊つちくれ淡路島あわじしまになった[41]

行動こうどう[編集へんしゅう]

人間にんげん救助きゅうじょ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ (柳田やなぎだ 1977)の「じんだらぬま記事きじ」(『妖怪ようかい談義だんぎ所収しょしゅう)にて相模原さがみはら大沼おおぬま調査ちょうさったとの記述きじゅつあり。そのではダイダラボッチの伝説でんせつかったと落胆らくたんしているが、ダイダラボッチ伝説でんせつがあるのはきたに5キロメートルほどずれた鹿沼かぬまであった。
  2. ^ 藤澤ふじさわ衛彦もりひこ巨人きょじん伝説でんせつこう」、『日本にっぽん伝説でんせつ研究けんきゅうだいさんかん所収しょしゅう。ただし、石川いしかわ県立けんりつ図書館としょかん調査ちょうさによれば、能登のと地方ちほうに「たいたんぼう」という呼称こしょうつかっておらず、藤澤ふじさわ創作そうさく可能かのうせいがある。
  3. ^ 高木たかぎ敏雄としお日本にっぽん伝説でんせつしゅう』より。柳田やなぎだ国男くにおの「ダイダラぼう足跡あしあと」には「デンデンボメ」とあるが、もと出典しゅってんである『日本にっぽん伝説でんせつしゅう』には「デイデンボメ」とあり、誤記ごきである。『定本ていほん柳田やなぎだ国男くにおしゅう5』311ぺーじ参照さんしょう
  4. ^ いち(いちに)」は「わずか」のしたがって「いちさと」は「さと単位たんいでわずかな距離きょり」の。しかし「いちさと」を「1・2さと」のとらえれば、具体ぐたいてき距離きょりしめすものとなり、古代こだい日本にっぽんの1やく5.3km、2やく10.7kmと、数値すうちすことができる。
  5. ^ 市井しせい娯楽ごらくほんやインターネットじょう記述きじゅつで、本文ほんぶんちゅうの「蜃」を妖怪ようかいの「(しん)」と関連付かんれんづけるものがられるが、ここでかたられている「蜃(うむき、うむぎ)」は実体じったいがあって食用しょくようにされる貝類かいるいの「はまぐり(うむき、うむぎ)」、すなわち「はまぐり(はまぐり)」のことであって、妖怪ようかいではない。
  6. ^ 水戸みと塩崎しおがさきまち1064-1(地図ちず - Google マップ
  7. ^ 江戸えど時代じだいにおける常陸ひたちこく茨城いばらきぐんしおさきむらまくはん体制たいせいしたつねしゅう水戸みとはん知行ちぎょうとうしおさきむら
  8. ^ だいねずみ岩鼻いわはなやぶったことで湖水こすい排水はいすいされたとする伝説でんせつもある(『日本にっぽん伝説でんせつ叢書そうしょ 信濃しなのまき157 - 159ページ)。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 宮本みやもと幸枝ゆきえ熊谷くまがいあづさ『日本にっぽん妖怪ようかいなぞ不思議ふしぎ学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ〈GAKKEN MOOK〉、2007ねん、89ぺーじISBN 978-4-05-604760-8NCID BA81963861 
  2. ^ a b c d 妖怪ようかいほん学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、1999ねん、92,98ぺーじ。92ぺーじ挿絵さしえ加賀かがこく河北かほくぐん木越きごし光林寺こうりんじあとだいふとし法師ほうし足跡あしあと見物けんぶつする人々ひとびと)は『北越ほくえつ奇談きだん』のものとかれているが、正確せいかくには『古今ここんかくえらだんまきの「だい足跡あしあとだい足跡あしあととのかくえら」である。
  3. ^ 「ダイダラぼう足跡あしあと
  4. ^ だいふとし法師ほうし」 - 精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん小学しょうがくかん
  5. ^ 南方みなかた熊楠くまぐすダイダラボウシの足跡あしあと』(東洋とうよう學藝がくげい雜誌ざっし 25(319)、東京とうきょうしゃ [へん]、東京とうきょうしゃ、1908-04、pp.182-185)
  6. ^ でいだらぼっち”. さがみはらひゃくせん. シニアネット相模原さがみはら. 2011ねん2がつ13にち閲覧えつらん
  7. ^ 井ノ口いのぐち章次しょうじへん静岡しずおかけん庵原いはらぐんりょう河内かわちむら」『民俗みんぞく採訪さいほう昭和しょうわ29年度ねんどごう國學院大學こくがくいんだいがく民俗みんぞくがく研究けんきゅうかい、1955ねん、109ぺーじNCID BN13889905 
  8. ^ 村上むらかみ健司けんじ編著へんちょ日本にっぽん妖怪ようかいだい事典じてん角川書店かどかわしょてん〈Kwai books〉、2005ねん、195-196ぺーじISBN 978-4-04-883926-6 
  9. ^ 和田わだたかし弌. “信濃しなのでぃらんぼうおんまい普及ふきゅう保存ほぞんかいホームページ”. 信濃しなのでぃらんぼうおんまい普及ふきゅう保存ほぞん. 2011ねん2がつ13にち閲覧えつらん
  10. ^ a b 宮田みやたのぼる ちょ諸国しょこく富士ふじ巨人きょじん伝説でんせつ」、斉藤さいとうしげるあずか へん静岡しずおかけん24民俗みんぞく2』静岡しずおかけん、1993ねん、957-964ぺーじ 
  11. ^ 竹川たけかわ義徳よしのり節分せつぶん行事ぎょうじ」『民間みんかん伝承でんしょう』5かん6ごう民間みんかん伝承でんしょうかい、1940ねん3がつ、5ぺーじ 
  12. ^ a b 高木たかぎ直子なおこ ちょ「その伝説でんせつ」、塚田つかだただしとも へん長野ながのけん民俗みんぞくへん』 3かん3ごう長野ながのけん、1990ねん、483-484ぺーじ 
  13. ^ 中村なかむら成文せいぶんだいふとし法師ほうし伝説でんせつよんしゅ」『郷土きょうど研究けんきゅう』4かん7ごう郷土きょうど研究けんきゅうしゃ、1916ねん10がつ、50-51ぺーじ 
  14. ^ 井田いだ安雄やすお ちょ群馬ぐんま伝説でんせつ代表だいひょうれい」、志村しむら彦衛 へん群馬ぐんまけん資料しりょうへん27民俗みんぞく3』群馬ぐんまけん、1982ねん、773ぺーじ 
  15. ^ a b c d e f 村上むらかみ健司けんじ妖怪ようかい事典じてん毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2000ねん、206,207,226ぺーじ
  16. ^ 佐久さく口碑こうひ伝説でんせつしゅう南佐久みなみさくへん限定げんてい復刻ふっこくばん発行はっこうしゃ長野ながのけん佐久さく教育きょういく委員いいんかいぜん332ぺーじちゅう105~7ぺーじ昭和しょうわ53ねん9がつ20日はつか発行はっこう
  17. ^ a b c 富士山ふじさんそそ琵琶湖びわこみずくむ 滋賀しが近江八幡おうみはちまん伝説でんせつむすぶ”. 京都きょうと新聞しんぶん. (2014ねん7がつ24にち). http://kyoto-np.jp/shiga/article/20140724000050 2014ねん7がつ25にち閲覧えつらん 
  18. ^ ころもそでづけ常陸ひたちこく風土記ふどき しまぐん那賀なかぐん
  19. ^ 那珂川なかがわ沿岸えんがん農業のうぎょう水利すいり事業じぎょうしょ. “さらにくわしく 大串おおぐし貝塚かいづか巨人きょじん伝説でんせつ”. 公式こうしきウェブサイト. 関東かんとう農政のうせいきょく. 2019ねん5がつ20日はつか閲覧えつらん
  20. ^ a b 大串おおぐし貝塚かいづか”. コトバンク. 2019ねん5がつ20日はつか閲覧えつらん
  21. ^ 鷹野たかの光行みつゆき博物館はくぶつかん学者がくしゃ東北とうほく歴史れきし博物館はくぶつかん館長かんちょう). “だい3かい館長かんちょう講座こうざなわもん時代じだい研究けんきゅう 明治めいじ時代じだい以前いぜん大森おおもり貝塚かいづか” (PDF). 公式こうしきウェブサイト. 東北とうほく歴史れきし博物館はくぶつかん宮城みやぎけん. p. 1. 2019ねん5がつ20日はつか閲覧えつらん
  22. ^ 廣岡ひろおか義隆よしたか古典こてんのテキストについて:文学ぶんがく研究けんきゅうにおけるテキストろん」『三重大学みえだいがく日本語にほんごがく文学ぶんがくだい17ごう三重大学みえだいがく日本語にほんごがく文学ぶんがく研究けんきゅうしつ、2006ねん6がつ、13-21ぺーじISSN 09184449NAID 120000947942 
  23. ^ 小田おだまさる日本語にほんごようこう』2008ねん - Google "上古じょうこ有人ゆうじん"
  24. ^ 大串おおぐし貝塚かいづか”. 小学館しょうがくかん日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ:ニッポニカ』. コトバンク. 2019ねん5がつ20日はつか閲覧えつらん
  25. ^ 大串おおぐし貝塚かいづか”. 講談社こうだんしゃくに指定してい史跡しせきガイド』. コトバンク. 2019ねん5がつ20日はつか閲覧えつらん
  26. ^ 大串おおぐし貝塚かいづか”. ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん. コトバンク. 2019ねん5がつ20日はつか閲覧えつらん
  27. ^ 大串おおぐし貝塚かいづか”. 小学しょうがくかん精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん. コトバンク. 2019ねん5がつ20日はつか閲覧えつらん
  28. ^ ころもそでづけ常陸ひたちこく風土記ふどき たくぐんぐん美嚢みのうぐん はりあいだ播磨はりまこく風土記ふどき たくぐん
  29. ^ a b 安部あべ晃司こうじ ちょ人文じんぶんしゃ編集へんしゅう へん日本にっぽんなぞ不思議ふしぎ大全たいぜん 東日本ひがしにっぽんへん人文じんぶんしゃ〈ものしりミニシリーズ〉、2006ねん、122ぺーじISBN 978-4-7959-1986-0 
  30. ^ 日本にっぽん民話みんわ20うえしゅう民話みんわだいいちしゅう』1959ねん、140~4ぺーじ榛名はるな大男おおおとこ未來社みらいしゃ
  31. ^ 佐久さく口碑こうひ伝説でんせつしゅう北佐久きたさくへん限定げんてい復刻ふっこくばん発行はっこうしゃ長野ながのけん佐久さく教育きょういく委員いいんかいぜん434ぺーじちゅう、219ぺーじ昭和しょうわ53ねん11月15にち発行はっこう
  32. ^ 大多羅おおだら法師ほうし井戸いど武蔵村山むさしむらやま観光かんこうまちづくり協会きょうかい”. 2022ねん10がつ12にち閲覧えつらん
  33. ^ デエダラボッチ、げんる。村山むらやまデエダラまつりオフィシャルサイト”. www.dedara.com. 2022ねん10がつ12にち閲覧えつらん
  34. ^ 代田しろたのダイダラボッチ』(きむらけんちょ北沢きたざわがわ文化ぶんか遺産いさん保存ほぞんかい紀要きようだい5ごう、2017ねん/『浦和うらわ民俗みんぞくへん浦和うらわ総務そうむへんさんしつ昭和しょうわ55ねん、793ぺーじ
  35. ^ 代田しろたダイダラボッチ音頭おんど=”. 2021ねん3がつ28にち閲覧えつらん
  36. ^ 座間ざま美都みと相模原さがみはら民話みんわ伝説でんせつしゅう座間ざま美都みと、1978ねん11月、44-45ぺーじ 
  37. ^ 山主やまぬし敏子としこ『さがみはらのふるさと絵本えほん相模原さがみはら教育きょういく委員いいんかい、1999ねん11月、52ぺーじ 
  38. ^ 巨人きょじん足跡あしあとがある!?相模原さがみはらのこ巨人きょじん伝説でんせつ「でいらぼっち」とは? - かなっぺ相模さがみばんかけよう!かながわの地域ちいきポータルサイト for Smartphone”. kanape-sagami.com. 2022ねん8がつ28にち閲覧えつらん
  39. ^ 11.でいらぼっち伝説でんせつ伝承でんしょう(でいらぼっちでんせつでんしょうち)”. 相模原さがみはら. 2022ねん8がつ28にち閲覧えつらん
  40. ^ 佐久さく口碑こうひ伝説でんせつしゅう北佐久きたさくへん限定げんてい復刻ふっこくばん発行はっこうしゃ長野ながのけん佐久さく教育きょういく委員いいんかいぜん434ぺーじちゅう 218ぺーじ昭和しょうわ53ねん11月15にち発行はっこう
  41. ^ https://u5h.jp/one-panel/2707/
  42. ^ 草野くさのたくみ幻想げんそう動物どうぶつ事典じてんしん紀元きげんしゃ、1997ねん、190ぺーじ
  43. ^ 大串おおぐし貝塚かいづかふれあい公園こうえん埋蔵まいぞう文化財ぶんかざいセンター)”. 水戸みと (2013ねん4がつ2にち). 2017ねん4がつ17にち閲覧えつらん
  44. ^ 佐久さく口碑こうひ伝説でんせつしゅう北佐久きたさくへん限定げんてい復刻ふっこくばん発行はっこうしゃ長野ながのけん佐久さく教育きょういく委員いいんかいぜん434ぺーじちゅう、216ぺーじ昭和しょうわ53ねん11月15にち発行はっこう
  45. ^ a b 秋田あきた昔話むかしばなし伝説でんせつ世間せけんばなし 口承こうしょう文芸ぶんげい検索けんさくシステム とりうみ干拓かんたく
  46. ^ 佐久さく口碑こうひ伝説でんせつしゅう南佐久みなみさくへん限定げんてい復刻ふっこくばん発行はっこうしゃ長野ながのけん佐久さく教育きょういく委員いいんかいぜん332ぺーじちゅう 105ぺーじ昭和しょうわ53ねん9がつ20日はつか発行はっこう
  47. ^ こんせら文也ふみや「「ダイダラぼうこう」『茨城いばらき民俗みんぞくだい31ごう茨城いばらき民俗みんぞく学会がっかい、1992ねん12月、36-46ぺーじ 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]