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愛宕あたご (じゅう巡洋艦じゅんようかん)」のはんあいだ差分さぶん

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{{Infobox 艦艇かんてい
{| class="wikitable" style="clear:right; float:right; margin: 0em 0em 1em 1em; width: 300px; background:#ffffff"
| 名称めいしょう = 愛宕あたご
|colspan="2"|[[Image:Japanese Heavy Cruiser Atago.jpg|300px|じゅう巡洋艦じゅんようかん愛宕あたご]]
| 画像がぞう = Japanese Heavy Cruiser Atago.jpg
|-
| 画像がぞう説明せつめい = じゅう巡洋艦じゅんようかん愛宕あたご
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|かんれき
| 建造けんぞうしょ = [[海軍かいぐん工廠こうしょう]]
|-
| 運用うんようしゃ = {{海軍かいぐん|大日本帝国だいにっぽんていこく}}
|発注はっちゅう||[[昭和しょうわ2年度ねんど艦艇かんてい補充ほじゅう計画けいかく]]
| かんしゅ = [[じゅう巡洋艦じゅんようかん]]
|-
| きゅうめい = [[高雄たかおがたじゅう巡洋艦じゅんようかん]]
|起工きこう||昭和しょうわ2ねん([[1927ねん]])[[4がつ28にち]]
| 発注はっちゅう = [[昭和しょうわ2年度ねんど艦艇かんてい補充ほじゅう計画けいかく]]
|-
|進水しんすい||昭和しょうわ5ねん([[1930とし]])[[6つき16]]
| 起工きこう = [[1927とし]][[4つき28]]
| 進水しんすい = [[1930ねん]][[6がつ16にち]]
|-
| 竣工しゅんこう =
|就役しゅうえき||昭和しょうわ7ねん([[1932ねん]])[[3がつ30にち]]
| 就役しゅうえき = [[1932ねん]][[3がつ30にち]]
|-
|そののち||昭和しょうわ19ねん([[1944ねん]])[[10がつ23にち]]戦没せんぼつ
| さいのち = [[1944ねん]][[10がつ23にち]]戦没せんぼつ
| 除籍じょせき = 1944ねん[[12月20にち]]
|-
| 要目ようもく注記ちゅうき = 高雄たかお<ref>機関きかん出力しゅつりょく速力そくりょく航続こうぞく距離きょり計画けいかく。</ref>
|除籍じょせき||昭和しょうわ19ねん(1944ねん)[[12月20にち]]
| 基準きじゅん排水はいすいりょう = 11,350[[トン数とんすう|トン]](竣工しゅんこう)<br />13,400トン(改装かいそう
|-
| 全長ぜんちょう = 203.76 m
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|要目ようもく<ref>要目ようもく高雄たかお。また機関きかん出力しゅつりょく速力そくりょく航続こうぞく距離きょり計画けいかく。</ref>
| 最大さいだいはば = 19.00 m (竣工しゅんこう)<br />20.73 m (改装かいそう
|-
| style="white-space:nowrap;" |[[排水はいすいりょう]]||基準きじゅん:11,350[[トン数とんすう|トン]]竣工しゅんこう)<br />基準きじゅん:13,400トン改装かいそう
| 吃水きっすい = 6.11 m 竣工しゅんこう計画けいかく)<br />6.32 m 改装かいそう
| しゅかん = [[かん本式ほんしきボイラー|ロごうかん本式ほんしきかん]]12
|-
| おも = [[かん本式ほんしきタービン]]44じく
|全長ぜんちょう||203.76m
| 出力しゅつりょく = 130,000馬力ばりき
|-
|全幅ぜんぷく||19.00m(竣工しゅんこう)<br/>20.73m(改装かいそう
| 速力そくりょく = 35.5[[ノット]](竣工しゅんこう)<br />34ノット(改装かいそう
| 航続こうぞく距離きょり = 14ノットで8,000[[うみさと]](竣工しゅんこう)<br />18ノットで5,000海里かいり改装かいそう
|-
|吃水きっすい||6.11m(竣工しゅんこう計画けいかく)<br />6.32m(改装かいそう
| 燃料ねんりょう = [[重油じゅうゆ]]:2,645トン(竣工しゅんこう)<br />2,318トン(改装かいそう
| 乗員じょういん = 760めい竣工しゅんこう)<ref>昭和しょうわ6ねん4がつ10にちづけ 海軍かいぐんないれい だい67ごう改正かいせい海軍かいぐん定員ていいんれいだい40ひょう 一等いっとう巡洋艦じゅんようかん定員ていいんひょう 其1」。この数字すうじ特修とくしゅうへいふくまない。</ref><br />835めい改装かいそう
|-
| へいそう = '''竣工しゅんこう'''<br />[[じゅう口径こうけいさんねんしきせんちめーとるほう#Eがた連装れんそうほう|50口径こうけいさんねんしき20.3cm連装れんそうほう]]510もん<br />[[よん口径こうけいじゅうねんしきじゅうせんちめーとる高角こうかくほう|45口径こうけいじゅうねんしき12cmたんそう高角こうかくほう]]4もん<br />40mmたんそう[[機銃きじゅう]]2てい<br />はちきゅうしき61cm連装れんそう魚雷ぎょらい発射はっしゃかん48もん<br />(きゅうしき[[魚雷ぎょらい]]16ほん)<br />'''1942ねん'''<br />50口径こうけいさんねんしき20.3cm連装れんそうほう510もん<br />[[よん口径こうけいはちきゅうしきじゅうせんちめーとるなな高角こうかくほう|40口径こうけいはちきゅうしき12.7cm連装れんそう高角こうかくほう]]48もん<br />[[きゅうろくしきじゅうみりめーとる高角こうかく機銃きじゅう|きゅうろくしき25mm連装れんそう機銃きじゅう]]4<br />[[きゅうさんしきじゅうさんみりめーとる機銃きじゅう|きゅうさんしき13mm連装れんそう機銃きじゅう]]2<br />きゅうしき61cm4連装れんそう魚雷ぎょらい発射はっしゃかん4<br />([[酸素さんそ魚雷ぎょらい|きゅうさんしき魚雷ぎょらい]]24ほん
|機関きかん||[[かん本式ほんしきボイラー|ロごうかん本式ほんしきかん]]12<br />[[かん本式ほんしきタービン]]44じく<br />130,000馬力ばりき
| 装甲そうこう = 舷側げんそく:127mm<br />水平すいへい:34-46mm<br />砲塔ほうとう:25mm
|-
| 搭載とうさい = 水上みずかみ偵察ていさつ3([[カタパルト|くれしき2ごう射出しゃしゅつ]]2
|速力そくりょく||35.5[[ノット]](竣工しゅんこう)<br/>34ノット(改装かいそう
| その =
|-
| 備考びこう =
|航続こうぞく距離きょり||14ノットで8,000[[うみさと]](竣工しゅんこう)<br/>18ノットで5,000海里かいり改装かいそう
}}
|-
'''愛宕あたご'''(あたご)は、[[大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん|日本にっぽん海軍かいぐん]]の[[じゅう巡洋艦じゅんようかん]]<ref>[[#ポケット海軍かいぐん年鑑ねんかん(1937)]]25ぺーじ一等いっとう巡洋艦じゅんようかん"愛宕あたごあたご" ぜん要目ようもく排水はいすいりょう9,850とん 速力そくりょく33.0せつ 備砲びほう20せんちめーとるほう10もん 12せんちめーとる高角こうかくほう4もん 魚雷ぎょらい發射はっしゃかん8もん 起工きこう昭和しょうわ2ねん4がつ 竣工しゅんこう昭和しょうわ7ねん3がつ 建造けんぞうしょ くれ海軍かいぐん工廠こうしょう要目ようもく高雄たかお同一どういつそとがたから那智なちきゅうくらべていちじるしい進歩しんぽしめしてゐるのはそのぜん檣である。巡洋艦じゅんようかんのマストがこゝにるやうな複雑ふくざつじょうしき進歩しんぽげたのはとりもなほさず造艦ぞうかん技術ぎじゅつ躍進やくしんてき發達はったつもとより、海戰かいせんじゅつそのものゝ進歩しんぽ複雑ふくざつとを如實にょじつ物語ものがたるものである。(以下いかりゃく)』</ref>。
|燃料ねんりょう||[[重油じゅうゆ]]:2,645トン(竣工しゅんこう)<br />2,318トン(改装かいそう

|-
== 概要がいよう ==
|乗員じょういん||760めい竣工しゅんこう)<ref>昭和しょうわ6ねん4がつ10にちづけ 海軍かいぐんないれい だい67ごう改正かいせい海軍かいぐん定員ていいんれいだい40ひょう 一等いっとう巡洋艦じゅんようかん定員ていいんひょう 其1」。この数字すうじ特修とくしゅうへいふくまない。</ref><br/>835めい改装かいそう
[[ファイル:Japanese cruiser Atago in 1939.jpg|thumb|right|300px|近代きんだい改装かいそう愛宕あたご昭和しょうわ14ねん([[1939ねん]])11月30にち横須賀よこすか軍港ぐんこう撮影さつえい。]]
|-
[[じゅう巡洋艦じゅんようかん|一等いっとう巡洋艦じゅんようかんじゅう巡洋艦じゅんようかん)]]'''愛宕あたご'''は[[高雄たかおがたじゅう巡洋艦じゅんようかん]]の2ばんかんである<ref>[[#艦艇かんてい類別るいべつ等級とうきゅうひょう(昭和しょうわ16ねん12月31にち)]]p.1『艦艇かんてい類別るいべつ等級とうきゅうひょう|軍艦ぐんかん|巡洋艦じゅんようかん|一等いっとう|高雄たかおがた|高雄たかお愛宕あたご鳥海とりうみ摩耶まや』</ref>。きゅうピッチで工事こうじをしたため1ばんかんの[[高雄たかお (じゅう巡洋艦じゅんようかん)|高雄たかお]]よりはや完成かんせいした。このため、高雄たかおがたじゅうじゅんを'''愛宕あたごがた'''とぶこともある。
|へいそう<br />(竣工しゅんこう)||[[じゅう口径こうけいさんねんしきせんちめーとるほう#Eがた連装れんそうほう|50口径こうけいさんねんしき20.3cm連装れんそうほう]]510もん<br />[[よん口径こうけいじゅうねんしきじゅうせんちめーとる高角こうかくほう|45口径こうけいじゅうねんしき12cmたんそう高角こうかくほう]]4もん<br />40mmたんそう[[機銃きじゅう]]2てい<br />はちきゅうしき61cm連装れんそう魚雷ぎょらい発射はっしゃかん48もん<br />(きゅうしき[[魚雷ぎょらい]]16ほん
[[太平洋戦争たいへいようせんそう]]における愛宕あたごは、[[南方なんぽう作戦さくせん]]、[[らんしるし作戦さくせん]]、[[ミッドウェー海戦かいせん]](攻略こうりゃく部隊ぶたい)、[[南太平洋みなみたいへいよう海戦かいせん]](前進ぜんしん部隊ぶたい)、[[だいさんソロモン海戦かいせん]]、[[ブーゲンビルとうたたかい]]([[ラバウル空襲くうしゅう]])、[[マリアナおき海戦かいせん]]、[[レイテおき海戦かいせん]]とう参加さんか。1944ねん昭和しょうわ19ねん)10がつ23にちにアメリカの潜水せんすいかん[[ダーター (SS-227)|ダーター]]の雷撃らいげき沈没ちんぼつするまで、ほぼ一貫いっかんして[[だい艦隊かんたい (日本にっぽん海軍かいぐん)|だい艦隊かんたい]]旗艦きかんにあり、[[金剛こんごうがた戦艦せんかん]]、[[長門ながとがた戦艦せんかん]]、[[大和やまとがた戦艦せんかん]]とう指揮しきいた。太平洋戦争たいへいようせんそうにおいて愛宕あたごはたはたかかげただい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんは、大戦たいせん前半ぜんはんは[[近藤こんどうしんちく]]中将ちゅうじょう後半こうはんは[[栗田くりた健男たけお]]中将ちゅうじょうだった。
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|へいそう<br />(1942ねん)||50口径こうけいさんねんしき20.3cm連装れんそうほう510もん<br />[[よん口径こうけいはちきゅうしきじゅうせんちめーとるなな高角こうかくほう|40口径こうけいはちきゅうしき12.7cm連装れんそう高角こうかくほう]]48もん<br />[[きゅうろくしきじゅうみりめーとる高角こうかく機銃きじゅう|きゅうろくしき25mm連装れんそう機銃きじゅう]]4<br />13mm連装れんそう機銃きじゅう2<br/>きゅうしき61cm4連装れんそう魚雷ぎょらい発射はっしゃかん4<br />([[酸素さんそ魚雷ぎょらい|きゅうさんしき魚雷ぎょらい]]24ほん
== かんめい ==
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日本にっぽん海軍かいぐんにおける[[愛宕あたご (曖昧あいまい回避かいひ)|愛宕あたご]]のかんめいは[[京都きょうと]]の[[愛宕山あたごやま (京都きょうと)|愛宕山あたごやま]]に由来ゆらいし、最初さいしょ愛宕あたごかんした軍艦ぐんかん明治めいじ時代じだいの[[摩耶まやがた砲艦ほうかん|砲艦ほうかん]][[愛宕あたご (砲艦ほうかん)|愛宕あたご]]である<ref>[[#幕末ばくまつ以降いこう帝国ていこく軍艦ぐんかん写真しゃしん史実しじつ]]35ぺーじ『<ins>愛宕あたご(あたご)</ins>【初代しょだい】<ins>かんしゅ</ins>砲艦ほうかん 檣「トップスル・スクーナー」姉妹しまいかん鳥海とりうみ赤城あかぎ摩耶まや(みな初代しょだい)あり。<ins>かんめいこう</ins>山名やまなる、愛宕山あたごやま別稱べっしょう愛宕あたごまもるさん朝日あさひほう白雲山はくうんざん嵯峨さがさんうんふ、山城やましろこく葛野かずらのぐん北方ほっぽうり、どうぐん嵯峨さがより1さと14まちにして其山いただきたっす、標高ひょうこう3,034しゃく。<ins>かんれき</ins>横須賀造船所よこすかぞうせんじょけるはじめてのはがねそう軍艦ぐんかんなり(以下いかりゃく)』</ref><ref>[[#幕末ばくまつ以降いこう帝国ていこく軍艦ぐんかん写真しゃしん史実しじつ]]124ぺーじ『<ins>愛宕あたご(あたご)</ins>【だい】<ins>かんしゅ</ins>一等いっとう巡洋艦じゅんようかん <ins>かんめいこう</ins>初代しょだい愛宕あたご」のこう参照さんしょう(P.43)』</ref>。
|[[装甲そうこう]]||舷側げんそく:127mm<br />水平すいへい:34-46mm<br />砲塔ほうとう:25mm
|-
|航空機こうくうき||水上みずかみ偵察ていさつ3([[カタパルト|くれしき2ごう射出しゃしゅつ]]2
|}
[[Image:Japanese cruiser Atago in 1939.jpg‎|thumb|right|300px|近代きんだい改装かいそう愛宕あたご昭和しょうわ14ねん([[1939ねん]])11月30にち横須賀よこすか軍港ぐんこう撮影さつえい。]]
'''愛宕あたご'''(あたご)は、[[大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん|日本にっぽん海軍かいぐん]]の[[じゅう巡洋艦じゅんようかん]]。[[高雄たかおがたじゅう巡洋艦じゅんようかん|高雄たかおがた]]の2ばんかんである<ref>[[#艦艇かんてい類別るいべつ等級とうきゅうひょう(昭和しょうわ16ねん12月31にち)]]p.1『艦艇かんてい類別るいべつ等級とうきゅうひょう|軍艦ぐんかん|巡洋艦じゅんようかん|一等いっとう|高雄たかおがた|高雄たかお愛宕あたご鳥海とりうみ摩耶まや』</ref>。かんめいは[[京都きょうと]]の[[愛宕山あたごやま (京都きょうと)|愛宕山あたごやま]]にちなんで命名めいめいされた。完成かんせいわった[[天城あまぎがたじゅんよう戦艦せんかん|天城あまぎがたじゅんよう戦艦せんかん愛宕あたご]]の名前なまえいでいる<ref>Ref.C08050173800「軍艦ぐんかん天城あまぎ愛宕あたご高雄たかお製造せいぞういちけん(製造せいぞう取止とりとめ)(1)」</ref><ref>[[#大正たいしょう9ねんたち3がつ]]p.19『いたるだいさんじゅうごう 軍備ぐんび補充ほじゅうヲ以テ建造けんぞう着手ちゃくしゅスヘキじゅんよう戦艦せんかんせきとう巡洋艦じゅんようかんいちせきひだりつう命名めいめいセラル 大正たいしょうきゅうねんさんがつじゅうろくにち 海軍かいぐん大臣だいじん加藤かとう友三郎ともさぶろうじゅんよう戦艦せんかんせき 高雄たかお(タカヲ)、愛宕あたご(アタゴ)|とう巡洋艦じゅんようかんいちせき 由良ゆら(ユラ)』、p.21『いたるだいさんじゅうごう 艦艇かんてい類別るいべつ等級とうきゅう別表べっぴょうじゅんよう戦艦せんかんらん赤城あかぎ」ノニ「、高雄たかお愛宕あたご」ヲ、巡洋艦じゅんようかんとうらん名取なとり」ノニ「由良ゆらフ』</ref>。この日本にっぽん海軍かいぐん艦船かんせんとしては3せき<ref name="聯合れんごう艦隊かんたい軍艦ぐんかん銘銘めいめいでん p.76">[[#聯合れんごう艦隊かんたい軍艦ぐんかん銘銘めいめいでん]]76ぺーじ</ref>。なお、名称めいしょうは[[海上かいじょう自衛隊じえいたい]]の[[あたごがた護衛ごえいかん]]の1ばんかん「[[あたご (護衛ごえいかん)|あたご]]」にがれている。太平洋戦争たいへいようせんそうでは1944ねん昭和しょうわ19ねん)10がつの[[レイテおき海戦かいせん]]で沈没ちんぼつするまで、ほぼ一貫いっかんして[[だい艦隊かんたい (日本にっぽん海軍かいぐん)|だい艦隊かんたい]]旗艦きかんにあり、[[金剛こんごうがた戦艦せんかん]]、[[長門ながとがた戦艦せんかん]]、[[大和やまとがた戦艦せんかん]]とう指揮しきいた。


2せき愛宕あたごは[[天城あまぎがたじゅんよう戦艦せんかん]]の4ばんかんだが<ref>Ref.C08050173800「軍艦ぐんかん天城あまぎ愛宕あたご高雄たかお製造せいぞういちけん(製造せいぞう取止とりとめ)(1)」</ref><ref>[[#大正たいしょう9ねんたち3がつ]]p.19『いたるだいさんじゅうごう 軍備ぐんび補充ほじゅうヲ以テ建造けんぞう着手ちゃくしゅスヘキじゅんよう戦艦せんかんせきとう巡洋艦じゅんようかんいちせきひだりつう命名めいめいセラル 大正たいしょうきゅうねんさんがつじゅうろくにち 海軍かいぐん大臣だいじん加藤かとう友三郎ともさぶろうじゅんよう戦艦せんかんせき 高雄たかお(タカヲ)、愛宕あたご(アタゴ)|とう巡洋艦じゅんようかんいちせき 由良ゆら(ユラ)』、p.21『いたるだいさんじゅうごう 艦艇かんてい類別るいべつ等級とうきゅう別表べっぴょうじゅんよう戦艦せんかんらん赤城あかぎ」ノニ「、高雄たかお愛宕あたご」ヲ、巡洋艦じゅんようかんとうらん名取なとり」ノニ「由良ゆら」ヲフ』</ref>、同艦どうかん建造けんぞう中止ちゅうしとなった。一等いっとう巡洋艦じゅんようかん愛宕あたごは、日本にっぽん海軍かいぐん艦船かんせんとしては3せきとなる<ref name="聯合れんごう艦隊かんたい軍艦ぐんかん銘銘めいめいでん p.76">[[#聯合れんごう艦隊かんたい軍艦ぐんかん銘銘めいめいでん]]76ぺーじ</ref>。
きゅうピッチで工事こうじをしたため1ばんかんの[[高雄たかお (じゅう巡洋艦じゅんようかん)|高雄たかお]]よりはや完成かんせいした。このため、高雄たかおがたじゅうじゅんを'''愛宕あたごがた'''とぶこともある。
ほんかん沈没ちんぼつ名称めいしょうは[[海上かいじょう自衛隊じえいたい]]の[[あたごがた護衛ごえいかん]]の1ばんかん「[[あたご (護衛ごえいかん)|あたご]]」にがれている。


== かんれき ==
== かんれき ==
一等いっとう巡洋艦じゅんようかん愛宕あたごは1927ねん昭和しょうわ2ねん)4がつ28にちに[[海軍かいぐん工廠こうしょう]]で起工きこう、1930ねん昭和しょうわ5ねん)6がつ16にち進水しんすい<ref name="艦船かんせん要目ようもく">[[#昭和しょうわ12ねん12月1にち現在げんざい艦船かんせん要目ようもく公表こうひょう範囲はんい]]p.4『愛宕あたご|一等いっとう巡洋艦じゅんようかん|(かんしょもとりゃく)|工廠こうしょう|2-4-28|5-6-16|7-3-30|(装備そうびりゃく)』</ref>。初代しょだい艦長かんちょう佐田さた健一けんいち大佐たいさ指揮しき、[[1932ねん]](昭和しょうわ7ねん)3がつ30にち就役しゅうえきする<ref name="艦船かんせん要目ようもく"/>。4月16にちには[[いぬやしなえあつし]][[内閣ないかく総理そうり大臣だいじん|首相しゅしょう]]をはじめとする政府せいふ高官こうかんせて東京とうきょうわん巡航じゅんこうする。同年どうねん12がつ、2代目だいめ艦長かんちょう高橋たかはしもち大佐たいさ指揮しきだい艦隊かんたいだいよん戦隊せんたい編入へんにゅうされた。
一等いっとう巡洋艦じゅんようかん愛宕あたごは1927ねん昭和しょうわ2ねん)4がつ28にちに[[海軍かいぐん工廠こうしょう]]で起工きこう、1930ねん昭和しょうわ5ねん)6がつ16にち進水しんすい<ref name="艦船かんせん要目ようもく">[[#昭和しょうわ12ねん12月1にち現在げんざい艦船かんせん要目ようもく公表こうひょう範囲はんい]]p.4『愛宕あたご|一等いっとう巡洋艦じゅんようかん|(かんしょもとりゃく)|工廠こうしょう|2-4-28|5-6-16|7-3-30|(装備そうびりゃく)』</ref>。初代しょだい艦長かんちょう佐田さた健一けんいち大佐たいさ指揮しき、[[1932ねん]](昭和しょうわ7ねん)3がつ30にち就役しゅうえきする<ref name="艦船かんせん要目ようもく" />。4月16にちには[[いぬやしなえあつし]][[内閣ないかく総理そうり大臣だいじん|首相しゅしょう]]をはじめとする政府せいふ高官こうかんせて東京とうきょうわん巡航じゅんこうする。同年どうねん12がつ、2代目だいめ艦長かんちょう高橋たかはしもち大佐たいさ指揮しき[[妙高みょうこうがたじゅう巡洋艦じゅんようかん]]にわってだい艦隊かんたいだいよん戦隊せんたい編入へんにゅうされた。


昭和しょうわ8ねん([[1933ねん]])8がつ26にちには[[横浜よこはま|横浜よこはま]]おきおこなわれた特別とくべつだい演習えんしゅうでの[[観艦式かんかんしき]]に鳥海とりうみ(先導せんどうかん)愛宕あたご高雄たかお摩耶まやは[[昭和しょうわ天皇てんのう]]が乗艦じょうかんする戦艦せんかん[[比叡ひえい (戦艦せんかん)|比叡ひえい]]の供奉ぐぶかんとして参列さんれつした。
[[1933ねん]]昭和しょうわ8とし)8つき26にちには[[横浜よこはま|横浜よこはま]]おきおこなわれた特別とくべつだい演習えんしゅうでの[[観艦式かんかんしき]]に高雄たかおがたじゅうじゅん4せき鳥海とりうみ先導せんどうかん愛宕あたご高雄たかお摩耶まやは[[昭和しょうわ天皇てんのう]]が乗艦じょうかんする[[金剛こんごうがたせんかん]]2ばんかん[[比叡ひえい (戦艦せんかん)|比叡ひえい]]の供奉ぐぶかんとして参列さんれつした。


昭和しょうわ11ねん([[1936ねん]])10つき25にち御召おめしかん比叡ひえいおよび供奉ぐぶかん[[時雨しぐれ (白露しらつゆがた駆逐くちくかん)|時雨しぐれ]]、[[白露しらつゆ (白露しらつゆがた駆逐くちくかん)|白露しらつゆ]]は[[神戸こうべこう]]に到着とうちゃく鳥海とりうみ愛宕あたご足柄あしがら礼砲れいほう昭和しょうわ天皇てんのう出迎でむかえた<ref>[[#昭和しょうわじゅう一年海軍特別大演習観艦式神戸市記念誌]]p.34『ささやわすよろこびの会話かいわ瞬間しゅんかんにゆらめく和泉いずみなだ金波きんぱをかきけて、神戸こうべこう防波堤ぼうはていちかづく比叡ひえい英姿えいしあおぎみる檣頭しょうとうたか錦旗きんきは、いまぞはためく、つづくは供奉ぐぶかんの「時雨しぐれ」「白露しらつゆ」そのとき突如とつじょ海面かいめんをどよもすじゅう一発いっぱつすめらぎ禮砲れいほう鳥海とりうみ愛宕あたご足柄あしがらかくかんからはっせられ…』</ref>。26にち昭和しょうわ天皇てんのう広島ひろしまけん[[東能美島ひがしのうみじま|江田島えたじま]]の[[海軍兵学校かいぐんへいがっこう (日本にっぽん)|海軍兵学校かいぐんへいがっこう]]に行幸ぎょうこうすることになり比叡ひえいから愛宕あたご移乗いじょう時雨しぐれ白露しらつゆ供奉ぐぶかんとして江田島えたじまへむかった<ref>[[#昭和しょうわじゅう一年海軍特別大演習観艦式神戸市記念誌]]p.36『かくてはち御召おめしかん愛宕あたご抜錨ばつびょう供奉ぐぶ駆逐くちくかん白露しらつゆ時雨しぐれしたがえへ、だいいち航路こうろ関門かんもんこう、このとき連合れんごう艦隊かんたい旗艦きかん長門ながとはなすめらぎ禮砲れいほうだい一発いっぱつつづいて、かく戦隊せんたいごとじゅう一発いっぱつすめらぎ禮砲れいほうはっし…』</ref>。海軍兵学校かいぐんへいがっこう行幸ぎょうこうえて28にち神戸こうべ帰着きちゃくすると、御召おめしかん愛宕あたごから比叡ひえいもどり、10月29にち観艦式かんかんしき当日とうじつむかえる<ref>[[#昭和しょうわじゅう一年海軍特別大演習観艦式神戸市記念誌]]pp.39-45</ref>。御召おめしかん比叡ひえい供奉ぐぶかん愛宕あたご鳥海とりうみ足柄あしがらという編制へんせいであった。観艦式かんかんしき終了しゅうりょう昭和しょうわ天皇てんのう比叡ひえい(御召おめしかん)時雨しぐれ白露しらつゆ横須賀よこすかかった<ref>[[#昭和しょうわ11ねん特別とくべつだい演習えんしゅう観艦式かんかんしきたまもの饌艦設備せつびかんするけん 訓令くんれいちゅう改正かいせいけん(1)]]p.8,13『午後ごご240ふん御召おめしかん横須賀よこすかこう出港しゅっこうス。駆逐くちくかん時雨しぐれ白露しらつゆたまもの饌後御召おめしかん附近ふきん待機たいき御召おめしかん出港しゅっこうさい供奉ぐぶス』</ref>。
[[1936ねん]]昭和しょうわ11ねん)10つき25にち御召おめしかん比叡ひえいおよび供奉ぐぶかん2せき[[時雨しぐれ (白露しらつゆがた駆逐くちくかん)|時雨しぐれ]]、[[白露しらつゆ (白露しらつゆがた駆逐くちくかん)|白露しらつゆ]]は[[神戸こうべこう]]に到着とうちゃく愛宕あたご以下いかかくかん礼砲れいほう昭和しょうわ天皇てんのう出迎でむかえた<ref>[[#昭和しょうわじゅう一年海軍特別大演習観艦式神戸市記念誌]]p.34『ささやわすよろこびの会話かいわ瞬間しゅんかんにゆらめく和泉いずみなだ金波きんぱをかきけて、神戸こうべこう防波堤ぼうはていちかづく比叡ひえい英姿えいしあおぎみる檣頭しょうとうたか錦旗きんきは、いまぞはためく、つづくは供奉ぐぶかんの「時雨しぐれ」「白露しらつゆ」そのとき突如とつじょ海面かいめんをどよもすじゅう一発いっぱつすめらぎ禮砲れいほう鳥海とりうみ愛宕あたご足柄あしがらかくかんからはっせられ…』</ref>。10月26にち昭和しょうわ天皇てんのう広島ひろしまけん[[東能美島ひがしのうみじま|江田島えたじま]]の[[海軍兵学校かいぐんへいがっこう (日本にっぽん)|海軍兵学校かいぐんへいがっこう]]に行幸ぎょうこうすることになり比叡ひえいから愛宕あたご移乗いじょう白露しらつゆがた2せき時雨しぐれ白露しらつゆ供奉ぐぶかんとして江田島えたじまへむかった<ref>[[#昭和しょうわじゅう一年海軍特別大演習観艦式神戸市記念誌]]p.36『かくてはち御召おめしかん愛宕あたご抜錨ばつびょう供奉ぐぶ駆逐くちくかん白露しらつゆ時雨しぐれしたがえへ、だいいち航路こうろ関門かんもんこう、このとき連合れんごう艦隊かんたい旗艦きかん長門ながとはなすめらぎ禮砲れいほうだい一発いっぱつつづいて、かく戦隊せんたいごとじゅう一発いっぱつすめらぎ禮砲れいほうはっし…』</ref>。海軍兵学校かいぐんへいがっこう行幸ぎょうこうえて28にち神戸こうべ帰着きちゃくすると、御召おめしかん比叡ひえいもどり、10月29にち観艦式かんかんしき当日とうじつむかえる<ref>[[#昭和しょうわじゅう一年海軍特別大演習観艦式神戸市記念誌]]pp.39-45</ref>。御召おめしかん比叡ひえい供奉ぐぶかん愛宕あたご鳥海とりうみ足柄あしがらという編制へんせいであった。観艦式かんかんしき終了しゅうりょう昭和しょうわ天皇てんのう3せき比叡ひえい御召おめしかん時雨しぐれ白露しらつゆ横須賀よこすかかった<ref>[[#昭和しょうわ11ねん特別とくべつだい演習えんしゅう観艦式かんかんしきたまもの饌艦設備せつびかんするけん 訓令くんれいちゅう改正かいせいけん(1)]]p.8,13『午後ごご240ふん御召おめしかん横須賀よこすかこう出港しゅっこうス。駆逐くちくかん時雨しぐれ白露しらつゆたまもの饌後御召おめしかん附近ふきん待機たいき御召おめしかん出港しゅっこうさい供奉ぐぶス』</ref>。


昭和しょうわ13ねん([[1938ねん]])4つきには近代きんだい改装かいそうおこなわれ、よく14ねん([[1939ねん]])10つき工事こうじ完了かんりょう昭和しょうわ16ねん([[1941ねん]])10つき、[[摩耶まや (じゅう巡洋艦じゅんようかん)|摩耶まや]]にわってだい艦隊かんたい([[近藤こんどうしんちく]]中将ちゅうじょう)[[旗艦きかん]]となった。[[中島なかじまちかしこう]]だい艦隊かんたい通信つうしん参謀さんぼうによれば、本来ほんらい高雄たかお旗艦きかんだったが、事故じこにより愛宕あたご変更へんこうされたとしている<ref>[[#聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ]]18ぺーじ</ref>。11月29にち出港しゅっこうし<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]33ぺーじ</ref>、12月2にち台湾たいわんうまこう到着とうちゃくする<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]36ぺーじ</ref>。12月4にち高雄たかお戦艦せんかん[[きむつよし (戦艦せんかん)|きむつよし]]、[[榛名はるな (戦艦せんかん)|榛名はるな]]をしたがえて出港しゅっこう<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]38ぺーじ、[[#聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ]]26ぺーじ</ref>、愛宕あたご日米にちべい開戦かいせんけて配置はいちについた。
[[1938ねん]]昭和しょうわ13ねん)4つきには近代きんだい改装かいそうおこなわれ、舞鶴まいづるから横須賀よこすか工廠こうしょうへと移動いどうしてよく[[1939ねん]]昭和しょうわ14ねん)10つき工事こうじ完了かんりょう。[[1941ねん]]昭和しょうわ16ねん)10つき、[[摩耶まや (じゅう巡洋艦じゅんようかん)|摩耶まや]]にわってだい艦隊かんたい([[近藤こんどうしんちく]]中将ちゅうじょう)[[旗艦きかん]]となった。[[中島なかじまちかしこう]]だい艦隊かんたい通信つうしん参謀さんぼうによれば、本来ほんらい高雄たかお旗艦きかんだったが、事故じこにより愛宕あたご変更へんこうされたとしている<ref>[[#聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ]]18ぺーじ</ref>。11月29にち出港しゅっこうし<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]33ぺーじ</ref>、12月2にち台湾たいわんうまこう到着とうちゃくする<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]36ぺーじ</ref>。12月4にち高雄たかお戦艦せんかん[[きむつよし (戦艦せんかん)|きむつよし]]、[[榛名はるな (戦艦せんかん)|榛名はるな]]をしたがえて出港しゅっこう<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]38ぺーじ、[[#聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ]]26ぺーじ</ref>、愛宕あたご日米にちべい開戦かいせんけて配置はいちについた。


=== 東南とうなんアジアでの行動こうどう ===
=== 東南とうなんアジアでの行動こうどう ===
だい艦隊かんたい旗艦きかん南方なんぽう部隊ぶたい本隊ほんたい旗艦きかん愛宕あたごは12月8にち開戦かいせん南方なんぽう海上かいじょうむかえた。近藤こんどう司令しれい長官ちょうかん指揮しきかんとする南方なんぽう部隊ぶたい本隊ほんたいは、だいよん戦隊せんたい愛宕あたご高雄たかお摩耶まや)、だいさん戦隊せんたいだい2小隊しょうたいきむつよし榛名はるな)、だい4駆逐くちくたいあらし野分のわけまいふうはぎふう)、だい6駆逐くちくたいだい1小隊しょうたいひびきあかつき)、だい8駆逐くちくたい大潮おおしおあさしお満潮まんちょうあらうしお)という戦力せんりょくである<ref>[[#戦史せんし叢書そうしょ26海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん]]付表ふひょうだいいち南方なんぽう作戦さくせん関係かんけい主要しゅよう職員しょくいんひょう 昭和しょうわじゅうろくねん十二月じゅうにがつはちにち』</ref>。
だい艦隊かんたい旗艦きかん南方なんぽう部隊ぶたい本隊ほんたい旗艦きかん愛宕あたごは12月8にち開戦かいせん南方なんぽう海上かいじょうむかえた。近藤こんどう司令しれい長官ちょうかん指揮しきかんとする南方なんぽう部隊ぶたい本隊ほんたいは、だいよん戦隊せんたい愛宕あたご高雄たかお摩耶まや)、だいさん戦隊せんたいだい2小隊しょうたいきむつよし榛名はるな)、だい4駆逐くちくたいあらし野分のわけまいふうはぎふう)、だい6駆逐くちくたいだい1小隊しょうたいひびきあかつき)、だい8駆逐くちくたい大潮おおしおあさしお満潮まんちょうあらうしお)という戦力せんりょくである<ref>[[#戦史せんし叢書そうしょ26海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん]]付表ふひょうだいいち南方なんぽう作戦さくせん関係かんけい主要しゅよう職員しょくいんひょう 昭和しょうわじゅうろくねん十二月じゅうにがつはちにち』</ref>。
東南とうなんアジア占領せんりょう目指めざ日本にっぽんぐんにとって最大さいだい脅威きょういは、[[シンガポール]]を根拠地こんきょちとする[[東洋とうよう艦隊かんたい (イギリス)|イギリス東洋とうよう艦隊かんたい]]の戦艦せんかん[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦せんかん)|プリンス・オブ・ウェールズ]]とめぐよう戦艦せんかん[[レパルス (めぐよう戦艦せんかん)|レパルス]]であった<ref>[[#聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ]]29ぺーじ</ref>。その脅威きょうい9にちの[[マレーおき海戦かいせん]]で排除はいじょされた。11にち、カムランわん入港にゅうこうし、マレー部隊ぶたい/[[みなみ艦隊かんたい]](指揮しきかん[[小沢おざわおさむ三郎さぶろう]]中将ちゅうじょう旗艦きかん[[鳥海とりうみ (じゅう巡洋艦じゅんようかん)|鳥海とりうみ]])と合流ごうりゅうする<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]46-47ぺーじ</ref>。14にち、カムランわん出港しゅっこう<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]50ぺーじ</ref>。以後いご、[[マレー作戦さくせん]]や[[らんしるし作戦さくせん]]を支援しえんした。
東南とうなんアジア占領せんりょう目指めざ日本にっぽんぐんにとって最大さいだい脅威きょういは、[[シンガポール]]を根拠地こんきょちとする[[東洋とうよう艦隊かんたい (イギリス)|イギリス東洋とうよう艦隊かんたい]]の戦艦せんかん[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦せんかん)|プリンス・オブ・ウェールズ]]とめぐよう戦艦せんかん[[レパルス (めぐよう戦艦せんかん)|レパルス]]であった<ref>[[#聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ]]29ぺーじ</ref>。その脅威きょうい12月10にちの[[マレーおき海戦かいせん]]で排除はいじょされた。11にち、カムランわん入港にゅうこうし、マレー部隊ぶたい/[[みなみ艦隊かんたい]](指揮しきかん[[小沢おざわおさむ三郎さぶろう]]中将ちゅうじょう旗艦きかん[[鳥海とりうみ (じゅう巡洋艦じゅんようかん)|鳥海とりうみ]])と合流ごうりゅうする<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]46-47ぺーじ</ref>。14にち、カムランわん出港しゅっこう<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]50ぺーじ</ref>。以後いご、[[マレー作戦さくせん]]や[[らんしるし作戦さくせん]]を支援しえんした。


昭和しょうわ17ねん([[1942ねん]])2つき25にち、[[スラウェシとう|セレベスとう]]スターリングわん出港しゅっこうし<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]53ぺーじ</ref>、オンバイ海峡かいきょうてサウうみはいり、インド洋いんどよう進出しんしゅつする<ref>[[#戦史せんし叢書そうしょ26海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん]]511ぺーじ南方なんぽう部隊ぶたい本隊ほんたい、ジャワ南方なんぽう敵艦てきかんせん撃滅げきめつ』</ref><ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]55ぺーじ</ref>。3月2にち午後ごご1022ふんバリ島ばりとう南方なんぽうじゅう巡洋艦じゅんようかん高雄たかおともに[[駆逐くちくかん]][[ピルスバリー (駆逐くちくかん)|ピルスバリー]] (''USS Pillsbury , DD-227'') を20cm砲弾ほうだん54はつ、12.7センチ高角こうかくほう15はつもちいて撃沈げきちんした<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(1)」p.13、[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]61ぺーじ</ref>。愛宕あたごはピルスバリーをかんがたけい巡洋艦じゅんようかん[[マーブルヘッド (けい巡洋艦じゅんようかん)|マーブルヘッド]]と誤認ごにんしていた<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(1)」pp.12、[[#聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ]]43ぺーじ</ref>。乗組のりくみいん戦時せんじ日記にっきには「オマハがたけい巡洋艦じゅんようかん」という表現ひょうげんられる<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]60ぺーじ</ref>。3にちじゅうじゅん[[摩耶まや (じゅう巡洋艦じゅんようかん)|摩耶まや]]、駆逐くちくかん野分のわけあらし合同ごうどうする<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]62ぺーじ</ref>。4にち愛宕あたご高雄たかお摩耶まやおよびだい4駆逐くちくたい[[あらし (駆逐くちくかん)|あらし]][[野分のわけ (陽炎かげろうがた駆逐くちくかん)|野分のわけ]]は[[ジャワ島じゃわとう]][[チラチャップ]]ちかくで船団せんだん攻撃こうげき、タンカーFrancol、depot ship Anking、掃海そうかいてい1せきしずめ、[[オランダ]]の貨物かもつせん2せき捕獲ほかくし、護衛ごえいの[[オーストラリア海軍かいぐん]][[スループ]][[ヤラ (スループ)|ヤラ]]げきした<ref>[[#愛宕あたごせん]]62-64ぺーじ獲物えものあたななせき撃沈げきちん拿捕だほ」</ref>。3月7にち、スターリわん帰投きとうした
[[1942ねん]]昭和しょうわ17ねん)2つき25にち、[[スラウェシとう|セレベスとう]]スターリングわん出港しゅっこうし<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]53ぺーじ</ref>、オンバイ海峡かいきょうてサウうみはいり、インド洋いんどよう進出しんしゅつする<ref>[[#戦史せんし叢書そうしょ26海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん]]511ぺーじ南方なんぽう部隊ぶたい本隊ほんたい、ジャワ南方なんぽう敵艦てきかんせん撃滅げきめつ』</ref><ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]55ぺーじ</ref>。3月2にち午後ごご1022ふんバリ島ばりとう南方なんぽう高雄たかおともに[[駆逐くちくかん]][[ピルスバリー (駆逐くちくかん)|ピルスバリー]] (''USS Pillsbury , DD-227'') を20cm砲弾ほうだん54はつ、12.7センチ高角こうかくほう15はつもちいて撃沈げきちんした<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(1)」p.13、[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]61ぺーじ</ref>。愛宕あたごはピルスバリーをかんがたけい巡洋艦じゅんようかん[[マーブルヘッド (けい巡洋艦じゅんようかん)|マーブルヘッド]]と誤認ごにんしていた<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(1)」pp.12、[[#聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ]]43ぺーじ</ref>。乗組のりくみいん戦時せんじ日記にっきには「オマハがたけい巡洋艦じゅんようかん」という表現ひょうげんられる<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]60ぺーじ</ref>。3にちべつどうの3せきじゅうじゅん[[摩耶まや (じゅう巡洋艦じゅんようかん)|摩耶まや]]だい4駆逐くちくたいだい1小隊しょうたい《[[あらし (駆逐くちくかん)|あらし]]、[[野分のわけ (陽炎かげろうがた駆逐くちくかん)|野分のわけ]]》)合同ごうどうする<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]62ぺーじ</ref>。4にち南方みなかた部隊ぶたい本隊ほんたい愛宕あたご高雄たかお摩耶まやあらし野分のわけは[[ジャワ島じゃわとう]][[チラチャップ]]の170280海里かいりづけちか進出しんしゅつし、スループ[[ヤラ (スループ)|ヤラ]]」、depot ship「Anking」、掃海そうかいてい「MMS.51」、タンカー「フランコル」からなる船団せんだんおさむげき全滅ぜんめつさせた<ref>せんふみ叢書そうしょだい026かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、513、515ページ、Hermon Gill, [https://www.awm.gov.au/collection/C1417313 Royal Australian Navy, 1939–1942], pp.617,629-630</ref>。さらにこ愛宕あたご」はオランダせん「Duymaer van Twist」(1030トン)拿捕だほし、「あらしもオランダせん(7089トン)を拿捕だほした<ref name="sen26 515">戦史せんし叢書そうしょだい026かん らんしるし・ベガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、515ページ、Japanese Cruisers of the Pacific War, p.299</ref>
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4にち南方みなかた部隊ぶたい本隊ほんたい愛宕あたご高雄たかお摩耶まやあらし野分のわけ)は[[ジャワ島じゃわとう]][[チラチャップ]]ちかくで船団せんだん攻撃こうげき、タンカーFrancol、depot ship Anking、掃海そうかいてい1せきしずめ、[[オランダ]]の貨物かもつせん2せき捕獲ほかくし、護衛ごえいの[[オーストラリア海軍かいぐん]][[スループ]][[ヤラ (スループ)|ヤラ]]も撃沈げきちんした<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]62-64ぺーじ獲物えものあたななせき撃沈げきちん拿捕だほす」</ref>。
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南方みなかた部隊ぶたい本隊ほんたいは3がつ7にちにスターリングわん帰投きとうした<ref name="sen26 515"/>。


3がつ20日はつか、ボルネオとうタラカンに入港にゅうこうする<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]66ぺーじ</ref>。23にち、マサッカルに入港にゅうこう<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]71ぺーじ</ref>シンガポールを4がつ3にちにはマレまれ半島はんとう西岸せいがんのペナンに到着とうちゃくした<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]75ぺーじ</ref>。[[セイロンおき海戦かいせん]]では直接ちょくせつ英軍えいぐん交戦こうせんすることはなく、なんアンダマン諸島しょとう周辺しゅうへん英軍えいぐん艦隊かんたい索敵さくてき従事じゅうじした<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]78ぺーじ、[[#聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ]]45ぺーじ</ref>。4がつ10日とおか、カムランわん入港にゅうこう<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]83ぺーじ、[[#聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ]]46ぺーじ</ref>。開戦かいせん以来いらい東南とうなんアジアをかけまわった愛宕あたごは、一旦いったん前線ぜんせん任務にんむかれ、日本にっぽんもどった。
3がつ20日はつか、ボルネオとうタラカンに入港にゅうこうする<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]66ぺーじ</ref>。23にち[[マカッサ]]入港にゅうこう<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]71ぺーじ</ref>シンガポールをて4がつ3にちにはマレまれ半島はんとう西岸せいがんのペナンに到着とうちゃくした<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]75ぺーじ</ref>。[[セイロンおき海戦かいせん]]では直接ちょくせつ英軍えいぐん交戦こうせんすることはなく、なんアンダマン諸島しょとう周辺しゅうへん英軍えいぐん艦隊かんたい索敵さくてき従事じゅうじした<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]78ぺーじ、[[#聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ]]45ぺーじ</ref>。4がつ10日とおか、カムランわん入港にゅうこう<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]83ぺーじ、[[#聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ]]46ぺーじ</ref>。開戦かいせん以来いらい東南とうなんアジアをかけまわった愛宕あたごは、一旦いったん前線ぜんせん任務にんむかれ、日本にっぽんもどった。


愛宕あたご東京とうきょうわんめんする[[横須賀よこすかこう]]にいかりをおろした。4月18にちのアメリカぐんの[[B-25 (航空機こうくうき)|B-25]]爆撃ばくげきによる[[ドーリットル空襲くうしゅう]]では横須賀よこすか爆撃ばくげきされたが、愛宕あたご目標もくひょうにならなかった。ドーリットルたいったのち急遽きゅうきょ出撃しゅつげきしてアメリカ機動きどう部隊ぶたい捜索そうさくするも、アメリカ機動きどう部隊ぶたいすでったのちだった<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」p.1、[[#聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ]]46ぺーじ</ref>。[[ミッドウェー海戦かいせん]]にはミッドウェーとう攻略こうりゃく部隊ぶたい本隊ほんたいだいよん戦隊せんたい愛宕あたご鳥海とりうみ)、だい戦隊せんたいみょうだか羽黒はぐろ)、だいさん戦隊せんたい比叡ひえいきむつよし)、だいよん水雷すいらい戦隊せんたい由良ゆらだい2駆逐くちくたい村雨むらさめ五月雨さみだれ春雨はるさめ夕立ゆうだち》、だい9駆逐くちくたいあさくもみねくもなつくも》)、空母くうぼ[[瑞鳳ずいほう (空母くうぼ)|瑞鳳ずいほう]]、駆逐くちくかん三日月みかづき油槽ゆそうせん3せき旗艦きかんとして参加さんか<ref>[[#ミッドウエー海戦かいせん日誌にっし(1)]]pp.4-5『別表べっぴょうだい MI作戦さくせん部隊ぶたい兵力へいりょく部署ぶしょ』</ref>。サイパンとうてミッドウェーとう近海きんかい進出しんしゅつ。6月4にちにアメリカぐんばくげきから攻撃こうげきけたが被害ひがいはなかった<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」pp.3</ref>。5にち南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい壊滅かいめつ連絡れんらく撤退てったい命令めいれいけて変針へんしんする。途中とちゅう、アメリカぐん航空こうくう攻撃こうげき大破たいはしたじゅうじゅんようかん[[最上もがみ (じゅう巡洋艦じゅんようかん)|最上さいじょう]]およびあさしおあらうしお合流ごうりゅうした<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」pp.5</ref><ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]92ぺーじ</ref>。6月14にちじゅうなな日間にちかんにわたる航海こうかいえて帰着きちゃくする<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]96ぺーじ</ref>。
愛宕あたご東京とうきょうわんめんする[[横須賀よこすかこう]]にいかりをおろした。4月18にちのアメリカうみぐんの「ホーネット」よりはつかんしたの[[B-25 (航空機こうくうき)|B-25]]爆撃ばくげきによる[[ドーリットル空襲くうしゅう]]では横須賀よこすか爆撃ばくげきされたが、愛宕あたご目標もくひょうにならなかった。ドーリットルたいったのち急遽きゅうきょ出撃しゅつげきしてアメリカ機動きどう部隊ぶたい捜索そうさくするも、アメリカ機動きどう部隊ぶたいすでったのちだった<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」p.1、[[#聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ]]46ぺーじ</ref>。
[[ミッドウェー海戦かいせん]]にはミッドウェーとう攻略こうりゃく部隊ぶたい本隊ほんたいだいよん戦隊せんたい愛宕あたご鳥海とりうみ)、だい戦隊せんたいみょうだか羽黒はぐろ)、だいさん戦隊せんたい比叡ひえいきむつよし)、だいよん水雷すいらい戦隊せんたい由良ゆらだい2駆逐くちくたい村雨むらさめ五月雨さみだれ春雨はるさめ夕立ゆうだち》、だい9駆逐くちくたいあさくもみねくもなつくも》)、空母くうぼ[[瑞鳳ずいほう (空母くうぼ)|瑞鳳ずいほう]]、駆逐くちくかん三日月みかづき油槽ゆそうせん3せき旗艦きかんとして参加さんか<ref>[[#ミッドウエー海戦かいせん日誌にっし(1)]]pp.4-5『別表べっぴょうだい MI作戦さくせん部隊ぶたい兵力へいりょく部署ぶしょ』</ref>。サイパンとうてミッドウェーとう近海きんかい進出しんしゅつ。6月4にちにアメリカぐんばくげきから攻撃こうげきけたが被害ひがいはなかった<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」pp.3</ref>。5にち南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい壊滅かいめつ連絡れんらく撤退てったい命令めいれいけて変針へんしんする。途中とちゅう、アメリカぐん航空こうくう攻撃こうげき損傷そんしょうした3せきじゅうじゅん[[最上もがみ (じゅう巡洋艦じゅんようかん)|最上さいじょう]]》、だい8駆逐くちくたいあさしおあらうしお》)合流ごうりゅうした<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」pp.5</ref><ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]92ぺーじ</ref>。6月14にちじゅうなな日間にちかんにわたる航海こうかいえて帰着きちゃくする<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]96ぺーじ</ref>。


=== ソロモン諸島しょとうでの行動こうどう ===
=== ソロモン諸島しょとうでの行動こうどう ===
8つき初旬しょじゅん、アメリカぐんは[[ガダルカナルとう]]とツラギに上陸じょうりくし、[[ガダルカナルとうたたかい]]がはじまった。8月11にち愛宕あたご戦艦せんかん[[陸奥むつ (戦艦せんかん)|陸奥みちのく]]ととも桂島かつらしま泊地はくち出発しゅっぱつし、南洋なんよう日本にっぽん海軍かいぐん拠点きょてんであるトラック泊地はくち航海こうかいつづけた<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]114ぺーじ</ref>。17にち到着とうちゃくしたが、油槽ゆそうせん神国しんこくまるにち栄丸さかえまるがアメリカぐん潜水せんすいかん雷撃らいげきなかやぶした<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]118ぺーじ</ref>。2せきから艦隊かんたいへの給油きゅうゆ可能かのうだったが、アメリカぐん潜水せんすいかん活動かつどう日本にっぽんぐん作戦さくせん影響えいきょうあたえはじめた<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]119ぺーじ</ref>。
1942ねん昭和しょうわ17ねん)8つき初旬しょじゅん、アメリカぐんは[[ガダルカナルとう]]とツラギに上陸じょうりくし、[[ガダルカナルとうたたかい]]がはじまった。8月11にち愛宕あたご戦艦せんかん[[陸奥むつ (戦艦せんかん)|陸奥みちのく]]ととも桂島かつらしま泊地はくち出発しゅっぱつし、南洋なんよう日本にっぽん海軍かいぐん拠点きょてんであるトラック泊地はくち航海こうかいつづけた<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]114ぺーじ</ref>。17にち到着とうちゃくしたが、油槽ゆそうせん2せき神国しんこくまるにち栄丸さかえまるがアメリカぐん潜水せんすいかん雷撃らいげきなかやぶした<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]118ぺーじ</ref>。2せきから艦隊かんたいへの給油きゅうゆ可能かのうだったが、アメリカぐん潜水せんすいかん活動かつどう日本にっぽんぐん作戦さくせん影響えいきょうあたえはじめた<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]119ぺーじ</ref>。


8がつ20日はつか愛宕あたごだいよん戦隊せんたいだい戦隊せんたい、[[水上すいじょう母艦ぼかん]][[千歳ちとせがた水上すいじょう母艦ぼかん|千歳ちとせ]]、だいよん水雷すいらい戦隊せんたいともにトラック泊地はくち出撃しゅつげき<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]123ぺーじ</ref>。さらに陸奥みちのく村雨むらさめ五月雨さみだれ春雨はるさめ合流ごうりゅう、8がつ24にち-25にちの[[だいソロモン海戦かいせん]]に参加さんかした。アメリカぐん艦載かんさい20すう攻撃こうげきけて[[千歳ちとせ (空母くうぼ)|千歳ちとせ]]が損傷そんしょうしたが愛宕あたご被害ひがいはなく<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」pp.8</ref>、アメリカどう部隊ぶたい水上すいじょう戦闘せんとういどむべく南下なんかしたが接触せっしょくできなかった<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」pp.9</ref>。愛宕あたご水上すいじょう偵察ていさつ1搭乗とうじょういん3めい)を喪失そうしつした<ref>[[#海軍かいぐん操舵そうだいんよもやまばなし]]40ぺーじ</ref>。9月5にち、トラック泊地はくち帰還きかんする<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]150ぺーじ</ref>。愛宕あたごはそのもソロモン諸島しょとう東海とうかいめん活動かつどうつづけた。9月11にち特設とくせつ水上すいじょう母艦ぼかん国川こくがわまる艦載かんさいがアメリカぐん飛行ひこうてい撃墜げきつい駆逐くちくかん村雨むらさめ搭乗とうじょういん8めい捕虜ほりょとした<ref>[[#海軍かいぐん操舵そうだいんよもやまばなし]]41ぺーじ</ref>。夕刻ゆうこく捕虜ほりょ愛宕あたご収容しゅうようされた<ref>[[#海軍かいぐん操舵そうだいんよもやまばなし]]42ぺーじ</ref>。9月20にちにトラック泊地はくち帰投きとう捕虜ほりょ戦艦せんかん大和やまと連合れんごう艦隊かんたい司令しれい)へ移送いそうされたが、捕虜ほりょのうち機長きちょう大尉たいい)は処刑しょけいされたという<ref>[[#海軍かいぐん操舵そうだいんよもやまばなし]]59ぺーじ大和魂やまとだましいとヤンキーたましい』</ref>。
8がつ20日はつか愛宕あたごだいよん戦隊せんたいだい戦隊せんたい、[[水上すいじょう母艦ぼかん]][[千歳ちとせがた水上すいじょう母艦ぼかん|千歳ちとせ]]、だいよん水雷すいらい戦隊せんたいともにトラック泊地はくち出撃しゅつげき<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]123ぺーじ</ref>。さらに陸奥みちのく村雨むらさめ五月雨さみだれ春雨はるさめ合流ごうりゅう、8がつ24にち-25にちの[[だいソロモン海戦かいせん]]に参加さんかした。アメリカぐん艦載かんさい20すう攻撃こうげきけて[[千歳ちとせ (空母くうぼ)|千歳ちとせ]]が損傷そんしょうしたが愛宕あたご被害ひがいはなく<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」pp.8</ref>、アメリカ軍機ぐんきどう部隊ぶたい水上すいじょう戦闘せんとういどむべく南下なんかしたが接触せっしょくできなかった<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」pp.9</ref>。愛宕あたご水上すいじょう偵察ていさつ1搭乗とうじょういん3めい)を喪失そうしつした<ref>[[#海軍かいぐん操舵そうだいんよもやまばなし]]40ぺーじ</ref>。9月5にち、トラック泊地はくち帰還きかんする<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]150ぺーじ</ref>。愛宕あたごはそのもソロモン諸島しょとう東海とうかいめん活動かつどうつづけた。9月11にち特設とくせつ水上すいじょう母艦ぼかん国川こくがわまる艦載かんさいがアメリカぐん飛行ひこうてい撃墜げきつい駆逐くちくかん村雨むらさめだい2駆逐くちくたい搭乗とうじょういん8めい捕虜ほりょとした<ref>[[#海軍かいぐん操舵そうだいんよもやまばなし]]41ぺーじ</ref>。夕刻ゆうこく捕虜ほりょ愛宕あたご収容しゅうようされた<ref>[[#海軍かいぐん操舵そうだいんよもやまばなし]]42ぺーじ</ref>。9月20にちにトラック泊地はくち帰投きとう捕虜ほりょ戦艦せんかん大和やまと連合れんごう艦隊かんたい司令しれい)へ移送いそうされたが、捕虜ほりょのうち機長きちょう大尉たいい)は処刑しょけいされたという<ref>[[#海軍かいぐん操舵そうだいんよもやまばなし]]59ぺーじ大和魂やまとだましいとヤンキーたましい』</ref>。


10月11にち空母くうぼはやぶさたかたか戦艦せんかん金剛こんごう榛名はるなともにトラック泊地はくち出撃しゅつげき<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]186ぺーじ</ref>。[[ヘンダーソン基地きちかんほう射撃しゃげき]]を支援しえんする。10月20にち午後ごご8空母くうぼ[[たか (空母くうぼ)|たか]]で火災かさい発生はっせい<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]201,207ぺーじ</ref>、たかはトラック泊地はくちもどった<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」p.17</ref>。このような情勢じょうせい愛宕あたごは10月26にちから27にちにかけておこなわれた[[南太平洋みなみたいへいよう海戦かいせん]]にいて、前進ぜんしん部隊ぶたい旗艦きかんとして参加さんかした<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」pp.18、[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]213ぺーじ</ref>。べい空母くうぼ[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]を捕捉ほそくし、ホーネットの撃沈げきちん貢献こうけんしている<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]217ぺーじ</ref>。10月30にち、19日間にちかん航海こうかいえてトラック泊地はくちもどった<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]227ぺーじ</ref>。
10月11にち空母くうぼはやぶさたかたか戦艦せんかん金剛こんごう榛名はるなともにトラック泊地はくち出撃しゅつげき<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]186ぺーじ</ref>。[[ヘンダーソン基地きちかんほう射撃しゃげき]]を支援しえんする。10月20にち午後ごご8空母くうぼ[[たか (空母くうぼ)|たか]]で火災かさい発生はっせい<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]201,207ぺーじ</ref>、たかはトラック泊地はくちもどった<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」p.17</ref>。このような情勢じょうせい愛宕あたごは10月26にちから27にちにかけておこなわれた[[南太平洋みなみたいへいよう海戦かいせん]]にいて、前進ぜんしん部隊ぶたい旗艦きかんとして参加さんかした<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」pp.18、[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]213ぺーじ</ref>。べい空母くうぼ[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]を捕捉ほそくし、ホーネットの撃沈げきちん貢献こうけんしている<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]217ぺーじ</ref>。10月30にち、19日間にちかん航海こうかいえてトラック泊地はくちもどった<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]227ぺーじ</ref>。


11月9にちだいよん戦隊せんたいだいさん戦隊せんたいきむつよし榛名はるな)、だいじゅういち戦隊せんたい比叡ひえい霧島きりしま)、だいさん水雷すいらい戦隊せんたいけいじゅん[[川内かわうち (けい巡洋艦じゅんようかん)|川内せんだい]]、だい6駆逐くちくたいだい15駆逐くちくたいだい11駆逐くちくたい)、だい航空こうくう戦隊せんたいはやぶさたか)ととも出撃しゅつげきし、ガダルカナル方面ほうめんかった<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]229ぺーじ</ref>。愛宕あたごでは航海こうかいちょう転勤てんきんとなったがつぎにんしゃ着任ちゃくにんしておらず、陸奥みちのく航海こうかいちょう愛宕あたご出張しゅっちょうし、臨時りんじ航海こうかいちょうつとめていた<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]232ぺーじ</ref>。11月12にち、『前進ぜんしん部隊ぶたい機密きみつ連合れんごう艦隊かんたいでんれい作戦さくせんもとづき、マイナス1にち、その大部たいぶはRXN北方ほっぽう海面かいめん進出しんしゅつじゅういち戦隊せんたい基幹きかんとする部隊ぶたいをもって同日どうじつよる、ガダルカナルとう飛行場ひこうじょうたい制圧せいあつ射撃しゃげきをおこない、にち陸軍りくぐん揚陸ようりく間接かんせつてき掩護えんごし、南東なんとう方面ほうめん部隊ぶたい作戦さくせん支援しえんするととも好機こうきじょうてき艦隊かんたい捕捉ほそく、これを撃滅げきめつせんとす』という命令めいれいくだり、挺身ていしん攻撃こうげきたいだいじゅういち戦隊せんたいだいじゅう戦隊せんたいだい6駆逐くちくたい)が分離ぶんりした<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]233-234ぺーじ</ref>。この挺身ていしん艦隊かんたいは12にち-13にちにかけてアメリカぐん巡洋艦じゅんようかん部隊ぶたい交戦こうせんし、比叡ひえいあかつき夕立ゆうだち沈没ちんぼつ飛行場ひこうじょう砲撃ほうげきにも失敗しっぱいする。愛宕あたごは13にち午後ごご2だいじゅう戦隊せんたいけいじゅん[[長良ながら (けい巡洋艦じゅんようかん)|長良ながら]]とう)と合流ごうりゅうした<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]236ぺーじ</ref>。
11月9にちだいよん戦隊せんたいだいさん戦隊せんたいきむつよし榛名はるな)、だいじゅういち戦隊せんたい比叡ひえい霧島きりしま)、だいさん水雷すいらい戦隊せんたいけいじゅん[[川内かわうち (けい巡洋艦じゅんようかん)|川内せんだい]]、だい6駆逐くちくたいだい15駆逐くちくたいだい11駆逐くちくたい)、だい航空こうくう戦隊せんたいはやぶさたか)ととも出撃しゅつげきし、ガダルカナル方面ほうめんかった<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]229ぺーじ</ref>。愛宕あたごでは航海こうかいちょう転勤てんきんとなったがつぎにんしゃ着任ちゃくにんしておらず、陸奥みちのく航海こうかいちょうほんかん出張しゅっちょうし、臨時りんじ航海こうかいちょうつとめていたという<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]232ぺーじ</ref>。11月12にち、『前進ぜんしん部隊ぶたい機密きみつ連合れんごう艦隊かんたいでんれい作戦さくせんもとづき、Zマイナス1にち、その大部たいぶはRXN北方ほっぽう海面かいめん進出しんしゅつじゅういち戦隊せんたい基幹きかんとする部隊ぶたいをもって同日どうじつよる、ガダルカナルとう飛行場ひこうじょうたい制圧せいあつ射撃しゃげきをおこない、Zにち陸軍りくぐん揚陸ようりく間接かんせつてき掩護えんごし、南東なんとう方面ほうめん部隊ぶたい作戦さくせん支援しえんするととも好機こうきじょうてき艦隊かんたい捕捉ほそく、これを撃滅げきめつせんとす』という命令めいれいくだり、挺身ていしん攻撃こうげきたい指揮しきかん[[阿部あべ弘毅こうき]]だいじゅういち戦隊せんたい司令しれいかん)が分離ぶんりした<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]233-234ぺーじ</ref>。この挺身ていしん艦隊かんたいは12にち-13にちにかけてアメリカぐん巡洋艦じゅんようかん部隊ぶたい交戦こうせんし、3せき比叡ひえいあかつき夕立ゆうだち沈没ちんぼつ飛行場ひこうじょう砲撃ほうげきにも失敗しっぱいする。愛宕あたごは13にち午後ごご2だいじゅう戦隊せんたいけいじゅん[[長良ながら (けい巡洋艦じゅんようかん)|長良ながら]]とう)と合流ごうりゅうした<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]236ぺーじ</ref>。


{{Main|だいさんソロモン海戦かいせん}}
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11月14にち-15にちだいさんソロモン海戦かいせんで、つづ近藤こんどう中将ちゅうじょう座乗ざじょうするだい艦隊かんたい旗艦きかん愛宕あたごは、高雄たかお霧島きりしまあさくも五月雨さみだれあきらがつおよびだいさん水雷すいらい戦隊せんたい指揮しきし、アメリカぐんの[[サウスダコタ (戦艦せんかん)|サウスダコタ]]ならびに[[ワシントン (戦艦せんかん)|ワシントン]]の2せき新鋭しんえい戦艦せんかん夜間やかん砲戦ほうせん雷撃らいげきせん敢行かんこうした。愛宕あたご高雄たかお海戦かいせん終盤しゅうばんにワシントンにたい雷撃らいげきこころみるも(愛宕あたごだけで19ほん)<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]250ぺーじ</ref>、[[酸素さんそ魚雷ぎょらい|きゅうさんしき酸素さんそ魚雷ぎょらい]]の信管しんかん過敏かびんによる命中めいちゅう直前ちょくぜん自爆じばくにより<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」pp.22</ref>、すべ命中めいちゅうしなかった。その2せきはサウスダコタにけい23はつ命中めいちゅうだんびせ、[[霧島きりしま (戦艦せんかん)|霧島きりしま]]もサウスダコタのだいさん砲塔ほうとうに35.6cmほう命中めいちゅうさせるなどしてこれを撃破げきはしたが、ワシントンのレーダー管制かんせい射撃しゃげきにより霧島きりしま大破たいは沈没ちんぼつした。この海戦かいせん愛宕あたごかんくび醤油じょうゆに5インチ砲弾ほうだん1はつ命中めいちゅうした<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]249ぺーじ</ref>。11月18にち、トラック泊地はくちもどった<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]255ぺーじ</ref>。8がつ以来いらいソロモン諸島しょとう海域かいいき奔走ほんそうしてきた愛宕あたご修理しゅうりのため、12月17にちに[[くれこう|]]に帰投きとうした。
11月14にち-15にちだいさんソロモン海戦かいせんで、つづ前進ぜんしん部隊ぶたい指揮しきかん[[近藤こんどうしんちく]]中将ちゅうじょうだい艦隊かんたい長官ちょうかん愛宕あたご座乗ざじょう愛宕あたご高雄たかお霧島きりしまあさくも五月雨さみだれあきらがつおよびだいさん水雷すいらい戦隊せんたい指揮しきし、アメリカぐんの[[サウスダコタ (戦艦せんかん)|サウスダコタ]]ならびに[[ワシントン (戦艦せんかん)|ワシントン]]の2せき新鋭しんえい戦艦せんかん夜間やかん砲戦ほうせん雷撃らいげきせん敢行かんこうした。愛宕あたご高雄たかお海戦かいせん終盤しゅうばんにワシントンにたい雷撃らいげきこころみるも(愛宕あたごだけで19ほん)<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]250ぺーじ</ref>、[[酸素さんそ魚雷ぎょらい|きゅうさんしき酸素さんそ魚雷ぎょらい]]の信管しんかん過敏かびんによる命中めいちゅう直前ちょくぜん自爆じばくにより<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」pp.22</ref>、すべ命中めいちゅうしなかった。その2せきはサウスダコタにけい23はつ命中めいちゅうだんびせ、[[霧島きりしま (戦艦せんかん)|霧島きりしま]]もサウスダコタのだいさん砲塔ほうとうに35.6cmほう命中めいちゅうさせるなどしてこれを撃破げきはしたが、ワシントンのレーダー管制かんせい射撃しゃげきにより霧島きりしま大破たいはのち沈没ちんぼつした。この海戦かいせん愛宕あたごかんくび醤油じょうゆに5インチ砲弾ほうだん1はつ命中めいちゅうした<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]249ぺーじ</ref>。11月18にち、トラック泊地はくちもどった<ref>[[#愛宕あたご奮戦ふんせん]]255ぺーじ</ref>。8がつ以来いらいソロモン諸島しょとう海域かいいき奔走ほんそうしてきた愛宕あたご修理しゅうりのため、12月17にちに[[くれこう|]]に帰投きとうした。


1943ねん7がつ21にちに「愛宕あたご」、「高雄たかお」とけい巡洋艦じゅんようかん長良ながら」、駆逐くちくかん涼風すずかぜ」はトラックを出発しゅっぱつし、7がつ26にち横須賀よこすか入港にゅうこうした<ref>『中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう』357ページ</ref>。


{{Main|ラバウル空襲くうしゅう}}
{{Main|ラバウル空襲くうしゅう}}


8がつ16にち連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん[[古賀こがみねいち]]大将たいしょうじきりつ主力しゅりょく部隊ぶたい戦艦せんかん3せき〈[[大和やまと (戦艦せんかん)|大和やまと]]、[[長門ながと (戦艦せんかん)|長門ながと]]、[[扶桑ふそう (戦艦せんかん)|扶桑ふそう]]〉、空母くうぼ〈[[大鷹おおたか (空母くうぼ)|大鷹おおたか]]〉<ref>[[#S1806二水にすいせん日誌にっし(2)]]p.51『いちななにちろく〇〇(長官ちょうかん)2F(あてりゃく)2F機密きみつだいいちろくさんいちばんでん 「トラツク」回航かいこうせきスル機密きみつAdB命令めいれい要旨ようし いち.だい軍隊ぐんたい區分くぶん(主力しゅりょく部隊ぶたい合同ごうどう)區分くぶん指揮しきかん兵力へいりょくじゅん しゅたいじきりつ4S(摩耶まやかけ)大鷹おおたか警戒けいかいたい(司令しれいかん)2sd 2sd(能代のしろ)24dg(涼風すずかぜ海風かいふう)あきくも(以下いかりゃく)』</ref>、巡洋艦じゅんようかん3せき愛宕あたご、[[高雄たかお (じゅう巡洋艦じゅんようかん)|高雄たかお]]、[[能代のしろ (けい巡洋艦じゅんようかん)|能代のしろ]]〉、駆逐くちくかん部隊ぶたい〈[[涼風すずかぜ (駆逐くちくかん)|涼風すずかぜ]]、[[海風かいふう (駆逐くちくかん)|海風かいふう]]、[[あきくも (駆逐くちくかん)|あきくも]]、[[ゆうくも (駆逐くちくかん)|ゆうくも]]、[[若月わかつき (駆逐くちくかん)|若月わかつき]]、[[天津てんしんふう (陽炎かげろうがた駆逐くちくかん)|天津てんしんふう]]、[[はつかぜ (駆逐くちくかん)|はつかぜ]]〉)は出撃しゅつげきし、[[チューク諸島しょとう|トラック]]へかう<ref>[[#S1806二水にすいせん日誌にっし(2)]]p.4『(さん)2sd(能代のしろ)ハじゅうろくにち主力しゅりょく部隊ぶたい(長官ちょうかん1Fちょくりつ)ノ指揮しきにゅう主力しゅりょく部隊ぶたい警戒けいかいたい(司令しれいかん2sd、2sd(能代のしろ)はつかぜ天津てんしんふう)トナリじゅうろくにち出撃しゅつげきはちとう假泊かはく(海風かいふう合同ごうどう鎮五とく便乗びんじょうしゃ一部いちぶうつ)じゅうななにち假泊かはくはつじゅうはちにちいちいち〇〇(長官ちょうかん)2Fちょくりつ部隊ぶたい(24dg(涼風すずかぜ)ヲ含ム)ト合同ごうどう(指揮しきかん)YBノ麾下きか(YB警戒けいかいたい)トナリじゅうさんにち「トラツク」』</ref><ref>[[#S1806二水にすいせん日誌にっし(2)]]p.60『さんにちいちいち(長官ちょうかん)1F(あてりゃく)1F機密きみつだいさんいちいちきゅうばんでん 大和やまと長門ながと扶桑ふそう愛宕あたご高雄たかお能代のしろ24dg(涼風すずかぜ海風かいふう)11dg(あきくもゆうくも)天津てんしんふう若月わかつきはつふうりつヒ「トラツク」ちゃくさんにちななよん』</ref>。10月31にち〜11月1にち連合れんごうぐんは[[タロキナみさき]]([[ブーゲンビルとう]])に上陸じょうりく開始かいし、[[ブーゲンビルとうたたかい]]がはじまる<ref>[[#叢書そうしょ96ガとう撤収てっしゅう]]382ぺーじ連合れんごうぐんのタロキナ上陸じょうりくとわが航空こうくう攻撃こうげき』</ref>。連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん[[古賀こがみねいち]]大将たいしょうは、[[だいいち航空こうくう戦隊せんたい]]航空こうくう戦力せんりょく南東なんとう方面ほうめん投入とうにゅうし、つづいてトラック泊地はくち主力しゅりょく艦艇かんてい投入とうにゅうすることを決定けっていする<ref>[[#叢書そうしょ96ガとう撤収てっしゅう]]396-397ぺーじ栗田くりた部隊ぶたいのラバウル進出しんしゅつ決定けってい』</ref>。
昭和しょうわ18ねん([[1943ねん]])11月、ブーゲンビルとうぎゃく上陸じょうりく作戦さくせん支援しえんのため、だい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん[[栗田くりた健男たけお]]中将ちゅうじょう座乗ざじょうする愛宕あたごは、じゅう巡洋艦じゅんようかん高雄たかお摩耶まや鳥海とりうみ鈴谷すずや最上もがみ筑摩ちくまけい巡洋艦じゅんようかん能代のしろ駆逐くちくかん4せきひきいてラバウルに進出しんしゅつ。5にち、ラバウル停泊ていはくちゅうにアメリカ機動きどう部隊ぶたい([[だい38任務にんむ部隊ぶたい]])艦載かんさい攻撃こうげきけ、至近しきんだんける。左舷さげん魚雷ぎょらい発射はっしゃかんしつ付近ふきん舷側げんそく巨大きょだいやぶあなしょうじ<ref>[[#大和やまといまだしずまず]]66ぺーじ</ref>、艦長かんちょう中岡なかおか信喜しき大佐たいさ以下いか22めい死亡しぼう、20めい重傷じゅうしょうう。日本にっぽんもどって修理しゅうり、1944ねん1がつ上旬じょうじゅん駆逐くちくかん野分のわけまいふう護衛ごえいされてふたたびトラックとう進出しんしゅつ<ref>「昭和しょうわ18ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん8がつ31にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦時せんじ日誌にっし(1)」pp.18-19</ref>。2月、アメリカ機動きどう部隊ぶたい攻撃こうげきけるように連合れんごう艦隊かんたいかくかんともにパラオへ移動いどう<ref>「昭和しょうわ18ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん8がつ31にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦時せんじ日誌にっし(1)」pp.37</ref>。直後ちょくご、アメリカ機動きどう部隊ぶたいによる[[トラックとう空襲くうしゅう]]により泊地はくち壊滅かいめつした。このパラオ泊地はくち安全あんぜんとはいえず、愛宕あたごはダバオをて4がつ9にちにリンガ泊地はくち到着とうちゃくした<ref>「昭和しょうわ18ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん8がつ31にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦時せんじ日誌にっし(2)」pp.22</ref>。なお、パラオ出航しゅっこう直後ちょくごに[[パラオだい空襲くうしゅう]]があった。リンガで愛宕あたごふくめたかくかんうえ甲板かんぱん最先端さいせんたんまるえがいたという<ref>[[#大和やまといまだしずまず]]79ぺーじ</ref>。5月14にち、タウイタウイ泊地はくち移動いどう<ref>「昭和しょうわ18ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん8がつ31にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦時せんじ日誌にっし(2)」pp.42</ref>。だいいち機動きどう艦隊かんたい前衛ぜんえい部隊ぶたい大和やまと武蔵むさしきむつよし榛名はるな千歳ちとせ千代田ちよだ能代のしろしまふうとう)の旗艦きかんとなった。司令しれい長官ちょうかん栗田くりた健男たけお中将ちゅうじょう参謀さんぼうちょう小柳こやなぎとみ少将しょうしょう 旗艦きかんじゅう巡洋艦じゅんようかん愛宕あたご
11月3にち午前ごぜん745ふんだい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん[[栗田くりた健男たけお]]中将ちゅうじょう愛宕あたご座乗ざじょう指揮しきじゅう巡洋艦じゅんようかん部隊ぶたいだいよん戦隊せんたい愛宕あたご高雄たかお摩耶まや鳥海とりうみ》、だいなな戦隊せんたい鈴谷すずや最上さいじょう》、だいはち戦隊せんたい筑摩ちくま》)、[[だい水雷すいらい戦隊せんたい]](けい巡洋艦じゅんようかん能代のしろ》、駆逐くちくかんたまりょう藤波ふじなみはやなみ》)をひきいてトラック泊地はくち出撃しゅつげき<ref name="叢書そうしょきゅうろく397">[[#叢書そうしょ96ガとう撤収てっしゅう]]397-398ぺーじ『ラバウル進出しんしゅつぎゃく上陸じょうりく計画けいかくとのからじょうい』</ref>。航行こうこうちゅうの4にち午前ごぜん航行こうこう不能ふのうとなったタンカー日章丸にっしょうまる救援きゅうえんに2せき鳥海とりうみりょう)を分離ぶんり<ref name="叢書そうしょきゅうろく397" />。[[11月5にち]]午前ごぜん6ごろ栗田くりた長官ちょうかん指揮しきゆうげき部隊ぶたいはラバウルに到着とうちゃくした<ref name="叢書そうしょきゅうろく397" />。
同日どうじつ午前ごぜん7空母くうぼ「サラトガ」、「プリンストン」を基幹きかんとするアメリカ[[だい38任務にんむ部隊ぶたい]]は艦載かんさいけい97投入とうにゅう、ラバウルざいはく艦艇かんていたいする空襲くうしゅう敢行かんこうする<ref name="叢書そうしょきゅうろく399">[[#叢書そうしょ96ガとう撤収てっしゅう]]399-400ぺーじべい空母くうぼによるだいいち空襲くうしゅう被害ひがい十一月じゅういちがつにち』</ref>。栗田くりた艦隊かんたいじゅうじゅん部隊ぶたいかくかんとも損害そんがいをうける(愛宕あたご高雄たかお摩耶まや最上もがみ筑摩ちくま能代のしろ被弾ひだんとう)<ref name="叢書そうしょきゅうろく399" />。とく摩耶まや機関きかんへの被弾ひだん航行こうこう不能ふのうとなった。ほんかん至近しきんだん3はつける<ref name="叢書そうしょきゅうろく399" />。左舷さげん魚雷ぎょらい発射はっしゃかんしつ付近ふきん舷側げんそく巨大きょだいやぶあなしょうじ<ref>[[#大和やまといまだしずまず]]66ぺーじ</ref>、艦長かんちょう中岡なかおか信喜しき大佐たいさ以下いか18めい死亡しぼう、20めい重傷じゅうしょうった<ref>ラバウル空襲くうしゅう、319ページ</ref>。[[南東なんとう方面ほうめん艦隊かんたい]]長官ちょうかん[[くさ鹿しかにんいち]]中将ちゅうじょう栗田くりた艦隊かんたい(ラバウル進出しんしゅつちゅう鳥海とりうみふくむ)のトラック泊地はくち帰投きとうしたれい<ref name="叢書そうしょきゅうろく400">[[#叢書そうしょ96ガとう撤収てっしゅう]]400-401ぺーじじゅうじゅん部隊ぶたいのトラック帰投きとう』</ref>。摩耶まやのぞおもめぐかくかんは11月7にち―8にちにかけてトラック泊地はくちもどった(愛宕あたごは7にち昼前ひるまえ到着とうちゃく)<ref name="叢書そうしょきゅうろく400" />。

だい艦隊かんたい旗艦きかん鳥海とりうみ変更へんこう愛宕あたご日本にっぽんもどって修理しゅうりおこなう。1944ねん昭和しょうわ19ねん)1がつ上旬じょうじゅんだい4駆逐くちくたい野分のわけまいふう)に護衛ごえいされてふたたびトラックとう進出しんしゅつ<ref>「昭和しょうわ18ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん8がつ31にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦時せんじ日誌にっし(1)」pp.18-19</ref>。2月、アメリカ機動きどう部隊ぶたい攻撃こうげきけるように連合れんごう艦隊かんたいかくかんともにパラオへ移動いどう<ref>「昭和しょうわ18ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん8がつ31にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦時せんじ日誌にっし(1)」pp.37</ref>。直後ちょくご、アメリカ機動きどう部隊ぶたいによる[[トラックとう空襲くうしゅう]]により泊地はくち壊滅かいめつした。このパラオ泊地はくち安全あんぜんとはいえず、愛宕あたごはダバオをて4がつ9にちにリンガ泊地はくち到着とうちゃくした<ref>「昭和しょうわ18ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん8がつ31にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦時せんじ日誌にっし(2)」pp.22</ref>。なお、パラオ出航しゅっこう直後ちょくごに[[パラオだい空襲くうしゅう]]があった。リンガで愛宕あたごふくめたかくかんうえ甲板かんぱん最先端さいせんたんまるえがいたという<ref>[[#大和やまといまだしずまず]]79ぺーじ</ref>。5月14にち、タウイタウイ泊地はくち移動いどう<ref>「昭和しょうわ18ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん8がつ31にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦時せんじ日誌にっし(2)」pp.42</ref>。だいいち機動きどう艦隊かんたい前衛ぜんえい部隊ぶたい大和やまと武蔵むさしきむつよし榛名はるな千歳ちとせ千代田ちよだ能代のしろしまふうとう)の旗艦きかんとなった。


昭和しょうわ19ねん([[1944ねん]])6つき中旬ちゅうじゅん愛宕あたごは[[マリアナおき海戦かいせん]]に参加さんかした。27にち日本にっぽんもどる<ref>「昭和しょうわ18ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん8がつ31にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦時せんじ日誌にっし(3)」p.8、[[#大和やまといまだしずまず]]91ぺーじ</ref>。7月8にち出航しゅっこうしてシンガポールへかう<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(3)」pp.22</ref>。8月2にちリンガ泊地はくち到着とうちゃくし、訓練くんれん従事じゅうじした<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(3)」pp.38</ref>。
[[1944ねん]]昭和しょうわ19ねん)6つき中旬ちゅうじゅん愛宕あたごは[[マリアナおき海戦かいせん]]に参加さんかした。27にち日本にっぽんもどる<ref>「昭和しょうわ18ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん8がつ31にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦時せんじ日誌にっし(3)」p.8、[[#大和やまといまだしずまず]]91ぺーじ</ref>。7月8にち出航しゅっこうしてシンガポールへかう<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(3)」pp.22</ref>。8月2にちリンガ泊地はくち到着とうちゃくし、訓練くんれん従事じゅうじした<ref>「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(3)」pp.38</ref>。


=== 愛宕あたご最期さいご ===
=== 愛宕あたご最期さいご ===
{{Main|レイテおき海戦かいせん}}
{{Main|レイテおき海戦かいせん}}


昭和しょうわ19ねん([[1944ねん]])10つき22にち愛宕あたご[[栗田くりた健男たけお]]中将ちゅうじょう座乗ざじょうだい艦隊かんたいだいいちゆうげき部隊ぶたい 通称つうしょう'''栗田くりた艦隊かんたい''')旗艦きかんとしてブルネイを出航しゅっこう、[[レイテ島れいてとう]]へかう。よく10がつ23にち午前ごぜん116ふん会合かいごうちゅうだったべい潜水せんすいかん[[ダーター (SS-227)|ダーター]](''USS Darter, SS-227'')と[[デイス (潜水せんすいかん)|デイス]] (''USS Dace, SS-247'')がレーダーで栗田くりた艦隊かんたい発見はっけんした<ref>ソルバーグ『決断けつだん異議いぎ』109-110ぺーじ</ref>。りょうかん栗田くりた艦隊かんたい追跡ついせき開始かいしした。午前ごぜん230ふん愛宕あたご潜水せんすいかん電波でんぱ探知たんちし、[[これ運動うんどう]]をはじめる<ref>「昭和しょうわ19ねん10がつ23にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほうなみたたかえくん所見しょけん」pp.33</ref>。午前ごぜん6栗田くりた艦隊かんたいは[[パラワン水道すいどう]]を通過つうかしようとしていた。愛宕あたごたいせん警戒けいかいおこなっていたものの、各部かくぶしょ通常つうじょう戦闘せんとう訓練くんれんおこなっていたという<ref>[[#大和やまといまだしずまず]]96ぺーじ、[[#下士官かしかんたちの戦艦せんかん大和やまと]]9,16,97ぺーじ</ref><ref>「昭和しょうわ19ねん10がつ23にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほうなみたたかえくん所見しょけん」p.7</ref>。632ふん距離きょりおよそ900mからダーターのはなった6ほん魚雷ぎょらいのうち<ref>ソルバーグ『決断けつだん異議いぎ』140ぺーじ</ref>4ほん愛宕あたご右舷うげん命中めいちゅうした(一番いちばん砲塔ほうとう直下ちょっか艦橋かんきょう前部ぜんぶ中部ちゅうぶ魚雷ぎょらい発射はっしゃかんしつばん砲塔ほうとう付近ふきん)<ref>「昭和しょうわ19ねん10がつ23にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほうなみたたかえくん所見しょけん」pp.4,8,14</ref>。電源でんげん停止ていしし、急速きゅうそくみぎかたむいた。左舷さげん注水ちゅうすいおこなわれたが効果こうかすくなく<ref>「昭和しょうわ19ねん10がつ23にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほうなみたたかえくん所見しょけん」pp.37,40</ref>、右舷うげん傾斜けいしゃぞうまらない<ref>「昭和しょうわ19ねん10がつ23にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほうなみたたかえくん所見しょけん」pp.9-10</ref>。まず司令しれい退去たいきょしたが<ref>[[#下士官かしかんたちの戦艦せんかん大和やまと]]44ぺーじ</ref>、総員そういん退去たいきょ命令めいれいされなかった可能かのうせいたかい<ref>[[#下士官かしかんたちの戦艦せんかん大和やまと]]87-91ぺーじ</ref>。栗田くりた中将ちゅうじょう小柳こやなぎ参謀さんぼうちょう荒木あらき艦長かんちょう以下いか生存せいぞんしゃ駆逐くちくかん[[岸波きしなみ (駆逐くちくかん)|岸波きしなみ]]が529めい栗田くりた中将ちゅうじょう以下いかだい艦隊かんたい司令しれい[[あさしも (駆逐くちくかん)|あさしも]]が171めい救助きゅうじょした。愛宕あたごは653ふん転覆てんぷく沈没ちんぼつ機関きかんちょうどうめんけいづくり中佐ちゅうさ以下いか360めい戦死せんしした<ref>「昭和しょうわ19ねん10がつ23にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほうなみたたかえくん所見しょけん」p.5</ref>。軍艦ぐんかんろされないままだったという<ref>[[#下士官かしかんたちの戦艦せんかん大和やまと]]99ぺーじ荻原おぎわら力三りきぞう飛行ひこうじょうせい曹)だん。</ref>。
[[1944ねん]]昭和しょうわ19ねん)10つき22にちだい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん[[栗田くりた健男たけお]]中将ちゅうじょう愛宕あたご座乗ざじょうだいいちゆうげき部隊ぶたいだいいち部隊ぶたい通称つうしょう'''栗田くりた艦隊かんたい''')ブルネイを出航しゅっこう、[[レイテ島れいてとう]]へかう。よく10がつ23にち午前ごぜん116ふん会合かいごうちゅうだったアメリカの潜水せんすいかん[[ダーター (SS-227)|ダーター]](''USS Darter, SS-227'')と[[デイス (潜水せんすいかん)|デイス]] (''USS Dace, SS-247'')がレーダーで栗田くりた艦隊かんたい発見はっけんした<ref>ソルバーグ『決断けつだん異議いぎ』109-110ぺーじ</ref>。りょうかん栗田くりた艦隊かんたい追跡ついせき開始かいしした。午前ごぜん230ふん愛宕あたご潜水せんすいかん電波でんぱ探知たんちし、[[これ運動うんどう]]をはじめる<ref>「昭和しょうわ19ねん10がつ23にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほうなみたたかえくん所見しょけん」pp.33</ref>。午前ごぜん6栗田くりた艦隊かんたいは[[パラワン水道すいどう]]を通過つうかしようとしていた。愛宕あたごたいせん警戒けいかいおこなっていたものの、各部かくぶしょ通常つうじょう戦闘せんとう訓練くんれんおこなっていたという<ref>[[#大和やまといまだしずまず]]96ぺーじ、[[#下士官かしかんたちの戦艦せんかん大和やまと]]9,16,97ぺーじ</ref><ref>「昭和しょうわ19ねん10がつ23にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほうなみたたかえくん所見しょけん」p.7</ref>。632ふん距離きょりおよそ900mからダーターのはなった6ほん魚雷ぎょらいのうち<ref>ソルバーグ『決断けつだん異議いぎ』140ぺーじ</ref>4ほん愛宕あたご右舷うげん命中めいちゅうした(一番いちばん砲塔ほうとう直下ちょっか艦橋かんきょう前部ぜんぶ中部ちゅうぶ魚雷ぎょらい発射はっしゃかんしつばん砲塔ほうとう付近ふきん)<ref>「昭和しょうわ19ねん10がつ23にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほうなみたたかえくん所見しょけん」pp.4,8,14</ref>。右舷うげんバルジのほとんすべてと、だいいちかんしつだいかんしつだいろくかんしつ右舷うげん後部こうぶぬししつ浸水しんすいした<ref name=ml-takao202212/>。ただちに左舷さげん注水ちゅうすい区画くかく左舷さげんだいななかんしつ注水ちゅうすいおこなわれた<ref name=ml-takao202212>MILITARY CLASSICS (ミリタリークラシックス) 2022ねん12がつごう イカロス出版いかろすしゅっぱん; 季刊きかんばん 2022ねん10がつ21にち ASIN B0BJCGQSPM</ref>。愛宕あたご電源でんげん停止ていしし、急速きゅうそくみぎかたむいた。左舷さげん注水ちゅうすいへの注水ちゅうすい効果こうかすくなく<ref>「昭和しょうわ19ねん10がつ23にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほうなみたたかえくん所見しょけん」pp.37,40</ref>、右舷うげん傾斜けいしゃぞうまらない<ref>「昭和しょうわ19ねん10がつ23にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほうなみたたかえくん所見しょけん」pp.9-10</ref>。まず司令しれい退去たいきょしたが<ref>[[#下士官かしかんたちの戦艦せんかん大和やまと]]44ぺーじ</ref>、総員そういん退去たいきょ命令めいれいされなかった可能かのうせいたかい<ref>[[#下士官かしかんたちの戦艦せんかん大和やまと]]87-91ぺーじ</ref>。栗田くりた中将ちゅうじょう小柳こやなぎ参謀さんぼうちょう荒木あらき艦長かんちょう以下いか駆逐くちくかん[[岸波きしなみ (駆逐くちくかん)|岸波きしなみ]]が529めい[[あさしも (駆逐くちくかん)|あさしも]]が171めい救助きゅうじょした。愛宕あたごは653ふん転覆てんぷく沈没ちんぼつ機関きかんちょうどうめんけいづくり中佐ちゅうさ以下いか360めい戦死せんしした<ref>「昭和しょうわ19ねん10がつ23にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほうなみたたかえくん所見しょけん」p.5</ref>。軍艦ぐんかんろされないままだったという<ref>[[#下士官かしかんたちの戦艦せんかん大和やまと]]99ぺーじ荻原おぎわら力三りきぞう飛行ひこうじょうせい曹)だん。</ref>。


岸波きしなみ救助きゅうじょされた栗田くりた中将ちゅうじょうふく愛宕あたご生存せいぞんしゃ戦艦せんかん[[大和やまと (戦艦せんかん)|大和やまと]]に移乗いじょうし、そのなかには大和やまと補充ほじゅう要員よういんとして戦闘せんとう参加さんかしたものもいた。潜水せんすいかん魚雷ぎょらい4ほん命中めいちゅうによりかみなりから20ふん沈没ちんぼつした愛宕あたごであったが、日本にっぽんぐんじゅう巡洋艦じゅんようかん特徴とくちょうともされるたて強度きょうどたかめるための機関きかんしつせんたてかべが<ref>『写真しゃしんしゅう日本にっぽんじゅうじゅん』176ぺーじ</ref>急速きゅうそく傾斜けいしゃはやめたという指摘してきもある<ref>「昭和しょうわ19ねん10がつ23にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほうなみたたかえくん所見しょけん」pp.36</ref>。
岸波きしなみ救助きゅうじょされた栗田くりた中将ちゅうじょうふく愛宕あたご生存せいぞんしゃ戦艦せんかん[[大和やまと (戦艦せんかん)|大和やまと]]に移乗いじょうし、そのなかには大和やまと補充ほじゅう要員よういんとして戦闘せんとう参加さんかしたものもいた。潜水せんすいかん魚雷ぎょらい4ほん命中めいちゅうによりかみなりから20ふん沈没ちんぼつした愛宕あたごであったが、日本にっぽんぐんじゅう巡洋艦じゅんようかん特徴とくちょうともされるたて強度きょうどたかめるための機関きかんしつせんたてかべが<ref>『写真しゃしんしゅう日本にっぽんじゅうじゅん』176ぺーじ</ref>急速きゅうそく傾斜けいしゃはやめたという指摘してきもある<ref>「昭和しょうわ19ねん10がつ23にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほうなみたたかえくん所見しょけん」pp.36</ref>。


なお、ダーターは高雄たかおにも魚雷ぎょらい2ほん命中めいちゅうさせ、高雄たかお深夜しんやまで漂流ひょうりゅうさせた。ダーターは高雄たかおめをさそうと攻撃こうげき続行ぞっこうしたが、航法こうほうをあやまり10がつ24にち座礁ざしょう曳航えいこう不能ふのうとなり、乗員じょういんはデイスに移乗いじょうしたのちダーターを自沈じちんさせた。ダーターの艦長かんちょうデヴィッド・H・マクリントック少佐しょうさ日本にっぽんぐんがダーターの残骸ざんがい調査ちょうさすることを見越みこし、艦内かんないにあったかんがた識別しきべつ訓練くんれんよう愛宕あたごがた模型もけいに「これ(模型もけい)があれ(愛宕あたご)と同一どういつかんか?」というメモをけた<ref>ソルバーグ『決断けつだん異議いぎ』147ぺーじ</ref>。
なお、ダーターは高雄たかおにも魚雷ぎょらい2ほん命中めいちゅうさせ、高雄たかお深夜しんやまで漂流ひょうりゅうさせた。ダーターは高雄たかおめをさそうと攻撃こうげき続行ぞっこうしたが、航法こうほうをあやまり10がつ24にち座礁ざしょう曳航えいこう不能ふのうとなり、乗員じょういんはデイスに移乗いじょうしたのちダーターを自沈じちんさせた。ダーターの艦長かんちょうデヴィッド・H・マクリントック少佐しょうさ日本にっぽんぐんがダーターの残骸ざんがい調査ちょうさすることを見越みこし、艦内かんないにあったかんがた識別しきべつ訓練くんれんよう愛宕あたごがた模型もけいに「これ(模型もけい)があれ(愛宕あたご)と同一どういつかんか?」というメモをけた<ref>ソルバーグ『決断けつだん異議いぎ』147ぺーじ</ref>。


== [[海上かいじょうおおやけためし|おおやけためし]]成績せいせき ==
== おおやけためし成績せいせき ==
{| class="wikitable" style="margin: 0em; background:#ffffff"
{| class="wikitable" style="margin: 0em; background:#ffffff"
|-
|-
111ぎょう: 119ぎょう:
|改装かいそう|| || || 34.2ノット|| 昭和しょうわ14ねん([[1939ねん]])8がつ30にち||[[館山たてやま]]おき標柱ひょうちゅうあいだ||
|改装かいそう|| || || 34.2ノット|| 昭和しょうわ14ねん([[1939ねん]])8がつ30にち||[[館山たてやま]]おき標柱ひょうちゅうあいだ||
|}
|}
</div>


==歴代れきだい艦長かんちょう==
==歴代れきだい艦長かんちょう==
<small>※『艦長かんちょうたちの軍艦ぐんかん』107-109ぺーじ、『日本にっぽん海軍かいぐんだい9かんだい10かんの「将官しょうかん履歴りれき」にもとづく。</small>
<small>※『艦長かんちょうたちの軍艦ぐんかん』107-109ぺーじ、『日本にっぽん海軍かいぐんだい9かんだい10かんの「将官しょうかん履歴りれき」にもとづく。</small>
===艤装ぎそういんちょう===
===艤装ぎそういんちょう===
#佐田さた健一けんいち 大佐たいさ昭和しょうわ5ねん(1930ねん)6がつ20日はつか -
#佐田さた健一けんいち 大佐たいさ昭和しょうわ5ねん(1930ねん)6がつ20日はつか - 1931ねん10がつ1にち<ref>『官報かんぽうだい1429ごう昭和しょうわ6ねん10がつ2にち。</ref>
===艦長かんちょう===
===艦長かんちょう===
#佐田さた健一けんいち 大佐たいさ昭和しょうわ6ねん(1931ねん)10がつ1にち - 1932ねん12月1にち
#佐田さた健一けんいち 大佐たいさ昭和しょうわ6ねん(1931ねん)10がつ1にち - 1932ねん12月1にち
124ぎょう: 131ぎょう:
#鈴木すずき田幸たこうづくり 大佐たいさ昭和しょうわ10ねん(1935ねん)11月15にち - 1936ねん4がつ15にち
#鈴木すずき田幸たこうづくり 大佐たいさ昭和しょうわ10ねん(1935ねん)11月15にち - 1936ねん4がつ15にち
#[[伊藤いとう整一せいいち]] 大佐たいさ昭和しょうわ11ねん(1936ねん)4がつ15にち - 1936ねん12月1にち
#[[伊藤いとう整一せいいち]] 大佐たいさ昭和しょうわ11ねん(1936ねん)4がつ15にち - 1936ねん12月1にち
#[[ふじ存知ぞんち]] 大佐たいさ昭和しょうわ11ねん(1936ねん)12月1にち -
#[[ふじ存知ぞんち]] 大佐たいさ昭和しょうわ11ねん(1936ねん)12月1にち - 1937ねん7がつ12にち
#奥本おくもと武夫たけお 大佐たいさ昭和しょうわ12ねん(1937ねん)7がつ12にち -
#奥本おくもと武夫たけお 大佐たいさ昭和しょうわ12ねん(1937ねん)7がつ12にち - 1937ねん12月1にち<ref>{{アジア歴史れきし資料しりょうセンター|C13072072700|海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう 号外ごうがい だい99ごう 昭和しょうわ12ねん12月1にち}}</ref>
#坂野さかのみん 大佐たいさ昭和しょうわ12ねん(1937ねん)12月1にち -
#坂野さかのみん 大佐たいさ昭和しょうわ12ねん(1937ねん)12月1にち - 1938ねん8がつ10日とおか<ref name=C13072074200>{{アジア歴史れきし資料しりょうセンター|C13072074200|海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう部内ぶないげん号外ごうがい だい223ごう 昭和しょうわ13ねん8がつ10日とおか}}</ref>
#蓑輪みのわちゅう 大佐たいさ昭和しょうわ13ねん(1938ねん)8がつ10日とおか -
#蓑輪みのわちゅう 大佐たいさ昭和しょうわ13ねん(1938ねん)8がつ10日とおか - 1938ねん11月15にち<ref>{{アジア歴史れきし資料しりょうセンター|C13072074500|海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう部内ぶないげん号外ごうがい だい261ごう 昭和しょうわ13ねん11月15にち}}</ref>
#高塚たかつか省吾しょうご 大佐たいさ昭和しょうわ13ねん(1938ねん)11月15にち -
#高塚たかつか省吾しょうご 大佐たいさ昭和しょうわ13ねん(1938ねん)11月15にち - 1939ねん11月15にち
#[[河野こうのせんまんしろ]] 大佐たいさ昭和しょうわ14ねん(1939ねん)11月15にち -
#[[河野こうのせんまんしろ]] 大佐たいさ昭和しょうわ14ねん(1939ねん)11月15にち - 1940ねん10がつ15にち
#[[小柳こやなぎとみ]] 大佐たいさ昭和しょうわ15ねん(1940ねん)10がつ15にち -
#[[小柳こやなぎとみ]] 大佐たいさ昭和しょうわ15ねん(1940ねん)10がつ15にち - 1941ねん8がつ11にち
#[[伊集院いじゅういん松治まつじ]] 大佐たいさ昭和しょうわ16ねん(1941ねん)8がつ11にち -
#[[伊集院いじゅういん松治まつじ]] 大佐たいさ昭和しょうわ16ねん(1941ねん)8がつ11にち - 1942ねん12月1にち
#中岡なかおか信喜しき 大佐たいさ昭和しょうわ17ねん(1942ねん)12月1にち - 昭和しょうわ18ねん(1943ねん)11月5にち戦死せんし
#中岡なかおか信喜しき 大佐たいさ昭和しょうわ17ねん(1942ねん)12月1にち - 1943ねん11月5にち戦死せんし
#荒木あらきつたえ 大佐たいさ昭和しょうわ18ねん(1943ねん)11月15にち -
#荒木あらきつたえ 大佐たいさ昭和しょうわ18ねん(1943ねん)11月15にち - 1944ねん11月6にち


== 同型どうけいかん ==
== 同型どうけいかん ==
* [[高雄たかお (じゅう巡洋艦じゅんようかん)|高雄たかお]] - [[鳥海とりうみ (じゅう巡洋艦じゅんようかん)|鳥海とりうみ]] - [[摩耶まや (じゅう巡洋艦じゅんようかん)|摩耶まや]]
* [[高雄たかお (じゅう巡洋艦じゅんようかん)|高雄たかお]] -[[摩耶まや (じゅう巡洋艦じゅんようかん)|摩耶まや]] - [[鳥海とりうみ (じゅう巡洋艦じゅんようかん)|鳥海とりうみ]]


== 脚注きゃくちゅう ==
== 脚注きゃくちゅう ==
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== 参考さんこう文献ぶんけん ==
== 参考さんこう文献ぶんけん ==
<!-- ウィキペディア推奨すいしょうスタイル、著者ちょしゃ五十音ごじゅうおんじゅん -->
*[http://kindai.ndl.go.jp/ 近代きんだいデジタルライブラリー] - [[国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん]]
* 海軍かいぐん歴史れきし保存ほぞんかい日本にっぽん海軍かいぐんだい7かんだい9かんだい10かん第一法規出版だいいちほうきしゅっぱん、1995ねん
* {{Cite book|和書わしょ|author=片桐かたぎりだい|authorlink=|year=2003|month=8|title=聯合れんごう艦隊かんたい軍艦ぐんかん銘銘めいめいでんぜんはちろくせき栄光えいこう悲劇ひげき |publisher=光人みつひとしゃ|isbn=978-4769811510|ref=聯合れんごう艦隊かんたい軍艦ぐんかん銘銘めいめいでん}}
* {{Cite book|和書わしょ|author=小板橋こいたばしたかしさく|authorlink=小板橋こいたばしたかしさく|year=1983|month=|title=戦艦せんかん大和やまといまだしずまず {{small|大和やまと艦橋かんきょう見張みはりいん}}|publisher=光人みつひとしゃ|isbn=4-7698-0224-2|ref=大和やまといまだしずまず}}<br /> 著者ちょしゃは1943ねん11月から沈没ちんぼつまで愛宕あたご航海こうかいとして勤務きんむしていた。大和やまと移乗いじょう防空ぼうくう指揮しきしょ見張みはりいんとなった。
* {{Cite book|和書わしょ|author=小板橋こいたばしたかしさく|authorlink=|year=1985|month=|title=下士官かしかんたちの戦艦せんかん大和やまと{{small|戦艦せんかん大和やまと下士官かしかんたちのレイテ海戦かいせん}}|publisher=光人みつひとしゃ|isbn=4-7698-0267-6|ref=下士官かしかんたちの戦艦せんかん大和やまと}}<br /> 内容ないようぜん半分はんぶんは、愛宕あたご沈没ちんぼつ状況じょうきょう生存せいぞんしゃ証言しょうげん
* {{Cite book|和書わしょ|author=小板橋こいたばしたかしさく|authorlink=小板橋こいたばしたかしさく|year=2008|title=愛宕あたご奮戦ふんせん {{small|旗艦きかん乗組のりくみいんたソロモン海戦かいせん}}|publisher=光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ|isbn=978-4-7698-2560-9|ref=愛宕あたご奮戦ふんせん}}<br />高橋たかはし武士たけし艦長かんちょう伝令でんれい艦橋かんきょう勤務きんむ)の戦時せんじ日記にっきもと小板橋こいたばし編集へんしゅう
* {{Cite book|和書わしょ|author=小板橋こいたばしたかしさく|chapter=|title=海軍かいぐん操舵そうだいんよもやま物語ものがたり {{small|かん命運めいうんになった"かじとりたましい"}}|publisher=光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ|year=2015|month=1|origyear=1995|ISBN=978-4-7698-2868-6|ref=海軍かいぐん操舵そうだいんよもやまばなし}}
* {{Cite book|和書わしょ|author=佐藤さとう静夫しずお|year=1997|month=|title=駆逐くちくかん野分のわけ物語ものがたり {{small|わか航海こうかいちょう太平洋たいへいようかい戦記せんき}}|publisher=光人みつひとしゃ|isbn=4-7698-0803-8|ref=野分のわけ物語ものがたり(単行本たんこうぼん)}}
** {{Cite book|和書わしょ|author=佐藤さとう静夫しずお|year=2004|month=1|title=駆逐くちくかん野分のわけ物語ものがたり {{small|わか航海こうかいちょう太平洋たいへいようかい戦記せんき}}|publisher=光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ|isbn=4-7698-2408-4|ref=野分のわけ物語ものがたり(文庫ぶんこ)}}
* <!-- ソル -->カール・ソルバーグ ちょ高城たかぎはじめ やく決断けつだん異議いぎ レイテおきのアメリカ艦隊かんたい勝利しょうり真相しんそう光人みつひとしゃ、1999ねん邦訳ほうやく初出しょしゅつ
* 外山とやまみさお艦長かんちょうたちの軍艦ぐんかん光人みつひとしゃ、2005ねん。ISBN 4-7698-1246-9
* {{Cite book|和書わしょ|author=永井ながい喜之よしゆき木俣きまたしげるろう|authorlink=|year=1988|month=10|title={{small|しん戦史せんしシリーズ}} 撃沈げきちん戦記せんき|publisher=朝日あさひソノラマ|ISBN=4-257-17208-8|ref=撃沈げきちん戦記せんき}}
* {{Cite book|和書わしょ|author=中島なかじまちかしこう|authorlink=中島なかじまちかしこう|year=2008|month=10|title=聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつから太平洋戦争たいへいようせんそう {{small|参謀さんぼうえが聯合れんごう艦隊かんたい興亡こうぼう}}|publisher=光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ|isbn=4-7698-2175-1|ref=聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ}}<br /> 中島なかじまは1940ねん9がつからだい艦隊かんたい参謀さんぼうとして愛宕あたご乗艦じょうかんしていた。ミッドウェー海戦かいせんだいさん艦隊かんたい通信つうしん参謀さんぼう
* {{Cite book|和書わしょ|author=防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ|authorlink=|year=1969|month=5|title=戦史せんし叢書そうしょ26 {{small|あららぎしるし・ベンガルわん方面ほうめん}} 海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん|publisher=あさくも新聞しんぶんしゃ|ref=戦史せんし叢書そうしょ26海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん}}
*防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんし中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう戦史せんし叢書そうしょだい62かんあさくも新聞しんぶんしゃ、1973ねん
* {{Cite book|和書わしょ|author=防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ|authorlink=|year=1976|month=8|title=戦史せんし叢書そうしょ96 南東なんとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん(3) {{small|ガとう撤収てっしゅう}}|publisher=あさくも新聞しんぶんしゃ|ref=叢書そうしょ96ガとう撤収てっしゅう}}
* <!-- マル1972 -->『写真しゃしんしゅう日本にっぽんじゅうじゅん<small>たかから筑摩つかままでぜん18せきすべて</small>』(光人みつひとしゃ、1972)
** [[福井ふくい静夫しずお]]「設計せっけい資料しりょうから日本にっぽんじゅう巡洋艦じゅんようかん秘史ひし <small>世界せかい凌駕りょうがしたといわれるその性能せいのうはどこからまれたか</small>」
*<!-- マル1989 -->雑誌ざっしまる編集へんしゅう『<small>写真しゃしん</small> 日本にっぽん軍艦ぐんかん だい6かん <small>じゅうじゅんII</small>』光人みつひとしゃ、1989ねん。ISBN 4-7698-0456-3
*[[雨倉あめくら孝之たかゆき]]「ラバウル空襲くうしゅう 栗田くりた艦隊かんたい災厄さいやく」『まる別冊べっさつ 太平洋戦争たいへいようせんそう証言しょうげんシリーズ1 空白くうはく戦記せんき なか北部ほくぶソロモンの攻防こうぼうせんしお書房しょぼう、1985ねん、313-321ページページ
*Eric Lacroix, Linton Wells, ''Japanese Cruisers of the Pacific War'', Chatham Publishing, 1997, ISBN 1-86176-058-2

*[https://dl.ndl.go.jp/ 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション] - [[国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん]]
**{{Cite book|和書わしょ|author=神戸こうべ市役所しやくしょ|year=1935|month=5|title=昭和しょうわじゅう一年海軍特別大演習観艦式神戸市記念誌|publisher=神戸こうべ市役所しやくしょ|ref=昭和しょうわじゅう一年海軍特別大演習観艦式神戸市記念誌}}
**{{Cite book|和書わしょ|author=神戸こうべ市役所しやくしょ|year=1935|month=5|title=昭和しょうわじゅう一年海軍特別大演習観艦式神戸市記念誌|publisher=神戸こうべ市役所しやくしょ|ref=昭和しょうわじゅう一年海軍特別大演習観艦式神戸市記念誌}}
**{{Cite book|和書わしょ|author=海軍かいぐん研究けんきゅうしゃ編輯へんしゅう へん|year=1935|month=5|title=ポケット海軍かいぐん年鑑ねんかん : にちえいべいふつ軍艦ぐんかんしゅう. 1935年版ねんばん|publisher=海軍かいぐん研究けんきゅうしゃ|ref=ポケット海軍かいぐん年鑑ねんかん(1935)}}
**{{Cite book|和書わしょ|author=海軍かいぐん研究けんきゅうしゃ編輯へんしゅう へん|year=1937|month=2|title=ポケット海軍かいぐん年鑑ねんかん : にちえいべいふつどく軍艦ぐんかんしゅう. 1937,1940年版ねんばん|publisher=海軍かいぐん研究けんきゅうしゃ|ref=ポケット海軍かいぐん年鑑ねんかん(1937)}}
**{{Cite book|和書わしょ|author=海軍かいぐん有終ゆうしゅうかいへん|year=1935|month=11|title=幕末ばくまつ以降いこう帝国ていこく軍艦ぐんかん写真しゃしん史実しじつ|publisher=海軍かいぐん有終ゆうしゅうかい|ref=幕末ばくまつ以降いこう帝国ていこく軍艦ぐんかん写真しゃしん史実しじつ}}
**{{Cite book|和書わしょ|author=海軍かいぐん研究けんきゅうしゃ編輯へんしゅう へん|year=1940|month=7|title=日本にっぽん軍艦ぐんかんしゅう 2600年版ねんばん|publisher=海軍かいぐん研究けんきゅうしゃ|ref=日本にっぽん軍艦ぐんかんしゅう2600年版ねんばん}}


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* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史れきし資料しりょうセンター(公式こうしき)](防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史れきし資料しりょうセンター(公式こうしき)](防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ
**Ref.{{Cite book|和書わしょ|author=C12070076900|title=大正たいしょう9ねんたちかん/3月|ref=大正たいしょう9ねんたち3がつ}}
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**Ref.{{Cite book|和書わしょ|author=C13072003500|title=昭和しょうわ16ねん12月31にち現在げんざい10はんないれい提要ていよう追録ついろくだい10ごう原稿げんこうまき2.3/ まき3追録ついろく/だい13るい艦船かんせん(1)|ref=艦艇かんてい類別るいべつ等級とうきゅうひょう(昭和しょうわ16ねん12月31にち)}}
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**Ref.{{Cite book|和書わしょ|author=C05034780100|title=だい1939ごうの3 11.9.24 昭和しょうわ11ねん特別とくべつだい演習えんしゅう観艦式かんかんしきたまもの饌艦設備せつびかんするけん 訓令くんれいちゅう改正かいせいけん(1)|ref=昭和しょうわ11ねん特別とくべつだい演習えんしゅう観艦式かんかんしきたまもの饌艦設備せつびかんするけん 訓令くんれいちゅう改正かいせいけん(1)}}
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**Ref.C08030744300「昭和しょうわ16ねん12月1にち昭和しょうわ17ねん11月30にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦時せんじ日誌にっし(1)」
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**Ref.C08030745500「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(1)」
**Ref.C08030745500「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(1)」
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**Ref.C08030745700「昭和しょうわ17ねん3がつ 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(3)」
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**Ref.{{Cite book|和書わしょ|author=C08030040400|title=昭和しょうわ17ねん6がつ1にち昭和しょうわ17ねん6がつ30にち ミッドウエー海戦かいせん戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(1)|ref=ミッドウエー海戦かいせん日誌にっし(1)}}
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**Ref.C08030569000「昭和しょうわ19ねん10がつ23にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほうなみたたかえくん所見しょけん
**Ref.C08030569000「昭和しょうわ19ねん10がつ23にち 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほうなみたたかえくん所見しょけん
}}

* {{Cite book|和書わしょ|author=防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ|authorlink=|year=1969|month=5|title=戦史せんし叢書そうしょ26 {{small|あららぎしるし・ベンガルわん方面ほうめん}} 海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん|publisher=あさくも新聞しんぶんしゃ|ref=戦史せんし叢書そうしょ26海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん}}
* 『写真しゃしんしゅう日本にっぽんじゅうじゅん<small>たかから筑摩つかままでぜん18せきすべて</small>』(光人みつひとしゃ、1972)
** [[福井ふくい静夫しずお]]「設計せっけい資料しりょうから日本にっぽんじゅう巡洋艦じゅんようかん秘史ひし <small>世界せかい凌駕りょうがしたといわれるその性能せいのうはどこからまれたか</small>」
* 雑誌ざっしまる編集へんしゅう『<small>写真しゃしん</small> 日本にっぽん軍艦ぐんかん だい6かん <small>じゅうじゅんⅡ</small>』光人みつひとしゃ、1989ねん。 ISBN 4-7698-0456-3
* {{Cite book|和書わしょ|author=小板橋こいたばしたかしさく|authorlink=小板橋こいたばしたかしさく|year=1983|month=|title=戦艦せんかん大和やまといまだしずまず {{small|大和やまと艦橋かんきょう見張みはりいん}}|publisher=光人みつひとしゃ|isbn=4-7698-0224-2|ref=大和やまといまだしずまず}}<br> 著者ちょしゃは1943ねん11月から沈没ちんぼつまで愛宕あたご航海こうかいとして勤務きんむしていた。大和やまと移乗いじょう防空ぼうくう指揮しきしょ見張みはりいんとなった。 
* {{Cite book|和書わしょ|author=小板橋こいたばしたかしさく|authorlink=|year=1985|month=|title=下士官かしかんたちの戦艦せんかん大和やまと{{small|戦艦せんかん大和やまと下士官かしかんたちのレイテ海戦かいせん}}|publisher=光人みつひとしゃ|isbn=4-7698-0267-6|ref=下士官かしかんたちの戦艦せんかん大和やまと}}<br> 内容ないようぜん半分はんぶんは、愛宕あたご沈没ちんぼつ状況じょうきょう生存せいぞんしゃ証言しょうげん
* {{Cite book|和書わしょ|author=永井ながい喜之よしゆき木俣きまたしげるろう|authorlink=|year=1988|month=10|title={{small|しん戦史せんしシリーズ}} 撃沈げきちん戦記せんき|publisher=朝日あさひソノラマ|ISBN=4-257-17208-8|ref=撃沈げきちん戦記せんき}}
* 海軍かいぐん歴史れきし保存ほぞんかい日本にっぽん海軍かいぐんだい7かんだい9かんだい10かん第一法規出版だいいちほうきしゅっぱん、1995ねん
* {{Cite book|和書わしょ|author=佐藤さとう静夫しずお|year=1997|month=|title=駆逐くちくかん野分のわけ物語ものがたり {{small|わか航海こうかいちょう太平洋たいへいようかい戦記せんき}}|publisher=光人みつひとしゃ|isbn=4-7698-0803-8|ref=野分のわけ物語ものがたり(単行本たんこうぼん)}}
** {{Cite book|和書わしょ|author=佐藤さとう静夫しずお|year=2004|month=1|title=駆逐くちくかん野分のわけ物語ものがたり {{small|わか航海こうかいちょう太平洋たいへいようかい戦記せんき}}|publisher=光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ|isbn=4-7698-2408-4|ref=野分のわけ物語ものがたり(文庫ぶんこ)}}
* 外山とやまみさお艦長かんちょうたちの軍艦ぐんかん光人みつひとしゃ、2005ねん。 ISBN 4-7698-1246-9
* {{Cite book|和書わしょ|author=[[中島なかじまちかしこう]]|year=2008|month=10|title=聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつから太平洋戦争たいへいようせんそう {{small|参謀さんぼうえが聯合れんごう艦隊かんたい興亡こうぼう}}|publisher=光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ|isbn=4-7698-2175-1|ref=聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ}}<br> 中島なかじまは1940ねん9がつからだい艦隊かんたい参謀さんぼうとして愛宕あたご乗艦じょうかんしていた。ミッドウェー海戦かいせんだいさん艦隊かんたい通信つうしん参謀さんぼう
* カール・ソルバーグ ちょ高城たかぎはじめ やく決断けつだん異議いぎ レイテおきのアメリカ艦隊かんたい勝利しょうり真相しんそう光人みつひとしゃ、1999ねん邦訳ほうやく初出しょしゅつ
* {{Cite book|和書わしょ|author=小板橋こいたばしたかしさく|authorlink=小板橋こいたばしたかしさく|year=2008|title=愛宕あたご奮戦ふんせん {{small|旗艦きかん乗組のりくみいんたソロモン海戦かいせん}}|publisher=光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ|isbn=978-4-7698-2560-9|ref=愛宕あたご奮戦ふんせん}}<br />高橋たかはし武士たけし艦長かんちょう伝令でんれい艦橋かんきょう勤務きんむ)の戦時せんじ日記にっきもと小板橋こいたばし編集へんしゅう
* {{Cite book|和書わしょ|author=小板橋こいたばしたかしさく|chapter=|title=海軍かいぐん操舵そうだいんよもやま物語ものがたり {{small|かん命運めいうんになった"かじとりたましい"}}|publisher=光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ|year=2015|month=1|origyear=1995|ISBN=978-4-7698-2868-6|ref=海軍かいぐん操舵そうだいんよもやまばなし}}
* {{Cite book|和書わしょ|author=片桐かたぎりだい|authorlink=|year=2003|month=8|title=聯合れんごう艦隊かんたい軍艦ぐんかん銘銘めいめいでんぜんはちろくせき栄光えいこう悲劇ひげき |publisher=光人みつひとしゃ|isbn=978-4769811510|ref=聯合れんごう艦隊かんたい軍艦ぐんかん銘銘めいめいでん}}


== 関連かんれん項目こうもく ==
== 関連かんれん項目こうもく ==
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* [[大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん艦艇かんてい一覧いちらん]]
*[[あたごがた護衛ごえいかん]]
*[[あたごがた護衛ごえいかん]]


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2023ねん2がつ26にち (日)にち 13:39時点じてんにおける最新さいしんばん

愛宕あたご
重巡洋艦愛宕
じゅう巡洋艦じゅんようかん愛宕あたご
基本きほん情報じょうほう
建造けんぞうしょ 海軍かいぐん工廠こうしょう
運用うんようしゃ  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
かんしゅ じゅう巡洋艦じゅんようかん
きゅうめい 高雄たかおがたじゅう巡洋艦じゅんようかん
かんれき
発注はっちゅう 昭和しょうわ2年度ねんど艦艇かんてい補充ほじゅう計画けいかく
起工きこう 1927ねん4がつ28にち
進水しんすい 1930ねん6月16にち
就役しゅうえき 1932ねん3月30にち
最期さいご 1944ねん10月23にち戦没せんぼつ
除籍じょせき 1944ねん12月20にち
要目ようもく高雄たかお[1]
基準きじゅん排水はいすいりょう 11,350トン竣工しゅんこう
13,400トン(改装かいそう
全長ぜんちょう 203.76 m
最大さいだいはば 19.00 m (竣工しゅんこう
20.73 m (改装かいそう
吃水きっすい 6.11 m (竣工しゅんこう計画けいかく
6.32 m (改装かいそう
しゅかん ごうかん本式ほんしきかん12
おも かん本式ほんしきタービン44じく
出力しゅつりょく 130,000馬力ばりき
速力そくりょく 35.5ノット竣工しゅんこう
34ノット(改装かいそう
燃料ねんりょう 重油じゅうゆ:2,645トン(竣工しゅんこう
2,318トン(改装かいそう
航続こうぞく距離きょり 14ノットで8,000うみさと竣工しゅんこう
18ノットで5,000海里かいり改装かいそう
乗員じょういん 760めい竣工しゅんこう[2]
835めい改装かいそう
へいそう 竣工しゅんこう
50口径こうけいさんねんしき20.3cm連装れんそうほう510もん
45口径こうけいじゅうねんしき12cmたんそう高角こうかくほう4もん
40mmたんそう機銃きじゅう2てい
はちきゅうしき61cm連装れんそう魚雷ぎょらい発射はっしゃかん48もん
きゅうしき魚雷ぎょらい16ほん
1942ねん
50口径こうけいさんねんしき20.3cm連装れんそうほう510もん
40口径こうけいはちきゅうしき12.7cm連装れんそう高角こうかくほう48もん
きゅうろくしき25mm連装れんそう機銃きじゅう4
きゅうさんしき13mm連装れんそう機銃きじゅう2
きゅうしき61cm4連装れんそう魚雷ぎょらい発射はっしゃかん4
きゅうさんしき魚雷ぎょらい24ほん
装甲そうこう 舷側げんそく:127mm
水平すいへい:34-46mm
砲塔ほうとう:25mm
搭載とうさい 水上すいじょう偵察ていさつ3しき2ごう射出しゃしゅつ2
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愛宕あたご(あたご)は、日本にっぽん海軍かいぐんじゅう巡洋艦じゅんようかん[3]

概要がいよう

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近代きんだい改装かいそう愛宕あたご昭和しょうわ14ねん(1939ねん)11月30にち横須賀よこすか軍港ぐんこう撮影さつえい

一等いっとう巡洋艦じゅんようかんじゅう巡洋艦じゅんようかん愛宕あたご高雄たかおがたじゅう巡洋艦じゅんようかんの2ばんかんである[4]きゅうピッチで工事こうじをしたため1ばんかん高雄たかおよりはや完成かんせいした。このため、高雄たかおがたじゅうじゅん愛宕あたごがたぶこともある。 太平洋戦争たいへいようせんそうにおける愛宕あたごは、南方みなかた作戦さくせんらんしるし作戦さくせんミッドウェー海戦かいせん攻略こうりゃく部隊ぶたい)、南太平洋みなみたいへいよう海戦かいせん前進ぜんしん部隊ぶたい)、だいさんソロモン海戦かいせんブーゲンビルとうたたかラバウル空襲くうしゅう)、マリアナおき海戦かいせんレイテおき海戦かいせんひとし参加さんか。1944ねん昭和しょうわ19ねん)10がつ23にちにアメリカの潜水せんすいかんダーター雷撃らいげき沈没ちんぼつするまで、ほぼ一貫いっかんしてだい艦隊かんたい旗艦きかんにあり、金剛こんごうがた戦艦せんかん長門ながとがた戦艦せんかん大和やまとがた戦艦せんかんひとし指揮しきいた。太平洋戦争たいへいようせんそうにおいて愛宕あたごはたはたかかげただい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんは、大戦たいせん前半ぜんはん近藤こんどうしんちく中将ちゅうじょう後半こうはん栗田くりた健男たけお中将ちゅうじょうだった。

かんめい

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日本にっぽん海軍かいぐんにおける愛宕あたごかんめい京都きょうと愛宕山あたごやま由来ゆらいし、最初さいしょ愛宕あたごかんした軍艦ぐんかん明治めいじ時代じだい砲艦ほうかん愛宕あたごである[5][6]

2せき愛宕あたご天城あまぎがたじゅんよう戦艦せんかんの4ばんかんだが[7][8]同艦どうかん建造けんぞう中止ちゅうしとなった。一等いっとう巡洋艦じゅんようかん愛宕あたごは、日本にっぽん海軍かいぐん艦船かんせんとしては3せきとなる[9]ほんかん沈没ちんぼつ名称めいしょう海上かいじょう自衛隊じえいたいあたごがた護衛ごえいかんの1ばんかんあたご」にがれている。

かんれき

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一等いっとう巡洋艦じゅんようかん愛宕あたごは1927ねん昭和しょうわ2ねん)4がつ28にち海軍かいぐん工廠こうしょう起工きこう、1930ねん昭和しょうわ5ねん)6がつ16にち進水しんすい[10]初代しょだい艦長かんちょう佐田さた健一けんいち大佐たいさ指揮しき1932ねん昭和しょうわ7ねん)3がつ30にち就役しゅうえきする[10]。4月16にちにはいぬやしなえあつし首相しゅしょうはじめとする政府せいふ高官こうかんせて東京とうきょうわん巡航じゅんこうする。同年どうねん12がつ、2代目だいめ艦長かんちょう高橋たかはしもち大佐たいさ指揮しきみょうだかがたじゅう巡洋艦じゅんようかんわってだい艦隊かんたいだいよん戦隊せんたい編入へんにゅうされた。

1933ねん昭和しょうわ8ねん)8がつ26にちには横浜よこはまおきおこなわれた特別とくべつだい演習えんしゅうでの観艦式かんかんしき高雄たかおがたじゅうじゅん4せき鳥海とりうみ先導せんどうかん》、愛宕あたご高雄たかお摩耶まや)は昭和しょうわ天皇てんのう乗艦じょうかんする金剛こんごうがた戦艦せんかん2ばんかん比叡ひえい供奉ぐぶかんとして参列さんれつした。

1936ねん昭和しょうわ11ねん)10がつ25にち御召おめしかん比叡ひえいおよび供奉ぐぶかん2せき時雨しぐれ白露しらつゆ)は神戸こうべこう到着とうちゃく愛宕あたご以下いかかくかん礼砲れいほう昭和しょうわ天皇てんのう出迎でむかえた[11]。10月26にち昭和しょうわ天皇てんのう広島ひろしまけん江田島えたじま海軍兵学校かいぐんへいがっこう行幸ぎょうこうすることになり比叡ひえいから愛宕あたご移乗いじょう白露しらつゆがた2せき時雨しぐれ白露しらつゆ)を供奉ぐぶかんとして江田島えたじまへむかった[12]海軍兵学校かいぐんへいがっこう行幸ぎょうこうえて28にち神戸こうべ帰着きちゃくすると、御召おめしかんは「比叡ひえい」にもどり、10月29にち観艦式かんかんしき当日とうじつむかえる[13]御召おめしかん比叡ひえい供奉ぐぶかん愛宕あたご鳥海とりうみ足柄あしがらという編制へんせいであった。観艦式かんかんしき終了しゅうりょう昭和しょうわ天皇てんのうと3せき比叡ひえい御召おめしかん》、時雨しぐれ白露しらつゆ)は横須賀よこすかかった[14]

1938ねん昭和しょうわ13ねん)4がつには近代きんだい改装かいそうおこなわれ、舞鶴まいづるから横須賀よこすか工廠こうしょうへと移動いどうしてよく1939ねん昭和しょうわ14ねん)10がつ工事こうじ完了かんりょう1941ねん昭和しょうわ16ねん)10がつ摩耶まやわってだい艦隊かんたい近藤こんどうしんちく中将ちゅうじょう旗艦きかんとなった。中島なかじまちかしこうだい艦隊かんたい通信つうしん参謀さんぼうによれば、本来ほんらい高雄たかお旗艦きかんだったが、事故じこにより愛宕あたご変更へんこうされたとしている[15]。11月29にち出港しゅっこう[16]、12月2にち台湾たいわんうまこう到着とうちゃくする[17]。12月4にち高雄たかお戦艦せんかんきむつよし榛名はるなしたがえて出港しゅっこう[18]愛宕あたご日米にちべい開戦かいせんけて配置はいちについた。

東南とうなんアジアでの行動こうどう

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だい艦隊かんたい旗艦きかん南方なんぽう部隊ぶたい本隊ほんたい旗艦きかん愛宕あたごは12月8にち開戦かいせん南方なんぽう海上かいじょうむかえた。近藤こんどう司令しれい長官ちょうかん指揮しきかんとする南方なんぽう部隊ぶたい本隊ほんたいは、だいよん戦隊せんたい愛宕あたご高雄たかお摩耶まや)、だいさん戦隊せんたいだい2小隊しょうたいきむつよし榛名はるな)、だい4駆逐くちくたいあらし野分のわけまいふうはぎふう)、だい6駆逐くちくたいだい1小隊しょうたいひびきあかつき)、だい8駆逐くちくたい大潮おおしおあさしお満潮まんちょうあらうしお)という戦力せんりょくである[19]東南とうなんアジア占領せんりょう目指めざ日本にっぽんぐんにとって最大さいだい脅威きょういは、シンガポール根拠地こんきょちとするイギリス東洋とうよう艦隊かんたい戦艦せんかんプリンス・オブ・ウェールズめぐよう戦艦せんかんレパルスであった[20]。その脅威きょういも12月10にちマレーおき海戦かいせん排除はいじょされた。11にち、カムランわん入港にゅうこうし、マレー部隊ぶたい/みなみ艦隊かんたい指揮しきかん小沢おざわおさむ三郎さぶろう中将ちゅうじょう旗艦きかん鳥海とりうみ)と合流ごうりゅうする[21]。14にち、カムランわん出港しゅっこう[22]以後いごマレー作戦さくせんらんしるし作戦さくせん支援しえんした。

1942ねん昭和しょうわ17ねん)2がつ25にちセレベスとうスターリングわん出港しゅっこう[23]、オンバイ海峡かいきょうてサウうみはいり、インド洋いんどよう進出しんしゅつする[24][25]。3月2にち午後ごご1022ふんバリ島ばりとう南方なんぽう高雄たかおとも駆逐くちくかんピルスバリー (USS Pillsbury , DD-227) を20cm砲弾ほうだん54はつ、12.7センチ高角こうかくほう15はつもちいて撃沈げきちんした[26]愛宕あたごはピルスバリーをかんがたけい巡洋艦じゅんようかんマーブルヘッド誤認ごにんしていた[27]乗組のりくみいん戦時せんじ日記にっきには「オマハがたけい巡洋艦じゅんようかん」という表現ひょうげんられる[28]。3にちべつどうの3せきじゅうじゅん摩耶まや》、だい4駆逐くちくたいだい1小隊しょうたいあらし野分のわけ》)と合同ごうどうする[29]。4にち南方みなかた部隊ぶたい本隊ほんたい愛宕あたご高雄たかお摩耶まやあらし野分のわけ)はジャワ島じゃわとうチラチャップの170280海里かいり付近ふきん進出しんしゅつし、スループ「ヤラ」、depot ship「Anking」、掃海そうかいてい「MMS.51」、タンカー「フランコル」からなる船団せんだん攻撃こうげきして全滅ぜんめつさせた[30]。さらにこの愛宕あたご」はオランダせん「Duymaer van Twist」(1030トン)を拿捕だほし、「あらし」もオランダせん(7089トン)を拿捕だほした[31]南方なんぽう部隊ぶたい本隊ほんたいは3がつ7にちにスターリングわん帰投きとうした[31]

3がつ20日はつか、ボルネオとうタラカンに入港にゅうこうする[32]。23にちマカッサル入港にゅうこう[33]、シンガポールをて4がつ3にちにはマレまれ半島はんとう西岸せいがんのペナンに到着とうちゃくした[34]セイロンおき海戦かいせんでは直接ちょくせつ英軍えいぐん交戦こうせんすることはなく、なんアンダマン諸島しょとう周辺しゅうへん英軍えいぐん艦隊かんたい索敵さくてき従事じゅうじした[35]。4がつ10日とおか、カムランわん入港にゅうこう[36]開戦かいせん以来いらい東南とうなんアジアをかけまわった愛宕あたごは、一旦いったん前線ぜんせん任務にんむかれ、日本にっぽんもどった。

愛宕あたご東京とうきょうわんめんする横須賀よこすかこういかりをおろした。4月18にちのアメリカ海軍かいぐんの「ホーネット」よりはつかんしたのB-25ばくげきによるドーリットル空襲くうしゅうでは横須賀よこすか爆撃ばくげきされたが、愛宕あたご目標もくひょうにならなかった。ドーリットルたいったのち急遽きゅうきょ出撃しゅつげきしてアメリカ機動きどう部隊ぶたい捜索そうさくするも、アメリカ機動きどう部隊ぶたいすでったのちだった[37]ミッドウェー海戦かいせんにはミッドウェーとう攻略こうりゃく部隊ぶたい本隊ほんたいだいよん戦隊せんたい愛宕あたご鳥海とりうみ)、だい戦隊せんたいみょうだか羽黒はぐろ)、だいさん戦隊せんたい比叡ひえいきむつよし)、だいよん水雷すいらい戦隊せんたい由良ゆらだい2駆逐くちくたい村雨むらさめ五月雨さみだれ春雨はるさめ夕立ゆうだち》、だい9駆逐くちくたいあさくもみねくもなつくも》)、空母くうぼ瑞鳳ずいほう駆逐くちくかん三日月みかづき油槽ゆそうせん3せき旗艦きかんとして参加さんか[38]。サイパンとうてミッドウェーとう近海きんかい進出しんしゅつ。6月4にちにアメリカぐんばくげきから攻撃こうげきけたが被害ひがいはなかった[39]。5にち南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい壊滅かいめつ連絡れんらく撤退てったい命令めいれいけて変針へんしんする。途中とちゅう、アメリカぐん航空こうくう攻撃こうげき損傷そんしょうした3せきじゅうじゅん最上さいじょう》、だい8駆逐くちくたいあさしおあらうしお》)と合流ごうりゅうした[40][41]。6月14にちじゅうなな日間にちかんにわたる航海こうかいえて帰着きちゃくする[42]

ソロモン諸島しょとうでの行動こうどう

[編集へんしゅう]

1942ねん昭和しょうわ17ねん)8がつ初旬しょじゅん、アメリカぐんガダルカナルとうとツラギに上陸じょうりくし、ガダルカナルとうたたかはじまった。8月11にち愛宕あたご戦艦せんかん陸奥みちのくとも桂島かつらしま泊地はくち出発しゅっぱつし、南洋なんよう日本にっぽん海軍かいぐん拠点きょてんであるトラック泊地はくち航海こうかいつづけた[43]。17にち到着とうちゃくしたが、油槽ゆそうせん2せき神国しんこくまるにち栄丸さかえまる)がアメリカぐん潜水せんすいかん雷撃らいげきなかやぶした[44]。2せきから艦隊かんたいへの給油きゅうゆ可能かのうだったが、アメリカぐん潜水せんすいかん活動かつどう日本にっぽんぐん作戦さくせん影響えいきょうあたえはじめた[45]

8がつ20日はつか愛宕あたごだいよん戦隊せんたいだい戦隊せんたい水上すいじょう母艦ぼかん千歳ちとせだいよん水雷すいらい戦隊せんたいともにトラック泊地はくち出撃しゅつげき[46]。さらに陸奥みちのく村雨むらさめ五月雨さみだれ春雨はるさめ合流ごうりゅう、8がつ24にち-25にちだいソロモン海戦かいせん参加さんかした。アメリカぐん艦載かんさい20すう攻撃こうげきけて千歳ちとせ損傷そんしょうしたが愛宕あたご被害ひがいはなく[47]、アメリカぐん機動きどう部隊ぶたい水上すいじょう戦闘せんとういどむべく南下なんかしたが接触せっしょくできなかった[48]愛宕あたご水上すいじょう偵察ていさつ1搭乗とうじょういん3めい)を喪失そうしつした[49]。9月5にち、トラック泊地はくち帰還きかんする[50]愛宕あたごはそのもソロモン諸島しょとう東海とうかいめん活動かつどうつづけた。9月11にち特設とくせつ水上すいじょう母艦ぼかん国川こくがわまる艦載かんさいがアメリカぐん飛行ひこうてい撃墜げきつい駆逐くちくかん村雨むらさめだい2駆逐くちくたい)は搭乗とうじょういん8めい捕虜ほりょとした[51]夕刻ゆうこく捕虜ほりょ愛宕あたご収容しゅうようされた[52]。9月20にちにトラック泊地はくち帰投きとう捕虜ほりょ戦艦せんかん大和やまと連合れんごう艦隊かんたい司令しれい)へ移送いそうされたが、捕虜ほりょのうち機長きちょう大尉たいい)は処刑しょけいされたという[53]

10月11にち空母くうぼはやぶさたかたか戦艦せんかん金剛こんごう榛名はるなともにトラック泊地はくち出撃しゅつげき[54]ヘンダーソン基地きちかんほう射撃しゃげき支援しえんする。10月20にち午後ごご8空母くうぼたか火災かさい発生はっせい[55]たかはトラック泊地はくちもどった[56]。このような情勢じょうせい愛宕あたごは10月26にちから27にちにかけておこなわれた南太平洋みなみたいへいよう海戦かいせんいて、前進ぜんしん部隊ぶたい旗艦きかんとして参加さんかした[57]べい空母くうぼホーネット捕捉ほそくし、ホーネットの撃沈げきちん貢献こうけんしている[58]。10月30にち、19日間にちかん航海こうかいえてトラック泊地はくちもどった[59]

11月9にちだいよん戦隊せんたいだいさん戦隊せんたいきむつよし榛名はるな)、だいじゅういち戦隊せんたい比叡ひえい霧島きりしま)、だいさん水雷すいらい戦隊せんたいけいじゅん川内かわうちだい6駆逐くちくたいだい15駆逐くちくたいだい11駆逐くちくたい)、だい航空こうくう戦隊せんたいはやぶさたか)ととも出撃しゅつげきし、ガダルカナル方面ほうめんかった[60]愛宕あたごでは航海こうかいちょう転勤てんきんとなったがつぎにんしゃ着任ちゃくにんしておらず、陸奥みちのく航海こうかいちょうほんかん出張しゅっちょうし、臨時りんじ航海こうかいちょうつとめていたという[61]。11月12にち、『前進ぜんしん部隊ぶたい機密きみつ連合れんごう艦隊かんたいでんれい作戦さくせんもとづき、Zマイナス1にち、その大部たいぶはRXN北方ほっぽう海面かいめん進出しんしゅつじゅういち戦隊せんたい基幹きかんとする部隊ぶたいをもって同日どうじつよる、ガダルカナルとう飛行場ひこうじょうたい制圧せいあつ射撃しゃげきをおこない、Zにち陸軍りくぐん揚陸ようりく間接かんせつてき掩護えんごし、南東なんとう方面ほうめん部隊ぶたい作戦さくせん支援しえんするととも好機こうきじょうてき艦隊かんたい捕捉ほそく、これを撃滅げきめつせんとす』という命令めいれいくだり、挺身ていしん攻撃こうげきたい指揮しきかん阿部あべ弘毅こうきだいじゅういち戦隊せんたい司令しれいかん)が分離ぶんりした[62]。この挺身ていしん艦隊かんたいは12にち-13にちにかけてアメリカぐん巡洋艦じゅんようかん部隊ぶたい交戦こうせんし、3せき比叡ひえいあかつき夕立ゆうだち)が沈没ちんぼつ飛行場ひこうじょう砲撃ほうげきにも失敗しっぱいする。愛宕あたごは13にち午後ごご2だいじゅう戦隊せんたいけいじゅん長良ながらひとし)と合流ごうりゅうした[63]

11月14にち-15にちだいさんソロモン海戦かいせんで、つづ前進ぜんしん部隊ぶたい指揮しきかん近藤こんどうしんちく中将ちゅうじょうだい艦隊かんたい長官ちょうかん愛宕あたご座乗ざじょう)は、愛宕あたご高雄たかお霧島きりしまあさくも五月雨さみだれあきらがつおよびだいさん水雷すいらい戦隊せんたい指揮しきし、アメリカぐんサウスダコタならびにワシントンの2せき新鋭しんえい戦艦せんかん夜間やかん砲戦ほうせん雷撃らいげきせん敢行かんこうした。愛宕あたご高雄たかお海戦かいせん終盤しゅうばんにワシントンにたい雷撃らいげきこころみるも(愛宕あたごだけで19ほん[64]きゅうさんしき酸素さんそ魚雷ぎょらい信管しんかん過敏かびんによる命中めいちゅう直前ちょくぜん自爆じばくにより[65]すべ命中めいちゅうしなかった。その2せきはサウスダコタにけい23はつ命中めいちゅうだんびせ、霧島きりしまもサウスダコタのだいさん砲塔ほうとうに35.6cmほう命中めいちゅうさせるなどしてこれを撃破げきはしたが、ワシントンのレーダー管制かんせい射撃しゃげきにより霧島きりしま大破たいは、のち沈没ちんぼつした。この海戦かいせん愛宕あたごかんくび醤油じょうゆに5インチ砲弾ほうだん1はつ命中めいちゅうした[66]。11月18にち、トラック泊地はくちもどった[67]。8がつ以来いらいソロモン諸島しょとう海域かいいき奔走ほんそうしてきた愛宕あたご修理しゅうりのため、12月17にち帰投きとうした。


1943ねん7がつ21にちに「愛宕あたご」、「高雄たかお」とけい巡洋艦じゅんようかん長良ながら」、駆逐くちくかん涼風すずかぜ」はトラックを出発しゅっぱつし、7がつ26にち横須賀よこすか入港にゅうこうした[68]

8がつ16にち連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん古賀こがみねいち大将たいしょうじきりつ主力しゅりょく部隊ぶたい戦艦せんかん3せき大和やまと長門ながと扶桑ふそう〉、空母くうぼ大鷹おおたか[69]巡洋艦じゅんようかん3せき愛宕あたご高雄たかお能代のしろ〉、駆逐くちくかん部隊ぶたい涼風すずかぜ海風かいふうあきくもゆうくも若月わかつき天津てんしんふうはつかぜ〉)は出撃しゅつげきし、トラックかう[70][71]。10月31にち〜11月1にち連合れんごうぐんタロキナみさきブーゲンビルとう)に上陸じょうりく開始かいしブーゲンビルとうたたかはじまる[72]連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん古賀こがみねいち大将たいしょうは、だいいち航空こうくう戦隊せんたい航空こうくう戦力せんりょく南東なんとう方面ほうめん投入とうにゅうし、つづいてトラック泊地はくち主力しゅりょく艦艇かんてい投入とうにゅうすることを決定けっていする[73]。 11月3にち午前ごぜん745ふんだい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん栗田くりた健男たけお中将ちゅうじょう愛宕あたご座乗ざじょう指揮しきじゅう巡洋艦じゅんようかん部隊ぶたいだいよん戦隊せんたい愛宕あたご高雄たかお摩耶まや鳥海とりうみ》、だいなな戦隊せんたい鈴谷すずや最上さいじょう》、だいはち戦隊せんたい筑摩ちくま》)、だい水雷すいらい戦隊せんたいけい巡洋艦じゅんようかん能代のしろ》、駆逐くちくかんたまりょう藤波ふじなみはやなみ》)をひきいてトラック泊地はくち出撃しゅつげき[74]航行こうこうちゅうの4にち午前ごぜん航行こうこう不能ふのうとなったタンカー日章丸にっしょうまる救援きゅうえんに2せき鳥海とりうみりょう)を分離ぶんり[74]11月5にち午前ごぜん6ごろ栗田くりた長官ちょうかん指揮しきゆうげき部隊ぶたいはラバウルに到着とうちゃくした[74]同日どうじつ午前ごぜん7空母くうぼ「サラトガ」、「プリンストン」を基幹きかんとするアメリカだい38任務にんむ部隊ぶたい艦載かんさいけい97投入とうにゅう、ラバウルざいはく艦艇かんていたいする空襲くうしゅう敢行かんこうする[75]栗田くりた艦隊かんたいじゅうじゅん部隊ぶたいかくかんとも損害そんがいをうける(愛宕あたご高雄たかお摩耶まや最上もがみ筑摩ちくま能代のしろ被弾ひだんとう[75]とく摩耶まや機関きかんへの被弾ひだん航行こうこう不能ふのうとなった。ほんかん至近しきんだん3はつける[75]左舷さげん魚雷ぎょらい発射はっしゃかんしつ付近ふきん舷側げんそく巨大きょだいやぶあなしょう[76]艦長かんちょう中岡なかおか信喜しき大佐たいさ以下いか18めい死亡しぼう、20めい重傷じゅうしょうった[77]南東なんとう方面ほうめん艦隊かんたい長官ちょうかんくさ鹿しかにんいち中将ちゅうじょう栗田くりた艦隊かんたい(ラバウル進出しんしゅつちゅう鳥海とりうみふくむ)のトラック泊地はくち帰投きとうしたれい[78]摩耶まやのぞおもめぐかくかんは11月7にち―8にちにかけてトラック泊地はくちもどった(愛宕あたごは7にち昼前ひるまえ到着とうちゃく[78]

だい艦隊かんたい旗艦きかん鳥海とりうみ変更へんこう愛宕あたご日本にっぽんもどって修理しゅうりおこなう。1944ねん昭和しょうわ19ねん)1がつ上旬じょうじゅんだい4駆逐くちくたい野分のわけまいふう)に護衛ごえいされてふたたびトラックとう進出しんしゅつ[79]。2月、アメリカ機動きどう部隊ぶたい攻撃こうげきけるように連合れんごう艦隊かんたいかくかんともにパラオへ移動いどう[80]直後ちょくご、アメリカ機動きどう部隊ぶたいによるトラックとう空襲くうしゅうにより泊地はくち壊滅かいめつした。このパラオ泊地はくち安全あんぜんとはいえず、愛宕あたごはダバオをて4がつ9にちにリンガ泊地はくち到着とうちゃくした[81]。なお、パラオ出航しゅっこう直後ちょくごパラオだい空襲くうしゅうがあった。リンガで愛宕あたごふくめたかくかんうえ甲板かんぱん最先端さいせんたんまるえがいたという[82]。5月14にち、タウイタウイ泊地はくち移動いどう[83]だいいち機動きどう艦隊かんたい前衛ぜんえい部隊ぶたい大和やまと武蔵むさしきむつよし榛名はるな千歳ちとせ千代田ちよだ能代のしろしまふうとう)の旗艦きかんとなった。

1944ねん昭和しょうわ19ねん)6がつ中旬ちゅうじゅん愛宕あたごマリアナおき海戦かいせん参加さんかした。27にち日本にっぽんもど[84]。7月8にち出航しゅっこうしてシンガポールへかう[85]。8月2にちリンガ泊地はくち到着とうちゃくし、訓練くんれん従事じゅうじした[86]

愛宕あたご最期さいご

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1944ねん昭和しょうわ19ねん)10がつ22にちだい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん栗田くりた健男たけお中将ちゅうじょう愛宕あたご座乗ざじょう)のだいいちゆうげき部隊ぶたいだいいち部隊ぶたい通称つうしょう栗田くりた艦隊かんたい)はブルネイを出航しゅっこうレイテ島れいてとうかう。よく10がつ23にち午前ごぜん116ふん会合かいごうちゅうだったアメリカの潜水せんすいかんダーターUSS Darter, SS-227)とデイス (USS Dace, SS-247)がレーダーで栗田くりた艦隊かんたい発見はっけんした[87]りょうかん栗田くりた艦隊かんたい追跡ついせき開始かいしした。午前ごぜん230ふん愛宕あたご潜水せんすいかん電波でんぱ探知たんちし、これ運動うんどうはじめる[88]午前ごぜん6栗田くりた艦隊かんたいパラワン水道すいどう通過つうかしようとしていた。愛宕あたごたいせん警戒けいかいおこなっていたものの、各部かくぶしょ通常つうじょう戦闘せんとう訓練くんれんおこなっていたという[89][90]。632ふん距離きょりおよそ900mからダーターのはなった6ほん魚雷ぎょらいのうち[91]4ほん愛宕あたご右舷うげん命中めいちゅうした(一番いちばん砲塔ほうとう直下ちょっか艦橋かんきょう前部ぜんぶ中部ちゅうぶ魚雷ぎょらい発射はっしゃかんしつばん砲塔ほうとう付近ふきん[92]右舷うげんバルジのほとんすべてと、だいいちかんしつだいかんしつだいろくかんしつ右舷うげん後部こうぶぬししつ浸水しんすいした[93]。ただちに左舷さげん注水ちゅうすい区画くかく左舷さげんだいななかんしつ注水ちゅうすいおこなわれた[93]愛宕あたご電源でんげん停止ていしし、急速きゅうそくみぎかたむいた。左舷さげん注水ちゅうすいへの注水ちゅうすい効果こうかすくなく[94]右舷うげん傾斜けいしゃぞうまらない[95]。まず司令しれい退去たいきょしたが[96]総員そういん退去たいきょ命令めいれいされなかった可能かのうせいたか[97]栗田くりた中将ちゅうじょう小柳こやなぎ参謀さんぼうちょう荒木あらき艦長かんちょう以下いか駆逐くちくかん岸波きしなみが529めいあさしもが171めい救助きゅうじょした。愛宕あたごは653ふん転覆てんぷく沈没ちんぼつ機関きかんちょうどうめんけいづくり中佐ちゅうさ以下いか360めい戦死せんしした[98]軍艦ぐんかんろされないままだったという[99]

岸波きしなみ救助きゅうじょされた栗田くりた中将ちゅうじょうふく愛宕あたご生存せいぞんしゃ戦艦せんかん大和やまと移乗いじょうし、そのなかには大和やまと補充ほじゅう要員よういんとして戦闘せんとう参加さんかしたものもいた。潜水せんすいかん魚雷ぎょらい4ほん命中めいちゅうによりかみなりから20ふん沈没ちんぼつした愛宕あたごであったが、日本にっぽんぐんじゅう巡洋艦じゅんようかん特徴とくちょうともされるたて強度きょうどたかめるための機関きかんしつせんたてかべ[100]急速きゅうそく傾斜けいしゃはやめたという指摘してきもある[101]

なお、ダーターは高雄たかおにも魚雷ぎょらい2ほん命中めいちゅうさせ、高雄たかお深夜しんやまで漂流ひょうりゅうさせた。ダーターは高雄たかおめをさそうと攻撃こうげき続行ぞっこうしたが、航法こうほうをあやまり10がつ24にち座礁ざしょう曳航えいこう不能ふのうとなり、乗員じょういんはデイスに移乗いじょうしたのちダーターを自沈じちんさせた。ダーターの艦長かんちょうのデヴィッド・H・マクリントック少佐しょうさ日本にっぽんぐんがダーターの残骸ざんがい調査ちょうさすることを見越みこし、艦内かんないにあったかんがた識別しきべつ訓練くんれんよう愛宕あたごがた模型もけいに「これ(模型もけい)があれ(愛宕あたご)と同一どういつかんか?」というメモをけた[102]

おおやけためし成績せいせき

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状態じょうたい 排水はいすいりょう 出力しゅつりょく 速力そくりょく 実施じっし 実施じっし場所ばしょ 備考びこう
新造しんぞう 12,214トン 135,000馬力ばりき 35.2ノット 昭和しょうわ7ねん(1932ねん)2がつ12にち 宿毛湾すくもわんそと標柱ひょうちゅうあいだ
改装かいそう 34.2ノット 昭和しょうわ14ねん(1939ねん)8がつ30にち 館山たてやまおき標柱ひょうちゅうあいだ

歴代れきだい艦長かんちょう

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※『艦長かんちょうたちの軍艦ぐんかん』107-109ぺーじ、『日本にっぽん海軍かいぐんだい9かんだい10かんの「将官しょうかん履歴りれき」にもとづく。

艤装ぎそういんちょう

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  1. 佐田さた健一けんいち 大佐たいさ昭和しょうわ5ねん(1930ねん)6がつ20日はつか - 1931ねん10がつ1にち[103]

艦長かんちょう

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  1. 佐田さた健一けんいち 大佐たいさ昭和しょうわ6ねん(1931ねん)10がつ1にち - 1932ねん12月1にち
  2. 高橋たかはしもち 大佐たいさ昭和しょうわ7ねん(1932ねん)12月1にち - 1933ねん11月15にち
  3. 宮田みやた義一ぎいち 大佐たいさ昭和しょうわ8ねん(1933ねん)11月15にち - 1934ねん11月1にち
  4. 園田そのだしげる 大佐たいさ昭和しょうわ9ねん(1934ねん)11月1にち - 1935ねん11月15にち
  5. 鈴木すずき田幸たこうづくり 大佐たいさ昭和しょうわ10ねん(1935ねん)11月15にち - 1936ねん4がつ15にち
  6. 伊藤いとう整一せいいち 大佐たいさ昭和しょうわ11ねん(1936ねん)4がつ15にち - 1936ねん12月1にち
  7. ふじ存知ぞんち 大佐たいさ昭和しょうわ11ねん(1936ねん)12月1にち - 1937ねん7がつ12にち
  8. 奥本おくもと武夫たけお 大佐たいさ昭和しょうわ12ねん(1937ねん)7がつ12にち - 1937ねん12月1にち[104]
  9. 坂野さかのみん 大佐たいさ昭和しょうわ12ねん(1937ねん)12月1にち - 1938ねん8がつ10日とおか[105]
  10. 蓑輪みのわちゅう 大佐たいさ昭和しょうわ13ねん(1938ねん)8がつ10日とおか - 1938ねん11月15にち[106]
  11. 高塚たかつか省吾しょうご 大佐たいさ昭和しょうわ13ねん(1938ねん)11月15にち - 1939ねん11月15にち
  12. 河野こうのせんまんしろ 大佐たいさ昭和しょうわ14ねん(1939ねん)11月15にち - 1940ねん10がつ15にち
  13. 小柳こやなぎとみ 大佐たいさ昭和しょうわ15ねん(1940ねん)10がつ15にち - 1941ねん8がつ11にち
  14. 伊集院いじゅういん松治まつじ 大佐たいさ昭和しょうわ16ねん(1941ねん)8がつ11にち - 1942ねん12月1にち
  15. 中岡なかおか信喜しき 大佐たいさ昭和しょうわ17ねん(1942ねん)12月1にち - 1943ねん11月5にち戦死せんし
  16. 荒木あらきつたえ 大佐たいさ昭和しょうわ18ねん(1943ねん)11月15にち - 1944ねん11月6にち

同型どうけいかん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 機関きかん出力しゅつりょく速力そくりょく航続こうぞく距離きょり計画けいかく
  2. ^ 昭和しょうわ6ねん4がつ10にちづけ 海軍かいぐんないれい だい67ごう改正かいせい海軍かいぐん定員ていいんれいだい40ひょう 一等いっとう巡洋艦じゅんようかん定員ていいんひょう 其1」。この数字すうじ特修とくしゅうへいふくまない。
  3. ^ #ポケット海軍かいぐん年鑑ねんかん(1937)25ぺーじ一等いっとう巡洋艦じゅんようかん"愛宕あたごあたご" ぜん要目ようもく排水はいすいりょう9,850とん 速力そくりょく33.0せつ 備砲びほう20せんちめーとるほう10もん 12せんちめーとる高角こうかくほう4もん 魚雷ぎょらい發射はっしゃかん8もん 起工きこう昭和しょうわ2ねん4がつ 竣工しゅんこう昭和しょうわ7ねん3がつ 建造けんぞうしょ くれ海軍かいぐん工廠こうしょう要目ようもく高雄たかお同一どういつそとがたから那智なちきゅうくらべていちじるしい進歩しんぽしめしてゐるのはそのぜん檣である。巡洋艦じゅんようかんのマストがこゝにるやうな複雑ふくざつじょうしき進歩しんぽげたのはとりもなほさず造艦ぞうかん技術ぎじゅつ躍進やくしんてき發達はったつもとより、海戰かいせんじゅつそのものゝ進歩しんぽ複雑ふくざつとを如實にょじつ物語ものがたるものである。(以下いかりゃく)』
  4. ^ #艦艇かんてい類別るいべつ等級とうきゅうひょう(昭和しょうわ16ねん12月31にち)p.1『艦艇かんてい類別るいべつ等級とうきゅうひょう|軍艦ぐんかん|巡洋艦じゅんようかん|一等いっとう|高雄たかおがた|高雄たかお愛宕あたご鳥海とりうみ摩耶まや
  5. ^ #幕末ばくまつ以降いこう帝国ていこく軍艦ぐんかん写真しゃしん史実しじつ35ぺーじ愛宕あたご(あたご)初代しょだいかんしゅ砲艦ほうかん 檣「トップスル・スクーナー」姉妹しまいかん鳥海とりうみ赤城あかぎ摩耶まや(みな初代しょだい)あり。かんめいこう山名やまなる、愛宕山あたごやま別稱べっしょう愛宕あたごまもるさん朝日あさひほう白雲山はくうんざん嵯峨さがさんうんふ、山城やましろこく葛野かずらのぐん北方ほっぽうり、どうぐん嵯峨さがより1さと14まちにして其山いただきたっす、標高ひょうこう3,034しゃくかんれき横須賀造船所よこすかぞうせんじょけるはじめてのはがねそう軍艦ぐんかんなり(以下いかりゃく)』
  6. ^ #幕末ばくまつ以降いこう帝国ていこく軍艦ぐんかん写真しゃしん史実しじつ124ぺーじ愛宕あたご(あたご)だいかんしゅ一等いっとう巡洋艦じゅんようかん かんめいこう初代しょだい愛宕あたご」のこう参照さんしょう(P.43)』
  7. ^ Ref.C08050173800「軍艦ぐんかん天城あまぎ愛宕あたご高雄たかお製造せいぞういちけん(製造せいぞう取止とりとめ)(1)」
  8. ^ #大正たいしょう9ねんたち3がつp.19『いたるだいさんじゅうごう 軍備ぐんび補充ほじゅうヲ以テ建造けんぞう着手ちゃくしゅスヘキじゅんよう戦艦せんかんせきとう巡洋艦じゅんようかんいちせきひだりつう命名めいめいセラル 大正たいしょうきゅうねんさんがつじゅうろくにち 海軍かいぐん大臣だいじん加藤かとう友三郎ともさぶろうじゅんよう戦艦せんかんせき 高雄たかお(タカヲ)、愛宕あたご(アタゴ)|とう巡洋艦じゅんようかんいちせき 由良ゆら(ユラ)』、p.21『いたるだいさんじゅうごう 艦艇かんてい類別るいべつ等級とうきゅう別表べっぴょうじゅんよう戦艦せんかんらん赤城あかぎ」ノニ「、高雄たかお愛宕あたご」ヲ、巡洋艦じゅんようかんとうらん名取なとり」ノニ「由良ゆら」ヲフ』
  9. ^ #聯合れんごう艦隊かんたい軍艦ぐんかん銘銘めいめいでん76ぺーじ
  10. ^ a b #昭和しょうわ12ねん12月1にち現在げんざい艦船かんせん要目ようもく公表こうひょう範囲はんいp.4『愛宕あたご|一等いっとう巡洋艦じゅんようかん|(かんしょもとりゃく)|工廠こうしょう|2-4-28|5-6-16|7-3-30|(装備そうびりゃく)』
  11. ^ #昭和しょうわじゅう一年海軍特別大演習観艦式神戸市記念誌p.34『ささやわすよろこびの会話かいわ瞬間しゅんかんにゆらめく和泉いずみなだ金波きんぱをかきけて、神戸こうべこう防波堤ぼうはていちかづく比叡ひえい英姿えいしあおぎみる檣頭しょうとうたか錦旗きんきは、いまぞはためく、つづくは供奉ぐぶかんの「時雨しぐれ」「白露しらつゆ」そのとき突如とつじょ海面かいめんをどよもすじゅう一発いっぱつすめらぎ禮砲れいほう鳥海とりうみ愛宕あたご足柄あしがらかくかんからはっせられ…』
  12. ^ #昭和しょうわじゅう一年海軍特別大演習観艦式神戸市記念誌p.36『かくてはち御召おめしかん愛宕あたご抜錨ばつびょう供奉ぐぶ駆逐くちくかん白露しらつゆ時雨しぐれしたがえへ、だいいち航路こうろ関門かんもんこう、このとき連合れんごう艦隊かんたい旗艦きかん長門ながとはなすめらぎ禮砲れいほうだい一発いっぱつつづいて、かく戦隊せんたいごとじゅう一発いっぱつすめらぎ禮砲れいほうはっし…』
  13. ^ #昭和しょうわじゅう一年海軍特別大演習観艦式神戸市記念誌pp.39-45
  14. ^ #昭和しょうわ11ねん特別とくべつだい演習えんしゅう観艦式かんかんしきたまもの饌艦設備せつびかんするけん 訓令くんれいちゅう改正かいせいけん(1)p.8,13『午後ごご240ふん御召おめしかん横須賀よこすかこう出港しゅっこうス。駆逐くちくかん時雨しぐれ白露しらつゆたまもの饌後御召おめしかん附近ふきん待機たいき御召おめしかん出港しゅっこうさい供奉ぐぶス』
  15. ^ #聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ18ぺーじ
  16. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん33ぺーじ
  17. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん36ぺーじ
  18. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん38ぺーじ#聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ26ぺーじ
  19. ^ #戦史せんし叢書そうしょ26海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん付表ふひょうだいいち南方なんぽう作戦さくせん関係かんけい主要しゅよう職員しょくいんひょう 昭和しょうわじゅうろくねん十二月じゅうにがつはちにち
  20. ^ #聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ29ぺーじ
  21. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん46-47ぺーじ
  22. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん50ぺーじ
  23. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん53ぺーじ
  24. ^ #戦史せんし叢書そうしょ26海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん511ぺーじ南方なんぽう部隊ぶたい本隊ほんたい、ジャワ南方なんぽう敵艦てきかんせん撃滅げきめつ
  25. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん55ぺーじ
  26. ^ 昭和しょうわ17ねん3がつ〜 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(1)」p.13、#愛宕あたご奮戦ふんせん61ぺーじ
  27. ^ 昭和しょうわ17ねん3がつ〜 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(1)」pp.12、#聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ43ぺーじ
  28. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん60ぺーじ
  29. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん62ぺーじ
  30. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい026かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、513、515ページ、Hermon Gill, Royal Australian Navy, 1939–1942, pp.617,629-630
  31. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょだい026かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、515ページ、Japanese Cruisers of the Pacific War, p.299
  32. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん66ぺーじ
  33. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん71ぺーじ
  34. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん75ぺーじ
  35. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん78ぺーじ#聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ45ぺーじ
  36. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん83ぺーじ#聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ46ぺーじ
  37. ^ 昭和しょうわ17ねん3がつ〜 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」p.1、#聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつ46ぺーじ
  38. ^ #ミッドウエー海戦かいせん日誌にっし(1)pp.4-5『別表べっぴょうだい MI作戦さくせん部隊ぶたい兵力へいりょく部署ぶしょ
  39. ^ 昭和しょうわ17ねん3がつ〜 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」pp.3
  40. ^ 昭和しょうわ17ねん3がつ〜 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」pp.5
  41. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん92ぺーじ
  42. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん96ぺーじ
  43. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん114ぺーじ
  44. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん118ぺーじ
  45. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん119ぺーじ
  46. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん123ぺーじ
  47. ^ 昭和しょうわ17ねん3がつ〜 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」pp.8
  48. ^ 昭和しょうわ17ねん3がつ〜 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」pp.9
  49. ^ #海軍かいぐん操舵そうだいんよもやまばなし40ぺーじ
  50. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん150ぺーじ
  51. ^ #海軍かいぐん操舵そうだいんよもやまばなし41ぺーじ
  52. ^ #海軍かいぐん操舵そうだいんよもやまばなし42ぺーじ
  53. ^ #海軍かいぐん操舵そうだいんよもやまばなし59ぺーじ大和魂やまとだましいとヤンキーたましい
  54. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん186ぺーじ
  55. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん201,207ぺーじ
  56. ^ 昭和しょうわ17ねん3がつ〜 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」p.17
  57. ^ 昭和しょうわ17ねん3がつ〜 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」pp.18、#愛宕あたご奮戦ふんせん213ぺーじ
  58. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん217ぺーじ
  59. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん227ぺーじ
  60. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん229ぺーじ
  61. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん232ぺーじ
  62. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん233-234ぺーじ
  63. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん236ぺーじ
  64. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん250ぺーじ
  65. ^ 昭和しょうわ17ねん3がつ〜 軍艦ぐんかん愛宕あたご戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」pp.22
  66. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん249ぺーじ
  67. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん255ぺーじ
  68. ^ 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう』357ページ
  69. ^ #S1806二水にすいせん日誌にっし(2)p.51『いちななにちろく〇〇(長官ちょうかん)2F(あてりゃく)2F機密きみつだいいちろくさんいちばんでん 「トラツク」回航かいこうせきスル機密きみつAdB命令めいれい要旨ようし いち.だい軍隊ぐんたい區分くぶん(主力しゅりょく部隊ぶたい合同ごうどう)區分くぶん指揮しきかん兵力へいりょくじゅん しゅたいじきりつ4S(摩耶まやかけ)大鷹おおたか警戒けいかいたい(司令しれいかん)2sd 2sd(能代のしろ)24dg(涼風すずかぜ海風かいふう)あきくも(以下いかりゃく)』
  70. ^ #S1806二水にすいせん日誌にっし(2)p.4『(さん)2sd(能代のしろ)ハじゅうろくにち主力しゅりょく部隊ぶたい(長官ちょうかん1Fちょくりつ)ノ指揮しきにゅう主力しゅりょく部隊ぶたい警戒けいかいたい(司令しれいかん2sd、2sd(能代のしろ)はつかぜ天津てんしんふう)トナリじゅうろくにち出撃しゅつげきはちとう假泊かはく(海風かいふう合同ごうどう鎮五とく便乗びんじょうしゃ一部いちぶうつ)じゅうななにち假泊かはくはつじゅうはちにちいちいち〇〇(長官ちょうかん)2Fちょくりつ部隊ぶたい(24dg(涼風すずかぜ)ヲ含ム)ト合同ごうどう(指揮しきかん)YBノ麾下きか(YB警戒けいかいたい)トナリじゅうさんにち「トラツク」
  71. ^ #S1806二水にすいせん日誌にっし(2)p.60『さんにちいちいち(長官ちょうかん)1F(あてりゃく)1F機密きみつだいさんいちいちきゅうばんでん 大和やまと長門ながと扶桑ふそう愛宕あたご高雄たかお能代のしろ24dg(涼風すずかぜ海風かいふう)11dg(あきくもゆうくも)天津てんしんふう若月わかつきはつふうりつヒ「トラツク」ちゃくさんにちななよん
  72. ^ #叢書そうしょ96ガとう撤収てっしゅう382ぺーじ連合れんごうぐんのタロキナ上陸じょうりくとわが航空こうくう攻撃こうげき
  73. ^ #叢書そうしょ96ガとう撤収てっしゅう396-397ぺーじ栗田くりた部隊ぶたいのラバウル進出しんしゅつ決定けってい
  74. ^ a b c #叢書そうしょ96ガとう撤収てっしゅう397-398ぺーじ『ラバウル進出しんしゅつぎゃく上陸じょうりく計画けいかくとのからじょうい』
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参考さんこう文献ぶんけん

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     著者ちょしゃは1943ねん11月から沈没ちんぼつまで愛宕あたご航海こうかいとして勤務きんむしていた。大和やまと移乗いじょう防空ぼうくう指揮しきしょ見張みはりいんとなった。
  • 小板橋こいたばしたかしさく下士官かしかんたちの戦艦せんかん大和やまと戦艦せんかん大和やまと下士官かしかんたちのレイテ海戦かいせん光人みつひとしゃ、1985ねんISBN 4-7698-0267-6 
     内容ないようぜん半分はんぶんは、愛宕あたご沈没ちんぼつ状況じょうきょう生存せいぞんしゃ証言しょうげん
  • 小板橋こいたばしたかしさく愛宕あたご奮戦ふんせん 旗艦きかん乗組のりくみいんたソロモン海戦かいせん光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ、2008ねんISBN 978-4-7698-2560-9 
    高橋たかはし武士たけし艦長かんちょう伝令でんれい艦橋かんきょう勤務きんむ)の戦時せんじ日記にっきもと小板橋こいたばし編集へんしゅう
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  • 佐藤さとう静夫しずお駆逐くちくかん野分のわけ物語ものがたり わか航海こうかいちょう太平洋たいへいようかい戦記せんき光人みつひとしゃ、1997ねんISBN 4-7698-0803-8 
    • 佐藤さとう静夫しずお駆逐くちくかん野分のわけ物語ものがたり わか航海こうかいちょう太平洋たいへいようかい戦記せんき光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ、2004ねん1がつISBN 4-7698-2408-4 
  • カール・ソルバーグ ちょ高城たかぎはじめ やく決断けつだん異議いぎ レイテおきのアメリカ艦隊かんたい勝利しょうり真相しんそう光人みつひとしゃ、1999ねん邦訳ほうやく初出しょしゅつ
  • 外山とやまみさお艦長かんちょうたちの軍艦ぐんかん光人みつひとしゃ、2005ねんISBN 4-7698-1246-9
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  • 中島なかじまちかしこう聯合れんごう艦隊かんたい作戦さくせんしつから太平洋戦争たいへいようせんそう 参謀さんぼうえが聯合れんごう艦隊かんたい興亡こうぼう光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ、2008ねん10がつISBN 4-7698-2175-1 
     中島なかじまは1940ねん9がつからだい艦隊かんたい参謀さんぼうとして愛宕あたご乗艦じょうかんしていた。ミッドウェー海戦かいせんだいさん艦隊かんたい通信つうしん参謀さんぼう
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  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんし中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう戦史せんし叢書そうしょだい62かんあさくも新聞しんぶんしゃ、1973ねん
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  • 写真しゃしんしゅう日本にっぽんじゅうじゅんたかから筑摩つかままでぜん18せきすべ』(光人みつひとしゃ、1972)
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  • 雑誌ざっしまる編集へんしゅう写真しゃしん 日本にっぽん軍艦ぐんかん だい6かん じゅうじゅんII光人みつひとしゃ、1989ねんISBN 4-7698-0456-3
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関連かんれん項目こうもく

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